2024年12月22日日曜日

この世に生まれた理由


生きていると、思い通りにならないことがたくさんあります。

仕事が思った通りに行かずに、未熟さを痛感する時があります。

ずっと健康でいたいと思っていても、病気になる時もあります。

人との関係も思うように行くとは限りません。

思い描いていた人生とは、違う方向に進んで行くことがあります。



死んだ後に行く霊界では、思い描いたことが直ちに具現化されます。

家に住みたいと思えば、思い描いた通りの家が目の前に現れます。

SF映画のようですが、思念が全ての世界なのでそうなります。

そんな世界を離れて、地上に生まれて来たのは、何か理由があるはずです。



霊界では目の前にある山の頂に立ちたいと思ったら、次の瞬間、頂に移動しています。

地上では、頂に立ちたいと思えば、自分の足で登って行かなければいけません。

霊界の方が楽に目的が達成できて良いようにも感じられます。

        

頂に立ちたいと思い、山を登り始めたとします。

登っているうちに、大自然の中で自分がいかに小さな存在なのかを自覚して、謙虚な気持ちになる人もいるでしょう。

崖を登る時には、勇気を出さなければいけません。

仲間で登れば、助け合うことやチームワークの大切さを学ぶことになるかもしれません。

アクシデントが起きた時、どう対処したら良いのかを、自分で考えなければいけません。

険しい山道を登って行くことで、体力と精神の限界が進展する人もいるでしょう。



たくさんの汗をかきながら、困難や障害を乗り越えて来たからこそ、頂に立った時に感激を味わうことができます。

もしヘリコプターで頂まで連れて行ってもらったとしたらどうでしょうか?

同じような感激を味わうことはできません。

思ったことが瞬時に具現化される霊界ではできない、貴重な経験を地上でしていると思います。



思い通りにいかず悔しい思いをしていると書きましたが、良く考えてみると、初めから思い通りに何でもできたとしたら、学ぶことは何もありません。

悔しい思いをして、自分に何が足りないのか、どうしたら良いのかを、悩んだり考えたりします。

思い通りに行かない地上の方が内省する機会に恵まれ、何かに気付いて、自分を変えることができると考えられます。



ところで、自分1人だけで生きられるでしょうか?

自分で食料を調達しなければいけません。

住む家も、自分で作らなければいけません。

暖を取るために、薪を集めて自分で火を起こさなければいけません。

着る服も必要です。

1人で生きて行くことは、極めて難しいと思われます。

私たちの生活は、自分ができないことを、誰かにやってもらうことで成り立っています。



1人では生きて行けない地上で、互いに助け合う「相互扶助」の精神を学んでいると考えられます。

それは、肉体がないために(衣食住の心配がなく)1人でも生きて行ける霊界において、学ぶのは難しいと考えられます。



相互扶助の精神は、極めて大切な霊的な資質です。

その精神が発揮されることで、全体に調和が生まれて、霊的な一体化が促進されます。



人に何かをして、人に何かをしてもらう、この営みを地上で毎日のように繰り返すことによって、誰かのために何かをしようとする意志が培われていると考えられます。

誰かのために何かをすることで、人は成長します。

霊界で自律的に成長して行くために、1人では生きて行けない、この地上に生まれて来たと考えられます。



2024年12月15日日曜日

完全な愛を内に秘めている



地上に生まれて63年が経ちました。

およそ人生の3分の2が終わったわけですが、生まれる前に計画した通りに生きて来られたのか気になるところです。

40歳半ばでヒーリングの力が出て、直ぐに霊的真理に出会いました。

このブログを書いているのも、計画の一環に違いありません。

何故、こんな計画が立てられたのか?

もしかしたら、過去生で宗教に携わっていて、過った教義を広めてしまい、その罪滅ぼしをしているのかもしれません。

向こうの世界に戻ったら、原因(目的)が分かるでしょう。




先週の日曜日に、ある講演を聴きに行きました。

大変な苦労をしながら、医療の1分野を確立した講師の姿に感銘を受けました。

「やり残したことはない。今の自分に満足している。」と言っていたのが印象的でした。




その方に限らず、歯を喰いしばって生きなければならない時期があります。

何故、ここまでしなければならないのか? 

