人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年5月29日木曜日
光
ガンという病気は、怖くありません。
なぜなら、死に至る病でないからです。
100mの高所から落ちたら、肉体は大きなダメージを受け、間違いなく死に至るでしょう。
酸素ボンベを付けないで、水中に30分もいれば、溺死してしまいます。
肉体が、元に戻せない致命的な損傷を受けてしまうからです。
ガンは元に戻せない病気なのでしょうか。それは違います。
余命数ヶ月と医者から宣告された人でも、何年間も生きている人がいるのは事実です。
ガンが自然退縮していき、消滅した人がいるのも事実です。
これらの人は、医学的に説明困難なため、例外として扱われ、多くの人に知られることはありません。
ガンという病気を深く知る上で、きわめて重要な真実が、医学に頼らずに治癒した人達に隠されていると思いますが、多くの医者、研究者の興味はそこにはないようです。
少なくても、際限なく増殖を繰り返し大きくなっていくだけではなく、縮小あるいは消退もする、流動的な病であると言えます。
縮小や消退をするのは、偶然や幸運ではなく、何らかの法則に従って起こると考えられます。
何らかの法則を、突き止めることは、とても大切なことではないでしょうか。
以前のブログに書きましたように、私は仕事上で過ちを犯しました。
不正な行いで、行政処分を受け、信頼は失墜しました。
しかし、そんな中でも、励ましてくれる人、見捨てない人、支えてくれる人がいました。
思いやりや優しさの意味に、生まれて初めて気付いたと言ってもいいでしょう。
振り返って良かったと思うのは、「シルバーバーチの霊訓」に出会い、不運を嘆いたり、他人を恨んだり、絶望感に浸らなかったことです。
すべて、自分の想いや行いのせいであり、その報いを受けているのだと、心から思えました。
そして、乗り越えられない苦難はないと、固く信じました。
つらい想いを通じて、因果律というものが、身に沁みて分かりました。
十分に足りていたのにもかかわらず、まだ足りないと思い込み、たくさんのものを追い求めていました。
全く足りていなかったものは、人や動物を思いやる気持ちであり、協調することであり、流されない心、穏やかな心でした。
40歳半ばで、やっと本来の、自然な姿を取り戻したのかもしれません。
惰眠を貪っていた魂が、ようやく目を覚ましたようです。
もし、あの時、人生最大の不幸と嘆いてしまったならば、その想いに捕らわれて、抜け出すことはできなかったでしょう。
不幸な想いを周囲に撒き散らし、周りも不幸にさせて、孤独になっていったかもしれません。
自分を変えるため、大切なことに気付くために、鈍感な私には、衝撃的な出来事が必要だったのだと思います。
病気も、同じだと思っています。
自分の行いや想いが原因となり、結果として病気になります。
社会が法律によって治められているように、人の行い、言動、想いのすべては、神の摂理である因果律により支配されています。
人は欺けても、魂でつながる神を欺くことはできません。
法律による罰則を逃れることができても、因果律から逃れることはできません。
神の摂理に反する行いや想いが積み重なっていくと、魂のありさまは変わっていきます。
進むべき方向を見失い、生きる目的である、魂の向上は果たせなくなっていきます。
残念ながら、自分ではどうすることもできません。
そこで、心の奥深くで眠っている魂にまで響く、相当な衝撃が必要となってきます。
生命を脅かすほどの病気でなければ、生命である魂にまで届きません。
ガンと言う病気は、神の摂理である因果律によって生じた、言わば暗闇です。
今まで見えていた周りのものが、何もかも見えなくなります。
頼れるものは何もなく、独りになり、先の見えない不安、死の恐怖に、押しつぶされそうになると思います。
暗闇にいる時に、お金を欲しがる人はいません。
ただ、暗闇の恐怖を解消するものが欲しいだけです。
そんな時に、明りを持って来てくれたとしたらどうでしょう。
周囲は照らされて、暗闇はなくなり、不安や恐怖は追い払われます。
明りを渡してくれた人に、感謝せずにはいられません。
暗闇に実体はありません。
ただし、意味はあります。
光のありがたさ、大切さに、気付かせるという意味です。
明るい昼間では、明かりの光など、目に入りません。
楽しいこと、目立つものばかりが目に映り、見向きもされません。
本当につらいことですが、光は暗闇の中でしか見出せず、ありがたさはわかりません。
