2019年10月27日日曜日

自然法則は神の心



多くの人は、死んでいなくなってしまった人のことを、不憫に思うことが多いです。

もっと楽しいことが経験できたのに、死んでしまっては何にもならないと、嘆く声を良く聞きます。

それは、死んだ後の世界について、良く知らないからなのかもしれません。



それならば、死んだ後の世界があることを証明して見せてくれと言う人がいるかもしれません。

残念ながら、証明は出来ません。

その理由は、死んだ後にも世界があることがはっきりと判ってしまったら、つらいことが起きた時に、何も知らずに逝ってしまう人がいるからだと思います。

現段階では、死んだ後のことは、靄に包まれている方が良いのでしょう。



ところで、人は良い音楽を聴いたり、美しい絵を観ると感動しますが、何故でしょうか?

言葉で説明することは出来ません。

悲しいと涙が出ますが、何故でしょうか?

同じく説明は出来ません。

判っているのはどちらも自然現象だと言うことです。



物を上に向かって投げれば、下に向かって落ちて来ます。

言わずと知れた、万有引力の法則の働きによるものです。

17世紀にニュートンによって発見されましたが、それ以前は当たり前に起こる自然現象としか考えていませんでした。



それでは、人が死ぬのはどうでしょう?

もちろん自然現象です。

もし、死ぬのが自然現象であるならば、リンゴが落ちるのと同じように、そこには自然法則の働きがあるはずです。

生まれるのも、成長するのも、老いるのも、病気になるのも、全て自然現象であり、自然法則の働きがあるはずです。



目の前に、1台の自動車があったとします。

そこで自動車が、ポッと偶発的に生まれたと思う人はいません。

人間が設計し、部品を作り、組み立てて自動車になって、誰かが置いたのは、疑う余地のないことです。



人間はどうでしょうか?

