2018年5月27日日曜日

自分の中にいる2つの自分 ~魂と自我~



子供の時に、死んだらどうなってしまうのだろうと考えることがありました。

死んで無になり、意識がなくなってしまうと思うと、無性に怖くなったのを覚えています。



それから年月が経過して、青春真っ盛りの二十歳前後の時です。

自分は何で生きているんだろう?と、考えることがありました。

周囲を見渡してみると、そんなことなど考えずに一生懸命生きているように見えます。

父親に尋ねてみたら、お前は幸せだからそんなことを考えるんだと一喝されました。

どうせ答えなど出ないだろうと、それ以来考えるのをやめました。



さらに20数年の時を経て、思いがけず病気を癒す力が出現しました。

ほどなくして霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、生と死について深く見つめ直す機会が訪れました。



もし、死んで全てが終わってしまうと仮定するならば、生きている意味を見出すことは極めて困難です。

無になるのであれば、生きている意味を考えること自体、無駄に思えてしまいます。

1度きりの人生であれば、苦しいよりも、楽に生きた方が良いのに決まっています。

たくさんのお金を持って、一生遊んで暮らすのを夢見ている人は多く、それだから宝くじがこれほど売れるのだと思います。

しかしながら、人は楽してばかりの人生は決して良くないと、同時に思っています。

うも相反する思いが存在しているようです。



もし、人生で困難や障害が立ちはだかったならば、避けて通れば良いはずです。

しかし、多くの人は何とかして乗り越えようとします。

そんな時に、心の中でこんなことを叫んでいるような気がします。

「自分に負けたくない」



自分に負けるとは、どのようなことなのでしょうか?

誰が、自分に負けたくないのでしょうか?



私はこう考えています。

自分には、2つの自分がいます。

1つは本当の自分であり、「魂」と呼ばれている存在です。

もう1つの自分は、精神上に作り上げた自分であり、俗に言う「自我」と呼ばれている存在です。

自分に負けたくない」とは、自分の中にいるもう1つの自分に負けたくないと言う、魂の叫びだと思います。



人はなぜ、困難や障害を乗り越えようとするのでしょうか?

