2022年12月25日日曜日

霊的真理とこの1年

 

早いもので、今年ももうすぐ終わろうとしています。

コロナの流行が続く中で、ロシア軍のウクライナへの侵攻が起きました。

不穏な空気に包まれ、長く感じられた1年でした。



戦争は言うまでもありませんが、コロナも人災だと思います。

人間の過った行いに対して、何かしらの因果律が働いて、コロナウィルスが発生したのではないかと考えています。

もしそうだとすれば、その過ちを改めない限り、流行は収まらないと思います。


中国の発電所(出典:カベージニュース)
地球温暖化の被害を受けた北極海のシロクマ

人間の過った行動で、地球環境が危機的な状況に陥っています。

私たちは、そのことに気付いているのですが、行動を改めようとしません。

そのために、罪もない動物たちが、多大な被害を被っています。



人間は最強です。

いかなる動物も、人間を制御することは不可能です。

2020年春、コロナウィルスが流行し始めました。

すると、未知のウィルスに恐怖を抱き、街から人は消えました。

道路を走る車は少なくなり、飛行機も飛ばなくなり、工場も稼働を停止しました。

ほとんどの人が家の中でじっとしていました。

この生物とも言えない、極小のウィルスが、人間を制御する力を持っていたのです。



その結果、何が起きたでしょうか?

