2020年1月23日木曜日

てる様へ


投稿されたブログ(亡くなった愛する人とつながる)に返信をしたのですが、コメント数が多くなり折り畳まれているため、最後までご覧になっていない可能性があります。(ページ最後の右下にある最新≫をクリックするとあなたの投稿したコメントが表示されます)
従って、あなたのスマホの問題ではありません。
行き違いのままだといけないので、同じ文章を載せることにしました。



てる様

初めまして、イクミです。
半年前に最愛の人が亡くなったのですね。
ICUに入っている彼から、来て欲しいとメールが来たのですね。
危篤に近い状態で、メールを送って来たことに驚いています。
どうしても会いたかったのであり、あなたに対する深い愛情を感じます。
そんな彼の最期を看取ることが出来なかったのは、さぞおつらかったでしょう。

このブログをお読みになっていただいているのでお判りだと思いますが、彼の生命は失われていません。
意識も記憶も失われておらず、あなたを想う気持ちも以前のままです。
あなたの想いは、彼に間違いなく届いています。
彼はそれに必死に応えているのでしょうが、想いは五感で感じられないので、あなたを素通りしてしまっていると考えられます。
深い悲しみも、彼が近づく障壁となっています。
しかし、悲しむなと言うのは無理な話なので、今はあるがままでいて下さい。

彼をもう1度感じたいと強く願っているとお察しします。
夢に出て来ていないと言うことですが、向こうで逢っていても、目が覚めて忘れてしまっているだけかもしれません。
難しく感じるかもしれませんが、あなたの想いをそっと投げかけて、悲しまず、考えず、求めずに、心を穏やかにして、彼の想いが心の中に生まれるのを待って下さい。
その時は何もなくても、ふとした瞬間、生まれる(受け取る)時もあります。

想いを交わし合うのに、1番大切なことは、彼の存在そして変わらずに愛されていると、強く信じることです。
それは紛れもない真実なのです。
信じ合う魂と魂の間に、想いが通じ合う通路が出来ます。
神は、真実を信じる人に、次元を超えてつながることを許してくれています。
その時が、きっと来ます。

あなたが伝えたかったことがたくさんあるように、彼も伝えたかったことがたくさんあると思います。
今朝、彼に焦点を合わせてみました。
うつむきながら泣いているあなたの前に立ち、右頬に伝う涙を左指でそっと拭くようなしぐさが思い浮かびました。
形に出来なかったことを残念に想っているのかもしれません。
今、感じたことを、そのまま文章にしてみます。
真偽はご自身で判断されて下さい。

「悲しんでいるけれど、楽しかったことを思い出しています。
二人でよく行ったところを時々訪ねています。
良かったな、あの頃は何て思っています。
若くして死んだとみんな悔やんでいますが、それは間違いです。
こうして生きているのですから。
みんなにも会えているのですから。
何で残して逝ったのなんて思わないで、自分も知らなかったのだから。
どこにも行かない約束は守っているよ。
こんなに近くにいるのに気付けないなんて、どうしてなんだろう。
そんなに悲しむなよ。
こちらまで悲しくなってしまうよ。
1人で生きて行くことなんか出来ないと思わないで。
前と同じ様に、付いていてあげるから、何も心配しなくてもいい。
1番気になる、大好き人なんだから、当たり前だろう。
お願いだから笑って。
いるんだよ、すぐ傍に。
いつも一緒なんだよ。」


2020年1月19日日曜日

神を信じる


正月になると、多くの日本人は神社やお寺に初詣に行き、何かをお願いします。

神社やお寺には神様や仏様らしき者が居て、願いが聞き届けられて、上手くすれば叶えてくれると思われています。



昔から、神様は頭上にいて私たちを見下ろしていて、何かあれば降りて来て、願いを叶えたり、罰を与えたりしていると考えられています。

いや、多くの人は本当は神などいないと思っているのかもしれません。



神は存在しています。

ただ、頭でイメージしている様な存在とは違います。

直接、手出しをすることはなく、自然法則の働きによって、宇宙を経綸しています。



自然法則とは何でしょう?