神が、光のありがたさを知るために、暗闇を用意したのは、間違いありません。
目に見えるものは、それほど大切ではありません。
目に見えず、触れることもできない光こそ、最も大切です。
暗闇により、大切でないものは、すべて見えなくなります。
そして、光は眩しく輝き出します。
暗闇を消滅させるものは、光しかありません。
光のありがたさに気付いたのなら、きっと夜明けは近いはずです。
なぜなら、暗闇の役割は終わったからです。
後は、朝が来るのを待つだけです。
よく言われますが、夜明け前が一番暗く、寒いです。
どんなに暗い夜でも、長い夜でも、漆黒の空が光で変わり始める瞬間が必ず来ます。
夜明けなんて来ないと思っていても、必ず夜明けは来ます。
光とは愛、神の心です。
生命とは魂であり、神の一部です。
苦しむだけ苦しんで、終わりになることは、決してありません。
暗闇は、光である愛に気付くために存在します。
従って、怖くはありません。
今までの苦しみにより、機は熟してきています。
もうすぐです。
2014年5月22日木曜日
この世を生きる意味
この世の生は、長い道のりのほんの一部です。
過ぎ去ったこの世の人生しか、私達には分かりませんが、生まれる前にも生があり、肉体が亡くなった後も、生は続いていきます。
生まれる前の記憶は、魂の奥に仕舞い込まれて、この世で引き出すことはできませんが、明確な目的を持ち、自らが志願して、この世に生まれてきたのは間違いありません。
この国、この場所、この親、性別、およその人生の設計図、それらすべてを承知した上で、魂は母体に宿ります。
この世で、自分の足りないところを補うためであり、大切なことを学ぶためです。
前世で、どうしても果たせなかったことを、果たすためです。
前世で、神の摂理に反した悔やまれる行いを、償うためです。
特別な使命があって、生まれてきた人もいます。
様々な出来事に出会あったり、いろいろな経験をしますが、生まれる前に自分で自分に約束をしたことを果たすために、1つとして欠けてはならないのかもしれません。
必要だということになります。
昔、絵を描いた時のことを、思い出しました。
明るい色、好きな色ばかりで描いた絵は、なぜか深みがなく、単調で、表現は乏しくなってしまいます。
暗い色があってこそ、明るい色が映えるのであり、色彩の調和には嫌いな色も使わなければいけません。
近くで見ると1つ1つ色の存在意義はわかりませんが、少し離れて眺めると、全体のためになくてはならない色であったことが、よく分かります。
人生も、バラ色で、楽しいことばかりだったらいいのにと、思ってしまいます。
しかし、つらいこと、悲しいこと、避けて通りたいことも、たくさんあります。
苦難の真っ只中にいる時には、ただつらい、悲しいばかりで、一刻も早くそこから逃れたいと思うばかりです。
そこに隠された意味を知ろうとする余裕はありません。
しかし、後になって、すべてのことが連綿と繋がっていて、1つ1つの出来事や経験が、生まれる前に自分で自分にした約束を果たすために、不可欠であったことが、きっと分かると思います。
意味のない苦しみ、意味のない悲しみは存在しません。
楽しいことは、楽しいだけで終わってしまいます。それほど大事なことではなく、1ヶ月もすれば忘れてしまうかもしれません。
つらいことであればあるほど、悲しいことであればあるほど、心の奥深くまで響き、忘れることはありません。
真の意味は、自分そのものである魂を、呼び起こすことにあります。
それまで眠っていた、魂を目覚めさせるためです。
魂に目覚めた時から、全く新しい人生が始まります。
自分で自分に約束した、本当の人生が始まります。
魂は神の一部としてつながっています。
魂に目覚めて、生まれて初めて、神の心に触れ、もっとも大切なものに気付きます。
大切なものは、ただ1つしかありません。
愛です。
愛よりも生命の方が大切と思われるかもしれません。
生命も愛です。
生命は魂であり、神の心を表現する一部です。肉体はこの世だけの道具(媒体)です。
神は無限の愛です。
よって、生命は神のものであり、愛そのものです。
生命は愛そのものであるため、しきりに愛を表現しようとします。
愛を表現しているのが、魂の自然の姿です。
しかし、肉体を持つと魂は埋没し、存在は意識されなくなります。
愛を表現したいという魂の要求は、残念ながら肉体からの要求に掻き消されてしまいます。
自分という意識が強くなればなるほど、神から遠ざかり、愛を表現出来なくなってしまいます。