CO₂の排出量は、産業革命以降、最も減少したそうです。

わずかの間でしたが、世界中の都市の空気が澄み渡り、空が青さを取り戻しました。

緊急事態宣言下の東京
これが本来の姿です。

今までが、異常だったのです。

異常に慣れ切ってしまい、何とも思わなくなってしまっていたのです。




霊的に最も進化しているのは人間です。

その人間が、地球全体のことを考えていません。

自己中心的な行動をして調和を乱し、環境を壊し続けています。




利己的な行いは、自然法則に反しています。

その報いは、因果律の働きによって、人間に返って来ます。




自然法則は、あらゆる事態を想定して創られています。

人間が原因でこのような事態に陥った時、人間の行動を制御するウィルスが大流行するように、自然法則が創られているような気がします。




生きて行くために、本当に必要なものは、それほどありません。

けれども、多くの人が必要のないものまで欲しがります。

ウィルスの流行と言う大惨事を経験して、魂が目覚めた人はきっと多くいるでしょう。

魂が目覚めれば、今までの価値観が一変します。

物質的なものから、霊的なものに意識が向かうようになります。

お金や物に捉われない生き方をするようになります。

自己中心的な考えから、全体のことを考えるようになります。

多くの人の意識を変革するのも、ウィルスの流行という自然現象の中に組み込まれていた目的の1つのような気がします。




流行が始まって、もうすぐ3年です。

コロナにも慣れて、普段通りの生活をするようになってきました。

もし、コロナの流行にそのような隠された意図があるのなら、以前と何も変わらずに行動をしていると、もっと強烈な自然現象が起きるかもしれません。

想像したくもありませんが、感染力が強く、致死率が高く、ワクチンも効かないようなウィルスが、因果律の働きによって出現するのではないかと危惧しています。

あの時と同じように、人間を震え上がらせ、家に籠らせるような流行が起きない限り、地球温暖化を根本的に止められる手段はないような気がします。





出典:読売新聞オンライン
ウクライナで起きている戦争が終わる気配はありません。

1人の人間の自由意志の行使によって、ここまで世界が変わってしまうことに驚きました。

なぜ、こんな取り返しのつかないことをしてしまったのでしょうか。




一線を越えて行動に移してしまった理由は、「強い怖れ」だと思います。

人間が信じられなくなると、他者に怖れを抱きます。

そして、自分を守ろうとします。

過剰に自分を守ろうとするあまり、攻撃につながってしまったように思います。




目に視えるものが全てで、死んだら終わりだと思っているのでしょう。

そんな人は、好きなように生きようとします。

富や権力を得ることに快感を覚えるようになります。

地上でしか意味のないものを必死に守ろうとして、利己的な行動を取ってしまいます。




自分の行いに、自然法則が働いていることなど、知る由もありません。

どれくらいの人を苦しませ、悲しませ、人生を狂わせてしまったのかも知りません。

因果律の働きからは、何人たりとも逃れることはできません。

償いが待っているのを知っていたら、恐しくてできるはずはありません。




人間は肉体を超えた存在です。

霊的な存在であり、霊力によって生かされています。

そして霊的につながっています。

国や人種の違いなど、全く関係ありません。




ヒーリングをするたびに、そのことを実感しています。

霊力とは生命力そのものであり、湧き出し、流れて行くものです。

国も人種も関係なく、人だけでなく動物たちにも、ヒーリングの力は届きます。

それは、私たちは霊的な存在であり、目に視えないつながりがあるからです。




霊的な無知により起きるのは、戦争だけではありません。

貧困や飢餓もそうです。

全ての人間は地球を生きている同胞であり、物的に持てる者が持たざる者に分け与える責務があるのを忘れているからです。




世の中で起きている事件もそうです。

自らの命を絶ってしまう人も、後を絶ちません。

この世の人生で終わりではない、乗り越えられない出来事は決して起きない、そして自らの行いに自然法則が働いていることを知っていれば、踏み留まることができたのかもしれません。




