人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年1月30日木曜日
魂と愛について
私は若い時、自分に問いかけていたことがあります。それは、「何で生きているのだろう?」ということでした。
最も若さに溢れて、自由を満喫している20代前半にも、一人静かにしていると、時折、頭に浮かんできました。
しかし、深刻な悩みというわけでもないので、そのままにしておきました。
同時に、何かしなければいけないという衝動を、いつも感じていました。
突き動かされる何かがあるのに、それが何なのか、何がしたいのかも分からず、何もしていない自分に苛立ちを覚えていた様に思います。
そして2つとも、答えは見つからないまま、時は過ぎていきました。
何かをしなければいけないという衝動は、仕事をすることで、解消された様に思えました。
仕事さえうまくいっていれば、人生すべてがうまくいくと、いつしか思うようになっていきました。
そして7年前、仕事上で絶体絶命と思われる不祥事が起こりました。
ほぼ同時に「シルバーバーチの霊訓」に出会いました。
不祥事をきびしく追求され、追い詰められて行く日々の中で、心の奥で眠っていた魂が、目を覚まし、表に出てきました。
それまで思いもしなかった、大切なこと(摂理)に気付き、私の中で輝き始めました。
若い時に抱いた「何で生きているのだろう?」という問いに対し、「生命は肉体ではなく魂であり、魂を向上させるため」という、永遠不滅の真理を見出すことができました。
苦難に出会う人は不幸な人であるという、世間一般の考えは、「シルバーバーチの霊訓」により根底から覆されました。
苦難の真っ只中にいる時は、早く逃れたい、楽になりたいと思ってしまうこともありますが、「苦難を乗り越えることで魂が向上する」という、神の摂理が厳然と存在し、与えられた試練として立ち向かっていくことを学びました。
子供の頃から、「世のため、人のため(に尽くす)」という言葉を良く聞きました。
立派な心がけを奨励するための、道徳的な言葉と思っていました。
ところがそうではなく、神の心である「愛」を表現することであり、摂理そのものであることが分かりました。
シルバーバーチは「人のために自分を役に立てる」と言っていますが、滅私の奉仕こそが、最も価値あるものであり、魂を向上させることになり、生きている意味を成就していることになります。
広い世界には、貧しい人や、困っている人、病んでいる人のために、人知れず尽力し、生涯を捧げている人たちがいます。
その人たちの姿を見るたびに、本当に幸せな人だと思います。
人を幸せにしようとする想いは、神の心と同調し、深くつながり、神の愛を十分に受け取ることができます。
受け取った神の愛は行動する力となり、想いを成就させていきます。
そして、奉仕の行いにより、人々が幸せになり、その姿を見て自らが喜びを得ます。
摂理に適った想いや行いは、因果律により、自らに喜びと幸せをもたらします。
他者のために、何かをしてやりたいという想いが湧き上がるのは、頭で考えたものではなく、魂の自然な欲求です。
踏切でうずくまっている老人を見て、わが身の危険を顧みずに助けようとして亡くなった女性がいましたが、助けようとする衝動の源は、魂だったと考えられます。
もし、頭で考えたとしたら、助け出そうとする一歩は、とても踏み出せないと思うからです。
魂は神の一部であり、神の心が「愛」であるがゆえに、我を忘れて助け出そうとしたのだと思います。
亡くなった女性は、霊的な摂理など知らなくても、内なる魂の声に、忠実に従って行動したのであり、肉体を失ってしまいましたが、向こうの世界で、魂はより美しく光輝いていることと思います。
そこまで滅私の行いはできなくても、人にやさしくすることはできます。
近所に住む足が不自由な一人暮らしの女性が、道端に座り込んでいました。近所のスーパーで買い物をした荷物が重たいらしく、たまたま自転車で通りかかったので、家まで運びました。
本当に簡単なことでしたが、うれしいことだったみたいで、わざわざお礼にと、お菓子を持ってこられました。
小さなことでも、ためらわずにすることで、とても喜ぶ人がいることを、あらためて実感しました。
やさしい気持ちで笑顔で人と接することも、世の中をほんの少しだけ明るくしていますで、小さな小さな奉仕です。
いやなことをされても、その人を許してやることも、形を変えた奉仕なのかもしれません。
イエス・キリストの有名な言葉に、「愛は摂理の成就なり」というのがあります。
頭で考えてしまうと、意味はさっぱりわかりませんが、もっと深いところでは「愛することは、神の御心」と、理解することができます。
魂は肉体という入れ物に押し込められ、普段は頭による思考により支配されているため、存在を意識することはありません。
しかし、危機的状況になり、頭で解決できなくなると、初めて表に出てきます。
若い時に感じた、何かをしなければならないという衝動は、もしかしたら内なる魂が、しきりに表に出たがっていたのかもしれません。
愛というものを、言葉ですべてを表現することは不可能です。
同じく魂も、言葉で表現することは不可能です。
なぜならば、この世の次元のものではないからです。
言葉で説明できない、証明できないものを、否定するのは、あまりにも愚かです。
愛は、見えるものではなく、感じるものです。
やさしくされると、うれしいのは、「魂」が「愛」を感じ取っているからです。
愛を信じられる人は、同次元の魂も信じられるはずです。
2014年1月26日日曜日
生きている!そばにいる!