アメーバーから、偶然が重なって、進化して人間になったと考えるのは、あまりにも無理があります。

車と同じように、何者かが設計し、創られたと考える方がはるかに自然です。

自然法則についても全く同じす。



自然法則の根幹を成しているのは、因果律です。

原因に対して、寸分の狂いもなく結果(現象)が生じます。

そして、結果(現象)には必ず原因が存在します。



世の中には、偶然に思えてしまうことはたくさんあります。

出会い頭に車と車がぶつかったとしたら、偶然事故が起きたと考えてしまいます。

けれども、そこに不注意や油断や慢心があったのかもしれません。



健康な人が、ある日突然病気になることがあります。

病気も自然現象の一環であり、自然法則の働いた結果です。

思い当たることがなければ、運が悪かったと思ってしまいますが、必ず病因が存在しているはずです。



私たちは、原因が見つからないと、起きた現象を偶然として片付けてしまいまい、結果(現象)だけを見て物事を判断してしまいます。

しかしながら、全てが自然法則の働きにより生じたのであり、偶然はこの世界のどこにも存在しません。

偶然のように見えても、気付かないところ、視えないところに、何かしらの原因があるはずです。



自然法則は、何らかの目的があって創造されました。

その目的は、私たちの心にある「良心」の中に、垣間見ることが出来ます。

良心とは、心の中で訴えている声です。

悪いことをしようとする瞬間、「やってはいけない」と、言葉を超えた声で訴えています。

もし、良心がなかったとしたら、悪いことをしたり、人を傷つけるような行為が横行してしまうでしょう。

世の中は不穏になり、そこかしこで醜い争いが起きてしまうと考えられます。

良心があるからこそ、世の中の秩序は保たれ、平和が維持されています。



以前、駅のホームで線路に転落した人を助けようとして、電車に轢かれて死んでしまった人がいました。

自らの命を顧みずに助けようとしたのは、頭で考えて行動したのではなく、良心の声に従ったからです。

良心は、人を救おう、助けようと訴えています。

自然法則を創造した存在は、心の中に良心となって顕現し、私たちに悪いことをさせずに、人のためになることをさせようとしていると考えられます。




宇宙は、約138億年前、ビッグバンにより誕生したと言われています。

突発的に無から有が生まれたはずはなく、神(霊)的エネルギーが物質的エネルギーに変換されて、(物的)宇宙が創造されたと考えられます。

私たち人間も、動物も、植物も、地球も、夜空の星々も、神的エネルギーによって創られていると言えます。



自然法則は、宇宙誕生と同時に創造されたと考えられます

限りなく広がる宇宙空間に、重なり合うようにして目に視えない次元が存在しています。

物的次元には物理法則を始め、さまざまな法則が働いていますが、目に視えない次元にも、同様に自然法則は働いています。



人間は、肉体、精神、霊(魂)によって構成されています。

従って、人間は3つの次元の法則によって支配されています。

生命現象は、霊的次元の自然法則の働きによって、全て計られています。

生まれるのも、死ぬのも、(全部ではありませんが)病気になるのも、霊的次元の自然法則に働きによるものです。



霊的次元の自然法則の働きには、創造した存在の心が行き渡っています。

心とは「愛」です。

愛は、互いを引き付け合う力です。



宇宙誕生によって、1つであった生命(霊)が個々になりました。

個々になった生命が、自然法則の働き、愛によって、再び1つになって行きます。


元々1つだったものがばらばらになり、どうしてまた1つなって行くのでしょうか?

生命とは霊(魂)です。

霊とは創造的、変容的エネルギーであり、常に活動変化するものであり、停滞することはありません。

霊的エネルギーにより、不完全な物質が創造され、その中に完全な神が宿され、それぞれの個が弛まなく変容(成長)しながら、1つになって行く計画が立案されたと考えられます。



魂は神の一部であるため、神の心(神性)をしきりに表現しようとしています。

地上の人間は、魂から生じる想いを、肉体と言う媒体を使って表現していますが、魂と肉体の間には、自我(精神)が介在しています。

自我は、肉体と密接に結びついていて、外部環境から自分を守ろうとしています。

駅のホームで転落した人を助けたくても行動に移せないのは、自我が優位になっているため、神性の表現が妨げられているためです。



もし、私たちが神の心を宿しているのならば、戦争など起きるはずはないと言う人がいるでしょう。

現実は、世界のどこかで戦争が起きています。

その理由は、人間には自由意思が与えられていて、神の心に従うことも、逆らうこと、そのどちらも許されているからです。

自由意思によって、神の心に反する行いをすることで、戦争は起きます。

私たちは、完全な神を宿しているのですが、不完全な肉体に大きな影響を受けている未発達な自我から生まれる自由意思によって、その表現が著しく妨げられています。



戦争は、反発であり分断です。

1つにさせようとする神の心に反した行いには、自然法則の働きによって、苦痛が生じます。

苦痛から解放されるためには、神の心を知り、従うしかありません。

恐ろしい戦争の中にも、神は苦痛と言う形で、顕現しています。

苦痛は、戦争のない世界に変えて行くためにある、神の触媒です。

苦痛により過ちに気付き、許し合い、認め合い、信じ合えれば、神の心(愛)を表現することが出来るようになります。



愛を表現することで、個々はがつながり始め、世界は1つになって行きます。

1つになると悦びを感じるのは、神の心が表現されているからです。

生命は進化することによって、神の心がより表現され、多くの悦びを感じるようになります。

進化の先に行きつくのが神です。

無限の愛であり、喜悦の極致であり、私たちをそこに導くために、自然法則を創ったと考えられます。

不完全な個々が、永遠の時を経て再び1つになった時、完全(神)になると考えられます。




起きた現象しか見えないと、公正や不公平に思えてしまうこともありますが、そこには厳然たる自然法則の働きがあります。

どこに原因があったのか、見つけようとしても、必ずしも見つかるものではありませんが、遅くてもこの世を去った後には知らされて、納得するでしょう。

起きている現象は、神の創造した自然法則の働きによるものなので、進化(成長)する方向に必ず向っています。

たとえ最悪と思える現象であっても、例外はありません。






2019年10月13日日曜日

苦しみは魂を浄化する


人生100年と言われるようになりました。

周りを見ても、90歳を超えて元気に暮らしている人は少なくありません。

そして「終活」と言う言葉を頻繁に聞くようになりました。

死ぬまでに、身辺整理をして、やりたいことをして、心残りのないように生きることを指していますが、一昔前に比べて、死に対して暗くて、恐いイメージは少なくなったように感じています。

