2021年10月31日日曜日

必ず会える


私たちが死ぬ確率は100%です。

120歳を超えて生きている人は、誰一人としていません。



昔は、死ぬのが怖かったです。

死ぬと意識がなくなり、自分が消滅してしまうと思ったからです。


ところで、意識とはなんでしょう?

心であり、自分そのものだと思います。

もし、意識が脳から生じているのであれば、脳の活動が停止すれば意識も消滅するはずです。

しかし、それでは説明がつかない体験をしている人たちがいます。

病気により脳の活動が停止していたにもかかわらず、その間、夢のようなものを見ていたのです。

睡眠中に脳が活動して夢を見るとされているので、科学的に説明がつきません。



ある研究によると、心停止後に回復した人の18%が臨死体験をしているそうです。

臨死体験者の多くは、遠くで強烈に輝く光を見たり、既に亡くなった人たちと会話をしたり、謎めいた別世界への旅をしたなどと語っています。



科学者はそのような臨死体験を、脳内の神経伝達物質の作用による幻覚と説明しています。

ここで1つの疑問が生じます。

何故、似たような経験をしているのか?

幻覚だとすれば、内容はばらばらで良いはずです。

その問いに答えている科学者はいません。



物質的な脳からは、非物質的な意識が生まれるはずはありません。

脳は、意識から出されている指令を肉体に伝えるため、あるいは五感を通して入ってきた情報を意識に伝えるためにあります。

どんな現象も、脳内で起きているという強引なこじつけは、もう終わりにするべきです。



素直にこう考えてはどうでしょうか?

意識とは、脳の働きとは別次元のものである。

臨死体験者の意識は、肉体から一時的に離れて、似たような体験をしている。

亡くなった人たちと実際に会っているのであり、意識とはその人たちと同じ次元の存在である。

「魂」と言われる存在から意識は生じている。



霊的な知識を得てから、死は怖くなくなりました。

死んで肉体がなくなっても、意識は変わりなく存在し、自分が失われることはないと判ったからです。

死んだ後に行く世界は、穏やかで平和な世界だからです。

生命は続いているので、生き急ぐこともなくなりました。

そんな変化が私自身に起こりました。



このブログを開設して、初めて知ったことがあります。

それは最愛の人を失った人の、悲しみの深さ、苦しみの大きさです。

想像をはるかに超えるものであり、経験しなければ判らないと感じています。



そんな人たちにとって、死後に生命が続いているか否かは、極めて重要な意味を持っています。

また会えるのか、もう会えないのかが決まるからです。

それを知り、事実をどうしても伝えたくなりました。



姿が全く見えなくなり、声も聴こえなくなり、温もりも感じることができなくなったのは、不動の現実です。

何度でも言いますが、肉体が失われても、その人の本質(生命)は全く失われていません。

意識は存続していて、記憶も個性もそのままです。

けれども、五感を通して意思を伝える手段を失っているので、地上の人にそのことを伝えることができません。



亡くなった人がいる世界は、思念の世界です。

想ったことが電光石火、対象に伝わります。

完全なテレパシーの世界と言えます。

送った思念を遮るものは何もなく、受ける人にそのまま伝わります。



一方、地上にいる人は、肉体に備わっている視覚や聴覚などの五感を通して外部を認識しています。

そこから入る情報が圧倒的に多いために、意識の焦点は地上に向いています。

目に視える世界が全てだと思ってしまうのも無理ありません。



五感を通して伝えるため、自分の想い(思念)を言葉や表情や行動に変換する必要があります。

煩わしい行程を繰り返しながら、コミュニケーションを行っているのですが、それが当たり前だと思っています。



亡くなった人だけでなく、地上の人も霊的な存在です。

霊的な存在が、肉体を介して自己表現をしています。

当然のことながら、地上の人にも思念を受信する感覚が備わっています。


その証拠に、言葉や表情や行動に込められた相手の想いを感じ取ることができます。



周りにいる人たちから発せられている思念を、無意識の内に受け取っていて、少なからず影響を受けています。



言葉を交わさずとも、想いが判り合える瞬間があります。




愛情で結ばれている者同士ならば、傍にいたくなるのは自然の成り行きです。

その想いは、死によってなくなりません。

亡くなった人は、地上の人の想いが手に取るように判るので、むしろ強くなっているかもしれません。

肉体を失った人は、全ての物的な障壁が取り除かれています。

生前よりも近くにいられるのです。



伝えられなかった想いを、どうしても伝えたくなる時があると思います。

言葉にしなくても、その想いは亡くなった人に届いています。



亡くなった人も全く同じです。

地上にいる人に想いを伝えたいのです。



生きている世界は違います。

しかし、意識の源である魂は同次元に存在しています。

五感を介さずに、想いを交わし合うことは可能です。



けれども、さまざまな障壁が立ちはだかり、困難にしています。

想いを送っても、五感で感じるものでないために、地上の人にはっきりと認識されません。

思い付きや、気のせいにされてしまうことがほとんどです。

五感から入る情報に圧倒されて、届いている思念が掻き消されています。

頭の中で考えていることも、雑音となっています。

悲しみや嘆きなどの感情も、大きな障壁となります。

想いが届くのを妨げているのは、地上の人です。

疑い深い性格にも、手を焼いているでしょう。

地上の人が、予期した反応をしてくれないことを残念に思っています。

それでも、どうしても伝えたければ、諦めずに想いを送り続けているでしょう。



受信感度を高める方法があります。

それは、亡くなった人から想いが自分に届けられていると、素直に信じることです。

信じることは、何よりも大切です。

つながる原点です。

信じなければ、自分で回路を閉ざしています。

信じることにより、魂と魂はつながることができます。



全ての生命が愛し合うために、自然法則は働いています。

生きている次元は違っても、信じることで、愛し合うことはできます。

五感で感じられなくなっても、強く信じることにより、霊的な感覚によって存在を感じることは可能です。



視えない人を信じるのは、容易くありません。

それだけに、霊的な意味があり、価値があります。

地上の別れ以上に、信じること、愛することの意味を深く学ぶ機会はないかもしれません。

向こうの世界で、強く結ばれるためにあります。




「また会えますか?」と聞かれたら、決まってこう答えます。

「その時まで想っていたのならば必ず会えます」と。

これは希望的観測でも、気休めでも、慰めでもありません。



私たちは100%死にます。

死ぬと同時に、障壁が完全に取り払われます。



愛は魂を引き付ける力です。

目の前に姿が現れ、抱きしめ合える瞬間が必ず訪れます。






2021年10月24日日曜日

人生は楽しむためにある?


「終活」と言う言葉がだいぶ定着して来ました。

以前は、死を考えること自体がタブーでしたが、意識が変わって来ているのでしょう。

それでも、死について正確に理解している人は、まだ少ないようです。



霊的真理と出会い、死は怖くなくなりました。

次の世界へ移行する自然現象であることが、はっきりと判ったからです。

それでも、死ぬ時に苦しみや痛みを感じたくはありません。

摂理(自然法則)に適った生活をしていれば、苦しまないで死ねるようです。

熟した実が木から落ちるように、ごく自然に、穏やかに次の世界に移行したいものです。



さまざまな霊界通信によって、死後の世界の様子を窺い知ることができます。

総じて、今いる世界よりもはるかに快適なようです。

肉体はないため、病気にならず、老いもありません。

食べて行くために働く必要もありません。



そんな次の世界の様子が、はっきりと判ったらどうでしょう?

この世から逃げ出してしまう人が続出するかもしれません。

過ちを犯さないために、ベールに包まれていると思います。



この世に生まれて来た目的は、成長するためです。

自分に足りない資質を手に入れるためであり、過去の過ちの償いをするためです。

志願して生まれて来たのにもかかわらず、生きているのがつらいからと、自分で終わりにすることは許されません。

何とか踏み留まろうとするのは、自分で終わりにすることが過ちであること、生まれて来た目的を、奥底にいる自分は知っているからです。

そして、守護霊が必死に止めさせようと、働きかけているからです。




人生は楽しむもの、楽しくなくてはならない、そう思っている人は多いです。

私もそうでした。

人生には、楽しいことはたくさんあります。

躊躇することなく、思いっ切り楽しめば良いと思います。



しかし、楽しいことばかりではありません。

苦難と言われるようなことも起きます。



自然法則の働きにより、苦難を乗り越えて行くことで、人は成長するようになっています。

もし、楽しいことばかりの人生だったらどうでしょう?

周囲からは幸せそうに見え、羨ましがられます。

しかし、霊的には得るものが少ない、成長の乏しい人生になってしまうと思います。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。(以下「」内の文章はシルバーバーチの霊訓から引用)

いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みも無く、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。

もがき苦しみながらも、降りかかる困難を克服して行くことで、向上進化するようになっています。



向上進化は、行き当たりばったりではなく、計画的に行われています。

地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。

その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。

生まれる前に立てられた計画に沿って、人生が展開して行きます。

計画が思い出せないのは、私たちがまだ未熟なためと考えられます。



次の世界では、想ったことが直ちに具現化します。

一方、今いる世界では、物質(肉体)を介して具現化しなければなりません。

具現化するためには、精神的、肉体的な労力を必要とします。

しかも、思い通りに具現化するとは限らず、失敗もします。

具現化する意志と労力を培うことが、魂の成長を促していると考えられます。



次の世界では、自分と極めて似ている人しか周りにいません。

今いる世界は、自分と似ていない人たちに囲まれながら生きています。

肉体的、精神的、霊的にさまざまな人がいるので、交わると種々の問題が生じます。

生じた問題は、神の叡智(摂理)を学ぶことにより解決されて行きます。

言い方を変えると、神の叡智を学ぶために、さまざまな人がいる地上に生まれて来たと言えます。



次の世界に行くと、地上のような困難や障害を経験しなくても良くなります。

そんな世界に、ずっといたくなるような気がします。

何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。

苦痛のない快適な世界を離れて、地上に生まれて来るのは、さまざまな経験をすることができ、そこから叡智を学び、自分を大きく成長させることができるからです。



それでも、何で自分がこんなつらい経験をするのかと思う時もあります。

時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。

まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に比べれば遥かに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。

出来事は、因果律の働きによって起きています。

因果律を創造した神の目的は、生命(魂)を向上進化させるためです。

苦難の経験は霊的成長として報われることを、霊界にいる人たちは、地上の人に分かってもらいたいのだと思います。



苦しみを感じるのは、地上で成長する余地が残されているからだと思います。

感じなくなれば、霊界で向上進化して行くようになると思います。



楽しもうとする欲求は、何でも好きなことができる、次の世界で十分に満たされています。

満たされると、楽しむことにそれほど喜びを感じなくなり、もっと大切なことに気付くことになると思います。

もっと大切なこととは、自分が成長することです。

成長して、周囲のためにより自分が役に立てるようになることです。



楽しいことをすれば、喜びになります。

役に立った時の悦びは霊的なものであるため、より深く、永続的なものとなります。

真の悦びを味わうために、私たちは地上に生まれ、さまざまな経験をしています。



以上のことから、楽しむことを目的に、地上に生まれて来た人はいないと考えられます。

この世の人生は楽しむためではなく、成長するためにあります。




2021年10月17日日曜日

因果律の働きを知って


霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、15年以上経ちます。

初めは、読んでも意味が判らないことばかりでした。

いくばくかの人生経験を積んだからでしょうか、判らなかったことが、少しずつ判るようになって来ました。



次の一節も意味が判りませんでした。

「さて、苦しみとはなんでしょうか。

苦しみとは、自分または他人が受けた打撃や邪悪なことが原因で、精神や魂が苦痛を覚えた状態を言います。

が、もしその人が宇宙の法則に通じ、その法則には絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら、一人一人が置かれる環境は、その時点で関わる人たちの進化の結果であると、納得しているからです。

進化した魂は、同情、思いやり、慈悲、哀れみは覚えますが、苦痛は覚えません。」



初めて読んだ時、私は仕事で当局から厳しい追及を受けていました。

今までに経験したことのない苦境に立たされていて、そんな心境にはとてもなれないと感じました。

早く、この苦しい状況から抜け出したい一心でした。



気持ちとは裏腹に、事態は悪化の一途をたどりました。

そして、予想もしていなかった最も重い処分が下され、目の前が真っ暗になりました。



以前の私でしたら、何で自分だけがこんな目に遭うのかと、憤りを感じたでしょう。

霊的真理を読み進めていたので、自分に起きたことは偶然でも不運でもなく、因果律の働きによるものであることが判りかけていました。

原因を作っていたのは自分自身でした。

結果は変えられませんが、不運を嘆いたり、憤りに苛まれることはありませんでした。



この世界では、自分に原因がなくても、苦痛を感じることが起きます。

社会問題となっている、いじめやハラスメントも、その中に入るでしょう。

抗えない状況にあれば、怒り、悲しみ、無力感を覚えることもあります。



誰にも気付かれず、証拠がないとしても、苦痛を与えた人の魂にはその行為が刻み込まれています。

与えた苦痛の分だけ、因果律の働きにより、自分が苦痛を味わうことになります。

自然法則によって厳格に裁かれ、相応の償いを受けなければならないことを知っていれば、無用な怒りに苦しまなくて済みます



イエス・キリストは磔にされました。

殺される時に「彼らは何も知らないのでお赦し下さい」と、神に祈ったそうです。

「進化した魂は同情、思いやり、慈悲、哀れみは覚えますが、苦痛は覚えません」と書かれていた通りに因果律の働きを知らない為政者を、哀れんでいたと考えられます。

肉体的な苦痛は極限に近いものだったでしょうが、精神的、霊的な苦痛からは免れていたと思います。



しかしながら、ほとんどの人は、嫌なことを言われたり、されたりすれば、苦痛を感じてしまいます。

「もしその人が宇宙の法則に通じ、その法則には絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら、一人一人が置かれる環境は、その時点で関わる人たちの進化の結果であると、納得しているからです。」

