人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2015年8月30日日曜日
向こうにいる人を愛する
亡くなった人は、今、どこにいるのでしょうか?
どこを見渡してみても、その姿はありません。
耳を澄ましても、わずかな声すらしません。
何も感じられないのであれば、存在自体が消えてなくなってしまったと、思う人もいるでしょう。
肉体は確かに消えてなくなってしまいました。
しかし、亡くなった人を確立させていた本質的な存在は、荼毘の炎に焼かれて消えてなくなるものではありません。
本質的な存在は、次の世界で生きています。
意識も記憶もあり、性格も生前と変わりありません。
肉体以外は、何一つ失われずにいます。
本質的な存在を、多くの人は魂と呼んでいます。
物質的なものではないので、説明する妥当な言葉は見つかりませんが、生命そのものであるのは確かです。
死とは肉体と魂の永続的な分離であり、この世から次の世界へ移行する現象です。
次の世界に移行した瞬間、肉体ではなく霊的な媒体により、自分を表現し始めます。
ただ、霊的な媒体は物質ではないので、この世の人の目には映りません。
この世に残された人にとって、完全に見えなくなってしまうのは、途轍もない大きな変化です。
当たり前のように見えていた存在が、急に視界からいなくなってしまうのは、とても寂しく、これ以上悲しい出来事はありません。
死んだ後も、魂となって生きていると言われても、何か証拠がなければ信じられないと思う人も多いでしょう。
あなたと故人しか知らないことを、第三者から言い当てられたならば、それは確かな証拠となるでしょう。
そんな霊的な能力を持った人は、人知れずいるのですが、巡り合う機会はなかなか訪れません。
どうしても生きている確証が欲しい、今、何を思っているのか知りたいと、心の底から願うのならば、導かれ、願いが叶う日が来るかもしれません。
でも、そんな必要はありません。
確証なんてなくても、間違いなく生きています。
そして、何を想っているのか、知ることも可能です。
もし、亡くなった人とあなたが、この世で心から愛し合っていて、今も忘れることがないのであれば、死とは関係なく、魂と魂は同調しています。
魂と魂が同調していれば、ラジオと同じように、向こうからの想いは自然に伝わってきます。
向こうに行った愛する人は、どれだけあなたに、今の自分の想いを伝えたいのか分りません。
思い出してみて下さい。
亡くなった人から受けた愛を。
あまりにもたくさんあり過ぎて、思い出せないかもしれません。
共に過ごした日々が、愛そのものであり、魂はいつも同じ想いで、同調していたはずです。
愛が生まれるところが魂です。
無機質な頭脳から生まれるはずはありません。
この世では、目に見えるもの、耳に聴こえるもの、肌に触れるものを頼りにして、私たちは生きています。
愛は確かに存在していると、心では分っていても、五感に触れるものではないので、幻影に思えてしまうこともあるでしょう。
幻影ではないことが、はっきり判っているのは、向こうにいる愛する人です。
とても理解しがたいのですが、この世の人とは真逆で、向こうにいる人にとって、物質は霞のよう見え、愛には実体があります。
愛することは、魂のごく自然な発露です。
次の世界では、愛することは生きることに限りなく近いものです。
愛の意味に目覚めています。
愛は、お粗末な言葉では、とても表現できないほど、深遠なものです。
愛の想いのすべてを、行動で示して伝えることは、不可能です。
言葉や行動は、想いを伝える手段であり、すべてを完全に表現できません。
この世では、身体を使って、ぎこちない行動や不十分な言葉で、想いを表現して相手に伝えなければいけない、とても煩わしく、曖昧な世界と言えます。
言葉や行動は、想いが反映されたものに過ぎませんが、この世の人はそれが確かなものであると思っています。
想いが実体であり、想いが伴わない言葉や行動は幻影です。
愛する人が生きているのは、肉体という媒体を介して間接的に想いを伝える、私たちが生きている世界とは全く異なり、直接相手に想いを伝えることのできる思念の世界です。
隠すもの(肉体)はありませんので、想いしか見えません。
この世よりも、ずっと深く分かり合える世界で生きています。
そんな、この世に生きていても、想いが伝わることがあると思います。
目と目を合わすだけで、相手の思うことが、言葉を超えて一瞬にして伝わり、分かり合える瞬間があると思います。
お互いの想いを知ろうとする者同士、同じ想いにより同調している者同士であれば、行動や言葉などを介さないで、相手の魂から自分の魂に、想いは伝わります。
もし、その想いが愛であれば、心地良い悦びが生まれます。
物質を媒体とする、言葉や行動による表現よりも、直接、魂に伝わる想いは鮮明であり、強烈です。
魂が想いに共鳴して、相手と同じ想いが生じます。
それは、何の虚飾もない真実の想いです。
愛する人のために、気付いて下さい。
想いは伝え合うことができることを。
地上での会話のようにはいきませんが、習熟すれば、愛する人の今の想いを知り、向こうから導いてもらうこともできます。
あなたと愛する人の認知している世界は、それぞれ違います。
この世は、(肉体を使って表現する)物質的な世界です。
どこを、どう見渡しても、物質しか見えません。
この世の人が認知できない世界に、愛する人は生きています。
臨死体験をした人が、わずかに垣間見て、その様子を伝えることがあります。
この世に戻って来たくなかったと言うほど、幸福感に満ちた世界だったと、異口同音に語っています。
そんな世界に愛する人がいるならば、すぐに行って、逢いたいと思う衝動にかられる人がいるかもしれません。
しかし、その行為は明らかに自然の摂理に反しています。
愛する人との再会は許されないどころか、闇に閉じ込められて、とても苦しい思いをしなければなりません。
そんな悲劇的な間違いを犯さないために、愛する人がいる世界は、こちらからは見えなくなっていると思われます。
自然の摂理を創造した偉大な存在は、向こうの世界にいる人との間に、想いを伝え合える、つながりを残してくれたと思います。
偉大な存在は、やはり愛であると感じます。
愛する人とつながるには、魂の存在を否定するような、固定観念から解放されなければいけません。
「人は死んだらお終い」、「魂は宗教が作り出した産物」、「あらゆる現象は大脳の働きで説明がつく」等、無知に基づく、いかにも常識と言わんばかりの言動に惑わされてはいけません。
魂は存在し、愛する人が次の世界で生きているのは真実です。
そんな重要な真実が、これから少しずつ、世界中に浸透していくと考えられます。