しかしながら、多くの人にとって、死んだ後のことは依然空白のままです。



霊的真理により、私の空白は埋まりました。

無になるのではなく、魂として生き続けることを知って、死は恐いものではなくなりました。

次に行くのは、嘘、偽りの存在し得ない真実の世界です。

これまでに得た知識と実体験から、想像している世界が待っていると確信しているので、今は待ち遠しく感じています。



この世の経験は、次の世界において活かされます。

正確に言えば、次の世界でより個性を発揮して生きるために、この世でさまざまな経験をしています。

人生において、悦びもあれば、苦しみもあります。

悦びばかりであったら、どんなに良いかと思いますが、そんなわけには行きません。

両方があって、それぞれが際立ちます。

苦しみがなければ、悦びの真の意味は判りません。



水に溺れたとしたら、大変な苦しみを感じます。

なぜ、苦しみを感じるのでしょうか?

苦しくなることで、肉体に危機的な状況になっていることに気付きます。

もし、何も感じなければ、酸素欠乏状態になっても気付かずに、最悪の場合は死んでしまいます。

肉体の異変を知らせて、守るために、苦しみは存在しています。



自分の夢が叶った時や、親切にされた時など、精神的な悦びを感じます。

一方、つらい出来事があった時は、苦しみを感じます。

もし、他者に酷い仕打ちをされたのなら、怒りや憎しみなど様々な想いが湧き上がり、胸が苦しくなってしまいます。

そんな時、怒りや憎しみに任せて、やり返したらとしたらどうでしょう?

気持ちは一瞬、晴れるかもしれませんが、後味の悪さは残ってしまいます。

たとえ、相手に非があったとしても、良心が咎めるようなことをすれば、後悔します。

それでは、怒りや憎しみを感じても、やり返しもせずに、苦しみに耐えなければならないのでしょうか?



