2014年8月27日水曜日

自分を大切にする


自分のからだを傷つけ、苦しんでいる人は、どうぞ最後まで見てください。



本当の自分とは、魂です。

目に見える肉体(からだ)は、魂を表現している媒体に過ぎません。

本当の自分は目に見えず、媒体である肉体は目に見えます。

従って、からだの変化には気付きやすいのですが、魂のありさまの変化には、なかなか気付きません。

魂のありさまの変化は、肉体上の変化として表れる時があります。

その逆に、肉体に影響を与えるのものは、心そして魂に影響を及ぼしています。

誰かに暴力を振るわれて、からだに傷を負ってしまったならば、少なからず心にも傷を負ってしまいます。

傷つけた人が、たとえ自分自身であっても、心に傷を負っています。



自分のからだを、自分で傷つける、自傷行為をしている人は、直ちにやめましょう。

生きていたいのだけど、うまく生きれない、罪の意識に苛まれて、とても苦しい状態に置かれているかもしれませんが、傷つけても、苦しみから逃れることは、決してできません。

それどころか、その行為は危険なばかりではなく、霊的に大きな罪を犯していることになります。

自らを傷つけるのは、人を傷つけるのと、罪の大きさに変わりありません。

その罪の償いのために、さらに大きな苦しみを経験しなければいけません。

苦しみから逃れたいために、自らを傷つければ、さらに苦しむことになるだけです。



自分のからだは、自分のものであり、どうしようとも、かまわないと思うのは、無知であり、傲慢です。

もし、自分にしている行為を、他の人にしたらどうなるでしょうか?

傷害罪で逮捕され、繰り返せば、刑務所行きになるでしょう。

自分のからだを、どんなに傷つけても、法律上、罪に問われることはありません。



しかし、世の中を支配しているのは、人間が作った法律だけではありません。

すべての人間は、逃れることができない、目に見えない法則に支配されています。

その法則では、自分のからだを傷つけるのは、他人のからだを傷つけるのと、同等の罪になると思われます。

もし、他人を傷つけてしまったら、後悔して、罪の意識に苛まれます。

自分を傷つける行為も、全く同じです。



からだは、この世で果たすべきことを果たすために与えられた、魂の大切な乗り物です。

与えられたと言うより、この世にいる時だけ、借りているものです。

その大切な肉体を傷つける行為は、見えない法則に反していて、自らの心の苦により、その罪を償わなければなりません。



少しでも楽になりたいと思ってする、その行為は、楽になるどころか、さらに心を苦しめる結果につながっています。

周囲の人に、迷惑や心配をかけていれば、さらに償いは大きくなります。



うまく生きれないこと自体は、罪ではありません。

うまく生きれないから苦しいのではなく、後悔し、自らを責めてしまっているから苦しいのだと思います。

世の中は、うまく生きている人と、生きれない人がいるように思えますが、そうではないのかもしれません。

後悔の念をあまり持たず、今を生きている人は、うまく生きているように見え、後悔の念が強いために過去に縛られ前に進めない人は、うまく生きれないと感じてしまうのだと思います。



そもそも、罪悪感を持つ必要はないと思います。

蒔いた種は、自らが刈り取らなければいけません。

すべてに因果律が働いて、罪悪感を持とうと、持つまいと、結果責任は、自分で引き受けることになるからです。

傷つける時の痛みや、傷から流れ出る血により、現状(結果)を寸毫(すんごう)足りとも、変えることは出来ません。




今までの生き方、言動に対して、悔やんでばかりいると罪悪感が生じて、因果律により苦しみを味わいます。

苦しみに耐え切れなくなって、罪悪感から逃れようとして、さらに自らを傷つけてしまっています。

傷つける行為により、罪悪感が増して、大きな苦しみが生まれ、さらに深く自らを傷つけようとします。



いっそのこと、手首をもっと深く切れば、苦しみから解放され、楽になるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。

