2025年9月28日日曜日

勇気を出すために


地球には多種多様の生命が住んでいます。

それぞれの生命は全体のために、何らかの役割りを果たしています。



動物は酸素を吸って、二酸化炭素を出しています。

植物は二酸化炭素を吸って、酸素を出しています。

それぞれが役割りを果たすことで、全体に調和が生まれて、健全な生命の営みが可能となります。



今年の夏は記録的な暑さでしたが、原因が地球温暖化にあるのは明らかです。

地球温暖化は、空気中の二酸化炭素の増加によって起きていますが、その原因を作ったのは人間です。



数日前、庭の雑草を取りました。

昔に比べて、雑草の成長は早く、たくさん生えるようになったと感じています。

人間が過剰に作り出した二酸化炭素を、植物たちが繁茂することで吸収して、地球環境を維持しているように見えます。

車に乗り、電気を使い、二酸化炭素を作り出している私が、地球環境を維持している植物を摘み取ることに、罪悪感を覚えました。



気象の変化(温暖化)の影響で、ドングリ等の木の実が少なくなったために、お腹が空いて里に下りて来るクマが多くいます。

作物を荒らしたり、危害を加えるのはもちろんいけませんが、人間が原因を作っておいて、クマが駆除されるのは間違っていないでしょうか。



どうして人間は身勝手なのでしょうか?

地上の人間は、魂(霊)、精神、肉体の複合体です。

魂と肉体の間に精神(地上的な自我)が介在して、自己表現をしています。

地上的な自我は、肉体と密接に結びついています。

肉体を守り、快適に生きようとするのは、地上的な自我の重要な役割りの1つであり、そのために自分を優先するようになります。

また地上的な自我は五感を通して世界を感識しているので、目に見えない霊的なつながりが分かりません。

そんな理由から、身勝手な行いをしてしまうのだと思います。



地上の人間には、もう1つの自我が存在しています。

それは、魂と霊体の間に介在する霊的な自我です。(ハイヤーセルフと言われるのがこれに当たるのかもしれません)

あの世に行った時、あるいは眠っている時に、自己表現している自我です。

こちらが真の自分です。



霊的な自我から何らかの意志が生まれると、地上的な自我により具体化され、肉体に指令が出されて具現化されます。

地上の人生は、その連続により紡がれています。

地上的な自我が行ったことの責任を、霊的な自我が負っていると思われます。



地上的な自我からは、感情が生まれています。

生まれた感情によって、意志が肉体により具現化されるのが妨げられてしまう時があります。

例えば、新しいことに挑戦しようとして、失敗するのが怖くなると、ためらってしまいます。



自分の意志を具現化するためには、怖れを克服しなければいけません。

克服するために必要なのは「勇気」です。



怖れは霊界では存在しません。

従って、勇気を出さなければいけない経験は、地上でしかできません。

勇気が試されている時、地上に生まれた目的の1つ果たしていると考えて良いのかもしれません。



勇気はどこから生まれるのでしょうか?

愛と同じく、内在する神から生まれていると考えられます。



そして、愛と同じく、あらゆる感情を打ち消す力を秘めています。

勇気は怖れよりも強いのです。



地上の人を守り導いている霊界の存在からも、勇気を増幅させる想い(力)が伝わって来ています。

地上の人は自分の意志を具現化させるために、内(魂)と外(霊界)から力が与えられています。

勇気を出して、前に進んで行くことで、魂は成長します。



どうすれば、勇気が出るのでしょうか?

自分を信じるしかありません。



自分を信じるとは、内在する神を信じることになります。

自分を信じることによって、神とのつながりが強くなり、内(魂)から勇気が湧き出します。



勇気が出ないのは、自分を信じられないからです。

自分を信じられないのは、過去(過去生を含む)に起きた出来事のせいかもしれません。



他者から愛されているのを実感すると安心し、自信につながります。

その逆に、愛に反する言動を受けると不安になり、自信が失われます。

否定する言葉、傷つける言葉、身体への暴力などを受けていなかったでしょうか?

