2021年10月31日日曜日

必ず会える


私たちが死ぬ確率は100%です。

120歳を超えて生きている人は、誰一人としていません。



昔は、死ぬのが怖かったです。

死ぬと意識がなくなり、自分が消滅してしまうと思ったからです。


ところで、意識とはなんでしょう?

心であり、自分そのものだと思います。

もし、意識が脳から生じているのであれば、脳の活動が停止すれば意識も消滅するはずです。

しかし、それでは説明がつかない体験をしている人たちがいます。

病気により脳の活動が停止していたにもかかわらず、その間、夢のようなものを見ていたのです。

睡眠中に脳が活動して夢を見るとされているので、科学的に説明がつきません。



ある研究によると、心停止後に回復した人の18%が臨死体験をしているそうです。

臨死体験者の多くは、遠くで強烈に輝く光を見たり、既に亡くなった人たちと会話をしたり、謎めいた別世界への旅をしたなどと語っています。



科学者はそのような臨死体験を、脳内の神経伝達物質の作用による幻覚と説明しています。

ここで1つの疑問が生じます。

何故、似たような経験をしているのか?

幻覚だとすれば、内容はばらばらで良いはずです。

その問いに答えている科学者はいません。



物質的な脳からは、非物質的な意識が生まれるはずはありません。

脳は、意識から出されている指令を肉体に伝えるため、あるいは五感を通して入ってきた情報を意識に伝えるためにあります。

どんな現象も、脳内で起きているという強引なこじつけは、もう終わりにするべきです。



素直にこう考えてはどうでしょうか?

