人は死んだら生まれ変わるのか?
遠い昔から、世界中の人たちの間で関心があったようです。
「輪廻転生」と言う言葉を、時々聞きます。
「輪廻」は車輪がぐるぐると回転し続ける、「転生」は生まれ変わること、人が何度も生死を繰り返しながら生まれ変わることを意味しています。
仏教では、天界、人間界、阿修羅界、畜生界、飢餓界、地獄界があり、そのどこかの界に生まれ変わるとされています。
畜生界に行けば、人間ではなく動物や昆虫などに生まれ変わるようです。
もし、鳥に生まれ変わるとすればどうでしょう?
鷹であれば、外敵に襲われることもなく、自由に空を飛べるので、それほど悪くはないような気もしますが、同じ鳥でも養鶏場のヒヨコに生まれれば、過酷な運命が待ち受けています。
何度か生まれ変わって、今、この世界に生きているのは事実です。
しかし、人間は人間にしか生まれ変わりません。
それには理由があります。
この世に生まれて来たのは、決して偶然ではありません。
過去に生きて来た(過去生の)結果として、この世に生まれて来ました。
これまで生きて来た結果が、現在の自分です。
原因と結果の連鎖で、全てが1つにつながっています。
あの世に行くと肉体がなくなります。
肩書など見せかけの自分は消滅し、本当の自分(魂)が露わになります。
霊的に目覚め、新しい世界に順応して行きます。
しばらくすると、この世では意識しなかった、完全な存在(神)をありありと感じるようになるようです。
それに伴って、自分(魂)の足りない部分、不完全な側面が意識されます。
完全に近づきたい、より上に昇りたい、そんな衝動に駆られるようです。
あの世は、厳格な界層社会です。
その人の魂の成長度(霊性)によって、どの界層に赴くのか決まります。
上の界層には行きたくても行けず、下の界層には行く気にならないようです。
この世でも多くの人が、自分をより成長させたいと願っています。
あの世に行くと、その欲求がさらに強くなるようです。
上に昇るためには、叡智を学びながら、自らが成長しなければいけないからです。
私たちは、たくさんのことを学校で学んで来ました。
卒業した後も、仕事の知識や技術、家事の仕方、社会のルールなど、たくさんのことを学んでいます。
そして、教科書やマニュアルが存在しない霊的に大切なことを、経験を通して学びながら生きています。
小学校に入ると、まず数字を覚えて、足し算、次に引き算を習います。
次の学年になると、掛け算を習います。
数字を覚えなければ、足し算は出来ず、足し算が出来なければ、掛け算は難しくなります。
霊的に大切なことも、学ぶ順番があるようです。
幼い時は、得てして自己中心的です。
自分勝手な行動をして、仲間外れにされて、寂しい思いをしたりします。
そんな経験を通して、「自分勝手なことをしてはいけない」「周りと協調しなければいけない」など、霊的なことを学んでいます。
親や先生からも聞かされましたが、口で教えてもらうよりも、実際に経験して、それなりの代償を払った方が良く身に付くようです。
年を追うごとに、自分以外の存在にも関心が向いて行きます。
仲の良い友達が出来て、一緒に遊んだりして想いを共有します。
助け合ったり、励まし合ったり、慰め合ったりして、「友好」を温めて行きます。
学校を卒業して社会に出ると、組織の中に身を置くことになります。
金銭をもらう代わりに、会社やお客様のために、労働という形で「奉仕」をするようになります。
人や社会に喜んでもらうと、自分の喜びになることを知るかもしれません。
結婚すると自分だけではなく、配偶者のことも考えて生活するようになります。
子供が生まれると、子育てを優先した生活を送るようになります。
自分よりも大切に思える存在があることを知るかもしれません。
大きくなるのに従って、自分だけではなく、他者のことを意識して生きるようになります。
自分のためから、他者のために生きるようになって行きますが、それが本当の意味での人間の成長と言えます。
誰もが同じような過程を辿るのは、学んで行く順番があるからです。
生まれてからこれまでに起きた出来事は、自然法則の働きを学び、成長するためのかけがえのない機会となっているはずです。
私たちは段階を踏みながら、他者への奉仕が無理なく出来るように、無限の叡智によって導かれています。
そうは言っても、地上に生きる私たちには肉体があります。
そのために、どうしても自分に意識が向いてしまいます。
