10年以上前ですが、今までに経験したことのない苦難が私に訪れました。
ほぼ同時に、シルバーバーチの霊訓と出会い、救われて人生が変わりました。
この世で終わりではなく、死んだ後も人生は続いているのを知らなければ、どうなっていたのでしょうか?
仕事で成功して、好きなことをして一生を過ごすのが幸せな人生だと、多分思い続けていたでしょう。
多少悪いことをしても、ばれなければいいやと、平気で思っていたかもしれません。
霊訓を読んでいて、少し怖くなったことがあります。
それは、死んであの世に行った後に、この世の人生を「総括」する時が必ず来ると言うことです。
思ったこと、言ったこと、行ったことの全ては、目に視えないオーラに刻み込まれています。
生まれた時から死ぬまでの全人生が、スクリーンのようなものに映し出されて、それを見させられるようです。
思わずうれしくなる場面もあれば、正視したくない場面もあるでしょう。
事件や事故に遭った時のことを見るのは、誰でもいやなものです。
しかし、それとは比較にならないほど見たくないものがあります。
それは、人を傷つけたり、迷惑をかけたり、嘘をついたり、隠れて悪いことをしている自分の姿です。
人生で犯した過ちは、数多くあるでしょう。
覚えていることもあれば、忘れてしまっていることもあります。
そして、その過ちによっていかなる結果が生じていたのかを、追跡されて見させられるようです。
それを見るは、本当につらいものがあると、今から想像しています。
例えば、学校で誰かをいじめて、その子が不登校になったとします。
卒業してしまえば、どうなったのか知る由もありませんが、「総括」の時に、その子の後の様子が映し出されて、見ることになると考えられます。
もし、自分のせいで予定されていた人生が送れなかったとしたらどうでしょう。
事実に愕然として、その後に後悔や罪悪感に苛まれることになると思います。
この世で悪いことをしても、社会的な責任から逃れることは可能かもしれません。
しかし、霊的な責任から逃れることは不可能です。
自分が原因を作ったのであれば、その結果責任を必ず負わなければなりません。
自分のせいで相手の成長が損なわれたならば、将来、自分が成長が出来なくなるような事象が生じると考えられます。
成長出来ない苦痛を、自らが味わうことになります。
それが罪の償いであり、後悔や罪悪感という苦しみから解放されるための、唯一の手段と考えられます。
人を傷つけたり、悲しませたり、迷惑をかけていけないのは、道徳的、倫理的、法律的以上に霊的な意味があるからです。
自分のしたことは、神の摂理の働きにより、全て自分に返って来くるからです。
また、過ちは犯していなくても、怠けていたり、臆病な自分の姿を視て、大きな後悔をするようです。
夏休みに遊んでばかりいて、宿題をやらないで新学期が始まればどうでしょう。
教室で宿題を提出する時には、きっとその場から逃げ出したくなるでしょう。
人生で為すべきことが為されなかったのなら、それとは比較にならないほど大きな後悔を味わうことになると思います。
この世に生まれた目的が、為すべきことを為して自分を成長させることであり、その絶好の機会を逸したことを知るからです。
自分を成長させる機会は、前途に逃げ出したくなるような状況、リスクを背負う状況が待ち受けていることが多いです。
けれども、必ず訪れる「総括」の時に後悔しないためにも、勇気を持って一歩を踏みだなければいけません。
「総括」の時に、裁判官のような第3者がいて、判決を告げられるような構図を想像するのは誤りのようです。
自然法則の働きにより、自分で自分が裁かれるようです。
いじめをしたのならば、最初の時に「良心の声」がして、止めるように促していたはずです。
しかし、その声を無視してしまったのであり、常態化してしまえば次第に聞こえなくなって行きます。
その声こそが、自分に内在する神であり、同じ声によって今度はこの世の人生を裁かれることになります。
心の中で良心の声が大きくなって迫って来て、責め立てられるような気持ちになり、思わず「やめてくれ」と叫びたくなるかもしれません。
深く傷つけてしまったのならば、後悔と罪悪感という針の筵(むしろ)の上に座らされているような心境になると予想されます。
自分の行いは自分が一番良く知っていますので、言い逃れや言い訳、誤魔化しは一切できません。
それでは、「総括」の時に後悔しないためには、どうすれば良いのでしょうか?
まず、神の摂理の働きを知っておく必要があります。
正しく知るために、「シルバーバーチの霊訓」を読むことをお勧めします。
神の摂理は正確無比に作動しています。
神の摂理(愛)に反した言葉や行いには苦痛が、適ったものであれば悦びが生まれます。
「総括」の時に悦びを感じるためには、ひたすら摂理に適った人生を送るしか方法はありません。
神の摂理は愛を基調としています。
人や動物に優しく、世の中のために生きて、後悔することは絶対にありません。
その行いは苦しくても、次に行く世界で悦びが待っています。
ところで、慈善団体などに多額の寄付をすれば、神の摂理に適っているので、その先で悦びが待っているのでしょうか?