昔からの知人であり、仕事でも係わっている人の長男が、昨年の12月に亡くなりました。家族と遠く離れて大学生活を送り、地元での就職も決まり、今春には戻ってくる予定でした。交通事故でした。
父親である知人をはじめ、お母さん、兄弟、おじいちゃん、おばあちゃんの衝撃、悲嘆は、想像を絶するものがあると思われます。起きてしまったことが、いまだ信じられないのかも知れず、悲しみやつらさと向き合っていくのは、これからなのかもしれません。大学生活を終えて、社会のために活躍していこうとしている若者が亡くなる理由は、どこにも見当たりません。
仕事にも誠実で真剣に取り組み、家族思いで、曲がったことが大嫌いな知人が、なぜ、このようなつらい経験をしなければならないのか、わかりません。
これから結婚をして、家族を持ち、たくさんの楽しい思い出をつくっていくことを、疑わなかった知人にとって、突きつけられた現実は、あまりにも非情で過酷と思われます。親として、育ててきた子供を亡くすことは、この世で最もつらい苦難の1つに違いありません。
私は、シルバーバーチの霊訓から霊的真理を学びました。死に対する考え方も一変し、怖いものではなく、魂が肉体から解放されることであり、むしろ喜ばしいことであることも知りました。しかし、まだ未熟なために、いざ自分の子供が突然の事故で亡くなってしまったら、平常心でいることは難しく、大きな悲しみや、喪失感を抱いてしまうような気がします。
ただ、忘れてはならないことがあります。それは、(肉体が)死んでしまった子供の魂は生きていて、目には見えなくても、家族と一緒にいるということです。
人は死んだら火葬され骨になりますが、生命である魂は、肉体とは関係なく存在し続けています。肉体がなくなった以外は、意識も、記憶もあり、性格も、すべてそのままなのです。
肉体のない魂は、地上(物理)的制約は何1つ受けませんので、地上のどこへでも瞬時に移動することができます。子供の帰るところは、ただ1つ、わが家です。家の中のいつもの居場所にいて、家族の様子を見ているだろうと思われます。
もし、家族が悲しみにくれ、会話もなくなり、雰囲気がすっかり変わってしまったら、きっと戸惑うことになるでしょう。大好きな人、愛する家族が、嘆き、悲しんでいる姿を見ることは、堪らなくつらいことです。
何とかして、そばで元気に生きていることを知らせたいと思うことでしょう。しかし、目の前にいることに、全く気付いてもらえないのです。「ここにいるよ!ここに!」と、肩に手をかけて教えようとしても、かけた手はむなしく、体を素通りしていくだけです。向こうの世界に行った人が、この世の人に存在を知らせる手段は限られていますので、自分にはどうすることもできないことを知り、深く失望していると思われます。また、交通事故という予期せぬ死であったため、自分の身に起きたこと、肉体をすでに失っていることに、気付いていなかったり、起きている現象が理解できず、混乱していることも十分考えられます。
一方、家族の心は、亡くなって1、2ヶ月では深い悲しみにより閉ざされていて、周囲とのかかわりを持ちたがらないのかもしれません。私は、死の悲しみを癒すものは、霊的真理の他にないと確信していますが、今、家族に伝えたとしても、素直に聞き入れてくれることは、難しいのかもしれません。
以前、同じく子供を交通事故で亡くされた知人に、「今も生きている」ことを伝える機会がありましたが、残念なことに拒否と思われる言葉を受けてしまいました。亡くなってから日の浅い家族は、ただ帰ってきて欲しい、元気な子供の姿をもう1度この目で見たい、この手で抱きしめたいと、願っているだけです。そして家族以外には、到底この気持ちは分からないと、思っています。私の行動は時期早尚であったのかもしれません。
しかし、亡くなった子供は、家族にどうしても「生きている!そばにいる!」ことを伝えたいのであり、霊的な知識を有するもの以外に、代弁してやることが不可能なことも確かです。
もし、「生きている」という事実が、家族により否定されれば、想いは一方通行になり、両者の魂は、つながることはありません。それは亡くなった人が最も怖れ、悲しむことであり、第2の悲劇と言えるのかもしれません。いくら「生きている」と言われたとしても、にわかには信じられないことは、理解できます。しかし、死ぬと何もかもなくなってしまうことを、証明するものは何もないのに対し、「生きている」ことを証明することは、しかるべき通路(霊能者)がいれば可能です。
すべては摂理に従っているために、証明される機会が与えられていないだけです。死別という深い悲しみは、魂を目覚めさせ、向上させるという、きわめて大きな意味がありますので、つらいことですが苦難にじっと耐える時も必要です。そして時期が来て、愛する人が生きている証が、もたらされることになるかもしれません。