もし、そんなことをすれば、今、味わっているのとは比べ物にならないほどの、とてつもない後悔と罪悪感が待っています。

想像を絶する苦しみの世界に、長い間、閉じ込められます。

この世で、つらいことがあっても、乗り越えるという、魂の約束があったのを、自らが破ってしまったからです。

その約束をすっかり忘れてしまい、破ってしまった時の後悔は、今の比ではありません。

いくら後悔しても、今度は取り返しがつかないからです。

からだがなくなっても、生命は魂であるために、生き続けます。

後悔、苦しみの思いから逃れたくて、命を終わりにしたはずなのに、意識は前のままであり、後悔、苦しみの思いから逃れれらないことを知ります。

しまったと思っても、戻るからだは、もうありません。

からだは、魂の入れ物であり、自分のものではなかったことに気付いても、手遅れです。

自分のものは魂だけであり、表現する肉体を、自ら手放してしまったのです。



人生で何か起きた時、望まない出来事が起きた時にどうするか、道は2つです。

後悔して留まるか、それとも、そこから何かを学んで進むか。

何かを学んで進むのが、見えない法則に則った、正しい道です。

後悔して留まってしまうと、法則に反しているため、結局は苦しみが待っています。

つらくても、前に向かって進んでいかなければいけません。

ほんの少しでもいいから、前に進むことが大切です。

少しでも前に進めば、きっと心が楽になるでしょう。

薬では、心は楽にはなりません。

前に進んでいるわけではないからです。



この世は、楽しむためだけにあるのではありません。

自分に足りなかった何かを学ぶために、この世を生きているのであり、それは楽しい出来事よりもつらい出来事から多くを学ぶことができます。

多くのことを学び、向上していくのが人生ならば、つらい出来事はつきものということになります。

失敗や挫折に出会うのは、この世では避けられません。



悔やんでも、悔やみきれないことは、誰にでもあると思います。

私も仕事上で過ちを犯して、大きな後悔の念に苛まれました。

あの時こうすればよかった、何でしなかったのか、どうして全力を尽くさなかったのか、数えたら切りがありません。

勇気が足りなかったり、自分をごまかしてしまったりすると、後悔することに繋がると感じています。

けれども、そこから何かを学ぶことができたのなら、意味があったことになり、立ち直るきっかけになると、私は思っています。



生きる目的は、人や社会に奉仕して、自分(魂)を向上させるためにあり、悔いの想いに縛られていては、とてもできません。

悔やんでばかりいると、生きている意味がなくなってしまいます。

この世で与えられた時間は限られていて、大きな損失をしています。

今の苦しみは、そんな大切なことに気付いて、想いを手放すためにあります。



繰り返します。

からだを傷つける行為により、得られるのは、苦しみだけです。

今すぐ、やめて下さい。

責任を取ることが、さらに多くなってしまいます。



生命は魂です。

死んで終わりではありません。

この世に生まれてきたのは、前世で悔やむことがあり、借りを返すためかもしれません。

自分を傷つけるのは、自分の魂を裏切る行為です。

また、借りを作ってしまいます。



本当の自分である魂は、からだを傷つけるのを止めようとしています。

勇気を出して、正直に生きろと、叫んでいると思います。

その声に、逆らってはいけません。



過去は変えられません。

しかし、未来を変えていくことはできます。

そのためには、たとえ少しでも、前に進んで下さい。

一歩進めないのであれば半歩、半歩進めないのであれば、足を地面から離すだけでも、大きな前進です。

それが苦しみから解放される、唯一の道だと思います。







2014年8月24日日曜日

身近な人の死に接して



私のごく身近にいる人が、回復が難しい病になっていることが判りました。

高齢ではありますが、まだまだ元気と思っていただけに、身内の者にとっては大きなショックでした。

しばらくして、抵抗力が弱くなったためか、呼吸器系の疾患を併発したため容態は急激に悪化し、危篤状態になりましたが、毎日遠隔治療を行った効果なのか、危険な状態を脱し意識を回復することが出来ました。

近親者は覚悟をしていただけに、うれしかったのですが、本人にとっては肉体の苦痛を堪えなければいけないので、試練の時が続くことになります。

ただ、家族との別れの時間が十分に持てたことは喜ばしく、今まで言葉にすることがなかった自分の想いをはっきりと伝えることが出来ました。

言葉はありませんでしたが、こちらを見つめる眼差しから、相手の想いも感じ取ることが出来たと思います。

もし、ヒーリングにより、この大切な時間が与えられたなら、やはりこの力は愛なのだと感じました。

寿命という摂理には従わなければいけませんが、お互いの理解が深まり、愛を確かめさせてもらったからです。

お別れ際に最も愛する人が向こうで待っているのはわかっていましたので、「何も心配しなくてもいい」、自分がこの世を去った時に、迎えにきていただけるのではないかと思いましたので、「また会いましょう」と伝えました。

