子供の時に、死んだらどうなってしまうのだろうと考えることがありました。
死んで無になり、意識がなくなってしまうと思うと、無性に怖くなったのを覚えています。
死んで無になり、意識がなくなってしまうと思うと、無性に怖くなったのを覚えています。
それから年月が経過して、青春真っ盛りの二十歳前後の時です。
自分は何で生きているんだろう?と、考えることがありました。
周囲を見渡してみると、そんなことなど考えずに一生懸命生きているように見えます。
父親に尋ねてみたら、お前は幸せだからそんなことを考えるんだと一喝されました。
どうせ答えなど出ないだろうと、それ以来考えるのをやめました。
さらに20数年の時を経て、思いがけず病気を癒す力が出現しました。
ほどなくして霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、生と死について深く見つめ直す機会が訪れました。
もし、死んで全てが終わってしまうと仮定するならば、生きている意味を見出すことは極めて困難です。
無になるのであれば、生きている意味を考えること自体、無駄に思えてしまいます。
1度きりの人生であれば、苦しいよりも、楽に生きた方が良いのに決まっています。
たくさんのお金を持って、一生遊んで暮らすのを夢見ている人は多く、それだから宝くじがこれほど売れるのだと思います。
しかしながら、人は楽してばかりの人生は決して良くないと、同時に思っています。
どうも相反する思いが存在しているようです。
もし、人生で困難や障害が立ちはだかったならば、避けて通れば良いはずです。
しかし、多くの人は何とかして乗り越えようとします。
そんな時に、心の中でこんなことを叫んでいるような気がします。
「自分に負けたくない」
自分に負けるとは、どのようなことなのでしょうか?
誰が、自分に負けたくないのでしょうか?
私はこう考えています。
自分には、2つの自分がいます。
1つは本当の自分であり、「魂」と呼ばれている存在です。
もう1つの自分は、精神上に作り上げた自分であり、俗に言う「自我」と呼ばれている存在です。
「自分に負けたくない」とは、自分の中にいるもう1つの自分に負けたくないと言う、魂の叫びだと思います。
人はなぜ、困難や障害を乗り越えようとするのでしょうか?
それは、乗り越えて行くことで成長するのを、本当の自分(以下魂)が知っているからであり、成長しようとする根源的な欲求を持っているためと考えられます。
困難や障害をどうにかして乗り越えたいと思う気持ちは、頭で考えたものではなく、魂から生じていると考えられます。
もう1つの自分(以下自我)は、生まれてからの経験や知識を基に作り上げて行きます。
自我は、魂から生じる想いや概念を表現するためにある媒体であり、肉体的表現を行うための仲立ちの役割りをしています。
魂から言語を超えた想いや概念が生じ、精神上に存在する自我により具象化されて、言葉や行動として肉体で表現されていると考えられます。
今、生きているのは、物的な危険に晒されている世界です。
例えば、海で誰かが溺れているとします。
それを見て、魂には神性があるがゆえに、助けようとします。
しかし、自我は「自分も溺れてしまうのでやめよう」と心の中で叫び、肉体を守ろうとします。
この世は物的な世界であるため、霊的ではなく物的な思考をしなければ、安全に生きて行けないと考えられます。
そして、様々な魂が混じり合っているために、霊的な危険にも晒されている世界です。
ある人から、傷つくようなことを言われたとします。
すると、自我は「あの人の言っていることは間違っているので気にしなくて良い」と、魂に言い聞かせて守ろうとします。
自我は、物的な頭脳を使って論理的な思考をして危険を回避し、外部の環境から魂と肉体を守ろうとしていると考えられます。
自我は魂から生じる想いを表現するための媒体ですが、強くなり過ぎると問題が生じてしまいます。
俗に言うエゴは、強くなり過ぎた自我であり、そうなると魂の表現は大幅に抑制されてしまうと考えられます。
