2019年7月21日日曜日

この世の経験によって魂は1つになって行く



若い時は、死について考えることはありませんでした。

ずっと先のことであり、生きることにしか興味がなかったからです。

人生の半分が過ぎる頃、霊的真理と出会い、死について思い巡らすことが多くなりました。

死の概念は全く変わりました。

死は怖いものではなく、この世の苦しみからの解放であり、いつしかその時が来るのが楽しみになりました。



死後の世界の存在を、客観的に証明することは出来ません。

しかし、これまでの経験によって、存在を疑うことはなくなりました。

そして、死後の世界に行くことを前提に生きるようになりました。



この世が全てと思えばどうでしょう?

少しでも長く生きていようとするでしょう。

人生を楽しむだけ楽しもうとするでしょう。

つまり、長くて、楽しいのが幸せな人生と、錯覚してしまうと思います。



けれども、楽しいだけの人生では、人は物足りなさを感じます。

「苦労は買ってでもしろ」と日本では古くから言われています。

「アリとキリギリス」の話は有名ですが、快楽ばかりを追い求めるのは良しとされないのは西洋でも同じようです。

苦労するのは決して悪いことではない、多くの人は心の中でそう思っているようです。



それでは、苦労は報われるのでしょうか?

どんなに努力をしても、報われないことはあります。

スポーツの世界でも、毎日の厳しい練習に耐えて試合に臨んでも、期待した結果がでないことがあります。

どんなに頑張って勉強しても、志望校に合格できないこともあります。



結果が出せなければ、苦労は無駄になってしまうのでしょうか?

そんなことはありません。

視える形となって結果が出せなくても、自分の成長という視えない形で結果が出ています。



本当の自分とは魂です。

魂は成長することを希求しています。

楽しいだけの人生では成長しないのを知っているので、魂はあえて苦難の道を選ぶこともあります。

たとえ結果が出せくても、目標に向かって精一杯努力したことにより、成長が得られているので、最終的には納得できるはずです。



あの時頑張れたのだから、今回も頑張れると思えるのは、これまでの経験が未来に活かされている証拠です。

過去に学んだことが参考になり、次に起きた困難や障害を無事に切り抜った経験は誰にでもあるはすです。

人は経験から、訪れる試練を乗り越える術を学び、耐える資質を身に付けています。



さまざまな経験をしながら、肉体は終局に向かい、やがて死を迎えます。

死によって、肉体から魂は解放されます。

同時に、お金、地位、名誉、あらゆる地上的なものを捨て去ります。

自分に残されるものは、地上の経験によって身に付けた資質だけであり、それが魂の財産となります。



この世は目に視えて、触れられるので、確かな実感があります。

一方、次の世界は思念の世界であり、想像するのが難しく、伺い知ることも出来ません。

そのため、どうしてもこの世を中心にして物事を考えてしまいます。


自分の想いを、肉体を介して、表現しているのがこの世です。

次の世界では、肉体を介さずに、直接、表現されます。

この世には、嘘偽り、表と裏、本音と建て前が存在しています。

次の世界では、本当の自分(魂)と生じる想いを隠す肉体がないので、露わになります。

「表と裏」の「表」が存在せず、ありのままの自分でしかいられません。

虚像が存在しているこの世と、実像しか存在しない次の世界の、どちらが真の世界なのか判り切ったことです。

何もかもがさらけ出される次の世界で、恥ずかしくない自分(魂)になるためめに、私たちはこの世に生まれて、さまざまな経験を通して、赴く世界に相応しい資質を身に付けていると言えます。