その前に、人間について説明が必要です。

人間は肉体を超えた存在です。

目に視える肉体と、目には視えない精神、その高次に魂が存在しています。

人間は、肉体、精神、霊(魂)から成る複合体です。

3者は密接に結びつき、お互いに影響し合っています。

けれども、地上では肉体の感覚と精神(自我)の働きが強くなっているので、魂が存在している実感は、どうしても希薄になってしまいます。



理解するのが難しいと思いますが、地上の人間は物質(肉体)的次元の存在であると同時に、精神的、霊的次元の存在とも言えます。

それぞれの次元には、それぞれの自然法則が働いています。

水が0℃で氷になり、100℃で水蒸気になるのも、物質(肉体)的次元の自然法則の働きによるものです。

精神的、霊的次元は目に視えませんが、そこにも自然法則は働いています。

可笑しくなると笑うのも、悲しくなると涙が出るのも、自然法則の働きによるものです。

良いことをするとうれしくなるのも、悪いことをすると後悔するのも、同じく自然法則の働きによるものです。

身の周りの全ての事象は、自然法則の働きにより起きています。



ところで、私たちが、日常生活を安心して暮らして行けるのはどうしてでしょう?

それは、法律により守られているからです。

盗んだり、人を傷つけるなど、悪いことをすれば警察に捕まり、罰せられます。

もし、法律がなかったとしたら、治安が乱れて、安心して暮らすことは出来せません。



霊的次元に働いている自然法則も同じです。

例えば、嘘を付いたり、裏切ったり、心を傷つけたりしたとします。

それらは地上の法律では、罪を問われないかもしれません。

けれども、霊的には罪が問われ、償いが生じます。

因果律と言う、絶対的な自然法則が働いているからです。

嘘を付いた人が信用されなくなるのも、裏切った人が同じような仕打ちをされるのも、因果律の働きによるものです。



因果律の働きは完璧です。

人間が作った法律から逃れることは出来ますが、神が創った法則から逃れることは出来ません。

もし、生きている内に償うことがなければ、次の人生で償うことになるでしょう。

相応の苦痛を伴うものとなりますが、それが魂の学びとなり、同じような過ちを繰り返さなくなります。

平和に暮らせるのは、目に視えない霊的次元の法則の働きにより、人間は律せられ、行動が抑制されているからです。

この世界の秩序は、法律だけでなく、自然法則の働きによっても保たれています


私たちは、自然法則の働きの支配下に置かれています。

神によって守られているので、安心して生きていれば良いのです。

けれども、人生で遭遇するさまざまな出来事によって、平穏な心が打ち消されてしまいます。

先のことをあれこれと考え、悪い方ばかりに意識が行ってしまい、往々にして不安や怖れが生じてしまいます。



病気になると、誰もが不安になります。

現代医学で不治の病気であれば、なおさらです。

もし、原因が霊的次元(魂)に存在すれば、肉体的次元にいかなる治療を行っても、病気が治ることはありません。



人間の本質は魂です。

肉体は魂から生じた思念を表現するための媒体に過ぎません。

霊的次元に存在している原因が取り除かれ、魂が健全さを取り戻し、再び成長をして行けるようになったのならば、肉体上の病気は消えて行くと考えられます。

また、予め病気になることが決まっていた人もいます。

その人は、病気になる必要があったのであり、承知して生まれてきたはずです。

もしそうであれば、必要なことを学び、欠けている部分が補われ、当初の目的が果たされたならば、病気は消えて行くはずです。



病気には苦痛が付きものですが、眠っている魂を目覚めさせると言う、深甚な意味があります。

そして、肉体に常に負担がかかっている状態は、重りを背負って歩いているようなものです。

負担の分だけ、精神と肉体は鍛錬されて、それが魂に反映されていると考えられます。



病気を克服するとは、肉体上の病気が無くなることではありません。

精神的、霊的な苦しみや怖れから解放されることです。

