2018年11月25日日曜日

変わらぬ想いを信じる



このブログを立ち上げてから、もう9年になります。

当初は、突如出現した癒しの力のこと、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)について書くつもりでした。

そのうちに、真理を必要としている人に、積極的に伝えたいと思うようになりました。

最も真理を必要としているのは、最愛の人を亡くして悲痛のどん底にいる人たちです。

そんな人たちに、真理が届けられれば、いくばくかの救いがもたらされると思いました。

この世にいない現実は変えられません。

しかし、真実を知れば、流す涙は少なくなります。



死んだら無になってしまうのか?それとも魂となって生き続けるのか?

真実は2つに1つですが、どんなに論争をしても結論は出ません。

死んで無になってしまうのであれば、もう2度と会えないことになり、救いはありません。

魂となって生き続けているのであれば、再び会えることになり、大きな希望となるでしょう。

どちらを選ぶのかは個人の自由です。



魂の存在を、信じろと言っても信じられるものではありません。

信じるのには、何かしらの根拠が必要となります。

イエス・キリストは十字架にかけられ息絶えました。

その後、半物質化したイエスが、弟子たちの前に現れたと言われています。

その姿を目の当たりにして、弟子たちは腰を抜かすほど驚いたでしょうが、動かぬ証拠を得て、イエスの教えを命を賭けて広めて行ったようです。

世に言う「復活」ですが、聖書に書かれているのにもかかわらず、多くのキリスト教徒は信じていないのかもしれません。

12使徒の1人であるトマスではありませんが、自分で証を確かめない限り、人は信じようとしないのかもしれません。



世の中には、ミディアム(霊媒)と言う存在がいます。

この世の人に、あの世の人の情報や思念を、仲介して伝える人たちです。

科学的な根拠を求めるこの時代にあって、その存在は奇異に映るかもしれません。

伝えてきた内容があの世の人からのものと証明する術はありませんので、口からの出まかせだと言われても反論しようがありません。



世界中の人が否定しようと、どうでも良いのです。

求めているたった1人があの世からのメッセージだと確信すれば、それで良いのです。

今も生きていることが判れば、それで良いのです。



この世にいながら、あの世からの思念を受け取るのは、易しいことではありません。

この世の情報は、目で視て、耳で聴くなど、五感を通して入って来るのに対して、あの世から届く情報や思念は、魂で感じ取っています。

の世から届く思念は、五感から入る情報に圧倒されて、掻き消されてしまいがちです。



こんな経験はないでしょうか?

部屋のドアを開けた時に、その場の雰囲気が違うのを感じて、慌てて閉める。

その場の雰囲気とは、そこにいた人から放たれているオーラによって醸し出されていると考えられます。

その場のオーラに、自分のオーラが感応して、違和感を感じたと考えられます。

オーラは、思念を感じる霊的な感覚器と言えるのかもしれません。

目や耳などから入った情報から判断するよりも早く、オーラで感じ取って行動している時があると思います。

意識しているわけではありませんが、誰にでも備わっている霊的な能力だと考えられます。



何故、そんな能力が備わっているのでしょうか?

その理由は、いち早く危険を察知して、身を守るためではないかと考えています。

オーラには思念が反映されています。

思念は、必ず行動に先立っています。

相手が行動するより前に、思念を感じることが出来れば、生きて行く上で有利になることがあります。

例えば、相手から殺気を感じれば、防御態勢を取ったり、その場から逃げることが出来ます。

神経を研ぎ澄ますとは、思考を止めて思念を感じ取っている状態であり、武道の達人と言われるような人たちは、無意識にそれを行っていると思います。

動物たちも対象のオーラを瞬時に感じ取り、危険を回避していると考えられます。



人の身体の外側に不可視のオーラが取り囲んでいます。

ミディアムのオーラは大きく拡がり、かつ敏感であり、思念に感応しやすいと考えられます。

ラジオにはアンテナが付いていて電波を受信していますが、ミディアムはパラボラアンテナが付いているようなものであり感度が高いと考えられます。

しかし、あの世から届く思念は、ラジオで話を聞くように受け取っているわけではありません。

受け取った思念を、精神の働きによって言葉に変換して、伝えていると考えられます。

その行程は能動的ではなく、受動的に行われていると考えられます。

入力された思念に、相応しい言葉が半ば自動的に出力されていると考えられます。

言葉を探すのではなく、自然に言葉に換されているのですが、その時に、ミディアムの潜在意識や感情に影響を受けるようです。

複数のミディアムが同じ人から思念を受け取っても、メッセージの内容が違っているのはそのためです。

また、同じミディアムでも、その時のコンディションによって、内容は変化すると考えられます。



ミディアムの能力は、誰でも持っている五感を超えて思念を察知する能力が拡大されたものと考えられます。

もし魂の存在を認めていない人が、あの世からの思念を受け取ったらどうなるのでしょう?