素直に愛を表現できなくなると、神の摂理である因果律が働き、苦痛を経験をして、魂が目覚めて、自然の姿を取り戻し、素直に愛を表現出来るようになります。
愛を表現することは、摂理そのものであり、神の懐に抱かれ、真の悦びを手に入れることができます。
小さな道端の草も、地球の一部を構成する存在です。
小さいながらも、動物にとって必要な酸素を作って、空気中に放出しています。
動物たちは植物から、なくてはならない恩恵を受け取って生きています。
すべてが調和しながら、お互いがお互いのために生きています。
どんな小さくても、小さいなりに、ささやかな愛を表現しています。
あまりに当たり前で、何も思わなかったことすべてが愛です。
愛がすべてであり、すべてが愛です。
神の摂理が愛であることはわかっていても、嫌な人、敵対する人、自分を苦しめるものを愛するのは、きわめて難しいことです。
しかし、因果律は厳格に働きますので、嫌悪を向ければ嫌悪が、憎しみには憎しみが、敵対には敵対が、返ってきますので、賢明な方策ではありません。
こちらが何も想わず、何もしなければ、少なくても相手から返されることはありません。
さらに、相手を受け入れ、許せたのなら、自らを苦しめる想いから解放されます。
もし、愛することが出来れば、その障害、その苦難を完全に乗り越えたことになり、嫌な人ではなくなり、敵対する人ではなくなり、自分を苦しめるものではなくなります。
より高い愛が表現できるようになったのであり、魂が向上した確かな証です。
そして、この世に生まれてきた意味の1つを、成就したことになります。
参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」
「この世を生きる意味 その2」
2014年5月11日日曜日
争いは愛でしか終わりにすることはできない
平和な日本では考えられない争いが、世界の各地で起きています。
民族、宗教、文化、言語、外見などの違いは、偏見や誤解を生み、時にお互いを異質なものとして認識し、排他しようとします。
敵対する集団を、武力でねじ伏せようとしても、思い通りにいかないことは、世界各地で起きているテロや戦争を見れば、一目瞭然です。
テロや戦争に関わっているのは人間ですが、駆り立てるものは、怒りであり、恨みであり、憎しみの想いです。
従って、武力により、攻撃を繰り返しても、新たな怒りや恨みや憎しみを生み出すだけであり、そのようなやり方で、平和を手に入れることは、決して出来ません。
武力で一旦は平穏を取り戻したかに見えても、根底にある怒りや憎しみや恨みの想いは、消えるどころか、むしろ大きくなってしまい、積もり積もった想いが限界に達すると、表に現れて、さらなる戦争が引き起こされるだけです。
そして、戦争で相手の優位に立つため、次々と兵器が生み出されます。ミサイル、原子爆弾、化学兵器が使用され、人が殺され、傷つき、そして国土が破壊されます。
人類が発明した戦争兵器は、世の中に平和をもたらしたでしょうか?
より状況が悲惨になり、苦痛が生まれ、人々を不安と恐怖に陥れただけだと思います。
科学技術は、時として誤った方向に利用され、人を不幸にしてしまいます。
争いがなくなり、平和な世の中になるためには、お互いを思いやる、愛の想いを発揮するしかありません。
戦争をしている当事者が聞いたのならば、「何をたわごと言っているんだ」と、一蹴されてしまうことでしょう。
やらなければ、やられてしまうという考えに支配されているからです。
闘わなければ、負けて、殺されてしまうと思っているからです。
もちろん、相手が力により屈服させ、征服しようとしているのであれば、正義を守るために闘わなければいけません。
しかし、多くの戦争は、少しの行き違いがあったり、相手を認めなかったり、許せなかったりすることから始まります。
どちらも血の通った人間であり、お互いに傷つきたくはありません。
相手を疑い、怖れ、拒絶すれば、敵となり、戦争が起きます。
相手を信じ、認め、許せば、仲間となり、共存が出来ます。
お互いに認め合い、許し合い、怖れを克服するのは、愛の想いしかありません。
ものすごく単純なことですが、とても難しいことなのかもしれません。
話は変わりますが、人体は、60兆個もの細胞から構成されています。細胞は、それぞれの役割があり、協調関係にあります。
病気は身体に不調和が起こった状態です。
ガンは協調を失った細胞であり、生命を脅かし、何ひとつ益がないと思われています。
人体を見渡すと、1つとして理由もなく存在する組織はありません。