いつの日か知人が、「(魂として)生きているかもしれない」と思うことができたのなら、両者のつながりは確実に深まり、「そばにいる」気配を、感じ取れるかもしれません。さらに「生きている」と信じ、親愛の想いを向け続けていれば、両者の魂が同調して、インスピレーション(直感)という形で、子供の想いが、知人の魂に、届けられることになるかもしれません。何も考えていないのにもかかわらず、心の奥底に思い浮かぶものを感じたのならば、それは向こうの世界から投げかけられた「想い」である可能性があり、見過ごしてはいけないと思われます。
向こうにいる人は、家族に愛する想いを伝えたいのであり、その一念で、向こうから家族の魂に働きかけています。向こうは物質世界ではありませんので、目に映る映像や、耳で聞く言葉で、この世の家族に、想いを伝えることは出来ません。
魂の世界ですから、五感ではなく、同次元の魂に、想いを投げかるしかありません。もし、その働きかけが功を奏し、この世に残してきた愛する人の魂に、想いが“ひらめき”として伝わったのなら、それは願いが叶った瞬間であり、向こうに行ってしまった人にとってこれ以上の喜びはないと思われます。
愛する者同士はいつも一緒であり、離れ離れになることは、決してないのです。
参考ページ: 「愛する人を亡くした人へ」
参考HP:「最愛の我が子やご家族 また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて~」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです。
2014年1月22日水曜日
魂に老いはない
私は、今52才です。時が経つのは早いものだと感じています。
同年代の人達は、10年もすると定年を迎えるため、その先の人生設計を真剣に考え始める頃だと思います。経済的な豊かさが、幸福な老後につながると考えている人も多く、それまでに少しでもお金を貯めたり、増やしたりして、老後の生活に備えようとしています。
ところで老後とは何なのでしょう?退職し、年金を受給し始める60代頃から、死ぬまでの間の時間と定義する人もいるでしょう。確かに肉体の老化は誰にでも訪れ、避けることはできません。私も、鏡に映る自分の顔を良く見ると、しわも増えて、年を取ったと感じます。あと30年もすれば、トイレに1人で行くこともできないかもしれませんし、もしかしたら肉体はすでにないかもしれません。
しかし、本当の自分は、鏡に映る姿そのものではなく、その姿を見て何かを感じている魂です。朽ちたり、老いたりするということは、物質特有の摂理であり、形態や性状、そして機能が劣化するということです。魂は物資次元のものではありませんので、その摂理は当てはまりません。
これまでに、楽しいこと、うれしいことを経験してきました。そして、つらいこと、悲しいことにも出会い、何とか乗り越えてきました。風に揺さぶられ、雪の重みに耐えてきた木のように、さまざまな出来事を経験して、魂は少しずつですが、強く、たくましくなっていると考えられます。
肉体は成長し、ある時点を境に老化に転じ、最後には朽ち果てます。しかし、魂は成長(向上)し続けるのみで、朽ち果てるのではなく、完成されていくものと思われます。肉体と魂では、たどる道が全く違うのです。老化するのは肉体だけであり、自分そのものである魂に老化はありません。年を取ったと嘆いたり、若さをうらやましく思う必要はないのです。
春になると桜の木は、一斉に花を咲かせます。幹から遠く離れた枝の先端にあるつぼみでも、他のつぼみと同じ時に花が咲きます。それは1つ1つのつぼみは木の一部であり、同じ生命が宿っていて、同調しているからです。1つの魂は、神という無限に大きい木に咲く1輪の花みたいなものです。全体から見れば1輪の花は、あまりにも小さい存在ですが、木を構成している一部には変わりありません。
そして、すべての花は木とつながっているため、同じ生命が宿っています。春に咲く桜の花は、1週間もすればはかなく散ってしまいますが、魂という花は、神の一部としてつながっているため、永遠に咲き続けます。それは、うれしいことでもあり、つらいことでもあるような気がします。
画家にとって色彩が、音楽家には音が、自己表現をするため必要なように、魂を表現するために媒体が必要となります。この世では、媒体として肉体が与えられています。しかし、魂にとって表現媒体となる肉体は、あまりに鈍重であり、思いのままを表現できるわけではありません。手袋をして縫い物をするようなもどかしさや、服を着て水の中を泳ぐようなぎこちなさが、あると思われます。