伝えられた思念により、頭に突然概念やイメージか浮かんで来ても、それが何を意味するのか全く判りません。

気のせいだろうと、受け流してしまうでしょう。



インスピレーションとなって頭に浮かんで来たものは、あの世から伝わって来た思念かもしれません。

伝わって来た思念によって、身に起きる危機が回避されたり、進むべき方向に導かれていることがあります。

しかし、頭で考えたことと判別は困難であるために、自分で考えて行動したと思っている人がほとんどです。

この世の人は、ミディアムと同じ能力を働かせながら、無意識の内に受け取った思念に沿った行動していることが多いと考えられます。



あの世の人の想いを、より具体的に伝えるのがミディアムの役割りです。

しかし、本当の目的は、人は霊的な存在であるのを知ってもらうことにあります。

死後に生があることを確信させて、霊的に目覚めさせるためです。



故人が今何を思っているのか知りたくて、ミディアムの元を訪れる人がいます。

そんな時、あの世の人は残して来た人にどうしても伝えたいことや、誤解を解きたいことがあると考えられます。

この世の人が知りたくなるのは、あの世の人が伝えたいと想う欲求によって生じている可能性があります。



あなたが死んで、この世の人から見えない存在になったとします。

残して来た人のところに行ってみると、死んでいなくなってしまったと嘆き悲しんでいます。

その姿を見て、どう思うのでしょうか?