世界中で、新型コロナウイルスが流行しています。
既に治っているにも関わらず、感染した人を避けたり、差別的な言動を取ってしまう人がいると聞きます。
自分が移されたくない気持ちの表れだと思います。
肉体があるために、自分を守りたい気持ちは生まれながらに備わっていますが、それに打ち克って、思いやりや優しさを表現することで、魂は成長して行くと思います。
そのために、この世に生まれて来たと言えます。
人間(魂)は多面的です。
誰でも、(神の摂理に適っていない)不完全な側面を持っています。
いくつかの不完全な側面を表に出して生まれて、その側面が表現されると、苦痛を伴う出来事が生じます。
肉体的、精神的苦痛を味わうことにより、不完全な面が正されて行きます。
魂が完全に近づくために、苦痛のある地上に生まれるのが早道と考えられます。
過去生と今生のパーソナリティが同じでないのは、表に出ている側面が異なるためと考えています。
生まれ変わりを繰り返す度に、不完全な側面が正されて行き、地上で正すことがないほどの魂になったら、生まれて来る必要はなくなります。
不完全な側面は、その人の欠点として認識されます。
そこを正すために敢えて前面に出して生まれて来たのであり、自分自身にも不完全な側面はいくつもあるので、咎めてはいけないと思います。
不完全さ(欠点)を認め合い、許し合うことで争いはなくなり、魂も成長して行くと考えられます。
時に、地上的な欲望が強くなり、自分のことしか考えなくなってしまうと、神の摂理に反した行いをしてしまいます。
摂理に反した行いをする前に、内在する良心(神)がやめるように訴えていますが、その声を無視して行動に移すと、カルマ(業)が生じます。
カルマが生じたことなど知らなくても、因果律は厳格に作動します。
最適のタイミングで出来事が起きて、そこから生じる苦痛によって、罪を償うことになります。
蒔いた種の結果を刈り取らされているのですが、因果律の働きによるものと判らなければ、何で自分がこんな目に遭わなければいけないのかと、憤慨してしまうかもしれません。
死んだ後に、出来事の意味(原因)がはっきりと判ると、不平不満を言う人はいなくなるようです。
重大な摂理に反する行いをしたら、来生で償うことになるでしょう。
もし、身勝手な理由から、人を傷つけたり、その人の成長を妨げるようなことをしてしまったら、自らの成長を犠牲にして、その罪を償わなければなりません。
より上に昇ることを希求する魂にとって成長が許されないのは、自由を奪われるよりも苦痛に感じるのかもしれません。
もし、罪を償うために、動物に生まれ変わったとしたらどうでしょう?
他者のために生きられないので、成長は望めないでしょう。
動物の肉体に閉じ込められるだけであり、学ぶものもありません。
冒頭に書いたヒヨコや、食用となる動物に生まれたとしたらどうでしょう?
もし、学ぶことがあるとすれば、人間の怖さや残酷さだけのような気がします。
人間の意識を持ったまま、そんな動物たちに生まれ変わるとすれば、償いではなく、ただ拷問です。
そんな計画を、神が用意するはずはありません。
もし、人間として生まれ変わるとしたらどうでしょう?
身体を全く動かせない状況で生まれたのなら、他者のために生きることが出来なくなります。
それどころか、人の助けがなければ、生きて行くことが出来ません。
一生涯に渡って、助けを受けていれば、否が応でも人のために何かをする意味、その有難さを身を持って学ぶことになると思います。
全ての出来事は、神の法則の働きによって起きています。
従って、償いであると同時に、魂の学びにもなっていると、私は信じています。
何の前触れもなく出来事が起きたのならば、それは生まれ変わる前に決まっていたことかもしれません。
その出来事により、どれほどの苦しみや痛みが生じたとしても、目的が成長するためなので、耐えられないことはありません。
誰かのせいにしたり、不平不満を言ったり、運命を呪ったりすると、その分だけ苦しみや痛みが大きく感じられるかもしれません。
例え原因が判らなかったとしても、成長のために起きているのは確かであり、生まれ変わる前の自分は承知していたはずです。
生まれ変わりは、何の目的もないまま、機械的に繰り返されるのではありません。
目的の全ては、魂の成長のためです。
人間が人間に生まれ変わるのは、人間の中で生きることでしか、不完全さが正されず、罪も償えず、教訓も学べないからだと思います。