なぜ、神が地上を生きる魂に、鈍重な肉体を与えたのかわりませんが、きわめて進化の低い未熟な魂が、ありのままを表現してしまったら、秩序や平和を保つことが難しいため、鈍重な肉体を纏わせ、表現が制約を受けることにより、地上の秩序や平和が、どうにか保たれているのかもしれないと、考えてしまうことがあります。
肉体を動かす力は、同じ物質次元の食物から補給するのに対し、霊的次元にある魂は、霊的次元の力、つまり霊力が原動力となります。神とのつながりが深まれば、深まるほど、神の力である霊力が魂に流れ込むと思われます。霊力は、森羅万象を起こす力であり、人にとっては生命力であり、病を癒す力であり、ことを成し遂げさせる力でもあります。
しかし、シルバーバーチが繰り返し注意を喚起していますが、取り越し苦労や、不安感、恐怖心を抱くと、せっかくの霊力を受け取る妨げとなってしまいます。経験的にも、不安でいっぱいな状態で、持てる力のすべてを発揮できたことはありません。一方、ここぞという時に、驚異的な力を発揮して成功や栄冠をつかむ人がいます。そんな人は、障害となる不安や怖れがすべて取り除かれて、揺るぎない自信が生まれ、魂がいつも以上の霊力を受け取り、実力以上の力を発揮したのかもしれません。
神とのつながりを深くして、生きる力である霊力を十分に受け取るためには、自らの心が生みだす迷いや不安を一掃し、心を穏やかにして、神とのつながりを求めなければいけません。神とのつながりを求めなくても、困っている人や傷ついている動物を見て何とかしてやりたいと思った瞬間、つらく悲しい思いをしている人を見て励ましたい勇気付けたい慰めたいと思った瞬間、世の中を明るく平和にしたいと、心から思った瞬間に、神の心と「愛」で同調します。同調をすれば、神とのつながりが深まりますので、霊力が自らの魂に流れ込んできます。そして流れ込んだ霊力は、行動するための原動力となり、肉体により表現(実行)されることになります。
そのことを、心身を病んでいる人にヒーリングをしている時に、実感します。ヒーリングする前は、良き霊力の通路となり、患者の病が癒されることを祈念しつつ、無心になることが必要なのですが、私はまだ未熟なため、心配ごとが心をよぎることもあります。そんな時には、霊界との同調はうまくいかず、治癒力の大きな流れを感じることはできません。しかし、心が穏やかで、愛を誰かに分けてあげたいと思うような時は、すんなりと同調ができて、治癒力がふんだんに流れていくのを感じます。つまり、十分な霊(生命)力を受け取るためには、心を穏やかにすること、他者を思いやる気持ち、愛の想いが、最も大切だと思います。私は霊力が流れていくのを、感覚的に感じることができますが、たとえ感じられなくても、すべての人に同じことが起きていると確信しています。
肉体はどのようなことをしても、時とともに老いていくことは摂理であるため、避けられません。目に見えるものがすべてだと思ってしまうと、魂は存在せず、死ねば終わりという、深刻な事実誤認をしてしまいます。老後は人生の黄昏ではなく、次の世界へ移行する準備期間であり、地上人生の集大成とも言える、大切な時間です。出来るだけ長生きをして、死ぬまでにたくさん楽しいことして過ごすよりも、それまでの経験を活かし、たとえ小さなことでも、こつこつと世の中のため、人のために役立つことをする方が、はるかに賢明です。なぜなら、この世での楽しい思い出は、単なる1つの記憶に過ぎませんが、他者への奉仕は魂を向上させ、永遠の価値を持つからです。誰しも肉体の死の後に、いやでもそのことを知ることになりますが、なるべく早く知っておくのに、越したことはありません。
これから年を取って体が思うように動かなくなったとしても、1人でも多くの人が正しい知識(霊的真理)に出会い、受け入れる手助けをしていかなければならないと思っています。
2014年1月12日日曜日
ヘレン・ケラー
小学生の頃は、校庭で遊ぶのが大好きでした。
じっとしているのが苦手で、読書はあまり好きな方ではありませんでした。
学校の図書館に足を運ぶことはあまりなかった私でも、図書館に偉人伝の本が置いてあるのは知っていました。
シリーズになっていて、エジソン、キュリー夫人、ナイチンゲール、シュバイツァーなどの本が、十数冊置いてあった記憶があります。
その中の1冊に、ヘレン・ケラーの本がありました。
幼少期の病により、視覚、聴力を失ったため、意志の疎通が全くできず、粗暴でわがままで、親も手がつけられない子供になっていったヘレン・ケラーが、サリバン先生と出会い、献身的かつ厳しい教育を受けて、変わっていきます。
