「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
ご存じでしょうが、川端康成の小説『雪国』の冒頭の一節です。
「次元のトンネルを抜けると光りの国であった」
これは私が作った文章ですが、次元のトンネルの入り口は死に当たり、暗闇を抜けると生命の光に輝く世界が待っています。
国境のトンネルを小説とは逆方向に向かい、雪の降るモノトーンの世界から、晴天の色彩に溢れた世界に出てきた時の感覚に近いのかもしれませんが、それとは比較にならないほどの感動があると思います。
私が得た知識、今までの経験から言わせてもらえれば、死の後に待ち受けている世界は、この世よりもはるかに快適です。
いくつかの例を挙げてみます。
この世は思ったことが、上手く相手に伝えられない世界です。
向こうの世界では、思ったことが言葉などを介せずに、直接的にしかも正確に伝わります。
言葉を発しなくても想いが通じ合う以心伝心の世界と、言葉を発しても誤解が生じやすいこの世では、どちらが快適なのかは言わずと知れています。
しかし、気を付けなければいけないことがあります。
この世では自分が想っていることを、口にしなければ隠せますが、向こうの世界ではそうは行きません。
何らかの思念を抱くと、それが光となって放たれて、即座に周囲に知れてしまいます。
怒りや憎しみや嫉妬の思念(光)を放つ人に、あえて近づこうとする人はおらず、孤独になると考えられます。
向こうの世界に行った後に、見苦しい思念を出しているのに気付き、恥ずかしくなり、いたたまれなくなると、早くもう1度この世に生まれて、自分を変えたくなるのかもしれません。
この世では、肉体を維持するために食べなければならず、食べるためには働かなければいけません。
向こうの世界は肉体はないので、食べるために仕事をする必要がなくなります。
仕事に行かずに、好きなことが自由に出来るようになりますが、気を付けなければいけないことがあります。
好きなことをしていても、それが人や環境のためになっていなければ、何の価値も持ちません。
周囲とは関わらずに、趣味だけに没頭していれば、孤立するだけです。
この世で仕事をしなければならない真の理由は、人や社会のために働く悦びを身に付けて、向こうに行ってからの奉仕に備えるためと考えられます。
この世では、考え方や価値観の違う人と付き合って行かなければなりません。
向こうの世界では、嫌いない人や、相性の悪い人と会うことはなくなります。
親和力の働きにより、自分とほぼ同じ霊的成長度の人たちだけが集まって生活しています。
周りにいる人は自分と良く似ていて、お互いの想いが知れるので、気を遣う必要は全くなく、心安らかに過ごせます。
少し考えただけでも、向こうの世界の方が間違いなく快適であり、出来ればずっと過ごしていたいと思うのは当然です。
それは生命(魂)は成長して行くように定められているからです。
平坦な道を歩くよりも、山道を歩く方が負荷がかかり、身体は鍛えられます。
そんな快適な世界を離れて、なぜ私たちはこの世に生まれて来るのでしょうか?
それは生命(魂)は成長して行くように定められているからです。
平坦な道を歩くよりも、山道を歩く方が負荷がかかり、身体は鍛えられます。
同じように、安楽で快適な向こうの世界よりも、苦難や障害が絶えないこの世の方が魂は鍛えられ、成長します。
自分と似ていない人たちの中で生活して行くには、お互いを認め合い、許し合う必要があり、そう努めようとする中で魂は成長します。
想像するのが難しいかもしれませんが、向こうの世界は思念が直ちに具現化します。
この世は、思念を精神や肉体を駆使して具現化しなけれならず、その行程で精神と肉体の鍛錬が図られて、その結果として魂は成長します。
また、肉体を介して具現化するために失敗や挫折が付きものであり、その経験から多くの教訓を学ぶことが出来ます。
快適な向こうの世界を離れて、この世に生まれて来る理由は、自分(魂)をより成長させるためであり、必要な教訓を身に付けるためと言えます。
そして、過去の人生で作った借りを、この世で返すために生まれて来る人も多くいると考えられます。
人生では、誰もが避けたいような出来事に遭遇します。
多くの人は身に起きた不幸として捉えますが、魂の成長と学びのため、あるいは過去の過ちを償うために、当初から人生に組み込まれていたものかもしれません。