あなたの本質も魂です。
あなたの魂と愛する人の魂は、同次元の存在です。
従って、向こうにいる人の魂から生じる想いを、受け取ることができます。
愛する人は傍にいて、良い方向に導こうと、こちらに想いを伝えようとしています。
その想いは、インスピレーション(ひらめき、思いつき)、イメージ、バイブレーションとなって、こちらの魂に伝わります。
こちらの人が、伝えた想いに気付いてくれたら、愛する人にとって、これ以上うれしいことはありません。
しかし、伝わってきた想いを、気のせいだと片付けてしまえば、落胆してしまいます。
日常の喧騒から離れて、頭を空っぽにして、愛する人の想いが降ってくるのを待って下さい。
伝わってくるのは一瞬であり、日常生活をしていて、突然くるかもしれません。
自分の頭脳から生まれた「考え」と、愛する人から伝わってきた「想い」の鑑別がつかない時があるかもしれません。
表現しにくいのですが、伝わってきた想いには、愛する人らしさ、もしくは香りがあり、自分の考えには、それは感じません。
頭脳から生まれる無機的な考えとは違い、想いには温もりや親しみを感じると思います。
愛する人を、想起させるようなものであれば、それは向こうから伝わってきた想いであると思います。
人の本質は魂ですが、この世の人は、魂から生じる想いを、肉体という媒体で表現しなければならないので、どうしても想いは不完全に伝わります。
次の世界の人は肉体という媒体はないため、想いが完全に表現されて、すべてを伝えることができます。
ありのままの想いが表現され、完全に分かり合える、すばらしい世界にいますが、肉体という媒体はありませんので、この世に生きている人に、想いを伝えるのは、極めて困難な状況にあります。
けれども、どうしても伝えたいことがあれば、愛が原動力となり、気付くまで魂に伝えてくるでしょう。
大切なことは、向こうから伝えようとしている想いを、こちらでしっかりと受け止めることです。
それぞれが異なる次元に生きていても、想いは伝わります。
愛により同調した魂同士であれば、想いを伝え合うのは可能です。
しかし、五感からの情報や、悲しみや後悔の念は、想いを受け取る障壁となります。
頭脳は鎮まり返り、あらゆる感情から解放され、魂が前面に出てきた時に、想いを受け取る準備は整います。
心を穏やかにして、その時が来るのを待って下さい。
愛する者同士は、すべてを乗り越えて、つながる時が必ず来ます。
この世に残された多くの人は、大きな愛を受けながらも、十分に返しきれていなかったと、悔やんでいます。
もっと、やさしくしてやれば良かったと、悔やむ必要はありません。
想いを表せなかっただけであり、愛の想いが自分に向けられていたことが、痛いほど判るからです。
想いを伝えておけば良かったと、悔やむ必要もありません。
あなたの想いは、愛する人にはっきりと伝わっています。
言葉や行為を通す必要がない分、この世にいた時よりも、正確に伝わっています。
今の想いで、十分幸せだよと、きっと伝えたいのだと思います。
愛の本質は、言葉や行動ではなく、想いです。
向こうの世界は、想い(思念)の世界です。
こちらの想いは、向こうにいる魂に、直接伝わっています。
従って、この世から、愛することはいくらでも出来ます。
愛する想いを、この世から投げかけてもらうのは、とても幸せなことです。
もっと、具体的に愛することはできないのでしょうか?
人を喜ばせるのは、とてもうれしい愛の表現です。
傍で見ている愛する人が、喜ぶような生き方をしてみてはどうでしょうか。
愛する人が、周囲の人にやさしい人であれば、あなたが人にやさしくしてやれば、とても喜ぶと思います。
前向きに、力強く生きた人であれば、あなたが前向きに、力強く生きれば、その姿を見てきっと喜ぶと思います。
愛する人が心がけていたことを、あなたがすれば、それはきっと喜びにつながると思います。
それよりも喜ぶのは、あなたらしく、生きることだと思います。
あなたらしい振る舞いや、あなたらしく生きる姿を傍で見ているのは、微笑ましく感じ、とても好きだからです。
愛する人が褒めてくれたこと、好きだったことを、少しやってみてはどうでしょうか。
あなたの歌を聴くのが好きだったのであれば、気持ちを込めて唄ってみましょう。
肩を揉むのが上手だと褒めてくれたなら、誰かの肩をやさしく揉んでやりましょう。
一所懸命に働いている姿を見るのが好きだったのなら、一所懸命に働いている姿を見せてやりましょう。
料理をおいしいと食べてくれたのなら、気持ちを込めて料理を作ってみましょう。
作った料理は、もちろん食べてもらえませんが、その想いはしっかりと噛みしめているでしょう。
あなたらしくと言っても、無理をしてではなく、前のように、ごく自然な気持ちでするだけです。
自然なあなた、普通のあなたが好きなのであり、そんな姿を傍で見ていたいのだと思います。
以前と何も変わっていません。
自然な想いは、亡くなった人にやすらぎを与え、そのやすらぎは、同調している、あなたの魂に返ってきます。
喜ばそうとするあなたの想いに喜び、その喜びは、あなたの魂に返ってきます。
愛する人を喜ばすことは、この世にいてもいくらでも出来ます。
向こうにいる愛する人は、あなたの想いが手に取るように判っています。
そして、ここぞと言う時に、想いを投げかけて、成長する方向に導こうとしています。
それは、より大きな困難が待ち受ける方向かもしれません。
孤独な時を、耐え忍ばなければならない方向なのかもしれません。
この世の人生の意味が見えています。
大事なのは、人生で出会うさまざまな出来事を、あなたらしく乗り越えて行くことだと知っています。
その時は、きっと力を与えてくれると思います。
生前の様に、言葉や行動により、助けてもらえるわけではありません。
あなたの魂に働きかけて、励まして、勇気付けて、支えてくれる、想いという力の素を与えてくれます。
受け取った想いは、あなたを突き動かし、立ち向かって行く力となります。
想いに素直に従えば、最善の方向に導かれます。
自分の魂に生じた想いに、素直になって生きることを望んでいます。
この世を、あなたらしく生きて、成長していく姿を、傍で見ていたいのです。
この世にいるのか、向こうの世界にいるのかは、問題ではありません。
お互いに同じ想いでいるか、魂が通じ合っているかです。
愛する人は、見えなくても傍にいます。
目に見えなくても、支え合い、心を温め合い、励まし合うことは出来ます。
想いを通じて、愛し合うことは出来ます。
愛の想いは、行為や言葉を超えたものであり、そこには何の障壁もありません。
想いは、魂を表すものであり、お互いの実体です。