もともと優れた知性の持ち主であったヘレン・ケラーは、さまざまな本を読み、勉学を積み、優秀な成績で大学を卒業します。
その後は、盲人の就労支援活動をはじめとして、婦人参政権、公民権活動などを積極的に行いました。あらゆる社会的弱者のために一生を捧げたと言って良いと思います。
サリバン先生との出会いにより、閉ざされていた心が開かれていったことは周知の事実です。
ヘレン・ケラーがサリバン先生により言葉を初めて教えられた時の話は、あまりにも有名です。
その時の様子を著書で、こう語っています。「彼女は私をツタのからまるポンプ小屋へ連れてゆき、彼女がポンプを漕いでいるあいだ、その水をコップで受けるように指示しました。そして空いたほうの手でふたたび力をこめてw-a-t-e-rと書きました。冷たい水の筋が私の手を流れているあいだ、私は全身の注意力を先生の指の動きに集中しながら、じっと立っていました。突然、私の中に不思議な感動が湧きあがりました。おぼろげな意識。遠い記憶のような感覚。それは、まるで死から甦ったような感動でした!先生が指を使ってしていることは、私の手の上を走りぬける冷たい何かを意味しているのであり、こうした記号を使えば私も人に意志を伝えることができるのだということを、私は理解したのです。それは、けっして忘れることのできないすばらしい1日でした!」。
そして、その日のうちに「give」、「go」、「baby」などの単語を30も覚えてしまったそうです。
後にそれが精神的目覚めであったと語っています。
ちなみに「奇跡の人」という映画がありましたが、奇跡の人はヘレン・ケラーのことではなく、教育者としてのサリバン先生のことを指します。
献身的な周囲の支えもあって、たくさんの知識を得ながら自立した女性となり、尊敬をあつめていきます。
しかし、小学生の私には不思議に感じたことがありました。なぜ3重苦の彼女が、誰よりも明るく、前向きに生きてられたのか。
自分が生きていくだけでも、想像を絶するほど大変なのに、世の中のために、人のために、並外れた行動力で社会福祉活動ができたのか。
偉い人だからと言ってしまえばそれまでですが、最近になって、ようやく疑問に対する答えが見えてきました。
偉人伝には書かれておらず、あまり知られていないことですが、ヘレン・ケラーにはサリバン先生とともに、衝撃的な出会いがありました。
それは18世紀に生きたスウェーデンボルグの書籍でした。
その出会いにより、彼女の心に、明るい真理の光が差し込むことになります。
スウェーデンボルグは18世紀に活躍した科学、数学、哲学など、あらゆることに精通した偉大な知性の持ち主であり、ゲーテやユングなど、多くの芸術家や思想家にも影響を与えています。
頭脳明晰で、極めて論理的な思考をするスウェーデンボルグでしたが、50代になり、今までの考えを根底から変える驚異的な体験をします。
それは、生きながらにして死後の世界である、霊界を探訪する体験でした。
魂が肉体から離脱し、霊界を巡り、そこでの人々の暮らしを垣間見てくるのです。
臨死体験をして、すでに亡くなっている人に会ったり、光の体験をする人はいますが、その世界よりも、さらに先にある、霊界を見て巡ることを許されたのです。
その希有な体験と、そこから学び得たものを、世の中に知らせることが、自分に与えられた使命と信じ、多くの著述を遺すことになります。
当然のことながら、優秀な科学者であった、スウェーデンボルグが、ある日を境に霊界などという荒唐無稽なことを言い始めたと、周囲の人は彼の頭はおかしくなってしまったと思いました。
そして理解されないまま、英国の地でこの世を去ります。
そして百数十年の時を経て、彼の著述である「天国と地獄」にヘレン・ケラーは出会うことになります。
視覚、聴覚を失ったことは、周囲の状況を知るということにおいて絶望的なハンディキャップになりますが、周囲からの影響を受けることも最小限となり、内面と向き合うことになります。
幼い頃から、隔絶された心の世界の中で、うごめく何か、叫ぼうとしている何かを、常に感じていたのではないかと思われます。
そして、15,6才の頃に書斎にいながら、意識は遠く離れたギリシャのアテネに行っていたという、いわゆる幽体離脱という決定的な体験をすることになります。
その体験について、「私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や肉体の制約を完全に超えていることを悟ったのでした。
何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと“見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした」と、後述しています。