世の中をより良くするため、いらぬ苦痛を生まないために、霊的真理を伝えることは、想像している以上に重要だと感じています。

霊界は真理の普及を何より望んでいます。

何故なら、地球の隅々まで真理が行き渡り、実践したのならば、世の中を悩ませている全ての問題は立ちどころに解決するからです。




伝えようとする意志を持ち、それを行動に移さなければ、地上では何も始まりません。

僅かではありますが、このブログを通して伝えられたことに感謝しています。

来年は、霊界に祈りながら、新しい扉を開けてみようと思います。








2022年12月18日日曜日

大切な人を亡くした先輩との会話


私には恩人がいます。

その人は、4学年上の大学の先輩で、同じスタディーグループ(歯科医師の勉強会)に入っています。

私は16年前に行政処分を受けて、3ヶ月間仕事ができなくなりました。

代わりに診療してもらえる先生を探しましたが、なかなか見つかりません。

困っていた時に、その先輩に相談したところ、免許を持っていて主婦をされている奥様を通わせると言ってくれました。

東京から新幹線で1時間以上をかけて来てもらいましたが、窮地にいる私たちを気遣って、無償で診療をして下さいました。

それにより、患者さんは他院へ散逸せずに済み、医院を存続させることができました。

今、仕事ができているのは、先輩ご夫婦のお陰と言っても過言ではありません。



それから、しばらく経ってからです。

奥様が血液のがんになり、入院して治療を受けていると聞きました。

聞いた瞬間、あの時の恩を返すために、ヒーリングをして差し上げようと思いました。

けれども、先輩はアメリカの大学院を卒業し、EBM(科学的根拠のある治療)に特別こだわっている人でした。

証明することのできない、この力の存在をどう受け止めるか心配でしたが、勇気を出して申し出たところ、了承してもらいました。



早速、ヒーリングを行ったところ、痛みが和らいで良く眠ることができたと、奥様からうれしい返答がありました。

しばらく続けて行っていましたが、心労のためでしょう、今度は先輩が脳内出血で倒れてしまい、手術を受けることになりました。

心配した奥様は、ご自分の代わりに先輩をヒーリングして欲しいと連絡がありました。

自分のことより、周りを優先する人でした。



先輩は無事退院して、仕事に復帰しました。

しかし、奥様は病気の進行が止まらず、病状は悪化の一途を辿りました。

一縷の望みをかけて、骨髄移植を受けるためにアメリカに渡りましたが、その先でご家族の願いもむなしく、お亡くなりになりました。

残念で、悔しかったです。

優しく、思いやりがあり、誰からも好かれる人ほど早く逝きやすい、そんな法則のようなものを改めて感じました。



先輩のアメリカ留学を勧めたのは奥様でした。

小さなお子さんもいて大変だったでしょうが、夢を叶える後押しをされていました。

仕事の成功は、奥様がいなければあり得ません。

先輩にとって奥様は、精神的な主柱であると共に、同志であり、親友のような存在だったと思います。

そんな奥様を亡くした先輩の想いは、私には想像も付きません。



大勢のスタッフを抱えた法人の経営者でもある先輩は、休むことなく働かなければいけませんでした。

疲れて家に帰って来ても、優しく迎えてくれる人はいません。

真っ暗な部屋の電気を、溜息をつきながら付ける、先輩の姿が思い浮かびました。

本当におつらかったと思います。



今月の始めに勉強会がありました。

その帰りに先輩と一緒になり、歩きながらこう尋ねました。

「奥様が亡くなって何年経ちますか?」

「もう5年だけど、実は俺、結婚したんだ」

意外な答えにびっくりして、おめでとうございますと言うのを忘れてしまいました。

相手の方も、配偶者との別れがあったそうです。

60歳を越えての再婚に、既に独立しているお子さんたちは強く反対されたようですが、それを押し切ったのは何か理由があるはずです。



先輩は、人があまりしていない経験をしています。

ご両親が拵えた数億円の借金を、ご自分が働いて返済しています。

返済が終わったらアメリカに渡り、日本で初めて専門分野の認定医を取得しました。

そして、東京で最も有名なビルの1つにクリニックを開業しました。

ご自分の力によって、ご自分の人生を切り拓いて来ました。



そして、奥様を亡くされました。

こればっかりは、自分の力でどうすることもできません。

何もする気が起きず、部屋の中でじっと物思いに耽る先輩の姿が思い浮かびます。

変えようがない現実と向き合う中で、何を思っていたのでしょう。



これまでの先輩の生き方を傍で見ていて、こう思うようになったと考えています。

「このままじゃいけない」

