日本では人が死んだら、亡くなると言います。
亡くなると言う言葉の響きは、もう存在していない「無くなる」を連想してしまいます。
跡形もなくなり、視えなくなってしまえば、無くなったと思ってしまっても仕方がないような気がします。
しかし、現実は違います。
人間は肉体だけの存在ではありません。
肉体を動かしているのは精神です。
そして、精神の高次に「魂」が存在しています。
死とは、魂が肉体から抜け出す自然現象です。
心臓が停止して脳波が平坦になるのは死の前段階に過ぎず、肉体から魂が完全に分離した瞬間が死です。
死によって肉体は活動を完全に停止しますが、生命の本質である魂は変わりなく生き続けています。
残念ながら死におけるこの現象は、いかなる機器をもってしても観察することは出来ないので、唯物的な人にとって根拠のない戯言にしか聞こえないかもしれません。
真偽のほどは、死を経験すればはっきりします。
けれども、事前に正しい知識を身に付けておいて損はありません。
正しい知識を身に付けていれば、死後の環境に直ぐ馴染むことが出来るからです。
魂など存在せず、死後の世界などない思っていれば状況は全く違って来ます。
意識があり、自分が存在しているので、まだ地上で生きていると錯覚してしまいます。
違う世界にいることが判らず、新しい環境に適応出来ません。
私が正しいと思っている知識が間違っていないと言う保証はありません。
しかし、たとえ間違っていたとしても、その時は無になっているので、騙されたと悔しがる心配もないでしょう。
死を境に肉体は活力を失い、分解され土に還ります。
一方、魂は肉体とは違う媒体(幽体)で自己表現を始めます。
幽体の波長は物質に近いので、半透明な「幽霊」として観察されることがあります。
肉体から抜け出した魂は、しばらくすると先に逝った親愛の情で結ばれた人と再会します。
再会の悦びに浸ると同時に、もうこの世の人間ではないことを自覚します。
それからどれ位経ってからでしょうか、人生を総括する時が訪れます。
この世で、想ったこと、言ったこと、行ったこと、その全てが魂に刻み込まれています。
目の前にスクリーンの様なものが現れ、全人生が映し出され、一部始終を観ることになります。
さまざまな出来事を振り返って行きます。
出来事を通して学ぶべきことを学んだか、予期していた成長が得られたかどうかが、つぶさに判ります。
苦しみながらも、どうにか乗り越えて行けたのなら、安堵と共に悦びに包まれるでしょう。
逃げてしまい、何も学ぶことが出来なかったとしたら、自分の取った行動を後悔することになるでしょう。
人のために役に立つのは、想像してた以上に価値があったことに気付きます。
喜んでもらえた上に、自分も成長していたことを知り、大きな悦びを感じます。
人を傷つけたり、苦しめたりしたらどうでしょう?
自分が取った行動の結果を見せられて、その責任を取ることになります。
たとえ地上の法律から逃れられたとしても、自然法則の働きからは逃れられません。
苦痛を伴う、相応の償いをしなければいけません。
後悔を晴らすため、償いをするために、もう1度この世に生まれて来る人も少なくないようです。
それを済まさない限り、前に進むこと(成長)が許されないのです。
死んで終わりになると信じていると、後悔をしたり、償いをしなければならない人生を送りやすくなります。
無用な遠回りをしないために、霊的な真実を早く知っておくことは、とても大切です。
ただ、平穏無事な生活を送っている人にとって、霊的な真実など関心はないようです。
太陽が出ている時に、明かりは必要ないのです。
けれども、出来事に打ちのめされ、真っ暗闇の中にいる人にとって、足元を照らす明かりになります。
この世界で起きる全ての出来事は、無限の叡智によって創られた、自然法則の働きによって起きています。
偶然はなく、原因(目的)が必ず存在しています。
学びと成長を得るために、(無限の叡智によって)計算し尽くされた上で、出来事は起きています。
挫折させるためではなく、霊的な進化を目的としているので、乗り越えられない出来事は絶対に起きません。
窺い知ることは出来ませんが、生まれる前にも人生があり、今生へとつながっています。
まだ学んでいないことを学ぶために、ふさわしい経験が必要だったと考えられます。
足りない部分を補い、強くなるために、避けて通ることが出来なかったと考えられます。
では、何故、私たちはそこまでして学び、成長して行かなければならないのでしょうか?
遠い遠い過去に宇宙は誕生し、元々は1つだったものがバラバラになりました。
そして、長い時を経て生命が誕生します。
生命は偶発的に誕生したのではなく、目的を持って創造されています。
創造した者を「神」と呼ぶことにします。
生命は神によって創られた、神の一部です。
勿論、人間もそうです。
一人一人の魂に神がいます。
神は無限の叡智です。
私たちの魂にも、無限の真理(叡智)が内在されています。
人生において、耐え難い出来事が起きる時があります。
なぜ、こんな目に遭わなければいけないのか?
どうすればこの苦しみから逃れられるのか?
