2017年8月20日日曜日

苦難は悦びの種



小学生の時でしょうか、音楽室に入ると、たくさんの肖像画が壁の高いところに飾ってありました。

バッハ、シューベルト、ブラームス、ショパン、モーツァルト、その中に、少しこわい顔をした人物がいました。

ベートーヴェンです。

何で1人だけにらみつけるような形相をしているのか、その時は判りませんでしたが、眉間に刻まれたしわに、彼の苦難に満ちた人生が表れているように思います。



ベートーヴェンは1770年、ドイツのボンに生まれます。

父親は宮廷お抱えの歌手で、祖父も楽長を務めた音楽一家でした。

しかし、祖父が亡くなると生活は貧窮して行きます。

父親はウィーンで一世を風靡していたモーツァルトのように育てようと、ベートーヴェンに苛烈なスパルタ教育を施します。

10歳で小学校を退学して音楽に専念することになり、14歳で宮廷のオルガニストに任じられます。

17歳の時に、モーツァルト(当時31歳)に会うためにウィーンに赴き、憧れの音楽家の前で演奏する機会を得ました。

ベートーヴェンは作曲家として知られていますが、天才的なピアニスト(オルガニスト)でもありました。

その演奏を聴いて、モーツァルトは弟子入りを許すと共に、才能を高く評価し「彼の名を覚えておきなさい。いずれ世界がその名を知ることになるだろう 」と、言ったそうです。

しかし、弟子入りする直前になって、最愛の人であった母親の病気が悪化して、帰郷しなければいけなくなります。

そして、母親の最期を看取った後、20歳の時に再びウィーンに戻ります。

モーツァルトは35歳の若さで亡くなったため、ハイドンの元で音楽の修行をしていましたが、しばらくして演奏会を開いたところ、ウィーンの貴族たちから拍手喝さいを浴びて、名声を高めていきます。

しかし、28歳の時に思いもしなかった、苦難がベートーヴェンを襲います。

音楽家としては致命的な、聴覚障害が起きたのです。

そのことを人に知られないために、家に引きこもるようになりました。

そんな中、30歳で最初の交響曲である第1番を書き上げました。

31歳の時に、ピアノの教え子であるジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)と恋に落ちます。

しかし、彼女は貴族階級であるために、身分の差により結婚は叶いませんでした。

その後、難聴が徐々に進行して、絶望感が頂点に達した32歳の時に命を絶とうとします。

しかし、芸術への思いから、どうにか自殺を思い留まります。

苦渋の決断の末、ピアニストとしての活動を諦め、作曲活動に専念することになります。

34歳の時に作曲した、交響曲第3番「英雄」は、フランス革命を成し遂げたナポレオンに捧げたものであるのは有名です。(後にナポレオンは皇帝の位に就いたので、ベートーヴェンは激怒します)

