2024年10月27日日曜日

予定している人生を歩むために


今から数十年前、都内の幹線道路を車で走っていた時のことです。

信号待ちで止まっている時、ふとルームミラーに目をやると、後続車がかなりのスピードで迫って来るのが見えました。

危ないと思った次の瞬間追突し、私の車ははじかれて前の車に追突し、前の車もはじかれてその前の車に追突しました。

いわゆる4重衝突です。

車は壊れましたが、むち打ちなどのケガは全くありませんでした。

そのことをある人に話したら「守護霊に護ってもらったのよ」と言われました。

霊の存在を信じていなかった私は、聞き流していました。 



霊的真理を知り、考えは変わりました。

その人の言っていたことは正しかったのです。

追突する直前、守護霊はインスピレーションを送ってルームミラーを見るように促していたと考えられます。

迫って来る後続車を見つけて身構えられたので、ケガをせずに済んだのです。



この世界を一人ぼっちで生きているのではありません。

私たちには守護霊が付いています。

地上の人に危害が加わらないように守りながら、予定されている人生を歩むために導いています。



守護霊が付いているのなら、もっとはっきりと存在を示してくれたら安心するのにと思う時があります。

守護霊は霊的な存在です。

そのために五感で認識することはできません。

地上の人も霊的な感覚を持っているので、守護霊の存在やそこから届くインスピレーションを認識できるはずですが、目や耳などの五感から入る情報が圧倒的に多いために、気付きにくくなっています。



仮に守護霊と意思の疎通がスムーズにできたとしたらどうでしょう?