現状を変えたいと願った先に、出会いが待っていたと思います。



結婚したと聞いたすぐ後に、奥様のことが思い出されました。

「先輩が脳内出血をした時に、自分ではなく○○(先輩の下の名前)にヒーリングをお願いしますと頼まれました」と話しました。

そして「憎まれっ子、世にはばかるの逆で、奥様みたいな優しい人が早く逝ってしまいます」と言いました。

先輩は「そんなことを言われると涙が出ちゃうじゃないか」と言っていました。



別れを乗り越えたから、結婚することができたと言う人もいるでしょう。

私はそうではないと思います。

乗り越えられない自分をどうにかしたくて、活路を見い出すために、思い切って結婚されたと思いました。

それが先輩らしいのです。



その後、私はこう言っていました。

「奥様は全然許しています」

そのことは、先輩が気にしていたことであり、奥様が伝えたかったことなのかもしれません。

そして「先輩の幸せだけを願っています」と続けました。

1人では何もする気が起きない、先輩らしくない姿を見ていた奥様は、何とかしてやりたいと思っていたのに違いありません。



肉体を失っても、支えてやりたい気持ちは変わりません。

「このままじゃいけない」と思う先輩の気持ちを、奥様はご自分の想いを投げかけることによって、後押しをしていたような気がします。

地上を生きて行くために、必要な人と出会わせ、一緒になるように導いていたのかもしれません。



他の女性と親しくなるのを、傍で見ている奥様が嫉妬をしないのかと思う人もいるでしょう。

幸せを願う純粋な想いに、嫉妬は相容れません。

そんなことに捉わないれ人だからこそ、早く逝くことが許されたと思います。

「○○(先輩の下の名前)を、どうぞよろしくお願いします」と、その女性に想いを送っているような気がします。

先輩らしく生きる姿を見届けたい、その想いだけだと思います。



先輩は、この人生を選択しました。

同じ経験をしても、どのような選択をするのかは人それぞれです。

正しい、間違っているなどありません。

どんな選択をしても、許してくれるでしょう。

許せないような人であれば、早く逝くことも許されないと思います。



信号待ちをしている時、「奥様はいなくなってなんかいません。」と、少し強い口調で言いました。

亡くなって間もない頃に同じことを伝えたのですが、その時と同じように「ありがとう」と返ってきました。

その言葉には「俺もそう思いたいけど、その証拠を見せてもらったわけではないので、お前のように信じることはできないよ」という想いが込められているように感じられました。



魂の存在が信じられなくても、仕方がありません。

けれども、生命の本質は魂です。

魂は不滅です。

これは変えようがない事実なのです。



人は霊的な存在です。

感度の差こそありますが、誰もが霊的な感覚を持っています。

誰かが傍にいるのを、ふと感じる瞬間が、先輩にもあったはずです。

見守られているような感覚もあったはずです。

根拠はないのに、また会えるような気がする時もあったはずです。



想いがある限り、離れ離れになることはありません。

魂と魂で結ばれた人にとって、死は無力です。

魂から生まれる力が愛であり、磁力のようにお互いを引き付けます。

別れていないどころか、奥様にとって先輩は生前よりはるかに身近な存在となっています。



向こうに行くと、地上で学び得たことを活かす生活が始まります。

肉体がなくなり、より一層、誰かのために、何かをしたくなります。

残してきた人が一段落ついたのを見届けると、自分がやりたかったことをするようになります。

今いるのは、想いがことごとく叶えられる世界です。

思う存分、何かをしてあげられることに、奥様は深い悦びを感じているでしょう。



先輩が肉体を失った瞬間、奥様と同じ次元の存在となり、はっきりとその姿が視えるようになります。

そして、満面の笑顔でこんなやり取りをするのかもしれません。

「この日が来るのを、ずっと待ち望んでいた」

「私もよ」

「ところで、何で俺を置いて先に逝ったんだよ。大変な思いをしたんだぞ」

「全部知っているわよ。私がいなくなることが、あなたのために必要だったからなの」

「俺のために必要だった?」

「そう、あなたのためなの。決めていたことなの。悲しんだ分、苦しんだ分、あなたは大きく成長したのよ。神様がいて私たちは同じ方向に導かれているの。」



もしも、そんなやり取りがあったとしたら、そう言えばあの時イクミも同じことを言ってたなと、思い出してくれるのかもしれません。





田坂広志さんと言うビジネススクールの塾長が興味深い話をされています。1時間を超える講演になりますが、お時間が許す方はご覧になって下さい。(字幕は誤字が多いです)