地上では、さまざまな進化の過程の人と関わりながら生きなければならず、自由意志があるために、往々にして摂理に反した行いを受けてしまうことを納得している必要があると、シルバーバーチは言いたかったのではないかと思っています。



一方、因果律の働きによって起きていることもあります。

気付かないだけで、自分に原因がある時があります。



分かりやすい例ですが、ある日、友人が不機嫌になっていた時がありました。

その態度に、私も不愉快な思いをしていました。

後で、対応が面倒と考えて、軽い気持ちでSNSで友達申請の許可を先送りしていたのが原因と判りました。

気付かずに、自分が原因を作っていることがままあります。



分かりにくい時もあります。

自分のことを嫌っていて、それが態度に出ている人がいるとします。

もしかしたら、その人のことを自分も嫌っているのかもしれません。

人間は霊的な存在です。

視えない人の想いを感識する能力があります。

言動に出さなかったとしても、自分から放たれていた嫌悪の想いが、その人に伝わって、因果律の働きによって、その人から同じ想いが自分に返されていることもあると考えています。



最も分かりにくいのが、原因が過去生にある時です。

例えば、心に深い傷を負わせてしまった人がいるとします。

社会的な罪を問われずに死んだとしても、霊的な罪は残ったままです。

その罪を償わない限り、成長は許されません。

成長が許されないのは、自由が許されない以上に、耐え難いものだと想像をしています。



再び成長するために、もう1度地上に生まれることを志願します。

償いのための人生が計画されます。

しかるべき時期に、因果律の働きによって、苦痛を伴う出来事が起きます。

原因がどこにも見当たらないので、降って湧いたような出来事にしか思えません。

そこで味わう苦痛は、過去生で与えた苦痛と同等のものとなります。






同じような結果に見えても、原因はさまざまです。

少し前ですが、身体障がい者施設にボランティアに行っていました。

施設の中には、身体が全く動かせず、ベッドの上で一生を送る人がいました。

失礼だったかもしれませんが、こんなことを想像してしまいました。

自分は何でもできると尊大な生き方のまま、死んでしまったらどうでしょう?

動くことができなければ、人の助けなしには生きて行けません。

否が応でも、1人では生きて行けないこと、人のありがたさを学ぶことになります。

もしかしたら、人の自由を奪ってしまい、因果律の働きで、自分の自由が奪われたのかもしれません。

償いのためとは限りません。

進化した魂がさならる進化をするために、動かない肉体に宿ると言う、最も過酷な試練に挑戦しているのかもしれません。

真相は窺い知れませんが、原因があることだけは確かです。



人生で最悪とも言える、私に起きた出来事の原因は、私自身にありました。

最初は小さな過ちでした。

過ちを犯す前に、必ず良心と言う内在する神の声が聴こえます。

言葉にすると「そんなことをして良いのか?」でしょう。

良心は止めるように訴えているにも拘わらず、自我はこんな言い訳をします。

「大丈夫、みんなしていることだから」「ばれやしない」等々・・

かくして、良心と自我の間で葛藤が生まれます。

良心の声が、自我の言い訳に打ち消されてしまうと、過ちを犯すことになります。

同じ過ちを犯す時に、再び良心の声がします。

その声を無視して過ちを犯します。

繰り返す内に、良心の声は次第に小さくなり、やがて聴こえなくなります。



1つ1つの過ちは小さく思えても、積み重なると大きくなります。

大きくなった過ちに、因果律が働く時が来ます。

そんな過去のことなどすっかり忘れていれば、降って湧いた災難にしか思えません。



因果律は、過ちに気付いて、正しい方向に導くために働いていました。

味わった苦痛は、過ちに対する正当な償いでした。



結果が生じる直前に、何の前触れもなくヒーリングの力が出現していました。

その力の正体ついて、どうしても知りたくなりました。

ほどなく、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会いました。



苦痛は償いであると同時に、魂を目覚めさせると言う、深甚な意味があります。

目覚めた魂が、真理を受け入れて行きます。

因果律の働きを、身を持って学びました。

ヒーリングの真の目的を知ることができました。

暗闇の中で「乗り越えられない苦難なない」という真理が光り輝いて、それにしがみついていました。

この苦痛の経験が、大切な真実を手に入れるために、どうしても必要でした。



今、こう思っています。

人生には計画がある。

出来事に無駄なものはなく、それぞれが意味を持っていて、連綿とつながって起きている。

学びや成長のために、最善のタイミングで起きている。

神の叡智は完全であり、神の計画は完璧であり、全てを織り込み済みである。



出来事は因果律の働きにより起こります。

原因を知ることができなければ、偶然にしか思えません。

苦痛を伴うのであれば、不幸な出来事としか思えません。



苦痛は進化を促す触媒です。

因果律の働きによって生じた苦痛は、自身が変わることを促しています。

命あるものは、因果律の働きによって、完全(神)に向かって導かれています。






2021年10月10日日曜日

不平不満は成長を妨げる


最近、聞き慣れない言葉を耳にしました。

それは「親ガチャ」です。

透明のカプセルの中に、フィギュアなどの玩具が入っている自動販売機のことを「ガチャガチャ」と言います。

入っている玩具は、当りもはずれもあり、どれが出て来るのか判りません。

それになぞらえて、子供は親を選べない、どんな境遇に生まれるのかは運まかせという意味だそうです。

その言葉の中に、世の中に対する不平不満が含まれていると思います。

正式名称は「カプセルトイ」


生命(魂)は生まれる前にも、死んだ後にも存在しています。

どの人の子供になるのかは、生まれる前に自分で決めています。

そんなはずはない、あんなひどい親の元に生まれることを、自分で決めていたはずなどないと、言う人も中にはいるでしょう。

もし選べるとしたら、優しく、裕福な親にするだろうと言う人は多いと思います。



この世に生まれて来る目的は、自分を成長させるためです。

逆境を乗り越えて行くことで、魂は成長します。

逆境とも言える家庭環境を克服して行くことを、1つの目的として生まれて来る人もいるでしょう。

また、過去生において何らかの過ちを犯し、償いのために苦痛を伴う環境に生まれて来る人もいるでしょう。



およその人生も、生まれる前に自分で決めています。

人生のどこかで、自分に足りない部分を補ったり、弱い部分を強くするための出来事が起きるように計画されています。

つらく苦しいのですが、それを乗り越えて行くことで、望んでいる自分に変わって行きます。

人生に偶然はありません。

全ては計画的に、目的を持って起きています。



私たちは、生まれてから今までの間、数限りない決断をして来ました。

小さな決断もあり、大きな決断もあります。

決断を実行することにより、何らかの結果が生み出されます。

生み出された結果に対して、また何かを決断し実行し、更に結果が生み出されます。



何かを決める前に、人から意見を聞いたり、忠告を受けたりすることもあるでしょう。

背後霊からの導きもあります。

しかし、最後に決めるのは自分です。

そこには誰も干渉できません。

自分で決めたことは、自分が責任を持つのが道理です。

好きに決められますが、常に責任が伴っているのです。



生まれる環境は、自分で決めています。

そして、生まれてからも、いろいろなことを自分で決めながら生きています。

今の自分は、その結果です。



全てが因果律の働きによるものです。

そこに不公平や不平等は存在しません。

今まで生きて来た通りの自分でしかいられません。

それ以上にも、それ以下にもなり得ません。




ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平選手

環境に恵まれ、才能に恵まれ、成功して地位や名誉を得ている人もいます。

そんな人生を、羨ましがる人がいるかもしれません。

豊かな才能を持っているほど、さらに高めて行くためには、並外れた努力を強いられます。

高い志を持ち続けられず、誘惑に負けてしまい、堕落してしまう人もいるでしょう。

地上では、外面しか見ることができません。

内面にある、苦しみや痛みや葛藤は窺い知れません。

もし、その人の人生をつぶさに見ることが出来たのならば、今の人生で良かったと胸を撫で下ろすかもしれません。



地上に生まれて来たからには、その人に果たすべき目的が存在しています。

もし何も目的がなければ、生まれて来る必要などありません。

目的がそれぞれ違えば、自ずと人生も違ってきます。

生まれる環境も、目的に応じたものになります。

従って、他人と自分の境遇を比べて不公平だと言うのは間違っています。

学び、成長するための機会が、公平に与えられています。



時々、こう思う時があります。

今までどれくらい、避けたり、諦めたりする方を選んでしまったのか?

愚痴を言って、自分を変えようとしなかったのか?

運命のせいにして、努力を怠ってしまったのか?

許ぜずに、怒りをぶつけてしまっていたのか?

人よりも自分を優先する方を選んでしまったのか?と

今までに、学び、成長する機会を逸するような、決断をどれ位してきたのか想像もできません。



死んで、向こうの世界に行くと、地上の人生を振り返る時が必ず来ます。

自分の行いの全てを見せられます。

自らが決めて取った行いが、どんな結果をもたらしていたのかが判ります。

すっかり忘れていた自分の行いが、思いもよらぬ結果となって表れていることも判ります。

過去生での行いの結果が、時を経て、この人生で表れていたことも判ります。

原因が全く判らなければ、理不尽な出来事にしか思えません。

運命や神を呪っている自分を見るかもしれません。



遠い過去から、原因と結果の連鎖を繰り返しながら、現在の自分に至っています。

運や偶然の入り込む余地は全くありません。

向こうの世界に行くと、そのことを知るので、不平不満を抱く人はいなくなります。



不平不満を言っている自分の姿を見たのならば、何も知らなかったとは言え、恥ずかしくなるでしょう。

原因が自分にあるのに、環境や運命のせいにしている姿は、ひどくみっともなく映るでしょう。

そして、不平不満を言うほど、周りのせいにするほど、自分が変わる機会を失っていることに気付くことになります。



変われなかった原因が、自分にあったのを知ったのならば、もう1度地上に生まれることを切望すると思います。

今度は、どんなことがあったとしても、不平不満を言ったり、周りのせいにしないと固く誓うでしょう。

逆境に生まれ、人生のどこかで相応しい出来事が起こり、試される中で、目的を果たして行くことになると思います。



過酷な環境に生まれ、苦難の多い人生なのに、不平不満を一言も言わず生きている人がいます。

そんな人は、過去の人生のどこかで、そのような経験をしていたのかもしれません。

成長を妨げてしまうことを、魂はすでに学んでいると思います。


尾瀬の歩荷(強力)







2021年10月3日日曜日

人生の計画と自由意志


今から16年前になりますが、ある日突然、ヒーリングの力が出現しました。

数週間後にシルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会い、直後に仕事で不正が発覚しました。

精神的に追い込まれて行く中で、いつしか霊的真理が支えになっていました。

そして、ヒーリングの力が出現した意味も判りました。

それぞれの出来事は偶然ではなく、密接に関連していて、計画的に起きていると思いました。



私たちは、およその人生の計画を決めて生まれて来ます。

生まれる国、どの親の元に生まれるのかも決まっています。

性別も身体的特徴も決まっています。

才能も決まっています。

寿命も決まっています。

しかし、全部が全部決まっているわけではありません。



人には自由意思が与えられています。

どちらに進むのか、やるのかやらないのかを決めているのは自分です。

シルバーバーチの霊訓には、このように書かれています。

「神は人間に一定限度内の自由意志を与えています。操り人形ではないのです。知性を持っています。理性を持っています。自分で判断し、決断し、反省し、自分の意見を形成し、体験から知恵を学ぶ能力を持っています。」



