人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2015年4月5日日曜日
早世した子どもたち
一昨年の12月に、長男を交通事故で亡くした友人の姿を、今も見ていません。
中学時代の同級生でもあり、仕事上でも付き合いが数十年続いて、少なくても1ヶ月に1度は顔を合わせていました。
はっきりと物を言う性格であり、依頼した仕事はきっちりとこなし、とても信頼できる人間です。
仕事の関係は前と変わらず続いていますが、事故の後と前で、質が変わったということを全く感じません。
かなり強気の性格で、自分の弱いところを他人には見せたくないところがありました。
そして、同情の言葉をかけられるのが、何より大嫌いなのだと、私は思っています。
先日、病気でお子さんを亡くされた人たちが書き込むブログを見ました。
周りの人が想像している悲しみ、苦しみとは、次元が違うことだけは、はっきりと分かりました。
亡くなった事実は確定され、寸分も変えることはできません。
いくら泣いたとしても、悲しみに終止符が打たれることはありません。
経験してない人には、その悲しみや苦しみは、とても分かりません。
心から慰めることのできるのは、同じ経験をした人だけです。
多くの子供たちは何事もないように、学校に入り、社会に出て、結婚をして家庭ができて、苦楽を味わいながら成長していく中で、どうして我が子だけがいなくなってしまったのか。
そんな問いかけを、お子さんを亡くされたお母さんたちは繰り返されている様でした。
その中に、病気によりわずか生後2週間で、お子さんを亡くされたお母さんがいました。
この世に生まれた意味があったのかと、自問されていました。
もし、時間で計るのであれば、2週間という期間は長く生きた人の何百分の一、いや何千分の一しか、生きていた意味がないことになります。
功績で計るとしたら、まだ何もしていませんので、意味はなかったということになります。
不摂生をして病気になるのは自分に原因がありますが、生まれたばかりのお子さんに、落ち度があって病気になるとはとても考えられません。
落ち度がないにもかかわらず亡くなったので、責任は自分にあるのでははないかと、お母さんたちはとても苦しまれていました。
お子さんの死が、お母さんに深い悲しみを与えたことは、紛れもない事実です。
不幸のどん底に突き落とすのであれば、むしろ生まれてこなかった方が良かったと、考える人がいるかもしれません。
どんなに短くても、この世に生まれて来たのは、きっと意味はあるはずであり、その意味をお母さんは必死に探しているように思えました。
ご家族にとってお子さんの死は、悲劇以外の何者でもありません。
悲しみや苦しみを一生背負って生きていくとしたら、とても不幸な人生に思えてしまいます。
死んですべてが終わりなら、人生の敗北が決定されたように感じ、耐え難い不公平感に襲われるでしょう。
しかし、生命は肉体の死をもって完結せずに、死後も生は続いているとしたら、話は大きく変わってきます。
死後の生は、科学では証明されていない魂が存在していることが前提となります。
魂の存在については、賛否両論があるのは仕方ないと思っています。
必要とする時期が来た人に真実はもたらされますが、魂は存在し死後の生があることは間違いのない事実です。
あの世は、この世のおまけのような世界ではありません。
想い(思念)の世界であり、ありのままが表現されてしまう世界です。
ありのままが表現されても、恥ずかしくないように準備するのが、この世です。
想いを表現する媒体が肉体であり、死とは肉体という媒体からの解放です。
想いが実在であり、肉体のないあの世こそ、偽りのない実在の世界です。
実在の世界で、愛するお子さんは、さみしい思いをすることなく、元気に楽しく生きています。
あの世で楽しく生きているお子さんと、この世で悲しみにくれて生きているご家族のギャップがあまりにも大き過ぎます。
そのギャップを、少しでも埋めていくためには、正しい知識を持つしかありません。
お子さんへの愛がなくならない限り、再会は必ず果たせます。
これは夢や希望ではなく、間違いなく訪れる現実です。
もし、死んだ後にも生があるのであれば、生まれる前にも生(過去生)があると考えるのが妥当です。
しかし、過去生の記憶は魂の奥に仕舞い込まれて、魂の向上に必要と判断された時以外は、現生で引き出すことはきわめて困難と思われます。
仮に今、過去生を知らされたとしても、正しいと保障するものは何もありません。
たとえ、正しかったとしても、自分に納得のいかないものであれば、安易に受け入れられるものではありません。
従って、過去生があることだけを、承知していれば良いと思われます。
人生の出来事は、すべて因果律の働きで起こります。
お子さんが亡くなった原因は、誰一人として同じではないと考えられます。
2週間という短い人生を終えたお子さんの病気が、先天性(生まれつき)のものだとしたら、次の2つのうちのどちらかです。
1つは、病気は偶発的に生じたのであり、それ以上のものは何もない。
もう1つは、病気は偶発的なものではなく、何らかの原因があって生じた。
もし、偶発的に生じたのであれば、運が悪かったとしか言いようがありません。
原因があって生じたのであれば、受精した瞬間に病気は決定していたので、その原因は現生にはなく、受胎前の過去生にあると言うことになります。
過去生については、具体的に知るすべはありませんが、病気を生じさせた原因(目的)について、私なりに考えてみました。
病気は、自然法則に反した想いや行い、言い方を変えると不自然な生き方や考え方をしていたことが原因で、その結果として生じます。
病気には苦痛が伴いますが、(自然法則に背いた)償いであるとともに、魂を目覚めさ、成長させるという意味があります。
償いとしてではなく、さらなる向上を目指して、あえて苦難の人生を選択して病気の肉体に宿る、進化した魂の場合も考えられます。
どちらにせよ、病気は魂の向上のために存在していることになります。
苦痛を経験して償いをしたり、さまざまな経験を通して大切なことを学びながら成長してくためには、わずか2週間のこの世の生では、あまりに短すぎます。
では、2週間という短いこの世の生に、目的はあったのでしょうか?