この世の経験は、次の世界で活かされます。

次の世界で自分を活かすために、この世で必要な経験をしていると言った方が正しいのかもしれません。

例えば、家族の介護をしている人は、自分のための時間を犠牲にしています。

夜中に何度も起こされて、身の回りの世話をしなければいけないこともあるでしょう。

自分を犠牲にして、他者のために何かをすることにより、霊性は高められます。

縁のある人のために何かをする経験は、次の世界において、縁のない誰かのために何かをするために、必要なのかもしれません。

職場で仕事を任され、夜遅くまで会社に残り、休みを返上して完成させたとしたとします。

個ではなく組織のために働く経験は、次の世界で同じ組織(類魂)のために、奉仕をする資質を身に付けているのかもしれません。

川が氾濫し、水没して泥だらけになってしまった家を、ボランティアで清掃活動を行ったとします。

困っている人のために何かをする行為は、次の世界において、自らの力でどうすることも出来ない困難な状況に陥っている魂を助けることに活かされるのかもしれません。



地上は、さまざまな魂が、同一平面で生活しています。

しかし、次の世界は無限の界層が存在する世界です。

死んだ後、赴く界層はその人の霊性によって決まり、周りには、同質、同種の魂しかいません。

そのため、人間関係の苦労はなくなります。

地上で人間関係で苦労した経験は、周りにいる魂とのつながりを一層深めて、より協調して行くことにつながるのかもしれません。

そして、自分とは異質の魂のために、奉仕をする意欲を高めているのかもしれません。



この世では、苦しいこと、つらいことを経験します。

逃げ出したくなるような苦しい経験ほど、魂を大きく成長させています。

成長した魂が霊界に帰ると、生まれる前よりも次元の高い奉仕が出来るようになります。

自然法則の働きにより、生前いた界層よりも、1つ上に上って行けるのかもしれません。

そこは、より調和の取れた、美しい世界であるのに違いありません。



苦痛を伴いながら、困難や障害を乗り越えて行く過程で、叡智(学び)が与えられます。

与えられた叡智によって、困難や障害は克服されて行きます。

叡智は魂のかけがえのない財産となり、無限の叡智である神に1歩近づきます。



地上で最も深刻な問題は何でしょうか?

それは戦争です。

平和を取り戻すためには、神の摂理の働き(叡智)を学ばなければ行けません。

悲しいことに戦争を主導する者ほど、権力や名誉や国益など地上的なものにしか興味を示さず、霊的なことに関心がありません。



自分を守るための行動は必要です。

しかし、相手を怒りや憎しみにまかせて攻撃すれば、因果律の働きによって、相手から同じ様に攻撃されます。

神の摂理に反している想いを表現すれば、因果律の働きにより、苦痛が生じます。


苦痛の連鎖を断ち切るためには、まず自分自身が変わらなければいけません。


極めて難しいのですが、相手を認め、許すしか、根本的な解決方法はありません。

そうすれば、同じ因果律の働きによって、自分が認められ、許されることになります。

戦争は大きな過ちですが、より高い霊性を発揮する機会となっていて、手にする叡智も価値があるはずです。

怒りや憎しみを表現するのではなく、相手を認め、許すことによって霊的に成長した魂が次の世界に行くと、周りとの調和を促進し、美しさを増すのに寄与すると思います。



醜い経験をすることによって、対極にある美しさの本質を知ることが出来ます。

美しさの本質は愛です。

醜さは愛の欠如から生じているのであり、愛を表現することで調和が生まれ、世界は美しくなって行きます。

認め合い、許し合い、分かち合う、神の愛を表現すれば、地上から醜さは消えて行きます。



自らが学び成長する(変わる)ことにより、この世の苦痛から解放されて行きます。

苦痛から解放された次の世界では難しいので、この世にもう1度生まれて来たと考えられます。

何回も生まれて、さまざまな経験をするのは、この世でまだ学ぶことがあり、成長する(変わる)余地が残されているからです。



そして、さまざまなこの世の経験により、他者と想いが共有されます。

同じ経験をしなければ、同じ想いを共有することは出来ません。

想いが共有できると、哀れみや同情が生まれ、それを表現することで、世界に愛が行き渡ります。

この世の経験は、想いを共有して、愛の力により離れ離れになった魂を再び1つにさせるためにあると考えられます。














2019年7月7日日曜日

病気は敵ではない



少し前に、官僚のトップにまで登りつめた人が、引きこもっていた自分の子供を殺してしまいました。

子供と言っても40代の大人であり、家庭内で暴力をふるっていたそうです。

人に危害を加える恐れがあったので殺したと言っていますが、暴力的に排除する行為が許されるはずはありません。

もし、苦悩の末に、霊的真理に辿り着いていたならば、この様な惨劇は起きなかったと思います。



引きこもっている人ですが、仕事もしないで部屋にいるので、楽をしている様に思えますが、それは見当違いです。

人は外に向かって何かを表現したい欲求があります。

その表現が人や社会のためになれば、成長が得られます。

外に向かって自分を表現出来ないのは、魂の欲求に逆らっている状態であり、成長したくても許されない、生き苦しさを感じていると思います。



引きこもっている人の多くは、怠けているわけではありません。

成長を妨げる想いが、過去のどこかで生じているはずです。

その想いに縛られて動けない可能性があります。

想いが解放されたのなら、再び外に出て行けると考えられます。



子供の頃は、本当の自分の想いが、素直に表に出ています。

大きくなるのに従い自我が発達して来て、両者は次第に競合するようになります。

自我はこの世で表現するために必要不可欠なものです。

しかし、肉体と強く結びついているために、自己を守ること、この世を上手に生きることを、優先してしまいがちです。

自我が肥大すると、本当の自分(魂)が表に出なくなり、そこから生じている想いが表現されなくなります。

表現されなかった想いは消えることなく、自我に下に埋もれて溜まっています。



想いは一種の力です。

人間を構成している魂と精神と肉体の間に調和が取れていれば、魂から生じた想いは、精神を経由して、肉体的な表現(言葉や行動)となり、外に向かって解放されます。

外に向かって表現されなかった想いが溜まってしまうと、因果律の働きにより、肉体を変化させる力となり、病気となって表現される時があると考えられます。



何故、肉体を変化させる力になるのでしょうか?