それは、乗り越えて行くことで成長するのを、本当の自分(以下魂)が知っているからであり、成長しようとする根源的な欲求を持っているためと考えられます。

困難や障害をどうにかして乗り越えたいと思う気持ちは、頭で考えたものではなく、魂から生じていると考えられます。



う1つの自分(以下自我)は、生まれてからの経験や知識を基に作り上げて行きます。

自我は、魂から生じる想いや概念を表現するためにある媒体であり、肉体的表現を行うための仲立ちの役割りをしています。

魂から言語を超えた想いや概念が生じ、精神上に存在する自我により具象化されて、言葉や行動として肉体で表現されていると考えられます。



そして、自我が存在するもう1つの大きな理由として、この世の侵襲から魂と肉体を保護して、より安全かつ快適に生きることが挙げられます。

今、生きているのは、物的な危険に晒されている世界です。

例えば、海で誰かが溺れているとします。


それを見て、魂には神性があるがゆえに、助けようとします。


しかし、自我は「自分も溺れてしまうのでやめよう」と心の中で叫び、肉体を守ろうとします。

この世は物的な世界であるため、霊的ではなく物的な思考をしなければ、安全に生きて行けないと考えられます。


そして様々な魂が混じり合っているために、霊的な危険にも晒されている世界です。

ある人から、傷つくようなことを言われたとします。

すると、自我は「あの人の言っていることは間違っているので気にしなくて良い」と、魂に言い聞かせて守ろうとします。

自我は、物的な頭脳を使って論理的な思考をして危険を回避し、外部の環境から魂と肉体守ろうとしていると考えられます。



魂から生じる想いを表現するための媒体ですが、強くなり過ぎると問題が生じてしまいます。

俗に言うエゴは、強くなり過ぎた自我であり、そうなると魂の表現は大幅に抑制されてしまうと考えられます。

人生において、本当の自分(魂)と、もう1つの自分(自我)の間で、しばしば葛藤が起きます

安全かつ快適に生きることを優先するならば、魂から生じる想いは退けられて、自我の考えが通ります。

本当の自分の想いに忠実に生きようとするならば、世の中との間に軋轢が起きたり、困難や障害が生じたり、地上的なリスクを伴い、安全かつ快適に生きるのは難しくなります。



どちらを選ぶのかは個人の自由です。

人には「困難や障害を乗り越えることで成長する」という自然法則が働いています。

従って、魂から生じる想いに従った方が、より大きく成長すると考えられます。

想いに従うことにより、その先で障壁が生じたとしても、必ず乗り越えられるはずです。

何故なら、その障壁も自然法則の働きによって生じていて、人を成長させるために存在しているからです。



ルバーバーチは霊(魂)と精神と肉体が一直線で結ばれているのが健やかな状態と言っています。

から生じた想いや概念を、精神を経由して、肉体で表現をして行くのが自然ですが、自我が強くなってしまうと、本来の自分の想いや概念が表現できなくなり、不自然な状態に陥ってしまいます。