内なる魂に目覚めた後に、導かれるようにスウェーデンボルグの著書に出会い、多くの知識や摂理を獲得していきます。
ヘレン・ケラーが書いた「私の宗教」という本の中に、スウェーデンボルグことが多く書かれています。
印象的であった文章のいくつかを紹介すると、「天界での生活とは、すべての物質的制約から自由になった状態と考えるのがいちばんよいだろう、とスウェーデンボルグは明快で信頼すべき啓示をもたらしました。もしそれが本当だとすれば、天界での教育について、私達は明確な観念を持つことができるでしょう。つまり、天界というのは霊の体をまとった魂たちの広大な領域であり、そこではすべての魂がひとつの壮大な“役立ち”のシステムの中に相互に関係しながら結び合わされています。その集団の中ではすべての個人が、自分をより高く向上させ、それによって全体の美を拡大させることのできる可能性や関心や特殊な知識をもっています。そこで、それぞれの個人は、お互いに他人に依存しながらも自分なりの仕方でより完全な成長を遂げ、ますます増大してゆく幸福感に応じてより多くの責任感を持つようになるのです。」と書かれていて、その見出しは「役立ちの生活」となっています。
また「スウェーデンボルグは霊界での引力の法則に相当するものが愛であることを悟り、愛という放射の源泉が、太陽にのように実際にすべての霊魂に生命を与え、すべての被造物に美を与えるのを見た、と証言しています。」と書かれています。
すばらしい表現だと感じるとともに、その内容は、霊界からの通信と多くの点で符合しているものと思いました。
ヘレン・ケラーは3重苦という、想像を絶する苦難を経験し、若くして魂に目覚め、霊界の存在や神の摂理を受け入れていたことが良くわかります。
障害は神から与えられた試練と受け止め、愛や奉仕が最も大切であり、神の御心に適った行為であることを、深く理解していました。
だからこそ、誰にでも明るく笑顔で接し、優しく弱者を励まし、世の中のために、人のために一生を捧げることができたと考えています。
怯むこと無く、苦難に立ち向かい、他者を愛することで、神に愛された、美しくも偉大な魂の人です。
最後に、心に残った、ヘレン・ケラーの言葉を引用します。
「私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」
2014年1月10日金曜日
病気は魂を浄化させる
今日は仕事が休みなので、障害者施設に行ってきました。あたたかい職員の方に囲まれ、皆さん元気にしていましたが、気になるM君は相変わらず部屋で一人でテレビを見ていました。
重度の身体障害があり、いつもベッドで横になっています。知的障害は全くありませんので、普通に会話はできます。昨日は病院に行って診察で疲れてしまい、腰痛がひどくなり顔をしかめて耐えています。今までに何回も手術をしていますが、痛みから開放されたことはなさそうです。腰に手を当ててヒーリングをしながら、話をします。
彼は、こんな思うようにならない体で、痛い思いをしながら生きていて、何の意味があるのだろうかと常に考えています。そして時々「死にたい」ともらします。そこに彼の弟がお見舞いに来ました。彼もまた兄と同じ先天性の疾患があり車いすでの生活ですが、勉学やスポーツにも励み、快活そのものでした。兄をいたわり、気遣う言葉をかけていました。まだ20歳くらいですが、常に前向きに生きようとしているのが、その顔つきや、言葉から感じられました。M君と同じ病気を抱えているのに、何でここまで違うのだろうと思うとともに、同じ病気の弟が心の支えになっていることに安心しました。
M君はこれから数十年、障害と痛みを抱えて生きていくことになりますが、それに負けて投げ出すことは許されません。M君の病いも摂理により生じて、想いや行いのすべてに因果律という摂理が働くからです。つらさから逃げだしても、もっと過酷なつらさが待ち受けているだけです。その日が来るまで、精一杯生きるしかないことを、あらためて伝えました。
摂理は時に冷酷にも見えますが、公正と秩序をもたらします。私も車の運転をしますが、もし交通ルールがなかったらどうでしょう。ある人は猛スピードで車を運転し、交差点で信号機がなければ混乱し、路上駐車した車で道が塞がれるかもしれません。交通を円滑にして安全を保つためにはルールが必要です。宇宙が開闢し、地球という惑星が誕生して太陽の周りを回っているのも、海中に生物が発生して進化して人間が生まれたのも、種が芽を出すのも、そして花を咲かせ散っていくのも、目に見えない摂理に則って行われています。
