正月になると、多くの日本人は神社やお寺に初詣に行き、何かをお願いします。
神社やお寺には神様や仏様らしき者が居て、願いが聞き届けられて、上手くすれば叶えてくれると思われています。
昔から、神様は頭上にいて私たちを見下ろしていて、何かあれば降りて来て、願いを叶えたり、
罰を与えたりしていると
考えられています。
いや、多くの人は本当は神などいないと思っているのかもしれません。
神は存在しています。
ただ、頭でイメージしている様な存在とは違います。
直接、手出しをすることはなく、自然法則の働きによって、宇宙を経綸しています。
自然法則とは何でしょう?
その前に、人間について説明が必要です。
人間は肉体を超えた存在です。
目に視える肉体と、目には視えない精神、その高次に魂が存在しています。
人間は、肉体、精神、霊(魂)から成る複合体です。
3者は密接に結びつき、お互いに影響し合っています。
けれども、地上では肉体の感覚と精神(自我)の働きが強くなっているので、魂が存在している実感は、どうしても希薄になってしまいます。
理解するのが難しいと思いますが、地上の人間は物質(肉体)的次元の存在であると同時に、精神的、霊的次元の存在とも言えます。
それぞれの次元には、それぞれの自然法則が働いています。
水が0℃で氷になり、100℃で水蒸気になるのも、物質(肉体)的次元の自然法則の働きによるものです。
精神的、霊的次元は目に視えませんが、そこにも自然法則は働いています。
可笑しくなると笑うのも、悲しくなると涙が出るのも、自然法則の働きによるものです。
良いことをするとうれしくなるのも、悪いことをすると後悔するのも、同じく自然法則の働きによるものです。
身の周りの全ての事象は、自然法則の働きにより起きています。
ところで、私たちが、日常生活を安心して暮らして行けるのはどうしてでしょう?
それは、法律により守られているからです。
盗んだり、人を傷つけるなど、悪いことをすれば警察に捕まり、罰せられます。
もし、法律がなかったとしたら、治安が乱れて、安心して暮らすことは出来せません。
霊的次元に働いている自然法則も同じです。
例えば、嘘を付いたり、裏切ったり、心を傷つけたりしたとします。
それらは地上の法律では、罪を問われないかもしれません。
けれども、霊的には罪が問われ、償いが生じます。
因果律と言う、絶対的な自然法則が働いているからです。
嘘を付いた人が信用されなくなるのも、裏切った人が同じような仕打ちをされるのも、因果律の働きによるものです。
因果律の働きは完璧です。
人間が作った法律から逃れることは出来ますが、神が創った法則から逃れることは出来ません。
もし、生きている内に償うことがなければ、次の人生で償うことになるでしょう。
相応の苦痛を伴うものとなりますが、それが魂の学びとなり、同じような過ちを繰り返さなくなります。
平和に暮らせるのは、目に視えない霊的次元の法則の働きにより、人間は律せられ、行動が抑制されているからです。
この世界の秩序は、法律だけでなく、自然法則の働きによっても保たれています。
私たちは、自然法則の働きの支配下に置かれています。
神によって守られているので、安心して生きていれば良いのです。
けれども、人生で遭遇するさまざまな出来事によって、平穏な心が打ち消されてしまいます。
先のことをあれこれと考え、悪い方ばかりに意識が行ってしまい、往々にして不安や怖れが生じてしまいます。
病気になると、誰もが不安になります。
現代医学で不治の病気であれば、なおさらです。
もし、原因が霊的次元(魂)に存在すれば、肉体的次元にいかなる治療を行っても、病気が治ることはありません。
人間の本質は魂です。
肉体は魂から生じた思念を表現するための媒体に過ぎません。
霊的次元に存在している
原因が取り除かれ、魂が健全さを取り戻し、再び成長をして行けるようになったのならば、肉体上の病気は消えて行くと考えられます。
また、予め病気になることが決まっていた人もいます。
その人は、病気になる必要があったのであり、承知して生まれてきたはずです。
もしそうであれば、必要なことを学び、欠けている部分が補われ、当初の目的が果たされたならば、病気は消えて行くはずです。
病気には苦痛が付きものですが、眠っている魂を目覚めさせると言う、深甚な意味があります。
そして、肉体に常に負担がかかっている状態は、重りを背負って歩いているようなものです。
負担の分だけ、精神と肉体は鍛錬されて、それが魂に反映されていると考えられます。
病気を克服するとは、肉体上の病気が無くなることではありません。
精神的、霊的な苦しみや怖れから解放されることです。
苦痛により魂が目覚め、受け入れる準備が整い、内在している神から叡智(真実)が明かされ、精神的、霊的な苦しみや怖れから解放された時、病気を克服したと考えられます。
無知は怖れを生みます。
霊的な意味を知ることで、不安や怖れは和らぎます。
病気は、本当の自分(魂)を目覚めさせ、魂の成長を促すために存在しています。
生きていると、耐え難い苦しみが生じる出来事に遭遇する時があります。
何で、自分だけがこんなに苦しまなければいけないのか? 落胆や憤りが生じます。
その答えは、どこにも見つかりません。
過去は完全に閉じられていて、寸毫たりとも変えることは出来ません。
逃れられない現実から、苦しみが生じています。
それでは、苦しみから解放されることはないのでしょうか?