人生において、本当の自分(魂)と、もう1つの自分(自我)の間で、しばしば葛藤が起きます。
安全かつ快適に生きることを優先するならば、魂から生じる想いは退けられて、自我の考えが通ります。
本当の自分の想いに忠実に生きようとするならば、世の中との間に軋轢が起きたり、困難や障害が生じたり、地上的なリスクを伴い、安全かつ快適に生きるのは難しくなります。
どちらを選ぶのかは個人の自由です。
人には「困難や障害を乗り越えることで成長する」という自然法則が働いています。
従って、魂から生じる想いに従った方が、より大きく成長すると考えられます。
想いに従うことにより、その先で障壁が生じたとしても、必ず乗り越えられるはずです。
何故なら、その障壁も自然法則の働きによって生じていて、人を成長させるために存在しているからです。
シルバーバーチは霊(魂)と精神と肉体が一直線で結ばれているのが健やかな状態と言っています。
魂から生じた想いや概念を、精神を経由して、肉体で表現をして行くのが自然ですが、自我が強くなってしまうと、本来の自分の想いや概念が表現できなくなり、不自然な状態に陥ってしまいます。
仮に、ある人が上手く生きようとして、心底嫌だと思うことを、自我の要求により無理に続けたとします。
その状態は、自分の想い(魂)と肉体的表現が一致していないために、(魂、精神、肉体の)3者の調和は乱れてしまい、病気になってしまうかもしれません。
自我はこの世を生きるために必要なものですが、強くなり過ぎると個の調和が失われてしまうと考えられます。
自我の働きが弱い人は、魂から生じる想いに忠実に生きていると言えます。
しかし、霊的な感受性は高くなり、人の思念が伝わりやすくなると考えられます。
守ってくれるべき自我の働きが弱いために、人の思念によって傷つけられやすく、この世を安全かつ快適に生きているとは言えないかもしれません。
この世を安全に生きようとすると、自分を守ろうとする意識は高くなり、自我が強くなると考えられます。
傷きたくない人ほど、自我と言う外壁をより高くより強固に張り巡らして行き、自分を守ろうとしていると考えられます。
この世を快適に生きようとすると、当たり障りのないように、波風が立たないように、本当の自分を表に出さなくなると考えられます。
そして、地位や名声や富を追い求めてしまいがちになり、それに伴って自我は強くなって行くと考えられます。
本音と建前、人の裏表と言う言葉がありますが、もしかしたら本当の自分である魂と、もう1つの自分である自我の関係を指しているのかもしれません。
自我の働きが弱くなると、魂に忠実に生きられるようになりますが、外部からの影響は受けやすくなると言えます。
自我の働きが強くなると、外部からの影響は受けにくくなりますが、魂に忠実に生きているとは言えなくなります。
自我の働きは弱くて、魂が強い人が望ましいのかもしれません。
守るために存在している自我が、時には魂を攻撃してしまうことがあります。
いわゆる自責の念や、自虐的な思いは、他人から傷つけられるように、自分によって自分を傷つけています。
1人の中に、2つの自分が存在しています。
もう1つの自分(自我)によって攻撃されたり、責められて、本当の自分(魂)が傷つけられてしまうことを忘れてはいけないと思います。
この世を、本当の自分の想いに忠実に生きるのは至難の業です。
より安全に快適に生きようとするあまりに、魂ではなく自我を優先させています。
しかし、それは本来の姿ではありません。
あくまでも主は魂であり、自我はそれに従わなければいけません。
真の自分だと錯覚してしまうと、人生は自我によって支配されてしまいます。
そんな不自然な状態に陥ると、因果律の働きによって、病気や深刻な出来事が生じることがあります。
この世の人にとって不幸や凶事として映りますが、支配している自我を吹き飛ばし、眠っている魂を目覚めさせるために生じていると考えられます。
魂が主導権を取り戻し、成長して行くためです。
自然な姿を取り戻すと、本当の自分の想いに忠実に生きられるようになり、予期していた成長が得られる方向に進んで行くと思います。