2015年6月21日日曜日

膠原病の根本原因は自責の念である



現代医学の発展に伴い、以前は手をつくしても救えなかった多くの命が救われるようになりました。

感染症、外傷、その他の急性疾患において、現代医学は計り知れない恩恵を人々にもたらしてきたのは間違いありません。

一方、弛まぬ研究が行われているにもかかわらず、原因が解明されていない病気が数多く存在し、たくさんの患者が今も苦しんでいます。



膠原病の原因究明は、ここ数十年間進んでいません。

ストレス、遺伝、紫外線などが関係して発症すると言われていますが、主因は不明であり、大きな壁に突き当たっているように見えます。

治療薬としてステロイドが登場したことにより、生命予後は以前に比べ格段に良くなりましたが、完治が期待できる病気でないために、患者に大きな精神的、肉体的負担がかかっていると思われます。



現代医学の対象となっているのは、あくまでも肉体(身体)です。

しかし、人の身体は心と密接に結びついているのは、昔から経験的に分かっています。

心身症という概念が定着したように、心に受けた影響が身体に何らかの症状として現れることが認められています。

大きなストレスを感じると、胃痛や頭痛が起こるなど、身体症状となり現れる人も多く、そんな人を最新の機器でいくら検査をしても原因は見つかりません。

精神と肉体は切り離された存在ではなく、明らかに相互に関係しており、それを否定する人は、今はいないと思います。



人を構成しているのは、肉体と精神(心)だけではありません。

科学的に証明することはできませんが、精神より高次に魂が存在しています。

魂とは、本当の自分であり、生命の本質です。

肉体と次元の異なる魂は目に見えないため、普段は意識されることはありません。

魂から生まれる想いにより、精神が動いて、肉体が働いています。

想いは川の流れのようなものであり、精神という水車を回して、肉体という機械が働いています。

魂は想いという力を精神に送り、精神は司令塔となり肉体を動かして具現化していると言えます。

肉体は魂を表現する媒体であるため、魂が存在しない肉体は役目を終えて土に還ります。

唯物的な科学が、生命の本質を解明できない事実は、生命が肉体(物質)を超えたものであることを物語っており、魂の存在を認めない限り、医学は先に進んでいけません。



病気の原因は、肉体、精神、魂(霊)それぞれの次元に存在していると考えられます。

肉体次元に原因がある病気として感染症があり、物質的な(目に見える)原因を除去すれば、完治が期待できます。

精神次元に原因がある病気の1例として胃潰瘍がありますが、心(精神)が受けた侵襲が、全身の器官や組織に症状あるいは病気として生じています。

心が受けた侵襲は、一般的にストレスと呼ばれています。

肉体にストレスが加わった時は、疲労や痛みなどで知覚できますが、心の疲労や痛みは知覚できないために、支配下にある肉体に症状となって現れることがあります。

ストレスが溜まると病気なると言われますが、溜まったストレスが原因となり、心身に症状として現れています。

ストレスが加わらない環境に身を置けば、肉体に現れた症状は改善してくることが多いと思います。



しかし、魂に原因があると思われる病気は、外部の環境を変えてストレスがなくなっても、治るわけではありません。

ストレスにより溜まった「自分の想い」が、外に出せずに溜まっている状態にあります。

霊的次元に原因がある病気とは、表現されなかった想いが内に滞って大きくなり、魂のありさまに変化を生じさせている状態と考えています。



悲しみの想いが生まれると、目から涙が流れるように、魂から生まれた想いは、精神を経由し、肉体で表現されます。

想いは肉体で表現され、それが繰り返され、この世の人生が紡がれて行きます。



ありのままの想いを、周囲に不快な感情を与えずに素直に表現できる人もいます。

しかし、怒りの想いを、ありのまま表現したら、攻撃的で、暴力的なものとなり、人を傷つけ、社会的に責任を問われるかもしれません。

泣くことは責任を問われませんが、日常生活に大きな支障を来たしてしまうかもしれません。

多くの人は相手が不快に感じたり、何かしらの問題が生じるかもしれないと考えて、想いを表現するのを抑えているように思います。

また、想いがとても強かったり、年齢的に幼かったりすると、表現するのが難しくなり、想いは魂にそのまま滞ることになります。

表現できなかった想いが徐々に溜まってくると、魂から生まれる想いにも影響を与えるようになります。

怒りの想いが溜まっている状態では、やさしい想いは生まれません。

悲しみの想いが溜まっている状態では、喜びの想いは生まれません。

溜まっている想いに影響を受けて、同様の想いが魂から生じやすくなっています。



人は他者に愛を表現することで成長していきます。

しかし、怒りや憎しみなど摂理に反した想いからは、自分を成長させる表現は生まれるはずもなく、償いが生じるような表現(言動)をしてしまいます。

この世を生きているのは魂(自分)を成長させるためであり、(摂理に反した)想いが滞っていると、生きている意味を大きく失っていることになります。



人生で起きるさまざまな出来事により、心の奥にある魂から、何かしらの想いが生まれます。

同じ出来事が起きたとしても、生じる想いは十人十色です。

人から仕打ちを受けたとしても、人生にはこんなこともあると、ほとんど想いが生じない人もいます。

怒りを覚え、高じて憎しみや恨みの想いが生まれる人もいます。

中には、相手に怒るのではなく、自分が悪いと思う人もいます。



自分が悪いと思う人は、少なからず自責の念(想い)を抱いていると考えられます。

自責の念を、人はどのように表現をするのでしょうか?

自らの肉体を傷つけるという行為として表現してしまう人もいます。

多くの人は、そのような行為は良くないと考え、表現せずに心に留めると思います。

失敗したり、期待に応えられなかったりすると、自分の力量不足を嘆いて私も落ち込みます。

人に迷惑や損失を与えてしまうような出来事を起こしてしまうと、後悔するとともに、少なからず自責の念が生まれます。

「こんなことをしてしまい、本当に自分はどうしようもない」と、内向きな、否定する想いが自分自身を責め立てます。

しかし、人生で失敗や、迷惑をかけてしまうことは誰にでもあり、後悔や自責の念を1度も持ったことのない人は存在しません。



では、同じ出来事が起きても、自責の念を持つ人と、持たない人の差はどこからくるのでしょうか?



