2021年2月28日日曜日

生まれ変わりの目的


人は死んだら生まれ変わるのか?

遠い昔から、世界中の人たちの間で関心があったようです。

輪廻転生」と言う言葉を、時々聞きます。

「輪廻」は車輪がぐるぐると回転し続ける、「転生」は生まれ変わること、人が何度も生死を繰り返しながら生まれ変わることを意味しています。



仏教では、天界、人間界、阿修羅界、畜生界、飢餓界、地獄界があり、そのどこかの界に生まれ変わるとされています。

畜生界に行けば、人間ではなく動物や昆虫などに生まれ変わるようです。

もし、鳥に生まれ変わるとすればどうでしょう?

鷹であれば、外敵に襲われることもなく、自由に空を飛べるので、それほど悪くはないような気もしますが、同じ鳥でも養鶏場のヒヨコに生まれれば、過酷な運命が待ち受けています。

              


何度か生まれ変わって、今、この世界に生きているのは事実です。

しかし、人間は人間にしか生まれ変わりません。

それには理由があります。



この世に生まれて来たのは、決して偶然ではありません。

過去に生きて来た(過去生の)結果として、この世に生まれて来ました。

これまで生きて来た結果が、現在の自分です。

原因と結果の連鎖で、全てが1つにつながっています。



あの世に行くと肉体がなくなります。

肩書など見せかけの自分は消滅し、本当の自分(魂)が露わになります。

霊的に目覚め、新しい世界に順応して行きます。



しばらくすると、この世では意識しなかった、完全な存在(神)をありありと感じるようになるようです。

それに伴って、自分(魂)の足りない部分、不完全な側面が意識されます。

完全に近づきたい、より上に昇りたい、そんな衝動に駆られるようです。



あの世は、厳格な界層社会です。

その人の魂の成長度(霊性)によって、どの界層に赴くのか決まります。

上の界層には行きたくても行けず、下の界層には行く気にならないようです。



この世でも多くの人が、自分をより成長させたいと願っています。

あの世に行くと、その欲求がさらに強くなるようです。

上に昇るためには、叡智を学びながら、自らが成長しなければいけないからです。



私たちは、たくさんのことを学校で学んで来ました。

卒業した後も、仕事の知識や技術、家事の仕方、社会のルールなど、たくさんのことを学んでいます。

そして、教科書やマニュアルが存在しない霊的に大切なことを、経験を通して学びながら生きています。



小学校に入ると、まず数字を覚えて、足し算、次に引き算を習います。

次の学年になると、掛け算を習います。

数字を覚えなければ、足し算は出来ず、足し算が出来なければ、掛け算は難しくなります。



霊的に大切なことも、学ぶ順番があるようです。

幼い時は、得てして自己中心的です。

自分勝手な行動をして、仲間外れにされて、寂しい思いをしたりします。

そんな経験を通して、「自分勝手なことをしてはいけない」「周りと協調しなければいけない」など、霊的なことを学んでいます。

親や先生からも聞かされましたが、口で教えてもらうよりも、実際に経験して、それなりの代償を払った方が良く身に付くようです。



年を追うごとに、自分以外の存在にも関心が向いて行きます。

仲の良い友達が出来て、一緒に遊んだりして想いを共有します。

助け合ったり、励まし合ったり、慰め合ったりして、「友好」を温めて行きます。



学校を卒業して社会に出ると、組織の中に身を置くことになります。

金銭をもらう代わりに、会社やお客様のために、労働という形で「奉仕」をするようになります。

人や社会に喜んでもらうと、自分の喜びになることを知るかもしれません。



結婚すると自分だけではなく、配偶者のことも考えて生活するようになります。

子供が生まれると、子育てを優先した生活を送るようになります。

自分よりも大切に思える存在があることを知るかもしれません。



