多くの人は、死んでいなくなってしまった人のことを、不憫に思うことが多いです。
もっと楽しいことが経験できたのに、死んでしまっては何にもならないと、嘆く声を良く聞きます。
それは、死んだ後の世界について、良く知らないからなのかもしれません。
それならば、死んだ後の世界があることを証明して見せてくれと言う人がいるかもしれません。
残念ながら、証明は出来ません。
その理由は、死んだ後にも世界があることがはっきりと判ってしまったら、つらいことが起きた時に、何も知らずに逝ってしまう人がいるからだと思います。
現段階では、死んだ後のことは、靄に包まれている方が良いのでしょう。
ところで、人は良い音楽を聴いたり、美しい絵を観ると感動しますが、何故でしょうか?
言葉で説明することは出来ません。
悲しいと涙が出ますが、何故でしょうか?
同じく説明は出来ません。
判っているのは、どちらも自然現象だと言うことです。
物を上に向かって投げれば、下に向かって落ちて来ます。
言わずと知れた、万有引力の法則の働きによるものです。
17世紀にニュートンによって発見されましたが、それ以前は当たり前に起こる自然現象としか考えていませんでした。
それでは、人が死ぬのはどうでしょう?
もちろん自然現象です。
もし、死ぬのが自然現象であるならば、リンゴが落ちるのと同じように、そこには自然法則の働きがあるはずです。
生まれるのも、成長するのも、老いるのも、病気になるのも、全て自然現象であり、自然法則の働きがあるはずです。
目の前に、1台の自動車があったとします。
そこで自動車が、ポッと偶発的に生まれたと思う人はいません。
人間が設計し、部品を作り、組み立てて自動車になって、誰かが置いたのは、疑う余地のないことです。
人間はどうでしょうか?
アメーバーから、偶然が重なって、進化して人間になったと考えるのは、あまりにも無理があります。
車と同じように、何者かが設計し、創られたと考える方がはるかに自然です。
自然法則についても全く同じです。
自然法則の根幹を成しているのは、因果律です。
原因に対して、寸分の狂いもなく結果(現象)が生じます。
そして、結果(現象)には必ず原因が存在します。
世の中には、偶然に思えてしまうことはたくさんあります。
出会い頭に車と車がぶつかったとしたら、偶然事故が起きたと考えてしまいます。
けれども、そこに不注意や油断や慢心があったのかもしれません。
健康な人が、ある日突然病気になることがあります。
病気も自然現象の一環であり、自然法則の働いた結果です。
思い当たることがなければ、運が悪かったと思ってしまいますが、必ず病因が存在しているはずです。
私たちは、原因が見つからないと、起きた現象を偶然として片付けてしまいまい、結果(現象)だけを見て物事を判断してしまいます。
しかしながら、全てが自然法則の働きにより生じたのであり、偶然はこの世界のどこにも存在しません。
偶然のように見えても、気付かないところ、視えないところに、何かしらの原因があるはずです。
自然法則は、何らかの目的があって創造されました。
その目的は、私たちの心にある「良心」の中に、垣間見ることが出来ます。
良心とは、心の中で訴えている声です。
悪いことをしようとする瞬間、「やってはいけない」と、言葉を超えた声で訴えています。
もし、良心がなかったとしたら、悪いことをしたり、人を傷つけるような行為が横行してしまうでしょう。
世の中は不穏になり、そこかしこで醜い争いが起きてしまうと考えられます。
良心があるからこそ、世の中の秩序は保たれ、平和が維持されています。
以前、駅のホームで線路に転落した人を助けようとして、電車に轢かれて死んでしまった人がいました。
自らの命を顧みずに助けようとしたのは、頭で考えて行動したのではなく、良心の声に従ったからです。
良心は、人を救おう、助けようと訴えています。
自然法則を創造した存在は、心の中に良心となって顕現し、私たちに悪いことをさせずに、人のためになることをさせようとしていると考えられます。
突発的に無から有が生まれたはずはなく、神(霊)的エネルギーが物質的エネルギーに変換されて、(物的)宇宙が創造されたと考えられます。
私たち人間も、動物も、植物も、地球も、夜空の星々も、神的エネルギーによって創られていると言えます。
自然法則は、宇宙誕生と同時に創造されたと考えられます。
限りなく広がる宇宙空間に、重なり合うようにして目に視えない次元が存在しています。
物的次元には物理法則を始め、さまざまな法則が働いていますが、目に視えない次元にも、同様に自然法則は働いています。
人間は、肉体、精神、霊(魂)によって構成されています。
従って、人間は3つの次元の法則によって支配されています。
生命現象は、霊的次元の自然法則の働きによって、全て計られています。
霊的次元の自然法則の働きには、創造した存在の心が行き渡っています。
心とは「愛」です。
愛は、互いを引き付け合う力です。
宇宙誕生によって、1つであった生命(霊)が個々になりました。
個々になった生命が、自然法則の働き、愛によって、再び1つになって行きます。
元々1つだったものがばらばらになり、どうしてまた1つなって行くのでしょうか?