人生の目的は、自分を成長させるためです。

足りない部分を補い、弱い部分を強くするためです。

目的を果たすために、最適な人生が計画され、そして提示され、私たちは了承して生まれて来ています。



計画に沿って生きることで、生まれて来た意味(目的)を成就して行きます。

けれども、自由意志が与えられているために、計画された人生とは違う方向に進んでしまうこともあります。

計画された人生を全うするために、守護霊は付いています。

違う方向に進んで行かないように守護霊は働きかけているのですが、功を奏さずに、地上の人が誘惑や衝動に負けてしまう時もあります。

自然法則に反する方向に進んで行くと、苦痛を伴う何かしらの出来事が、因果律の働きによって起こります。

我に返り、元に戻る人もいるでしょう。



違う方向に進んで行くと、気が進まない、しっくり行かないなど、違和感を感じるかもしれません。

奥底にある自分の想い(願望)とは違うからです。

それでも続けていると、精神と魂の間で不調和が生じて、病気になる人もいるでしょう。

病気の苦痛により魂が目覚め、自分の想いに気付いて、進むべき方向を見い出す人もいるでしょう。

私がそうだったように、深刻な出来事が起こり、徹底的に追い詰められて、魂が目覚めて、計画していた方向に進んで行く人もいるでしょう。



違う方向に進み続けて、人生を終えてしまう人もいます。

死後に、この世の人生を総括する時が来ますが、事実を知って愕然とします。

もう1度、やり直しの機会が与えられることを強く望むでしょう。

願いが叶えられ、地上に生まれますが、再び誘惑や衝動にさらされる人生が計画されることになると考えられます。



私たちは、計画していたルートを走っていますが、決めなければならないポイントがあります。


どちらに進もうか、やるのかやらないのか、迷ってしまいます。

苦しそう、大変そうだけど、「こちらに行かなければならない」、「やらなければならない」と、心の中で声がしたのなら、迷わず進んで行きましょう。

そちらが、計画していたルートの可能性が高いからです。



人生に計画があるのは、効率よく自分を成長させるためと考えられます。

人には、たくさんの霊的な資質があります。

例えば、優しさや勇気も資質の一つです。

優しいけれども勇気の足りない人もいれば、勇気はあるけれども優しさの足りない人もいます。

足りない部分を補うために必要な経験は、自ずと違ってきます。



神の叡智により、必要な経験が計画されて、最適な時期に起きるようになっています。

地上の人にとっては、最も望まない出来事が、最悪のタイミングで起きたとしか思えない時もあります。



人は苦しみや痛みを経験し、大きく変わって行きます。

変わりながら、霊的な資質を身に付けています。



私たちが生まれる前にいた世界はどうでしょう。

働く必要もなく、煩わしい人間関係もなく、闘争もなく、病気にもなりません。

地上的な苦しみや痛みが取り払われた、穏やかで平和な世界です。

peachyより

そこでの生活は、言ってみれば、平坦な道を歩いているようなものかもしれません。



一方、地上での生活は、山道を歩いているようなものです。

坂道が続いたり、足元が悪くなったり、木が倒れて道を塞いでいる時もあります。

先も見通せません。



山道を歩く方が、平坦な道を歩くよりも鍛えられます。

不測の事態や危機的な状況に遭遇し、対応する能力も身に付きます。

自分を鍛えるため、必要な資質(能力)を身に付けるために、地上に生まれることを決めたのは、他ならぬ自分です。

けれども、そのことをすっかり忘れてしまいます。



私たちは、地上的な自我を前面に出して生きています。

地上的な自我は、安全を志向しているので、平坦な道を進んで行くことを望んでいます。

奥底にいる自分(霊的な自我)は、より成長する山道を進んで行くことを望んでいます。

両者の間で葛藤が生まれます。



奥底にいる自分は知っています。

計画した通りに進んで行けば成長することを。

勇気を出して、山道を進んで行かなければいけないことを。

それで後悔することはないことを。



山道を進んで行くことで、少しずつ成長して行きます。

その証拠に、険しい山道を進んで行った人は、後に同じ様な道を歩んだとしても、以前の様な苦しさは感じられなくなります。



計画していた方向に進むのには、勇気が必要です。

苦しい思いをすることが判っているからです。

それでも勇気を出して進んで行くのには理由があります。



霊界では、想い(思念)は直ちに具現化します。

地上では、想いを具現化するのに、精神や肉体を動かす労力が必要です。

進んで行く勇気や労力が、魂の成長に直結しています。



肉体のない霊界では、自分ではなく周囲に関心が向かうようになります。

他者のために、何かをしたくなります。

何かをするためには、地上の労力に値する霊力が必要です。



地上での経験は、魂を成長させ、霊界において、周囲のために何かをしようとする想いを高めます。

同時に、それを実現するための資質と霊力が培われます。



人生の計画が立てられ、自由意志により成長する方向に進んで行こうとするのは、世界(周囲)をより良くしようとする意志があるからです。

それは内在している神の意志だからです。







2021年9月26日日曜日

真の幸せ


宇宙には、どれ位の数の星が存在するのでしょうか?

地球が属している太陽系には、小惑星や彗星を含めると何と約5000個の星が太陽の周りを回っているそうです。

太陽系のある銀河系には、約2000億個の恒星があると言われています。

従って、銀河系にはざっと1000兆個の星がある計算になります。

NASAの最新の研究によると、宇宙には2兆個もの銀河が存在するそうです。

つまり、宇宙には1000兆×2兆個の星が存在することになります。

眩暈がするようなスケールの大きさです。



深遠な宇宙から見れば、地球はとても小さなユニットです。

ユニットを構成する全ての生命は、運命共同体のはずです。

それなのに、人間は傷つけ合い、動物たちを虐げています。

地球環境を破壊しています。



宇宙の彼方から、すでに未知の生命体が訪れているかもしれません。

地上に降りて来ないのは、同じ星の中で傷つけ合い、自分の住む星を汚している人間の姿を見て、友好関係を結ぶ気になれないせいかもしれません。



地上にいると、どうしても視野が狭くなってしまいます。

人間は多くのことを知っていると思っています。

けれども、全体から見れば何も知らないのに等しいのかもしれません。



視野が狭くなっているのは、空間的なものだけではありません。

時間的な視野も狭くなっています。

この世界に生きている時間が、全てだと錯覚しています。



視野が狭くなった地上の人は、過った考えに陥りやすくなります。

生きているうちに、せいぜい好きなことをしようと思います。

お金をたくさん蓄えようとしたり、地位や権力にこだわる人もいます。

そんな人たちが多くなると、世の中は殺伐として、諍いや対立が生じやすくなります。

全体のことなど考えなくなってしまいます。



生命は脈々と続いています。

生まれる前にも、死んだ後にも、生きる世界は存在しています。

目的があって、その世界を離れて地上に生まれて来たのです。

いざ生まれると、そのことをすっかり忘れてしまいます。



目的が分からずに、ただ漠然と幸せになろうと、生きている人は多いと思われます。

幸せになろうと生きるのは、決して間違いではありません。

しかし、幸せの意味や、なるための手段を、視野が狭くなっているので、取り違えています。



旅行に行って楽しければ、幸せを感じます。

おいしいもの食べたり、好きな物を買ったりすれば、幸せを感じます。

お金が入れば、幸せを感じます。



死んだ後に、私たちが赴く世界は、思念の世界です。

そこでは、好きなところに瞬時に移動することができます。

肉体はないので、食べる必要はなくなります。(地上に接した界層では、その習慣が残されています。)

物は消滅し、お金は価値を失います。

従って、そのようなことに幸せを感じていた人は、次の世界に行くと幸せを感じられなくなります。



どんなにお金があっても、高い地位を得たとしても、真の幸せを感じられないのは、際限がないからです。

そして、つかの間のものだからです。

真の幸せとは、永続性のあるものです。

次の世界に行っても、失われないものです。



永続性のあるものとは、霊的なものです。

例えば、ある人から大好きな物をプレゼントされたとします。

大好きな物であっても、時と共にどこかへ行ってしまうこともあるでしょう。

しかし、プレゼントを渡してくれた時の、その人の想いは心に遺ります。

時と共に、失われることはありません。

想いは霊的なものであり、永続性があるからです。




幸せになろうといくら努力しても、幸せにはなれるものではありません。

真の幸せは、探したり、求めたりするものではないからです。



誰かに喜んでもらった時に、幸せを感じます。

何かを成し遂げた時に、幸せを感じます。



自然法則の働きによって、人は他者のために尽くしたり、困難や障害を乗り越えることで成長します。

人は成長する行いをした時に、幸せを感じるようになっています。

全ての人は、幸せを感じたいと思っています。

神(自然法則)は、幸せを感じることを通して、成長を促しています。

成長して行く過程で得られる悦びの中に、真の幸せがあります。



この世の人生には、成長するための出来事が起きるようになっています。

そのために、人生のどこかで乗り越えなければならない出来事が必ず起きます。

他者のために奉仕をする機会が必ず訪れます。



地上では視野が狭くなっているので、目の前に起きた出来事の意味が判りません。

そのために、幸、不幸として片付けてしまうこともあります。

全ての出来事は自然法則の働きにより起きています。

偶然の入り込む余地は、全くありません。



宇宙を経綸している自然法則を創ったのは神です。

自然法則には神の心が顕現しています。

神の心は愛です。

全ての出来事は、神の愛が反映されています。

どんな過酷な出来事であったとしても。



苦しい思い、つらい思いをして乗り越えて来た人が、成長した悦びの中に真の幸せを感じるように、自然法則は創られています。

完全な公平が保たれていたことを知った瞬間、視野が一気に拡がります。

神の存在をありありと感じ、その限りない愛に感謝せずにはいられなくなります。






2021年9月19日日曜日

苦しみは進化を促す


毎日、仕事ではたくさんの指示を出しています。

忙しかったり、急いでいたりすると、その指示が適切でないこともあります。

指摘されると「ああ、そうか」と気付いて、言ってくれたことに感謝するようにしています。

しかし、自尊心が邪魔してしまい、そう思えない時もあります。



地上には、数多くの肩書が存在します。

会社組織であれば、社長、専務、常務、部長、課長などがあります。

肩書が上位の者から、下位の者に命令や指示が伝えられます。

もし、上位の者が下位の者に間違いを指摘されたり、注意されたりするとどうでしょうか?