2022年12月11日日曜日

思い通りにならないこの世を生きる


私は歯医者をしていますが、仕事の難しさを感じる時があります。

全力を尽くしても治療が上手く行かないことがあり、思い通りにならないもどかしさを覚えます。

また、患者さんとの意思の疎通が十分に図れていないと、後で問題が生じることがあります。



この世では、思ったことを肉体を働かせて、具現化しています。

けれども、肉体は不完全な媒体であるため、思い通りになるとは限りません。

この世では、思ったことを言葉で伝えています。

伝えてもらわないと人の思いは判らず、伝えないと自分の思いを判ってもらえません。



霊界は思念の世界です。

想い(思念)は肉体を介さずに具現化されます。

この世のように、思い通りにならないことはありません。

想いは相手に直接伝わります。

言葉を交わさなくても、お互いが判り合えています。



そんな快適な世界に別れを告げて、大変なこの世に生まれて来たのは、自分を成長させるために他なりません。



私の仕事の話に戻ります。

治療をする時は、理想とするイメージを頭の中に思い描きます。

手を動かしてイメージの通りに再現しようとしますが、完璧に再現できたと思えたことはありません。

それが私の技術の限界と言えます。



大切なのは、より技術を向上させ、理想に近づけたいと努力することだと考えています。

シルバーバーチの霊訓に、こう書いてあります。

霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。

仕事の技術を向上させることは、より質の高い奉仕につながり、自分を成長させる大切な機会となっているはずです。



仕事で患者さんに人工の歯(冠)を入れています。

私が理想と考えているのは、お口の中で調和が取れていて、自然な歯です。

ところが、患者さんの中には、できるだけ白い歯を希望される人もいます。

どれくらいの白さなのかは、私には判りません。

客観的に知るために、「シェード」とういう器材を用います。

20色あるシェードを歯に当てて、それを患者さんに鏡で見てもらい、希望の白さを選んでもらいます。

この行程を踏むことにより、後で問題になることはありません。

意思の疎通を図るのには労力を伴います。

勇気がいる時もありますが、判り合えるために必要です。

歯の色を決めるためのシェード

私の仕事に限ったことではありません。

例えば、料理もそうではないでしょうか。

美味しい料理を作るのには、腕を磨かなければいけません。

意思の疎通を計り、食べる人の好みを知っておくことも大切です。

生活して行く上で、理想に近づけるために努力が必要なこと、意思の疎通を図らなければならないことは、いくらでもあります。



霊界に行くと、何もしなくても生きて行けます。

けれども、ただ生きているだけでは成長することはできません。

誰かのために、何かをすることで、人は霊的に成長します。

何かをしようとする「意志」が存在しなければ、何も始まらないために、成長することはできません。



霊界と違いこの世では、心の中で思ったことを具現化(表現)するために意志が必要です。

伝えようとするのも、知ろうとするのも、意志が必要です。

精神的、肉体的に労力を要するこの地上的な作業は、意志を培うのに好都合と考えられます。



この世では、自分と違う人と接しながら生きています。

自分の思い通りに人はなりませんし、思い通りにするものでもありません。

自分とは違う他者の生き方や考え方を認めて、協調して生きようとすることで、霊性が発揮されます。



私たちは不完全な存在です。

そのために、過ちを犯したり、失敗をします。

許さなければならない場面に満ち溢れています。

それができなければ、(法則に反した)怒りなどの感情が生まれ、苦しむことになります。

「寛容」という霊性の神髄を、この世で培っています。



人生には計画があります。

その計画に従って、出来事が起きます。

望まない出来事が起きれば、思い通りにならない人生に憤りを感じたり、嘆く人もいるでしょう。



次の世界が、私たちの本来の住処であることを忘れてはいけません。

そこで自分に足りない資質を自覚したのです。

足りない資質は、魂にまで響く体験を通して、身に付けるしか方法はありません。

身に付けた資質は、次の世界で活かされます。



思い通りにならないのがこの世です。

自らの意志を強くし、霊性を高めるために、志願して生まれて来たのです。

何もしなくても生きていられる霊界で、誰かのために何かをすることのできる素養を身に付けるために、この世で相応しい経験をする必要があったのです。






2022年12月4日日曜日

違いを認める


世の中には、自分とそっくりな人が3人いるといると聞いたことがあります。

根拠のない話と思っていましたが、以前、そこにいるはずのない私の姿を見て驚いたと言う人がいました。

もしかしたら、他人のそら似を超えた人が、本当に存在しているのかもしれせん。



死んで霊界に行くと肉体はなくなります。

周りにいるのは、外見ではなく、魂がそっくりな人たち(類魂)です。

同じようなことを想い、互いに判り合えています。

天国と言われる所以がそこにあります。



この世はどうでしょう?

魂がそっくりな人と出会うことは、まずありません。

周りにいるのは、自分と違う人ばかりです。

さまざま相違から、争いが起きることもあります。



どうしてこんな世界に生まれ来たのでしょうか?