意識とは、脳の働きとは別次元のものである。

臨死体験者の意識は、肉体から一時的に離れて、似たような体験をしている。

亡くなった人たちと実際に会っているのであり、意識とはその人たちと同じ次元の存在である。

「魂」と言われる存在から意識は生じている。



霊的な知識を得てから、死は怖くなくなりました。

死んで肉体がなくなっても、意識は変わりなく存在し、自分が失われることはないと判ったからです。

死んだ後に行く世界は、穏やかで平和な世界だからです。

生命は続いているので、生き急ぐこともなくなりました。

そんな変化が私自身に起こりました。



このブログを開設して、初めて知ったことがあります。

それは最愛の人を失った人の、悲しみの深さ、苦しみの大きさです。

想像をはるかに超えるものであり、経験しなければ判らないと感じています。



そんな人たちにとって、死後に生命が続いているか否かは、極めて重要な意味を持っています。

また会えるのか、もう会えないのかが決まるからです。

それを知り、事実をどうしても伝えたくなりました。



姿が全く見えなくなり、声も聴こえなくなり、温もりも感じることができなくなったのは、不動の現実です。

何度でも言いますが、肉体が失われても、その人の本質(生命)は全く失われていません。

意識は存続していて、記憶も個性もそのままです。

けれども、五感を通して意思を伝える手段を失っているので、地上の人にそのことを伝えることができません。



亡くなった人がいる世界は、思念の世界です。

想ったことが電光石火、対象に伝わります。

完全なテレパシーの世界と言えます。

送った思念を遮るものは何もなく、受ける人にそのまま伝わります。



一方、地上にいる人は、肉体に備わっている視覚や聴覚などの五感を通して外部を認識しています。

そこから入る情報が圧倒的に多いために、意識の焦点は地上に向いています。

目に視える世界が全てだと思ってしまうのも無理ありません。



五感を通して伝えるため、自分の想い(思念)を言葉や表情や行動に変換する必要があります。

煩わしい行程を繰り返しながら、コミュニケーションを行っているのですが、それが当たり前だと思っています。



亡くなった人だけでなく、地上の人も霊的な存在です。

霊的な存在が、肉体を介して自己表現をしています。

当然のことながら、地上の人にも思念を受信する感覚が備わっています。


その証拠に、言葉や表情や行動に込められた相手の想いを感じ取ることができます。



周りにいる人たちから発せられている思念を、無意識の内に受け取っていて、少なからず影響を受けています。



言葉を交わさずとも、想いが判り合える瞬間があります。




愛情で結ばれている者同士ならば、傍にいたくなるのは自然の成り行きです。

その想いは、死によってなくなりません。

亡くなった人は、地上の人の想いが手に取るように判るので、むしろ強くなっているかもしれません。

肉体を失った人は、全ての物的な障壁が取り除かれています。

生前よりも近くにいられるのです。



伝えられなかった想いを、どうしても伝えたくなる時があると思います。

言葉にしなくても、その想いは亡くなった人に届いています。



亡くなった人も全く同じです。

地上にいる人に想いを伝えたいのです。



生きている世界は違います。

しかし、意識の源である魂は同次元に存在しています。

五感を介さずに、想いを交わし合うことは可能です。



けれども、さまざまな障壁が立ちはだかり、困難にしています。

想いを送っても、五感で感じるものでないために、地上の人にはっきりと認識されません。

思い付きや、気のせいにされてしまうことがほとんどです。

五感から入る情報に圧倒されて、届いている思念が掻き消されています。

頭の中で考えていることも、雑音となっています。

悲しみや嘆きなどの感情も、大きな障壁となります。

想いが届くのを妨げているのは、地上の人です。

疑い深い性格にも、手を焼いているでしょう。

地上の人が、予期した反応をしてくれないことを残念に思っています。

それでも、どうしても伝えたければ、諦めずに想いを送り続けているでしょう。



受信感度を高める方法があります。

それは、亡くなった人から想いが自分に届けられていると、素直に信じることです。

信じることは、何よりも大切です。

つながる原点です。

信じなければ、自分で回路を閉ざしています。

信じることにより、魂と魂はつながることができます。



全ての生命が愛し合うために、自然法則は働いています。

生きている次元は違っても、信じることで、愛し合うことはできます。

五感で感じられなくなっても、強く信じることにより、霊的な感覚によって存在を感じることは可能です。



視えない人を信じるのは、容易くありません。

それだけに、霊的な意味があり、価値があります。

地上の別れ以上に、信じること、愛することの意味を深く学ぶ機会はないかもしれません。

向こうの世界で、強く結ばれるためにあります。




「また会えますか?」と聞かれたら、決まってこう答えます。

「その時まで想っていたのならば必ず会えます」と。

これは希望的観測でも、気休めでも、慰めでもありません。



私たちは100%死にます。

死ぬと同時に、障壁が完全に取り払われます。



愛は魂を引き付ける力です。

目の前に姿が現れ、抱きしめ合える瞬間が必ず訪れます。






2021年10月24日日曜日

人生は楽しむためにある?


「終活」と言う言葉がだいぶ定着して来ました。

以前は、死を考えること自体がタブーでしたが、意識が変わって来ているのでしょう。

それでも、死について正確に理解している人は、まだ少ないようです。



霊的真理と出会い、死は怖くなくなりました。

次の世界へ移行する自然現象であることが、はっきりと判ったからです。

それでも、死ぬ時に苦しみや痛みを感じたくはありません。

摂理(自然法則)に適った生活をしていれば、苦しまないで死ねるようです。

熟した実が木から落ちるように、ごく自然に、穏やかに次の世界に移行したいものです。



さまざまな霊界通信によって、死後の世界の様子を窺い知ることができます。

総じて、今いる世界よりもはるかに快適なようです。

肉体はないため、病気にならず、老いもありません。

食べて行くために働く必要もありません。



そんな次の世界の様子が、はっきりと判ったらどうでしょう?

この世から逃げ出してしまう人が続出するかもしれません。

過ちを犯さないために、ベールに包まれていると思います。



この世に生まれて来た目的は、成長するためです。

自分に足りない資質を手に入れるためであり、過去の過ちの償いをするためです。

志願して生まれて来たのにもかかわらず、生きているのがつらいからと、自分で終わりにすることは許されません。

何とか踏み留まろうとするのは、自分で終わりにすることが過ちであること、生まれて来た目的を、奥底にいる自分は知っているからです。

そして、守護霊が必死に止めさせようと、働きかけているからです。




人生は楽しむもの、楽しくなくてはならない、そう思っている人は多いです。

私もそうでした。

人生には、楽しいことはたくさんあります。

躊躇することなく、思いっ切り楽しめば良いと思います。



しかし、楽しいことばかりではありません。

苦難と言われるようなことも起きます。



自然法則の働きにより、苦難を乗り越えて行くことで、人は成長するようになっています。

もし、楽しいことばかりの人生だったらどうでしょう?

