2025年12月14日日曜日

病気になった理由


数年前から、逆流性食道炎を患っています。

命に関わる病気ではありませんが、不快な症状に悩まされています。

胃の入り口の筋肉が緩んでしまうために起こりますが、ストレスも大きく関わっていると言われています。



思い起こすと、私の亡くなった父親も同じ様な症状にずっと悩まされていました。

どうやら、肉体的な素因を引き継いでしまったようです。


人間は、魂(霊)、精神、肉体から成り立っています。

それぞれが存在している次元は異なります。

全ての病気の原因は、そのどこかの次元に存在しています。



逆流性食道炎は、胃の一部の機能に問題があるために起こるので、肉体的次元に原因があります。

ストレスも関わっているので、精神的次元にも原因があると言えます。

遺伝したのであれば、この病気になることが生まれる前に決まっていたので、霊的次元にも原因があると言うことになります。

このように病気の原因は、多次元に渡って存在することが多いです。



病気は医者が治すものと考えている人が多くいます。

肉体的(物質的)次元の病気であれば医者は治すことができますが、霊的次元の病気は治すことはできません。

医者が分るのは、細菌など物質的次元の原因、ストレスなど精神的次元の原因の一部であり、霊的次元に原因が存在することを認めていないからです。



現代医学で原因不明とされているガンや膠原病などは、霊的次元に原因が存在すると考えられます。

原因がなくならなければ、病気は存在し続けます。

病巣を切除したとしても、薬で症状が改善しても、根本から治ったわけではなく、ぶり返したり、再発したりします。



霊的次元の原因(目的)には、どんなものがあるのでしょうか?

本人が生まれる前に病気になることを決めていた場合です。

先天的な病気や障がいなどはそれに当たりますが、多くの目的は病気(障がい)を通して、学び成長するためと考えられます。



成長を阻害している霊的な原因を取り除くために、病気になる場合もあります。

原因として挙げられるのは、過去生における過ち(カルマ)です。

病気の苦痛によって過ちを償うことにより、原因が取り除かれて、再び成長して行くことができます。



エゴの働きが強くなり、成長が妨げられている時にも、病気になることがあります。

例えば、お金や地位など地上的なものを追い求めるのが、生きる目的になっている人がいます。

そんな生き方をしていては、成長することはできません。

けれども、過った生き方をしていると、本人が気付いていなければ、どうすることもできません。



そんな人が、命にかかわる病気になったとしたらどうでしょう?

