2018年6月24日日曜日

法則の中に神がいる



最近、スピリチュアルという言葉を頻繁に聞くようになりましたが、使わないようにしています。

あまりにも軽く、流行り言葉のように感じられるからです。

スピリチュアルと聞いて、疑わしく信憑性に欠けるものと思っている人もいるでしょうが、それは事実でないことを伝えていたり、営利のために利用している人がいるからなのかもしれません。



「人間の生命そして個性は、肉体とは別次元にある魂に存在する」

この厳粛な事実を、全ての人に信じてもらうのは不可能です。

別次元と聞いた時点で、理解を超えていると思う人も多くいるでしょう。

何より、魂は目に見えず、実感されないことが最大の障壁になっていると考えられます。



目に見えないものでも、存在しています。

物を落とすと、地面に向かって落ちます。

この現象について、今から数百年前の人たちは、あまりにも当たり前なので深く考えようとしませんでした。

イギリスの物理学者であるアイザック・ニュートンが、リンゴが落ちるのを見て、物質は地球の中心に向かって引き付けられていると言う「万有引力の法則」を発見しました。

今では、この目に見えない法則の働きを、疑う人はいません。



法則は、物質だけに働いているのではありません。

日常で起きている現象も、全て法則に従っていると考えられます。

れしいことがあると笑顔になり、悲しいことがあると涙を流します。

こんな当たり前のことも、予め決められていて、法則に従っていると考えられます。

生まれて来るのも死ぬのも、偶然ではなく、法則に従っています。

四季が巡って来るのも、花が咲くのも、地震が起きるのもそうです。

ごく自然に思えることでも、目に見えない法則が働いていて、その結果を見ていると考えられます。



ところで、もし人を傷つけてしまったとしたら、どんな心境になるでしょうか?

きっと、後悔してしまうでしょう。

では、人に喜んでもらうと、どうなるでしょうか?

うれしくなると思います。

こんな心境の変化も、法則に従った結果だと考えられます。



もし法則がなかったとしたら、どうなるのでしょうか?

ある人は、傷つけるとうれしい気持ちになってしまい、またある人は、人に喜んでもらうと後悔してしまいます。

それだけでも混乱が生じてしまうと考えられます。

あることをすれば、必ずあることが生じる、「因果律」という絶対的な法則が働いているために、宇宙の秩序は保たれています。



法律は、社会の秩序や公正を保つために、人間によって作られました。

法則も、何らかの意図があって、何者かによって創られたはずです。

その何者かが、神と呼ばれる存在であり、その意図は自らの心を顕現させるためと考えられます。

神の創った法則は、人間の作った法律とは比べ物にならないほど、厳格に働いています。

法則に適っている想い、言葉、行いには悦びが生じ、反していれば苦痛が生じるようになっています。

神はその様な手法で、自らの心を顕現させようとしています。



人は、肉体のみの存在ではありません。

精神があり、その高次に魂(霊)が存在し、3者のの複合体と言えます。

魂で生じた思念が、精神を経由して、肉体で表現されています。

それぞれが別の次元の存在であり、別の法則によって支配されています。

人が成長し老いて行くのは、物質的次元の(生物学的)法則に従っています。

それでは、この世に生まれるのはどうでしょう?

それは物質的次元を超えた、霊的次元の法則に従っています。



人は何のために生まれて来るのでしょう?

この世で成長(進化)するために生まれて来ます。

人や動物や社会のために奉仕をしたり、困難や障害を乗り越えると自分(魂)が成長し、人を傷つけるなど、過ちを犯すと成長が妨げられますが、これも霊的次元の法則の働きによるものです。

そして、法則に従って成長(進化)し続けて行くのが、神の意図と考えられます。



E=mC² この物理法則を発見したアインシュタインは、「神はサイコロを振らないと確信している」と言ったそうです。

神の創った法則により、宇宙は支配されていて、偶然は存在しないと、言いたかったと推察されますが、物質的次元の法則を突き詰めて行くと、やはり神に辿り着くような気がします。



人間は125歳まで生きられませんが、どうしてなのでしょうか?

