人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年12月28日日曜日
ガンは愛により癒される
これから書くことは、「魂」の存在を認めることが前提になっています。
従って、否定する人にとって、荒唐無稽な文章に思えるでしょう。
「魂」の存在を否定する人であっても、「愛」は実感があるため、存在を否定する人は少ないと思います。
どちらも目に見えない、五感に触れないものですが、「愛」の存在を信じられたのなら、「魂」の存在も信じられるはずです。
なぜなら、両者は同じ次元にある霊的なものであり、「愛」は「魂」から生まれるものだからです。
ガンという、人々を苦しめる病気の、根本的な治療方法は確立されていません。
最先端の科学の目で、ガン細胞や身体の隅々まで調べてみても、未だ根本原因は見つけられていません。
従って、現時点での治療方法は、手術、化学療法、放射線療法といった、大きな侵襲を伴う対処療法となっています。
もしかしたら、科学の対象となっていない領域に、ガンの原因があるのかもしれません。
私は、ガンの根本原因は肉体(物質次元)にはなく、魂(霊的次元)にあると考えています。
そして、ガンは「愛」と深く関係した病気だと考えています。
少し長くなりますが、そのことについて書いていきます。
一般的に、ガン細胞は遺伝子のコピーミスにより、発生すると言われています。
遺伝的要因や発がん物質や放射線などの環境因子により、コピーミスが誘発されるというのが、通説となっています。
確かに、乳ガンや大腸ガンは家族性に発生したり、ヘビースモーカーは肺ガンになりやすかったり、被爆により白血病は高率に発生します。
しかし、それらの要因から免れている人でもガンは発生し、要因に晒されていてもガンにならない人は多くいますので、それだけでは説明できない、何らかの要因が存在しているはずです。
その何らかの要因が、ガンを解き明かす重要な鍵になっているのかもしれません。
私は、コピーミスについて、どうしても疑問に思うことがあります。
なぜ、赤ちゃんはガンにならずに生まれてくるのか?
赤ちゃんは、1つの細胞(受精卵)から数十兆の細胞に分裂し、1つの個体を形作って、生まれてきます。
もし、単純なコピーミスであれば、環境因子の影響はないにしても、最も細胞分裂が盛んな胎児期に、高頻度にガンが発生してもいいはずです。
しかも、免疫系の発達は、成人と比較して未熟です。
それにもかかわらず、胎児期にガン細胞が発生し、乳幼児期に発症することはほとんどありません。
ガンが偶発的なコピーミスで発生した、イレギュラーな細胞ではないと思わせることがあります。
抗ガン剤は、頻繁に分裂するガン細胞のプロセスを逆手に取った薬です。
そのメカニズムは理に適っていて、理論上ではガン細胞の増殖は封じ込められて良さそうに思えます。
しかし、当初、高い感受性示していた薬剤にも、ガン細胞は抵抗性を徐々に獲得していきます。
抗ガン剤が効かなくなるという現象が、起きてきます。
新たに開発された抗ガン剤に対して、ことごとく薬剤抵抗性を獲得していくガンの様子を見ていると、あらゆる事態に対応するプログラムが、あらかじめ内在されていて、このような現象が起きているのではないかと思えてしまいます。
そのプログラムを創造した叡智には、人間の叡智など足元にも及ばないため、いかなる抗ガン剤を開発しても、結果は見えているのではないかと思えてしまいます。
すべてが、目には見えない自然法則という「きまり」によって支配され、秩序は保たれています。
地上から空に向かって石をなげれば、万有引力の法則に従って落ちてきます。
親の特徴は子供に、法則に従って遺伝します。
ミクロの細胞から、マクロの宇宙まで、自然法則が行き届かないところはありません。
人の寿命も、自然法則により定められ、130歳を過ぎて生きることはできません。
病気は自然法則の働きにより発生し、人々を苦しめているガンも、例外ではありません。
ミスにより生まれて、単純に増殖を繰り返し、肉体を死に至らしめ自らも消滅するというのでは、あまりにも不合理です。
ガンの発生、増殖、防御、そして死滅など、あらゆることを想定したプログラムが、あらかじめ細胞に内在していて、何らかの自然法則に従って、発現しているのではないかと思われます。
国の法律は、社会を治めるために、人間の手によって創られました。
自然法則も、何者かにより創造されたはすです。
そして、何者かの意志や目的が、自然法則の中に顕現していると思われます。
自然法則の一部として、ガンが生じているのであれば、そこには何らかの意志や目的があるはずです。
では、何の意志や目的があって、ガンを生じさせたのか?