もし心当たりがあるのならば、受けたその行為は過ちであることを認識して下さい。



私たちは、神から届く生命力により生かされています。

その力により、傷ついた体や心が癒されています。

私たちは、神の法則の働きにより、悦びが感じられる方向へと導かれています。

そのことだけでも、いかに神に愛されているのかが分かります。



そして、この世界のどこかで必要とされています。

必要とされていなければ、生まれて来ることは、決してありません。

「愛され、必要とされている存在」であることを、自分自身に強く言い聞かせて下さい。

この真実を受け入れることは、自分を信じることにつながります。



裏切られると、その人のことが信じられなくなります。

同じように、自分を裏切ってしまうと、自分のことが信じられなくなります。

自我が適当な理由を付けて、自分の意志(想い)を表現できなくしていることがあります。

それは自分で自分を裏切っていることにつながります。



特に、魂から発せられている良心の声に背くと、神を裏切っていることになります。

良心に背いた行動をしてしまうと、自分が信じられなくなるという報いを受けます。

この世界には、神を裏切り続けて、人だけでなく自分も信じられなくなり、孤独と不安と怖れの中で生きている人たちがいます。



勇気を出すために、自分を信じて下さい。

信じられない時には、自分を肯定するために、自分に向けた想い(愛)が必要です。

そして、自分を裏切らないように努めなければいけません。



勇気を出して前に進む地上での経験は、死んで霊界に行き、そこで待ち受けている新たな奉仕に取り組むための原動力となります。



全ては魂を成長させるためにあります。






2025年9月21日日曜日

不公平は存在しない


この世界では、不公平に見えることがたくさんあります。

例えば、戦争で家族を殺されたり、食べるものにも事欠く国に生まれる人たちもいれば、平和で経済的に豊かな国に生まれる人たちもいます。

病気でベッドの上でずっと過ごす人もいれば、健康でどこへでも出かけられる人もいます。

才能に恵まれている人もいれば、そうでない人もいます。

同じ人間として生まれて来たのに、どうしてこのような差が生まれるのでしょうか。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「霊界に来た人で、 “自分は両方の世界を経験したが、不公平な扱いを受けている” と言えるような人を、私は一人も知りません。」