「傍にいるのに、どうして気付いてくれないの?」

「一緒にいるから、そんなに悲しまなくて良いんだよ。」

思わず、そんな声をかけたくなるのではないでしょうか。

しかし、肉体はもうないので、そんな気持ちを口にすることは出来ません。

肩を叩いて存在を知らせることも出来ません。

今の自分を、大切な人に判ってもらえない、もどかしさやつらさを感じているのは、容易に想像できます。



肉体はもうないので、魂に訴えかけるしかありません。

思念を送って、気付いてもらうしかありません。

しかし、思念を送ってもこの世の人が悲しみのオーラを放っていると、それが壁のように遮って届きません。

音を立てるなど、五感に訴えて気付いてもらおうとするかもしれません。

それも簡単なことではなく、たとえ上手く出来たとしても気味悪がられてしまえば、無駄に終ります。



自分の想いを伝えたい。

いることに気付いてもらいたい。

その目的を果たすためには、この世の人にミディアムとコンタクトを取ってもらうしか方法はありません。



この世とあの世の人をつなぐために、間に入る相応しいミディアムを探すことから始まります。

ミディアムが見つかったら、両者をつなげるための方法を見つけます。

ミディアムから故人の情報を得た人や、ミディアムの存在を知っている人が周囲にいれば、その人にコンタクトを取らせるような思念を必死に送り続けると考えられます。

その思念がどうにか魂に届くと、何故か会いたくなったり、連絡を取りたい衝動が生じると考えられます。

いざ連絡を取ってみると、自然と故人の話になって、その後にミディアムの存在を教えられます。



現代の人は、ネットで検索して情報を得ます。

ミディアムのサイトに導くためには、検索の時に特定の言葉を打ち込む必要があり、その言葉を繰り返し、この世の人に伝えているのかもしれません。

何気なく打ち込んだ言葉は、あの世から意図的に伝えられていたものかもしれません。

検索すると多くのサイトが現れますが、該当するミディアムのサイトを開いてみた時に、強く印象付けるような思念を送ります。

そして、コンタクトを取らせるように働きかけます。

するとこの世の人は、特別なものを感じて、メールを送ってみたい衝動に駆られます。

何かに突き動かされるようにメールを書き始めたのなら、あの世の人は一安心しているでしょう。

偶然、そのサイトに辿り着いた様に思えて、実はしっかりと導かれていたことになります。





何とかしてやりたいと思っているのは間違いありません。

涙を拭いて、慰め、励まし、勇気付けたいのです。

変わらぬ想いを知ってもらいたいのです



この世の人に求められていること、それは今も想われていると心から信じることです。

信じることが出来なければ、想いは行き場を失って、悲しみに変ってしまいます。

溢れ出る悲しみが、届く想いを遮っています。

近づこうとしている魂を、遠ざけてしまっています。



つながろうとする原動力になっているのは愛です。

以前と同じように、愛し合いたいのです。

しかし、信じてもらわなければ、それは叶いません。



信じてもらえないのは、この上なくつらいことです。

この世の人の苦しみは、信じてもらえずに、つながれない、あの世の人の苦しみの裏返しなのかもしれません。

今も愛されていると心から信じれば、悲しみを再び愛に変えて行くことが出来ます。

愛することが出来ない苦しみから解放されるかもしれません。



死と言う高い壁を乗り越えて、1つになろうとしています。

1つになれるのかは、この世の人にかかっています。

愛は死とは関係なく存続しています。

確証が得られなくても、そのことを信じられるのかが問われています。



信じなければ、何も始まりません。

信じることで、魂と魂は結ばれ、再び愛し合うことが出来るのです。
















2018年11月11日日曜日

苦しみの原因


今から10年近く前のことですが、私は数か月の間、歯科医師としての仕事が出来なくなりました。

時間を持て余していたので、心身障害者施設にボランティアに行くことにしました。

仕事に復帰してからも、その施設に通い続け、入所している人、そこで働く人と仲良くなり、たくさんのことを学ぶことが出来ました。



入所者の中に、M君という20代前半の男性がいました。

M君は、脊椎に重度の奇形があり、下半身が不自由であり、車いすで生活をしています。

知的障害はなく、意思の疎通に問題はありません。

M君は、他の人たちと交わることはあまりせず、ベッドの上で一人でテレビを観ていることが多かったです。

他の入所者と団体生活を送る中で、自分の思う通りに行かないことも多いようであり、不平不満を口にしたり、ため息をついて嘆いている姿を良く目にしました。

時に、自暴自棄になり、自分の手に噛みついて、怪我をしていたこともありました。

見るからに、生きているのがつらそうで、深い孤独を感じているようでした。



M君には双子の弟がいました。

一卵性のため、弟さんはM君と見た目はほとんど変わりなく、同じ奇形による障害を持っていました。

いつも不満そうで暗い表情をしているM君とは違い、明るく快活で、わずかに残された指の機能で電動車いすに乗りスポーツを楽しんでいました。

時々、M君の元を訪ねて来て、愚痴を聞いてやり、励ましているようでした。

見た目は瓜二つで、障害も同じなのに、対称的な性格で、全く違う生き方をしているのに、少し驚きました。



の違いは、心理学的には障害を受け入れているか、いないかの差と説明されるのかもしれません。

しかし、2人を見ていて、ついこんなことを考えてしまいます。

もし、人の性格が脳によって形成され、環境によって変化するのであれば、遺伝的に全く同じで、同じ両親の元で育って来たこの兄弟は、もっと似ていても良いはずではないか?

それなのに、これほどまで性格が違うのは、どうしてなのか?



性格を脳の働きで説明しようとする科学的な試みは、ことごとく頓挫しています。

科学的に証明されていない魂の存在を認めたらどうなるでしょうか?

魂とは思念が生じるところです。

その思念を具象化するのが精神であり、具象化されたものを地上で具現化するのが肉体です。

性格とは精神上に形成された自我の個性であり、自我とは魂から生じた思念を表現する媒体です。

性格は脳によって決まるのではなく、思念が生じている魂によって、大まかに形作られていると言えます。

遺伝的、環境的に同じにもかかわらず、二人の性格が違うのは、宿っている魂が全く別物だからではないでしょうか。



M君の病気(障害)の原因は何なのか?