真実を教えてくれる人は、どこにもいません。
いくら考えても、答えは見つかりません。
追い詰められ、頭で考えてもどうにもならなくなった時、それまで眠っていた魂は目覚めます。
悲嘆、落胆、失望、屈辱など、苦痛と感じる心的状況は、魂を目覚めさせるための神の触媒です。
思考することによって、真実が判るわけではありません。
真実は霊的次元に存在しています。
目覚めた魂に内在している無限の叡智から、必要としている真実がインスピレーションとなって啓示されます。
啓示された真実は魂の学びとなり、苦しみから救われ、出来事が乗り越えられます。
話は変わりますが、人体は小宇宙と言われています。
数十兆個にも及ぶ、多様な細胞から構成されています。
たとえば指先の皮膚の細胞と脳の細胞ですが、お互いに関係がないように見えます。
しかし、どちらも人体を構成する一部であり、それぞれに果たすべき役割があります。
全体の中でつながっています。
広大な宇宙の中で、一人の人間は極小の存在です。
けれども、宇宙を構成している一部には変わりはありません。
どんなに小さな存在であっても、全体の中で果たすべき役割りが与えられているはずです。
全ての細胞に、同じ血が流れていて、私たちは生きています。
全ての生命に、同じ力が流れていて、私たちは生きています。
その力とは、生命(霊)力です。
生命力と言う共通の力で、全生命はつながっています。
ヒーリングの力は生命力です。
その力により、魂と精神と肉体が癒やされます。
その様子を見る度に、生命力は神を始源とした、愛を帯びた力であると強く感じます。
神は生命力を通して、全ての生命に自らの心、愛を表現させようとしていると思います。
しかし、私たちはいつも愛を表現しているわけではありません。
愛を表現するどころか、反対に怒ったり、憎んだりすることもあります。
それはどうしてなのでしょうか?
地上の人間は、自分の想いを、精神(自我)を介し、肉体と言う媒体で表現しています。
肉体からは様々な欲求が生じていて、そのほとんどが自己保存的なものです。
自我は肉体と強く結びついているため、どうしても自分に意識が向き、他者に意識が向きません。
地上では、自分が1番可愛いのです。
自分が1番可愛いと思っている者同士の間には、反発が生じてしまいます。
自分に意識が向いてしまう中で、他者に意識を向けて、調和を図ろうとするのが、肉体を持つ地上ならではの修練と考えられます。
昔、駅のホームに転落した人を、自らの命(肉体)を犠牲にして、助けようとした人がいました。
その人は、頭で考えて行動したのではなく、魂に内在する神性(愛)が強く発現したと考えられます。
その場に居合わせた多くの人が助けられなかったのは、自我の働きにより、神性の発現が抑制されたからと考えられます。
人生では、このような自我と魂のせめぎ合いが起きています。
私たちは、常に試されているのです。
自我に打ち克ち、他者に愛を表現することによって、魂は進化向上します。
進化向上の果てに待っているのは究極の愛の境涯であり、神は自然法則の働きによって私たちを導いています。
この世界では、様々な人間が同じ平面に生活をしています。
考え方や価値観が異なる、自分とは違う人たちと一緒に生活するのは大変なことです。
平穏無事に生活するためには、お互いを認め合い、許し合わなければいけません。
それらが欠如したならば、争いが起きてしまいます。
争いから生じるのは、苦痛です。
私たちは苦痛を通して、認め合い、許し合うことの大切さを学びながら、次第に信じ合うようになって行きます。
この世界に生まれて来たのは、自分に打ち克ち、自分とは違う人たちを信じ、愛を表現するためです。
愛は魂は引き付け合う、神的なエネルギーです。
バラバラになった生命が、愛によって再び1つになるために用意されたのが、この世界です。
気の遠くなるような長い年月をかけて、神の計画は成就されて行くはずです。
死とは、次の世界に生まれることです。
新しい媒体によって自己表現を始めることです。
肉体のような自己保存のための欲求はもうありません。
食べる必要も、休息する必要も、お金のために働く必要もありませんので、自分ではなく他者に意識が向けられるようになります。
自分に向けていた(生命)力を、自然に他者に向けられるようになります。
お互いを思いやり、助け合う世界です。
そして、本当の自分の想いを隠していた肉体はもうないので、周りに全てが知れてしまう世界でもあります。
この世界とは大きく違うところが、他にもあります。
周囲には自分と類似した魂しかいません。
従って、他者との関係で悩んだり、苦しんだりすることはありません。
類似した魂から生じる想いは、自ずと似通っています。
お互いが同じ想いを共有しながら生活しています。
素晴らしく快適な世界です。
本来は、喧騒と争いに満ちたこの世界に生まれようとは思わないでしょう。
それでも、生まれて来るのは、次の世界では決して起きることのない出来事を通して、大切なことを学び成長するためです。
神の計画に従い、想いを共有して1つになって行くために必要な経験をするためです。
大切な人が死んでしまったら、この世にいられなかったと悼みます。
それは大きな間違いであり、想像を超えた素晴らしい世界に誕生したのです。
他者を自然に思いやれる人は、次の世界に行く準備が整っていたのです。
肉体がなくなり、ありのままの想いが周りに知れたとしても、恥ずかしくない人だったのです。