地上でも霊界でも、不公平は存在しないようです。




不公平に思えるのは、地上では起きていること、そのものしか見えないからです。

霊界では、起きていることの真相が分かるようになるので、不公平だと言う人がいなくなるのだと思います。



地上を生きる目的は、自分(魂)を成長させるためです。

目的を果たすために適切な環境や身体を選んで生まれて来ています。

どのような人生になるのかも、生まれる前の自分は承知しています。



私は日本人として生まれ、当たり前のように「平和」を享受しています。

そのため、平和の尊さが十分に分かっているとは言えません。

一方、戦争を経験している人たちは、死の恐怖に晒され、大切な人を失った悲しみを味わっています。

平和の尊さが身に沁みて分っています。



健康な人は、「自由」にどこへでも行けて、好きなことができます。

けれども、病気や身体に障がいがある人は、それが叶いません。

そのことがいかに恵まれ、有難いことなのかを知っています。



霊界では、戦争や病気や障がいは存在しません。

目に見えない大切なもの、「平和」や「自由」そして「愛」について、対極のものが存在し、それを経験することのできる地上で、深く学んでいると考えられます。



もしそうであれば、不幸と言われるような事象を経験している人は、経験のない人には得られない学びをしていることになります。

地上で大切なものを失って、その代わりに霊的に大切なものを得ることで、公平性が保たれています。

霊界に行くとそのことが分かるので、不平不満を言う人がいなくなるのだと思います。



地上での境遇に、不平不満を言う人もいなくなります。

霊界に行くと、地上の人生を振り返る時が来ます。

全てのことを、自分自身で決めて来たのが分かります。

自分で決めて行ったことが原因となり、相当の結果を生み出します。

原因と結果の連鎖を繰り返しながら、その時の自分に至っているのが分かるようになるからです。



地上は霊界と違い、結果が直ぐに現れるわけではありません。

過去生で作った原因が、前触れもなく今生に結果として現れることもあります。

それが避けて通りたいような出来事で、原因が分からなければ、何で自分がと不運を嘆くことになります。



生まれる前に望んでいたことに対する結果が、今生で現れることもあります。

自分に足りない資質を自覚して、その資質を手に入れようとする願望が原因となり、それに因果律が働いて、成就させるための結果が最善のタイミングで生じます。

その結果は、往々にして労苦を伴うものであるため、災難や不幸な出来事として受け取る人も少なくありません。



原因を作っていたのは自分かもしれません。

「偶然」や「不運」は、原因が分からなくなってしまう、地上にしかない概念です。



さまざまな分野で才能を発揮している人がいます。

その才能は偶然ではなく、過去生から培って来たものと考えられます。

人や社会のために活かしたいと言う願望の結果として、才能が与えられたと思われます。

持って生まれた才能にさらに磨きをかけて、他者のために活かすことで学びや成長が得られる人生のシナリオが存在していると考えられます。    

才能は運や偶然ではなく、結果と言うことになります。



自分から生まれた全ての想い、言葉そして行いに対して、因果律が働いています。

因果律の働きによって、相当の結果が自分に返って来ます。

その結果の集大成が、現在の自分です。

自分から出たものの責任を、自分で取っているとも言えます。



交通事故に遭い、一生ベッドの上で過ごしている人もいます。

もし自分に責任がないのに、自由を奪われ、苦しみや痛みを味わうことになるのでは、不公平に思えてしまいます。



物的に失ったものは、それよりはるかに価値のあるものによって埋め合わせされると言われています。

責任のない事故で失った肉体の機能は、健常者では得られない霊的な学び、そして魂の成長と言う形で、埋め合わせされると考えられます。

たとえ死んでしまっても、不公平が生じないような埋め合わせがなされていると考えられます。



「地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命がつきて霊界に来た時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まります。単純なようで実に複雑なのです。」とシルバーバーチの霊訓には書かれています。



地上を中心に物事を考えてはいけません。

私たちの本来の住処は霊界です。

そこで、より自分を活かせるような資質を身に付けるためにこの地上に生まれ、それに相応しい経験をしています。



選択する権利は、公平に与えられています。

どのような選択をするのかによって、未来の自分が決まります。

迷ったら、自分を成長させるであろう方向へ進んで行きましょう。







2025年9月14日日曜日

赦すことで霊性は向上する


時の権力者は死を恐れるようです。

秦の始皇帝は、不老不死の薬を探し求めて、日本にまで使者を送ったという記録が残っています。



人間の寿命は決まっています。

どんなに世界中を探しても、いくら科学が発達しても、そのような薬が見つかることはありません。



もし、見つかったとしても、私は飲む気は全くありません。

肉体の束縛から解放され、望むところにどこでも行け、想ったことが直ぐに具現化し、お金や仕事や人間関係の心配が全くない世界に行けるのに、何を好き好んで地上に執着するのでしょうか。

死後の世界(霊界)には、無限の界層があると言われています。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「こちら(霊界)では魂の成長に応じた界、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうど良く調和する界に住むようになります。界の違いはそこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります。」




