「生きている」とはどう言うことなのでしょうか?
心臓が動いていれば生きていると、多くの人は考えています。
心臓が止まり、肉体が全く動かなくなったら、死んでいるとみなされます。
生の対極にあるのが死ではありません。
肉体と結合していた「生命」の分離が死です。
荼毘に付されて骨だけになっても、生命は変わりなく存続しています。
生命は肉体と次元の異なるものです。
生命の本体を「魂」と呼ぶことにします。
魂は生命力によって活動をしています。
生命力とは、宇宙を創造し、動かしている神的なエネルギーです。
内から湧き出るものであり、同時に外から流れ込むものです。
生命力が湧き出して、外部に流れて行くのを、ヒーリングをしている時に実感しています。
魂に生命力が供給されて、私たちは生きています。
そうではない、食べた物がエネルギーに変わって生きていると言う人がいるでしょう。
それは肉体の話です。
肉体に指令を与えているのは精神です。
精神が疲れている時に、食物を摂ったとしても、回復するわけではありません。
精神は肉体とは別のエネルギーが供給されています。
魂が受け取った生命力が変換されて、精神的活動のエネルギーになっています。
また、病気やケガを治している自然治癒力も、同じ生命力が変換されたものです。
人間を構成しているのは、「魂(霊)」と「精神」と「肉体」です。
3者の関係は、犬ぞりに似ています。
人が魂であり、犬が精神であり、そりが肉体です。
人の指令によって、犬が働いて、そりが動き始めます。
魂から思念が生まれて、精神が働いて、肉体が動き始めます。
思念は、精神を動かしているエネルギーと言えます。
素となる力は大始源である神から供給されます。
神は独立した存在ではありません。
宇宙が神であり、神は宇宙です。
宇宙全体が神的エネルギーで創られ、満たされています。
私たちは神を構成する一部であり、全体の一部として霊的につながっています。
魂は宇宙全体(神)から無尽蔵にある力を受け取ることができます。
しかしながら、未熟な精神や肉体がボトルネックとなり、大幅に制限を受けています。
精神から不安や心配や怖れ、取り越し苦労が生じると、霊的な通路が塞がれて、生命力を受け取りにくくなってしまいます。
感情で精神的なエネルギーが消耗された上に、生命力が受け取りにくくなってしまうと、活動するエネルギーが不足してしまいます。
その状態が、うつ症状となることもあります。
ヒーリングによって強制的に生命力を注入することによって一時的に症状は緩和しますが、状態が変わらなければ、ぶり返してしまいます。
生命力は個々の魂で思念(意志)になります。
意志は精神により具体化され、肉体によって具現化されます。
意志が生まれて、それによって精神が働いて、肉体に指令が出されて動く、これが正常な状態です。
ところが現代社会では、意志がないままに、精神だけが働かされて、肉体が動いています。
犬ぞりで言うと、人の指令がないまま、犬があてどもなく走っているようなものです。
不安になり、途中で走るのを止めてしまうかもしれません。
意志がないまま、精神だけが活動しているのは、極めて不自然な状態です。
魂から精神、精神から肉体へと変換されているエネルギーの循環が上手く行きません。
そのような3者の調和が乱れた状態が続くと、心身に病気として反映されることもあります。
意志があれば、精神はそれに追随します。
大始源より生命力が流れ込み、それに伴って精神にもエネルギーが供給されます。
意志を失ったまま、精神だけが活動をしていると、次第にエネルギーは枯渇して行きます。
健やかに生きるために、何らかの意志を持った方が良さそうです。
意志があることで、健全なエネルギーの循環が始まります。
夢や目的を持つことは、意志を持つことであり、生命力が流れ込みます。
願いを抱くのも、意志を抱くことになり、生命力が流れ込みます。
○○になりたいと願いを抱くと、実現するために精神が働き出し、時間がかかるかもしれませんが、具現化する方向に向かいます。
ささやかでも良いのです。
例えば、朝起きた時に「心穏やかに生きたい」と願えば、精神が働き出し、具現化する方向に向かいます。
意志がなければ、何も始まりません。
意志を持つことは、生きる推進力となります。
ただ問題が1つあります。
人間にはどんな意志を持っても良い、自由が与えられています。
神の意志(自然法則)に反する意志を持つことも許されます。
その意志に対しても、神のエネルギーは流れ込みます。
ロシア軍のウクライナ侵攻(CNNより) |
その意志は伝播しながら、具現化して行くと思います。