仮に、ある人が上手く生きようとして、心底嫌だと思うことを、自我の要求により無理に続けたとします。

その状態は、自分の想い(魂)と肉体的表現が一致していないために、(魂、精神、肉体の)3者の調和は乱れてしまい、病気になってしまうかもしれません。

自我はこの世を生きるために必要なものですが、強くなり過ぎると個の調和が失われてしまうと考えられます。



自我の働きが弱い人は、魂から生じる想いに忠実に生きていると言えます。

しかし、霊的な感受性は高くなり、人の思念が伝わりやすくなると考えられます。

守ってくれるべき自我の働きが弱いために、人の思念によって傷つけられやすく、この世を安全かつ快適に生きているとは言えないかもしれません。



この世を安全に生きようとすると、自分を守ろうとする意識は高くなり、自我が強くなると考えられます。

傷きたくない人ほど、自我と言う外壁をより高くより強固に張り巡らして行き、自分を守ろうとしていると考えられます。



この世を快適に生きようとすると、当たり障りのないように、波風が立たないように、本当の自分を表に出さなくなると考えられます。

そして、地位や名声や富を追い求めてしまいがちになり、それに伴って自我は強くなって行くと考えられます。

本音と建前、人の裏表と言う言葉がありますが、もしかしたら本当の自分である魂と、もう1つの自分である自我の関係を指しているのかもしれません。


自我の働きが弱くなると、魂に忠実に生きられるようになりますが、外部からの影響は受けやすくなると言えます。

自我の働きが強くなると、外部からの影響は受けにくくなりますが、魂に忠実に生きているとは言えなくなります。

自我の働きは弱くて、魂が強い人が望ましいのかもしれません。



守るために存在している自我が、時に魂を攻撃してしまうことがあります。

いわゆる自責の念や、自虐的な思いは、他人から傷つけられるように、自分によって自分を傷つけています。

1人の中に、2つの自分が存在しています。

もう1つの自分(自我)によって攻撃されたり、責められて、本当の自分(魂)が傷つけられてしまうことを忘れてはいけないと思います。



この世を、本当の自分の想いに忠実に生きるのは至難の業です。

より安全に快適に生きようとするあまりに、魂ではなく自我を優先させています。

しかし、それは本来の姿ではありません。

あくまでも主は魂であり、自我はそれに従わなければいけません。

真の自分だと錯覚してしまうと、人生は自我によって支配されてしまいます。

そんな不自然な状態に陥ると、因果律の働きによって、病気や深刻な出来事が生じることがあります。

この世の人にとって不幸や凶事として映りますが、支配している自我を吹き飛ばし、眠っている魂を目覚めさせるために生じていると考えられます。

魂が主導権を取り戻し、成長して行くためです。

自然な姿を取り戻すと、本当の自分の想い忠実に生きられるようになり、予期していた成長が得られる方向に進んで行くと思います。







2018年5月13日日曜日

人生は1度きりではない



良く会話の中で「1度きりの人生だから思いっきり楽しみましょう」という言葉を聞きます。

好きなことをしたり、いろいろな場所に行ったり、おいしいもの食べたりして、人生を楽しむのはとても大切だと思います。

ただ1度きりの人生」というフレーズに、私はどうしても引っかかってしまいます。

なぜなら、人生は1度きりでは終わらないと考えているからです。



客観的な証拠は提示できませんが、私たちは何回もこの世に生まれて来ています。

人生が1度きりに思えてしまうのは、過去の人生(過去生)の記憶が完全に消され、先にある世界は窺い知れないようになっているからと考えています。

その理由は定かではありませんが、過去や未来に捉われずに、今生を精一杯生きるための神の配慮だと考えています。



この世に生まれて来る目的は、自分(魂)を成長させるためです。

しかし、1度の人生では神が望むところまで、人は成長しないと考えられます。

では、この世の人生が1度きりで終わる人はいないのでしょうか?

イエス・キリストのように、自分の成長のためではなく、世の中を大きく変える使命を持って生まれて来る人は、この世の人生は1度きりなのかもしれません。

そうではない、ほとんどの人は、この世に何回も生まれて来ると考えられます。



目に見えない魂を、ダイヤモンドに例えてみます。(シルバーバーチは「類魂」の説明のためにダイヤモンドに例えています)