肩書にこだわる人であれば、素直に受け取れないかもしれません。

人によっては感情的になり、怒り出す人もいるでしょう。



そんな感情は、自我によって生み出されると考えられます。

自我には、「霊的な自我」と「地上的な自我」の2種類あると考えられます。

私たちが普段意識しているのは地上的な自我(以下自我)です。

霊的な自我は、肉体が無くなったら、つまり死んだら表現される、潜在している自我と言えます。

自我は、快適かつ安全に生きようとするものであり、地上的なもの(金銭、肩書、名誉、容姿等)にこだわる傾向があります。

もし、肩書が下位の者から何かを言われて、反発を感じるのであれば、それは自我の働きによるもであり、地上的なものにこだわっている証拠です。



地上に生まれた人に、完全な人はいません。

霊界に行くと、真の自分が露わになり、未熟さや欠点が自覚されるようになります。

少しでも完全に近づくために、自分の未熟さや欠点を、あえて前面に出して地上に生まれると考えています。

わがままなことを自覚したならばわがままな部分を、不寛容なことを自覚したならば不寛容な部分をパーソナリティーとして生まれて来ると思います。



わがままや不寛容は、自然法則に適っていません。

わがままな部分が地上で表現されると、周囲との調和を乱す結果が生じることになります。

反発を買って、孤立してしまうこともあるでしょう。

因果律の働きによって、苦痛となって自分に返って来ます。



地上には、さまざまな人がいます。

自分にない美点を持った人もいれば、欠点を持った人もいます。

自分と違う人たちと共に生きるのは大変なことです。

しかしながら、美点を吸収し、欠点を改められるという、良いところもあります。



人と共に生きていると、自分の欠点を指摘されることがあります。

中には、傷つけようとしたり、優越感を持ったり、自尊心を高めようと、他者の欠点を責めるような人もいます。

そのようなエゴから発せられた言葉には、耳を傾ける必要はありません。



それとは別に、自分の欠点が表現されると、自らの良心に従って、過ちを指摘してくれる人がいます。

言われるとドキッとして、侮辱されたような、プライドを傷つけられたような気持ちになる時もあります。

そんな時は、改めるべき自分の欠点が、周囲にいる人を通して、指摘されているのかもしれないと思うようにしています。

言葉などの五感を通して、気付かせてもらっているのかもしれません。



自我の働きの強い人ほど、自分を守ろうとする意識が強いために、欠点を指摘されると反発すると考えられます。

自分を守ろうとするあまりに、指摘した人を非難することもあるでしょう。

何か理由を見つけて、指摘されたことを否定しようとします。



未熟さや欠点を正して、成長するために、地上に生まれて来たのです。

自分の未熟さや欠点が他者に表現されると、因果律の働きにより、他者から正すための言動が返って来ます。

真実を突いている言動ほど、耳が痛かったり、堪えたりします。

素直に受け入れられないかもしれませんが、それは今生で正すべきところかもしれません。

苦しみや痛みが生じるかもしれませんが、ありがたく受け止めた方が良いのかもしれません。



否定したり、怒りが生まれたとしたら、自我が反応していると考えられます。

そんな反応をしがちなのは、自我は変化を望まないからです。

否定したり、怒りでごまかせば、自分が変わらなくても済むからです。



変わろうと思っても、人はなかなか変われません。

そこで、神は苦しみや痛みを創造したと思います。

そして、苦しみや痛みを強く感じられる肉体を創造したと思います。

同時に、さまざまな人が生きる地上に、何度も生まれる自然法則を創造したと考えられます。



苦しみや痛みの究極の目的は、自分を変えるためです。

苦しみや痛みが生じたのであれば、変わるべきところが自分にあるはずです。

それが、否定や怒りに転化されてまうと、その目的は果たされなくなります。



自分は他者を良い方向へ変えるため、他者は自分を良い方向へ変えるために存在しています。

それぞれの人に、神が内在しています。

内在する神が発現することにより、他者を良い方向に変えて行きます。



不寛容を正すために生まれて来た人がいたとします。

地上でその部分が発揮されると、他者の失敗が許せなかったり、欠点を責め立てたりするでしょう。

少なからず周りの人につらい思いをさせることになります。

いつの日か、自分が大きな失敗をする出来事が起きて、因果律の働きにより今度は周りの人から許してもらえなくなり、責め立てられることになります。

絶体絶命の状況に追い詰められ、命運を握る人から、寛大な心をもって許しを得られたとしたらどうでしょう。

感謝すると共に、許すことの大切さを学ぶでしょう。

追い詰められた苦しみの中で、大切なことを学ぶ機会が訪れます。

一連のことが、人が進化することを目的として、計画的に起きていることがあります。



肉体的な苦しさは、精神的な成長を促します。

精神的な苦しさは、霊的な進化を促します。

魂が進化をすると、それまで感じていた精神的な苦しさが感じられなくなります。

進化するほど、苦しみから解放されて行くことになります。



進化するほど神の心が表現されるようになり、苦しみではなく悦びが感じられるようになります。

より深い悦びを感じたいために、人は苦しみのある地上に生まれて来ます。

地上の苦しみは、自分が変わり、進化を促すためにある触媒です。


「苦しみ」エゴン・シーレ 1912年


2021年9月12日日曜日

人生の伴走者


東京オリンピック・パラリンピックが終わりました。

当初は、コロナ禍での開催を疑問に思っていました。

いざ始まると、持てる限りの力を出し切り、良い結果が出た時の選手の歓喜の姿に、素直に感動しました。

中でも印象的だったのは、パラリンピックの女子マラソン(視覚障がいクラス)で、金メダルを取った道下美里選手の笑顔でした。



インタビューで、「最強の仲間と伴走者がいたので、ここに辿り着いた。」と答えていました。

この競技に出場する選手は視力が失われているので、伴走者が付いて一緒に走ります。

伴走者は、選手に進路を指示したり、ラップタイムや他の選手の情報を伝えたりしています。

今回のオリンピックでも、ラストスパートをかけるタイミングを計っていたのは伴走者であり、道下選手がそれに応え、最高の結果を得ることができました。



競技中だけではありません。

道下選手は、練習で毎月600~700Kmも走っているそうです。

当然のことながら、伴走者も同じ距離だけ走っていることになります。

これだけの距離を走れるのは、選手と伴走者は同じ目的に向かって進んでいる同志という思いがあるからでしょう。

そんなこともあり、優勝した歓びを分かち合い、感謝の言葉が自然に出たのだと思います。



伴走者には、1つのルールが課せられています。

それは、選手の前を走ってはいけないということです。

前を走ると、選手を助けた(助力)とみなされて失格することがあるので、前に行かないように、常に注意を払っています。



この競技を知って、あることを思い浮かべました。

地上の人と守護霊との関係です。

守護霊は、生まれた時から死ぬ時まで、生涯に渡り1人の地上の人に付いています。

選手がコースから外れそうになった時に、伴走者がコースに戻しますが、それと同じように、地上の人が予定していた人生のコースから外れそうになった時に、様々な手段を駆使して、元に戻そうとしています。



伴走者は言葉で指示を伝えていますが、守護霊にはそれは出来ません。

言葉を超えた思念で伝えています。

それがインスピレーションとなって地上の人に伝わっています。

もし、何の考えや、脈絡もなく、「こうしてはいけない」、「こうしなければいけない」そんな衝動が心の中に生まれたのなら、守護霊から思念が伝わって来たせいかもしれません。

両者が緊密な関係であれば、衝動も感じずに、無意識に行動に移していることもあると思います。



視力を失った選手の代わりに、伴走者は周りの状況を把握しています。

地上に生まれた人も、霊的な視力を失っています。

何のために生まれたのか、どんな人生を歩むのか、いつ死ぬのかも分からなくなってしまいます。

霊的に盲目になってしまった地上の人が、生まれて来た目的を果たすために、守護霊は付いています。



人生の要所で、正しい選択をするように働きかけています。

けれども、地上の人の自我が強くなってしまうと、働きかけが上手く出来なくなってしまいます。

欲に溺れたり、誘惑に負けたりして、道から外れてしまう時があります。

外れていることに気付いたり、その先で痛い思いをして、元に戻って来ることを期待して、守護霊は地上の人をなすがままにさせることもあります。

中には、死ぬまで元に戻らない人もいるでしょう。

そんな人は、死後に人生を振り返る時が来て、後悔することになります。

後悔を晴らすために、今度は道を外れないと決意をして、誘惑の待ち受ける地上に、再び生まれることになると考えられます。



マラソンでは、伴走者の走力が選手より高くないと、足を引っ張ることになります。

同様に、守護霊の霊格が地上の人よりも高くないと導くことはできません。

しかし、高すぎてしまうと波長が合わなくなり、インスピレーションは上手く伝わらず、導くのは難しくなると考えられます。

従って、守護霊として付くのは、地上の人と同じ類魂の上位にいる者と考えています。



選手が疲れてきて、苦しそうにしていれば、伴走者は「がんばれ!まだ走れる!」などと、声を出して励ましたり、気持ちを鼓舞しているでしょう。

地上の人が困難な状況に陥り、だめかもしれないと思いかけたのなら、守護霊は乗り越えさせようとして、必死に思念を送っているでしょう。

思念はエネルギーです。

受け取った瞬間、内から力が湧いて来るのが感じられるかもしれません。



選手に走ろうという気持ちがなければ、伴走者は必要ありません。

同様に、地上の人に何もする気がなければ、守護霊はお役御免です。

何かをしようとする意思に協調して、守護霊も動き出します。

迷っている時には、一歩を踏み出させようと後押をしているでしょう。

「何とかなる」「上手く行く」そんな前向きな気持ちが生まれたのなら、それは守護霊から思念が届いていたのかもしれません。



選手が走り出したら、伴走者も一緒に走り出します。

止まったら、一緒に止まります。

守護霊も同じです。

地上の人が動き出したら、守護霊も一緒に動き出します。

止まったら、動き出すまで、じっと待っています。



競技では、途中で歩く選手も、立ち止まる選手もいます。

疲労が限度を超えたり、体調が悪くなったのであれば、やむを得ません。

再び走り始める人もいれば、途中で棄権する人もいます。



人生は苦しくても棄権はできません。

立ち止っても良いでしょう。

動けるようになったら、前に進むしかありません。

進もうとする意思に守護霊は連動し、一歩を踏み出させようとしています。



止まっているのも、決して楽ではありません。

むしろ苦しみを感じます。

何故ならば、人は成長するように定められているからです。

苦しみを通して、成長する方向に進むように促されているからです。



死は、地上の人生のゴールです。

悲劇ではなく、苦しみからの解放です。

先に逝った人たちが待ち受けていて、ゴールを祝福してくれます。

そして、守護霊の存在に気付くでしょう。

地上から解放された喜びを共に味わいます。

やがて、地上の人生を振り返る時が来ます。

惜しみない援助を与えてくれたこと、予定されていた人生を歩むために導いてくれていたことが、はっきりと判ります。

目的を果たし、予期していた学びや成長が得られたことを知り、感謝の気持ちが湧き上がります。



たとえ存在は感じられなくても、守護霊が守り導いてくれていることを、強く信じましょう。

一人ぼっちになっても、守護霊だけはいます。

人生の主役は地上の人です。

責任は地上の人が負います。

従って、進む方向を決めたり、表立って助けることは許されません。

頼ってしまうと成長につながらないので、存在が感じられなくなっていると考えられます。

成長するために生まれて来た、地上の人の人生を並走しています。



目をつむりながらでは、怖くて歩けません。

走るのは、想像している以上に怖いはずです。

伴走者を絶対的に信じていなければ、思いっ切り走ることはできません。

両者は信頼と言う絆で結ばれています。

ちなみに、選手と伴走者を結ぶロープのことも「絆」と呼ぶそうです。


伴走者が右手に持っているのが「絆」(読売新聞より)


地上にいる私たちは、守護霊をもっと信頼して、怖がらずに、勇気を出して、思いっ切り人生を走らなければいけないと思います。



2021年9月5日日曜日

目的を果たした人が逝く


去年の3月、私の母親が亡くなりました。

脳梗塞で倒れて右半身が完全に麻痺し、言葉もしゃべれず、ベッドの上での生活を強いられました。

それまで病気もせず、元気に動き回っていたので、つらかっただろうと思います。



コロナが流行し始めた頃であり、危篤状態にならない限り面会は許されませんでした。

病院から連絡があり、家族が集まりました。

極めて親しい人の死を、目の当たりにしました。

意識がなくなり、呼吸が荒くなって来ると、こちらまで苦しい気持ちになりました。

同時に、死がすぐそこまで迫っているのを感じました。

徐々に呼吸が小さくなり、ついに止まりました。

全ての動きがなくなり、医師により死亡が宣告されました。

霊的真理を知る前の私でしたら、この瞬間、母と言う存在が消えてなくなってしまったと思ったでしょう。

「魂となって生きている」と言われたとしても、根拠のない慰めと聞き流したでしょう。

今の私は、不自由な身体から解放され、どこでも好きなところに行けるようになっているのが判っています。

先に次の世界に行っただけなので、また会えることも判っています。

霊的真理により無用な悲しみや苦しみを感じずに済んだのですが、そんな自分が薄情のようにも思えました。



ツクツクボウシの鳴き声も聴こえなくなり、夏が終わろうとしています。

セミが地上で生きている時間はせいぜい1、2週間です。

それまで何年もの間、地中で暮らしていますが、その生態は良く判っていません。

中には、17年間も地中にいるセミもいるそうです。

地中のアブラゼミ

セミは、地中の生き物だと思います。

捕食される可能性のある地上にわざわざ出て来るのは、地中にいたのでは繁殖できないためと考えられます。

短い時間で子孫を残すために、自由に飛べる羽を持ったと思います。

もしそうであれば、私たちが知っているセミは「特殊な姿」と言えます。

けたたましく鳴き続けるセミですが、最後の生命の叫びを聴いているような気がします。

目的を果たしたセミは、死んで行きます。



人も同じです。

地上での目的を果たした人は、自然法則に従って死んで行きます。

人の寿命は予め決まっています。

100歳を超えて生きる人もいれば、生まれて直ぐに死んでしまう赤ちゃんもいます。

生まれて来た目的は、それぞれ違います。

生まれる前に立てた人生の計画は、誰一人として同じではありません。

エンドポイントも当然のことながら違って来ます。



ところで、早く亡くなる人は、優しく、思いやりがあり、誰からも好かれる人が多いと感じているのは私だけでしょうか?

何でこんな良い人がと惜しまれるような人です。

「憎まれっ子、世にはばかる」ということわざがありますが、逆も真なりと思えてしまいます。

長く地上にいて、さまざまな経験をする必要のなかった、欠点や片寄りの少ない、霊的に成長した人のような気がしてなりません。



生きている時間が、あまりにも短い子もいます。

そんな子を知ると多くの人は哀れみます。

家族をはじめ、関わる人たちの悲しみ苦しみはより深いものとなります。

「命とは何だろう」「何のために生まれて来たのだろう」そんな問いが突き付けられます。



深い悲しみは、心の奥に眠っていた魂を目覚めさせます。

目覚めた魂が、問いに対する答えを見つけます。



生命とは魂です。

肉体を超えたものです。

視えなくなっても、変わりなく生命の営みは続いています。



もし、命がこの世限りのものであるならば、生まれて来た目的、生きている意味は、どこにも見つけられません。

無になってしまうのであれば、人生はうたかたの夢幻です。

人が生きている間を人生と言うのならば、生まれる前も、死んだ後も、人生は続いています。

一生懸命に生きよう、良心に恥じないように生きようとするのは、心の奥底ではそのことが判っているからです。



地上でしか経験できないことがあります。

果たすべきこと、借りを返すことがあったはずです。

そうでなければ、地上に生まれて来る必要はありません。



目的を果たした人は、地上にいる必要がなくなります。

本来の住処に戻ることができます。

そこで待っているのは、全てを分かち合っている人たちです。

地上での経験により、さらに想いが共有され、学んだことが全体のために活かされます。



地上にいるセミと同じです。

肉体を纏った地上の人は、実は「特殊な姿」なのです。

特殊な姿から、本来の姿に戻る現象が死です。



生きている時間が短くても、哀れむ必要はありません。

早く地上での目的を果たしたので、早く本来の姿に戻ったのです。

そう思えないのは、死んだ後の世界、そこでの生活が判らないようになっているからです。

この世界、この人生が全てと、間違った認識をしているからです。



死んだ後の世界が判らないようになっているのには理由があります。

地上に生まれた人は、未熟です。

未熟であるために、苦しみ、悲しみから逃れようとします。

自然法則の働きによって、苦しみや悲しみを乗り越えて行くことで人は成長します。

苦難を乗り越えて成長することが、地上に生まれて来た目的なのに、死んだ後にも生きる世界があることが判ったのならば、そちらに逃れようとする人もいるでしょう。

自らが決めていた人生を、自らが放棄するのは許されません。

先に待っているのは、苦から解放された世界ではなく、暗闇と深い後悔です。

その罪を償うために、さらに過酷な人生を歩まなければならなくなります。

そんな過ちが起こらないように、判らないようになっていると考えられます。



間違った認識をしていると、苦しむことになります。

その苦しみが魂を成長させて、真理を受け入れる土壌を整えて行きます。

死後にも生があるという真理を受け入れることによって、存在は息を吹き返し、愛せない苦しみから解放されます。

苦しみを通して、間違いは正されて行きます。



真理は光です。

太陽の光の中にいる時には目に入りません。

暗闇の中にいる時に、光り輝いています。

真理を手に入れるためには、どうしても暗闇の経験が必要なのです。



関わる人たちの成長を促すために生まれて来た人もいます。

死によって、真理を手に入れさせようとする成長した魂です。

そんな人が目的を果たして戻るのは、素晴らしい境涯に違いありません。

判ってもらえたのなら、地上に思い残すことはありません。





2021年8月30日月曜日

コロナに感染された人へのヒーリングを行います


新型コロナウィルスに感染された人へのヒーリングを行います。

ヒーリングによりどの程度の効果があるのかは未知数ですが、免疫機能が高まるのは確かなようです。

あるがん患者さんにヒーリングを行った後に、免疫機能を調べた結果、下のグラフに示すように NK(ナチュラルキラー)細胞活性が高まっていました。(NK細胞はウィルスやがん細胞などの異物を攻撃し排除する働きがあります)



