人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年8月15日金曜日
苦しみから解放されるために許す
人は、肉体で愛を表現するために、この世を生きています。
人にやさしくする、親切にする、社会奉仕をするのは、直接的な愛の表現であるのに対し、人を許すことは、自己犠牲を伴い、間接的な愛の表現と言っていいのかもしれません。
しかし、人を許すのは、口で言うほど生易しいものではありません。
生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。
うれしいことばかりであればいいのですが、この世は苦しいこと、つらいこと、悲しいことにも出会います。
その中には、他の人の行いが原因となり、苦難を経験しなければいけないことがあります。
自分が蒔いた種で、苦しみを味わうのであれば、納得できますが、他人のせいで自分が苦しむのは、とても納得できるものではありません。
怒り、恨み、憎しみの想いが、湧き上がってしまうのを、どうしても、抑えきれないことがあります。
数年前に、想像を絶する苦難を味わっている人との出会いがありました。
その人は、相手の暴挙とも言える過ちにより、とても大切なものを失いました。
恨むなというのが無理なほどの、酷い仕打ちでした。
詳しくは書けませんが、人が経験する苦難としては、おそらく最も過酷ではないかと思います。
相手は反省するどころか、その人に非があったと開き直っています。
その人は、当然のことながら、相手を激しく憎み、そして恨んでいたと思います。
相手をいくら憎んでも、大切なものは帰ってこないと分かっていても、そこにしか、やりきれない思いの持って行き場はありません。
深い悲しみ、身悶えるような苦しみ、絶望の日々の末に、喜びの真実に辿り着くことができました。
そして、相手を許しました。
相手を憎むのと同時に、容赦なく自分を攻め続けていました。
喜びの真実により、自分を攻めることから解放されました。
私はその人から、自分が許されなければ、相手を許すことはできないことを学びました。
自分が苦しい思いをしているのに、相手を許す気持ちには、とてもなれません。
ただ、勘違いしてはいけないことがあります。
それは、自分を苦しめているのは、相手の過ちそのものではなく、それによって生じた怒り、憎しみ、恨みの想いだということです。
その想いが、神の摂理に反しているために、因果律により、苦しみが生じています。
それを知らずに、こんなに自分が苦しい思いをしているのは、相手の(過ちの)せいだと思ってしまうと、憎しみ、恨みの想いが増していきます。
憎しみや恨みが増していけば、因果律により、苦しみが増していきます。
その悪循環を断ち切らなければいけません。
相手を憎むことにより、気持ちが晴れて、苦しみから逃れられることは、決してありません。
苦しみから解放されたいのであれば、憎しみ、恨みの想いから、自分を解放してやらなければいけません。
憎しみ、恨みの想いを解放するには、とてもつらいことですが、相手を許さなければいけません。
相手を許すには、まず傷ついた自分を癒やさなければいけません。
肉体の傷が自然治癒力という神の力で癒やされてくるように、心の傷も神の力により癒されてきます。
時とともに、傷は少しずつ癒されてきますが、傷が深いければ深いほど、長い時間を要します。
失ったものが、元に戻らないのであれば、傷はなくならないかもしれません。
ただし、影響を与えているのは、傷そのものではなく、傷から生じる想いです。
傷は消せませんが、傷から生じる想いを消そうとすることはできます。
傷から生じる想いを消していくためには、自分への愛が必要となります。
ありのままの自分を認めて、大切にしなければいけません。
足りない自分、違っている自分、変わっている自分は、劣っているのではありません。
すべてが足りている人は、この世に存在しません。
人と違っているのは当たり前であり、それをお互いに認め合うことは、この世を生きる1つの意味であると思います。
正直に、素直に生きることは、ありにままの自分を認めることにつながります。
投げやりにならずに、今を真剣に生きることは、自分を大切にするとにつながります。
つらくても正直に、素直に、真剣に生きていれば、神の力で傷は癒されて、想いは生じにくくなっていくと考えられます。
正直に、素直に、真剣に生きようとする努力は、魂を向上させると思われるからです。
そして、いつの日か相手を許せる時が来ると思います。
相手を許せた瞬間に、憎しみ、恨みの想いから解放されて、長かった苦しみからも解放されると思います。
正直な自分とは、どんな自分だろうと考えてしまいます。
憎しみや、恨みに染まった自分ではないはずです。
正直な自分とは、魂です。
魂は神の一部であり、繋がりが切れることはありません。
生命は、魂に流れ込む神の力により生かされています。
神の力とは、愛を表現する力そのものです。
許すことも、愛の表現であれば、正直な自分は、許そうとしているはずです。
生きていると、許すか、許さないかの判断に迫られることの連続です。
許すか、許さないかは、自分の自由です。
「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」とイエス・キリストは言いましたが、許すことの大切さ、愛の大切さを表現しています。
許せずに、怒りや、憎しみや、恨みの想いに、いつまでも捕らわれているのは、賢明ではありません。
神の摂理により、自らが苦しむだけだからです
この世は、肉体で愛を表現するためにあります。
怒り、憎しみ、恨みの想いを抱き続ければ、愛の表現は妨げられたままです。
この世を生きている意味を、大きく失ってしまいます。
許すには、相等の苦しみや痛みを伴いますが、その行為は摂理に適っているため、やがてなくなるでしょう。
魂の向上が図らた上に、苦しみからも解放されるのであれば、その意味はとても大きいと思います。
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1 件のコメント:
求めていた答えがわかったように思います。自分を傷つけた人が許せなかったのは、傷ついた自分が許せなかったからなんだと納得しました。傷ついた自分を認める、愛する、大事にする。それから相手を許せるようになりたいと思います。ありがとうございました。
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