高い界層は利他的な人が生きる、明るく調和の取れた美しい世界であり、低い界層は利己的な人が生きる、暗く調和に欠けた醜い世界です。

前者を天国、後者を地獄と呼ぶのかもしれません。



地上においても、天国と地獄は存在すると思います。

それは特定の場所を指すのではありません。

私たちの心の中に作り出されます。



愛で満たされ悦びを感じている時、地上にいながら心は天国にいます。

憎しみや嫉妬に苛まれ苦しんでいる時、互いに傷つけ合っている時、地上にいながら心は地獄にいます。



さまざまな出来事が起きるのが地上です。

それによって心は移ろいます。

愛情を感じていた人に裏切られたりすると、怒りや憎しみの感情が生まれて、天国から地獄に落ちてしまう時もあります。



苦しみから抜け出すためには、対象を赦さなければいけません。

けれども、赦そうと思って赦せるものではありません。

こんなに苦しいのは対象(他者)のせいだと思うと、余計に怒りや憎しみがこみ上げて来ます。

それに伴い、さらに苦しみが増して来て、悪循環に陥ってしまいます。



苦しみを生み出しているのは対象ではありません。

自分の心の中に生じた怒りや憎しみです。



地上に生まれて来たのは、霊界では出来ない経験をして、学び成長するためです。

極めて低い界層を除いて、霊界では怒りや憎しみや恨みが生じる対象は存在しません。

そのため、赦すという経験はできないと考えられます。



魂と肉体の間に介在する媒体として、地上の自我(精神)が存在しています。

そこから怒りや憎しみなどの感情が生じています。



本来の自分(魂)は、神とつながっています。

私たちは、神の心を表現しようとする極小の一部です。



神の心は愛です。

そのため、本来の自分(魂)からは、怒りや憎しみは生じることはありません。



約2000年前、イエスは無実の罪で十字架にかけられました。

十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」と神に祈りました。



全ての感情を打ち消す、最も強いエネルギーが愛です。

命を奪おうとしている対象が赦されることを願うという、極めて高い愛をイエスは表現していたために、怒りや憎しみや怖れは存在していなかったと考えられます。



対象を赦すため、怒りや憎しみを手放すためには、今よりも高い愛が必要です。

そのためには、さらなる魂の成長が必要となります。



「苦しい過程において、魂は鍛えられ、清められ、そして成長する」と言われています。

従って、怒りや憎しみに苦しむのも決して無駄なものではなく、先の赦しへとつながっていると考えられます。



「全ての苦はそれが魂の琴線に触れることによって自動的に報いをもたらし、それが宇宙のより高い、より深い実相について、より大きな悟りを得させることになるのです。」とシルバーバーチの霊訓には書かれています。

苦しみや痛みにより、奥深くで眠っている魂が呼び覚まされ、内在する無限の叡智(神)に仕舞われている真理の1つが明かされることがあります。



その真理を受け入れることにより、対象や出来事の捉え方が大きく変わります。

それに伴い、心の様相も大きく変わります。



怒りや憎しみが鎮まって来たのであれば、対象や出来事を赦す方向へと向かっています。

取り巻く状況は変わらないとしても、心は地獄から抜け出すことができます。



怒りや憎しみ捉われていては前に進んで行くことはできません。

「赦す」と言う意志表示を自分自身にしてみてはどうでしょうか。

自己犠牲を伴うその行為は、神の心と一致しているために、魂に愛が流入して、苦しめている感情が手放されるかもしれません。



魂には、少しでも上の界層に行きたいと言う根源的な欲求があります。

さまざまな経験を通して、多くのことを学べるのが地上です。

対象や出来事を赦すという経験をすることにより、霊性は向上しています。

より次元の高い愛を表現できるようになり、上の界層に行くための条件を満たすことにつながっています。

そのための計画を携えて、適した環境と人生を選んで生まれて、相応しい出来事を経験しているのかもしれません。



2025年9月7日日曜日

霊的なつながりを意識する


 生きていると、不安になる時があります。

一人で生きている不安、経済的な不安、病気の不安、死の不安等々、挙げれば切りがありません。



肉体を持つと、五感で外部を認識するようになります。

目に見える世界が全てになります。

1人1人は完全に独立しているように見えます。



けれども、人と人の間には目には見えない霊的なつながりが存在しています。

語らなくても、相手の気持ちが分かる時があるのは、霊的につながっているからです。

遠く離れた人に、ヒーリングの力が届くのも、霊的につながっているからです。

困った人がいると、助けてやろうとするのも、霊的なつながりを感じるからです。



人間は独立して存在しているのではありません。

それぞれが自分の役割りを果たすことで、周囲(全体)とつながっています。

霊的につながっていることが分かれば、1人だと錯覚して、孤独や不安に襲われることはないでしょう。




経済的な不安を感じている人も少なくありません。

「魂が正常なら、つまり魂と精神と身体が調和して機能している限り、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。」

別のところで「条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果をもたらすことができます。」とシルバーバーチは言っています。