その後10年間に、5つの交響曲、数々の優れたピアノやヴァイオリンの協奏曲、そしてピアノソナタを、次々と世に出して行きます。

しかし、難聴が急速に進んでいき、40代半ばからはほとんど聴力を失っていたようです。

そして、後継者として考えていた甥であるカールの養育権を巡る長い裁判などもあり、いろいろなことに頭を悩ませていました。

交響曲第8番から長い時を経て、54歳の時にかの有名な「第9」を世に出します。

その後、養育していたカールと意見が対立し、カールはピストル自殺を図ってしまいます。

奇跡的に一命は取り止めたものの、ベートーヴェンは大きな精神的ショックを受けます。

すっかり気弱になったベートーヴェンは、肺炎になったのをきっかけに、肝臓病も悪化し、56歳の若さでこの世を去ります。

葬儀にはウィーン市民2万人が見送ったそうです。

作曲家として多大な賞賛は受けましたが、あまりにも苦悩に満ち溢れた人生だったと感じざるを得ません。



ベートーヴェンは、後世に遺る楽曲を作るのを使命として、この世に生まれて来たのは間違いありません。

18世紀のヨーロッパ社会では、音楽に携わる家庭環境に生まれない限り、作曲家になるのは極めて困難と考えられます。

祖父や母親が早く亡くならなければ、ベートーヴェンの音楽の方向性は全く違うものになったと予想されます。

恋人との身分の差に苦しむことがなかったら、有名な「月光ソナタ」も生まれなかったでしょう。

彼の生まれ持った、誰にも媚びない性格により、貴族たちの使用人としての音楽家の地位をあっさりと捨てて、音楽家として自立することが出来ました。

そのため、ヨーロッパが王族や貴族の支配から民衆が中心になって行く大変動の時期に、ベートーヴェンは革命的な音楽を通して、自由、平等、博愛の精神を、強く訴えることが出来たと思います。

そして、聴力を失い、音楽家として絶望の淵に叩き落されることになりますが、作曲活動に人生の全てを捧げることになりました。

最高の喜びが、「第九」という音楽に表現されていますが、ベートーヴェン自身が極限の苦難を乗り越えたからこそ、この曲が生まれたと思います。

ベートーヴェンがこの世に遺したものは、彼の生い立ちや人生の出来事と密接に関係していて、どれ一つとして欠けてはいけないと考えられます。



人生の苦難や苦悩を乗り越えていく過程が、ベートーヴェンの曲に表現されていて、苦難とベートーヴェンは不可分の関係だったと言えます。

絶望の果てに命を絶とうとして、思い留まった時に2人の弟に向けて手紙(遺書)を書いていますが、その中にこんな一節があります。

「私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちに、この世を去ってゆくことはできないのだ」

絶望の果てに死を垣間見た時に、天命を悟って出た言葉だと思います。


ベートーヴェンはこうも言っています。

「ぼくの芸術は、貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない」


また、人生経験からこんな言葉も遺しました。

「人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものである。
しかし、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強く、その運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである。」


こんな力強いことも言っています。

「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。」


そして、苦悩について、こう考えているようです。

「不死の心を持つ我々人間は、苦悩と歓喜の為だけに生まれる。
その中で最も優れた者は、苦悩を突き抜けて、歓喜を勝ち得ると言えるだろう。」

魂は苦悩と歓喜その両方を味わうためにこの世に生まれ、苦悩(難)は実は喜びにつながっていることを、音楽を通して伝えたかったと思います。



もし、ベートーヴェンが人生の苦難を、偶然降りかかって来るものと思っていたのなら、不運を嘆き、運命を呪い、人生を投げ出してしまったかもしれません。

そうではなく、苦難は神から与えられたものであり、偉大な創造のための必然であると確信していたので、果敢に立ち向かいながら、命が尽きるまで作曲し続けたと思います。

人々に喜びを与える音楽を作ることが、自分に与えられた使命だと考え、幾多の苦難は自分の運命と受け入れ、強い意思で乗り越えて行ったと思います。

乗り越えて行くことで魂は向上し、更にふさわしい困難が生じて、またそれを乗り越えることで魂は向上浄化され、より次元の高いインスピレーションを受けるようになって行ったと思います。

ベートーヴェンの曲は全人類に向けた、愛と平和と勇気のメッセージであると共に、想像を絶する人生の困難を乗り越えてきた作曲家自身に与えられた、神からの祝福でもあると思います。



多くの人は、ベートーヴェンに困難や障害が襲い、その結果、数々の曲が生み出されたと思っているでしょうが、それは違うと思います。

苦しんでいる、悩んでいる人間を鼓舞する音楽を世に送り出すために、ベートーヴェン自身が深い苦悩を経験する必要があり、そのためにこの人生が用意されていたと、私は思います。



ベートーヴェンに降りかかった苦難は、多くの人の魂を音楽を通して癒すためにあったと考えていますが、偉大な芸術家だけではなく、全ての人に苦難は与えられていて、同じ様に立ち向かって行かなければならないのだと思います。

