人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2015年3月23日月曜日
想いを大切にする
人は、行いが習慣的になってしまうと、当初それが過ちだと分っていても、そのことを忘れてしまうことがあります。
私は、7年前に厳しい行政処分を受けました。
きわめて深刻な状況に陥りましたが、当たり前に行っていたことが過ちであることを忘れてしまったためです。
人を肉体的に傷つけると、逮捕され、裁判を受けて、有罪となれば法的に罪を償わなければいけません。
誰もが、それは罪な行いであることを知っているので、たとえ暴力的な衝動に駆られたとしても、自制します。
一昔前は、ひどいことを言って、相手を傷つけたとしても、罪に問われることはありませんでした。
今は、上司が部下に、男性が女性に、精神的に追い詰めるような発言をすると、ハラスメントとなり責任を追求されるので、言葉に気を付ける人は多くなったと思われます。
社会には法律やモラルが存在し、自分の言葉や行いには責任が伴い、もし反したなら何らかの償いをしなければいけません。
自分から生まれる想いにも、自然法則が働いていて、摂理(愛)に反した想いに対しては何らかの償いが生じることになります。
「言霊(ことだま)」と良く言われますが、言葉の持つ意味はもちろん重要ですが、その言葉がどんな想いを込めて放たれたかにより、伝える相手に与える影響は違ってくると思われます。
メールなど文字になってしまうと言葉に込めた想いは伝わりにくいのですが、直接かけられた言葉は、表情や態度、口調から、言葉の中に込められた相手の想いが伝わってきます。
混雑した電車の中で、揺れて足を踏まれた時に、踏んだ相手から「ごめんなさい」と言われてたとして、それが詫びる想いが込められた「ごめんなさい」なのか、思いが込められていない事務的な「ごめんなさい」なのか、何でこんな所に足を置いているのという、怒りの想いが込められた「ごめんなさい」なのかは、すぐに判ります。
言葉に込められた想いが、相手に伝わっているからです。
ひどい口ゲンカをしても、そこに憎しみや恨みや侮辱や軽蔑の想いがなければ、傷つかずに意外とすぐに忘れてしまうのかもしれません。
想いは残ったとしても、会話をしたり、歌を唄ったり、好きな運動や趣味に興じていると、自然に想いは解放されてしまうような気がします。
たった一言の言葉でも、強い想いが込められていると傷ついてしまい、容易には解放されなくなってしまうかもしれません。
文字で見ると傷つくような言葉であっても、親しみや愛情を込めて言えば傷つきません。
傷つくような言葉に思えなくても、侮辱や軽蔑などの想いが込められれば、傷つきます。
相手の言葉に傷つくのは、言葉そのものよりも、込められた相手の想いを受け取って、傷つくのだと思います。
法律では言葉の意味でしか判断しないので、罪は問われないかもしれません。
しかし、自然法則はその言葉の中に込められた想いを、見逃すことはありません。
たとえ社会で罪は問われなくても、、自分の想いにも自然法則は働いていて責任を問われるので、気を付けなければいけません。
人は、魂で生じた想いを、肉体で表現しながら生きています。
人生で遭遇する出来事から想いは生まれていますが、そのすべてを、言葉や行動で表現できるはずもなく、たくさんの表現されなかった想いを抱えながら生きています。
けれども、大抵は他の想いの表現とともに、解放されてしまいます。
しかし、衝撃が大きかったり、幼かったりすると、想いは滞ったままとなります。
出来事により、その後の人生が変わってしまうのは、生じた想いがとても強いため、解放できずに、心の傷として魂に影響を及ぼしていてるからなのかもしれません。
心の傷となっている想いは、怖れ、怒りなどですが、どんな想いなのかも、自分でわからないことも多いと思われます。
肉体の傷を早く治すまじないはないのと同じで、心の傷となっている想いを一瞬にして解放させる術はありません。
魂の成長とともに、徐々に解放されていくと思います。
戦争で闘って帰還した兵士が、トラウマに苛まれることが多いと聞きます。
過酷な状況は、体験した人でなければとても分かりませんが、苛まれるトラウマとは、自分が殺されるかもしれないという恐怖の想いよりも、自分の手で人を殺したり傷つけてしまったという、後悔や懺悔の想いかもしれません。
もし、怒りや憎しみや恨みや嫉妬、利己的な想いから、相手を傷つけてしまえば、その傷つけてしまった分、相応の苦痛が神の摂理の働きにより、後にもたらされますが、国や家族や平和を守るため、殺さなければ殺される極限状態においてであれば、罪の意識を過剰にまで感じる必要はないと考えられます。