向こうにいる人に、あなたらしく生きているのを見せて、やすらぎを与えて下さい。
それは、向こうにいる人を愛することだと思います。
2015年8月16日日曜日
病気は生まれてきた目的を果たすためにある
世界にはたくさんの国があり、その国独自の法律があります。
私たちが平然としている行為が、よその国では法律に触れてしまう場合があるようです。
例えば、日本では、日本料理の店に行くと、魚介の活造りが出されますが、ニュージーランドではタコやロブスターの活き造りは法律で禁止されているようです。
日本では夏の炎天下に日陰のないところで犬をつないでいる家を見かけますが、アメリカのある州ではその様な行為が見つかると動物虐待とみなされ、飼い主は警察に逮捕されるそうです。
破ってしまえば、ペナルティーが課せられるのを知っているので、人は法律を守りながら生きています。
人間を規制しているのは、国や地域で定められた法律だけではありません。
目に見えない自然法則が、万物に働いていています。
多くの人が知っているのは物理法則です。
物を空に向かって投げると、地面に落ちてくるという現象は、万有引力の法則の働きであることは、ほとんどの人が知っています。
しかし、遠い昔の人は、その現象が法則に則って起きているとは思っていませんでした。
当たり前の様に起きていることも、何らかの法則に則って起きています。
すべての現象、出来事は何らかの法則が働いた結果として、生じているということになります。
昔の人が万有引力の法則を知らなかったように、現代に生きる私たちも、未だ知らない法則が無数に存在しています。
人々を苦しめている病気については、どうでしょうか?
現代医学の発展は目覚しく、病気が発症するメカニズムについて、多くの知見が得られています。
必要以上に食物を摂取し続けると肥満傾向となり、糖尿病などの生活習慣病になりやすくなります。
喫煙を続けると、肺ガンになるリスクは高まります。
肉体的法則は、エビデンス(科学的根拠)に基づいているので、証明されたものとして、信頼して遵守しようとします。
一般的に、人間を構成しているのは、目に見える肉体と、目にみえない精神と思われています。
もし精神が存在しなければ、肉体は司令塔を失ったことになり、動きが失われます。
ところで、精神とは何でしょう?
心とは何でしょう?
感情とは何でしょう?
それは、大脳皮質において脳内神経伝達物質のやり取りで作り出される幻影なのでしょうか?
そもそも、感情は何のためにあるのでしょうか?
もし、大脳が精密な機械で、肉体に指令を出したり、効率的に生きるために思考を行う存在であれば、怒りや、悲しみのどの感情は、とても余分なものに思えてしまいます。
そんな余分な感情が、大脳から生じる理由は、どこにも見つかりません。
感情はなぜ生まれるのか、どのように生まれるのか、大脳生理学では依然不明のままです。
感情とか心を、大脳の働きで説明するのは、限界があるようです。
もし、目に見えない「魂」の存在を認めてもらえるのなら、感情や心について、簡単に説明がつきます。
魂から生じているのは、想い(思念)です。
想い(思念)が精神に投影され、感情となります。
その感情は、肉体で表現されて完結します。
魂から生じた想いが、精神を経由して感情となり、肉体で表現されています。
精神には、頭脳と心(感情)の両側面があります。
頭脳は、コンピューターと同じで、状況を判断して、計算して、合理的、効率的な答えを導き出し、より良く生きるためにあります。
感情は、それとは全く異なり、魂から生じた想いを表在化させるものであり、精神のもう1つの側面です。
感情とは、想いを肉体で表現するためにある、この世だけの媒体だと思います。
肉体のみならず、精神にも法則が存在し、その法則に反してしまうと病気が生じます。
心が働き過ぎたとしても、休息すれば回復しますが、肉体と違って疲弊していても気付かないことが多く、激しい情動が持続してエネルギーが枯渇すると、強制的に休ませるような事態が生じます。
うつ病(状態)と言われる状態であり、病状の回復には心の休息が必要と思われます。
しかし、人間を苦しめている病気は、肉体的、精神的法則に背いた結果として生じているだけではありません。
感情の素となる、想いが生まれている魂(霊)にも、病気を生じさせる法則が存在します。
霊的法則に背いた結果、生じている病気は多くあると思いますが、現代医学では霊(魂)の存在を否定しているために、原因不明とされてしまいます。
そのことについて、拙い文章で理解していただけるかどうか判りませんが、書いていきます。
生きていると、さまざまな出来事が、自分の身に起こってきます。
うれしいこと、楽しいこと、悲しいこと、悔しいことなど、その1つ1つが積み重なって人生となっていきます。
ささいな出来事であれば、頭で考えて対処していきます。
しかし、深刻な出来事が起きると、魂にまで届いて、何らかの想いが生じます。
「想い」と書きましたが、その言葉が一番近いと考えたからであり、それ以外の言葉が見つからないからです。
感情になる前の、言葉に表せない何かです。
想いは目に見えませんが、精神で感情となって、肉体を突き動かす力に変わっていきます。
人からひどい仕打ちを受ければ、怒りや憎しみとなり、相手に怒りをぶつけてしまうかもしれません。
愛する人を亡くしたのなら、深い悲しみとなり、涙が流れてしまいます。
喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬など、たくさんの想いがありますが、それ以外にも言葉に言い表せない想いがたくさんあると思います。
そんな想いが、魂から生じていますが、人に知られることはありません。
人に知られるどころか、自分でも想いに気付いていないことが多いと思われます。
慌しく動き回り、頭ばかりを使った生活をしているので、魂から生じている想いに、気付かなくなっています。
気付かれない想いは、肉体で表現して解放されないので、溜まっていきます。
この世は物質の世界です。
そのため、魂から生じる想いを外に向かって表現するのに、肉体という目に見える媒体を使用しなければいけません。
肉体は、魂を包んでいる鎧のようなものであり、あまりにも鈍く、そして重いため、意識はそちらばかり行ってしまいます。
かつての私もそうでしたが、肉体こそが自分だと錯覚してしまっている人が、限りなく多くいます。
何もなく生きていれば、目に見えるものが全てに思え、魂などには意識は向かず、存在を感じることは、ほぼありません。
人の本質は、魂です。
魂とは生命そのものです。
魂とは、生命エネルギーがほとばしる出口と、言えるのかもしれません。