大きくなるのに従って、自分だけではなく、他者のことを意識して生きるようになります。

自分のためから、他者のために生きるようになって行きますが、それが本当の意味での人間の成長と言えます。

誰もが同じような過程を辿るのは、学んで行く順番があるからです。

生まれてからこれまでに起きた出来事は、自然法則の働きを学び、成長するためのかけがえのない機会となっているはずです。

私たちは段階を踏みながら、他者への奉仕が無理なく出来るように、無限の叡智によって導かれています。



そうは言っても、地上に生きる私たちには肉体があります。

そのために、どうしても自分に意識が向いてしまいます。

世界中で、新型コロナウイルスが流行しています。

既に治っているにも関わらず、感染した人を避けたり、差別的な言動を取ってしまう人がいると聞きます。

自分が移されたくない気持ちの表れだと思います。

肉体があるために、自分を守りたい気持ちは生まれながらに備わっていますが、それに打ち克って、思いやりや優しさを表現することで、魂は成長して行くと思います。

そのために、この世に生まれて来たと言えます。



人間(魂)は多面的です。

誰でも、(神の摂理に適っていない)不完全な側面を持っています。

いくつかの不完全な側面を表に出して生まれて、その側面が表現されると、苦痛を伴う出来事が生じます。

肉体的、精神的苦痛を味わうことにより、不完全な面が正されて行きます。

魂が完全に近づくために、苦痛のある地上に生まれるのが早道と考えられます。

過去生と今生のパーソナリティが同じでないのは、表に出ている側面が異なるためと考えています。

生まれ変わりを繰り返す度に、不完全な側面が正されて行き、地上で正すことがないほどの魂になったら、生まれて来る必要はなくなります。



不完全な側面は、その人の欠点として認識されます。

そこを正すために敢えて前面に出して生まれて来たのであり、自分自身にも不完全な側面はいくつもあるので、咎めてはいけないと思います。

不完全さ(欠点)を認め合い、許し合うことで争いはなくなり、魂も成長して行くと考えられます。



時に、地上的な欲望が強くなり、自分のことしか考えなくなってしまうと、神の摂理に反した行いをしてしまいます。

摂理に反した行いをする前に、内在する良心(神)がやめるように訴えていますが、その声を無視して行動に移すと、カルマ(業)が生じます。

カルマが生じたことなど知らなくても、因果律は厳格に作動します。

最適のタイミングで出来事が起きて、そこから生じる苦痛によって、罪を償うことになります。

蒔いた種の結果を刈り取らされているのですが、因果律の働きによるものと判らなければ、何で自分がこんな目に遭わなければいけないのかと、憤慨してしまうかもしれません。

死んだ後に、出来事の意味(原因)がはっきりと判ると、不平不満を言う人はいなくなるようです。



重大な摂理に反する行いをしたら、来生で償うことになるでしょう。

もし、身勝手な理由から、人を傷つけたり、その人の成長を妨げるようなことをしてしまったら、自らの成長を犠牲にして、その罪を償わなければなりません。

より上に昇ることを希求する魂にとって成長が許されないのは、自由を奪われるよりも苦痛に感じるのかもしれません。



もし、罪を償うために、動物に生まれ変わったとしたらどうでしょう?

他者のために生きられないので、成長は望めないでしょう。

動物の肉体に閉じ込められるだけであり、学ぶものもありません。

冒頭に書いたヒヨコや、食用となる動物に生まれたとしたらどうでしょう?

もし、学ぶことがあるとすれば、人間の怖さや残酷さだけのような気がします。

人間の意識を持ったまま、そんな動物たちに生まれ変わるとすれば、償いではなく、ただ拷問です。

そんな計画を、神が用意するはずはありません。



もし、人間として生まれ変わるとしたらどうでしょう?