人は誰かに愛されていれば、護られているという安心感を持ちます。

護られているという安心感がなければ、心は不安になります。

そんな人は、外から攻めてくるものに対して、自尊心というバリアを張って、自分を護ろうとします。

一方、十分に愛を受けた人は、護られているという安心感があるために、自分を護ろうとする意識はなく、自尊心を持つ必要がないと思われます。



自分を護ろうとする気持ちが強くなると、同時に自尊心が高くなります。

自尊心が高くなると、自らに課すハードルも高くなり、自分の不完全なところが許せなくなり、完全を求めてしまう傾向が強くなります。

不完全なところを、自分の弱点として捉え、自分を護るために弱点を極力無くそうとします。

同時に、義務感がより強くなると思われます。

完璧にしなければいけないという、義務感が強くなっていると思います。

遊びのない、とても窮屈な精神状態と言えます。



そんな人が、期待していた通りに実行できなかったり、不完全なところを指摘されると、自尊心がひどく傷つけられます。

反省するのではなく、傷つけられた自尊心から、自分を責める想いが生じてしまいます。

自尊心が高いほど、自責の念に苦しむことになります。

結果として、自分を護っているものが、自分を責めているという現象が生じています。



護られているという安心感が少ない人すべてが、自尊心が高くなるのではありません。

自尊心というバリアが高くない人は、人へ気遣いや、思いやりといった気持ちを向けて、攻撃されるのを避けるようにして、自分を護ろうとします。

人のために、何かをしてやりたいと思う気持ちは、神性の表れであり、自分(魂)を成長させる思いです。

しかし、人のために何かをするには、まず自分が充足されていなければ難しくなります。

道の脇で、人が疲れて座り込んでいるので、目的地まで背負ってやろうと思っても、自分が何も食べておらず、お腹をすかしていてはその力は出ません。

1個のおにぎりを食べれば、力が漲り、背負って行けるかもしれません。

その1個のおにぎりが、自分への愛なのですが、護ろうとする想いがあるために、人に食べさせようとしています。

まず自分が満たされなければいけないのに、傷つきたくないので、人を満たそうとしています。

しかし、愛の想いから人を満たそうとしている訳ではないため、常に不安であり、出来ていないと感じると自責の念が生じてしまいます。

自分を護ろうとする想いが強いと、自分を責めることにつながってしまいます。



肉体は魂を表現する媒体であり、魂のありさまの変化は、肉体上の変化として表現されます。

魂から生まれる想いは、消えてなくなる泡のような存在ではなく、肉体で具現化していく力があります。

肉体で表現できなかった想いは、自然法則の働きにより、別の形となって肉体で表現されます。



現代医学で原因不明の病気の多くは、霊的次元に原因があると思われます。

肉体上の病態は、滞った想いと魂の関係を表していると思われます。

怒り、憎しみ、恨みなどの攻撃的な想いは、時に変異したガン細胞として肉体上に表現されるかもしれません。



膠原病も、霊的次元に原因がある病気だと思います。

肉体次元では、異物から身体を護るはずの免疫システムが正常に働かず、自分の身体を抗原と認識してしまい攻撃しています。