人体は37兆個(60兆個ではないようです)の細胞により、構成されています。
現代科学では、精神(心)は脳細胞から生まれる、“特殊なもの”として考えられています。
よって、脳がなくなれば、精神(心)も消滅して、無の世界になると考えられています。
しかし、精神(心)は脳から生まれるという、根拠は何一つ見つかっていません。
心とは何か?意識はどこに存在するのか?その答えを見つけるために、長い間、研究は続けられていますが、残念ながら成果は見られないようです。
すべて脳内で起こる現象として説明しようとするのは、無理があります。
なぜなら、心や意識は、科学の対象となる大脳から生まれるのではなく、科学の対象となっていない「魂」から生まれるからです。
人を構成しているのは、肉体と精神、そして魂です。
魂が存在するのか?それともしないか? 少し興味はあっても、多くの人は生きていく上で関係はないと考えています。
しかし、誰もが関わっている、人生、死、病気について、魂の存在を抜きにして本質を知ることはできません。
魂の存在を受け入れて、霊的な知識を知っていれば、合理的な解釈が可能となります。
魂(霊)の存在を信じている人は、宗教に係わっているか、オカルト的なことに興味がある人と思われているためなのでしょうか、堂々と論じられることは、あまりありません。
信じない人は、確たる根拠もなく盲目的に否定しているだけであり、いかがわしい概念としか思っていません。
根強い偏見や、固定観念により、魂の存在は否定され、そのために生命の本質は、包み隠されたままになっています。
ほとんどの人は、精神(心)が存在していることを認めています。
そして、肉体(身体)と精神の間に、密接な関係があることを、経験的に知っています。
大きなストレスにより、胃潰瘍になるのは、周知の事実です。
同様に、魂と肉体も密接不可分の関係にあり、多くの病気の原因が、魂(霊)にあると考えられます。
人々を苦しませているガンは、魂(霊)に深くかかわっている病気だと思われます。
人生は、途切れることのない自己表現の連続により、紡がれていきます。
人は、表現するために、生まれてきたと言ってもいいのかもしれません。
何もないところから、表現は生まれるはずもなく、表現には常に想い(思念)が先行しています。
想いは、大脳から生まれるのではありません。
魂から生まれています。
魂があるからこそ、すばらしい音楽を聴いたり、神秘的な光景を見て、感嘆の想いが生まれます。
大脳の電気的なやりとりで、美を感じる心が生み出されるはずはありません。
美しいものを認知するのが大脳であり、美しいと感じるのは魂です。
魂に響いて、想いが生まれます。
生まれた想いは、脳により認知され、電気的な信号に変換されて、肉体で言葉や行動として表現されます。
想いは力(エネルギー)であり、精神(心)に投影され意志や感情という力になり、さらに肉体で具現化する力に変わっていきます。
愛する人が亡くなると、悲しみが生まれ、涙が流れます。
裏切られると、怒りが生まれ、相手を激しく叱責します。
親切にしてもらうと、喜びが生まれ、笑顔になります。
人生で起きるさまざまな出来事から、さまざまな想いが生まれ、肉体により表現されています。
それが絶え間なく、繰り返されています。
想いは、大きく2つに分けられます。
愛の想いと、愛に反する想いです。
人や動物を愛しく思う心、やさしさ、親切心、同情心、寛容な心、お互いの違いを認め合う心、許し合う心は、愛の想いから生まれます。
自分よりも、他者を優先し、喜びを与える心を、愛の想いと言ってもいいのかもしれません。
怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、そして貪欲等は、愛に反する想いであり、他者を傷つけたり、悲しませたり、貶めたりしようとする衝動を起こさせる想いです。
他者よりも、自分を優先することから生じる想いと言っていいのかもしれません。
愛の想いを表現すれば、喜びに満たされます。