もしそうであるならば、生まれる前の自分は承知していたはずであり、嘆いてはいけません。
苦しみながらも、乗り越えて行くことで成長しようと、奥深いところで希求しているはずです。
人生で起きることに、意味のないものはありません。
その意味が判らないと、不幸に感じてしまいます。
病気になると、「何で自分が」と思うかもしれません。
不運や偶然ではなく、全ては因果律の働きによるものであり、結果として病気になります。
肉体的、精神的、霊的次元のどこかに原因が存在していますが、霊的次元に原因がある場合は、その原因を取り除くために、人生のどこかで病気が生じることがあると考えられます。
相応の苦痛を経験して、原因が取り除かれれば、魂は浄化されて、心身は癒やされるはずです。
成長を妨げている原因を取り除き、本来の自分を取り戻し、望んでいた人生を歩みだすため、また大切なことを学び、自分を成長させるための1つの手段として、病気は存在すると考えられます。
愛する人との別れほど、つらいものはこの世に存在しないのかもしれません。
結びつきが強いほど、深い悲しみが生じてしまいます。
存在がなくなってしまった、2度と会うことは出来ないと思ってしまうと、時に耐え難い苦しみになります。
肉体は失っても、その人の本質、生命そのものである魂は変わりなく存在しています。
もちろん、再会も出来ます。
事実誤認をしてしまうと苦しみが生じますが、その苦しみが真実を受け入れる土壌を作って行くと考えられます。
この宇宙に、愛より大切なものは存在しません。
別れの悲しみは、そんな大切な真実を、魂にしっかりと刻み込むためにあるのかもしれません。
神が愛であり、全てを創造したのなら、お互いに傷つけ合う戦争が存在する理由はどこにもないように思います。
この世は、異質な者、違う者が暮らしているために、交わると反発が生じることがあります。
反発し合う中で怒りが生じると、対象を攻撃したい衝動にかられます。
どちらかが行動に移したのならば、因果律の働きにより、報復が繰り返されてしまいます。
もちろん、自分の身を守るのは許されます。
しかし、怒りや憎しみの想いを表現すれば、それは自然法則に反した行為となり、結局は苦痛を味わってしまいます。
怒りや憎しみは、対象が許せないと思うと生じますが、許されるのか、許されないのかを決めるのは神(自然法則)であり、人間ではありません。
もし許されなければ、自然法則の働きによって、その罪を相応の苦痛を通して償うことになります。
自らが傷つけて、罪を償わせようとするのは大きな過ちであり、正さなければいけなくなります。
戦争は、怒りや憎しみの想いを表現することによって生じる苦痛を通して、平和な世界を実現するには、他者に対してどの様な想いを向けるべきなのかを学ぶためにあると考えられます。
向こうの世界には、病気も、不意の別れも、戦争もありません。
この世で不幸と言われるような出来事は、大切なことを学ぶ好機となっていて、向こうの世界よりも効率的に成長することが出来ると考えられます。
学び、成長した分は、向こうの世界で全て活かされます。
表現を変えると、向こうの世界でもっと自分を活かすために、それにふさわしい素養を身に付けようとして、この世に生まれて来ると言えます。
人には、より高い境涯に行きたいという欲求があります。
そのためには、より高い愛を表現できなければいけません。
肉体を持つと、どうしても自分に関心が行ってしまいますが、それに打ち克って他者に目を向け奉仕することによって、生まれる前よりも高い愛を表現できるようになると考えられます。
さまざまな人(魂)が交じり合うこの世で平穏に暮らすためには、認め合い、信じ合うことが求められますが、それが向こうの世界において、より高い調和を生みだすことにつながっていると考えられます。
愛は、生命を結びつけ調和を生み出す力であり、自然法則の目的そのものです。
そんな目に見えない幾多の大切な真実を、この世での経験と引き換えに、手に入れているような気がします。
苦しい人生を送った人が向こうの世界に行くと、深い悦びを味わうと思います。
たくさんの教訓を学び、大きく成長していることに気付くからです。
あまりのつらさに、神も仏もないと思っていた人が向こうの世界に行くと、偉大な存在を身近に感じると共に、感謝の念を抱くと思います。
自然法則の働きにより、完全な公平、公正が保たれ、魂の成長により報われていたことを知るからです。