自分のためではなく、ご家族のために生まれてきたのではないでしょうか。
もしかしたら、亡くなった赤ちゃんは、周りの人よりも向上した魂で、この世で学ぶべきものはすでになかったのかもしれません。
目的は、ご家族がこの世で大切なものを学び、成長するためであり、喜びの中で生まれ、確かな足跡を残し、役目を果たして直ちにあの世に旅立ったのかもしれません。
不幸にさせるためではなく、残されたご家族の魂を目覚めさせ、そして成長を促すために、もっとも深い悲しみを与えるタイミングで亡くなったと、思えてなりません。
残されたご家族にとっては、信じらない出来事であり、現実を否定してしまうかもしれません。
しかし、お子さんの死は確定された事実であり、現実を認めざるを得ません。
現実から、とめどもなく悲しみや苦しみが生まれて、その苦痛から、無意識に逃れようとしているかもしれません。
いくらかでも悲しみや苦しみが和らぐような、望みを持つのは、当然の成り行きです。
「きっとまた逢える」という望みは、暗闇の中の光となり、この世を生きて行く、いくばくかの力になるのかもしれません。
その望みを叶えるためには、魂として生きているという前提が必要です。
ほとんどの人は、魂の存在など意識せずに生きていますが、お子さんを亡くしたご家族にとって、魂の存在が否定されれば、「また逢える」という望みが叶うことはありません。
お子さんの(魂の)存在を直感的に気付いているお母さんもいますが、多くのお母さんは魂となって、天国で生きていると信じたいと思っています。
魂とは何なのか?
生命とは何なのか?
いくら頭で考えてみても、答えは見つかりません。
それでも問い続けていると、それまで眠っていた自らの魂が呼び覚まされ、魂からの声(インスピレーション)の中に、その答えを見つけるかもしれません。
根拠など何もなく、少しでも心の平穏を得るためにそう信じるしかなかったとしても、長い間、強く信じるようにしていると、自分の中で徐々に真実になっていくのかもしれません。
絶え間ない悲しみ、苦しみや痛みには意味があり、神の摂理により、真実にたどり着けるようになっていると思います。
生命とは魂(霊)という真実に。
これ以上ないと思われる悲しみは、自分へ向ける限りない愛であることを、お子さんは十分に分っていると思います。
いくら泣いてもかまいませんが、お子さんの姿は目に見えなくても、魂は傍にいることだけは忘れないで下さい。
やさしく声をかけて下さい。
想いをそっと返してくれるでしょう。
しっかりと魂で受け取って下さい。
ところで、向こうで待っているお子さんは、どんなお母さんに逢いたいでしょうか?
きっと、成長したお母さんに逢いたいはずです。
無理をしなくても、生きているだけで、成長しています。
悲しみや苦しみに耐えて、この世に生きていること自体、成長しています。
今すぐ逢いたいと思う気持ちを抑えて生きることも、成長につながっています。
悲しみ、苦しみは行き場を失った愛であり、いつの日か、人をいたわり思いやる想いに変わっていくかもしれません。
その想いを表現すれば、さらに成長していきます。
亡くなったお子さんの分まで生きようとする気持ちは、お子さんが託した願いそのものであり、大きな成長につながっています。
泣いてばかりでも、少しずつ前を向いて進んでいけると、お子さんは信じています。
信じていなければ、愛するご家族を残して向こうに行ってしまうことはなかったでしょう。
お子さんがこの世に生まれたのは、お母さんがこの世に生まれた目的を果たすのを助けるためでもあります。
悲しみや苦しみに耐えて生きてさえいれば、自然に強く、優しくなっていき、お子さんが逢いたいお母さんになれるはずです。
数十年してお子さんと再会した後に、思い悩ませている問に対する答えをはっきりと知り、きっと大きな喜びに包まれるでしょう。
その日は、遠い先のように思えますが、少しずつ近づいています。
その手で、もう1度、思い切り、抱きしめられます。
悲しい別れは、無上の喜びのためにあります。
喪って悲しい思いをした分、より大切なものを手にします。
すべては魂の成長のために配慮されていて、計画通りに進んでいます。
最も大切なものは愛であることを教えてくれたのは、お子さんの生命です。
お子さんの生命は、愛そのものです。
参考ページ: 「お母さんへ」
「生きている!そばにいる!」
「亡くなった愛する人とつながる」
「ママへ」
「最愛の子を亡くした人へ」
参考HP:「最愛の我が子やご家族を また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです。
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