ベートーヴェンの苦しみは楽曲に昇華されましたが、この世の苦しみを経験した人は、魂の強さとなって昇華されていると思います。

その経験は、先になって人のために役立つのだと思います。



苦難から救い出してくれるのは、苦難の末に自らが見つけ出した真実しかないのかもしれません。

真実を見付け出した瞬間、苦しみは悦びに変わると思います。

人生の苦難は、真実を見つけ出すために生じていて、見付け出した真実が人を豊かにし、心の平和をもたらし、魂の財産になると思います。

この世で学び、成長するとは、その様なことを指すのかもしれません。



もし、人生で起きる出来事が偶然であるならば、生まれたのも、死ぬのも偶然であり、生きている意味など、どこにも見つけられません。

そうではなく、全ての出来事は自然法則に従って生じているのであり、その法則の働きが見えないために、偶然として片付けてしまっているだけだと思います。



人は成長するために、この世に生まれて来るのであり、そのために苦難というものが、どうしても必要です。

成長とは、自然法則を創った偉大な存在に近づくための行程であり、より高く、より強い愛を表現するためにあると思います。



苦難とは成長の種であり、後に悦びの花が咲きます。

苦難が大きいほど、魂は大きく成長し、悦びも大きくなります。






2017年8月6日日曜日

この世の苦しみの意味



子供の時、学校にはいろんな子がいました。

勉強ができる子、走るのが速い子、野球が上手い子、歌うのが得意な子など、自分より秀でた面を持っている子がたくさんいました。

また、親切な子、正義感が強い子、面倒見の良い子、意地悪な子、嘘をつく子など、さまざまな個性や特徴を持った子にも会いました。

そんな子と、友達になって遊んだり、時にケンカをしたりしました。

わがままや嘘を言ったりすると、仲間はずれにされました。

困っていたら、助けてくれたこともありました。

競い合ったりもしました。

自分と考えが違うの子がいても、学年が上がるに従い、認められるようになりました。

もまれながら、1番大きく成長していたように思います。



この世は学校と良く言われます。

生きていると、自分にはない面を持った人、欠けている面がある人、色んな人に出会います。

出会いたかった人もいれば、できれば出会いたくなかった人もいます。

そんな人たちに囲まれながら、生きて行かなければいけません。

生きて行くための智恵を、少しずつ学んでいると思います。

人生は、さまざまな出来事が起こります。

うれしい出来事もあれば、悲しい出来事もあります。

つらい出来事もあれば、楽しい出来事もあります。

うれしい出来事や楽しい出来事ばかりであれば良いのですが、そうは行きません。

でも、後になって考えてみると、出来れば避けたい出来事の方が、何か大切なものを学んでいるような気がします。

やはりこの世は、子供の時の学校と同じ様に、知識を吸収し、人や社会にもまれ、さまざまな出来事を経験しながら、何かを学ぶためにある学校なのかもしれません。



霊的な知識が増えるのに従い、死んだ後に行くあの世はどんな世界なのか、少しずつ判るようになってきました。

この世の苦痛から解放された世界です。

食べるために働く必要もありません。

苦手な人と会うこともありません。

肉体がないので、もちろん病気にもなりません。

自分の想ったことが、直ちに具現化されます。

何もかもが快適な世界です。



そんな快適な世界から、苦しみや痛みのあるこの世に、人はなぜ生まれてくるのでしょうか?