愛に反する想いを表現すれば、苦痛が生まれます。
他者を認め、他者を許せば、平和が生まれます。
他者を認めず、他者を許さなければ、争いが生まれます。
何となく、そうなってしまうのではなく、厳然とした自然法則が働いた結果です。
自然法則を創造した者を、表す言葉として1番近いのは、「神」かもしれません。
すべての自然法則には、神の心(意志、目的)が働いています。
神の心が、自然法則の中に、顕現しています。
神の心は、「愛」です。
何かをすれば、何かが起こるのは、当たり前の様に思えますが、自然法則の根底にある「因果律」の働きです。
原因があって、結果が生じているのであり、すべての結果は、原因に従っています。
仏教では、因果応報であり、
イエス・キリストは「蒔いた種は、自らが刈り取る」と、表現しました。
愛の想いを表現すれば、神の心を表現していることになります。
法則(摂理)に適っているので、因果律の働きにより、喜びや平和がもたらされて、魂の成長が得られます。
愛に反する想いを表現すれば、法則に反しているので、因果律の働きにより、争いがもたらされ、苦痛による償いが生じます。
生命にかかわる自然法則は、愛を学び、愛を表現させるためにあると考えられます。
生命は、神の愛を表現するために存在し、愛を表現することで、生きている意味が成就されると考えられます。
しかし、人間には肉体があります。
肉体を養っていくためには、食べていかなければいけません。
食べていくためには、働かなければいかず、そのために多くの時間と労力が割かれます。
そして、肉体からの欲求は強いために、意識はどうしてもそちらに向かってしまいます。
人のことより、自分が生きていく方が、大切になってしまいます。
生きていくのに精一杯で、余裕はなくなります。
誰しも、自分が1番かわいいものです。
そんな制約の中で、いかに愛を表現していくのかが、この世で試されているのだと思います。
病気は、人を悩ます、誰しも避けて通りたい出来事です。
あらゆる病気は、自然法則に従って生じています。
ガンという、深刻な病気も、当然のことながら、自然法則に従って生じています。
細胞の1つ1つは、神の力により活動が営まれているとともに、自然法則(神の摂理)を顕現させる能力を持っていると思われます。
人間の営みのはミスがつきものですが、自然の営みには、万に1つの誤りもありません。
細胞分裂は自然の営みであり、何億回繰り返そうとも、ミスなどあり得ません。
従って、ガン細胞はミスなどではなく、自然法則が働いた結果として、発生したと思われます。
細胞分裂を繰り返す、あらゆる動物や植物に、一定の割合でガンが発生しそうですが、不思議なことに、野生動物や植物には、ガンはほとんど認められないと言われています。
実感としては、ガンは人間や、人間の回りにいる動物に発生していると思います。
それらは、多様な想いが生まれる動物だと思います。
さらに言えば、愛の想いを知る動物に発生すると、考えられます。
愛の想いが生まれると、同時に憎しみや嫉妬という、愛に反する想いも生まれることになります。
生命は神から流れ込む(生命)力により、生かされています。
流れ込む力により、魂からは、さまざまな想いが生まれます。
力の源は神であるため、その力は愛そのものですが、発展途上にある、人間の魂から生じるのは、愛の想いとは限りません。
時として、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬といった、愛に反する想いも生じます。
自然法則は、目に見える物質だけでなく、目に見えない、自分の「想い」にまで働いています。
愛の想いを抱けば、神の摂理と一致しているため、自然法則の働きにより、喜びがもたらされます。
怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、貪欲といった想いを抱けば、神の摂理に反しているため、自然法則の働きにより、苦しみや痛みがもたらされます。
