人間にはさまざまな欲求があります。
マズローの「欲求5段階説」 |
心理学者のマズローは、5段階の欲求があると提唱しています。
一番下にある生理的欲求は、食欲や睡眠欲など、生命を維持するための欲求です、
その上には、経済的な安定や健康な身体を保つなど、安全に、安心して暮らすための安全欲求があります。
その上には、友人や家族などの小さな集団から、会社や組織などの大きな集団まで、何らかの集団に所属しようとする社会的欲求があります。
さらに上には、他者に認められたい、または自分を認めたいという承認欲求があります。
一番上にあるのは、望んでいる自分になりたいという自己実現欲求です。
マズローによると、下位の欲求が満たされると、上位の欲求を満たしたくなるようです。
食欲などの生命を維持する欲求が満たされると安定した生活を求めるようになり、安定した生活ができるようになると人とのつながりを求めるようになり、人とのつながりができるとその人たちから認められたいと言う承認欲求が生まれるようです。
承認欲求は誰にでもあります。
会社に入ると、上司や同僚に認めてもらいたくなります。
子供は親に褒めてもらいたいです。
自分が高く評価されて、気分を悪くする人はいません。
承認欲求は、形を変えて広範囲に存在しています。
「プライド」もそうです。
プライドをくすぐられるとは、承認欲求が満たされることを指すと考えられます。
自己承認欲求が満たされないと「劣等感」が生じることがあると考えられます。
金持ちになりたい、有名になりたい、偉くなりたいなどの願望も、承認欲求から生じている場合ことがほとんどです。
欲求が満たされないと、苦しみのような感覚を覚えます。
そこから何とか抜け出したくなります。
空腹は苦しいものであり、どこかで食べ物を調達しようとします。
家に引きこもっている人は、社会的欲求が満たされていないため現状に苦しみを感じて、外に出て社会と関わりを持ちたくなります。
叱られたり、あるいは褒められたりすると、承認欲求が一気に高まることがあります。
上司に叱られると、仕事を頑張ろうとする人もいるでしょう。
もっと褒めてもらうために、一生懸命に努力をする子供もいるでしょう。
このように欲求は自分を高めることにもつながるので、無用なものではありません。
SNSでつながっていないと不安になる人がいます。
つながっていても、自分について書き込まれたことが気になります。
私自身も自院の検索サイトの口コミが気になり、見ることがあります。(初診の患者さんの数割は口コミの評価が受診理由になっています)
昔は知ることのなかった自分の評価が、電子媒体によって知れるようになりました。
良く見られたいという承認欲求を満たすために、私たちは大きな労力を払っているような気がします。
承認欲求が強い人の中には、幼少期に十分な愛情を受けていなかった人もいると考えられます。
十分な愛情を受けた人は、自分は守られているという安心感を潜在的に持っています。
受けていない人は、他者から認められることで安心感を得ようとする傾向があると思います。
私たちは、自我によって自己表現してます。
自我には、肉体を使って自己表現するための自我(以下地上的な自我)と、死んで霊界に行った時に自己表現するための自我(以下霊的な自我)があると考えています。
地上的な自我は、安全に快適に生きることを志向しています。
承認欲求が満たされると、周囲との関係が安定し、安心して生きられると感じられます。
このことから、承認欲求は地上的な自我から生じていると考えられます。
あの世に行くと肉体がなくなります。
同時に地上的な自我もなくなり、それと共に多くの欲求が消滅します。
ありのままの自分が認められる世界なので、承認欲求もなくなります。
残っているのは、自分を成長させたいという霊的な欲求と考えられます。
地上は霊界と違い、自分と違う人たちと共に生きる世界です。
違う人たちと共に生きるためには、お互いに認め合わなければいけません。
認めてもらわなければ、疎外されたり、時に敵対関係になってしまい、生きて行くのに不都合が生じます。
認めてもらいたい承認欲求は、地上を安全に、安心して生きるための欲求でもあるために、そこから逃れるは困難です。
認めて欲しくても、認めてもらえるわけではありません。
世の中には、因果律が働いています。
まず自分が相手を認めることによって、相手も自分を認めてくれるかもしれません。
20年位前でしょうか、私の医院にある言葉を多用する高齢のご婦人が訪れました。
その時のやり取りを再現すると
私「奥歯に虫歯がありますので、これから治療します。」
ご婦人「ありがとうございます。」
治療が終わった後の私「今日は奥歯の治療をしました。次回は前歯の虫歯の治療をします。」
ご婦人「ありがとうございます」
私「お大事にして下さい」
ご婦人 深々と頭を下げながら「ありがとうございます。ありがとうござます。」
通常は「はい」と答える人がほとんどですが、そのご婦人は笑顔で、気持ちを込めて、スタッフにも受付にも「ありがとうございます」と繰り返していました。
礼儀正しいと思うと同時に、そのご婦人に対して、もっと良くしてやろうという気持ちが生まれました。
何故、そんな気持ちが生まれたのか、今になって分かりました。
「ありがとう」という言葉によって、私の承認欲求が満たされたのです。
自分が満たされたので、因果律の働きによって、相手も満たしてやろうと言う気持ちが生まれたと思います。
相手を認める最も有効で簡便な方法は、感謝の意を伝えることかもしれまぜん。
認められたと感じると、相手を認めたくなるものです。
世の中には、飢餓で苦しんでいる人がいます。
そんな人たちを見て助けてやらなけばいけないと思っても、(段階は違いますが)それぞれの人に欲求があり、それが満たされなければ苦しみが生じます。
自分が苦しんでいるのに、人のことまで構っていられません。
飢餓や戦争がなくならないのは、そんな理由もあると考えています。
地上的な欲求には際限がありません。
自我から生じる地上的な欲求は、魂から生じる霊的な欲求を満たすことで、生じなくなります。
神の心を表現する、誰かのために何かをすることで、霊的に満たされます。
第2次世界大戦中のアウシュビッツ強制収容所での話です。
そこでの1日の食料は、パン1枚だったそうです。
ある男性は、そのたった1枚のパンを、お腹を空かした見知らぬ子供に手渡したそうです。
男性の生理的欲求(食欲)は全く満たされていません。
けれども、神の心を表現することで霊的な欲求が満たされていたので、地上的な欲求から生じる苦しみから免れていたと思います。
全体のために、1人ひとりが存在価値を持っています。
地上の苦しみから少しでも解放されるためには、自分の存在価値を果たす以外にありません。
それは特別なことでなく、今いる環境で良心に従って生きれば良いのだと思います。