周囲からは幸せそうに見え、羨ましがられます。

しかし、霊的には得るものが少ない、成長の乏しい人生になってしまうと思います。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。(以下「」内の文章はシルバーバーチの霊訓から引用)

いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みも無く、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。

もがき苦しみながらも、降りかかる困難を克服して行くことで、向上進化するようになっています。



向上進化は、行き当たりばったりではなく、計画的に行われています。

地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。

その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。

生まれる前に立てられた計画に沿って、人生が展開して行きます。

計画が思い出せないのは、私たちがまだ未熟なためと考えられます。



次の世界では、想ったことが直ちに具現化します。

一方、今いる世界では、物質(肉体)を介して具現化しなければなりません。

具現化するためには、精神的、肉体的な労力を必要とします。

しかも、思い通りに具現化するとは限らず、失敗もします。

具現化する意志と労力を培うことが、魂の成長を促していると考えられます。



次の世界では、自分と極めて似ている人しか周りにいません。

今いる世界は、自分と似ていない人たちに囲まれながら生きています。

肉体的、精神的、霊的にさまざまな人がいるので、交わると種々の問題が生じます。

生じた問題は、神の叡智(摂理)を学ぶことにより解決されて行きます。

言い方を変えると、神の叡智を学ぶために、さまざまな人がいる地上に生まれて来たと言えます。



次の世界に行くと、地上のような困難や障害を経験しなくても良くなります。

そんな世界に、ずっといたくなるような気がします。

何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。

苦痛のない快適な世界を離れて、地上に生まれて来るのは、さまざまな経験をすることができ、そこから叡智を学び、自分を大きく成長させることができるからです。



それでも、何で自分がこんなつらい経験をするのかと思う時もあります。

時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。

まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に比べれば遥かに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。

出来事は、因果律の働きによって起きています。

因果律を創造した神の目的は、生命(魂)を向上進化させるためです。

苦難の経験は霊的成長として報われることを、霊界にいる人たちは、地上の人に分かってもらいたいのだと思います。



苦しみを感じるのは、地上で成長する余地が残されているからだと思います。

感じなくなれば、霊界で向上進化して行くようになると思います。



楽しもうとする欲求は、何でも好きなことができる、次の世界で十分に満たされています。

満たされると、楽しむことにそれほど喜びを感じなくなり、もっと大切なことに気付くことになると思います。

もっと大切なこととは、自分が成長することです。

成長して、周囲のためにより自分が役に立てるようになることです。



楽しいことをすれば、喜びになります。

役に立った時の悦びは霊的なものであるため、より深く、永続的なものとなります。

真の悦びを味わうために、私たちは地上に生まれ、さまざまな経験をしています。



以上のことから、楽しむことを目的に、地上に生まれて来た人はいないと考えられます。

この世の人生は楽しむためではなく、成長するためにあります。




2021年10月17日日曜日

因果律の働きを知って


霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、15年以上経ちます。

初めは、読んでも意味が判らないことばかりでした。

いくばくかの人生経験を積んだからでしょうか、判らなかったことが、少しずつ判るようになって来ました。



次の一節も意味が判りませんでした。

「さて、苦しみとはなんでしょうか。

苦しみとは、自分または他人が受けた打撃や邪悪なことが原因で、精神や魂が苦痛を覚えた状態を言います。

が、もしその人が宇宙の法則に通じ、その法則には絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら、一人一人が置かれる環境は、その時点で関わる人たちの進化の結果であると、納得しているからです。