それは、自分(魂)を護ろうとする想いが、自責の念を生み出し、自分(魂)を傷つけているという、霊的次元で起こっていることの反映と考えられます。

想いが自分を傷つけているのにもかかわらず自覚されないために、因果律の働きにより、肉体上に病気(病態)となって表現されています。



病気を根本的に癒すためには、自責の念(想い)に気付き、想いを生じさせないような生き方や考え方に変えていく必要があると考えられます。



自分を責める想いは、自分を護ろうとする想いが強いために生まれています。

自分を護ろうとする強い想いは、護られていない不安感から生じ、自分に向けられた愛情が十分でなかったためと思われます。

受けた愛情が不足したために、自分を護るバリアとして自尊心を高くする必要があり、そのために自責の念が生じやすくなっていると思われます。



話が少し大きくなりますが、地球は、多くの生命が生きている美しい星です。

すべての生命は、協調しながら生きています。

人類は地球の生命の頂点に君臨していると錯覚していますが、生物にはそれぞれの役割があり、その価値に上下はありません。

その証拠に、地球上からすべての植物がなくなったとしたら、人類は滅亡するのは明らかです。

人類がいなくなっても、植物は何の変わりもなく生き続けるでしょう。

全てが、お互いのために生きています。

多種多様な生きものが1つの星の中で共に生きているのは、「協調」という神の摂理を学ぶためだと思います。



人間は、誰一人として完全ではありません。

足りない部分、劣っている部分を、それぞれ持っています。

不完全な人たちが集まって、この世界が出来上がっています。

それを認め合い、助けあって生きています。



生きている目的は、魂を成長させるためです。

人を助けることは、自分(魂)を成長させます。

お互いに不完全であるからこそ、助け合う機会が生まれています。

助けられた人は、感謝するとともに、今度は他の人を助けようとします。

助け合うことで、人から人へと、愛が伝わっていきます。

その連鎖が拡がっていき、個々の成長が促され、世界に愛が行き渡ります。



もっと、人に頼っていいと思います。

もっと、支えてもらっていいと思います。

甘え過ぎていると思うくらいが、ちょうどいいのかもしれません。

完全ではないので、人に支えてもらわなければ生きていけないことを、忘れてはいけません。



人を信じること

自分を愛すること

もしかしたら、少し足りなかったのかもしれません。

病気になったのは、その大切さを身を持って学ぶためかもしれません。



そして、自責の念から解放されるために、自分を許すように心がけていましょう。

病気になり、自分を大切にしている人であれば、決して難しくないはずです。












2015年6月7日日曜日

亡くなった愛する人の想いを受け取る



仕事が休みの木曜日に、障害者施設にボランティアに行っています。

ボランティアと言っても、簡単な手伝いをしたり、入所者の話し相手や遊び相手になっているだけです。

さまざまな程度の、知的、身体障害がある人たちが、寝食を共にしています。

その中に、重度の身体障害がある20代の青年がいて、訪ねた時は必ず話をしたり、遊んだりしています。

小学校6年生の時に交通事故に遭い、一命は取り留めたものの、知能の発達は事故当時のまま止まっていると考えられ、人の話を聞くことはできますが、「あー」としか答えられません。