人体の1つ1つの細胞は、人体を構成するの一部分であり、何らかの役割を持ち、密接な連携の下に、繋がりながら、人体からエネルギーが供給されて生きています。
同じく、1人1人の人間(魂)は、全体を構成する一部分であり、何らかの役割を持ち、密接な連携の下に、繋がりながら、全体からエネルギー(生命力)が供給されて生きています。
全体とは、想像をはるかに超えた極大なものです。
地球に暮らす人類は、全体から見ると極小の一部に過ぎませんが、全体を表現している一部に変わりなく、極めて類似している魂の集合と思われます。
全体の意志を、個々(の魂)が表現しています。
宗教的に聞こえるかもしれませんが、全体の意志を、神の心と言い換えて良いのかもしれません。
魂は、全体の一部であるために、神の心をしきりに表現したがります。
世界のどこかで大災害が発生すると、世界中から人が集まってきて、人道支援が行われています。
溺れている子供がいると、我が身の危険を顧みずに、飛び込んで助けようとする人がいます。
打算を抜きにした、滅私の人助けが行われるのは、人間は肉体を超えた魂であり、ごく自然に神の心を表現したがっていることを物語っています。
神の心とは愛です。
私は宗教にあまり詳しくありませんが、2000年前にイエス・キリストがすでに言っていたことであり、釈迦は慈悲という表現をしていると思います。
言葉は違っても、同じことを、伝えたいのだと思います。
その神の心は、自然法則を通して、顕現しています。
今日も、世界のどこかで争いが起きています。
その結果、傷つき、悲しむ人が後を絶ちません。
人は理由もなく、相手を殺したり、傷つけたりはしません。
そこに、強い怒りや憎しみの想いがあるからであり、暴力によりその想いを相手にぶつけて、伝えているだけです。
暴力を受けた者は、傷つき、悲しみ、それが怒りや憎しみに変わり、その想いを相手に返していきます。
想いを返されることにより、苦痛が生まれます。
俗に言う「憎しみの連鎖」ですが、自分から出た憎しみの想いが、自分に返ってきているだけであり、因果律という自然法則の働きによるものです。
実際にあった、とても身近な話ですが、私の知り合いの男性は、家族内(妻、娘2人)で孤立して、会話もなく、長い間、寂しい思いをしていたそうです。
そんな時に、飼い主がいなくなってしまった犬を引き取ることになりました。
ただ、その犬には大きな身体の障害があり、飼うのは決して簡単ではありませんでした。
家族が1つになって、犬のことを考えました。
犬の周りに家族が集まり、みんなで世話をしました。
すると、いつのまにか犬を中心にして、家族の間に会話が生まれ、とてもあたたかい雰囲気になっていったそうです。
喜ばしいことに、長い間の孤立から、男性は解放されたそうです。
犬を幸せにしようとする愛の想いが、自らに返ってきて家族が幸せになったのであり、自然法則(因果律)の働きによるものと思っています。
自然法則は、実にシンプルです。
自然法則に従えば悦びがもたらされ、背けば苦痛がもたらされます。
人は、苦痛を味わいたくありません。
悦びを感じながら、生きていたいです。
自らが苦痛を経験して、自然法則の働きを知り、それに従うようになって行きます。
苦しみや痛みを通して、怒りや憎しみなど愛に反する想いを、愛の想いに変えていくように、自然法則は導いています。
自然法則が存在する目的は、人間(生命)を、より次元の高い愛を表現できるように、導くためにあると思います。
別の言い方をすれば、神に近づけるためにあると思います。
人は、愛はすばらしいもの、大切なものだと理解しています。
そうは思っていても、現実の生活が大切であり、つい忘れがちになってしまいます。
愛は理想に過ぎず、もっと大切なことがあると思っている人もいるでしょう。
目に見えない愛よりも、目に見えるお金が大切に思えてしまう人もいるでしょう。
自尊心を満足させるものを追い求めたり、頭ばかりを使った生活をしていると、本当に大切なものは忘れられてしまいます。
この世で愛すること以上に、大切なものはありません。
なぜならば、愛を表現して、霊性を高めるために、この世に生まれてきたからです。
残念ながら、魂にまで響き、目覚めるような出来事が起こらない限り、そのことに気付きません。
病気は、肉体的、精神的、霊的な自然法則に背いた結果として生じます。
病気には苦痛が伴いますが、それは自然法則に背いた過ちを償うためです。
肉体がある1つの目的は、自然法則に背いた時の痛みを感じるためであり、その痛みを通して自然法則の働きを知るためと思います。
霊的な自然法則は、魂から生まれる想いにも働いています。
想いには、自然法則に適ったものと、自然法則に背いたものがあります。
法則の根底には愛があるため、自然法則に適った想いとは、もちろん愛の想いです。
怒りや憎しみ、恨みや嫉妬などの想いは、愛と対極にある、自然法則に背いた想いです。
愛の想いとは、人や動物を好きになる気持ちもそうですが、他者を慈しみ、やさしくしたり、親切にしたり、奉仕したりする動機になる想いも含まれます。
そして、忘れてしまいたいような出来事を受け入れたり、意見の違う人を認めたり、あるいは許したりするのも、自己犠牲を伴うため、自然法則に適った想いと思われます。
愛に反する想いとは、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲など、傷つけようとする衝動が生まれるような想いですが、それ以外にもあります。
人や出来事を拒絶したり、認めなかったり、許さなかったりするのは、自然法則に背いた想いです。
心の中でどう思おうと勝手であり、行動に移さなければ問題ないと思われるかもしれませんが、想いには自然法則が厳格に働いていることを忘れてはいけません。
想いは目に見えず、この世の人に知られることはなくても、霊的には実在であり、影響力を持っています。
想いは、一種のエネルギーと考えて良いと思います。
とても強い怒りの想いを持っている人のそばに行くと、自分自身もなぜか怒りの感情が生まれてしまうことがあります。
その放散されている想いを受け取っているためであり、想いは周囲に影響を与える力となっています。
想いは、精神を経由して、肉体で表現される力に変わり、外に向かって出されることで完結します。
しかし、何らかの理由で、肉体で表現できないと、内に留まって、自分自身に大きな影響を与えます。
愛に反した、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが溜まっていくと、その後の行動を変えて行きます。
怒りや憎しみがうっ積した状態で、人にやさしくできるでしょうか?