ヒーリングは、全て遠隔で行います。

時間は15分~30分位です。

費用は一切かかりません。


ご希望の方は、このブログの一番下にある「コメントを投稿」から申し込んで下さい。

名前や住所、連絡先等は書かなくても大丈夫です。

感染された人が、ご家族やご友人等でも構いません。







2021年8月29日日曜日

不安をなくす


新型コロナウィルスの流行が止まりません。

身近に迫って来ている様に感じます。

感染したらどうしよう?

そんなことを考えてしまうと、心の中に不安や心配が生じます。




先のことを考えるだけでなく、人は過去のことも振り返ります。

あの時にこうしていれば良かった、こうしなければ良かった、過去の言動を振り返り、後悔の念に苛まれる時があります。

思っている以上に、未来や過去に捉われているようです。

「未来を心配しないで、過去を悔やまなければ、今だけを考えて生きれば良いので、人生の重荷は3分1にすることができる」と、イギリスの心霊治療家であるT.H.テスター氏は言っていましたが、全くその通りだと思います。




シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「私たちが闘わなければならない本当の敵は、無用の心配です。それがあまりに多くの人の心に巣くっています。単なる想像上の産物、実在しない心配事で悩んでいる人が多すぎます。だから私たちは‟取り越し苦労はやめなさい”と、繰り返し言うのです。自分の力で解決できない問題に直面させられることはありません。克服できない困難は起きません。重すぎて背負えない荷物は与えられません。」

実在していないものを想像しては生じる心配や不安や取り越し苦労は、霊界から見ると、とてもやっかいなものに映っているようです。

物質に囲まれて生きている私たちが理解するのは難しいのですが、こんなことも書かれています。

「霊界では思念は実体のある存在です。存在するもの全てが思念で創り出されているのです。ですから必要と思うものは、どんなものでも手に入れることができます。」

霊界から見ると、肉体は薄ぼんやりとしか見えず、発せられた思念は実体をもって見えるようです。

どうやら、頭の中で考えた(想像した)ものと、思念とは全く別なもののようです。




以前このブログに、地上の人は「地上的な自我」と「霊的な自我」が存在していると書きました。

地上的な自我は、シルバーバーチの霊訓に書かれている「パーソナリティー」、霊的な自我は「インディビジュアリティー」に当たると思います。

地上的な自我は、言わばこの世の顔であり、外部環境を認識し、より安全に快適に生きようとしています。

霊的な自我は、本当の自分であり、そこから思念が生まれています。

霊的な自我から生じた思念は、地上的な自我によって具体化され、肉体によって具現化されていると考えられます。

従って、霊的な自我は地上的な自我の上位に存在していると言えます。




思念が霊的に実体があると言われるのは、具現化する力を秘めているからと考えられます。

一方、頭の中で考えたもの(思考)に実体がないのは、具現化する力が備わっていないからと考えられます。

頭の中で考えたものに実体がないのであれば、そこから生じる不安や心配も実体はないはずです。

しかしながら、実体がない不安や心配が、地上を生きて行く上で大きな影響を及ぼしているのは深刻な事実のようです。

霊界から届けられる援助の通路を塞いでしまいます。

援助の力が届かなくなると、導きや、乗り越える力が得られなくなります。

ひいては、予定されている人生が歩めなくなる可能性があります。

そんな理由から、霊界の人は、地上の人が不安や心配を抱くことを、強く戒めていると考えられます。

不安や心配を生じさせないためには、先のことをあれこれと考えないように努めるのが1番です。

瞑想は、一時的に思考をしなくなるので、大いに有用と考えられます。

しかし、止めると再び考えてしまうので、不安や心配を払拭するのは容易なことではありません。




地上的な自我よりも霊的な自我の方が上位にあります。

思考よりも、思念の方が優っているのです。




思念とは、個の意思の発露と言えます。

何かをしようとする時、そこに意思があります。

仕事をしようとするのも、家事をしようとするのも、そこに意思の働きがあります。

趣味に興じている時も、運動している時もそうです。

何かをしている時には、意思が優先されて、思考の働きが抑制されるために、一時的に不安や心配が生じなくなります。




何かに挑戦する時には、心配や不安が生じるものです。

それは、失敗することを考えてしまうからです。

そんな時は、「成功させる」と意思を持つようにすれば良いと思います。

失敗すると言う「考え」よりも、成功すると言う「意思」の方が優先されるので、不安や心配は生じなくなるはずです。

そして、意思には具現化する力が備わっているので、成功へとつながって行くと思います。




何も考えていなくても、漠然とした不安や心配が生じる時があります。

そんな時は、過去の出来事で生じていた想いが原因になっているかもしれません。

例えば、子供の頃にひどく怖い経験をしたとします。

号泣するなどして、その時の想いが外に表現されれば良かったのですが、余りに怖かったり、幼かったりするとできなくなります。

そうなると、表現できなかった想いは内に滞ります。

表現できなかった想いが内在していると、何の脈絡もなく不安や怖れが生じることがあると思います。

子供の頃、虐待やいじめを受けていた人は、多かれ少なかれ表現できなかった想いを抱えていて、大人になってからも不安や怖れに苛まれることがあると思います。

トラウマと呼ばれるものの実体は、表現できなかった想いと考えています。




過去に生じていた想いを解放させるものが「愛」です。

愛されている、守られていると言う安心感が得られたならば、不安や怖れは生じなくなります。




漠然とした不安が生まれた時は、それは過去に起きた出来事が原因になっているのかもしれません。

その出来事が起きた頃の写真を見つけて、その時の自分をみつめながら、慰める、労わる、安心させる言葉をかけてみて下さい。

理由もなく、涙が出て来るかもしれません。

その時のいくばくかの想いが、今の自分の愛によって、涙となって外部に表現されて解放されたと考えられます。




他にも、不安や心配を和らげる方法があります。

守護霊を始めとする霊界とのつながりを意識することも大切です。

意識することにより、霊的な力が流れ込んで、それまであった不安や心配がスッとなくなるのを感じられる時もあるでしょう。

その力も、地上の人を思いやる、霊界の人から届く愛の力です。




不安や心配が生まれると苦しく感じられるのは、成長を妨げているものだからです。

不安や心配は、「思念の力」及び「愛の力」により消すことができると考えられます。

魂が進化するほど、不安や心配が生じなくなるのは、霊界とのつながりが深まり、神の力(愛)がふんだんに魂に流れ込むためと思います。

人生には確固とした計画があり、乗り越えられないことは決して起きないと言う、神の摂理の働きを信じられたのなら、不安や心配は生じないと思います。




先のことを考えないように意思を持って今を生きること、そして霊界とのつながりを意識し神の摂理の働きを信じることで、不安はなくなると考えられます。



2021年8月22日日曜日

二人三脚



もし今の私が、20年前の私に会って、こんなことを言ったらとしたらどうでしょう?

「あなたの人生は、初めから大体決まっているのだよ」

20年前の私は、

「何を馬鹿なことを言っているんだ。自分の人生は自分で決めている」と反論したでしょう。

それに対し、「それでは、生まれた国も、家庭も、性別も自分で決めたの?」と今の私が尋ねたとしたら、

「決められるはずがないだろう。それは偶然だ。」と言われて取り合ってもらえないでしょう。

人生はこの世だけと思っていれば当然です。




人間は肉体を超えた存在です。

生まれる前、そして死んだ後に肉体はありませんが、生命は変わりなく存在しています。

生命とは魂です。

魂はエネルギー体であると同時に意識体であり、この世の人と同じ様に意思決定をしています。

国も、親も、性別なども、自分(魂)が決めて生まれて来ています。




この世に生まれた目的は、自らを成長させるためです。

全ての次元においても、一貫して生きる目的は成長することですが、肉体を持ち、自分と違う人たちと接する、特殊な環境であるこの世でしか経験できないことがたくさんあります。

病気や障害を通して、学ぶこともたくさんあるでしょう。

争うことによって生じる苦痛を通して、大切なものに気付くこともあるでしょう。

自分を大きく成長させるため、大切なことを魂に刻み込むために、敢えて逆境と言われる環境に生まれ、過酷な人生を選ぶこともあります。

地上ならではの経験を通して、自分の弱いところを克服し、足りないところが補われて行きます。

自分を変えるために、生まれて来たのです。




人生には、おおよその計画があります。

その計画は、無限の叡智(神)によって立案されるので、自分を成長させるために最適な計画と考えられます。

起きる出来事には、学びや成長のために何かしらの意味があります。

けれども、この世の人にはそれが判らないので、何で自分がこんな目に遭わなければならないんだと思ってしまいます。




計画に沿って人生は展開して行きますが、至るところで自分自身で決めなければならない局面があります。

人間には自由意思が与えられています。

わがままや臆病や怠慢などにより、予定していた方向に進むべきところを、違う方向に進んでしまうこともあります。

違う方向に進んでしまえば、予期していた学びや成長は得られなくなります。

後に、そのことを知り、後悔することなります。




もしそうであるならば、予め計画が判っていれば、違う方向に進まずに済むのではと考えてしまいます。

学びや成長を得るために起きるのは、過酷な出来事が多いです。

不幸や凶事と言われるような出来事が、予め判っていたとしたらどうでしょう?