遺伝子のプログラムがそうなっているからなのかもしれませんが、もしそうであれば生命のプログラムを考案した存在がいるはずです。

無限の叡智により、人間は125年を超えて生きる必要はないと判断され、その様にプログラムされていると考える方が、偶然と考えるよりも自然なのかもしれません。



私たちは、目に見えない法則に従って生きていますが、残念ながら、ほんの一部しか判っていません。

法則の働きが判らないと、起きた事象を偶然として片づけてしまいます。

物質的次元の法則は科学の発展により、徐々に明らかになって来ました。

霊的次元の法則は、シルバーバーチの霊訓をはじめとする霊的真理により徐々に明らかにされつつありますが、まだ始まったばかりです。

霊性の高まりと共に、これから明かされて行くと考えられます。



法則は神によって創られたものであり、神の意図が内在されていますが、その意図とは宇宙創造の目的そのものだと考えられます。

宇宙は138億年前に開闢し、1つのものがバラバラになりました。

物質を引き合うものが引力であるならば、生命(魂)同士を引き合うものが愛です。

生命を愛によって1つにさせて行くのが、神の意図だと私は考えています。

限りない時をかけて、魂は向上し続け、法則の働きによって、バラバラになった生命は再び1つになって行くと考えています。



神の法則は、宇宙の隅々まで働いています。

全ての出来事は、法則の働きによって生じているので、偶然はありません。

突発的な事故のように思えても、物質的、精神的、霊的次元のどこかに原因が存在するはずです。

例えば交通事故ですが、物質(肉体)的次元では視力など認知能力の低下があったり、精神的次元では心配事があったかもしれず、運転に慢心があったならば霊的次元の原因と言えるのかもしれません。

お酒を飲んで肝臓を悪くしたのであれば、それは物質的なアルコールが原因です。

しかし、お酒を飲むようになったのは、精神的なものが原因かもしれません

依存的になっているのであれば、霊的な原因が存在するかもしれません。

それぞれの次元に原因があり、絡み合っていることが多いと考えられます。



は、宇宙で起きる全ての事象に責任を負っています。

しかし、事象の原因を自分が作ったのであれば、その結果責任を取らなければいけません。

自分が原因を作っておいて、神に祈って事態(結果)が変わることはありません。

苦痛を経験し、因果律の働きを学び、原因がなくなることで変わると考えています。



病気で大変つらい思いをして、今までの過った生き方を改めて、自分らしい優しさを表現できるようになった人がいます。

魂が目覚めて、霊的次元の法則に従うようになったと考えられます。

霊的次元の法則には神の愛が込められているので、人や社会のために奉仕して、成長する方向に向かうようになっていると考えられます。



人間には、霊的次元の法則の枠内で自由意思が与えられています。

他者の過った自由意思の行使によって、心身に傷を負ったとします。

当然のことながら、傷つけた人は責任を取らなければならず、相応の償いが待っています。

負わされた人には、埋め合わせの法則が働いていて、失ったものが別の形で補われると考えられます。

どのようなことが起きたとしても、魂を成長させることにつながり、最終的により大きな悦びが得られるようになっていると思います。



全ての事象は、法則の働きによって起きています。

完全な公平、公正、平等が、法則の働きによって保たれています。

法則は神の心が顕現したものであり、の働きを信じられるほど、この世の苦しみや怖れから解放されると思います。





2018年6月10日日曜日

性格は生き方で変わる



人には、それぞれ個性があります。

優しさ、怒りっぽさ、明るさ、暗さ、勇敢、臆病など、さまざまな性格的特徴があり、それらが組み合わさって個性となっています。



同じ親が、同じ様に子供を育てたとしても、それぞれの個性は現れて来ます。

周囲からの影響で、性格は多少変わるかもしれませんが、個性は失われないと思います。

個性は生まれた時から備わっていて、それが成長と共に、顕著になって来ると考えた方が良さそうです。



それでは、個性は何によって決まるのでしょうか?

個性を決定付けている性格は、遺伝子によって決まると言う人がいますが、科学的な証明は困難なようです。

脳によって決まると言う人がいるようですが、性格が変わるのは脳が変化したためと考えるのは無理があると思います。

人の個性は、肉体(脳)を超えた存在によって決まると、私は考えています。



人を構成しているのは、精神と肉体だけではありません。

精神の高次に、魂(霊)が存在しています。

魂とは生命そのものであり、意識的存在です。

魂に個性があり、それが精神上に性格として反映していると考えています。



それでは、生まれた時から魂に個性があるのは、どうしてでしょうか?