身体を全く動かせない状況で生まれたのなら、他者のために生きることが出来なくなります。

それどころか、人の助けがなければ、生きて行くことが出来ません。

一生涯に渡って、助けを受けていれば、否が応でも人のために何かをする意味、その有難さを身を持って学ぶことになると思います。

全ての出来事は、神の法則の働きによって起きています。

従って、償いであると同時に、魂の学びにもなっていると、私は信じています。



何の前触れもなく出来事が起きたのならば、それは生まれ変わる前に決まっていたことかもしれません。

その出来事により、どれほどの苦しみや痛みが生じたとしても、目的が成長するためなので、耐えられないことはありません。

誰かのせいにしたり、不平不満を言ったり、運命を呪ったりすると、その分だけ苦しみや痛みが大きく感じられるかもしれません。

例え原因が判らなかったとしても、成長のために起きているのは確かであり、生まれ変わる前の自分は承知していたはずです。



生まれ変わりは、何の目的もないまま、機械的に繰り返されるのではありません。

目的の全ては、魂の成長のためです。

人間が人間に生まれ変わるのは、人間の中で生きることでしか、不完全さが正されず、罪も償えず、教訓も学べないからだと思います。





2021年2月21日日曜日

死んでも意識はなくならない


私は今年で60才になります。

月日が経つのは早いものです。

昔の私でしたら、あと30年位しか生きられないと寂しく思ったかもしれません。

霊的な知識を得た今は、あと30年位で向こうに行けると思うようになりました。



向こうの世界に行くには、あることを経験しなければいけません。

それは「死」です。



私にとって、死は怖いものでした。

死ぬと意識がなくなってしまうと考えていたからです。

自分自身が消滅してしまうのが、無性に怖かったのです。



医学的に、脳の活動が完全に停止(脳死)した状態が、人の死と定義されています。

脳の活動が停止すると、意識はなくなると考えられています。



本当に、脳の活動が停止すると意識がなくなるのでしょうか?

1991年、アメリカで行われた手術で、興味深い出来事が起こりました。

手術を受けた人は、パム・レイノルズと言う女性ミュージシャンでした。

彼女には、大きな脳動脈瘤があり、それを除去する手術が予定されました。

極めて難易度の高い手術であり、動脈瘤を除去するために、低体温下で心肺を停止させて、一時的に脳の血流を完全に止めなければなりませんでした。

全身麻酔を施すために、彼女の眼はガーゼで密閉され、耳には脳幹部の脳波が停止しているのを確認するために、100デシベルの音量の音楽が流れるイヤホンが装着されていました。

これによって、目や耳から外部の情報は一切入らなくなりました。

手術が始まる前、脳の血流が完全に止められ、予定通り彼女の脳波はフラットになりました。

心肺が停止し、脳の活動も停止し、人の死に当たる状態となりました。



手術が始まった時、彼女には驚くべきことが起きていました。

麻酔剤を注入され意識を失った後、脳波がフラットになっているのに、頭がい骨を切るのこぎりの音で意識を取り戻したそうです。

そして、執刀医の肩のあたりから手術の様子を眺めていたそうです。

また、医師のこんな会話も聞いていたそうです。

「静脈と動脈が細すぎる」


手術中に自分に起きていた不思議な出来事を、後で周りの人に話しました。

あり得ないことだと、家族は笑ったそうです。

ところが、現場にいた医師たちは青ざめたそうです。

彼女が語った内容と、手術室で起きていた出来事が完全に一致していたからです。

この事実は、しばらくの間、固く口留めされました。

その理由は、麻酔の効きが不十分だった可能性があり、医療ミスとして訴えられるかもしれなかったからです。

しかし、術中の脳波はフラットになっていたのですから、覚醒していた可能性は0%です。



手術中の女性に起きた出来事から、2つの事柄が導き出されます。

1つは、脳の活動と意識は全く関係ない。

もう1つは、意識は肉体から離れて存在し得る。



意識は、物質的なものではないことは明白です。

私が知っている霊(魂)の概念と一致しています。

意識の本体は霊(魂)と考えても良いのではないでしょうか。



偉人として世界中に知られているヘレンケラーは、人生観を変える体験をしています。

15,6才の頃に書斎にいながら、意識は遠く離れたギリシャのアテネに行っていたそうです。

その体験について、著書「私の宗教」の中で、こう書いています。

「私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や肉体の制約を完全に超えていることを悟ったのでした。何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと“見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした。」

ヘレンケラーの意識は肉体から離れ(幽体離脱をして)、アテネの風景を霊的な眼で視ていたと考えられます

五感を通さなくても、外の様子を認識することが出来たのです。

視覚と聴覚を失っているヘレンケラーにとって、その体験は驚きであると共に、大きな悦びであったのに違いありません。

ヘレンケラー


全ての現象を、脳の働きで解釈しようとする人がいます。

科学的に証明することが出来ない魂の存在を頑なに否定し、こじつけに過ぎない理論(仮説)を展開しています。

魂は物質を超えた存在です。

五感に触れるものではないので、普段意識することはありません。

そのために、自分の本質であるのにも関わらず、存在を信じられなくなっています。



そんな人たちに、1度聞いてみたいことがあります。

科学的に証明されていない「愛」は、存在していないのでしょうか?

