二十歳くらいの時でしょうか、何のために生まれて来たのだろうかと、漠然と考えることがありました。
しかし、いくら考えてみても答えは見つかりません。
周りの人は、そんなことを考えている暇もなく、精一杯生きているように見えました。
やがて、現実の生活に追われるようになり、意識しなくなりました。
それから30数年の月日が流れた今、ようやくその答えが見つけられたようです。
生まれて来たのは、偶然なのでしょうか?
偶然生まれて来たのであれば、人生の出来事も偶然起きて、死ぬのも偶然に思えます。
もしそうであれば、何か虚しいものを感じます。
明確な目的を持って生まれて来たはずです。
肉体を使って自己表現をしながら、大切なことを学び、成長するために、この世に生まれて来たはずです。
それでは、何を学んでいるのでしょうか?
本を読んだり人に教えてもらったりして、生活して行くため、あるいは社会のために必要な知識や技術を学んでいます。
それ以外に、この世界を支配している、目に見えない自然法則の働きを学んでいると思います。
自然法則とは、不変の「決まり」です。
うれしいと笑顔になり、悲しいと涙が流れますが、これも決まりであり、自然法則の働きによるものです。
小さい時に友達と一緒にいて、わがままを言ったり自分勝手な行動をしていると、いつのまにか仲間外れにされています。
これも自然法則の働きによるものであり、法則に反した行いをしたために、孤独になり苦痛を味わっていたと考えられます。
一人ぼっちはつらいので、自分の悪かったところを正して、また仲間に入れてもらいます。
周囲との協調を促すように、自然法則は働いていると考えられます。
周囲との協調を促すように、自然法則は働いていると考えられます。
何をすると、どんな結果が生まれ、その結果からどうするべきなのかを、さまざまな経験を通して学んでいます。
生まれた時から今まで、数え切れないほどの「決まり」を学びながら、私たちは成長しています。
せっかく学んだとしても、死と同時に消えてなくなってしまうのでしょうか?
もしそうであれば、大変な思いをして学ぶ必要はないような気がします。
死とは何でしょう?
それは生命の本質である魂と肉体の完全な分離です。
肉体から分離した魂は、次の世界に移行し、直ちに別の媒体で自己表現を始めます。
肉体がない次の世界では、思念によってコミュニケーションを行い、そして想像するのが難しいのですが、思念が具現化します。
お金がたくさん欲しいと願えば、目の前に現れます(物質的なお金であはありません)が、物を売っているわけでないので、欲しがる人はあまりいないでしょう。
どんなに財産を貯めても、次の世界には持って行けませんが、持って行けるものがあります。
それが、この世で学んだことです。
学んだことは、魂に刻み込まれていて、次の世界で活かされることになります。
約13年前になりますが、私は仕事上で不正を追及されて、厳しい行政処分を受けました。
それまで経験したことのない出来事であり、早くこの苦しみから逃れたいと願うばかりでした。
そんな最中に学んだことは、因果律の働きでした。
そんな最中に学んだことは、因果律の働きでした。
人には良心がありますが、それを無視して行動すれば、報いが来ることを学びました。
目に見えない自然法則が厳格に働いており、この世界に偶然や不運が存在しないことを思い知りました。
原因に対する結果は厳しいものがありましたが、今は因果律と言う自然法則の働きを知ることが出来て良かったと思っています。
原因に対する結果は厳しいものがありましたが、今は因果律と言う自然法則の働きを知ることが出来て良かったと思っています。
自分が想ったこと、言ったこと、行ったこと、その全てに自然法則は働いています。
それまで生きて来た中で、過ちはたくさんあったでしょう。
過ちには、自然法則の働きにより、相応の苦痛が生じるようになってます。
世の中には、罪を犯しても上手く逃れて償わない人がいます。
しかし、その罪はしっかりと魂に刻み込まれています。
社会的な償いを免れても、霊的な償いを免れることは決してありません。
霊界に時効はなく、罪を償わない限り成長は許されません。
悪いこと、やましいこと、人を傷つけること、良心を無視することは、たとえ法律に触れなくてもしてはいけないことを学びました。
霊界に時効はなく、罪を償わない限り成長は許されません。
悪いこと、やましいこと、人を傷つけること、良心を無視することは、たとえ法律に触れなくてもしてはいけないことを学びました。
もし、そのことを知らずに生きていたら、きっと償うことが多くなったでしょう。
苦しい経験を通して学んだことが、次の世界に行った時に後悔しないために活かされています。
近くの山に、気が向いたら登ることがあります。
登っている時は、楽ではありません。
急な登り坂ほど、息が上がり、苦しくなります。
それでも登って行くのは、いつまでも続かないことを知っているからです。
上り坂が終わったら、山頂が待っていることを知っているからです。
生きていると、苦しい時があります。
その苦しさが、いつまで続くのか判りません。
終わりがない様に思えると、何もかも放り出して逃げたくなってしまいます。
何で、自分がこんな苦しい思いをしなければならないのかと、憤りを覚える時もあるでしょう。
そんな時に、2つの大切な自然法則が働いていることを忘れてはいけません。
苦しい出来事を乗り越えて行く中で人は霊的に成長する、そして乗り越えられない苦難は絶対に与えられないという自然法則です。
成長などしなくて良いから、この苦しみを何とかして欲しいと思うかもしれません。
しかし、自分を成長させることが、生きている目的そのものです。
信じられないかもしれませんが、苦しい時こそ、この世を生きている目的を成就しているのです。
山登りは、周りの景色から高いところまで登って来たのが判りますが、魂が成長していることは自覚出来ません。
しかし、以前よりも、人の想いが判り、寛容になったのなら、それは成長している証かもしれません。
自然法則を創造したのは神です。
神の心は愛であり、自然法則の働きの中に顕現しています。
ただ苦しませるためだけに、苦しみを創ったのであれば、神の心が愛であるはずはありません。
苦しみの中で人を成長させ、苦しみの果てに学び(叡智)を与えることで、神の愛が顕現され、完全な公平が保たれています。
起きた出来事を不運と思っていると、それで完結してしまいます。
ただ嘆くだけであり、学ぶことは何1つありません。
魂は神の一部です。
神の属性の全てが、私たちの魂に内在されています。
内在されている神の叡智が、霊的な成長に伴って、少しずつ明かされて行くと考えられます。
学びは見つけるのもではなく、自らの中に自然に現れて来るものと考えられます。
苦しみは、いつまでも続きません。
何故なら、成長と学びを手に入れるために創造されたものだからです。
成長と学びを手に入れた時に、苦しみは不要になり、解放されるはずです。