世の中は、健康食品、健康グッズで溢れ、メディアを通して健康に関する情報が流れない日はありません。
年々、健康に対する意識は高まって来ていますが、病気になる人の数は一向に減らないどころか、むしろ増えている様に感じられます。
身体に良い食品を摂り、適度な運動をするのは、健康を維持するのに大切なことですが、それだけで病気を防げるわけではありません。
健康に関して得られる情報は、身体(肉体)を対象にしたものがほとんどです。
けれども、人間は肉体だけの存在ではありません。
目に視えない精神が存在しています。
ご承知の様に、肉体は精神の働きによって動いています。
全ての病気には原因があります。
感染症はウィルスや細菌など、目に視える物質(肉体)的次元に原因があって生じます。
胃に穴が開いてしまう胃潰瘍は、目に視えない精神的次元に原因があって生じることが多いです。
胃潰瘍にならなくても、ストレスが加わると胃が痛くなったり、頭が痛くなったり、身体に不調が生じるのは、ほとんどの人が経験しています。
精神と肉体は密接に関係しているのは確かなようです。
精神が活動するきっかけとなる思念は、精神より高い次元に存在している魂から生じています。
しかしながら、魂の存在は科学的に証明されていないため、公に認められていません。
目に視えないもの、証明されないものは、存在しないと誰が決めたのでしょうか?
悦びや悲しみは目に視えず、証明もされていません。
愛も目に視えず、証明もされていません。
けれども、その存在を認めていない人はいません。
魂とは、生命の本質です。
意識の中枢はそこにあります。
魂から生じた思念は、精神によって具象化されます。
具象化されたものが、肉体によって具現化されています。
その連鎖が繰り返されて、地上の人生は紡がれて行きます。
うれしいことがあれば笑顔になるのも、悲しいことがあれば涙が出るのも、思念が肉体によって具現化される自然現象の1つです。
地上で精神は、自我となって顕現しています。
自我には個性があり、性格や気質として認識されています。
思念はそのまま具現化されるのではありません。
自我の働きによって勘案された後、肉体に指令が出されて、言葉や行動となって具現化されています。
映画には、原作があります。
それが脚本化されて、映像となります。
原作で伝えたいことが、脚本によって具体的な言葉や動きとなり、映像によって表現されています。
もし、脚本によって手が加えられ過ぎてしまったなら、原作との間に隔たりが生まれてしまい、原作者の伝えたかったことは伝えられていません。
魂が原作者とすると、自我は脚本家です。
そして肉体は演じる俳優になります。
脚本家がいなければ俳優は演じることは出来ないように、思念は自我と言う脚本家を通さなければ、肉体で表現されることはありません。
脚本家は、映画が大衆受けをしてヒットするように、原作を変える時があります。
自我も、置かれている環境や状況に合わせて、思念を変えて表現する時があります。
自我(精神)は肉体と密接に関係しています。
そのため自己保存的であり、より安全で快適な方向を志向します。
そして、性別、年齢、職業、その他の地上的な属性から構成されている多面的な存在であり、成功、報酬、地位などを志向する傾向があります。
そんな志向性が自我にあるため、思念の通りに、肉体で表現されるとは限りません。
原作者にとって望ましいのは、自分が伝えたいことが、忠実に表現されている映画です。
たとえ興行的に成功しても、脚本により原作が大きく変えられてしまえば、良い映画とは思いません。
自分(魂)にとっても、自分の想い(思念)が忠実に表現されるのが望ましく、健全な状態です。
社会的に成功したとしても、満たされているのは自我であり、自分の想いが表現されていなければ、魂が満たされることはありません。
自分の想いが、自我の働きによって、変えられて表現されてしまうことがあります。
健康になってもらおうと、農家の人が心を込めて野菜を作っていたとします。
しかし、(自我の働きにより)利益を優先して農薬を使い過ぎたとしたら、自分の想いが変えられて表現されていることになります。
国民の幸福のために働くと言う、志を持って政治家になった人がいたとします。