何とかして避けようと、躍起になるかもしれません。

あるいは人生を悲観したり、絶望してしまうかもしれません。

この世に生まれる人はそこまで強くありません。

まともな精神状態では生きていられないと思います。

そんな理由から、人生の計画は判らないようになっていると考えられます。




計画が判らなくなり、与えられた自由意思によって、間違った方向に進んで行かないように、成長を願う神の愛により、人生の水先案内人が付けられました。

この世の人には、必ず1人の守護霊がいます。

生涯変わることも、離れてしまうこともありません。




この世の人の計画が判っている守護霊は、間違った方向に進んで行かないように導いています。

間違った方向に進んで行きそうになると、阻むような思念を、この世の人に送っていると考えられます。

その思念を受け取ると、何となくそちらには進みたくないような、ためらうような衝動が生じると思います。

特別な理由もなく、自分の考えとは違う気持ちが心の中にふと生まれたのなら、それは守護霊から届いた思念かもしれません。




霊界にいる人たちは、この世の人がその先で遭遇するかもしれない事象を予見しています。

計画されていた人生を狂わすような事象であれば、回避させるように導いていると思います。

「何となく気が進まない」「どうしてもやりたくない」そんな気持ちが生まれたのなら、それは自分の考えではなく、霊界から思念を受け取った結果かもしれません。

学びや成長を放棄する方向に進もうとしているのであれば、そんな選択をしないように働きかけていると思います。

「逃げてはいけない」「避けてはいけない」そんな気持ちが生じた時には、正面から立ち向うように促す、霊界からの思念を受け取ったせいかもしれません。

「何とかなる」「もう少し頑張ってみよう」そんな気持ちが心の中に生れた時は、勇気付ける、鼓舞する思念が送られていたのかもしれません。




振り返ってみると、今までの人生でそんな場面はいくらでもあったような気がします。

人生は自分で切り拓いているつもりでも、実は守護霊からの導きや、強力な後押しによって、計画に沿うように生きていると考えられます。




導いてもらっていることや、後押しをしてもらっていることが、もっとはっきりと判れば良いのにと思うことがあります。

この世を生きる人は未熟です。

神頼みではありませんが、明確に判ってしまうと頼り過ぎてしまう可能性があります。

自力で何とかしようとするところに意味があり、頼ろうとした時点で成長が損なわれます。

そう言った理由から、霊界からの援助は、あからさまにならないよう、悟られないように配慮されていると考えられます。




時に、守護霊は導くのをやめて、なすがままにさせて、失敗を経験させることもあるでしょう。

痛い思いをさせて、過ちに気付かせるためです。

この世で生じる苦痛は、学びへとつながっています。




生まれた目的を果たすために、守護霊は付いています。

しかしながら、最終的に決めるのは自由意思が与えられているこの世の人です。

守護霊と言えども干渉はできません。

どんな方向に進んで行くのか、固唾を飲んで見守っています。




計画に沿うような方向を選んだのなら、守護霊は大いに喜んでいるでしょう。

しかしながら、それは苦難が待ち受けている方向かもしれません。

決めた瞬間から、目的としていた学びや、予期していた成長が得られるように、後押しする思念を送り続けるでしょう。




霊界の存在を心から信じることによって、つながりが深まります。

つながりが深まるほど、霊界の影響力は大きくなります。

守護霊からの思念が届きやすくなり、計画していた通りの人生を歩むことができると思われます。




朝起きた時に、今日1日を乗り越えられるように祈って下さい。

そう祈ることで、生きる力が湧き出るような思念をこの世の人に送ってくれて、その結果、不安や心配が和らぎ、勇気が湧いて来ると思います。

無事に乗り越えられた時には感謝して下さい。

この世の人の想いは霊界に届いているので、より多くの援助の力を授かれると考えられます。




1人ではありません。

霊界にいる人たちと一緒に、この世を生きています。






2021年8月15日日曜日

お盆に思うこと


今はお盆です。

お盆のことを良く知らなかったので、少し調べてみました。

亡くなった魂が戻る期間であり、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と呼ぶそうです。

ご先祖様が、あの世と呼ばれる世界(浄土)からこの世(現世)に戻って来ます。

生前、過ごした場所、主に自宅でお迎えして、再び戻っていくあの世での幸せ(冥福)を祈る機会となっています。

お盆の起源は、仏教の「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経に由来しているとされています。

盂蘭盆経の「盂蘭盆(うらぼん)」は、サンスクリット語の「ウラバンナ(逆さ吊り)」が起源であり、お釈迦様の弟子の一人、目連(もくれん)にまつわる言い伝えを表しているそうです。

その言い伝えとは、亡き母が地獄で逆さ吊りの刑を受けていることを知った目連が、母親を救済する方法をお釈迦様から聞くというものであり、お釈迦様の教えが「(旧暦)7月15日に供養する」というものだったことから、現在のお盆の風習が始まったとされています。



以前は霊の存在を信じていなかったので、魂が戻って来るなどと聞いて、全くの迷信だと思っていました。

霊的な知識を得た今は、迷信などではなく、実際に起きていることだと思っています。



ところで、シルバーバーチの霊訓には、ご先祖様のことについては書かれていません。

イギリスをはじめとするキリスト教圏の人たちは、祈りを捧げる対象は神やイエスだからなのでしょうか、先祖を祀る習慣はあまりないようです。

一方、東洋では血族関係を大切にして、多くの国で祀る習慣があります。

迎い盆では、お墓に行ってご先祖様を家に連れて帰りますが、当然のことながらご先祖様はそこにいるわけではありません。

いるのは霊界です。

年月がある程度経っていれば、幽界を抜けて、生まれる前にいた住処に戻っています。

長い年月が経っているほど、地上への関心は薄れていると思います。



それでも、縁のある人たちが家に集まって、自分のことを思い出してくれたのなら、懐かしさや愛着からその場に赴くでしょう。

忘れずにいてくれた、集まってくれたと、喜んでいるのに違いありません。

ご先祖様が家に戻る期間なので親族が集まると言うよりも、親族が集まって楽しそうにしているのでお盆に訪ねて来るのだと思います。



亡くなった人は視えなくなっても、消滅してしまったわけではありません。

生命の本質は、肉体ではなく魂です。

肉体は荼毘に付されて骨になっても、生命は変わりなく存続しています。

言葉は出せなくなりましたが、今も変わりなく魂から想いは放たれています。



亡くなった人がいる霊界は思念の世界です。

地上の人の思念は、霊界に届いています。

手を合わせて、あの世での幸せを祈ってもらえれば、とてもうれしく感じているでしょう。

そのお返しに、祈ってくれた地上の人の幸せを願っているのに違いありません。



ただ、霊界の人が感じている幸せと、地上の人が感じている幸せとはちょっと違います。

地上の人の多くは、何不自由なく、楽しく生活をすることが幸せと考えています。

霊界ではそうではなく、成長することに幸せを感じます。

何故なら、成長することは生きる悦びそのものだからです。



成長は、他者のために奉仕をすることで得られます。

働くのも家事をするのも、奉仕の一環です。

奉仕をすることで人は成長し、より高い愛を表現できるようになります。

親切心、寛容心、同情心を発揮することでも、霊性は高まると言われています。

地上での生活は、いろいろな人と接し、さまざまな体験をすることができるので、成長する機会に恵まれていると考えられます。



そして、人生で遭遇する困難や障害を乗り越えることでも成長が得られます。

乗り越えて行く過程で、魂は強くなって行きます。

より高い愛を表現するためには、それに相応しい強さが求められると考えられます。



地上と霊界では、出来事に対しての見方が全く違います。

例えば、宝くじを買って1等が当たれば地上の人は大きな幸せを感じるでしょう。

ところが、霊界では遊んで暮らすようになれば、成長する機会が大きく損なわれてしまうので、不幸の始まりとして捉えているのかもしれません。

地上の人は、困難や障害が起きると、災難として捉えることが多いです。

霊界にいる人には、その人が成長するかけがえのない機会として映っています。

「苦労は買ってでもしろ」と言いますが、それは成長として報われるからです

不幸や凶事と言われることは誰もが避けたいのですが、それが人生の転機となり、好ましい方向に人を変える、またとない機会として映っています。

「禍い転じて福となす」という言葉がありますが、幸福の始まりと捉えているでしょう。



霊界にいる人は、愛情を抱いている人に苦難が降りかかった時に、傍で固唾を飲んで見守っているでしょう。

「頑張れ」「あきらめるな」「あなたなら乗り越えられる」そんな励ましや、勇気付ける想いを送っていると思います。

肉体はもうありませんので、そんな想いを言葉にして直接耳に届けられないことを、とても歯がゆく感じているでしょう。



想いを交わし合いたいのは、向こうにいる人も同じです。

生きている次元が違っても、想いを交わし合うことは可能です。

その妨げになっているのは、地上の人の心のありさまです。

魂の存在や想いを信じなければ、魂にある受信機の電源を自分で切っています。

悲しみで溢れている時は、心が感情で一杯になり、想いを受ける余裕はありません。

頭で何かを考えている時は、自らが雑音を放っているようなものであり、想いを受け取る妨げとなります。

空っぽの頭の時に、受信感度は最大となります。



社会活動が停止し、日本のいたるところで手が合わされ、霊界に向けて思念が放たれているこの期間は、地上と霊界との関係が密になり、普段よりも霊的な空気に満ちているように感じます。

故人とつながりやすい状態になっていると考えられます。


姿は視えないけれども、いることを信じて下さい。

信じることができれば、魂はつながることができます。

想いが向けられていると信じて下さい。

つながりを通して、想いは伝わって来ます。



想いは言葉を超えたものです。

心の中で、突然イメージや概念が湧き上がったのなら、それは思い付きなどではなく、向こうからの想いがインスピレーションとなって魂に届いたのかもしれません。

インスピレーションとして感じられなかったとしても、急に元気が出たような、力が湧いたような、あるいは心がパッと明るくなったのであれば、それは想いを受け取って生じた、魂の変化かもしれません。

思念(想い)は、次元を超えて伝わるエネルギーだからです。



肉体はなくなっても、人となりは以前のままです。

幸いにも受け取れたのであれば、そのことに気付くでしょう。

何も変わっていないことに気付くことができたのであれば、悲しむのではなく、こちらからも変わらぬ想いを伝えるべきです。



いなくなってしまったと言う誤った認識が苦しみを生じさせます。

五感に触れない壁を乗り越えて信じることで、こちらの想いを伝えることができます。

伝えられない苦しみから解放されます。



伝えられないまま、逝ってしまったと悔やんでいる人がいます。

悔やむ必要などありません。

今からでも伝えることができます。

あえて伝えようとしなくても、地上の人の心の中は視えているので、全て分かっていると思います。



もっと愛してあげれば良かったと悔やんでいる人もいます。

悔やむ必要はありません。

愛する対象は全く失われていません。

今からでも愛することができるからです。



愛を感じているのは魂です。

想いは、向こうにいる人(魂)に確実に伝わっています。

悔やむのではなく、その人の想いを信じて下さい。

そして、向こうでの幸せを祈って下さい。

それが愛することだと思います。



向こうにいる人は、早く再会したいと思っています。

けれども、地上の人には決められた寿命があります。

果たさなければならない約束もあります。

そのことを知っているので、同じ次元で一緒に過ごしたい気持ちを抑えて、その時が来るまで傍で見守っています。

想いと言う目に視えないエネルギーを送って、地上の人を良い方向に導き、ここぞと言う時に助けてくれます。

それが、先に逝った人の愛情表現です。

生きている次元は変わっても、想いは何も変わっていません。





2021年8月8日日曜日

新型コロナウィルスの流行について ~改めて思うこと~

 

新型コロナウィルスの流行の勢いが増しています。

既に世界では2億人を超える人が感染し、423万人が亡くなっています。

一刻も早く収束することを望んでいますが、人間をあざ笑うかのように、ウィルスは静かに拡がっています。



コロナウィルスは、もともと野生動物と共生していたと考えられています。

その野生動物と人が接触したことによってウィルスに感染し、感染したウィルスが突然変異をして、人から人へと感染するようになったと考えられます。

もし、野生動物との住み分けが出来ているのであれば、宿主との接触はないため、人が感染することはありませんでした。

ところが、開発のためにウィルスの宿主となっている動物の生息する領域に、人は足を踏み入れています。



エボラ出血熱やマラリアなど、多くの伝染性ウィルスは熱帯付近に住む動物や昆虫を宿主にしています。

近年、地球温暖化が進んだことによって、宿主となっている動物や昆虫の生息域は拡がっていると言われています。

雲南省の洞窟に住むコウモリは、新型コロナウィルスのゲノム(遺伝子)配列と96%一致しているウィルスの宿主となっています。

ベトナムに隣接する亜熱帯性の気候の雲南省にいた宿主のコウモリが、地球温暖化に伴い中国北部に生息域を拡げていった可能性もあります。

いくつかの条件が重なって、コロナウィルスの宿主となっている動物と人が接触してしまい、新型コロナウィルスが誕生したのではないかと考えられます。(雲南省で過去に起きた感染症の患者から採取したコロナウィルスが武漢の研究所に保管されていたという説もあります。)



ここ100年で地球上の温度が0.64度上がっています。

数千年間、ほとんど変化がなかったことを考えると激変と言えます。

ご存知のように、地球温暖化は空気中の二酸化炭素濃度の上昇によって起こります。

二酸化炭素は、人間の生産活動に伴い化石燃料(石油)が燃焼されて排出されます。

先進国では規制されつつありますが、発展途上国では野放し状態です。(しかし先進国が辿ってきた道なので後進国を非難できません)


去年の今頃は、世界中の人が新型コロナウィルスを恐れて、人と接触する行動を控えていました。

そのために、産業革命以降最大の温室効果ガスの排出が減少したそうです。

よく考えてみると、地球規模でこれだけ人間の行動を抑制させるものは、ウィルスの他存在しません。

偶然の産物ではなく、人間による地球環境の破壊を防ぐための安全装置のようなものが、自然の中に仕組まれていたのではないかと思っています。



この宇宙には、目に視えない自然法則が隅々まで働いています。

自然法則を創造したのは神です。

神の心は愛です。

神の愛が、自然法則によって表現されています。

わがままや自分勝手を、神は好みません。

地球上で人間があまりにも利己的で傲慢で貪欲になり、それが神の心に反しているために、自然法則が作動して、世界規模でウィルスの流行が起きたと私は考えています。

その証拠に、苦痛を被っているのは人間だけです。

今回のウィルスの流行は、人間の行動を抑制するので、地球温暖化によって多大な被害を被っている罪のない動物たちにとって歓迎すべきことです。

地球温暖化の犠牲になったシロクマ


地球上の生命を、人間は尊重しなければいけません。

具体的には、温暖化の抑止に真剣に取り組み、野生動物の棲む森林に勝手に人間が入らないようにしなければいけません。

個々のレベルでは、不必要な消費や移動を控えることが大切です。

簡単に言えば、質素に暮らすことです。

1人1人の人間が、地球全体のことを考えて生きることで、この様なウィルスの流行を防ぐことにつながると考えられます。



今、起きている流行を止めるためには、人と人との接触をなくすしかありません。

しかし、生活して行くためには人と会わなければならず、仕事もしなければいけないので、現実的に不可能です。

人と人との接触が避けられない現代社会において、長期間に渡って流行が続くと考えらえます。



麻疹や風疹などのウィルスは1度感染すると、2度と移りません。

しかし、今回のウィルスは1度感染しても、変異をするので、再び感染する可能性があります。

イギリスの政府系の研究機関では、今後も高い確率で変異種が出現し、サーズの10%やマーズの35%に匹敵する致死率を持つ変異株が発生する可能性があると報告しています。