頷いたり、首を横に振ったりして、意思表示はできますが、細かな考えや想いを、他人に伝えるのは無理な状況です。



明るく、素直な性格であり、熱心に話を聞いてくれますが、聞いているだけで、自分の気持ちや考えを話せないもどかしさは、想像を超えていると思われます。

気分が悪くなっても「気持ち悪いと」言えず、喉が渇いても「何か飲みたい」と言えません。

そんな彼が、楽しみにしているのは、自宅に戻り家族と一緒に過ごす時間です。

週末になると迎えに来てくれる、お父さんのことが大好きです。

「お父さんに、ありがとうって言いたいでしょ?」と聞いたところ、涙を流しながら頷いていました。

「ずっと先になると思うけど、死んだらこの身体はなくなって心(魂)だけになるから、そうすればいくらでも伝えられるよ」と、言いました。

しかし、言葉がしゃべれない不自由な身体と付き合わなければならない時間が、あと50年以上あるとしたら、あまりに長過ぎます。



そこで、自分の思っていることが、こちらに伝えることができないか、試してみようと言いました。

遊び感覚でやってみようと思いました。



まず、1から10までの好きな数字の1つを選んで、こちらに届くように思ってみてと言いました。

最初に思い浮かんだのは「5」でした。

彼に「5?」と、聞いてみると、首を横に振りました。

次に浮かんだのは、「7」であり、また違っていました。

そして、次は「3」が浮かび尋ねたところ、手を挙げて大きな声で「あー」と言ったので、今度は正解でした。



今度は動物でやってみました。

最初に浮かんだのは「犬」であり、違っていました。

次は「象」で、違っていました。

その次は「猫」で、正解でした。



さらに食べ物でやってみました。

最初は「おにぎり」で、違っていました。

次は「カツ丼」で違っていました。

どうも、ごはんから離れられずにいるみたいなので、「ごはん類?」と聞いたところ、首を横に振ったので、「甘いもの?」と聞いたら、そうだと肯きました。

最初に思い浮かんだのは、直径10センチくらいの円形であり、「ドーナツ」だと思って言ったところ、正解でした。



最後に色でやってみました。

すぐに「赤」のイメージが湧き、正解でした。



しばらくすると、何故か東京ディズニーランドの中にある、イッツアスモールワールドというアトラアクションの中で流れている音楽が、頭の中に突然響きました。

言葉でそのことを尋ねたところ、事故に遭う1年前に家族で行って、とても楽しかったそうであり、「あー」という大きな声と表情で、その時の喜びを表現していました。

今考えると、彼が勝手に試していたような気がします。



確率的には、どうなのでしょうか?答えを言っているうちに、当たるのは当然です。

思い浮かんだものなのか、それとも考えて予想したものなのか、はっきりと区別するのは困難です。

思い浮かんだものは、潜在意識に多少は影響されていると思います。



今回の試みから判ったのは、想いを推測しようとする気持ちが少しでもあると、失敗するようです。

想いを知りたいと欲すると、頭が働いてだめなようです。

頭(思考)の活動が停止し、無欲、無心になっている時が、うまく行くようです。



不思議そうな彼の表情を見ると、予想よりも一致していたのかもしれません。

騒がしい部屋の中で行ったにしては、まずまずの結果であり、慣れてくれば、もっと良い結果が出るのではないかと感じました。

お父さんに感謝の想いを伝えられる日が来るかもしれません。



私の家には、5匹の犬がいます。

犬たちと生活していて、気付いたり、教えてもらうことがたくさんあります。

人間には、言葉という、自分の考えや想いを伝えるのに便利なツールがあります。

複雑な考えや、想いを言葉にして伝えることが可能です。

動物たちには言葉がないので、啼き声や表情、身体を動かして、想いを相手に伝えます。

注意深く見ていると、アイコンタクトをして想いを相手に伝えているのではないかと思う時があります。

人には判らないだけで、動物同士は肉体を介さずに想いを伝え合っていて、仲間意識を高めたり、無用な争いを避けているのではないかと考えています。



人は言葉にあまりにも頼りすぎてしまったため、言葉を介さずに、想いを伝えたり受け取ったりする能力が、極端に低下してしまったと思われます。

もともとあった能力を、言葉と引き換えに手放したと言ってもいいかもしれません。

しかし、(言葉を介さずに想いを分かり合う)能力が低下していても、なくなってしまった訳ではありません。

知ろうとする気持ちがあれば、想いを受け取ることができると思っています。

お母さんは、泣いている赤ちゃんの想いを知ろうとして、無意識に受け取っているのかもしれません。

私が行っている施設でも、日常的に行われているように見えます。

想いを分ってもらいたい入所者と、想いを汲み取ろうとする職員との間では、意識せずに目と目で伝え合っていると思います。

外からは、今までの経験や、蓄えてきた知識から、想いを推察しているように見えますが、以心伝心という言葉があるように、心と心がリンクして伝えていると思っています。



どうして言葉を介さずに、想いが伝えられるのでしょうか?