やさしくするどころか、ふとしたことで、うっ積した想いが吐き出され、人を傷つけてしまうかもしれません。
俗に言う、ストレスが溜まった状態と呼ばれるのは、表現できない想いが溜まった状態と考えられます。
運動したり、趣味に没頭したり、おしゃべりしたりすることで、人はストレスを解消していますが、それは内に溜まった想いを吐き出している行為だと思います。
しかし、常日頃から怒りを感じていたり、憎しみを抱いていると、自分では解放できないほどの、想いが溜まっていきます。
その溜まった想いが、自分の性格(パーソナリティ)に影響を与えています。
怒りの想いが滞っている間は、相手を思いやり、やさしくする想いは生まれません。
自分の奥底では、人にやさしくしたり、親切にしたいと思っていても、その想いが行動に影響を与えて、どうしてもやさしく出来ません。
魂から生じた想いが、歪められた性格(パーソナリティ)により遮られて、表現できなくなってしまっています。
溜まっている想いは、人生に大きく影響を与えています。
人が生きている目的は、魂を成長させるためです。
魂は、苦難や障害を乗り越えたり、他者に愛を表現(奉仕)することで成長していきます。
人には、この世のおおまかなシナリオがあり、そのシナリオに沿って人生が展開していきます。
そのシナリオに沿って起きる出来事を、自分の想いに従い乗り越えていくことで、魂の成長が得られるようになっています。
自分の想いを表現しようとしても、想いにより歪められてしまったパーソナリティは、そうさせようとしません。
これでは、魂を成長させることは出来ず、それではこの世を生きている意味を大きく失ってしまいます。
成長を妨げるような想いは、一刻も早く手放さなければいけません。
しかし、その想いが根深い場合は、自分でいかに努力しても手放すことはできません。
魂から生じた想いを表現するために、媒体として肉体があります。
表現されなかった(愛に反した)想いは、因果律の働きによって、別の形で表現されます。
自然法則に反した想いは、五感に触れる心身の不調や病気という形となって表現されます。
想いの様相は、病態に表現されます。
怒りや憎しみなど想いは、身体上に攻撃的な組織となって表現されるかもしれません。
自分を責める想いは、身体を守る機能を、責めてしまうように変えていくかもしれません。
身体上に現れた(霊的な)病気を観察すれば、自分の内にどんな想いがあるのか、およそ見当がつくと思われます。
霊的な病気は、いくつかの目的があって生じると思われます。
その1つは、目に見えない想いが滞っていることを、目に見える病気として、認識させるためであり、もう1つは、その様な(愛に反した)想いを抱き続けたことに対する、償いです。
病気の苦痛は、償いであると共に、それまで眠っていた魂を目覚めさせます。
魂とは生命そのものであり、本当の自分です。
魂に目覚めるとは、本当の自分に気付くことです。
本当の自分に気付けば、そこから生まれている想いに気付くようになります。
そして、魂が目覚めると、全体の意志(神の心)に目覚め、本当に大切なものは、愛であることに気付きます。
愛に目覚めれば、滞っている(愛に反した)想いは、魂との間に親和性を失い、異物となり解放されます。
想いが解放されれば、本当の自分が表現できるようになり、肉体上の病気は存在理由を失い、消退していくと考えられます。
個々は独立しているように見えていても、魂が目覚めれば、実はそれぞれがつながっていて、役立て合いながら生きていると言う、調和や協調の意識が自然に生まれます。
調和や協調の意識が生まれれば、肉体もそれに従い、身体は調和や協調を取り戻して、正常に機能するようになっていくと思われます。
病気は、その人の魂の成長にとって必要な時に、自然法則に則って生じます。
過去生の償いをするために、病気や障害を持つ肉体に宿る魂がいます。
また、魂を成長させるために、病気という苦難を志願して誕生する、進化した魂もいます。
幼い子供の病気は、とても痛々しく、それを目の当たりにしているご家族の気持ちを察すると、言葉がありません。
それは、両者にとって、この世で魂を成長させるために必要な出来事であり、予め決められていたシナリオに沿っている可能性が高いと思われます。
とても思いやりがあり、親切で、やさしく、思いやりに溢れた子供(人)が、突然病気になり闘病して、向こうに逝ってしまう時があります。
何で、こんな良い子(人)が早く逝ってしまうのかと、周囲の人は嘆きますが、その時点で学ぶべきものを学んでいて、この世のシナリオは終わりなのかもしれません。
この世という学校を早く卒業できた、魂の優秀な生徒かもしれず、卒業を許された生徒が、学校(この世)に残る理由はどこにもありません。
早く逝った人が不幸で、病気が治った人が幸福であるというのは、物事を一面からしか見ていないと思います。
次の世界は、肉体から解放された自由で快適な世界であり、この世は肉体に魂が閉じ込められた世界です。
どちらが自由で快適な世界であるか、判り切ったことなのですが、次の世界のことを知らないために、この世で生きているのが1番だと錯覚してしまいます。
その証拠に、次の世界に行ってから、この世にもっといたかったと思う人は、あまりいません。
自然法則に背いた想いを抱いたり、自然法則に背いた行いをしてしまい、因果律の働きで病気になった人は、その過ちに気付き、苦痛による償いが終わったなら、健康な心身を取り戻すことが出来ると考えられます。
病気の苦痛により想いが解放されて、本来の自分に戻ると考えられます。
まだ、自分が果たさなければならない役割が、この世に残っていて、それを全うしてから次の世界に行くのだと思います。