行為に先立っている動機(想い)が問われるようです。
自分のために寄付をするのか、人や社会のために寄付をするのかによって、大きく違って来るようです。
同じ行為をしても、どんな想いが込められているのか、自己を犠牲にしているのかが問われるようです。
賞賛を受けるために1億円を寄付する大金持ちよりも、役立つことを願ってわずかなお小遣いを少しずつ溜めて、千円を寄付する子供の方が摂理に適っていて、成長した悦びが待っていると考えられます。
神の摂理は極めてシンプルです。
人に喜ばれることをすれば、自分に悦びとして返って来ます。
しかし、それがなかなか出来ないのが、肉体を持つ人間の弱さであり、それを克服して行くことが、この世に生まれた大きな意味と考えられます。
ほとんどの人が神の摂理の働きを知りません。
そのために、人や動物が傷つき、環境が破壊されて、全体の成長を遅らせる事象が起きています。
突き詰めれば、欲が深かったり、自分のことしか考えないことから生じています。
人生はこの世だけではありません。
この世の人生を「総括」する時が来ます。
そして、神の摂理に反した行いには償いが生じます。
この3つの事実を知っていれば、これほどまで目を覆いたくなるような事象は起きないでしょう。
欲が深かったり、自分のことしか考えなかった人は、「総括」の時にとても惨めな思いをして、大切なものを学び直さなければいけません。
神の摂理(霊的真理)ほど重要な知識はありません。
しかし、残念なことに魂に受け入れる準備ができていなければ、その価値が判りません。
10数年前の私であれば、それこそ「豚に真珠」でした。
存在に気付きもしなかった真理は、暗闇の中で宝石のように光輝き出しました。
暗闇の中にいる人に、真理のありかを提示することは、知っている者の務めです。
霊的な感度が高く、背後にいる存在との間に良好な関係が築かれている人は、導かれて辿り着くかもしれませんが、多くの人はさまよい続けています。
光を求めて、ある人は宗教に引き寄せられます。
これぞ真理なりと、多くの宗教が声高々に叫んでいますが、どれも真実であることを証明する決定的な根拠は示してくれません。
それどころか、求めているのは真実だけなのに、それ以外のものまで信じるように求められます。
喉がカラカラに乾いた人に、食べ物はいりません。
苦しみの意味、悲しみの意味、生きることの意味、死とは何か?真実を知りたがっている人に、それ以外のものはどうでも良いはずです。
真実は宗教に教えてもらうものではなく、自分自身が見出すものだと思います。
暗闇の苦しみから抜け出させてくれるものが、求めている真実です。
それを手にすることが、生まれて来た意味の1つです。
出来事が起きて真実を見出しているようですが、本当は真実を見出すために、計画した通りに出来事が起きているのかもしれません。
必要なものが、最適な時期に与えられるはずです。
心の中で反発するものがなく、すんなりと入って来るものを素直に受け入れれば良いのかもしれません。
ただし、少しでも疑問が生じたり、おかしいと感じたのなら、それを信じてはいけません。
藁をもすがる思いで信じたものが真実でなければ、間違った生き方をしてしまい、取り返しのつかないことになります。
「総括」の時に、人生を無駄にしてしまったことを知り、大きな後悔が生じてしまいます。
人生では、思いもよらぬ出来事が起きます。
何で自分だけがこんな思いをしなければならないのか?
理不尽、不公正、不平等だと思えば、行き場のない怒りや憎しみが生じてしまいます。
その出来事の意味も、「総括」の時に明らかになると考えられます。
理不尽に思えた出来事は、実は自分自身が原因を作っていて、因果律の働きにより起きていたことを知るかもしれません。
苦しめられた出来事は、成長するために約束していたことだと知るかもしれません。
邪な思念によって引き起こされた出来事も、罪の償いと魂の成長という報いによって、完璧な公正が保たれているのを知ると思います。
霊界に行くと、自分は地上で不当に扱われたと文句を言う者は一人もいないそうです。
それは、宇宙の隅々まで自然法則が働いていて、その結果として出来事が起きているのを知るからです。
運不運や偶然という曖昧な概念が入り込む余地は全くなく、あるのは原因と結果の連鎖だけなのを知るからです。
霊界に行けば、原因に対して結果が立ちどころに生じるので、自然法則の働きを疑う余地はありません。
地上では物質(肉体)を通して自己表現をしています。
そのために、誤った表現、曖昧な表現をしてしまうために、予期しなかった結果(出来事)が返って来ることがあります。
また、物質が介在しているので、時間をおいてから結果が生じることも多いと考えられ、因果関係が判りにくくなってしまいます。
そして、記憶からは消されていますが、過去の人生(過去生)に原因があった可能性もあります。
理不尽や不当に思えてしまうのは、原因が判らずに、結果しか見えないためと考えられます。
苦痛を伴う出来事であれば、それが償いであると同時に、2度と同じ過ちを起こさないための学びになっているのかもしれません。
あるいは、より成長するため、自分にない資質を手に入れるために必要だったのかもしれません。
もしそうであれば、この出来事が起こる人生を選んだのは、間違いなく自分自身です。
この世では、因果関係は目に見えず、客観的に証明される類のものでもありません。
しかし、「総括」の時にはっきりと認識されて、この世の全ての出来事の意味が判るはずです。
神の摂理の働きの完璧さに驚嘆し、理不尽さや不当だと感じていたことに恥かしさを覚えるかもしれません。