しばらくして肉体を離れる時がやってきました。

さみしくはありますが、悲しくはありません。

棺の中に花を添える時に顔を見ていたら、在りし日の優しさが想い出され、涙がやはり出てしまいました。

感激の再会の後に、お二人でこちらの様子を見に来られるかもしれません。

いつ来ても恥ずかしくない様に、生きていきたいと思います。




大切な人を亡くした若い人へのメッセージが書かれていましたので、よろしかったら読んで下さい。
こころのフォト ~忘れない~  

「心に響いた詩」






2014年8月22日金曜日

過去を忘れ、魂の命ずるままに生きる



ガンの根本原因は、残念ながら未だ不明とされています。

数十年を経ても、その状況はあまり変わっていません。

生命とは何か?

この大きな命題についても、長い年月をかけて究明しているにもかかわらず、答えを見出せていません。

ガンの原因が分からないのも、生命の本質について分からないのも、同じ理由だと考えています。

答えは肉体の中にはなく、魂にあるからです。


生命は魂です。

この事実を否定すれば、先には進めません。

地上の物質は、物理的法則により支配されています。

生命である魂も、霊的法則により支配されています。

これから、魂(霊)について多くの知識がもたらされる、時代になると思われます。

医学も例外ではなく、ガンについても、霊的次元での解明が進んでくるとともに、全く新しい治療法が確立されてくることでしょう。


魂を表現する媒体として肉体があります。

魂は肉体の上位にあり、肉体は魂に従っています。

怒ると顔が赤くなり、悲しいと涙が流れるのは、魂の変化が、肉体の変化として表されているからです。

魂の変化が、肉体上に病気として表れることがあります。

魂のありさまの変化は目に見えないので気付きませんが、肉体上に目に見えるガンとして反映されれば気付きます。

肉体に表れた病巣は、結果を見ているのであって、根本原因は魂にあると思われます。

従って、目に見えるガンをいくら研究しても、根本的な治療法は見つけられないことになります。


魂からは、絶えずさまざまな想いが生まれます。

魂から生まれた想いは、精神を経由し、言葉や表情、行動など、肉体で表現されています。

言葉や表情、行動で表さず、想っただけでも、神の法則(摂理)は働きます。

生きていると、うれしいことばかりではなく、納得できないこと、理不尽なことにも遭遇し、さまざまな想いが生まれてしまいます。

自分に非がなくても、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが生まれれば、因果律が働き、相応の結果をもたらします。