記憶は消去されていますが、生まれる前にも人生(過去生)があります。

そこで様々な出来事を経験をしながら、個性が形作られて来たと考えられます。



人生で想ったこと、言ったこと、行ったことの全てに因果律が働いていて、魂の様相を変化させていると考えられます。

魂の様相が個性となって、この世で顕現している考えられます。



生まれた時に、同じ個性の二人の人間がいたとします。

一人は人や社会のために、自分を犠牲にして生きて、もう一人は、道を誤り、我欲を優先し、人を犠牲にして生きてきたとします。

二人は年齢と共に変わって行き、死ぬ時は全く別の人間になっていると想像されます。



その二人が、また地上に生まれて来たとします。

前者は、優しく、思いやりのある性格の人間として生まれるでしょう。

後者は、わがままで、思いやりに欠ける性格として生まれるでしょう。

性格は偶然の産物ではなく、過去の経験や自らの行いによって、決められていると考えられます。



優しく、思いやりのある性格は、人に好感を持たれるだけではなく、表現をすれば因果律の働きによって、悦びがもたらされるようになっています。

一方、わがままで、思いやりに欠ける性格は、人に嫌われるだけでなく、苦痛がもたらされるようになっています。

人は、悦びと苦痛のどちらを選ぶでしょうか?

悦びを選ぶのに決まっています。

しかし、生まれ持った性格は一朝一夕に変えられるものではありません。

また、努力して変えられる類のものでもありません。

その性格に相応しい経験をすることによって、変わって行くと考えられます。

そして苦痛の経験は、性格を大きく変えて行くと考えられます。



わがままな性格の人が他者と交わると、反発を招いたり、疎外されたりします。

人にとってそれは苦痛であり、苦痛を味わいたくないために、無意識の内にその性格は改められて行くと考えられます。

たとえ、わがままな性格を隠したとしても、隠して生きることに苦痛が生じます。

苦痛を味わうのは、その性格神の摂理に適っていないためであり、表現すると因果律の働きにより(苦痛を伴う)出来事が生じるからです。

苦痛を味わうことで、その原因に気付くことが学びであり、改めることで魂の成長につながります。



なぜ、神は摂理に適っていない性格を改めさせているのでしょうか?

神は、ばらばらに存在している生命(魂)を、1つにさせる意図があると思われます。

摂理に適った、優しく、思いやりがあり、寛容な性格は、お互いを認め合い、許し合い、調和が生まれ、1つになるのを促しています。

しかし、摂理に適っていない、わがままで、思いやりに欠け、不寛容な性格であれば、反発し合い、1つになるのを妨げてしまいます。

愛し合えば、直ちに1つになれます。

認め合い、許し合い、1つになるために、愛の属性である摂理に適った性格をこの世の苦痛を通して育んでいると考えられます。



愛し合うのではなく、憎しみ合えば、大きな苦痛を伴う結果が生じてしまうのは、世界中で起きている戦争を見れば明らかです。

しかし、神は罰として苦痛を経験させているのではありません。

苦痛を通して、自らの心(愛)を表現する魂に変えて、1つにさせるために導いていると言えます。



性格は個性を形作っていますが、霊的な進化の指標になっています。

優しければ優しいほど、思いやりがあればあるほど、他者に愛を表現しているので、霊的に進化していると言えます。

わがままな性格の人は、霊的に進歩の余地が大いに残されていると言えます。



生きている目的は、魂を成長させるためです。

魂の成長は、他者に愛を表現することで成就されます。

従って、利己的な性格のままでは、大きく成長できません。

そこで、もう1度この世に生まれ、苦痛を経験して、成長できる利他的な性格に変わって行きます。



生まれた時から個性が存在するのは、過去(生)から引き継がれているためと考えられます。

ただ、過去(生)と同じ個性の人間が、今生に生まれるわけではありません。

魂の個性は多面的なものであり、変えるべき面(性格)を前面に出して生まれてくるので、同じではないと考えられます。



性格を変えようと思っても変わるものではありません。

人が喜び、社会のためになる、愛を表現する生き方を心がけていれば、望まれる性格に変わって行きます。

性格を良くも悪くも変えて行くのは、自らの想いであり、言葉であり、行いです。

その人の生き方によって変わります。