今まで追い求めていた地上的なものが無力であり、価値がないことに気付くでしょう。

それまで気に留めることもなかった、「生命」や「愛」など霊的なものに意識が向くようになります。



外からは、病気になって人が変わったように見えるかもしれません。

実態は、本来の自分を取り戻して、予定されたシナリオに沿って成長して行くために、因果律の働きにより、病気になったと考えられます。

そんな人の中には、大切なものに気付かせてくれたと、病気に感謝する人もいます。



病気になり、霊的に価値のある生き方に変わった人が多くいます。

以前、このブログにも書きましたが、阪神タイガースに横田慎太郎さんという将来を嘱望された選手がいました。

22歳の若さで脳腫瘍になり、再起をかけて手術をしましたが、目に障がいが遺り野球を続けられなくなりました。

重い病気になり、誰かを励ましたり、苦しんでいる人を助けようとする気持ちが強くなったそうです。

諦めないことの大切さを伝える講演活動を、28歳で亡くなるまで続けました。

病気にならなければ、野球選手として素晴らしい成績を残せたでしょう。

けれども、ご自身が困難や障害に立ち向かって行く姿を見せて、多くの人の魂を鼓舞し、成長を促すことにつながるこの人生の方が、霊的に価値があると考えられます。



病気になったことを嘆いたり、病気を憎んだりする人がいます。

そのような感情を持つと、大切なものに気付くことも、変わることもできません。

病気は結果です。

原因を作ったのは自分です。

何が原因だったのかを、心を鎮めて見つめ直して下さい。

霊的法則に照らし合わせて、過った生き方や考え方をしているのに気付いたのなら、直ぐに改めましょう。

気付くことができなければ、知ることのできない過去に原因があったり、霊的な目的が存在しているのかもしれません。



病気になったのは、万物を支配している法則の働きによるものです。

その法則を創ったのは神です。

神の創った法則の隅々にまで、神の愛が行き渡っています。

従って、苦しめるため、痛めつけるためではありません。



原因はそれぞれ違いますが、目的は同じです。

苦しみや痛みが強い時には、望ましい自分に変わるために、肉体のある地上でしかできないこの経験がどうしても必要だったと、言い聞かせて下さい。



後に、肉体を脱ぎ捨て、魂が露わになった時、浄化された自分の姿を目の当たりにして、悦びを感じるはずです。





2025年12月7日日曜日

愛する人との別れの意味


地上では、さまざまな感情が生まれます。

怒り、悲しみ、怖れなど、肉体を持つ人間として、避けられない感情です。



怒りが生じると、顔が紅潮して、眉間にしわが寄るなどして、肉体によって表現されます。

悲しみが生じると、泣いて、目から涙が流れます。

すごくうれしい時にも、人は泣いて涙を流します。

悲しくて泣いているのか、うれしくて泣いているのか、見分けがつかない時があります。

人間は不可思議な生き物です。



別れの時に、多くの人は涙を流します。

愛しいほど、悲しみは深くなり、たくさんの涙を流します。



シルバーバーチの霊訓によると、霊界から地上に誕生(再生)する人を見送る時にも、涙を流す人がいるようです。

ただ、目的があって地上に生まれ、目的を果たしたら帰って来るのを知っているので、地上のような悲しみの涙ではありません。



また、霊界にいる人は、地上にいる人に会いたくなったら、自分の意志によって会いに行くこともできます。

けれども、肉体はなく五感もないので、地上の人のように外部を感識しているわけではありません。

肉体などの物質は影のように見えます。

霊的な感覚によって、人間の本質である魂(霊)がはっきりと分り、そこから発せられた想いを感じ取ることができます。



霊界の人が残念に思うのは、傍にいるのに地上の人が気付いてくれないことです。

仕方がないとは言え、「いなくなってしまった」と勘違いして、嘆き悲しんでいるのを見ると、いたたまれない気持ちになります。



地上の人に求められるのは、正しい霊的な知識を持つことです。

そして「守り導いてくれている」と強く信じることです。



信じようとする地上の人の想いは、霊界にいる人にとって愛されているように感じられます。

両者のつながりは強くなり、霊界にいる人は安心して導くことができます。



信じるのも、信じないのも個人の自由です。

けれども、信じないのならば「もう会えない」と言う事実誤認から生じる無用の苦しみを味わうことになります。



信じることができれば、次元を超えて愛することができます。

次元を超えて愛するのは、同じ次元にいた時よりもはるかに困難です。

困難を克服して愛することができれば、愛せない苦しみから解放されます。



霊界にいる人は、地上の人を守り導くことで、愛を表現しています。

次元を超えて守り導くことは、同じ次元にいた時よりもはるかに困難です。

困難を克服して守り導くことで、自らも学び成長しています。



導きは、はっきりと分る形で示されるわけではありません。

こんなことはないでしょうか?

特別な理由もないのに、どうしても行かねばならない、どうしても行く気になれない気持ちになる。

心に浮かんだ場所に行ってみると、探しているもの(答え)が見つかった。

特定の人と、どうしても関りを持ちたくなる。



それらは思考の産物ではなく、霊界からのインスピレーションが伝わって来て、衝動に駆られたのかもしれません。

地上の人にも霊的な感覚があり、想像している以上に霊界からのインスピレーションを受け取っています。

そのことを知っていた方が、ずっと導きを受けやすくなります。



心が沈んでいる時、霊界にいる人とのつながりを意識すれば、励ましの想いを受け取れるかもしれません。

受け取った瞬間、心の中がパッと明るくなったり、温かいものを感じたり、前向きな気持ちになるのが感じられるかもしれません。



生きている次元は違っても、本質である魂は同じ次元に存在しています。

本来は自由に思念のやり取りができます。

しかしながら、地上の人には五感があり、そこから入る情報に圧倒されて、霊界から届いている想いやインスピレーションに気付きにくくなっています。

もし、気付いてもらえたならば、霊界にいる人はうれしくなるでしょう。



眠っている時は、肉体から解放されています。

霊界にいる人と同じ次元で会い、想いを交わしているのですが、起きてしまうと思い出せません。

想いは言葉を超越したものです。

従って、言葉として思い出すことはできません。

けれども、想いを受け取った時の余韻は残っているかもしれません。

親愛の想いを交わし合っていたのならば、うれしさや悦びに包まれながら目覚めるかもしれません。



ところで、自分がいなくなり悲しんでいる地上の人を見て、どう感じているのでしょうか?

愛されていると感じているのではないでしょうか。

その理由は、愛しさがなければ、悲しみは生まれないからです。



行き場を失った愛が、悲しみとなります。

悲しみを抱き続けるのは、愛し続けるのと同義なのかもしれません。



生きていたとしたら、そこまで愛し続けることができたのでしょうか。

半ば強制的に、愛し続けるようになるのが、地上の別れの本質と考えられます。



人は愛することで成長します。

片時も忘れずに、愛し続けるのであれば、同じ次元で生きているよりも、成長しているはずです。



出会うことは、生まれる前に決まっています。

死ぬ時も決まっています。

従って、出会い、別れることは、予定されていたと考えられます。



何故、別れが予定されていたのでしょうか?

一生涯をかけて、学び成長してもらうためかもしれません。



相手への想いがなければ、そのような人生を選択することはありません。

「何故、逝ってしまったの?」という地上からの問いかけに、「心から愛しているから」と答えているのかもしれません。




正確な答えは、再会の時に分かります。

悲しみの涙は、うれし涙に変わります。

どちらの涙も、同じ愛から生まれていたことに気付くでしょう。



信じて生き抜いたこと、守り導き通したことによって、魂と魂はより強く結ばれています。

約束が無事果たされたことを知り、深く安堵するでしょう。