ダイヤモンドはいろいろなファセット(面)を持っています。

たくさんの面をきれいに磨いて行き、全体が磨かれた時に、美しく光り輝き出します。

私たちの魂はダイヤモンドの原石のようなものであり、そのままでは光り輝くことはありません。

たくさんの面を持ち合わせていて、それらを磨いて行くことによって、輝きを放つようになると考えられます。

自分の欠点や未熟な部分は、まだ磨かれていない面であり、輝きを放つためには磨かれなければいけません。

この人生でいくつかの面を磨き、また次の人生で別の面を磨いて、それを繰り返しながら、全体が磨かれて行くと考えられます。

そして、一定の輝きを放つようになったら、この世に生まれて来る必要はなくなると思われます。


ダイヤモンドを磨く物は、実はダイヤモンドです。

お互いが擦れ合って、強い摩擦力が働くことによって面の粗さが取れて磨かれ行きます。

当然ですが、魂も何もせずにいたら磨かれることはありません。

この世で、たくさんの人と出会い、幾多の経験をしながら磨かれて行きます。

ダイヤモンド同士が激しく擦れ合う中で磨かれるように、人は人によって揉まれ、困難や障害など抵抗や負荷を感じる経験を通して磨かれて行くと思います。

従って平穏無事に終わる人生などあり得ません。

失敗、挫折、喪失は人生においてきものであり、深刻な経験であるほど、魂は強く磨かれると考えられます。



大きな失敗や挫折を経験したり、大切なものを失ってしまうと絶望感に襲われ、これで自分の人生も終わりだと思ってしまうかもしれません。

もう1度強調しておきますが、この世で終わりになり、無になってしまうことは決してありません。

俗に言う死とは、肉体の死です。

生命の本質である魂は、変わりなく存続しています。

肉体の死を迎えた魂は、直ちに次の世界に移行し、そこで新しい活動が始まります。

これは夢物語や空想の世界の話ではなく、誰にでも訪れる現実であり、1つの自然現象に過ぎません。



次の世界に移行してしばらくすると、この世の人生を振り返る時が来ます。

この世で、想ったこと、言ったこと、行ったことは、細大漏らさず魂(オーラ)に刻み込まれていて、大きなスクリーンのようなものに映し出されると言われています。

この世の人生を客観的に振り返りながら、自分で自分を評価する、もっと厳しい言い方すれば自分を裁くことになります。

それと同時に、今まで経験した出来事の真の意味を知ると考えられます。



人生で最もつらい出来事を経験をして、打ちのめされ、涙を流し、生きる気力を失っているいる自分の姿が映し出されます。

霊的な眼で視ると、活動が鈍くなっている肉体や頭脳とは対称的に、それまで眠っていた深層の意識である魂が目を覚まし、想いを放ちながら活動を始めているのが判ります。

魂が意識しているのは、物質的なものではなく、霊的なものです。

この世を生きる意味を模索し、目に見えない大切なものを求めているかもしれません。



人は成長して行くように定められているので、同じ場所に留まっていることが出来ません。

いつまでも留まっていようとすると成長しないために、その停滞した状態に苦しみを感じてしまいます。

苦しみから逃れたくて、必死にもがいて何とか抜け出そうとする中で、魂は成長しています。

その様子を見ながら、つらかった出来事は、実は自分を磨き、成長させるためにあったことを知り、それまでの思いが一変します。



この世の人の人生を、見守り続けている存在(守護霊)がいます。

守護霊は、魂を磨き、大きく成長するために、どうしてもこの出来事を乗り越えなければならないこと、そして生まれる前の自分が承知していたのを知っていました。

そのことを告げられ、苦しくても逃げ出さずに生き抜いて、この世に生まれた目的を果たせたことに、深い安堵感を覚えるでしょう。



この世の人生の経験は、自分(魂)を成長させるためにあり、そこから大切なことを学んでいます。

学んだことは、新たに始まる人生で活かされます。

何1つ無駄になっていないことを知り、無限なる叡智の働き(自然法則)に感嘆すると共に、創案した存在に感謝するでしょう。




良心に逆らって、摂理に反した言動をしている自分の姿を見せられたならば、恥じるのは避けられません。

自分の行いで、人を傷つけたり、成長を妨げたりしてしまったならば、悔いてしまうのも避けられません。

もし、この世で大きな借り(罪)を作ってしまったのならば、後悔はとても大きなものになりますが、無限なる叡智の働きによって、その借りを返す(償う)機会が与えられると考えられます。

もう1度この世に生まれて、人生のどこかで償いの経験をして、神の摂理を深く魂に刻み込み、2度と同じ過ちを犯さないようになります。

この人生で予定していたことが、成し遂げられなかったのが判ったのなら、後悔や無念の思いを抱くのも避けられません。

自らが望むのなら、その思いを晴らすための人生が提示され、今度は成就して行くことになるでしょう。



過去は閉じられていて変えられません。

しかし、未来は開かれていて、想いのままに変えられます。

悔やみ切れない出来事があり、その事実は消せないとしても、また機会が与えられて、苦しみや痛みを伴いながらも乗り越えることで、その想いから完全に解放される時が来ます。

失敗をしても、過ちを犯しても、人生は1度きりでないので、やり直しが出来ます。

大切なものを失い、悔し涙を流すだけ流して、それで終わりになることは、決してありません。





人生が1度きりならば、世の中は不公平なものになってしまいます。

苦しい人生、厳しい人生を歩んだ人には、魂の成長という報奨が与えられ、公平性は完全に保たれています。

苦しく、つらかった人生は死と共に終わります。

肉体はなくなり、真の自分の姿(魂)を目の当たりにして、輝きが増していることに気付き、大きな悦びに包まれると共に、この世を生きてきた目的をようやく思い出すでしょう。



1度きりの人生で、消えてしまう運命であれば、生きている意味は見出せません。

喜び、悲しみ、苦しみなどが存在する意味も見出せません。

生命とは魂です

この世での喜び、悲しみ、苦しみの経験は、魂を成長させるためにあります。



長い長い生命の営みの中で、今、1つのピリオド(期間)を生きています。

全体を通して人生を見れるのならば、この世を生きている意味は明確になりますが、残念ながら判らないようになっています。

大切なのは、全体の中の1部であるのを承知しておくことです。

人生は1度きりなどではありません