きっと人生の指南役のような存在になるでしょう。

迷った時、悩んだ時、苦しい時など、守護霊に頼る人も少なくないと思います。



地上の人生は、地上の人のものです。

守護霊が干渉してしまうと、それは地上の人の人生にはなりません。

自分で決めて、自分で責任を取ります。

どのような決定をするのかを、じっと見守るしかありません。



守護霊は、地上の人が予定している人生を知っています。

首尾よく予定していた方向に進んで行くことができたのなら、成就させるために惜しみのない援助を始めます。

思念を送り、それを地上の人が受け取ることによって、前に進んで行こうとする力が湧いたり、勇気が出たりします。

間違った方向に進んでしまったのなら、これ以上進みたくない、戻りたくなるような思念を送り続けます。



地上の人の成長に重要な役割りを果たす人が現れたら、特別なものを感じさせるような思念を送るでしょう。

目に飛び込んで来た文字、気になる言葉があれば、守護霊によって印象付けられている可能性があります。

急に頭の中に浮かんだイメージや概念も、守護霊からの思念が地上の人に投影されたものかもしれません。

気のせいにしないで、そこから意図(目的)を感じ取るようにしましょう。

地上の人に危害が加わりそうな時は、胸騒ぎを生じさせる思念を送って、回避させようとしています。

そんな時は、一度立ち止まってみましょう。



自分の思考と霊界からのインスピレーションの判別はつきにくいかもしれません。

もし思考であれば、頭を使って考えているために、答えが出るまでに多少の時間がかかります。

それに対して、インスピレーションは電光石火です。

あるいは、忘れた頃に伝わって来ることもあります。

何も考えていない、感情にも捉われていない、空っぽの頭に思い浮かんだイメージや概念や言葉であれば、霊界からのインスピレーションと考えるようにしています。



守護霊を含む背後霊に、気にかかっていることはどうなのかと、想いを投げかけてみることがあります。

直ぐに「大丈夫」という言葉が思い浮かぶことがあります。

自分の希望的観測ではと思いましたが、守護霊には結果が分かっていますので、その通りになります。



地上の人のほとんどは、生まれる前の記憶を忘れています。

後悔のない人生を歩むためには、守護霊とのつながりを強くすることが望まれます。

そのためには、守護霊の存在を心から信じなければいけません。



信じることができたのなら、親愛の想いを守護霊に送りましょう。

「いつもありがとうございます」と言う感謝の想いでも結構です。

守護霊の愛により、地上の人は導かれています。

お互いの愛によって、霊的なつながりがさらに強くなり、導きやすくなります。



地上の人が失敗や挫折したとしても、守護霊は慌てることはありません。

何かを学んで、立ち直って行くと信じているからです。

それが生れて来た目的でもあり、成長につながるのを知っています。



守護霊にとって1番厄介なのは、地上の人の恐れや不安です。

思念を送っても遮られてしまうからです。



恐れや不安や心配が生じた時には、守護霊の存在を思い出しましょう。

そして、つながっていると強く信じましょう。

そうすれば安らかな気持ちを取り戻すことができるかもしれません。



現実を変える力は、守護霊にはありません。

けれども、守護霊から送られて来る思念には、地上の人の心のありさまを良い方向に変える力が秘められています。

心が急に明るくなったり、前向きになれたとしたら、それは霊界から届く想いが魂に届いていたのかもしれません。



守護霊と共に生きていることを忘れないで下さい。

信じて、親愛(感謝)の想いを向けていれば、霊界からの恩恵を受けやすくなり、予定している人生を歩んで行くことができます。




2024年10月20日日曜日

神に向かって成長を続ける



受験の時、神社にお参りに行き合格を祈願しました。

そうは言っても、神の存在を信じていたわけではなく、儀礼的に手を合わせていただけでした。




それから数十年後に霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。

「神は人間的存在ではありません。法則です。それが全生命を支配しているのです。法則なくして生命は存在しません。」

それまで抱いていた神のイメージとは全く違うものでした。




宇宙は法則の働きによって秩序と公正が保たれています。

太陽の周りを地球が回っているのも、水が100℃で沸騰するのも法則の働きによるものです。

うれしいと笑顔になるのも、悲しくなると涙が出るのも法則の働きによるものです。

私たちが地球に生まれて来たのも、死んで行くのも法則の働きによるものです。

起きていることに偶然は存在しません。




神に向かって祈る人は多いです。

その祈りが法則に適っているかが問われます。

地上的な欲望を満足させる祈りは無意味です。

霊的な成長に結びつく祈りであれば届きます。

神社にお参りに行った時に「役立つために努力する力を与えて下さい」と祈るのが正解だったのかもしれません。

神は法則の働きによって、進化成長して行く方向へと私たちを導いているからです。




人間と神との関係について、シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

人間は霊的存在であり、神の分霊であり、永遠に神とつながっている。私たち霊団が携えてくるメッセージは、いつもこれだけの単純な事実です。神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には強められ、時には弱められたりすることはあっても、決して断絶してしまうことはありません。人間は向上もすれば、堕落もします。神のごとき人間になることもできれば、動物的人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

神は独立した存在ではありません。

私たちも神の一部であり、神とつながっています。




数日前の朝のことです。

犬の散歩をしていたら、近所に住む一人暮らしのおばあさんが庭の植え込みの中に倒れていました。

意識はありましたが、受け答えは緩慢であり、手も冷たくなっていたので、直ぐに救急車を呼びました。

倒れているのを見つけた時に「何とかしなければ」と思いました。

私にも良心があるからです。

良心とは魂に宿る神です。

神が取るべき行動を私に指し示していました。



宇宙は目に見える物質と目に見えない非物質により構成されています。

どちらもが神的なエネルギーによって創られていて、神の法則の働きによって経綸されています。

宇宙全体が神です。

私たちは全体を構成する一部として、神とつながっています。




神は完全なる愛であり、完全なる叡智です。

私は神の一部であるはずなのに、あまりに未熟です。

溺れている人がいて、助けようと良心(神)が訴えていても、恐れを抱いて行動に移すのを拒んでいる自分がいます。

私は神を宿しています。

けれども、地上では未熟な媒体(自我)が存在し、神の心を表現するのを妨げています。




死んで霊界に行くと、肉体はなくなります。

意識は全体へと向かい、神とのつながりを実感するようになります。

神の心を表現するのを妨げていた、未熟な媒体(自我)から生じていた感情はなくなります。




地上を生き、霊界に帰るのを繰り返しながら、霊的に進化して行きます。

進化に伴って表現媒体は精妙になって行き、より忠実に神の心を表現できるようになります。

さらに精妙になると形態を取らなくなり、光り輝く存在となります。




その点について、シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

質問「最後にはどういう形態になっていくのでしょうか?」


答え「美はどういう形態をしているのでしょう。愛はどういう形態をしているのでしょう。光はどんな形態をしているのでしょうか」

質問「形態を超越してしまうと色彩が認識の基本になるのでしょうか?」

答え「その通りです。ただし地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界にはあなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。私たちは高級界からの霊の姿が発する光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです。」


神界の存在は形態のない霊であり、シルバーバーチもその1人だと思います。


霊界にいる者にとって、神界の存在は光り輝いていて、憧憬の念を抱いているのかもしれません。





例えが適切かどうか分かりませんが、私は玉ねぎを思い浮かべます。

魂を中心(核)にして、幾重にも媒体が包み込み、霊的な成長に伴いその1つ1つが剥がれ落ちて行き、内部に宿る神が徐々に露わになって行く、それが生命が辿る行程と考えています。




人間には、成長しようとする根源的な欲求があります。


その欲求を満たすために地上に生まれて必要な経験をしています。


神界にいるであろうシルバーバーチはこう励ましています。


「ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先真っ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。日向でのんびりと寛ぎ、何の心配も、何の気苦労も、何の不安もなく、面倒なことが持ち上がりそうになっても自動的に解消されて、あなたに何の影響も及ぼさず、足もとに石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つないような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって、自らの力で克服していく中でこそ、成長が得られるのです。」