人は、肉体と精神、そして生命の本質である魂から構成されています。

人は、物質である肉体に、次元を異にする魂が宿る存在です。

どちらが本当の自分かと言えば、もちろん魂です。



想いは、大脳から生まれるのではなく、魂から生まれています。

想いと混同してしまうものに思考(考え)がありますが、思考は大脳の働きによるものです。

物事を成功させたり、円滑に運ぶためには、状況を把握し、経験や知識を頼りに、頭(大脳)で考えなければいけません。

日常生活での、事務的な作業や、機械的な動作、感情を伴わない会話なども、大脳の働きによるものと思われます。

現代社会は、頭で考える時間が圧倒的に多くなり、自分の想いは押さえ込まれていると感じます。

そんな生活を続けているうちに、想いを生み出している魂の存在感は、希薄になっていくような気がします。

思考をすべて停止し、心を澄ませば、自分の想いに気付くと思いますが、雑音、雑念に囲まれた環境に慣れ、せわしない生活をしていると、想いは埋もれてしまいます。



魂と、そこから生まれる想いは、物質と次元が違うので、肉眼では見えません。

この世において、次元が違う想いを伝えるためには、肉体を使って言葉や表情、行動に置き換えて、表現しなければいけません。

肉体は、他者に想いを伝えるためにある、この世の道具と言えます。

頬をつたう涙は、悲しみの想いが表現されたものであり、それを見て涙する人の想いを知ります。

犬が尻尾を振るのも、想いの表現であり、喜んでいるのが判ります。

想いは、肉体(五感)で認識される形となって表現されて、他者に伝わっています。

しかし、肉体を介しているので、正確に伝わっているとは限りません。

また、想いが大きい、あるいは深いほど、表現するのが難しくなり、うまく伝えられません。

この世では、想いの半分、いや1割も、伝えられていないのかもしれません。



当たり前のように使っている言葉は、この世界の記号のようなものであり、肉体から出て、肉体に伝わります。

想いは、次の世界のものであり、魂から出て、魂に伝わります。

話す言葉も、2つの次元で伝えていると思います。

気持ちを込めて「ありがとう」と言えば、口から発せられた「単語」が耳に届き伝達されると共に、感謝の「想い」が魂から魂に伝わっています。

機械音声で「ありがとう」と言われても、想いは伝わりません。

文字だけでは想いは伝わらないので、「ありがとう(^▽^)」とか「ありがとう♥」と、想いを記号にして伝えようとしている人も、多く見かけられます。



死んだ後の世界は、肉体がなくなるため、魂から魂に直接想いを伝えています。

肉体から完全に離れた魂は、波長の1つ高い世界に移行し、そこで新たな生活を始めます。

想いの半分も伝えられないこの世界と、想いがありのまま伝わる次の世界では、どちらが真実に近い世界と言えるのでしょうか。



想いは、魂から魂に直接伝わるので、肉体のあるなしに関係はなく、この世とあの世の間でも伝えられると言うことになります。

関係するのは、伝えようとする想いがあるかないかです。



この世では、愛があれば一緒にいたいと思います。

向こうに行っても、愛があれば一緒にいたいと思うのは当然です。

目に見えなくなると、いなくなってしまったと錯覚しますが、愛する人の魂はすぐ傍にいます。

そして、こちらの想いは手に取るように判っています。

向こうの世界から、こちら想いは筒抜けであり、隠すことはできません。

この世では、物は目に見えるため実在し、想いは見えないために実在していないように思えます。

理解しにくいかもしれませんが、向こうの世界は真逆であり、物質は影のように実在感はなく、想いはしっかりとした実在です。

従って、向こうにいる人は、この世の誰よりも想いが判っていると思います。