全ての行為に対して、責任が生じるのは、動機という想いです。
どんな想いで言ったのか、行ったのかが最終的に問われることになります。
従って、偽善行為は、霊的に見れば全く価値の無いものになります。
その逆に、溺れてしる人を助けようと、我が身を省みず飛び込む行為は、動機が崇高であるため、高い価値があります。
何か行動を起こそうと思った時には、その動機を問い質してみる必要があります。
人や社会のためであれば、迷わず推し進めて行った方が良いと思われます。
想いは、生まれては消える、泡のような実体の無いものではありません。
肉体で表現され、具現化していく力を秘めています。
どんな想いを抱こうと自由ですが、自由には責任が伴うことを忘れてはいけません。
怒りや憎しみや恨みや嫉妬や貪欲などの、愛(摂理)に反した想いを抱いが生まれても、表現せずに押し留めてしまうことがほとんどかもしれません。
小さな想いであれば、他の想いの表現とともに、解放されてしまうと考えられます。
しかし、1つの1つの想いはたとえ小さくても、日常的に生まれて、解放される機会がなければ、積み重なり大きくなってしまいます。
相手からひどい仕打ちを受けていて、心の中では怒りや憎しみや恨みの想いを抱いているのに、表情に出さず、言葉や行動で表さなかったとしたら、その想いは表現されずに魂に滞っていることになります。
想いは、時とともに開放されていくのですが、とても強いと解放されないことがあります。
滞った想いが魂に影響を及ぼしてしまうと、自分本来の想いを表現するのが妨げられてしまいます。
その想いがあるために、自分を成長させる愛の想いは、生まれにくくなってしまいます。
生まれてきた意味を成就するためには、その想いを早く解放しなければいけませんが、自力では困難になると、因果律が働いて、苦痛を伴う出来事が生じたり、病気となるかもしれません。
出来事や病気に伴う苦痛が神の摂理により生じて、魂が目覚め、過ちに気付き、滞っていた想いが解放されて、自分本来の生き方や考え方を表現できるようになります。
苦痛の経験は、誰でも避けたいものです。
そんな(摂理に反した)想いが生まれないような、自然法則に適った生き方や考え方をした方が賢明です。
(摂理に反する)想いが生まれるのがどうしても避けられないのであれば、その環境は今の自分にふさわしくないのであり、思い切って変えてみる必要があるかもしれません。
想いが次々と生じてしまうのであれば、限られたこの世の時間を、無駄に使っているのかもしれません。
人や社会のためにという、自分(魂)を向上させるような想いが、自然に生まれる環境が自分にとってふさわしいと思われます。
生きていくためには、衣食住を賄うために、働かなけらばいけません。
同時に、働くことで人や社会のために奉仕しています。
働くことは、表面的には生活するためにお金を得たり、家庭を守っていくためにありますが、人や社会に奉仕をして自分(魂)を向上させるためにある、自然法則により生まれた地上の独特のシステムだと思います。
ふさわしくない環境で想いが生じ続けていると、心身に不調をきたしてしまい、休養しなければいけなくなるかもしれません。
地位や名誉や富に固執すると、この世に生まれてきた意味を成就できないばかりではなく、それを改めるような出来事が生じるかもしれません。
自分にふさわしい場所は、必ず用意されているはずであり、それを見つけようとする努力は怠ってはならないと思います。
もし、それでも環境を変えることが許されないのであれば、この世で与えられた試練であると、しっかりと受けとめなければいけません。
この世で与えられた試練であれば、どうしても乗り越えていかなければいけません。
何で自分だけが、こんなにも苦しい思いをしなければならないと感じるかもしれませんが、自分(魂)を成長させる以外に理由はありません。
今まさに、生まれてきた意味の1つを成就している時です。
例えが適切かどうか分かりませんが、スポーツ選手がいて、とても苦しい練習をしている人と、休んでいる人がいるとしまます。
苦しい練習をしている人は、休んでいる人を傍目で見て、とても羨ましく思えます。
毎日、毎日苦しい練習をして、つらい思いをしながら、どんな意味があるのだろうと思ってしまうかもしれません。
逃げ出したくなる日々を、どうにか乗り越えて、試合の日がやってきました。
厳しい練習は、決して裏切ることはありません。
とても満足のいく結果が出ます。
苦しみは報われて、一転して喜びとなります。
休んでいた人と、苦みながらも練習を続けた人は、どちらが真に幸せなのでしょうか?