元気になって、もう少しこの世で、学ばなければならないことがあると思われます。
本当の自分が姿を現したのなら、自分の想いに素直に従って生きなければいけません。
何事にも惑わされることなく、本当の自分の想いに、忠実に生きなければいけません。
湧き上がる想いを、素直に表現するだけです。
十分な痛みを経験し、つらい日々を過ごしたことにより、魂は浄化され、人の痛みが判るようになり、神の心が自然に表現できるようになっているので、自信を持って下さい。
本当の自分を、自分のやさしさを、つらい出来事で見失ってしまったのです。
想いが積み重なっていってしまったために、本当の自分がわからなくなってしまったのです。
見失ってしまった本当の自分を、取り戻すために、病気になったのです。
病気になり、苦痛を経験するのは、自分に上塗りされている余分なものを削ぎ落とし、本当の自分の顔を出させるためです。
繰り返しますが、この世に生まれてきたのは、魂を成長させるためです。
それ以外に、何もありません。
魂を成長させるために、本当の自分の想いを表現していかなければいけません。
自分でも気付いていなかった、過去に生じた(愛に反した)想いがあるために、本当の想いが表現できなくなっているだけです。
その想いがなくなれば、本当の自分の想いを表現できます。
本当の自分の想いを表現できれば、魂は成長していき、この世に生まれた意味が成就されます。
病気は、人を不幸にさせるためになるのではありません。
病気は、運が悪かったり、偶然なるのではありません。
この世に生まれてきた目的を果たすためには、本当の自分(魂)に目覚めなければならないのです。
病気になったのは、本当の自分に目覚めるためであり、この世に生まれてきた目的を果たすためです。
2015年8月2日日曜日
この世の出来事の意味を知る時
今から10年くらい前に、長野県の軽井沢にあった美術館をぶらっと訪ねました。
美術館の外に、立て看板が掛かっていて、その女性の憂いをたたえ、情熱を秘めた瞳に引き付けられました。
この女性の名はカミーユ・クローデルと言い、フランスの彫刻家です。
私はその名前を知りませんでしたが、館内にある解説文と展示品の説明文を読みながら、彫刻を観ているうちに、芸術家として、そして一人の女性としての人生に、次第に引き込まれていきました。
カミーユは、1864年にパリから少し離れたフランスの地方都市で生まれます。
芸術とは関係ない家庭環境に育ちましたが、少女期より卓越した彫刻の才能を発揮していました。
その後、一家はパリに移り、カミーユはその才能を買われてオーギュスト・ロダンの元へ19歳で弟子入りをします。
その当時、ロダンは42歳であり、新進気鋭の彫刻家でした。
ロダンは、カミーユの若さと美貌、そして溢れんばかりの才能と情熱に、大いに触発されました。
カミーユも、師匠であるロダンを、心から尊敬していました。
そして、芸術に全てを捧げる同志として惹かれあい、いつしか深く愛し合うようになりました。
2人は、お互いを高め合いながら、数々の傑作を生み出してしいきます。
カミーユとロダンは、弟子あるいは愛人の関係を超えて、芸術的パートナーとなって行きます。
ロダンの代表作となる「地獄の門」は、カミーユの独創的なアイデアが取り入れられています。
上の作品がロダン、下がカミーユのものですが、とても似ていて、二人の輝く日々が良く表現されていると思います。
ロダンには若い時から苦楽をともにしてきた、内縁関係にあるローズという女性がいて、二人の間には子供もいました。
ローズは、ロダンの生活を陰から支える月のような存在であり、カミーユは創作意欲を掻き立てる熱源であり、太陽のような存在だったかも知れません。
約15年に渡り、三角関係は続きましたが、カミーユは業を煮やして、ロダンにどちらを取るのか決断を迫ります。
そして、苦悩の末に出した結論は、ローズの元に帰るというものでした。
カミーユの落胆、悲しみ、激しい怒り、そして嫉妬は、察してあまり余るものがあります。
その時の想いを、彫刻に表現したのが、下の写真の「分別盛り」(1899年)です。
私は、この彫刻を観て、釘づけとなり、大きな衝撃を受けました。
若い女性の表情からはカミーユの深い悲しみ、男性からはロダンの苦悩と懺悔、老女からはローズの悪意のような想いが表現されています。
悪意のような想いは、カミーユの怒りや憎しみ、そして嫉妬が投影されたものと思われます。
それまで愛について深く考えることはなく、思い浮かぶものと言えば、恋愛と家族愛くらいで、気恥ずかしさを感じていました。
思っている以上に奥深いものであり、私の中にある「愛」の概念が変わったのを、その時に感じました。
決別した後も、カミーユは彫刻を創り続けました。
しかし、ロダンの弟子(愛人)というラベルが張られてしまい、思うような評価は得られませんでした。
作品は思うように売れず、生活は次第に困窮していきます。
一方、ロダンは「考える人」など傑出した作品を世に出し、ルネサンス期のミケランジェロと並び称せられるほどの存在となります。
女性として、芸術家としてプライドを、ことごとく傷つけられ、カミーユの生活は次第にすさんでいきます。
自分のアイデアを、ロダンが盗みに来るという被害妄想に捉われ、創った作品を壊してしまうほどになりました。
そして、良き理解者であった父親も喪い、カミーユは日常生活に支障を来たすほど精神を病んでしまい、アトリエは閉められてパリ郊外で療養生活を送ることになります。
訪ねて来る人もほとんどなく、30年に及んだ長い療養生活の末に、ひっそりと人生の幕を閉じます。