背後霊の導きを感じ取り、素直に行動に移すことができれば、必要なものが手に入るようになっていると考えられます。

そして、摂理に従って生きていれば、贅沢はできないけれども、生きて行くことはできると信じています。



病気は、魂と精神と身体の調和が失われると生じると言われています。

エゴ(精神)の働きが強くなり、本来の自分(魂)の想いを表現できなくなると、不調和が生じ、肉体上に病気として現れると考えています。

病気になり苦痛を味わうことで、本来の自分が目覚めて、想いを表現できるようになると、調和が取り戻されると考えられます。

付き合わなければならない病気もありますが、その経験により学ばなければならないこと、償わなければならいことがあるためです。

いづれにしても魂の成長へとつながっています。



死の不安ですが、肉体は消滅しても生命は存続しています。

記憶も個性も失われることはありません。

待っているのは、地上の苦から解放された世界であり、喜ばしいことです。



霊的な知識があれば、この世を生きる不安はかなり解消されるはずです。

けれども、地上を生きている限り、不安はどうしても生まれます。



不安は、肉体を持つと同時に生まれる、地上的な自我から生じます。

あの世に行き肉体がなくなると、その自我はなくなり、不安から解放されます。

そして、霊的な感覚がよみがえり、生命のつながりをはっきりと認識できるようになります。



地上的な自我(エゴ)の働きが強くなると、不安も強くなります。

解決不可能な現実に直面すると、地上的な自我(エゴ)に代わり本来の自分である霊的な自我が前面に出て来ます。

本来の自分を取り戻すと、生き方や考え方が大きく変わります。

安らかな気持ちでいられるようになるのは、霊的な自我からは不安や心配や怖れは生じないからです。



本来の自分を取り戻すためには、強くなったエゴの働きを抑えなければいけません。

座禅や瞑想をするのは、エゴの働きを抑えて、本来の自分を見い出すためです。



霊的次元に意識を向けるのは、本来の自分を取り戻すために有効と思われます。

意識するのが難しければ、守護霊の存在を思い浮かべてみて下さい。

自分よりも自分を知り尽くしているのが守護霊です。

何を求めているのかも承知しています。

守護霊を思い浮かべるのが難しいのであれば、亡くなった最も愛おしい人を思い浮かべて下さい。



思い浮かべた瞬間、傍に寄り添い、こちらからの想いが届くのを待っているでしょう。

親愛の想いが届いたならば、霊界にいる存在も親愛の想いを返してくれるでしょう。

その想いはエゴから生じる感情を抑え込む力となり、本来の自分を取り戻すことができると思います。



霊界の存在とのつながりが途絶えることはありません。

なぜなら、肉体があるかないかだけの違いで、地上に生きる私たちも同じ霊的な存在だからです。

目に見えなくても、つながっていることを忘れてはいけません。



神ともつながっています。

神を一言で表現するならば「全て」です。

私たちは神の心を表現する極小の一部です。

神の心である愛を表現すればするほど、神とのつながりは強くなります。

「全て」に感謝することによっても、つながりは強くなり、内から力が湧き出して来るのを感じられるかもしれません。



地上の人は、神そして霊界の存在とつながっています。

つながりを意識することで、内から湧き出す霊力、外から伝わる霊力により、不安や心配は和らぐはずです。



今朝、つながりを意識してみました。

しばらくして、自然に笑みがこぼれました。

霊界の存在たちの喜びの想いが伝わって来たようです。

霊界の存在が地上の人の想いを共有しているように、地上の人も霊界の存在の想いを共有することができると思います。



「神」や「魂」の存在の有無を論じる不毛な時代は終わりを告げようとしているように感じられます。

信じない人にも、神から届く生命力は流入し、神の法則は働いています。

守護霊は変わりなく守り導いています。

霊的なつながりが途切れることはありません。

死んでから、そのことに気付くのでは遅すぎます。



つながりを信じられる人は、霊的な恩恵をより享受することが出来ます。

意識することにより、本来の自分でいられます。

神の法則に背くことで生じる苦しみや痛みを味わうことなく、生まれて来た目的を成就する方向へと進んで行けます。



どちらを選択するのかは、個々の人に任されています。