時に、怒り、憎しみ、恨みの想いは、外に向かって表現されます。

はげしく相手を責め立てたり、暴力をふるったり、いやがらせをしたりして、表現されることがあります。

その行いは、摂理に反しているために、償いが生じます。

相手から、さらに責められて、つらい思いをしたり、周りから非難され、孤立するかもしれません。

もし、人を傷つけたり、不幸にさせたりすると、同等のつらい想いをして、負債(カルマ)を返さなければいけません。

この世で償うことがなかったとしても、時効はなく、その先で必ず償わなければいけません。

心の奥底にある魂は、そのことが分かっているために、多くの人は怒りを表現せずに、我慢をするのだと思います。

言いたくても言えない、泣きたくても泣けない、怒りをぶつけたくてもぶつけられないと、その想いはうっ積していきます。

人は、うっ積した想いを、別の形で解放しようとします。

おしゃべりをしたり、運動をしたり、趣味に没頭したり、あるいは大きな声で唄を歌ったり、食べたり、飲んだりして、内にある想いを、肉体で表現し、解放しています。

ストレス解消に当たります。

しかし、想いがとても強かったり、うまく解放できなかったりすると、想いはうっ積したままとなります。

怒りの想いがうっ積している状態で、人にやさしくしたり、許したりすることは、難しいと思われます。

怒らなくてもいいのに、怒ってしまったり、言わなくてもいいことを、つい言ってしまうことがあります。

些細なことが許せなくなり、人を責めてしまったりします。

その対象は周りだけでなく、自分にも向けられます。

自分に不満を覚えたり、許せなくなります。

自分でも、どうしてなのか分からずに、感情的になってしまうのは、怒り、憎しみ、恨みなどの想いが、うっ積しているためだと考えられます。

うっ積した想いのために、本来の自分とはかけ離れた、表現(言動)をしてしまいます。

人は、愛を肉体で表現するために、この世を生きています。

怒りなどの想いが溜まっていると、この世を生きている目的を十分に果たせなくなってしまいます。


通常は、怒りなどの想いが湧き上がったとしても、時とともに消えてしまうことが多いと思われます。

しかし、怒りがとても強ければ、消えずに想いが留まってしまうことがあります。

長い間、想いが留まり続けてしまうと、その状態が当たり前となってしまいます。

本来の自分と違うのに、気付かなくなります。

周りから、人が変わってしまったと、言われてしまうかもしれません。

無用な過ちを犯して、魂に負債(カルマ)を抱えてしまっては大変です。

この状態は、魂の向上にとって、想像する以上に、深刻な問題だと考えられます。

いくら人から言われたとしても、変わってしまった自分を本来の姿に戻すのは無理でしょう。

自分を変えていくのは、自分しかありません。

強制的に変えていく、1つの手段として病気があります。

想いの根が深ければ深いほど、大きければ大きいほど、手放すのは容易ではありません。

その想いを手放すために、深刻な病気が因果律により生じると思われます。

根が深い想いを生じさせた、忘れられない出来事であっても、ガンになればこだわっていられなくなります。

想いを生じさせるような生き方や考え方が、どんなに正しいと思っていても、ガンになれば、見つめ直します。

そんな過去の出来事よりも、生命の方が大切です。

生き方や考え方へのこだわりよりも、生命が先です。

今まさに海で溺れかかっている人が、過去のことを思いだすでしょうか。

溺れて苦しい時に、生き方や考え方にこだわるでしょうか。

そんなことはどうでも良く、現状から抜け出したいだけです。

パニックになり、苦しいと、何かにすがりたくなります。

しかし、すがったものが適切でないと、また沈んでしまいます。

恐怖や不安を鎮め、冷静になり、からだの緊張を解けば、からだは自然に浮いてくるのかもしれません。

人間のからだは、浮くようにできているからです。


過去の出来事から生じた、想いを手放せば、本来の自分に戻れると思います。

想いを手放し、本来の自分に戻るためには、最も大切なものに気付かなければいけません。

愛だけが、出来事を許し、想いを手放すことができます。

ガンは想いの出口であり、本来の姿に戻るためにあると思います。


摂理に反した想いにより、因果律が働き、病気が発病します。

病気の苦痛は耐え難いものですが、摂理に反した償いであると同時に、魂を向上させて、愛の大切さに気付き、許すためにあります。

出来事が許されれば、本来の姿に戻り、愛を素直に表現できるようになります。

生きる目的は、愛を表現して、魂を向上させるためにあります。

よって、肉体を死に至らせる病ではなく、魂を目覚めさせ、この世で生きる目的を果たすために生じた病だと言えます。

すべての想いをことごとく吹き飛ばし、洗い流し、より良い生き方、考え方に変えていく、台風なのかもしれません。

それなのに、怖れて、敵対し、からだから消すことだけを考えてしまいます。

無秩序に増殖を繰り返す、得体の知れないものと考えてしまうと、怖がってしまうのも無理のないことです。

恐怖を克服するためには、正しい知識が必要だと思われます。


神の摂理は完璧であり、すべてに意味があり、間違いなく答えが用意されていると思います。

病から解放された人は、その意味を知り、答えを見出した人だと考えられます。


過去を忘れ、魂の命ずるままに生きる。

とても難しいことですが、そんな生き方をするために、この病気はあるのかもしれません。





2014年8月15日金曜日

苦しみから解放されるために許す



人は、肉体で愛を表現するために、この世を生きています。

人にやさしくする、親切にする、社会奉仕をするのは、直接的な愛の表現であるのに対し、人を許すことは、自己犠牲を伴い、間接的な愛の表現と言っていいのかもしれません。