しかし、志を忘れ、(自我の働きにより)名誉や地位や富に目がくらんで追い求めてしまえば、本来の自分を見失ってしまったと言えます。
このような例は、世の中にいくらでも見つけられます。
本当の自分の想いが表現された時、その人の成長につながります。
けれども、自我が優先されてしまうと、せっかくの成長の機会を逸してしまうことになります。
自分の想いが、自我の働きにより大きく変えられ表現され続けると、個の健全さが失われてしまう可能性があります。
私は動物が大好きです。
もし私が公務員になり、保健所にいる保護された動物を殺処分する仕事を、上司に命じられたとしたらどうでしょう。
本当の自分(魂)は、そんなことは絶対にしたくありません。
しかし、自我は仕事を遂行しなければならないと考えます。
両者の間で、激しい葛藤が生じるのは間違いありません。
仕事をしなければクビになり、生活ができなくなるので、ガス室のスイッチを泣く泣く押します。
自分の想いを裏切り続けて、そんな生活を続けていれば、病気になってしまうでしょう。
2011年3月、大地震が起こりました。
巨大な津波が原発を襲い、原子炉の冷却装置は停止しました。
冷却装置が停止すれば、原子炉は異常な高温となり、メルトダウン(炉心融解)が起こり、深刻な放射能汚染が発生します。
冷却装置が停止したら、海水を注入して炉心を冷却するしかありませんが、そうすれば原子炉は二度と使えなくなります。
責任者であった所長は自らの良心に従い、海水を注入することを決断しました。
ところが、本社からは注入を直ちに中止するようにと命令が来ました。
所長の自我は、会社の命令を遵守するように強く働きかけていたと考えられます。
一社員が、政府と会社の命令に背くのは大変なことです。
それでも自分の良心に従い、命令を無視して注入を続けました。
所長は、その数か月後にガンを発症し、翌々年の7月に亡くなりました。
原因は被曝ではなく、極度のストレスによるものとされています。
本当の自分(魂)と自我(精神)の間で、極限的な葛藤があったと想像されます。
魂と精神の調和は著しく乱されて、その結果として肉体が病気になったと考えられます。
これは極端な例ですが、私たちの日々の生活の中でも葛藤は生じていると考えられます。
「健やか」とは、(魂から生じている)思念が、自我により妨げられず、肉体でスムーズに表現されている状態を指すと考えられます。
従って、やりたいことをやり、言いたいことを言っている人は、病気になり難くいと考えられます。
その逆に、やりたいことがやれず、言いたいことが言えない人は、病気になり易いと思います。
自分の想いを抑圧している人ほど、魂と精神と肉体の連携が上手く行かずに、調和が乱されて、病気になる可能性が高いと考えられます。
想い(思念)は表現の起点となる、創造的なエネルギーです。
精神(自我)を経て、肉体で表現されることによって、外に向かってエネルギーは放散されます。
自我の働きにより、肉体で表現されなかった想いと言うエネルギーは、消えてなくなってしまうわけではありません。
内部に蓄積されて行きます。
蓄積されたエネルギーが閾値に達すると、因果律の働きにより、肉体に変化を生じさせる力に変換されます。
表現されなかった想いは、形を変えて肉体上に病気として、表現されることになります。
病気には苦痛が伴います。
苦痛により、それまで優位だった自我の働きは著しく弱められ、代わって魂が前面に出て来ます。
自我の働きにより隠されていた、本当の自分の想いに気付き、その想いに従って生きられるようになります。
病気は、魂を目覚めさせ、本当の自分の想いに忠実に生きるために生じると言えます。
本当の自分の想いに忠実に生きることで、予定されていた人生を送ることが出来ます。
そして、予期していた学びや成長が得られるようになります。
真の健やかさとは、心身に異常がないことではなく、ありのままの自分が表現されていることです。
健やかに生きるために
・本当の自分(魂)の存在に気付く
・そこから生じている想いに気付く
・その想いを素直に表現する
・自我の働きを鎮める(瞑想や座禅も良い)
・本当の自分(魂)と自我の間で葛藤が起きたら、迷わず本当の自分の想いに従う
無邪気な子供のように生きることかもしれません。