想いがはっきりと判るので、この世にいた時よりも、傍にいてやりたいと思っているのではないでしょうか。

自分のことで悲しむ姿を向こうから見ていて、うれしくもありますが、悲しくもあると思います。

ちょっと悔しいかもしれませんが、向こうでの生活は、想像しているよりも快適で、喜びや楽しさに満ちています。

新しい世界での喜びと、遺してきた人の悲しみの間に大きなギャップがあり、少し戸惑っているのかもしれません。

そのギャップを埋めようとして、きっと何とかしようと思っています。



肩に見えない手をかけて、「傍にいつもいるから安心して」と、耳元で何度もささやいているかもしれません。

「何処かへ行ってしまう人間だと思っているの?」と、逆に尋ねているのかもしれません。

「そんな冷たい人間じゃないと、わかっているはずでしょ!」と、少し怒っているかもしれません。

「あなたの悲しみに負けないほど、今も変わらずに愛している!」と、誰かに伝えてもらいたいのかもしれません。



愛は、魂と魂を結びつける力です。

愛する想いは瞬時に伝わり、どこにいようとも駆けつけます。

力は感じなくても、愛する人の魂に抱きしめられています。



残念ながら、悲しみは魂と魂を結びつける力とはなりません。

その想いに同情はするでしょうが、置かれている状況が違うので、想いを共有できないと思われます。

そればかりか、悲しみのオーラが全身を取り囲み、寄り添おうとする魂にとって、バリアとなって遮っています。

離れたところで、悲しみのオーラが取り払われるまで、そっと見守ることしかできません。



傍にいてもらいたいと望むのであれば、とても難しいことですが、悲しみの想いを、愛する想いに変えていかなければならないと言うことになります。

それは、愛する人を傍で見守り、想いを伝えて導きたい、向こうの人の切なる願いかもしれません。

導くことが、向こうからの愛の表現です。

想いを伝えるしか、導く手段はありません。

「気のせいなんかじゃない!私の想いに気付いて!」と、必死に訴えているのかもしれません。

「想いに気付いて!それを信じて!」と、魂の声で叫んでいるかもしれません。



この世から、想いは向こうに伝わっています。

そして、向こうから想いは返ってきています。

その想いを、肉体という障壁があっても、受け取れるはずです。



こちらの想いと向こうの想いが1つになって同調すれば、両者の間にリンクができ、想いは伝わってくると思います。

思考が停止し、感情のさざなみが消え、鏡のような鎮まり返った水面になれば、たった1滴のしずくのような想いが落ちてきても、魂に波紋は拡がり認識できる考えられます。



悲しみが途切れた時に、心を鎮め、必ず愛する想いで同調し、しっかりと受けとめて下さい。

それは、ふっと湧くイメージだったり、あるいは言葉だったり、魂に伝わる想いのバイブレーションであるかもしれません。

その時に、自分が期待する答えを、思い描いてはいけません。

想いを知ろうとし過ぎて、いつまでも愛する人を束縛してもいけません。





想いにも、因果律という神の摂理が働いています。

自分から出た想いは、自分に返ってきます。

愛する想いには、愛する想いが返ってきます。

向こうから届く愛する想いは、この世を生きていく力になると思います。



     
HUG! friends (小学館)
シロクマの物語で、とても感動しました。5分で読めます。  




参考ホームページ: 「ともしび」・・・大韓航空機事故で奥様と長男を亡くされた武本昌三さんが、膨大な霊的な資料を簡潔に分かり易く、まとめられています。壮絶な悲しみと苦しみの末に、死後の生の確証を得て、光明を見出されていく過程が、詳細に書かれていますので、是非、ご覧になって下さい。私が、とても尊敬している方です。