しかし、人を許すのは、口で言うほど生易しいものではありません。

生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

うれしいことばかりであればいいのですが、この世は苦しいこと、つらいこと、悲しいことにも出会います。

その中には、他の人の行いが原因となり、苦難を経験しなければいけないことがあります。

自分が蒔いた種で、苦しみを味わうのであれば、納得できますが、他人のせいで自分が苦しむのは、とても納得できるものではありません。

怒り、恨み、憎しみの想いが、湧き上がってしまうのを、どうしても、抑えきれないことがあります。


数年前に、想像を絶する苦難を味わっている人との出会いがありました。

その人は、相手の暴挙とも言える過ちにより、とても大切なものを失いました。

恨むなというのが無理なほどの、酷い仕打ちでした。

詳しくは書けませんが、人が経験する苦難としては、おそらく最も過酷ではないかと思います。

相手は反省するどころか、その人に非があったと開き直っています。

その人は、当然のことながら、相手を激しく憎み、そして恨んでいたと思います。

相手をいくら憎んでも、大切なものは帰ってこないと分かっていても、そこにしか、やりきれない思いの持って行き場はありません。

深い悲しみ、身悶えるような苦しみ、絶望の日々の末に、喜びの真実に辿り着くことができました。

そして、相手を許しました。

相手を憎むのと同時に、容赦なく自分を攻め続けていました。

喜びの真実により、自分を攻めることから解放されました。

私はその人から、自分が許されなければ、相手を許すことはできないことを学びました。


自分が苦しい思いをしているのに、相手を許す気持ちには、とてもなれません。

ただ、勘違いしてはいけないことがあります。

それは、自分を苦しめているのは、相手の過ちそのものではなく、それによって生じた怒り、憎しみ、恨みの想いだということです。

その想いが、神の摂理に反しているために、因果律により、苦しみが生じています。

それを知らずに、こんなに自分が苦しい思いをしているのは、相手の(過ちの)せいだと思ってしまうと、憎しみ、恨みの想いが増していきます。

憎しみや恨みが増していけば、因果律により、苦しみが増していきます。

その悪循環を断ち切らなければいけません。

相手を憎むことにより、気持ちが晴れて、苦しみから逃れられることは、決してありません。

苦しみから解放されたいのであれば、憎しみ、恨みの想いから、自分を解放してやらなければいけません。

憎しみ、恨みの想いを解放するには、とてもつらいことですが、相手を許さなければいけません。

相手を許すには、まず傷ついた自分を癒やさなければいけません。

肉体の傷が自然治癒力という神の力で癒やされてくるように、心の傷も神の力により癒されてきます。

時とともに、傷は少しずつ癒されてきますが、傷が深いければ深いほど、長い時間を要します。

失ったものが、元に戻らないのであれば、傷はなくならないかもしれません。

ただし、影響を与えているのは、傷そのものではなく、傷から生じる想いです。

傷は消せませんが、傷から生じる想いを消そうとすることはできます。

傷から生じる想いを消していくためには、自分への愛が必要となります。

ありのままの自分を認めて、大切にしなければいけません。

足りない自分、違っている自分、変わっている自分は、劣っているのではありません。

すべてが足りている人は、この世に存在しません。

人と違っているのは当たり前であり、それをお互いに認め合うことは、この世を生きる1つの意味であると思います。

正直に、素直に生きることは、ありにままの自分を認めることにつながります。

投げやりにならずに、今を真剣に生きることは、自分を大切にするとにつながります。

つらくても正直に、素直に、真剣に生きていれば、神の力で傷は癒されて、想いは生じにくくなっていくと考えられます。

正直に、素直に、真剣に生きようとする努力は、魂を向上させると思われるからです。

そして、いつの日か相手を許せる時が来ると思います。

相手を許せた瞬間に、憎しみ、恨みの想いから解放されて、長かった苦しみからも解放されると思います。


正直な自分とは、どんな自分だろうと考えてしまいます。

憎しみや、恨みに染まった自分ではないはずです。

正直な自分とは、魂です。

魂は神の一部であり、繋がりが切れることはありません。

生命は、魂に流れ込む神の力により生かされています。

神の力とは、愛を表現する力そのものです。

許すことも、愛の表現であれば、正直な自分は、許そうとしているはずです。


生きていると、許すか、許さないかの判断に迫られることの連続です。

許すか、許さないかは、自分の自由です。

「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」とイエス・キリストは言いましたが、許すことの大切さ、愛の大切さを表現しています。


許せずに、怒りや、憎しみや、恨みの想いに、いつまでも捕らわれているのは、賢明ではありません。

神の摂理により、自らが苦しむだけだからです


この世は、肉体で愛を表現するためにあります。

怒り、憎しみ、恨みの想いを抱き続ければ、愛の表現は妨げられたままです。

この世を生きている意味を、大きく失ってしまいます。


許すには、相等の苦しみや痛みを伴いますが、その行為は摂理に適っているため、やがてなくなるでしょう。

魂の向上が図らた上に、苦しみからも解放されるのであれば、その意味はとても大きいと思います。















2014年8月10日日曜日

この世の先にある世界



死んだ後、どうなるのだろうか?