脳が作り出した幻覚なのでしょうか?

実感したことがある人なら、確かに存在しているのが判るはずです。

愛の存在は肯定し、魂の存在を否定するのならば、それこそ科学的な態度ではないと思います。



それでも、目に視えない愛の存在を信じている人であれば、目に視えない魂の存在も信じられるようになるはずです。

何故なら、愛は魂から生まれて、魂で感じているものだからです。



さまざまな思念は脳ではなく、意識の本体である魂から生じています。

この世では、思念を肉体によって表現しています。

悲しければ涙を流し、怒れば怒鳴ったりします。

伝えたいことを言葉にしています。

コンピューターは、入力されたものを演算処理をして出力しています。

脳も同じで、精神から入って来た情報を処理して、肉体に指令を出しています。



この世に生きる私たちは、五感を頼りに生活をしています。

そのため、コミュニケーションには手間がかかります。

思念が生まれると、精神の働きによって、どう表現するべきかが決められ、脳から肉体に指令が出されて、肉体がそれに従って動き、外に向かって表現されます。

この一連の作業が無意識に行われています。

外に向かって表現されたものは、他者の五感によって受け取られ、脳で処理され、精神が認識し、それに応じた思念が生まれます。

コミュニケーションとは、その繰り返しです。



あの世に行くと、一気に簡略化されます。

思念は、インスピレーションとなって相手の魂に直接伝わります。

以心伝心なので、肉体や脳が存在しなくても良いのです。



あの世でもこの世でも、同次元の人同士とのコミュニケーションは、さほど難しくありません。

ただ、この世では思っているのと違うことを伝えたり、思っているのと違ったことが伝わったりします。

嘘が存在し、齟齬が生じるのがこの世です。

あの世ではあり得ません。



携帯電話が普及している現代において、直接会わなくても、コミュニケーションするのが当たり前になっています。

ところが、電話などの通信手段がなかった時代では、直接会って、コミュニケーションをしなければなりませんでした。

あの世の人にとってこの世の人は、携帯電話で会話をしている私たちが、電話がない時代の人たちを眺めているのと同じで、非効率で不確実な手段でコミュニケーションをしているように見えているはずです。