生命とは霊(魂)です。
霊とは創造的、変容的エネルギーであり、常に活動変化するものであり、停滞することはありません。
霊的エネルギーにより、不完全な物質が創造され、その中に完全な神が宿され、それぞれの個が弛まなく変容(成長)しながら、1つになって行く計画が立案されたと考えられます。
魂は神の一部であるため、神の心(神性)をしきりに表現しようとしています。
地上の人間は、魂から生じる想いを、肉体と言う媒体を使って表現していますが、魂と肉体の間には、自我(精神)が介在しています。
自我は、肉体と密接に結びついていて、外部環境から自分を守ろうとしています。
駅のホームで転落した人を助けたくても行動に移せないのは、自我が優位になっているため、神性の表現が妨げられているためです。
もし、私たちが神の心を宿しているのならば、戦争など起きるはずはないと言う人がいるでしょう。
現実は、世界のどこかで戦争が起きています。
その理由は、人間には自由意思が与えられていて、神の心に従うことも、逆らうこと、そのどちらも許されているからです。
自由意思によって、神の心に反する行いをすることで、戦争は起きます。
私たちは、完全な神を宿しているのですが、不完全な肉体に大きな影響を受けている未発達な自我から生まれる自由意思によって、その表現が著しく妨げられています。
戦争は、反発であり分断です。
1つにさせようとする神の心に反した行いには、自然法則の働きによって、苦痛が生じます。
苦痛から解放されるためには、神の心を知り、従うしかありません。
恐ろしい戦争の中にも、神は苦痛と言う形で、顕現しています。
苦痛は、戦争のない世界に変えて行くためにある、神の触媒です。
苦痛により過ちに気付き、許し合い、認め合い、信じ合えれば、神の心(愛)を表現することが出来るようになります。
愛を表現することで、個々はがつながり始め、世界は1つになって行きます。
1つになると悦びを感じるのは、神の心が表現されているからです。
生命は進化することによって、神の心がより表現され、多くの悦びを感じるようになります。
進化の先に行きつくのが神です。
無限の愛であり、喜悦の極致であり、私たちをそこに導くために、自然法則を創ったと考えられます。
進化の先に行きつくのが神です。
無限の愛であり、喜悦の極致であり、私たちをそこに導くために、自然法則を創ったと考えられます。
不完全な個々が、永遠の時を経て再び1つになった時、完全(神)になると考えられます。
起きた現象しか見えないと、不公正や不公平に思えてしまうこともありますが、そこには厳然たる自然法則の働きがあります。
どこに原因があったのか、見つけようとしても、必ずしも見つかるものではありませんが、遅くてもこの世を去った後には知らされて、納得するでしょう。
起きている現象は、神の創造した自然法則の働きによるものなので、進化(成長)する方向に必ず向っています。
たとえ最悪と思える現象であっても、例外はありません。