判り合えるのが難しいこの世界を生きる中で、学ぶことがあるからだと思います。



霊界では、魂から生じた思念は直ちに具現化されます。

地上で思念は、精神上に作られた地上的な自我(以下自我)で具体化され、肉体によって具現化されます。

無意識下で、その過程を繰り返しながら、人生は営まれています。



自我は、肉体と密接な関係にあります。

自我は、より安全で快適な生き方を志向しています。

そのために、自分と違う人が周りにいると防御的になり、不安や怖れを感じることがあります。



魂の様相は自我(精神)に反映され、性格となって顕れています。

よって、魂が似ていなければ、性格も似ていることはありません。

性格はその人の個性です。

さまざまな魂がいる地上では、多様な個性が生まれることになります。



自分と違う人に出会い、不安や怖れを抱いた時に、自我の働きによって、その人から遠ざかろうとします。

中には、遠ざかるのではなく、安心を得るために、対象となる人を変えようとする人がいます。

言動によって無理に変えようとすれば、軋轢が生じます。



親が子に、こう変わって欲しいといくら頑張っても、なかなか変わるものではありません。

変わったとしても、自我(精神)の一部と考えられます。

魂は、自らの意志、経験によって変わって行きます。



正当性を主張し、間違いを改めるように要求するとどうなるでしょう?

客観的に間違いを証明できるものであれば、もしかしたら改めるかもしれません。

けれども、証明できないようなこともたくさん存在し、その場合は争いになる時があります。



例えばですが、ある事故がきたとします。

当事者の1人は、相手(加害者)を許すことができません。

もう1人は、許すことができます。

許せる人を見て、許せない人は「許すな」と、主張するかもしれません。

許せない人を見て、許せる人は「許してやれ」と、主張するもしれません。

このようなことは、どちらが正しい、間違っていると証明できるようなものではありません。

両者の違いは、魂の違いに根差していると考えられ、自分の思う通りに相手を変えようとしても、無駄な努力に終わります。



                              

相手を変えようとするのは、自我の働きに他なりません。

自我の働きにより出た言動に、相手の自我は反応し、その働きがより強くなります。

自我により防御されて、相手の心(魂)に届くことはありません。

魂から生じた想いを伝えれば、自我は反応せずに、相手の魂に届くかもしれません。

その想いが愛に基づくものであれば、自らの力で、魂は変わって行くかもしれません。



相手を変えるのは困難です。

違いを認められる自分に変わるしかありません。

そうしない限り、不安や怖れや怒りは解消されないでしょう。



自分と違う人たちと接しながら生きるのが地上です。

自我の働きを鎮めて、違いを認め合うことが求められています。

認め合わなければ、傷つけ合うことになり、痛みを経験することになるかもしれません。

痛みを経験することで、認め合うことの大切さを学ぶことになりますが、その前に気付くのに越したことはありません。



同じになろうとする必要はありませんが、同じにさせようとするのも間違っています。

自分しか変えることはできません。

変えるのが難しいと感じたのなら、変われるように祈れば良いのです。

その祈りが、神の心を表現し、魂の成長につながるものであれば、叶えられるはずです。



相手を認められるようになると、相手から認められるようになります。

信じられるようになると、信じてもらえるようになります。

自然法則(因果律)はそのように働いています。



認めること、信じることは、神性の表れです。

認め合い、信じ合うことなしに、人(魂)と人(魂)はつながることはできません。

つながることなしに、愛し合うことできません。

神の意志の通りに、霊的に1つになって行くことは叶いません。



物しか視えないこの世界で、目に視えない大切なものを見つけ出すために、地上に生まれて来たと考えられます。

そのために、さまざまな出来事を経験することになります。

苦しみ、悲しみの極みで、眠っていた魂が目覚めます。

目覚めた魂が、それまで視えなかった大切なものを見つけ出します。



見つけたものは、かけがえのない財産となります。

死んで持っていけるのはそれだけです。

生まれる前より魂が豊かになり、霊界においてより自分を活かせるようになっています。