この世とあの世では、コミュニケーションの仕方が全く違います。

従って、次元を超えてコミュニケーションをするのには、どちらかが相手の仕方に合わせなければなりません。

あの世の人には、もう肉体はありませんので、この世の人に合わせるのは不可能です。



私たちは、五感(肉体)を通したコミュニケーションに慣れ切っています。

けれども、霊的な存在であることに変わりはありません。

思念を感じる能力が、元々備わっています。

その能力が賦活化されれば、コミュニケーションは可能なはずです。



この世にいる人とあの世にいる人の違いは、肉体を介して自己表現をしているか、介さずに表現しているかの差だけです。

この世にいる人も、睡眠中は意識は肉体から離れ、あの世に行き、肉体を介さずに自己表現をしています。

臨死体験をしている時もそうです。



手術中のパム・レイノルズさんですが、他界しているおばあさんに呼ばれて、意識が自然に上昇し始めたそうです。

トンネルのような場所を通り抜けると、そこは眩い光の世界で、光で出来たような人たちがいたそうです。

おばあさんの他に、他界した伯父さんもいましたが、なぜか先に進めないような気がしたそうです。

その後、伯父さんに付き添われて、トンネルの入り口まで戻りました。

そこにはシーツに包まれた自分の体が横たわっていて、それを見て怖くなったそうです。

伯父さんに背中を押し出されるように自分の体に入りましたが、冷たいプールに飛び込むような感じがしたそうです。



臨死体験をした人は、彼女のように他界した人たちと会っているはずです。

夢と一緒で、その時のことを頭で理解し切れないので、思い出せないのかもしれません。



死ぬと意識がなくなり無になると証明した人は、誰一人としていません。

死と言われる状態になっても、意識はなくならずに、肉体から離れて存在していたと証言している人はたくさんいます。

どちらが真実なのか、判り切ったことです。

不毛な論争はもう終わりにして、前に進んで行く時期が来ているのではないでしょうか。



心臓の鼓動は、いつの日か止まります。

それに伴い、脳の活動は完全に停止します。

瞳孔が散大して、医師が死を宣告するでしょう。

肉体は火葬されて骨になります。

けれども、意識は変わらずに存続しています。

死は怖くないのです。











2021年2月14日日曜日

真理の実践


世界にはたくさんの宗教があります。

以前の私は、宗教と聞くと、何やら胡散臭いものだと思っていました。

変わった教祖がいて、盲目的な信者がお布施を搾り取られている、そんなイメージしか持っていませんでした。



16年前になります。

ある朝、起きたらヒーリングの力が出現していました。

その後すぐに、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました。

そして、人生を大きく揺るがす出来事が起こりました。

わずか1か月の間に、立て続けにあったので、「人生は計られている」と、思わざるを得ませんでした。

起きた出来事に追い詰められて行く中で、「因果律の働き」を思い知らされ、神と神の法則を信じるようになりました。

絶妙のタイミングで霊的真理に出会えたのは、霊界の導きによるものと確信しています。



霊的真理を知ったことにより、若い時から感じていた「何で生きているのだろう?」と言う疑問が解決されました。

死んだ後も人生は続いていることが判ったので、欲張って生きようとしなくなりました。

上辺ではなく、内面を視るようになりました。

他にもたくさんあります。

霊的真理は、計り知れない恩恵を私に与えてくれたのは間違いありません。



知っている人は、まだ知らない人たちに伝える責任が生じます。

キリストの12使徒は、各地を歩いて回り、口述でイエスの教えを伝えました。

そして捉えられ、殺されました。

その時代は、伝えるのも命がけでした。



今は、インターネットや書籍によって、自分の持っている知識を、世界中の人に知らせることが出来ます。

昔のように、捉えられ、殺されることもありません。

知りたい人は、簡単に情報にアクセスできるようになりました。

ところが、様々な情報が氾濫していて、何が正しいのか判らなくなっています。

真理に辿り着いたつもりで、とんでもない宗教(組織)に捕まっている可能性もあります。



人工的な教義に塗り固められた宗教に関わることなく、最短で無垢な霊的真理に辿り着いてもらいたいと思いました。

12年前にこのブログを開設しましたが、シルバーバーチの霊訓を読んでみようと言う気持ちを起こさせるのが目的でした。

軽い気持ちで始めましたが、真剣に読んで下さる人がいることを知り、気を引き締めて書かなければいけないと思うようになりました。

時々、内容に対する意見や感想を書いたコメントが寄せられましたが、そのうちに、ご自身が抱えている悲しみや苦しみや怒りを吐露されたコメントをいただくようになりました。

その度に、私自身が真理と向かい合うことになります。

抱えられているご事情は様々ですが、現実に打ちのめされている人が少なくありませんでした。

この世は、やはり修行の場であることを再認識しました。

そして、現実に起きていることの意味(目的)が、霊的真理の中に見い出せることに気付きました。

私がそうだったように、人生を一変させる力を霊的真理は持っています。



シルバーバーチは宗教について、こう言っています。

「私が説く宗教は実践の宗教です。1日1日の宗教-1日24時間、1時間60分、1分60秒、そのすべてを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。」

知っているだけでは、だめなようです。

生きている時間すべてが実践、とても難しい課題だと感じました。



ところで、実践とは何をするのでしょうか?