進化した魂は、同情、思いやり、慈悲、哀れみは覚えますが、苦痛は覚えません。」



初めて読んだ時、私は仕事で当局から厳しい追及を受けていました。

今までに経験したことのない苦境に立たされていて、そんな心境にはとてもなれないと感じました。

早く、この苦しい状況から抜け出したい一心でした。



気持ちとは裏腹に、事態は悪化の一途をたどりました。

そして、予想もしていなかった最も重い処分が下され、目の前が真っ暗になりました。



以前の私でしたら、何で自分だけがこんな目に遭うのかと、憤りを感じたでしょう。

霊的真理を読み進めていたので、自分に起きたことは偶然でも不運でもなく、因果律の働きによるものであることが判りかけていました。

原因を作っていたのは自分自身でした。

結果は変えられませんが、不運を嘆いたり、憤りに苛まれることはありませんでした。



この世界では、自分に原因がなくても、苦痛を感じることが起きます。

社会問題となっている、いじめやハラスメントも、その中に入るでしょう。

抗えない状況にあれば、怒り、悲しみ、無力感を覚えることもあります。



誰にも気付かれず、証拠がないとしても、苦痛を与えた人の魂にはその行為が刻み込まれています。

与えた苦痛の分だけ、因果律の働きにより、自分が苦痛を味わうことになります。

自然法則によって厳格に裁かれ、相応の償いを受けなければならないことを知っていれば、無用な怒りに苦しまなくて済みます



イエス・キリストは磔にされました。

殺される時に「彼らは何も知らないのでお赦し下さい」と、神に祈ったそうです。

「進化した魂は同情、思いやり、慈悲、哀れみは覚えますが、苦痛は覚えません」と書かれていた通りに因果律の働きを知らない為政者を、哀れんでいたと考えられます。

肉体的な苦痛は極限に近いものだったでしょうが、精神的、霊的な苦痛からは免れていたと思います。



しかしながら、ほとんどの人は、嫌なことを言われたり、されたりすれば、苦痛を感じてしまいます。

「もしその人が宇宙の法則に通じ、その法則には絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら、一人一人が置かれる環境は、その時点で関わる人たちの進化の結果であると、納得しているからです。」

地上では、さまざまな進化の過程の人と関わりながら生きなければならず、自由意志があるために、往々にして摂理に反した行いを受けてしまうことを納得している必要があると、シルバーバーチは言いたかったのではないかと思っています。



一方、因果律の働きによって起きていることもあります。

気付かないだけで、自分に原因がある時があります。



分かりやすい例ですが、ある日、友人が不機嫌になっていた時がありました。

その態度に、私も不愉快な思いをしていました。

後で、対応が面倒と考えて、軽い気持ちでSNSで友達申請の許可を先送りしていたのが原因と判りました。

気付かずに、自分が原因を作っていることがままあります。



分かりにくい時もあります。

自分のことを嫌っていて、それが態度に出ている人がいるとします。

もしかしたら、その人のことを自分も嫌っているのかもしれません。

人間は霊的な存在です。

視えない人の想いを感識する能力があります。

言動に出さなかったとしても、自分から放たれていた嫌悪の想いが、その人に伝わって、因果律の働きによって、その人から同じ想いが自分に返されていることもあると考えています。



最も分かりにくいのが、原因が過去生にある時です。

例えば、心に深い傷を負わせてしまった人がいるとします。

社会的な罪を問われずに死んだとしても、霊的な罪は残ったままです。

その罪を償わない限り、成長は許されません。

成長が許されないのは、自由が許されない以上に、耐え難いものだと想像をしています。



再び成長するために、もう1度地上に生まれることを志願します。

償いのための人生が計画されます。

しかるべき時期に、因果律の働きによって、苦痛を伴う出来事が起きます。

原因がどこにも見当たらないので、降って湧いたような出来事にしか思えません。

そこで味わう苦痛は、過去生で与えた苦痛と同等のものとなります。






同じような結果に見えても、原因はさまざまです。

少し前ですが、身体障がい者施設にボランティアに行っていました。

施設の中には、身体が全く動かせず、ベッドの上で一生を送る人がいました。

失礼だったかもしれませんが、こんなことを想像してしまいました。

自分は何でもできると尊大な生き方のまま、死んでしまったらどうでしょう?

