小学生の時に住んでいた家の隣りに、小さな駐車場がありました。
ある夜のことです、門の外にいたところ、目の前を黒い動物がよぎったので、何を思ったのか、地面にある石を拾って逃げていった方向に向かって投げつけてしまいました。
次の朝、起きてみると近所がちょっとした騒ぎになっていました。
駐車場に留めてあった1台の車のフロントガラスが蜘蛛の巣が張ったように壊れていたのです。
その瞬間、夜投げた石が当たって割れたと思いました。
大変なことになってしまった思いつつ、そのまま学校に登校しました。
授業中も、壊れたフロントガラスのことが頭から離れることはありませんでした。
いたたまれない気持ちになり、家に帰って母親に事情を話し、その日のうちに車の持ち主に謝りに行き、親が弁償しました。
黙っていれば、絶対にばれることはありませんでした。
なのに、なぜ告白したのかと言えば、しらばっくれていることが出来なくなったからです。
告白すれば、親に怒られるのが判っていますが、それよりも黙っていて、心が苦しい状態が続くのに耐えられなかったのです。
何で告白したのか、その時は考えもしませんでしたが、今は、自分の中に「良心」が存在し、苦しみを生み出していたと思っています。
ところで、良心とは何なのでしょう?
誰かに教えてもらったのでしょうか?
生まれた後に身に付けたものではなく、初めから人に備わっているもののようです。
人の悪口を言って何とも思わない人もいれば、良心が咎めて言えない人もいます。
ハンティングをしても何とも思わない人もいれば、動物を殺すのに良心が咎める人もいます。
このことから、良心は絶対的なもののではなく、人によって違うようです。
性別、文化、風習によって影響は受けますが、個々に備わっている資質に関係しているようです。
良心が生まれるのは一瞬であり、直感として感じています。
ところで、直感とはどこで生まれるのでしょうか。
頭脳の働きによって作り出されるものであれば、知識や経験を基にして、思考する時間が必要になります。
直感とは一瞬のひらめきであり、思考を超越したもであるのは明らかです。
芸術的なひらめきが、思考の産物であるはずがないのは、誰でも判ります。
直感は、時間を超越した次元の存在である「魂」から生まれていると考えています。
良心は、言動に移すかどうかを決める重要な基準になっていると思います。
私たちは自由に意思決定していますが、良心により一定の縛りが設けられているようです。
その良心をシルバーバーチは、魂に内在する神の監視装置(モニター)と表現しています。
なぜ、神は魂に良心を内在させたのでしょう?
この世界は、神の創った自然法則によって支配されています。
自然法則に背いた行いをすれば苦通が、適った行いをすれば悦びが与えられるようになってます。
神が自然法則を創り出したのは、その働きによって宇宙に秩序を与え、万物を進化させるためと考えられます。
生命(魂)に限って言えば、自らの心(愛)を表現させる方向に導くためです。
人は自由に意思決定することが許されているのですが、未熟な上に、肉体を纏っているために、自然法則の働きが見えなくなっています。
そのために、往々にして法則に背く過ちを犯してしまいます。
そんな過ちを私たちが犯さないために、神は良心と言う人を監視するモニターを魂に内在させたと考えられます。
自然法則(摂理)に背く行いをしようとする時に、内なる良心が言葉にならない声でささやきかけてきます。
「本当にそれで良いのか?」
「やめておけ」
人は弱いもので、その声に対して「だって~だからしょうがない」と正当化しようとします。
それは虚しい言い訳であり、どちらに進むべきなのかは、すでに決まっているのです。
どちらか迷った時には、自分を偽らずに、良心の声に従わなければいけません。
もし、内なる良心の声に逆らって、摂理に背いた行動をすると、どうなるのでしょうか?
魂は負債(カルマ)を抱えてしまいます。
負債は大きいものから小さいものまでさまざまですが、必ず返済しなければいけません。
正確無比な因果律の働きにより、負債を返済するための償いの出来事が生じるようになっています。
死ぬまでに生じなかったら、次にこの世に生まれた時に生じるようになっています。
償いのために、貴重な人生の時間を費やさなければなりませんので、そんな遠回りをさせないために、神は良心を内在させていると考えられます。
嘘を付いても、誰も傷つくことはないかもしれませんが、それは罪なことであり、魂にしっかりと刻み込まれています。
嘘を付かないように、良心の声はしていたはずです。
このように、良心を無視した行動が常態化してしまうと、その声は次第に聞こえなくなってしまいます。
神の声が届かなくなり、摂理に背いた行動を繰り返し、魂の様相が変わってしまうほどになれば、因果律の働きにより、浄化するために多大な苦痛を味わなければいけなくなります。
ちりも積もれば山となると言うことわざがありますが、良心の声に従い、最初のちりを積もらせないことが何よりも大切です。
良心に逆らおうとしているのが、「この世で作り上げてきた自分」と考えられます。
この世で作り上げてきた自分とは、本当の自分(魂)とは別に、肉体で自己表現するために精神上に作られた個性を有した存在です。
この世で作り上げてきた自分は、頭脳により思考をしていて、霊的に物事を見極められないために、時に打算的で利己的になってしまいます。
それが俗に言うエゴと呼ばれているものと考えられます。
神の声である良心と、この世で作り上げてきたもう1つの自分(エゴ)の間で、せめぎ合いを繰り返しながら、人生は営まれています。
良心の声に従うと、物的に損をしたり、困難が立ちはだかったり、遠回りをすることになったり、窮地に追い込まれてしまうこともありますが、霊的な成長のために、最善の選択をしていると考えられます。
死んだ後に、この世の全人生を振り返る時が必ず来ます。
その時に、良心の声に従って行動をしたために後悔せずに済んだことを知り、ホッと胸を撫で下ろすでしょう。
魂や神の存在を信じない人がいます。
そんな人は、良心の存在をどのように考えているのでしょうか。
もし良心が頭脳が作り出した道徳的な概念であるとするならば、呵責が生じるのはどうしてなのでしょうか?
そんな自分を苦しめる不合理な感情が存在する必要が、どこにあるのでしょうか?
頭で考えれば考えるほど、良心を説明するのは困難になります。
人は成長するために、この世に生まれて来ます。
神の摂理に適った生き方をすることで成長して行きますが、神の摂理は目に見えず実感を伴わないため、その存在に気付かずに、つい背いた行いをしてしまいます。
そんな、盲目的なこの世の人のために、神は良心を埋め込みました。
良心を通して、自らの存在を示し、声を聞かせています。
人に良心があるのは、神の摂理に背いた行動をさせないためであり、この世にいる私たちを健全に成長させるためです。
良心の存在は、人(魂)に神の心が宿っていることの証左となります。
良心の声に従えば、神の心に従っていることになります。