この世の人生だけで判断すると見誤ります。
次の世界は間違いなくあり、そこで今の苦しみの真の意味を知ることになります。
苦しみは自分(魂)の向上のために必要不可欠であり、後になり大きな喜びに変わるでしょう。
苦しみや悲しみが、一瞬にして喜びに変わる瞬間、神に感謝するとともに、神の摂理は、愛そのものであることが、はっきりとわかるはずです。
偶然、不運、不幸などというものは全く存在せず、神の摂理が働いた結果を見ているのに過ぎず、公正、公平が完璧に行き渡っていると確信するでしょう。
怒りや恨みや憎しみや嫉妬、悲しみや失望と言った想いが起きるのは、神の摂理が働いてるのが見えないためかもしれません。
想いを支配する霊的な法則が、すべての自然法則の根底をなしていて、それが分からなければ因果律の働きで、目に見える形となって表れてくると思います。
霊的な法則は、最も大切なものに気付き、表現させるためにあると思います。
最も大切なものは愛であり、愛を肉体で表現するために、この世に生まれてきたことを、生まれる前の自分は十分に承知していましたが、いざ生まれてしまうと目の前にあるものしか見えず、人や出来事に振り回されて、すっかり忘れてしまい、他にあると錯覚して探し求めてしまいます。
もし、忘れずにいたのなら、認めること、許すことができるために、摂理に反した想いは生まれないはずです。
大切なことを忘れて、許すこと、認めることが出来なくなってしまったために、誤った想いが生まれてしまい、因果律が働いて、苦痛の出来事が生じて、最も大切なことをまた思い出します。
世の中で起こる多くの出来事は、この法則の働きを見ているだけかもしれません。
魂から生じる想いを、自然法則(神の摂理)に適ったものにすれば、すべてがうまくいきます。
しかし、認めること、許すことは決して容易ではなく、反する想いが、つい生まれてしまいます。
私もどちらかと言うと感情的な人間であり、怒りの想いは生じやすかったように思います。
そこで、こう思うようにしました。
自分も人も欠点があり、それを補うためにこの世に生まれてきている。
自分に欠点があるのに、人の欠点を責めることはできない。
その欠点を補い合うことこそ、この世に生まれてきた意味である。
怒りや憎しみや恨みや嫉妬の想いを抱くのは、相手に問題があるためではなく、自分が至らないためである。
同じ状況に置かれていても、認めて、許せる人は、世の中にはいくらでもいる。
認めて、許すには、自己犠牲を伴うのでつらく、愛の想いなしでは無理である。
許せないのは、自分の愛が足りないためである。
その様に信じて、心穏やかに、(愛に反した)想いが生まれないように努めています。
それでも未熟なために、どうしても生まれてしまいますが、表現してしまった時は、これまでにないほど苦しい思いをするような気がします。
感謝の想いは、とても大切だと思っています。
感謝の想いを絶やさずに生活していれば、摂理に反した想いを抱かずに済むからです。
しかし、それも簡単なことではなく、忙しさにかまけていたり、日常的になってしまうと、つい忘れてしまいます。
「ありがとう」、この五文字の言葉には、人を良い方向に導く力があるように思えます。
感謝の想いを込めて「ありがとう」と言わなければいけませんが、つい想いを込めないで言ってしまうこともあります。
それでも、言わないよりは、言った方が良いと考えています。
生きて、人に何かをさせてもらえるのは、とても幸せなことです。
ほんのちょっとでも、この世で上に進めることができたのですから。
上に進んでいくためには、愛が必要であり、努力が必要です。
それでも人は、上に向かって進まなければいけません。
上に進む苦しみは、いずれ喜びとなります。
摂理に適った愛の想いは喜びをもたらし、愛に反した想いは苦痛による償いをもたらすことは分っていますが、生きているとあらゆる局面でそれが問われていて、愛の想いを抱き続けるのはとても難しいと感じています。
そうであっても、それがこの世で試されているので、可能な限りその想いを抱き続けていきたいと願っています。
自分から生まれる想いは、自分そのものであり、常に注意を払い、大切にしなければいけません。
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