怒りや憎しみなどの想いが生じて、それを言葉や行動で表現してしまうと、因果律の働きにより、他者との間の、平和や調和や協調は崩れて行きます。
怒りや憎しみなどの想いが生じて、それを言葉や行動で表現されなければ、因果律の働きにより、自らの中の、平和や調和や協調が崩れて行きます。
想いは、生まれては消えていく泡の様のように、実体が無いものに思われがちです。
しかし、霊的次元においては、実在そのものです。
目に見えるものではありませんが、肉体次元にも働きかけて、具現化させる力を有しています。
そして、同次元にある、魂のありさまを変化させる力を、秘めていると考えられます。
その想いが、大きければ大きいほど、魂や精神そして肉体に、強い影響を及ぼすと思われます。
想いは、精神を経由し肉体により表現されない限り、滞っていて、なくならないと思われます。
愛に反した想いが生じて、表現されずに滞っていると、魂のありさまは、次第に平和、協調、調和を欠いたものに変わっていきます。
魂のありさまが変わってくると、人生で出会う出来事により、平和、協調、調和を欠いた想いが、次々と生じるようになっていきます。
怒りの想いがうっ積していると、ささいな出来事で、怒りやすくなります。
悲しみの想いがうっ積していると、ささいな出来事で、悲しくなり、涙が出ます。
表現されなかった想いが滞っていると、その後の人生に大きな影響を与えていることになります。
人は、愛を表現することで、人間(魂)が成長します。
しかし、想いがうっ積していると、愛は表現されにくくなり、成長が妨げられます。
やさしくしなければいけない時に、どうしてもやさしくすることができません。
許してやらなければいけない時に、どうしても許すことができません。
それどころか、無意識のうちに、人を傷つけてしまうこともあります。
成長していく人間にとって、看過できない問題だと思われます。
人間は、神から流れ込む生命力により、生かされています。
その力は、魂で想い(思念)となり、肉体で表現されています。
川に投げ込まれた岩が、上流から下流に向かう流れを堰き止めてしまうように、滞った想いという障害物は、魂で生まれた想いを肉体で表現するという、絶え間のない生命力の流れを、堰き止めてしまっています。
想いという障害物があったとしても、五感に触れないため、気付くことはほとんどありません。
慌ただしい生活の中で、心の奥底にある想いに気付くことは、きわめて困難です。
自らの成長を妨げている想いに気付き、解放させてやるのは、ほぼ不可能です。
行き着くところまで行くと、神の摂理である、因果律が働きます。
肉体は魂を表現する媒体であるため、想いは肉体で表現されることになります。
平和、協調、調和を欠いた魂にある想いは、因果律の働きで、肉体上に平和、協調、調和を欠いたガンという病変として表現されます。
表現されなかった、怒りや憎しみや恨みなどの想いは、形を変えて、ガンとして肉体上に表現されます。
ガンの正体は、表現されなかった(摂理に反した)想いと言うことになります。
自らの想いにも自然法則は働いていて、1つ1つの想いが見過ごされることはありません。
自由には責任が伴います。
どんな想いを抱いても自由ですが、抱いた想いには責任が伴います。
愛(神の摂理)に反する想いを、抱き続けた過ちに対しては、償いが必要となります。
ガンに伴う苦痛は、経験した人でなければ分からない、大変つらいものと思われますが、自らの想いに対する償いとしてあります。
因果律は絶対公正であり、過ちを帳消にすることは、何を持ってしても無理です。
等価の苦痛を経験しない限り、過ちは償われません。
それは同時に、過ちを償ってしまえば、苦痛は必ずなくなることを意味します。
真剣に生徒のことを思いやる先生は、生徒が悪いことをした時に、心を鬼にして、叱ったり、償いとして罰を与えます。
その行為が過ちであることを思い知らせて、2度と同じ過ちを繰り返さないで、人生を、正しく、誠実に、幸せに生きて欲しいとの、願いが込められているからです。