しかも、強制的ではなく、自発的に生まれて来ると言われています。



この世に生まれてくる目的はただ1つであり、自分(魂)を成長させるためです。

自分に足りない面を補うためです。



この世ではなく、快適なあの世で学びながら成長できればと、つい考えてしまいますが、そんな訳にはいかないようです。

あの世は、この世と違い、同じレベルの人(魂)が集まって暮らしています。

本質が似ているので、想うこと、考えることもほぼ同じです。

そのため、争いも、競争も生まれません。

皆、平和に過ごしています。

人は、降りかかる困難や障害を乗り越えて行くことで、成長します。

何もかもが快適なあの世では、困難や障害が生じ難く、魂を大きく成長させることは難しいようです。



魂を成長させるのは、人の定めのようです。

自分を大きく成長させるために、覚悟をしてこの世に生まれて来るようです。

けれども、自ら進んで困難の中に飛び込んで行ける人は、極めて少ないと思われます。

そこで、魂を成長をさせるためのシナリオが用意されます。

そのシナリオに沿って、困難や障害が生じるようになっています。

この世に生まれて来る限り、困難や障害のない人生はあり得ないと言うことになります。

どんなに苦しくても、自分が大きく成長し、足りない面を補うために、最も適した人生を送っているはずです。



人は生きていくのが苦しくなるような困難や障害に出会うと、思わず逃げ出したくなります。

しかし、その気持ちを抑えて、何とか生きて行くことで、魂は大きく成長しています。

生まれる前の自分は、逃げ出したくなるような困難や障害が、自分が成長するために起きることを承知していました。

それが神の計らいにより、記憶から消されました。

もし記憶していれば、途中で逃げ出してしまう人がいるからです。

不幸になったのではなく、この世に生まれた目的を成就しようとしています。

乗り越えられる困難しか与えられないと、良く言われますがそれは正しく、自分が乗り越えられると判断した困難なので、必ず乗り越えられるはずです。



困難や障害に出会った時に1番大切なこと、それは逃げ出さず、正面から立ち向かうことです。

自分(魂)に正直になることです。

何故、自分に正直に生きないといけないのでしょうか?

後で後悔することになるからです。

どうして後悔するのでしょうか?

死んだ後に、振り返る時が来るからです。

この世に生まれてから死ぬまでの間、どんなことを想い、どんなことを言い、どんな行いをしたのか、全人生がスクリーンのようなものに映し出され、それを見せられるからです。

正直になれず、嘘をついている自分を見て、後悔するからです。



このブログにも書きましたが、10年以上前に、今までに経験したことない出来事が私に起きました。

その出来事から逃避する選択肢もありましたが、自分に正直になり、正面から受け止めました。

その結果、多くのものを失いました。

でも、それで良かったと思っています。

自分に嘘を付いて逃げていたのなら、何も失わず、何も変わらずにいたでしょう。

一瞬の幸福を感じたと思います。

そんな出来事が過去にあったことさえ、忘れてしまうでしょう。

しかし、死んだ後に、この世を振り返る時が訪れます。

それまで忘れていた、嘘を付いている自分を見せられ、極めて強い後悔の念に襲われると思います。

大して価値のないものを、必死に守ろうとしている自分を見て、大いに恥じるでしょう。

プライドを守ろうとして、魂を汚してしまったことに気付き、後悔するでしょう。

この世的なものを失わなかった代わりに、大切なもの(霊的真理)を手に入れる機会を失ったことに気付き、地団駄を踏んで悔しがることになるでしょう。

正直に生きた結果、屈辱的で挫折的な結末を迎えた出来事でしたが、どん底で本当の自分(魂)が目覚めました。

嘘をついたら、それまで追い求めてものは失わなかったかもしれませんが、目に見えない最も大切なものを掴み損ねていたでしょう。

正直に生きていれば、物的なものを失うかもしれませんが、それに見合う、霊的なものを必ず手に入れると思います。



困難や障害は、どんな人にも必ずやって来ます。

大切なことは、苦しくても、逃げ出さないことです。

逃げ出したら、後で逃げ出した自分を見て、後悔します。

後悔が大きいと、もう1度、同じ様な状況になる、困難や障害のある人生を選んで、この世に生まれなければいけないかもしれません。

苦しみは、成長するため、大切なことを学ぶために予定されていたので、逃げてはいけません。



出来れば、苦しみのないあの世(霊界)に、ずっといたいと思う時があります。

そんな願望がある内は、またこの世に生まれなければいけないのかもしれません。

シルバーバーチも言っていますが、進化した霊(魂)は、苦しみを苦しみとして感じないようです。

そして、一定以上進化すると、霊界だけで成長して行くようになるようです。

もしかすると、進化するほど、苦しみを悦びとして感じられるからなのかもしれません。

苦しみを、成長する悦びとして感じるほど進化した魂は、この世に生まれて来る必要は、もうないのかもしれません。