過去が変えられないのであれば、自分が変わるしかありません。
けれども、どんなに変わろうと思っても、変われるものではありません。
全ては神によって創造されています。
もちろん、苦しみもそうです。
苦しみは、人をいたぶるために存在しているのではありません。
不幸にするためでもありません。
苦しみながらも乗り越えて行こうとする過程、いや、耐え忍び、じっと息を潜めて生きているだけでも、霊的な成長が得られているのです。
それが、苦しみによってもたられされている結果です。
魂が成長することで、真実(叡智)が明かされます。
足し算を知らなければ、掛け算は解りません。
新たな真実(叡智)を受け入れるためには、それにふさわしい魂の成長を伴わなければいけないのです。
腑に落ちるという言葉では言い表し切れません。
言葉を超えたものが、魂の足りない部分に、そっと収まると表現すれば良いのでしょうか。
明かされた真実により、奥深くの自分が変わることで、精神的、霊的な苦しみや怖れから解放されます。
その瞬間、出来事を乗り越えたことになります。
出来事が起きて、人間が変わったように見える人がいますが、正確には、魂を目覚めさせ、意図した通りに変えるために、計画的に出来事が起きていると言えます。
地上の出来事は、魂の成長を促し、人間を変えるためにある触媒です。
人を救ったり、人を愛したりするのは何故でしょうか?
自分の中に神がいるからです。
人間は
神が内在しているので、限りない力を秘めています。
その力を、どれだけ引き出せるのかは、内在している神をどれだけ信じられるかにかかっています。
神を信じていなくても、自分を信じている人がいます。
そんな人は、自分を通して神を信じていることになり、出来事を乗り越える力や、目的を成就するための力が与えられていると考えられます。
神を信じることで、不安や怖れを感じずに生きて行くことが出来ます。
けれども、
心に余裕がなくなり、先のことを心配してまうと、神を忘れて、不安や怖れに包まれてしまいます。
あれこれと考えて、悪い方に意識が向いてしまうのは、(
この世の)自我の働きによるものです。
自我は、この世で自分(魂)を表現するために存在していますが、外部の影響を受けやすく、移ろいやすいものです。
内在している神は、自我の働きによって、その顕現が大幅に制限されています。
無限の力を秘めているのに、精神の働きがそれに伴っていないのです。
自然法則を創造した目的は、万物を進化させるためと考えられます。
生命の進化とは、身体や知性の発達ではなく、霊性の向上です。
霊性の向上とは、より高い愛、より強い愛を表現出来るようになるのことです。
平たく言えば、より強く、より優しくなることです。
出来事は、挫折させたり、不幸にさせるために起きているのではありません。
人を強くし、優しくさせるために起きています。
限界を超えていると思わせるような出来事が起きます。
しかし、全ては神の創った自然法則の働きにより起きているので、乗り越えられない出来事は絶対に起きません。
たとえ最悪と思えるような出来事であっても、例外はありません。
自我の働きに打ち克ち、神の意図を信じることが出来たのなら、心に平穏が訪れます。
神の意図を理解し、より多く顕現させるために、この世に生まれて来たのです。