私にとって1番大切な実践は、霊的真理を伝えることだと思います。

自分が受けた恩恵を、他の人にも享受してもらうことです。

当初は、伝えなければいけないと力んでいましたが、必要としている人、求めている人は、私が考えていたほど、多くはありませんでした。

実際に、伝える機会が訪れるのは数ヶ月に1度位だったかもしれません。

それでも、必要としていると思ったら、ためらわずに伝えることが大切です。

今は必要なかったとしても、種を蒔いておくのは無駄にはなりません。

現実に打ちのめされる経験をした時に、ふと思い出してくれるかもしれないからです。



真理を伝えることも大切ですが、それ以外に何が実践できるのか考えました。

何か人や社会の役に立つことをしてみようと思いました。

仕事を完全に離れる期間があったので、身体障害者施設で活動支援のボランティアを始めました。



施設に入ると、私の全く知らなかった世界が拡がっていました。

印象的だったのは、重度の障害がありながらも、精一杯生きようとしている人たちの姿でした。

それを支えているスタッフの姿にも、感銘を受けました。

しかし、中には自分の身の不幸を嘆いている人もいました。

そんな人と話す機会が与えられたような気がしました。



生まれてから今までベッドの上で暮らし、好きなところへも行けず、何をするのも一人ではできません。

想像を絶する苦です。

この人にこそ、霊的真理が必要と思いました。

この世で終わりではない、今の肉体から解放されて自由になれる時が来ると伝えました。

神妙に聞いていた横顔は、今でも記憶に残っています。

ある時、その人のお母さんが来ていました。

息子さんを見る眼差しに、不憫に思う気持ちや罪悪感らしきものを感じましたので、「シルバーバーチの霊訓」を読むように勧めました。

答えを見つけていたのであれば、きっと読んでいると思います。

思い切って行動すると、伝える機会が広がり、真理の理解にもつながると感じました。



話を戻しますが、実践することは他にあるのでしょうか?

霊的法則の中で1番大切なものは、「互いに愛し合うこと」とシルバーバーチは答えています。

「愛し合う」と言うと大げさに聞こえますが、普段の生活の中で、何か役に立ったり、助けたり、優しくするのも、他者へ愛を表現していることになります。

それも立派な実践ではないかと思います。

小さなことですが、電車でお年寄りに席を譲るのも、困っている人がいたら声をかけるのも、運転中に道を譲るのもそうです。

悩みを聞いたり、慰めたり、勇気付けたりするのもそうです。

保健所にいる動物たちを家族として迎え入れるのも、肉を食べないのもそうです。

落ちているゴミを拾って捨てるのもそうです。

            


外に対しての、行いばかりではありません。

日常生活では、腹が立つことも起こります。

寛容の精神を発揮し、怒らずにやり過ごすのも実践です。

難しいことですが、人の過ちを許すのも実践です。

つらくても投げ出さずに、やり遂げるのも実践です。

簡単なものから難しいものまで、実にたくさんありそうです。

日々の仕事や家事をするのも、忘れてはならない実践だと思います。

そう考えると、実践することは、いつもあるような気がします。



特別なことではなく、誰かのためになっていたり、毎日を一生懸命生きることが、実践になっていると思います。

霊的真理を知っていなくても、人は実践しようと生きていると思います。

内なる声が、そうさせていると思います。



真理を知ることは、魂をより成長させる早道を見つけたことになります。

成長させる方向に進んで行かなければ、知った意味がなくなってしまいます。

魂が目覚め、真理を知ると、良心の声が聴こえるようになるはずです。

いけないと知りつつ過ちを犯すのは、知らない人よりも許されなくなります。



真理の実践とは、積極的に何かをすると言うよりも、良心に忠実になり、成長する生き方を心がけることかもしれないと思いました

口で言うほど簡単ではありませんが、心がけていれば、悔いのない人生になると思います。



最後に、自戒の意味も込めてシルバーバーチの言葉で締めたいと思います。

「要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人に尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりはあった方がましです。が、その人の真の価値は毎日をどう生きたかに尽きます。」

「現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、そう反省してみることです。」






2021年2月7日日曜日

健やかに生きるために


毎日、虫歯になった人の治療をしています。

痛みに耐えられなくなって来る人が多いのですが、もっと早く来ればこんなにひどくならず、治療も簡単に終わったのにと思うことがしばしばです。



ご存知でしょうが、虫歯の原因は歯に付く汚れ(歯垢)です。

歯垢の中にたくさんの細菌がいて、細菌が出す酸によって歯が溶かされて虫歯になります。

昔の人はそんなことなど知りません。

虫歯になったら、麻酔もなしに激痛に耐えながら、歯を抜かなければいけませんでした。

もし、原因を知っていたのなら、もっときれいに歯を掃除していたでしょう。

江戸時代の抜歯の風景 国芳画


虫歯の原因は歯垢だけでしょうか?