流行が続く中で、今まで経験したことのない、感染力が強く、しかも強毒のウィルスが出現してもおかしくありません。

絶対にそうあって欲しくありません。



流行を止める、最も有効な手段としてワクチン接種が挙げられます。

ワクチン接種には、賛否両論があります。

人為的に作られたものであり、私自身も接種したくありませんでした。

臨床試験も十分でなく、長期的な経過も追えていないので、この先どんなことが起きるのか判りません。

接種後の副反応が強く出る人は想像以上に多く、亡くなってしまった人もかなりいて、その事実が隠蔽されている様にも思えます。(最近になり2回目接種後に4分の3の人に発熱があったと公表)

そんな理由から、ワクチンに対して不信感を持つ人がいても仕方がありません。



ワクチンにより、全ての問題が解決するわけではありません。

しかしながら、重症化が抑えられ、より多くの人の命が救えるのは歴然とした事実です。(2021年6月アメリカでの死亡者の99.2%は未接種、2021年8月大阪でワクチン2回接種した人の重症者0%、死亡者0%)

ウィルスに怯えながらの生活に対し、いくばくかの安心感も得られます。

未接種で感染した時のリスクと、接種して生じる副反応のリスクを勘案すると、前者の方がはるかに大きいのではないでしょうか。



これは全く個人的な意見です。

以下の2つのことを実行すれば、新型コロナウィルスの流行は収束に向かうのではないかと思います。

1.世界中の人に満遍なくワクチンを行き渡らせる。

2.人に移さないためにマスクをする。



そこに立ちはだかるのは、人間の利己性です。

自分さえ良ければと言う考えが、世界中の人にワクチンが行き渡るのを妨げます。

イスラエルの人は3回目の追加接種を行っています。

片や、イスラエルが実行支配している隣り合わせの地域に住むパレスチナ人たちは、未だに受けていません。

アメリカではワクチンを受けた人にお金を与えているそうです。

また、3回目の追加接種を見合わせるWHOの要請を拒絶しました。

ほとんどの人が接種できていない国があるのにもかかわらず、一部の国では余剰なワクチンを持っているようです。



自国で必要十分なワクチン接種が終わったら、まだ受けていない国に回すべきです。

国が貧しくワクチンを買えないのであれば、富める国が援助するべきです。

そうすれば、世界中の人にワクチンは行き渡るはずです。



一部の国で過剰にワクチン接種がされ、一部の国では全く行き渡らない、これは利己性以外の何者でもありません。

明らかに、神の心(自然法則)に反しています。

このような状態が続く限り、ワクチンが接種されていない国において流行は収まるはずはありません。

一部の地域で感染が続く中で、ウィルスに変異が起きる可能性があります。

ワクチンを無力化させるようにウィルスが変異すれば、再びワクチンを接種した国にも流入し、感染が拡がって行きます。

そんなことを何度か繰り返しているうちに、世界中のすべての人に同時期にワクチンが行き渡らなければ、流行は収束しないことに気付くのかもしれません。




無限大の宇宙の中に存在している小さな星が地球です。

そこに住んでいる全ての生命は同胞です。

人間同士は、同胞の中の同胞です。

1人1人の肉体は独立していますが、人類は霊的に一体です。

一体であれば、持つ者が持たざる者に分け与えるのは当然です。

しかしながら、地上では自由競争や個人主義という名の元に、貧富の差があって当然と、多くの人が思っています。

富める国の人たちは、貧しい国の人たちが苦しんでいるのを見て見ぬ振りをしています。

コンビニで廃棄される食品

アフリカの飢えた子供

今まではそれで良かったのですが、今回はそうは行きません。

助け合わなければいけません。

苦しんでいる人や動物に気付いていない、あるいは無視し続けてきたので、神の心(自然法則)が働いたのではないでしょうか。

地球は1つであり、生命は1つであることに気付かせる意図があるのかもしれません。

もしそうであれば、国単位ではなく、地球単位でウィルスの流行を収束させなければいけません。



小さなことですが、流行を収束させるにはマスクをすることも大切です。

マスクをする目的はウィルスを移されないためですが、霊的に見れば人に移さないことに意味があります。

マスクをしないのは個人の自由ですが、利己的な振る舞いであるため、流行を収束させる妨げとなります。



ワクチンを接種したら重症化は防げますが、感染が防げるわけではありません。

世界中で今流行しているデルタ株は、ワクチンを接種した人でも感染する可能性があり、感染すれば未接種者と同等のウィルスを排出すると言われています。

イギリスやアメリカなどワクチンを多くの人が接種している国でも、再び感染が拡がっています。

その理由の1つに、自分はもうワクチンを打ったから大丈夫と、マスクを外してしまったために、知らずに人に移していることも挙げられます。


利己的な行動によってウィルスの流行は拡大し、利他的な行動によって収束すると考えられます。

ウィルスの流行という自然現象を通して、神の心に適った行いをするように正されているような気がしてなりません。



自然現象にも霊的な側面があります。

新型コロナウィルスは、人間の利己的な行動が原因で発生し、そして流行していると思われます。

人類全体が、結果責任を負わされています。

個々の人間が全体を考えて行動することによって、原因は取り除かれて行き、その結果として流行は収束すると思います。



地上で最も進化しているのは人間です。

進化しているほど、他者のことを考え、利他的な行動をしなければいけません。

ところが、多くの人間が目に視えるものを追いかけて、利己的になっています。

そのために、地球全体に悪い影響を与えています。

過ちは、自然法則の働きによって正されて行きます。

苦痛を味わいながら、人類は望ましい方向に変わって行きます。



追記:科学的な根拠があるわけではありませんが、m‐RNA(メッセンジャーRNA)ワクチンは生物学的な問題が生じる可能性は少なく、一方、ウィルスベクターワクチン(アストラゼネカ社製やジョンソン&ジョンソン社製等)は核内に入りDNAに組み込まれるのでリスクがあると考えています。

DNAは神が創造した人間の設計図なので、触れてはいけないと思います。


2021年7月31日土曜日

出来事が自分を変える


東京オリンピックが行われています。

コロナ禍で開催するのは、正直なところどうかと思いました。

しかし、全力で挑んでいる選手たちの姿を見ていると、心を動かされて、応援してしまいます。



オリンピックで結果を出すために、選手たちはどうしていたのでしょうか?

当然ですが、毎日のように厳しい練習をしていたはずです。

けれども、行き当たりばったりの練習をしている人はいません。

専属のコーチが付いて、目標を設定して、綿密な練習プログラムを立てて、実行していると思います。



人生も同じだと思います。

この世に生まれて来たのは、自分(魂)を成長させるためです

自分(魂)にない資質を獲得するため、あるいは既に持っている資質をさらに高めるためです。



魂の資質には、いろいろなものがあります。

シルバーバーチは慈悲、慈愛、寛容心、協調的精神、奉仕的精神などがあると言っていますが、勇気も資質に入ると考えています。

持っている資質が、人によってそれぞれ違うために、個性が生まれるのかもしれません。

例えば、優しいけれども、勇気がない人がいます。

その逆に、勇気はあるけれど、優しさがない人もいます。

優しさも勇気も大切な資質あり、神の心を表現するために必要です。



スポーツ選手が結果を出すためには、理に適った練習が必要です。

マラソン選手に、重いバーベルを持ち上げるような練習は必要ありません。

持久力をつけるために、走る練習をした方が良いに決まっています。

一方、ウェイトリフティングの選手が、毎日数十キロを走る練習をしても、あまり効果はないでしょう。



求めるものを手に入れるためには、それなりの対価を払わなければなりません。

自分にない資質を手に入れるためには、理に適った経験をしなければいけません。

勇気がなければ、何かに挑む経験が必要になるでしょう。

挑む時に、勇気を出さなければならないからです。

例えば、リスクを伴う難しい手術を受けなければならない病気になったとします。

そうすれば、否が応でも勇気を出すことを強いられます。



優しさがないのであれば、まず優しさの大切さに気付く経験が必要になります。

死ぬか生きるかの状況になり、もうダメだと諦めかけた時に、周囲から救いの手が差し伸べられたとしたらどうでしょう?

あるいは、自分一人で何もできない状態になり、周囲の助けが必要な人生を送ったらどうでしょう?

優しさの大切さが、痛いほど判るはずです。

本当に大切なことは、実体験を通して学ぶしかありません。



私たちの人生には、シナリオが存在します。

シナリオに沿って、ごく自然に人生が展開して行きます。

シナリオが存在する理由は、効率良く地上での目的を達成するためと考えられます。

勇気が十分にある人に、勇気を出す出来事が必要でしょうか?

優しさが十分にある人に、優しさの大切さを気付く出来事が必要でしょうか?