ガンによる苦痛は、無意味なものでも、理不尽なものでもありません。
自然法則によって生じた病気の、1つの現象としてあり、そこには意志や目的があります。
愛に反する想いを抱き続けることが、過ちであることを思い知らせています。
そして、肉体の奥で眠っている魂にまで響き、目覚めさせるという、大切な目的があります。
魂は、神が創った、神の一部であり、つながっています。
魂が目覚めたということは、神の心に目覚めたということになります。
神の心は愛です。
魂が目覚めれば、愛に目覚めます。
愛より大切なものは、この世にも、あの世にもありません。
ガンの苦痛は、魂を目覚めさせるためにあります。
最も大切なものは、愛であることに気付きます。
愛が最も大切だと気付けば、生まれる想いは、愛を帯びたものに変わっていきます。
魂のありさまは、次第に平和、協調、調和を取り戻していきます。
愛の想いにより、神とのつながりは深まり、生命力が魂にふんだんに流れ込んできます。
滞っていた想いは、生命力により生まれた愛の想いにより、手放されていきます。
魂が癒されて、肉体も後に続きます。
現在、肉体上にガンがあるのであれば、滞っている想いもあるはずです。
もし、償いが終わる時期が近づいているのであれば、その想いを手放せるかもしれません。
魂に滞っている想いは、過去の人生で起きた出来事から生じています。
記憶としては忘れてしまっている、遠い過去の出来事であっても、表現されなかった想いは、消えることなく留まっています。
表現されない想いは、脳の記憶として残っているのではなく、霊的次元の魂に留まっています。
ガンになる想いを生じさせた出来事は、今までの人生のどこで起きたのか、すぐには思いつかないかもしれません。
今の生き方や考え方を変えるために、ガンになると考えられます。
そうであれば、生き方や考え方を変えてしまった過去の出来事により、想いが生じたと考えられます。
その想いは、出来事をどうしても許すことが出来なかったため、認めることが出来なかったため、納得出来なかったために、生じたと思われます。
生じた想いは、怒りや憎しみや恨み、そして悲しみなどが複雑に組み合わさっていたり、とても強烈な想いであったために、表現できなかったかもしれません。
表現できなかった想いは、その後の人生で遭遇する出来事や、ふとした言葉や仕草、何気ない行いにより、瞬時に蘇ります。
そして、同じような想いを生じさています。
その想いがあるために、あらたに想いが生まれ続けています。
その想いに気付かなければいけません。
言葉にならないほどの想いを生じさせた出来事、生き方や考え方を変えてしまった出来事と、もう1度向き合わなければいけません。
それは、忘れてしまいたい出来事であり、固く封印されている想いかもしれません。
心の傷に触れることになるかもしれませんが、ガンを癒やすためには避けて通ることは出来ません。
その出来事に触れると、大きな感情のうねりのようなものが、突如湧き上がってしまうかもしれません。
それは、怒りの感情を超えた、激怒、憤怒の想いかもしれません。
もし、猛り狂う想いが湧き上がってきたのなら、恥ずかしがらずに、遠慮することなく、思いっきり大声で吐き出してみましょう。
内に留まっている想いを、外に向かって、肉体で表現して出すようにして下さい。
毎日、少しずつでも大丈夫です。
あの時の、表現できなかった想いを、今、言葉にできるのであれば、言葉にして解放して下さい。
うまく言葉にできなければ、しかるべき場所で湧き上がる想いのままに、叫んでみてもいいでしょう。
内に留まっている想いは、肉体で表現されてはじめて解放されます。
悔しさは、怒りとして表現されたり、涙となり表現されたりしますが、それですべてが表現できるとは限りません。
怒りや悲しみといった感情的な想いではなく、満たされない想いや、虚無感、喪失感に近い想いであるかもしれません。