良く歯を磨いているのに、虫歯を作って来る人は少なくありません。

そんな人は、甘い食べ物や飲み物が好きなことが多いです。

ご存知でしょうが、砂糖には虫歯菌を増殖させ、歯垢をたくさん作る働きがあります。

歯を良く磨いたつもりでも歯垢が残ってしまい、そこから虫歯になります。



日常でストレスを感じると、甘いものを食べたくなる人もいるようです。

そんな人は、ストレスが甘いものを食べることによって和らぐ気がするようです。

また、歯や歯周組織に悪影響を及ぼす夜間の歯ぎしりも、日中のストレスを寝ている時に解消していると言われています。



以上のことから、口の中の病気の原因は歯垢(細菌)と言う物質的なものだけではなく、ストレスと言う精神的なものが深く関わっていると言えます。

実際に、退職したり、介護が終わるなどストレスがなくなると、お口の中の状態がみるみるうちに改善する人が見受けられます。

他の多くの病気も、ストレスなど精神的な原因が関わっていると思います。



霊的真理では、病気は肉体と精神と霊(魂)の不調和から生じると書かれています。

不調和とは、どんな状態なのでしょうか?

私は、3者が協調的に働いていない状態と考えています。



霊(魂)から生じた思念は、精神を介して、肉体で表現されています。

無意識に、それを繰り返しながら、私たちは生活しています。

その一連の流れが、何らかの理由で上手く行かなくなると、不調和が生じ、高じると病気になると考えています。



思念は、肉体的表現の元となるエネルギーです。

怒りの思念(想い)が生じると、怒鳴ったりする人がいます。

中には物を投げたり、壊したりする人もいるでしょう。

悲しくなると、人は泣きます。

怒鳴ったり、涙を流すことで、自分の想いを肉体によって表現しています。

後で、すっきりするのは、内にある想いが肉体的表現によって外に吐き出されたからと考えられます。



もし、吐き出されなかったらどうなるでしょう?

怒りの想いであれば、血圧は上昇し、脈は速くなり、身体の興奮状態が続きます。

悲しみの想いであれば、活力は低下し、酷くなるとうつ状態になってしまうかもしれません。



話は変わりますが、人は魂が剥き出しの状態で生まれて来ます。


物心がつく頃に、精神上に地上的な自我(以下自我)が形成され、自我を発達させながら、大人になって行きます。

              