たとえガンであっても、自分の身体の一部であり、何らかの意味があって存在していると、思われます。
最近になり、ガン細胞は、抗がん剤などのストレスに対する耐性を持つことが判りました。ストレス環境下では、エネルギーを得るための代謝経路(解糖系)だけでなく、抗がん剤の効果を下げる作用(解毒作用)や増殖などに必要な物質を増加させる、う回経路も利用することが判明し、代謝経路を切り替えるスイッチ分子も発見されました。
内容は難しいのでともかくとして、私には、人間の戦略を上回るしたたかな知性を、ガンが持っているかのように思えます。
人の想いにも敏感に反応し、感情を持っているようさえ思えます。
ガン細胞が遺伝子のコピーミスで生じたのなら、生き残るための戦略など、持っているはずはありません。
生き残るための戦略は、自らが生み出しているはずもなく、あらかじめプログラムされていて、作動していると思われます。
あらかじめプログラムされていた戦略だとすると、背後に計り知れない知性の存在と、その意図を感じざるを得ません。
人間が作り出した、いかなる薬も、ガンを消滅させることはできていません。
その理由は、ガンは神の摂理により生じている、霊的な病気だからと考えられます。
人は、肉体と精神、その上位にある魂により構成されています。
肉体は魂を表現する媒体であり、想いは精神を経由して肉体で表現されます。
絶え間なく、想いは肉体で表現されて、人生は紡がれていきます。
しかし、精神で抑制が働いて、想いをうまく表現できなかったり、想いが強すぎてすべてを表現しきれないと、想いはうっ積していきます。
神の摂理である愛に反した、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などの想いを抱き続けてしまうと、うっ積し、魂のありさまは、変わってしまいます。
変わってしまった魂のありさまは、病気として肉体に表現されます。
肉体上のガンは反映であり、本体は魂にあります。
月は夜空に明るく輝きますが、光の源は太陽にあります。
涙は目から出る液体ですが、本体は悲しみです。
内にあるものが外に表れています。
涙を拭ったからといって、悲しみがなくならないように、手術で病巣を切除したからと言って、原因がなくなるわけではありません。
抗ガン剤により、ガンを消滅させようとしても無理なのは、原因が魂にあるからであり、無用に心身に苦痛を与えてるだけだと考えられます。
神の意図とは、ガン細胞を無秩序に増殖させ、意味もなく苦痛を与え、肉体を失わせるのではなく、神の心である愛の大切さに気付き、摂理に適った考え方、生き方に変えるさせるためにあります。
それは、この世に生まれてきた目的を成就するためです。
大切なことであればあるほど、気付くため、知るための試練は、過酷になるのかもしれません。
大切なことなど、どうでもいいと思っても、生まれてきた目的は、大切なことに気付き、魂を向上させるためなので、避けて通ることはできません。
摂理に反した想いに捕らわれている限り、愛を表現することはできず、生まれてきた目的を成就することはできません。
しかし、捕らわれている想いの根が深く、しつこく居座っているようであれば、並大抵のことでは手放せません。
ガンは生命にかかわる病気であり、それまで眠っていた魂にまで響き、呼び起こします。
苦痛や恐怖や不安との闘いは、魂を向上させて、大切なことを受け入れるための準備を整えていきます。
魂に目覚め、生命と愛より大切なものはないことに気付き、捕らわれていた想いが、ようやく手放されます。
そして、素直に愛を表現できるようになります。
神の摂理として生じたガンが、愛の大切さに気付き、想いを変えさせることにあるならば、病気の転帰がいつかは訪れるはずです。
じっと苦痛に耐え、底知れぬ不安や恐怖と闘い、周囲の支えに感謝する中で、その時は訪れます。
それが、神の意図です。
神の心である愛を知るために、人間に用意されたシナリオです。
想いを手放したら、そこへ神からの愛(治癒力)が流れ込み、まず魂が癒され、肉体が後を追うように癒されて、病気は快方に向かうはずです。
しかし、現代の医学では、魂の存在を認めていません。肉体上の病気だけを対象としています。肉体のガンを消滅させることが、治療のすべてです。
肉体に作用する抗ガン剤は、魂には全く効果がないため、無意味ということになります。
自己の肉体を傷つけてしまい、無用な苦しみを与えているだけだと思われます。