言葉では言い表せない、表現する言葉が全く見つからない、想いであるかもしれません。
声にもならない、想いかもしれません。
そんな想いを、肉体で表現し解放するのは、とても困難です。
そんな時は、無条件に愛して下さい。
あの時の、つらかった自分を、思い出して下さい。
あの時の、つらかった自分の想いに、気付いて下さい。
あの時の自分の想いに気付き、今の自分が代わりに涙を流して下さい。
涙とともに、表現されなかった想いが、少しずつ流れて行きます。
心の中で、本当につらかったあの時の自分に出会い、寄り添い、手を取って、一緒に涙を流しましょう。
あの時の自分は、精一杯生きていて、出来る限りのことをしていました。
心から慈しみ、「つらかったのに、本当に良く頑張った」と、慰めましょう。
あの時の自分と、今の自分は違います。
あの時、自分は許せなかったとしても、今の自分は許せます。
同じ魂であっても、1つ上に進んでいます。
1つ上に進んだ自分が、あの時の自分に代わり、その出来事を許してあげましょう。
決して許せなかった、認められなかった、納得できなかった出来事も、ガンになり苦痛を経験した今の自分ならできるはずです。
これまで苦痛に耐えてきたことを思えば、許せない出来事などないはずです。
愛の大切さに気付いた自分が、そのことに気付いていない自分に代わって、出来事を許して、想いを解放してやりましょう。
あの時の、つらくて、悔しくて、悲しかった自分を、心から愛してやりましょう。
ガンにならなければ、あの時の自分には出会えないのです。
あの時の想いにも、気付けないのです。
あの時の自分を、慰めて下さい。
あの時の自分を、励まして下さい。
あの時の自分を、愛して下さい。
今の自分が、あの時の自分の固く閉ざした心を開いて、想いを解放して下さい。
その時が、今、やっと来たのです。
ガンという病気にも、起承転結があると思います。
表現されなかった想いが生まれ、大切なことを忘れてしまい、
その想いがあるために、その後の人生で同様の想いが生まれ続け、
想いの塊が、肉体にガンとして表現されて、苦痛を経験し、
大切なことに気付いて、本来の自分に戻る。
この世は、さまざまな経験を通して、大切なことを学ぶことができる、貴重な世界です。
大切なことを学ぶために、真逆のものが存在する、比較対照の世界です。
健康のありがたさは、病気になって、初めて分かります。
生命にかかわる病気なり、生命の尊さに気付きます。
ガンは、いらないものを、ことごとく剥ぎ取っていきます。
そして、最後に真実が姿を現します。
生命は自分のためではなく、他者のためにあります。
生きる目的は、愛することです。
苦痛という代償を払ってまでも、手に入れる価値のある真実だと思います。
ガンという病気を、怖がる必要はありません。
不治の病でも、死に至る病でもありません。
魂が癒されれば、その結果として肉体は癒されます。
ガンは愛により癒されます。
参考ページ: 「ガン(癌)は怖くない!」
2014年12月11日木曜日
その一瞬の時のために強く生き抜く
29年前、私は大学生でした。
友達の親が所有する山荘に泊まりながら、仲間と騒いで夏休みを過ごしていたところに、1機のジャンボ旅客機が音信不通となったと知らせるニュースが飛び込んできました。
この近くに、どうやら旅客機が落ちたみたいだと、少し騒ぎになった記憶があります。
次の日の朝、山の中腹の木々がなぎ倒され、機体が粉々に砕け散った墜落現場の様子が、ニュースで映し出されていました。
1985年8月12日夕刻、日航ジャンボ機が群馬県上野村にある御巣鷹山に墜落し、520名の方が亡くなられました。
その後、ご遺体は、近隣の市の学校の体育館などに移送され、ご家族による身元確認が行われました。
身元確認には、歯のレントゲン写真や治療内容を記録したカルテが有力な根拠となっていました。
近隣の市で歯科医院を営んでいた父が、警察から身元確認作業の依頼を受け、歯科学生であった私も、何ができるという訳ではありませんでしたが、同伴しました。