動くことができなければ、人の助けなしには生きて行けません。

否が応でも、1人では生きて行けないこと、人のありがたさを学ぶことになります。

もしかしたら、人の自由を奪ってしまい、因果律の働きで、自分の自由が奪われたのかもしれません。

償いのためとは限りません。

進化した魂がさならる進化をするために、動かない肉体に宿ると言う、最も過酷な試練に挑戦しているのかもしれません。

真相は窺い知れませんが、原因があることだけは確かです。



人生で最悪とも言える、私に起きた出来事の原因は、私自身にありました。

最初は小さな過ちでした。

過ちを犯す前に、必ず良心と言う内在する神の声が聴こえます。

言葉にすると「そんなことをして良いのか?」でしょう。

良心は止めるように訴えているにも拘わらず、自我はこんな言い訳をします。

「大丈夫、みんなしていることだから」「ばれやしない」等々・・

かくして、良心と自我の間で葛藤が生まれます。

良心の声が、自我の言い訳に打ち消されてしまうと、過ちを犯すことになります。

同じ過ちを犯す時に、再び良心の声がします。

その声を無視して過ちを犯します。

繰り返す内に、良心の声は次第に小さくなり、やがて聴こえなくなります。



1つ1つの過ちは小さく思えても、積み重なると大きくなります。

大きくなった過ちに、因果律が働く時が来ます。

そんな過去のことなどすっかり忘れていれば、降って湧いた災難にしか思えません。



因果律は、過ちに気付いて、正しい方向に導くために働いていました。

味わった苦痛は、過ちに対する正当な償いでした。



結果が生じる直前に、何の前触れもなくヒーリングの力が出現していました。

その力の正体ついて、どうしても知りたくなりました。

ほどなく、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会いました。



苦痛は償いであると同時に、魂を目覚めさせると言う、深甚な意味があります。

目覚めた魂が、真理を受け入れて行きます。

因果律の働きを、身を持って学びました。

ヒーリングの真の目的を知ることができました。

暗闇の中で「乗り越えられない苦難なない」という真理が光り輝いて、それにしがみついていました。

この苦痛の経験が、大切な真実を手に入れるために、どうしても必要でした。



今、こう思っています。

人生には計画がある。

出来事に無駄なものはなく、それぞれが意味を持っていて、連綿とつながって起きている。

学びや成長のために、最善のタイミングで起きている。

神の叡智は完全であり、神の計画は完璧であり、全てを織り込み済みである。



出来事は因果律の働きにより起こります。

原因を知ることができなければ、偶然にしか思えません。

苦痛を伴うのであれば、不幸な出来事としか思えません。



苦痛は進化を促す触媒です。

因果律の働きによって生じた苦痛は、自身が変わることを促しています。

命あるものは、因果律の働きによって、完全(神)に向かって導かれています。






2021年10月10日日曜日

不平不満は成長を妨げる


最近、聞き慣れない言葉を耳にしました。

それは「親ガチャ」です。

透明のカプセルの中に、フィギュアなどの玩具が入っている自動販売機のことを「ガチャガチャ」と言います。

入っている玩具は、当りもはずれもあり、どれが出て来るのか判りません。

それになぞらえて、子供は親を選べない、どんな境遇に生まれるのかは運まかせという意味だそうです。

その言葉の中に、世の中に対する不平不満が含まれていると思います。

正式名称は「カプセルトイ」


生命(魂)は生まれる前にも、死んだ後にも存在しています。

どの人の子供になるのかは、生まれる前に自分で決めています。

そんなはずはない、あんなひどい親の元に生まれることを、自分で決めていたはずなどないと、言う人も中にはいるでしょう。

もし選べるとしたら、優しく、裕福な親にするだろうと言う人は多いと思います。



この世に生まれて来る目的は、自分を成長させるためです。

逆境を乗り越えて行くことで、魂は成長します。

逆境とも言える家庭環境を克服して行くことを、1つの目的として生まれて来る人もいるでしょう。

また、過去生において何らかの過ちを犯し、償いのために苦痛を伴う環境に生まれて来る人もいるでしょう。



およその人生も、生まれる前に自分で決めています。

人生のどこかで、自分に足りない部分を補ったり、弱い部分を強くするための出来事が起きるように計画されています。

つらく苦しいのですが、それを乗り越えて行くことで、望んでいる自分に変わって行きます。

人生に偶然はありません。

全ては計画的に、目的を持って起きています。



私たちは、生まれてから今までの間、数限りない決断をして来ました。

小さな決断もあり、大きな決断もあります。

決断を実行することにより、何らかの結果が生み出されます。

生み出された結果に対して、また何かを決断し実行し、更に結果が生み出されます。



何かを決める前に、人から意見を聞いたり、忠告を受けたりすることもあるでしょう。

背後霊からの導きもあります。

しかし、最後に決めるのは自分です。