それは、内に溜まっている想いに気付くためです。

想いは五感に触れないので、この次元で判る形になる必要があります。

そして、生き方や考え方を根本から変えるためです。

想いを溜めてしまう自我が主導する生き方から、本当の自分(魂)が主導する生き方に変わるためです。



本当の自分(魂)が主導する生き方を取り戻さなければならない理由は、この世に生まれて来た目的、今生の予定(シナリオ)を知っているのは魂だからです。



人は、さまざまな経験を通して、学び成長するためにこの世に生まれて来ます。

自我主導になると、この世の儚いものを求めたり、安楽な方向に進んだり、自分のことだけを考えるようになってしまう可能性があります。

それでは、今生で予定されていた学びや成長をすることは出来ません。

この世の人に、今生の予定は判らないようになっていますが、人生で決断を迫られた時に、魂から直感となって表出して、進むべき方向を指し示していると考えられます。



本当の自分の想いが表現出来なくなると、人は苦しみとして感じますが、常態化してしまうと何も感じなくなります。

想いが表現出来ない状態が続くと、予定されていた人生から大きく逸れてしまう可能性があり生まれて来た目的が成就されなくなってしまいます。

それは霊的に成長して行く人間にとって、由々しき問題です。



気には苦痛が付きものです。

苦痛は自我の奥で眠っている本当の自分(魂)に働きかけ、呼び覚ますと言う深甚な意味があります。

本当の自分(魂)が目覚めると、それまで前面に出ていた肥大した自我(エゴ)は瓦解します。

そして、自我により隠されていた、大切なものが視えて来ます。



生命や愛より大切なものは存在しません。

本当の自分(魂)が目覚めると、生命の始源(神)とつながりが強くなり、流れ込む愛を帯びた生命力によって、内に溜まった想いは解放されて行きます。

想いが解放されて、内部が浄化されることによって、外部に現れた病気は消失して行きます。



現代医学は、病気は肉体の異常としか見ていません。

異常がある肉体や機能を、手術や薬で排除またはコントロールしようとします。

患者さんも、自分を苦しめている病気を敵とみなして必死に闘おうとします。

家庭と言う集合体の中で異質な家族を暴力的に排除する行為が許されないように、身体と言う集合体で異質になったな組織を排除する行為も許されないのかもしれません。



自分を苦しめている病気は、実は自分を変えようとしています。

苦しみが伴わなければ、人はなかなか変わることが出来ません。

ぎりぎりまで追い詰められなければ、本当の自分(魂)が表に出ることはありません。



病気は、内部で起きていることを、外部に表現して認知させる自然現象であると同時に、自己変革を起こし、自分本来の生き方や考え方に変えるものです

病気を治してもらおうとするよりも、自分の生き方や考え方に不自然なところがないのか、見つめ直すことが先決です。

不自然さに気付いたら、まず正さなければいけません。



魂が目覚め、それまでの生き方や考え方が変わったとしても、肉体上の病気が治らないことがあります。

その理由は、肉体的な苦しみを通してさらに学び成長することを予め決めていた、あるいは自然法則に反して犯していた罪を償っていると考えられます。

全てが法則の働きによって起きているので、不運や偶然の入り込む余地はありません。



病気は自分を変えるために生じているのであれば、敵ではありません。

成長して行く生き方や考え方に変えて、大切なものに気付かせるものであれば、むしろ味方ではないでしょうか。

苦痛を与え(肉体的)生命を脅かす敵と思ってしまうと、怒りが生まれ、運命を恨み、怖れを抱いてしまい、それらの想いは成長を妨げてしまうものなので、病気が増悪する可能性があります。

そして、病気を通して学ぶことが出来なくなります。



戦争は、怒りや憎しみによって引き起こされます。

対象を攻撃して叩きのめしても収束しないのは明らかであり、因果律の働きによって、結局は同じ苦痛を味わうことになります。

怒りや憎しみや怖れなど、成長を妨げてしまう想いを鎮めなければなりません。

それには、自己犠牲により、対象を受け容れて、許さなければいけません。

自分犠牲とは、自分よりも他者を優先することであり、形を変えた愛です。

苦痛を伴う事象は、対象への愛によって根本から解決することが出来ます。



全ての事象は、神の摂理の働きによって生じています。

病気が生じるのも、当然のことながら神の摂理の働きによるもです。

その意図は、人を学び成長させるため、愛を表現させるためと考えられます。



心から慈しみの想いを自分に向けて下さい

難しいのは承知していますが、病気に対して感謝の想いを伝えて下さい。

愛を表現することで、調和が生まれて、再び全体が1つになって行きます。