生まれる前より強く優しくなるために、地上でさまざまな経験をしています。

艱難辛苦を味わった人ほど、神の心が表現できるようになり、魂は光り輝いているはずです。




2024年10月13日日曜日

この戦争を終わりにするために



今、中東で起きていてる戦争が拡大しそうです。

この戦争は、私が生まれる前から続いています。

どちらが正しい悪いと単純に決め付けられないこと、いくつもの原因と結果が折り重なっていることが、この戦争が終わらない理由になっていると思います。



イスラエルに住む人の多くはユダヤ教徒です。

ユダヤ教の聖典(出エジプト記)には「もし損害があれば、命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を」と書かれています。

自分が受けた危害と同じものを相手に与えるという意味だと思っていましたが、実際には損害を受けた分を公正に保証してもらうという意味合いが強いようです。

ところが、今起きていることは、目を傷つけられたら、相手の目だけではなく歯も耳も鼻も傷つけようとしているように感じられます。



ユダヤ人には、ホロコーストで何百万人も殺された忌まわしい過去があります。

その時に誰にも助けてもらえなかったという悔しい思いがあります。

傍目からは過剰な攻撃に見えますが、自分の身は自分で守るしかないという意識が強く、それを当然と考えているのかもしれません。

やり返さなければ、相手の為すがままになってしまうという強い怖れが、このような行動に駆り立てているのかもしれません。



今から2000年前、イスラエルの地はローマ軍の支配下にありました。

抑圧されたユダヤ人は、怒りや憎しみが渦巻いていたでしょうが、強大なローマ軍の前に為す術がありませんでした。

昔のユダヤ人は、今のパレスチナ人の境遇と似ている気がします。



そんな時代に、イエス・キリストが現れました。

「汝の敵を愛せよ」

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と言いました。

当時のユダヤ人にとって、これまでとは全く違うこの教えは、極めて新鮮に感じられたと思われます。



現実に、このような対応をするのは極めて難しいです。

けれども、やられたらやり返すのでは、さらに傷つくだけです。

報復の連鎖から抜け出すためには、この「愛」の精神がどうしても必要となって来ます。



人は自分が受けた被害にばかりに目が行ってしまいます。

相手はどのような理由でその行為に及んだのかを知ろうとはしません。

そこには、大切な人を殺された怒りや憎しみや悲しみ、住む土地を追われた絶望があるはずです。

激しい憎悪を感じる相手にも、自分たちと同じ感情があり、それによって突き動かされている同じ人間であることに気付くでしょう。



ユダヤ教もイスラム教も、神は唯一絶対で全知全能の存在と言っています。

それ自体は間違っていませんが、人間から超越していて、全く別の存在と考えるのは誤りです。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

私たちもミニチュアの神としてもちろん大いなる慈悲を宿してはいるのですが、地上の人間性という覆いをかぶっているがために、それをきわめて不完全にしか表現できていないからです。



全ての人間に神が内在しています。

地上の人間は、内在する神性を表現しようとする存在です。

けれども、表現媒体(肉体や精神)が未熟なため思うようにできません。

神性は閉じ込められ、エゴから生まれる怒りや憎しみの感情に支配されています。

その感情を表現してしまうと、相手にも同じ感情が生まれ、エゴの連鎖が始まります。



人を傷つける行為は、神を傷つけようとする愚かな行為です。

人を傷つけた者は、神の法則(因果律)によって、自らが傷つきます。

憎しみに燃えて、やり返さなくても、宇宙を支配している神の法則により、等価の報いを受けるようになっています。



相手を愛する行為は、神を愛する行為です。

敵を愛する行為は、最大限に神を愛する行為です。



あらゆる感情に優越する力が愛です。

エゴから生まれる感情は、愛によって打ち消すことができます。

愛を表現することで、エゴの連鎖は止められますが、少なからず自己犠牲が伴うので、簡単ではありません。

それでも、許すことで愛を表現しなければ、この戦争を終わりにすることはできません。

愛を表現することのできた者が真の強者であり、勝者であると考えています。



私はミサイルが爆発した音を聞いたことはありません。

住む家を失ったり、戦争で傷ついた人を直接見ることもありません。

死の恐怖を感じたこともありません。

戦争を止めさせるために、何かできるわけでもありません。

けれども、同じ地上を生きている同胞として、想いを共有しようと努めることはできます。



肉体を使って意念を具現化しているのが地上の人間です。

意念はエネルギーです。

1人の人間から放たれる意念は弱くても、より多くの意念が集まれば、この物的世界においても具現化する方向に向かって動き出すと信じています。

1947年にインドはイギリスから独立しました。

ガンジーが放つ「非暴力と不服従」の意念は神の法則に反することなく、その意念に多くの国民が同調することで、独立を勝ち取ったと考えられます。

同じ意念を発することで、世界は具現化する方向へと変わって行きます。



多くの人が神に平和を祈っています。

戦争の最中にいる人は「もう終わりにして欲しい」と切望しています。

もし、世界中の人たちが想いを共有し「この戦争を終わりにする」という同じ意念を一斉に放つことができたとしたら、具現化する方向に動き出すと思っています。

意念は地上的労苦の代用とはなりませんが、何もできない現状において、有効な手段になり得ると考えています。