理に適った、最善の出来事が組み込まれた人生のシナリオが、無限の叡智の働きによって立案されます。



目的が違えば、相応しい経験は違い、そのため人生も違うのは当然です。

従って、自分と人の人生と比べても仕方がありません。



もし、出来事が偶然であれば、この世界は混沌としたものになります。

シナリオなど存在するはずもなく、人生は行き当たりばったりです。

全てが運に支配され、運の良いと悪い人に分かれます。

不公平極まりないものになり、不平不満が渦巻きます。



不運を嘆いてはいけません。

人を羨んではいけません。

この世で終わりではないからです。



死を通して、次の世界とつながっています。

私たちは、自分にない、あるいは足りない資質を身に付けるために、この世に生まれて来ました。

そこまでして身に付けるのは、より自分を活かせるようになり、全体に調和をもたらすためです。

それが生命に与えられた宿命です。



死んだ後に、この世の人生を振り返る時が来ます。

一部始終を目の当たりにして、一喜一憂することになります。

人生で起きた出来事に、どの様に対処したのかが問われ、自分で自分を裁定することになります。



何のために生まれたのかを思い出します。

その出来事が必要だったことを思い出します。

自分が了承していたことを思い出します。



不運を嘆いたり、運命を呪ったり、人や世の中を憎んだりして、人生が終わってしまえば、必ず後悔します。

自分が変わるために、その出来事が起きているのに、絶好のチャンスを逃してしまったことを知るからです。

何かのせいにした時点で、自分は変われなくなります。



自分のせいで、自分が変われなかったと悔やみます。

後悔が大きければ、地上にもう1度生まれて、晴らすチャンスが与えられます。

同じ状況になるシナリオが用意されて、今度こそは自分を変えると決意をして、相応しい母体に宿ります。



そんなことなどすっかり忘れて、同じ状況に向かって人生は展開して行きます。

ついに、その時が来ます。

どんなにつらくても、逃げたくない、乗り越えなければならないと、強く思えたとしたら、そんな理由があるのかもしれません。

同じ過ちを繰り返さないために、守護霊も全霊で働きかけているでしょう。



自分自身にした約束を果たしているのです。

自分の中で何かが変わったとしたら、既にその出来事を乗り越えていて、生まれた来た目的の1つを成就していることになります。



オリンピックですが、最高の栄誉はメダルを取ることです。

目的に向かって、アスリートたちは血のにじむような努力を重ねてきたと思いますが、その栄誉を勝ち取る人もいれば、一歩及ばなかった人もいます。

メダルはおまけみたいなものかもしれません。

その競技を通して、自分を変えることが、何よりも大切だからです。

メダルを取って満足してしまい、その後の人生を軽んじてしまう人もいるかもしれません。

一方、メダルが取れなかったので、それに代わる報償を手に入れようと、その後も奮闘努力を続ける人もいるでしょう。

死んだらメダルは地上において行かなければなりません。

けれども、得られた成長は、次の世界に持って行けます。



次の世界に行って何より悦びを感じるのは、つらかった、苦しかったけれども、霊的な資質を手に入れ、望んでいた自分に変われたのを知った時です。

次の世界で、その資質を全体のために活かすことで、さらなる悦びとなります、




新型コロナウィルスが変異したデルタ株の感染力は非常に強いです。

それにもかかわらず、危機的状況に慣れてしまって、脇が甘くなっています。

感染は一瞬です。

もう1度、初心に帰り、リスクを回避する行動を心がけて下さい。




2021年7月25日日曜日

許しのメカニズム


子供の頃、学校でケンカをすると先生に呼ばれます。

先生は両者の言い分を聞いて、悪い方を謝らせて、もう一方に「許してやりなさい」と言います。

自分に非がなければ、もちろん相手に対して怒っています。

投げやりに「ごめんなさい」と言われようなものなら、許せるはずもなく、怒りが倍加してしまいます。



地上は、自分とは違う様々な人と関わり合いながら生きる世界です。

そのために、許せないようなことがしばしば起きます。

去年、池袋で凄惨な交通事故が起きました。

加害者の男性は、自分の非を認めず、謝罪もしないので、遺族の男性は許せるはずもありません。

どんな想いでいるのか分かりませんが、ひどく苦しんでいると察せられます。



当然のことですが、対象を許していなければ、怒りや憎しみが生じます。

怒りや憎しみが生じると、因果律の働きにより、苦しみが生じます。

内にあると苦しいので、外に表現して出したいのですが、攻撃的あるいは暴力的なものになってしまうために、多くの人は控えています。



人から「許してあげなさい」と、どんなに言われても、許せるものではありません。

許そうと努力をしても、許せるものでもありません。

許す、許さないは、自分の意志とは別次元の問題だからです。



人間は、霊(魂)、精神、肉体から成り立つ存在です。

食物を食べて、それをエネルギーに変えて、肉体は活動をしています。

魂は、それとは別次元のエネルギーが供給されて活動をしています。

「生命力」とも言える、神的なエネルギーです。

精神はそのエネルギーが変換されたものによって活動をしています。



神的なエネルギーにより生命は活動していますが、供給される「量」は精神のあり方によって影響を受けています。

精神のあり方は、環境によって大きく変化します。

身に危険を感じれば、怖れや不安が生み出されます。

怖れや不安、取り越し苦労があると、エネルギーの供給は妨げられてしまいます。

エネルギーの供給が少なくなれば、それに伴って精神活動は停滞してしまいます。



また、エネルギーの「質」は、受け取る側の魂の成長度によって変わります。

成長度が低ければ、高いエネルギーを享受できません。

成長度が高い人ほど、より神性を帯びたエネルギーを受け取ります。



精神は霊(魂)の反映です。

自分の霊性を超えた精神活動は出来ません。

それぞれの成長度に見合った、精神活動を行っています。

精神活動は肉体的表現によって成就されるので、その人の言動には魂の成長度が反映されていることになります。



同じことをされても、怒り心頭の人もいれば、怒りが生じない人もいます。

性格の違いと言えますが、魂の成長度が反映されていると考えられます。

成長するほど、愛を帯びたエネルギーが流れるので、怒りは生じにくくなります。



私たちは、精神を通して魂(自分)を表現しています。

精神は、地上の影響を受けて、絶えず変化しています。

地上では自分と違う人たちと生活しています。

そのために、お互いの違いを認め合わなければ反発が生じます。

また、肉体があるために利己的になりがちです。

そんなことから、他者から思いもよらぬ苦痛を伴う行為を受けることがあり、精神は大きく変化して、エネルギーの質は歪められて、時に怒りや憎しみが生じてしまうことがあります。

神から供給されるエネルギーは完全ですが、それを受け取る魂で制約を受け、精神によって歪めらてしまいます。



神は独立した存在ではありません。

全宇宙です。

私たち人間も神の一部です。

1人1人は神とつながり、全生命とつながっています。

それぞれが独立しているように思えますが、それは肉体しか視えないからであり、霊的にはつながっています。



全生命は、神の心を表現するために存在しています。

神の心は愛です。

より高い愛を表現するためには、私たちは成長しなければならず、そのために地上に生まれて様々な経験をしています。



地上の苦しみが、根本から自分を変えて行きます。

怒りに苦しまないためには、魂を成長させて、寛容になるしかありません。



神の公正は完璧です。

過った自由意思の行使によって起きた出来事、非のないことで生じた苦しみに対しては、魂の成長をもたらしていると考えられます。

それが、シルバーバーチが言う「埋め合わせの法則」の働きと考えられます。

北朝鮮に拉致された被害者のご家族を見て思うところがあります。

拉致された横田めぐみさんのお父様である滋さんは、去年亡くなられました。

理不尽な理由で我が子を誘拐され、40年以上にも渡り想像を絶する苦しみを味わって来られて、ご自身が望んでいたわけではありませんが、極めて高い寛容心を身に付けられていたのではないかと、優しく、柔和な姿を見る度に、勝手に想像していました。

地上を去り、あらゆる制約が取り払われた今、めぐみさんの元に赴き、その姿を間近に見れるようになり、安堵されていると思います。

出典:朝日新聞デジタル



許そうと思っても、許せるものではありません。

許しとは、意識的な作業ではありません。

自分が変わり、成長することによって成就されます。

許せなかったことを、許せるようになるのは、自分が変わり、魂が成長したからです。

許しとは、魂が成長することにより、神性を帯びたエネルギーを受け取るようになり、怒りや憎しみや恨みなどから解放されることです。



許せないようなことが起きるのは、地上ならではです。

低い界層を除いて、同類の人間しか周りにいない霊界においてはあり得ません。

貶められたり、裏切られたり、傷つけられたり、大切なものを奪われれば、許せないのは当然と言えます。

けれども、許すことのできない事象は起こりません。

全てが自然法則の働きの枠内で起きているからです。

そして、私たちは神の心を宿しているからです。



全ては許す方向に向かっています。

魂が成長するように定められているからです。

許せないと苦しいのは、自然法則の働きによって、許す方向に導かれているからです。



池袋の交通事故で、ご遺族、加害者の双方に必要なのは、霊的な真実です。

亡くなったご家族は今も生きていて、また会えることを知れば、ご遺族の苦しみは少しは和らぐでしょう。

事実から目をそらし、非を認めようとしない加害者を哀れに思います。

不注意で起こした事故そのものよりも、非を認めずに謝罪しないために遺族に与えた苦しみの方が罪が深いと考えられるからです。

法律から逃れられても、法則から逃れることは絶対にできません。

その先で苦痛による償いをしなければならないことを知れば、慌てて許しを請うかもしれません。

神の法則の働きを知ることで、許しへとつながって行くはずです。


2021年7月18日日曜日

シルバーバーチの霊訓と私


便利な時代になったと思います。

夜中に書類を書いていて、ボールペンのインクが切れても、近くのコンビニに行けば手に入ります。

昔は、文房具店が開くまで待ったものでした。



少し前までは、わからないことがあれば、図書館に行って調べたり、人に聞いたりしました。

今は、パソコンやスマホがあればすぐに判ります。



インターネットの普及により情報が簡単に手に入るようになりました。

その反面、必要のない情報で溢れ、惑わされているような感じがします。

正しい情報ばかりではなく、間違った情報もたくさんあり、それにより不利益を被ることもあります。



霊的な情報に関しては玉石混交です。

いろいろな人が、いろいろなことを言っています。

間違った情報を鵜呑みにしてしまう人もたくさんいるでしょう。

前世についても然りです。

自尊心をくすぐるようなことを言われれば、つい信じたくなるでしょう。

真偽を確かめようがないことなので、注意をしなければいけません。



霊的なことに無知だった私が、病気を癒やす力が出ているのに気付いたのは16年前のことです。

その数週間後「シルバーバーチの霊訓」と出会いました。

初めて読んだ時は、正直なところピンと来ませんでした。

本をパラパラとめくりながら眺めている時に、仕事上の不祥事が起こりました。

青天の霹靂でしたが、自分の過去の過ちが突き付けられ、次第に追い込まれて行きました。

シルバーバーチの霊訓に書いてあった「因果律の働き」は、信憑性を持って私に迫って来ました。

その報いは、予想された中で最も重いものとなりました。

歯科医師としての信用を失い、患者さんは離れ、この職業を辞めなければいけないと覚悟しました。



人生最大の挫折、屈辱を味わいながらも、シルバーバーチの霊訓を読み続けました。

先の見えない日々が続く中、本の中に書いてある文章が響き渡りました。

中でも「乗り越えられない困難はない」という言葉は心に残りました。

本当にそうなのかと思いながらも、ダメかもしれないと思うと絶望と不安に襲われてしまうので、この言葉にすがりつきました。

そうだと信じることで、前向きなることができました。

どうにか乗り越えられて、現在に至っています。



このブログを通して、知り合った方がいました。

その方は、ステージ4(末期)のガンの女性でした。

ヒーリングを何度か行いましたが、しばらくすると妊娠したと伝えられました。

正直なところ、子供を産むどころの話ではありません。

産む前に、命が尽きてしまうのではと思いました。

心配をよそに、元気な赤ちゃんを出産することができました。

困難を乗り越えられる(産むことができる)からこそ、自然法則の働きにより、赤ちゃんを授かったと思いました。

最近、連絡が取れていませんが、ご存命であることを心から祈っています。



子供の頃から、何で生きているのだろうと、物思いにふけることがありました。

答えを見い出せないまま、目の前のことに追われながら生きていました。

「魂(自分)を成長させるため」

シルバーバーチの霊訓の中に、明確な答えがありました。

さまざまな経験をしながら、私たちは少しずつ成長しています。



いろいろな人から、多岐に渡るコメントをいただいています。

過酷な試練の中にいる人が多く、地上は修行の場であると再認識しました。

何で私がこんな目に遭わなければいけないのか?

自問されている人も少なくないと思います。



生命は永遠です。

この世とあの世は、死を境にして、つながっています。

この世では、起きている出来事だけしか見えません。

あの世に行くと、この世を振り返る時が来て、出来事の真意を知ります。

苦しかった出来事は、自分を成長させるため、あるいは償いのために起きていたことがはっきりと判ります。



さまざまな人がいて、いろいろなことが起こるこの世でしか経験できないことがあります。

実際に経験しなければ学べないことがあります。

この世で学んだことは、全てあの世で活かされます。

全体のために自分を活かし、役に立つ悦びを感じながら生きるために、この世に生まれてきたのです。



リンゴが地面に落ちるのも、水が凍るのも自然現象であり、自然法則の働きによるものであることを学校で教わりました。

人が病気になるのも、人が死ぬのも、同じ自然法則の働きによるものです。

自然法則の働きが分からないと、偶然として片付けてしまいます。

当たり前のように思っていたこと、偶然に思えたことが、全て法則の働きによるものだと判りました。



法則を創ったのは神と言われる存在です。

神は法則として、全宇宙に顕現しています。

全宇宙が神であり、私たち人間も神の一部です。



神の心は愛です。

私たちが愛することができるのは、神の心を持った、神の一部だからです。

人から教わらなくても善悪の判断ができるのも、良心と言う神がいるからです。

それまで抱いていた神の概念は、シルバーバーチの霊訓により、ことごとく崩れ去りました。

私たちは地上での経験を通して、神の創った自然法則の働きを学びながら、完全(神)に向けて進化しています。



現実に打ちのめされている人に必要なのは、慰めや同情の言葉よりも真実です。

いずれ知ることになりますが、早く知っておけば、この世を生きる苦しみが多少なりとも和らぎます。

私が救われたように、救われるはずです。

真実は、暗闇を照らす光となるはずです。



実は、シルバーバーチの霊訓よりも優れた書籍がないかずっと探しています。

残念ながら、今のところ見つかっていません。

地上の人の書いた本には、どうしても地上の人のエゴが混じっています。

霊的な真実は、地上にいる人より霊界にいる人の方が、はっきりと判っているのに決まっています。

それは、地上から宇宙(星)を観るのと、宇宙空間から宇宙(星)を観るのでは、鮮明度がまるで違うのと同じです。(肉体は大気と同じ様に感度を落とすものだからです)

地上の望遠鏡から撮影した土星
 

ハッブル宇宙望遠鏡から撮影した土星



現代の人間が許容できる最高の真理が、シルバーバーチの霊訓によって降ろされたと思います。

読んでいて感じるのは、地上の人を慈しむ想いです。

人を咎めたり、怒ったり、嘲笑しないので、安心して読めます。

地上時代の名前を何度も交霊会で尋ねられても、明言を避け、どんな人物かは語る内容で判断して欲しいと言っています。

正しいかどうかは、自分の理性で判断して下さいとも言っています。

その謙虚な言葉に、間違いないと思ってしまいます。

自らの経験や他の人の経験を見聞して、私の中で真実性は増して行くばかりです。



振り返ってみると、最短で「シルバーバーチの霊訓」に出会うように導いてくれたと思います。

真理に最も近いと、守護霊が認識していたからだと思います。

1度読んだ本を、2度読むことのなかった私が、今も繰り返し読んでいるのは、読む度に発見があるからであり、内容を隅々まで覚えるためだと思っています。



このブログには、霊訓になかったことも書いています。

当初は書きたくなかったのですが、思い付きでないことが判ってからは、心に浮かんできた言葉をそのまま書くようにしています。

間違ったことは書きたくありませんが、確かめる術もありません。

正しいかどうかを判断する絶対的な基準になっているのが、シルバーバーチの霊訓です。

動機が利己的でないことを確認して、霊界の存在と自分を信じて書くようにしています。

私の書いていることはともかく、このブロブが呼び水となり、霊的なことを知らない人が、シルバーバーチの霊訓という本物に辿り着くことを、心から願っています。



知り合いが結婚した時に、シルバーバーチの霊訓(第1巻)をプレゼントしました。

「今は必要ないだろうけど、苦しくて仕方がなくなったら読んでみて」と言いながら、手渡しました。

地上に生まれて来たからには、これからの人生のどこかで、本のことを思い出して、開く時が来ると思ったからです。