たちが、この世に生まれて来た目的は、魂を成長させるためです。

この世は極めて不完全な世界なので、不公正、不公平、不平等に思えることが、往々にして起こります。

それに耐えることも、魂の成長につながっているのは確かです。

けれども、自分が苦しい思いをしているのに、相手が平然としていれば、心穏やかにいるのは困難です。



身体を傷つければ、法律に触れて、裁かれます。

法律の入らないところで、傷つけられたり、痛手を被ったとしたら、裁きを受けることはありません。

地上の法律が入らないところにも、自然法則は行き渡っています。

全宇宙に普遍的に働いていて、何人たりとも逃れることが出来ません。

原因に対して、寸分の狂いもなく結果が生じます。

自然法則に背く過ちを犯したのならば、結果として相応の償いが必ず生じます。



しかし、過ちを犯しても、償うことなく死んでしまう人もいます。

それでは、やはり不公正に思えてしまいます。

肉体は消えてなくなっても、生命の本質である魂は、全く変わりなく存続しています。

今生で犯した罪は、魂にしっかりと刻み込まれています。

この世で、言い逃れをしたり、嘘を付いたりして、ごまかすことは可能です。

しかし、次の世界においては不可能です。

真実が露わになり、自然法則に照らし合せて、その罪を償なうことになります。

人に苦痛を与えたのであれば、同等の苦痛を味わなければならず、そのためにもう1度地上に生まれて来る時があります。



相手の罪が暴かれ、償ったとしても、引き続き苦しみを感じながら生きて行かなければならないのであれば、やはり不公正さを感じてしまいます。

その苦しみにも、自然法則は働いています。

魂の成長という形で、埋め合わせが計られています。

地上的なものを失った分、それに見合った霊的なものが得られています。




どんなに不公正に思えたとしても、霊的に視れば完全な公正が保たれています。

そのことはこの世ではなかなか実感できません。

しかし、次の世界に行くとはっきりと自覚され、自然法則を創った偉大な存在を強く感じると共に、感謝するようです。

確かな知識を得ることで、苦しみは軽減されるはずです。

何故なら、苦しみは叡智(知識)を身に付けるために存在するからです。




生まれる前に決めていたことが予定通りに起きて、苦しみが生じていることがあります。

自分が変わり、成長して行くために、あえて苦しみを享受する人生を、自らが決めている場合があります。



苦しみは、自分を変えるための触媒です。

嘘を付いて、他者に苦痛や損害を与えて、罪を逃れて償うことなく亡くなった人がいたとします。

嘘を付くのは、神の法則に反した行いであり、次の世界に行くと自分の犯した罪と与えた損害に向き合うことになります。

そして、犯した罪を償わない限り、成長することが許されないことを知ります。

成長が許されないのは、牢獄に入り自由が許されないよりも、はるかに堪えることだと思います。

生きる目的を奪われたことになるからです。



犯した罪を償い、自分を変えるために、もう1度この世に生まれることになると思います。

嘘を付くのは良くないと親にどんなに言われたとしても、法律に触れて懲罰を与えられたとしても、本性は容易に変えられるものではなく、変わらなければ過ちは繰り返されます。

人生のどこかで、嘘を付くことで深刻な出来事が起こり、大きな苦痛を味わうことになると考えられます。

精神的に追い詰められ、魂が目覚めて、霊的な苦痛を味わう中で根本から自分を正すことになります。

外部の力ではなく、自然法則の働きによって、内部から変わって行きます。



溺れている人は、苦しくてそのままではいられません。

必死に泳いで岸に辿り着いて、深呼吸をして、初めて苦しみから解放されます。

自分が変わらなければ、苦しみはそのままです。

外部に何かを求めても、苦しみから逃れることは出来ません。

怒りや憎しみを、外部に向けても何も変わりません。

自分が変わった時に、苦しみから解放されます。

昔、許せずに苦しんでいたことが、何も思わなくなっている時があります。

それは自分が成長し、寛容さを身に付け、許せるようになったからと考えられます。



魂が不完全であるために、苦しみが生まれると考えられます。

不完全な魂が、苦しみの経験を通して、法則の働きを得心しながら、少しずつ完全(神)に近づいて行きます。

苦しみがあるのならば、どこかに不完全なところがあり、変えて行くことになると思います。

完全に近づくほど、苦しみから解放されて行きますが、完全になるのには無限の時が必要なので、私たちは永遠に生き続けなければならないようです。



地上的な苦しみは、時に耐えがたいほど大きなものになりますが、それだけ自分を大きく変えることが出来ます。

次に行く世界は、地上的な苦しみから解放された、とても快適な世界です。

しかし、成長と変化を望む魂とって、最適な環境ではありません。

自分を大きく変えるために、次の世界での生活に見切りを付けて、苦しみの存在するこの世に生まれることを決意し、勇気を出して飛び込んで来たと考えられます。

この世の苦しみは自分を変えるめに存在し、次の世界に行くと目的を成就した悦びに変わるはずです。






家の近くに、それほど大きくない河が流れています。

ところどころが淀んでいて、ゴミも浮いています。

昨晩(10月12日)ですが、大きな台風が通り過ぎました。

今朝、犬を連れて河に沿って散歩をしましたが、河の流れはいつもと同じでしたが、護岸の草は流れに沿って倒されていて、水量の多さ、勢いを物語っていました。

良く見ると、河の水は驚くほど澄んでいました。

激しく降った雨が河に流れ込み、濁流となって、淀みやゴミを一気に押し流してしまったようです。



人生においても、濁流のように押し寄せた出来事に翻弄されてしまうことがあります。

苦しみながら、もがきながらも、どうにか乗り越えられた後に、心の中のあった淀みの様なもの、染み付いていたものが一掃されて、心の軽さ、清々しさを感じることがあります。

苦しみは自分(魂)を浄化させている。

いつにない清らかな河の流れを見て、そんなことを感じました。




この台風で亡くなられた人のご冥福と共に、被災された人が一刻も早く以前の暮らしを取り戻すことを祈ります。