そこには誰も干渉できません。

自分で決めたことは、自分が責任を持つのが道理です。

好きに決められますが、常に責任が伴っているのです。



生まれる環境は、自分で決めています。

そして、生まれてからも、いろいろなことを自分で決めながら生きています。

今の自分は、その結果です。



全てが因果律の働きによるものです。

そこに不公平や不平等は存在しません。

今まで生きて来た通りの自分でしかいられません。

それ以上にも、それ以下にもなり得ません。




ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平選手

環境に恵まれ、才能に恵まれ、成功して地位や名誉を得ている人もいます。

そんな人生を、羨ましがる人がいるかもしれません。

豊かな才能を持っているほど、さらに高めて行くためには、並外れた努力を強いられます。

高い志を持ち続けられず、誘惑に負けてしまい、堕落してしまう人もいるでしょう。

地上では、外面しか見ることができません。

内面にある、苦しみや痛みや葛藤は窺い知れません。

もし、その人の人生をつぶさに見ることが出来たのならば、今の人生で良かったと胸を撫で下ろすかもしれません。



地上に生まれて来たからには、その人に果たすべき目的が存在しています。

もし何も目的がなければ、生まれて来る必要などありません。

目的がそれぞれ違えば、自ずと人生も違ってきます。

生まれる環境も、目的に応じたものになります。

従って、他人と自分の境遇を比べて不公平だと言うのは間違っています。

学び、成長するための機会が、公平に与えられています。



時々、こう思う時があります。

今までどれくらい、避けたり、諦めたりする方を選んでしまったのか?

愚痴を言って、自分を変えようとしなかったのか?

運命のせいにして、努力を怠ってしまったのか?

許ぜずに、怒りをぶつけてしまっていたのか?

人よりも自分を優先する方を選んでしまったのか?と

今までに、学び、成長する機会を逸するような、決断をどれ位してきたのか想像もできません。



死んで、向こうの世界に行くと、地上の人生を振り返る時が必ず来ます。

自分の行いの全てを見せられます。

自らが決めて取った行いが、どんな結果をもたらしていたのかが判ります。

すっかり忘れていた自分の行いが、思いもよらぬ結果となって表れていることも判ります。

過去生での行いの結果が、時を経て、この人生で表れていたことも判ります。

原因が全く判らなければ、理不尽な出来事にしか思えません。

運命や神を呪っている自分を見るかもしれません。



遠い過去から、原因と結果の連鎖を繰り返しながら、現在の自分に至っています。

運や偶然の入り込む余地は全くありません。

向こうの世界に行くと、そのことを知るので、不平不満を抱く人はいなくなります。



不平不満を言っている自分の姿を見たのならば、何も知らなかったとは言え、恥ずかしくなるでしょう。

原因が自分にあるのに、環境や運命のせいにしている姿は、ひどくみっともなく映るでしょう。

そして、不平不満を言うほど、周りのせいにするほど、自分が変わる機会を失っていることに気付くことになります。



変われなかった原因が、自分にあったのを知ったのならば、もう1度地上に生まれることを切望すると思います。

今度は、どんなことがあったとしても、不平不満を言ったり、周りのせいにしないと固く誓うでしょう。

逆境に生まれ、人生のどこかで相応しい出来事が起こり、試される中で、目的を果たして行くことになると思います。



過酷な環境に生まれ、苦難の多い人生なのに、不平不満を一言も言わず生きている人がいます。

そんな人は、過去の人生のどこかで、そのような経験をしていたのかもしれません。

成長を妨げてしまうことを、魂はすでに学んでいると思います。


尾瀬の歩荷(強力)







2021年10月3日日曜日

人生の計画と自由意志


今から16年前になりますが、ある日突然、ヒーリングの力が出現しました。

数週間後にシルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会い、直後に仕事で不正が発覚しました。

精神的に追い込まれて行く中で、いつしか霊的真理が支えになっていました。

そして、ヒーリングの力が出現した意味も判りました。

それぞれの出来事は偶然ではなく、密接に関連していて、計画的に起きていると思いました。



私たちは、およその人生の計画を決めて生まれて来ます。

生まれる国、どの親の元に生まれるのかも決まっています。

性別も身体的特徴も決まっています。

才能も決まっています。

寿命も決まっています。

しかし、全部が全部決まっているわけではありません。



人には自由意思が与えられています。

どちらに進むのか、やるのかやらないのかを決めているのは自分です。

シルバーバーチの霊訓には、このように書かれています。

「神は人間に一定限度内の自由意志を与えています。操り人形ではないのです。知性を持っています。理性を持っています。自分で判断し、決断し、反省し、自分の意見を形成し、体験から知恵を学ぶ能力を持っています。」