苦痛により魂が目覚め、受け入れる準備が整い、内在している神から叡智(真実)が明かされ、精神的、霊的な苦しみや怖れから解放された時、病気を克服したと考えられます。




知は怖れを生みます。

霊的な意味を知ることで、不安や怖れは和らぎます

病気は、本当の自分(魂)を目覚めさせ、魂の成長を促すために存在しています。



生きていると、耐え難い苦しみが生じる出来事に遭遇する時があります。

何で、自分だけがこんなに苦しまなければいけないのか? 落胆や憤りが生じます。

その答えは、どこにも見つかりません。



過去は完全に閉じられていて、寸毫たりとも変えることは出来ません。

逃れられない現実から、苦しみが生じています。

それでは、苦しみから解放されることはないのでしょうか?

過去が変えられないのであれば、自分が変わるしかありません。

けれども、どんなに変わろうと思っても、変われるものではありません。



全ては神によって創造されています。

もちろん、苦しみもそうです。

苦しみは、人をいたぶるために存在しているのではありません。

不幸にするためでもありません。

苦しみながらも乗り越えて行こうとする過程、いや、耐え忍び、じっと息を潜めて生きているだけでも、霊的な成長が得られているのです。

それが、苦しみによってもたられされている結果です。



魂が成長することで、真実(叡智)が明かされます。

足し算を知らなければ、掛け算は解りません。

新たな真実(叡智)を受け入れるためには、それにふさわしい魂の成長を伴わなければいけないのです。



腑に落ちるという言葉では言い表し切れません

言葉を超えたものが、魂の足りない部分に、そっと収まると表現すれば良いのでしょうか。

明かされた真実により、奥深くの自分が変わることで、精神的、霊的な苦しみや怖れから解放されます。

その瞬間、出来事を乗り越えたことになります。



出来事が起きて、人間が変わったように見える人がいますが、正確には、魂を目覚めさせ、意図した通りに変えるために、計画的に出来事が起きていると言えます。

地上の出来事は、魂の成長を促し、人間を変えるためにある触媒です。





人を救ったり、人を愛したりするのは何故でしょうか?

自分の中に神がいるからです。



人間は神が内在しているので、限りない力を秘めています。

その力を、どれだけ引き出せるのかは、内在している神をどれだけ信じられるかにかかっています。



神を信じていなくても、自分を信じている人がいます。

そんな人は、自分を通して神を信じていることになり、出来事を乗り越える力や、目的を成就するための力が与えられていると考えられます。



神を信じることで、不安や怖れを感じずに生きて行くことが出来ます。

けれども、心に余裕がなくなり、先のことを心配してまうと神を忘れて、不安や怖れに包まれてしまいます。

あれこれと考えて、悪い方に意識が向いてしまうのは、(この世の)自我の働きによるものです。

自我は、この世で自分(魂)を表現するために存在していますが、外部の影響を受けやすく、移ろいやすいものです。

内在している神は、自我の働きによって、その顕現が大幅に制限されています。

無限の力を秘めているのに、精神の働きがそれに伴っていないのです。



神は無限なる愛です。

自然法則を創造した目的は、万物を進化させるためと考えられます。

生命の進化とは、身体や知性の発達ではなく、霊性の向上です。

霊性の向上とは、より高い愛、より強い愛を表現出来るようになるのことです。

平たく言えば、より強く、より優しくなることです。



出来事は、挫折させたり、不幸にさせるために起きているのではありません。

人を強くし、優しくさせるために起きています。



限界を超えていると思わせるような出来事が起きます。

しかし、全ては神の創った自然法則の働きにより起きているので、乗り越えられない出来事は絶対に起きません。

たとえ最悪と思えるような出来事であっても、例外はありません



自我の働きに打ち克ち、神の意図を信じることが出来たのなら、心に平穏が訪れます。

神の意図を理解し、より多く顕現させるために、この世に生まれて来たのです。