お焼香の煙りが立ち込める体育館に入ると、まだ身元の判明しない何十もの棺がならんでいました。
棺の中には、原型を全くとどめていない、ご遺体の一部が納められていました。
冷静に、淡々と、ご遺体を1つ1つ確認をされていたご家族の姿が、今も印象に残っています。
身体のほんの一部分の特徴を見ただけで、亡くなられたご家族だと、すぐに判るようです。
この事故で亡くなられた乗客の一人に、河口博次さん(享年52才)という方がいました。
墜落前にダッチロールを繰り返す、想像を絶するパニックとなった機内で、ご家族向けてメモ書きしたメッセージを残したことで、多くの人に知られることになりました。
この文章を読まれて、飛行機事故の悲惨さを、改めて感じた人も多いのではないかと思います。
亡くなる直前の、一人の男性の魂の叫びです。
「マリコ 津慶 知代子
どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい
パパは本当に 残念だ きっと助かるまい
原因は 分らない 今5分たった
もう飛行機には 乗りたくない
どうか神様 たすけて下さい
きのう みんなと 食事したのは 最后とは
何か機内で 爆発したような形で
煙が出て 降下しだした
どこえ どうなるのか
津慶 しっかり た(の)んだぞ
ママ こんな事になるとは 残念だ
さようなら
子供達の事を よろしくたのむ
今6時半だ
飛行機は まわりながら 急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」
時を経て、読んでみても、胸に迫るものがあり、涙が出ます。
どんなに怖かったでしょうか。
どんなに無念だったでしょうか。
言葉もありません。
こんな壮絶な状況下においても、家族に想いを伝えようとしたことに、驚きを感じます。
最後まで残るものは愛であり、恐怖にも打ち克つことを、証明されていました。
メッセージを受け取った、ご家族はどう思ったでしょう。
「たのんだぞ」と言われた津慶さんという息子さんの魂に、お父さんの遺志は刻み込まれたと思います。
十字架を背負され、その重さに耐えられなくなりそうな時があったのかもしれませんが、きっと今も約束を果たされていると思います。
もし、私がこの様な形でメッセージを受け取ったのならば、迫り来る死の恐怖の中で、想いを伝えようとした父親に、畏敬の念を持つかもしれません。
「強く生きろ」という、強烈なメッセージを感じてしまいます。
「ママ」と書かれていた、妻である河口慶子さんは、突然の事故でご主人を喪いました。
昨日まで幸せだった家族が、一瞬にして、不幸のどん底に落とされる。
同様の経験をした人でなければ、とても理解できるものではありません。
河口慶子さんは事故後、しばらくしてシルバーバーチの書籍と出会いました。
何ものにもまして、支えてくれたそうです。
ご遺族や出会う人たちに、数千冊を配られたそうです。
その後、それまでの人生とは無縁と思われる世界に、進んでいかれました。
「光の彼方に-死後の世界を垣間みた人々」レイモンド・ムーディ(著)という書籍を、翻訳されました。
平凡な主婦から翻訳家になり、生命の真実を伝える。
ご主人の死と、霊的真理との出会いにより、生き方や考え方が大きく変わっていったと思われます。
今も傍にいてくれて、見守っているという確信がなければ、この様な仕事は決して出来ません。
苦しみ、痛み、悲しみを伴う、苦難や悲劇と言われる出来事を経験して、魂が目覚め、大切なことに気付きますが、河口さんのように、衝撃的で、惨劇とも言える出来事により、たどり着かれる人もいます。
こんな過酷な人生を歩んでまで、魂が目覚めなくても良いと、思われる人も多いでしょう。
魂が目覚め、本当の人生が始まるとしても、このような悲惨な出来事が事前に分かっていたのなら、誰もが回避しようと思うでしょう。
避けて通りたい出来事が生じて、ぎりぎりまで追い詰められて、魂が目覚めますが、誰しも望んでいたわけではありません。