人生の目的は、自分を成長させるためです。

足りない部分を補い、弱い部分を強くするためです。

目的を果たすために、最適な人生が計画され、そして提示され、私たちは了承して生まれて来ています。



計画に沿って生きることで、生まれて来た意味(目的)を成就して行きます。

けれども、自由意志が与えられているために、計画された人生とは違う方向に進んでしまうこともあります。

計画された人生を全うするために、守護霊は付いています。

違う方向に進んで行かないように守護霊は働きかけているのですが、功を奏さずに、地上の人が誘惑や衝動に負けてしまう時もあります。

自然法則に反する方向に進んで行くと、苦痛を伴う何かしらの出来事が、因果律の働きによって起こります。

我に返り、元に戻る人もいるでしょう。



違う方向に進んで行くと、気が進まない、しっくり行かないなど、違和感を感じるかもしれません。

奥底にある自分の想い(願望)とは違うからです。

それでも続けていると、精神と魂の間で不調和が生じて、病気になる人もいるでしょう。

病気の苦痛により魂が目覚め、自分の想いに気付いて、進むべき方向を見い出す人もいるでしょう。

私がそうだったように、深刻な出来事が起こり、徹底的に追い詰められて、魂が目覚めて、計画していた方向に進んで行く人もいるでしょう。



違う方向に進み続けて、人生を終えてしまう人もいます。

死後に、この世の人生を総括する時が来ますが、事実を知って愕然とします。

もう1度、やり直しの機会が与えられることを強く望むでしょう。

願いが叶えられ、地上に生まれますが、再び誘惑や衝動にさらされる人生が計画されることになると考えられます。



私たちは、計画していたルートを走っていますが、決めなければならないポイントがあります。


どちらに進もうか、やるのかやらないのか、迷ってしまいます。

苦しそう、大変そうだけど、「こちらに行かなければならない」、「やらなければならない」と、心の中で声がしたのなら、迷わず進んで行きましょう。

そちらが、計画していたルートの可能性が高いからです。



人生に計画があるのは、効率よく自分を成長させるためと考えられます。

人には、たくさんの霊的な資質があります。

例えば、優しさや勇気も資質の一つです。

優しいけれども勇気の足りない人もいれば、勇気はあるけれども優しさの足りない人もいます。

足りない部分を補うために必要な経験は、自ずと違ってきます。



神の叡智により、必要な経験が計画されて、最適な時期に起きるようになっています。

地上の人にとっては、最も望まない出来事が、最悪のタイミングで起きたとしか思えない時もあります。



人は苦しみや痛みを経験し、大きく変わって行きます。

変わりながら、霊的な資質を身に付けています。



私たちが生まれる前にいた世界はどうでしょう。

働く必要もなく、煩わしい人間関係もなく、闘争もなく、病気にもなりません。

地上的な苦しみや痛みが取り払われた、穏やかで平和な世界です。

peachyより

そこでの生活は、言ってみれば、平坦な道を歩いているようなものかもしれません。



一方、地上での生活は、山道を歩いているようなものです。

坂道が続いたり、足元が悪くなったり、木が倒れて道を塞いでいる時もあります。

先も見通せません。



山道を歩く方が、平坦な道を歩くよりも鍛えられます。

不測の事態や危機的な状況に遭遇し、対応する能力も身に付きます。

自分を鍛えるため、必要な資質(能力)を身に付けるために、地上に生まれることを決めたのは、他ならぬ自分です。

けれども、そのことをすっかり忘れてしまいます。



私たちは、地上的な自我を前面に出して生きています。

地上的な自我は、安全を志向しているので、平坦な道を進んで行くことを望んでいます。

奥底にいる自分(霊的な自我)は、より成長する山道を進んで行くことを望んでいます。

両者の間で葛藤が生まれます。



奥底にいる自分は知っています。

計画した通りに進んで行けば成長することを。

勇気を出して、山道を進んで行かなければいけないことを。

それで後悔することはないことを。



山道を進んで行くことで、少しずつ成長して行きます。

その証拠に、険しい山道を進んで行った人は、後に同じ様な道を歩んだとしても、以前の様な苦しさは感じられなくなります。



計画していた方向に進むのには、勇気が必要です。

苦しい思いをすることが判っているからです。

それでも勇気を出して進んで行くのには理由があります。



霊界では、想い(思念)は直ちに具現化します。

地上では、想いを具現化するのに、精神や肉体を動かす労力が必要です。

進んで行く勇気や労力が、魂の成長に直結しています。



肉体のない霊界では、自分ではなく周囲に関心が向かうようになります。

他者のために、何かをしたくなります。

何かをするためには、地上の労力に値する霊力が必要です。



地上での経験は、魂を成長させ、霊界において、周囲のために何かをしようとする想いを高めます。

同時に、それを実現するための資質と霊力が培われます。



人生の計画が立てられ、自由意志により成長する方向に進んで行こうとするのは、世界(周囲)をより良くしようとする意志があるからです。

それは内在している神の意志だからです。