すべてを支配している摂理の枠から出ることは出来ませんが、摂理があるからこそ、世界の秩序と公正は保たれています。人が生まれ、死んでいくのも、病気が生じるのも摂理に従ってのことです。想いや行いのすべてに摂理は寸分の狂いもなく働いています。
ただ、この世では因果律の働きがわかりにくくなっていて、結果として生じた出来事と、原因となる過去の想いや行いの関係を、明確に結びつけることは、容易ではありません。そのため生じた出来事を偶然とか運として片付けてしまいがちです。今、起きている出来事は、過去のどこかで蒔いた種の結果に過ぎません。因果律という摂理が確かに存在することを、気付かせるためには、何かしら体感的なものが必要となります。
病気の苦痛は最も体感的なものであり、そのつらい経験により、過去の過ち(摂理に背いた想いや行い)に気付き、それを正し、摂理に則って生きていくようになります。そして健康な時に追い求めていたことより、はるかに大切なことに気付くことになります。
それは「生命」であり、「愛」です。それ以外のことは取るに足らないことばかりです。生命は肉体を超えた魂であり、魂は神の一部であるために、愛が最も大切であることを強烈に意識していきます。生命と愛の大切さに目覚めたことは、魂が目覚めたことを意味します。生きている目的は、魂を向上させるためです。そのためには、まず魂が目覚める必要があります。
病気になると、何も悪いことをしていないのに何で私がと思ってしまうのは、この世という限られた視野から眺めているためであり、霊的次元から見れば、魂を深い眠りから目覚めさせるための、けたたましい目覚まし時計の役割を果たしています。
すべての出来事は、決して偶然や運、不運ではなく、何らかの原因により起きていることが判ってくることは、因果律という最も根源的な霊的真理を受け入れつつあることになります。もし因果律がなく、病気というものも存在しなければ、摂理に背いていても気付かせるものはなく、魂は際限なく神から遠ざかり、暗く、陰鬱な世界を、あてどもなくさまようことになると思われます。そのままでは、愛というものからかけ離れた荒涼とした世界に、魂が迷い込んで抜けられなくなってしまうかもしれません。
因果律の働きにより、摂理に背けば神から一歩遠ざかり、遠ざかっていることを苦痛により知らされ、摂理に沿うように軌道修正されていきます。この世に生まれた時の魂は無垢でも、さまざまな想いや行いにより、魂のありさまは変わっていきます。摂理に適った想いや行いを積み重ねていくと、魂は美しくなり、輝きを増していきます。反対に摂理に背いた想いや行いにより、魂は汚れていき、輝きを失っていきます。病気は、大切なことに気付かせ、神に向かっての正道を歩ませるためにあります。そして、耐えがたいと思われる苦痛により、魂の汚れは浄化され、本来の輝きを取り戻していきます。
苦痛は人を不幸にさせるものではなく、魂を浄化させ、神への道へと導くものです。
2014年1月1日水曜日
不安と恐怖に打ち克つ
悲しくつらい出来事があると、心は痛みます。肉体の痛みは、鎮痛剤である程度少なくすることはできますが、心の痛みはそんな訳にはいけません。
肉体の傷は目に見えますが、心の傷を見ることは出来ず、傷の深さは本人すら計ることはできません。
さまざまな出来事や言葉により、心を傷つけられ、痛みを生み出しますが、肉体の傷もふさがっていくように、心の傷もいつかはふさがり、痛みはなくなってくるはずです。
目の前にある現実を受け入れると、時として耐えられないと思うほどの痛みに襲われることもありますが、神はこの世に時を与えていますので、時間とともに心が癒されていきます。
人は肉体を携えた魂です。神へと続く階段を魂が1段1段登っていく永遠の道です。
心の痛みを感じなくなっていくのは、魂が1段、向上した結果だと思われます。
平地を歩くのとは違い、上に登って行くためには力が必要になります。より高く登っていくにつれ、階段は急になり、出会う苦難は厳しいものとなってきます。
そうでなければ苦難と感じないはずであり、苦難と感じないようであれば魂の向上は得られません。
今度ばかりは乗り越えられそうにないと思われる苦難であっても、乗り越えられるはずです。
なぜならば、今までも乗り越えてきたからこそ、神の法則に従って与えられたはずだからです。
しかし、事実があまりにも深刻で、衝撃的であったりすると、まともに受け入れてしまうと、重圧に耐え切れなくなり、感情のコントロールを失い、耐え難い悲しみや不安や絶望感に襲われるのではないかと思ってしまうことがあります。
心がバラバラにされ、修復不可能な状態に陥ってしまうのではないかと、無意識のうちに心を守る防衛反応が働き、その事実を心の奥に封印してしまう場合があるのかもしれません。