母親との確執があったため、一族の墓にも入れてもらえなかったそうです。
多くの人から見れば、カミーユの人生は最愛の人に裏切られて、独りこの世を去っていく、女性芸術家の哀しい物語になります。
『カミーユ・クローデル』という映画に、この世の人生が美しい映像と音楽とともに描写されています。(フランス・1988年・2時間36分・主演イザベル・アジャーニ)
私は、カミーユの人生は、決して悲劇ではないと思います。
人生と言う物語は、この世で完結してしまうわけではありません。
死んだ後も、人生は続き、新たな章が始まります。
この世での悲しみ、苦しみの意味が、新たな章で全て明らかになります。
希望も多分に入っていますが、私なりの物語を書いてみます。
人にはそれぞれ、生まれてきた目的があります。
カミーユとロダンは、非常に親(ちか)しい魂同士であり、この世に生まれた目的は、優れた彫刻を地上に遺し、観る人の魂を揺り動かすためです。
二人は、見えざる力により導かれて、出会うべくして出会います。
出会いは、この世で探し求めていた魂との再会であり、予定されていたシナリオの始まりです。
一目見た時に、他の人には感じることのなかった、言いようのない親しみを感じます。
頭での記憶は全くありませんが、魂にかすかに残る生まれる前の残像により、懐かしさにも似た想いを感じます。
この世で、出会うことになっている魂にやっと巡りあえた、言い知れぬ悦びに二人は浸ります。
2つの親しい魂は、生まれる前の様に1つになろうとするので、求め合い、愛し合うのは、当然の成り行きです。
男女を超えた奥深いところで、2つの魂は強く結ばれています。
しかし、2つの魂は、この世ではそれぞれ「顔」を被っています。
カミーユにとって、ロダンのこの世の「顔」は大きな障壁となり、時に激しく衝突してしまいます。
カミーユは、ロダンの全てを独占する形を望みましたが、それは叶いませんでした。
若い時から支えてもらい、少し病んでいる内縁の妻を見捨てることを、ロダンの良心が許しませんでした。
より深いところで結ばれているカミーユと離れるという、苦渋の決断をロダンはしました。
魂に忠実に従い生きてきたカミーユにとって、ロダンの凡人のような保守的な決断は許しがたいものでした。
ロダンとの別れは、カミーユに大きな衝撃を与えて、言葉では言い尽くせぬほどの、悲しみや苦悩をもたらしました。
数々の作品は、カミーユのその時の想いを写し出しています。
愛と輝きに満ち溢れた日々に創られた作品とは対称的に、内にある悲しみや苦悩を「分別盛り」は表現しています。
もっと多くの作品を後世に遺すはずでしたが、精神を病んでしまいました。
もし、ロダンと死に別れたのなら、深く悲しむことは避けられませんが、ここまで精神を病むことはなかったでしょう。
生き別れになったため、ロダンを見る度に、怒りや憎しみ、嫉妬の想いが生まれ続けてしまいました。
その想いは神の摂理に反しているために、因果律が働いて病となり、償いのために苦しむことになります。
憎むことで苦しみ、今の苦しみはロダンによりもたらされたと思うために、新たな憎しみが生まれ、さらに苦しむと言う悪循環に陥いりました。
しかし、悲しみ、怒り、憎しみ、嫉妬の想いは、愛が形を変えたものです。
愛がなければ、悲しみも生まれず、怒りや憎しみ、嫉妬も生まれません。
いくら形を変えたとしても、その根底には愛があります。
憎しみに変えて外に吐き出さなければならないほど、愛する想いが大きかったのかもしれません。
あるいは、愛されない寂しさ、悔しさから逃れるために、憎んでしまったのかもしれません。
カミーユの魂は、生涯にわたりロダンの魂を求め続けていたのです。
ロダンは、内縁の妻ローズと共に、晩年まで過ごしました。
ローズに死が迫る中、結婚式を挙げます。
終生尽くしてくれた女性への、ロダンの感謝の思いからです。
そして、ローズの死の後すぐに、この世を去ります。
しかし、ロダンの最期の言葉は、周囲を驚かせました。
その言葉は、「パリにいる若い妻に逢いたい」でした。
ロダンの魂もまた、遠い昔に別れたカミーユの魂を求め続けていたのです。
ロダンの死後、数十年して、カミーユは独り静かに、療養所で息を引き取ります。
それは、長い間、肉体に閉じ込められていた魂が、解放された瞬間です。
暗闇の先で待っていたのは、カミーユの良き理解者であった父親です。
しばらくの間、父親の胸に抱かれて、再会の喜びに浸ります。
ふと後ろを見てみると、見慣れない人物がいます。
カミーユの全人生に渡って、見守って、導いてきた、守護霊(ガイド)です。
そのガイドに促されて、2人はパリに向かいます。
向かった先は、懐かしいロダンのアトリエです。
そのアトリエは、ロダンの遺言により、パリ市に寄贈され美術館になっていました。
戸惑いながらも中に入ると、そこにはロダンの彫刻に触れて、心打たれている多くの人の姿がありました。
彫刻の中に、自分がモデルになった作品を見つけました。
若き日の表情は、愛と悦びに満ち溢れています。
人生で最も輝いていた日々を回想しながら、その時の想いが鮮やかに甦ってきます。
そして、ガイドは建物の一角にある部屋に、カミーユを招き入れます。
そこには、全ての情熱を注いで創った、自分の作品ばかりが並べられています。
感情に任せて、多くの作品を壊してしまったことを後悔しているカミーユにとって、その光景は驚きであり、喜びでした。
でも、どうしてロダンの美術館に、自分の彫刻が置かれているのか、理解できません。
部屋の真ん中には、ロダンと生き別れ、どん底の時に創った、あの「分別盛り」が置かれています。
魂が引き裂かれるような、あの時の想いが甦ってきます。