そして、最も危惧すべきことは、神が人に与えた免疫システムに少なからぬダメージを与えてしまうことです。
免疫システムは、からだを守る生命線であり、大切な味方です。その味方を、抗ガン剤は愚かにも破壊していることになります。
これでは、苦痛を経験し、魂が目覚めて癒され、続いて肉体が快方に向かおうとしても、ガンを排除する免疫システムがうまく働かず、神が意図した通りにいかなくなってしまいます。
生命(治癒)力が肉体に流れても、ガンを消退させる免疫システムが破損して機能しなければ、病気は消退していきません。
ガンにより、考え方や生き方が変わり、病気を克服して、新しい人生が始まるはずです。
苦痛により十分な償いを果たし、最も大切な生命や愛に気付いて、ドアを開けて新しい人生が待っているはずなのに、鍵が壊されてしまっているために、あと一歩のところで、外に出られないのです。
せっかくの生命力が活かせずに、亡くなられている人がどれほどいるか、想像もできません。
きっと悔しいことでしょう。
こんなことは、悲しいことは、決してあってはいけません。
戦争は地球という惑星の中で起こり、ガンはからだの中で起こります。
双方とも、神の摂理に反した想いにより生じ、相応の苦痛を経験することになります。
多くの人が採る、解決するための手段は、悲しいことに闘いであり、相手の降伏です。
その行為自体が、摂理に反しているために、更なる苦痛が生まれてしまいます。
戦争を解決する唯一の手段は、相手を認め、許し、そして愛するしかありません。
ガンは敵ではありません。
大切なことに気付き、愛を素直に表現させるためにある、ありがたい使者です。
摂理に反いた想いからガンが生じたのなら、摂理に適った想いによりガンは癒やされるはずです。
ガンを怖れず、自分の一部として愛するしかありません。
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2014年5月4日日曜日
苦痛の先にあるもの
病気は偶然ではなく、神の摂理によって生じます。
病気は死に追いやるもの、意味もなく苦しめ、不幸にするために存在するのではありません。
すべての病気に原因があり、結果として病気になります。
原因は肉体的、精神的、霊的次元にそれぞれありますが、それぞれの次元に何らかの原因があったと思われます。
霊的次元においては、何かしら摂理に反した想いや行いがあり、それが主な原因と考えられます。
神の摂理は完璧であり、すべての想いや行いは見逃されることはありません。
昔、学校で悪さをして、立ち番をさせられたことがあります。先生は私が反省しているかどうかを、よく見ていました。反省しているのが見てとれたら、必ず許してくれました。良い方向に進んでいって欲しいという気持ちから立ち番をさせたと信じています。そして厳しかった先生ほど、私のことを親身になり、思っていてくれたと感謝しています。
病気も同じです。
しかし、病気を生じさせた神は、人である先生より、はるかに厳格です。
本人が反省しているか、大切なことに気付いたか、考え方や生き方が(摂理に叶ったように)変わったかは、神にすべてを知られてしまいます。
なぜなら、魂は神の一部であり、つながっているからです。一切の言い訳やごまかしはききません。
摂理に反していたことがあったならば、それに見合った償いをしなければいけません。
病気の苦痛は、償いとしてあります。不安や恐怖との闘いも、大きな苦痛であり、償いです。
しかし、魂が目覚めて、誤った考え方や生き方をしていたことに気付き、悔い改めて、苦痛により相応の償いをしたならば、病気を生じさせた神の力は、一転して治癒させる力に変わり、病気は快方に向かっていくはずです。
病気になった目的は、魂を目覚めさせ、摂理に適った考え方や生き方に変えさせるためにあるからです。
神は愛です。
愛が最も大切であり、すべてであることを、病気を通して教えているだけです。
今、つらいのであれば、「この苦しみ、痛みは私を変えるためにある」という信念を持って下さい。
それは、紛れもない魂の真実です。
そして、「人や社会のために、元気になり、役に立たせて下さい」と、祈って下さい。
祈りは、きっと神に届くはずです。
早く良くなって、生まれ変わった自分で、人や社会のために思う存分、愛を表現していきましょう。
それが、この世に生まれてきた意味であり、生きている意味です。
つらい日々、償いが終わる日は、近くなってきているはずです。
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