目覚めようとして目覚めるものではなく、身に起きた出来事により目覚めさせられるのだと思います。
河口さんは、ご主人が残されたメッセージを目の当たりにして、魂が呼び覚まされたと思っています。
もし、ご主人がこの事故に出会うことなく、平凡に老後を過ごされている自分と、今の自分のどちらを選ぶでしょうかと、質問をしたならば、どうお答えになるのか、勝手に想像してみました。
きっと、今の自分を選ぶのではと思います。
この事故により、打ちのめされて、どれくらいの涙を流されたのか知りません。
心を癒やす間もなく、3人の子育や生活に追われて、人一倍のご苦労をされているのは間違いありません。
人にはわかってもらえない想いが、山のようにあったと思います。
しかし、ご主人の残してくれた、奇跡とも言えるこのメッセージは、その後の人生で出会う苦難や困難を乗り越えていくための原動力になったと思います。
「今までは幸せな人生だったと感謝している」という、最後の一言に、どれほど救われ、ご主人の深い想いを感じられたのか、分かりません。
ご主人が残されたメッセージで、魂が目覚め、手に入れたものが「生命は霊(魂)であり、永遠に生き続ける」、「他者のために人は生きている」という崇高な真理だったのかもしれません。
魂が目覚め、真理を受け入れて、予想もしなかった新たな人生が始まり、真に生きる意味を成就されて行かれたのだと思います。
悲痛の経験を通して手に入れた、生命の真実を、救いのない悲しみの中で、さまよっている人たちのために伝えています。
人からは、ご主人を早く亡くされて、変わった方向に行ってしまった可哀想な奥さんと、見られているかもしれません。
しかし、ご本人は、事故で亡くなった519名の遺族に、そして愛する人を喪った人たちに向けて、「生き続けている」という真実を伝えることが、メッセージを受け取った自分の果たすべき使命と、感じているのではないでしょうか。
恐怖に打ち克ち、家族への愛を表現したご主人の、魂の高さ、そして強さを、まざまざと見せつけられたのだと思います。
心から、ご主人を尊敬されているのだと思います。
人のために尽くすことで愛を表現し、試練を乗り越えることにより、魂が成長し、魂を成長させることこそが、この世に生まれてきた意味であることを十分に承知され、究極とも言える試練の中で、立派に愛を表現された、尊敬するご主人に、少しでも近づきたいと思い、幾多の試練を乗り越えることが、今生に残された自分には必要と、はっきりと認識されているのではないかと思います。
次の世界で、ご主人と魂と魂で結ばれるために。
先に行った者は、次の世界で上に向かって進むのを止めて、残してきた者が、この世で苦難や悲しみを乗り越えて成長していく姿を、見守っていると思われます。
向こうに行くと、苦しい時、つらい時、悲しい時こそが、残してきた愛する人の魂を成長させる好機となっていることが、はっきりと分かります。
時に涙を流し、時に笑い、時に嘆き、時に喜びながら、無事に乗り越えていくことを、ひたすら願い、見守っていると思います。
人生で起こる、さまざまな出来事を、その人らしく乗り越えて、一歩一歩と近づいてくる姿に、深い喜びを感じているのかもしれません。
しばらくすれば、この世に別れを告げる日が訪れます。
死は断絶の終焉を意味します。
神の公正は絶対であり、悲しい思い、寂しい思い、つらい思いをした人ほど、再会の喜びも大きく、光り輝く日々が待っていることを、ご本人は承知していると思います。
ご主人との約束を果たし、「ママ、よく頑張ったね!」と、やさしく抱きしめてもらう一瞬の時のために、気丈に生きてこられたのかもしれません。
ご主人の様に、最期の一瞬まで強く生き抜き、堂々と、胸を張って、笑顔で再会を果たしたいのだと思います。
参考ページ: 「天国に一番近い場所 ~御巣鷹の尾根に立って~」
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