周りに目をやると、多くの人がこの彫刻をじっと観ています。
ある人は、若い女性の哀しみに満ちた表情を観て、深いため息をついています。
また、ある人は男性に差し伸べられた手をみつめて、涙しています。
そんな光景を見ていて、なぜか無性に悦びが込み上げてきます。
その時、ようやく生まれる前に自分にした約束を思い出します。
彫刻を創作して、多くの人の魂を揺さぶるため、地上に生まれたことを。
この国、この家族の下に、彫刻家として天賦の才能を持った女性として生まれ、もう一人の同志に出会い、幾多の出来事を経験して、その目的を果たすことを。
この世で、2つの親しい魂が出会い、本来の形を取り戻し、その無上の悦びを、彫刻に表現していきます。
目に見えない愛を、彫刻という目に見える形にして表しています。
しかし、カミーユの魂は、さらに高い愛の表現を求めていました。
これ以上ない悲しみを彫刻に表現し、深い愛を喚起させ、観る人の魂を揺さぶること。
観る人の魂にまで届く作品を創り出すためには、これ以上ないと思われる悲しみを、カミーユ自身が経験しなければいけませんでした。
魂が引き裂かれる想いは、作品に表現されて、観る人に伝わっています。
観る人の魂は共鳴し、閉じ込められていた想いが表に出てきています。
その想いは、涙とともに解放され、いくばくかの魂の救いが得られている様です。
それこそが、芸術の持つ大きな意味であり、カミーユがこの世で果たすべき使命でした。
親しい魂との別れは、観る人の魂を揺さぶるほどの悲しみを表現するために必要だったことを知ります。
もし別れがなかったなら、魂に届くほどの想いを、彫刻の上に表現できなかったことを悟ります。
共に過ごす日々は続いたでしょうが、次の世界で自らの魂に課せられた使命を果たした悦びに満たされることはなかったでしょう。
過ぎ去った、地上で起きた出来事の1つ1つに、意味があったことに気付きます。
そして、最も大切な意味があったのは、あの別れでした。
私たちが生きている目的は、たった1つしかありません。
本当の自分である、魂を成長させるためです。
この世で降りかかる苦難や障害を乗り越えることで、魂は成長していきます。
この法則が、全ての人を支配しているために、一人ひとりに魂を成長させるような苦難や障害が、この世で起きるようになっています。
何の前触れもなく、不幸と呼ばれるような出来事が起きたり、乗り越えられそうもないような苦難が降りかかってきます。
当然のことながら、そこから耐え難い苦しみや痛み、気が狂わんばかりの悲しみが生まれることがあります。
人生にはおよそのシナリオがありますが、魂の奥深くに仕舞われていて、この世では全く自覚されません。
もし、その苦難や障害が待ち受けていることが事前に判っていたら、全精力を傾けて、それを回避しようとするでしょう。
この世の誰もが、平穏無事を望み、つらい経験をしたくはありません。
立ち向かって乗り越えるか、それとも回避するかの選択が許されるとしたら、魂を成長させることが判っていたとしても、回避する人がほとんどかもしれません。
それは、この世に生まれてきた目的を放棄することになってしまうために、シナリオは仕舞われて自覚できないようになっていると思われます。
そんなシナリオなどある訳がないと思うのであれば、人生の出来事は偶発的に生じ、そこには何の意味もなく、ただ不幸になっただけと言うことになります。
不公平、不平等が、この世にまかり通り、神も仏もあったものではないという結論に至ります。
人は、自然法則に従い、死ぬ時が来ます。
そして、自然法則に従い、次の世界で魂として生き続けます。
次の世界で魂は生き続けていることを自覚できないのは、この世のシナリオを自覚できないのと同じ理由からであり、もし自覚してしまえば苦難や障害から逃れようとしてしまうためと思われます。
この世の出来事の意味は今は判らなくても、次の世界に行けば明白となります。
そして、自然法則の働きにより、完璧な公正、完全な平等が行き渡っているのを目の当たりにします。
この世に生まれた目的を果たすために、ロダンと別れなければならなかったことを知ったカミーユは、無性にロダンに逢いたくなります。
その想いは直ちに届き、目の前にロダンの姿が現れます。
地上で出会った時よりも、深い悦びに包まれた再会です。
ロダンとカミーユは魂の同志であり、次元を越えて、常に結ばれていました。
地上で離れていた時も、この世とあの世で離れていた時も、愛する者同士の魂には距離はありません。
カミーユの彫刻は、ロダンと似通っていたため、地上での評価が低くなってしまいましたが、2人の魂は親しいために、想いを表現する彫刻は、どうしても似てしまうのかもしれません。
そして、ロダンが美術館の一室に、カミーユの作品を置いたのは、引け目や、懺悔の思いからでは決してなく、カミーユの魂を自分の魂の一部の様に感じていたからかもしれません。
人は、次の世界に移ってしばらくすると、この世のすべてを振り返る時が訪れます。
カミーユは、ロダンを憎んでしまったことを悔やんだかもしれません。
しかし、私がそうだった様に、多くの人達の魂を揺さぶり、何かを変えられる作品を地上に遺せたことに、深く満足していると思います。
やがて2つの魂は、地上に生まれる前にいた、本来の住み家に戻っていきます。
隔てるものは、もう何もありません。
そこにあるのは、この世を経験して、より成熟した愛のみです。
「ワルツ」1893年 カミーユ・クローデル |
参考ページ: 「この世の出来事には意味がある」
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