正面から向き合うことなく、事実を受け入れなければ、なかったかのように過ごすことができるのかもしれません。
繰り返しになりますが、人は魂を向上させるために生きています。
経験したこともなく、全く予期しなかった、つらい出来事でも、無我夢中で危機を切り抜けていく過程で、魂は鍛えられ向上していきます。
これは無理だと思われたことでも、乗り越えられるはずです。もしそうでなければ、この世は挫折だらけになり、絶望感と無力感に包まれたものとなってしまいます。
とても耐えられないと思われた出来事も、実は乗り越えていくことが出来たのです。
しかし、封印してしまうと、つらさからは逃れられ、一見賢明な方策に思えますが、苦難を乗り越えて魂を向上させる機会を1つ失ったことを意味します。
事実が心に封印され、忘れてしまったかに見えても、その事実を消すことは出来ません。その時に表すことのできなかった、はりさけそうな想いが、たくさんあるはずです。
事実に対して、悲しみ、恨み、怒り、憎しみなどの様々な想いが、たとえ表現されなくても無意識のうちに、心に湧き上がっています。
そして幾重にも積み重なっていき、心のしこりとなっていきます。
そして魂に影響を与えていき、魂のありさまが変わっていきます。
肉体は魂に従いますので、病気として表在化していくことになると思います。
よって肉体に顕れた病変は、封印された出来事から生み出された、悲しみ、怒り、憎しみなど様々な負の感情の集まりが形を変え、目に見えるものとして顕れたものと考えられます。
もしその出来事を、誰かのせいにしたり、不運を嘆いたり、人を妬んだすることで、正面から向きあうことをしなかったとしても、摂理に背いていることになり、同様の結果を生じることになると思われます。
つらくても正面から受け止め、悲しむ時は悲しんで、痛みを感じながら、乗り越えていくことが、摂理に叶った取るべき道だったはずです。
心の痛みやつらさを経験することより、魂は向上しますが、その事実を封印してしまい、痛みやつらさを感じることがなければ魂の向上は得られません。
この世で与えられた苦難として、痛み苦しむはずだったのであれば、何らかの別の機会で相応の苦難が与えられることになるはずです。
そして事実を受け入れた時に味わったであろう心の苦痛と、同等の苦痛を後に経験し、魂を向上させることになると思われます。
神の摂理は完全であり、形を変えて苦痛が与えられて、魂を向上させることになります。
病気として与えられた苦難を、今度は乗り越えていかなければいけません。
乗り越えられないと思わせるのは、病気に対する誤解であり、恐怖であり不安だと思います。
病気に限らず、不安や恐怖は、ことを成し遂げる時の妨げとなり、力を十分に発揮できなくなります。
病気を魂の次元で理解し、不安や恐怖を払拭できたのなら、必ず乗り越えられるはずです。
前にも書きましたが、不安や恐怖に心が支配されると、十分な治癒力を受け取れなくなります。
不安や恐怖を感じたり、摂理に背く想いを抱いてしまったりして、事実と向き合わなかった過去と同じ過ちを、病気として形を変えた苦難において、繰り返してはいけません。
摂理に背いた想いを抱かないか、不安や恐怖を退け正面から向き合うことが出来るのかを、試されているのです。
もしそれが出来たならば、病気は乗り越えられて、治癒につながっていくはずです。
病気は不安や恐怖に打ち克つことが試されている苦難なのだと思います。
不安や恐怖に打ち克ち、魂が肉体を支配すれば、神からの治癒力を存分に受け取ることができ、病気の進行は抑えられ、痛みを感じることはないと思っています。
反対に不安や恐怖に支配されたら、ガンを抑えこむ力は減弱し、病気は進行し、痛みを感じることになると考えています。
ガンは死という誤った認識があまりにも広まり、多くの人が不安や恐怖を感じています。
ガンは肉体を蝕む得体の知れない病気ではなく、魂を向上させるために与えられた試練です。
神は愛であり、死に至らせるための病としてではなく、過ちを正し、大切なこと(摂理)に気付かせるために与えた病です。
ガンは肉体に対する治療も必要ですが、それ以上に魂のありさまを変えていくために、心を意識し続けなければいけません。
心を穏やかにして、すべてに感謝し、他者を慈しみながら日々を過ごせば、魂の平和、協調、調和が取り戻せるはずです。
そうすれば支配下にある肉体も従い、ガンも癒やされていくはずです。
病巣をなくすのが治療ではなく、不安や恐怖に打ち克ち、心を穏やかに平和に保つことこそ、根本的な癒やしになります。
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