残念ながら原因は解明されていません。

判っているのは、全ての病気に必ず原因が存在すると言うことです。

インフルエンザが発症したのであれば、その前にウィルスが感染しているはずです。

胃潰瘍になったのであれば、その前に心的ストレスがかかっていたのかもしれません。

M君の病気は遺伝的なもので生まれつきです。

と言うことは、病気の原因は受精以前にあったことになります。

受精以前に原因があるのならば、受精以前にM君は存在していなければなりません。



そんなことはない。

今、生きている世界が全てであり、生まれる前に存在しているはずはないと言う人もいるでしょう。

もしそうであれば、M君の遺伝子に偶発的にイレギュラーが生じたと結論付けるしかなく、原因が解明されることは未来永劫ありません。

全くの不運だったのです。

そんなM君に、自分の身を嘆いたり、不平不満を口にするのを止めなさいと言っても、無理なような気がします。



生まれつきの身体障害の原因は、前世にあることが多いと考えています。

この社会で罪を犯したら、法律によって裁かれて、償わなければいけません。

この宇宙には、永遠不滅の自然法則が働いています。

法律は掻い潜ることが可能ですが、法則は絶対に不可能です。


法則の根幹を成すのは因果律です。


自分のやったことは、必ず自分に返って来ます。

自然法則に逆らって過ちを犯したならば、相応の苦痛の経験をして、償わなければいけません。



前世で何かの罪を犯して、その償いとして身体障害が与えられた可能性があります。

あるいは、さらなる成長を志願して、重い障害のある身体に宿ったのかもしれません。

そのどちらかだと思いますが、記憶はなくても、M君はそのことを承知して生まれて来ているはずです。



自然法則(因果律)は、自分の言ったこと、行ったこと全てに働いていて、寸分の狂いもなく結果(現象)をもたらします。

言動だけではなく、自分の想っていることにも働いています。

自分の障害を恨めしく思ったり、健常者を妬んだりすれば、たとえ口に出さなくても苦しみがもたらされます。

M君を苦しめているのは、身体障害そのものではなく、障害や人に対して自然法則に反した想いを抱いているためと考えられます。

障害が自分を苦しめているのではなく、自分の想いが自分を苦しめていることに、まだ気付いていないようです。

同じ障害のある弟さんを見ていると、そのことが良く判ります。

M君にとって身体障害は大きな苦しみをもたらしていますが、弟さんはそうではないようです。

M君の様な想いを抱いていないので、弟さんは苦しまずに済んでいると考えられます。



自然法則に反した行いは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬など、自然法則に反した想いが生じることから始まります。

もし、M君が前世で過ちを犯していたならば、必ずそんな想いが先行していたはずです。

想いを生じさせないようにするのには、言って聞かせても無理であり、自分自身が痛い思いをして、因果律の働きを学ぶしか方法はないようです。

償いとは、苦痛を味わうだけではなく、魂から生じる想いを根本から変えて行くためにあると考えられます。



介助される様子を見ていて、ある思いが強くなって来ました。

M君は日常生活をするのに当たり、常に人の助けが必要です。

自力での移動は困難であり、食事をしたり、排せつするにも介助が必要です。

人の助けがなければ、1週間も生きて行けないでしょう。

一人では生きて行けない、人の助けによって自分は生かされていることを、常に感じながら生きていると言えます。

自然法則に反した利己的な想いが湧き上がりやすい性格は、感謝の気持ちが生まれるような行いを一生涯に渡り受け続けていることにより、自然に変わって来るかもしれません。



弟さんも、健常者が想像もつかないような苦労をしながら生きていますが、それに耐えられる魂であり、日々の苦労はさらなる成長を促していると考えています。

相互扶助が何より大切であり、人から受ける施し(愛)ほど尊いものはないことを、一生をかけて学んでいるのかもしれません。

受けた施しはしっかりと魂に刻み込まれて、来世において、今度は施しをする立場となり、今生はそのための極めて強力な動機付けになっているような気がしています。




困難や障害は、この世界に多くあります。

しかし、それが苦しみとなるかどうかは別次元の問題であり、魂からどの様な想いが生じているかによって決まります。


苦しみは、自分を成長させています。

成長することによって、想いが変わって来ます。

想いが変わることによって、初めて苦しみから解放されます。


この世を生きて行くのは、決して楽なものではありません。

苦しみから解放されるための、永続的な営みであると考えられます。

1つの苦しみから解放された時に、人は何かを学び、成長しているはずです。