昔、漠然と考えたことがあります。

死ぬことは、遠い先にある出来事であり、そんなことを考えるより、今をいかに楽しく、充実させる方が、よっぽど大切に思えました。

死んだ後どうなるのかは、死ななければ分からないという結論に至り、深くは考えませんでした。

もし、無になってしまうと考えると、心も意識もなくなってしまって、何だか怖く感じます。

無になってしまうのであれば、生きている意味はあまりないように思え、とても虚しくなってしまいます。

幸いにして、死ぬ前に、確かな知識を手にすることができました。


無になることはありません。

生命は魂であり、生き続けます。


肉体の死とともに、この世から次の世界に移行します。

空想でも、夢物語でもありません。

神の摂理に従って、その現象が起こるだけです。

そんなことは信じられないと、言っている人も、その現象に直面します。

知らないよりも、知っていた方が、混乱することなく、次の世界にすんなりと順応して行けます。


死んだらお終いであれば、この世を生きる意味を、説明するのは困難です。

ただ、生まれて、生きて、死ぬということになります。

人生は、そんな浅はかなものではありません。

終わることのない物語を、自らが綴っています。

物語の主人公は、自らの魂です。

物語のテーマは、愛です。

死とは、1つの章の終わりであり、新たな章の始まりです。

物語の終わりではありません。

この世と次の世界は、それぞれが乖離(かいり)した世界ではなく、お互いがつながっていて、密接に関係をしています。

この世をどう生きたかで、次の世界での展開は変わっていきます。

死ねばお終いと思えば、好きななことをして、人生を長く楽しむことが、最も大切と考えてしまうかもしれません。

お金をたくさん得て、欲しい物を手に入れ、贅沢な暮らしをするのが、幸せな人生だと思ってしまいます。

私も恥ずかしながら、仕事で成功して、高い評価と、収入を得ることが、人生の目的と考えていた時期がありました。

真実を知ることができて、心から良かったと思っています。

次の世界は間違いなく存在しますが、地位や名誉や財産は持っていけません。

次の世界に持っていけるのは、自分の魂だけです。

愛に根ざした行いは、魂を美しく光り輝かせる、永遠の財産となります。

魂には、この世での想い、行いのすべてが、刻み込まれています。

次の世界での生活に慣れてくると、そのひとつひとつを、自らが検証する時がきます。

自分の行いが、人を幸せにしたり、社会を良くしたのを知り、喜びに満たされます。

喜びとともに、魂は一歩向上します。

自分の行いが、人を不幸にしたり、社会に迷惑をかけたのを知り、後悔します。

後悔とともに、魂に負債(カルマ)が生じます。

すべての想いや行いが、細大もらさず勘案されます。

大事なのは、生まれる前の魂に比べて、死んで向こうに行った時の魂が、少しでも向上していることです。

少しでも向上していれば、この世を生きた意味があったことになります。

家族や社会のために、自分を犠牲にしながら、一所懸命に生きてきた人は、何の苦労もなく、楽しく気ままに生きてきた人より、幸せです。

なぜなら、自己犠牲は愛の表現に他ならず、その努力により、魂の向上が得られているからです。

この世に生まれてきた目的を、より成就したことになるからです。


人はどうして、つらい試練を乗り越えようとするのでしょうか?

そのことに、どんな意味があるのでしょうか?