自我は、地上で自分(魂)を表現するための媒体であると共に、外部環境から自分(魂)を護る役割があると考えています。



魂から生じている思念は、言葉にならない抽象的なものです。

抽象的なものが、自我により具体化され、肉体に指示が出されて具現化(表現)しています。

自我は、頭脳を駆使して思考を行い、表現するべきかどうかを決めています。

怒りを表現すると、相手を攻撃してしまい、好ましくない結果を生んでしまうと予測したのなら行動を止めます。

泣いているのを見られると、余計な心配を与えてしまうと考えたのなら、涙をこらえます。



生命とは魂です。

私たちは、魂に供給される生命エネルギーによって生かされています。

そのエネルギーは神を始源としているので、愛を帯びた神的エネルギーと言えます。

もし、私たちが完全な存在ならば、愛のみが表現されるはずですが、不完全な媒体を併せ持っているので、どうしても歪めらて表現されてしまいます。

怒りや憎しみも、不完全な媒体によって歪められてしまった神的エネルギーの1つの表現と言えます。

シルバーバーチは、人を憎むことの出来る人は、そのエネルギーを愛に転換できると言っています。



不完全な肉体及び自我を通して、自己表現をしているのが地上の人です。

愛とはかけ離れた、憎しみ合い傷つけ合う形で表現されてしまう一方、そのまま表現される時があります。

駅のホームから落ちた人を、電車が迫って来ているにも関わらず、飛び降りて助けようとした人がいました。

残念ながら亡くなってしまいましたが、神的エネルギーが自我の影響を受けずに、そのまま表現されたと考えられます。



霊(魂)が主であり、精神(自我)が従です。

魂から生じた想いが、自我(精神)により妨げられることなく、肉体で表現されているのが調和が取れた状態と考えています。

そうあるべきなのですが、自我が強くなり過ぎて、主従の関係が崩れてしまうと、不調和が生じると考えられます。

自我に妨げられて、本当の自分の想いが表現出来ずにいると想いが溜まり、溜まった想いが閾値を超えると、心身に変化をもたらすと考えています。



虫も殺せないような人が、戦争で命令を受けて、何人もの人を殺さなければならなくなったとしたらどうでしょう?

著しい不調和が生じて、心身を病んでしまうと思います。

動物が大好きな人が、仕事で犬や猫の殺処分を任されて、ガス室のボタンを押し続けたとしたらどうでしょう?

同じく、心身を病んでしまうと思います。



以前にも書きましたが、端的な事例があります。

2011年3月11日、東日本大震災が発生して、福島第一原発が津波に襲われて原子炉が損傷しました。

当時の所長は、過熱した原子炉を冷却するために海水を注入しようとしました。

そうしなければ原子炉が融解して、周囲に放射能をまき散らすことになるからです。

会社の上層部に進言すると、そうすれば原子炉は使い物にならなくなり、会社の損失があまりにも大きいと考えたのでしょう、許可を与えませんでした。

所長の魂(良心)は、放射能汚染が起きた時の甚大な被害を考えて、海水を注入しようと訴えていたと思います。

一方、自我は会社における自分の立場を考え、上層部の命令に従わなければならないと訴えていたと思います。

良心(魂)と地上な立場を考える自我(精神)の間で、極めて大きな葛藤が生じていたと想像されます。

最終的に、上層部の命令を無視して、良心に従って海水を注入しました。

翌年、所長は脳出血で倒れ、そして食道がんになり、事故後2年で58歳の若さで亡くなっています。

魂(霊)と精神の間に著しい不調和が生じたため、その結果として肉体上に深刻な病気が現れたと考えています。

因みに、被ばくにより食道がんを発症するには少なくとも5年かかり、事故の被ばくが影響した可能性は極めて低いとされています。



会社や家族のために、自分の想いに蓋をして、生きている人はたくさんいるでしょう。

良心の訴えに目を瞑り、生きて行くために、やりたくないことをやり続けている人もいるでしょう。

現代社会において病気になる人の多くは、真の自分の想いを表現することが出来ず、自我や他者の言うことに盲目的に従っている生き方が、大きな原因になっていると思います。



病気には苦痛が伴います。

苦痛により、肥大した自我が吹き飛ばされ、魂が目覚めて、内にある本当の自分の想いに気付くことになるかもしれません。

そして、自分本来の生き方に戻るかもしれません。

病気は、霊と精神と肉体の不調和から生じると同時に、霊が主の調和が取れた状態を取り戻すために存在していると思います。



あるゆる事象は、神の創った自然法則の働きによって起きています。

神は、自然法則の働きによって、生命を進化させることを目論んでいます。

いかなる病気も、自然法則の働きにより生じています。

従って、不運や不幸なことではなく、そこには明確な目的が存在するはずです。

その大きな目的の1つは、真の自分に目覚め、自分を成長させる生き方に変えるためと、私は考えています。



健やかに生きるための養生訓を、もう1度書いてみました。


1. 心穏やかに過ごすように努める
2. 寛容になるように努め、なるべく腹を立てない
3. 小さなことにも感謝する
4. 日々の中に、ささやかな喜びを見つける
5. やさしさ、思いやり、いたわりの気持ちを表現する
6. 笑顔でいる