誰かに言われたから、そうしているのではありません。

苦しい経験、つらい経験、悲しい経験の中で、悪戦苦闘し、奮闘努力することで、魂が向上することを、真の自分が知っているからだと考えられます。

この世では、魂を表現するために肉体をまといます。

想いを、肉体を使って、言葉や行動で表現しなければいけない、とてもわずらわしい世界です。

自分の想いを、言葉や行動で、完璧に伝えることはできません。

肉体は、魂の想いを表現するのに、あまりにも不完全な道具です。

言葉を駆使しても、どんなにうれしいのか、どんなにつらいのか、どんなに悲しいのかを、人には伝え切れません。

しかし、相手が何も言わなくても、喜びや悲しみに共鳴して、笑ったり、泣いたりすることがあります。

それは、言葉を介さず、相手の想いが自らの魂へ、直接伝わったためと考えられます。

言葉よりも、はるかに鮮明で、強烈です。

次の世界は、魂の世界であるため、このような想いのやりとりが常に行われていると考えられます。

言わなくても分かり合える、想いを共有できる世界です。

この世では、権力のある者、地位のある者、あるいは富のある者が、強者とみなされることが多いと思われます。

次の世界では、より愛を表現できる人が、真の強者であり、上に立ちます。

恵まれない人に、手を差し伸べて、やさしくできる人が、真に偉い人であり、上に立ちます。

より愛を表現できる人、やさしい人が上に立つのですから、神の愛が上から下へと、満遍なく行き渡り、世界は平和そのものとなります。

争いなど、起こるはずはありません。

お互いがお互いのために奉仕をして、悦びを感じる世界です。

それを天国と言うのかもしれません。

この世と、次の世界は、どちらが素晴らしい世界なのでしょうか?

答えは、はっきりしていると思います。


肉体は魂を表現する道具(媒体)です。

魂は、肉体を超えた次元で存在しています。

自分を犠牲にしてまで、相手を思いやるのは、肉体を超えた愛が存在するからです。

肉体を超えた愛の想いは、肉体を超えた魂から生まれます。

愛の存在を確信できる人は、魂の存在も確信できるはずです。

生命は、肉体とともに消滅してしまう、はかないものではありません。

炎により肉体は焼かれて骨に変わっても、生命である魂は、何も変わりません。

死んだら、自分の意識はどうなってしまうのか?

意識は頭脳からではなく、魂から生まれます。

頭脳は意識を表現するためにある、司令塔です。

したがって、肉体(頭脳)がなくなっても、意識はそのままあり続けます。

無になってしまう心配は無用です。


この世では表現媒体である肉体が、あまりにも重すぎるために、どうしても意識が肉体に向いてしまいます。

魂は肉体の奥に埋もれてしまい、意識しなくなります。

魂から生じた想いは、頭脳から生まれた思考により、掻き消されてしまうことが多くなります。

魂は神の一部であるため、しきりに愛を表現しようとしますが、肉体や自己の要求が強くなると、それに負けてしまうことが多くなります。

この世を生きているのは、肉体で愛を表現して、魂を向上させるためです。

大切なことを忘れてしまったのでは、この世を生きる目的が果たせなくなってしまいます。

大切なことを忘れかけると、神の摂理である因果律の働き、不幸と言われる、苦難が生じます。

苦難には相応の苦痛が伴いますが、その苦痛が忘れかけていた、最も大切なことである生命(魂)や愛を呼び覚まします。

苦難が、魂を目覚めさせ、本来の姿に戻し、向上させるためにあるとしたら、それは不幸なことであるはずがありません。

苦難の最中では、そう思う余裕はとてもありませんが、次の世界に行けば、苦難の真の意味を知ることになります。

摂理の完璧さに驚嘆するとともに、神の愛に感謝するようです。


すべての人に、肉体の死は訪れますが、死ぬ間際は外からは見るより、本人は苦痛ではないようです。

死を迎えて、穏やかな顔になる人が多いそうですが、それは疲弊した肉体から解放され、自由になった喜びの顔ではないでしょうか。

死は別れであるとともに、再会です。

一足先に向こうに行き、今か今かと待ち構えていた、愛する人との再会があります。

愛で結ばれた者同士に、別れがなかったことが証明されます。

神を信じていなかったとしても、その歓びを、きっと神に感謝すると思います。

そして、この世に残してきた愛する人を、次の世界から見守ります。

言葉でなくても、魂から魂へと、想いがうまく伝えられれば、愛する人を導くことができます。

肉体に包まれて良く分からなかった生命の真の姿を、目の当たりにします。

そして、愛がすべてを動かしている、崇高な神の力であることを知ります。

この世の先に待ちうけているのは、ありのままが表現される世界です。

死は、大きな変化には違いありませんが、怖れるものではないのは確かです。