そんな疑問を抱きながらも、諦めることができずに、やり遂げようとします。

生れる前のことを、奥底にいる自分は知っています。

そこで立てられた計画の通りに生きようとします。

元いた世界に戻った時に、後悔したくないからです。




これまでの人生で、どんな想いを抱き、どんなことを言い、どんな行いをして来たのか、その1つ1つが相応の結果を生み出しています。

原因と結果の連鎖を繰り返しながら、今に至っています。

今の自分は、過去の自分の結果であり、集大成と言うことになります。




過去は、如何にしても変えることはできません。

自由にできるのは、今だけです。

未来の自分は今をどう生きるかで変わります。

それ故に、今を大切にしなければいけません。




私の家には3匹の犬がいます。

のんびりと昼寝をしたり、夢中になって遊んでいる姿を見て、こう思います。

「過去に捉われず、未来を考えずに、今を生きている」




自分はどうでしょうか?

過去を思い出しては、悔やんだり、怒ったり、悲しんだりしています。

未来を考えては、心配したり、不安になったり、憂いたりしています。

そんな感情が心の中を支配している時があります。




さまざまな感情が生まれるのは、地上を生きて行く上で必要なことです。

攻撃されて「怒り」の感情が湧き上がらなければ、為すがままになり、生存を脅かされるかもしれません。

高い所に立って「恐怖」を感じなければ、足を踏みはずして命を落としてしまうかもしれません。

それらは自分を守るために生まれている感情です。



元いた世界に戻ると、脅かすものはなくなります。

自分を守る必要がなくなり、それらの感情から解放されます。

肉体がある限り解放されるのは難しいのですが、地上特有の感情であることは知っておくべきです。

地上特有の怖れや不安、怒りや悲しみなどの感情から解放されている時、今を生きていると言えるのかもしれません。




私たちの本質は魂です。

魂からは、感情とは別次元の「意念」が生まれています。

意念が生まれている時、そこに感情はありません。

何かに夢中になっている時、感情から解放されています。

それは、意念が感情に優っているからです。

魂に自我(精神)は従っているからです。




魂から生じている意念の中で最も強いのは「愛」です。

愛は全ての感情を心から解き放つ力を持っています。

愛で満たされている時、怒りや悲しみなどの感情が入り込む余地はありません。




神は完全な愛です。

魂は神の一部です。

私たちは完全な愛を内に秘めているのですが、自我が未熟なために表現することができません。




解決不能な出来事に直面し、徹底的に追い詰められた時、それまであった自我は瓦解し、奥で眠っていた魂が目覚める人がいます。

本来の自分を見い出し、計画されていた通りに生き始める人がいます。

内に秘められていた愛に気付く人がいます。




動物を見て可愛いと思うのもそうです。

道に倒れている人がいると助けようとするのもそうです。

大切な人が亡くなると悲しいのもそうです。

喜んでもらうとうれしいのもそうです。

平和を願うのもそうです。

秘められた愛が、さまざまな形となって表現されています。




愛を表現することで調和が生まれ、全体は1つになって行きます。

内に秘めている完全な愛を表現できるようになるために、私たちは地上に生まれ、さまざまな経験をしています。







2024年12月8日日曜日

変わるために生まれて来た


社会は目まぐるしく変化しています。

私の仕事においても、新しい手法やマテリアルが次々と開発されています。

新たな技術に取り組むのはリスクを伴い、身に付けるまでに労苦があるので、現状のままで行きたい気持ちがあります。

現状のままでいるのは安全で楽ですが、取り残されてしまう可能性があります。

どちらか迷った時は、後悔のないように進んで行きたいものです。


宇宙は一瞬たりとも休むことなく進化しています。

人間は宇宙の一部です。

私たちは、宇宙全体と共に進化して行く運命にあります。



人間はさまざまな面を携えて生まれて来ます。

自然法則の働き(神の心)に適っている面もあれば、適っていない面もあります。

先日、中学時代の同窓会がありました。

50年近くの歳月を経て、容姿には大分変化がありましたが、性格は思ったほど変わっていないように感じられました。

当時、嫌だなと感じていた同級生のある面がなくなっていることに気付きました。



いくつかの面を挙げてみます。

寛容心、親切心、共感力、忍耐力、誠実さ、利他性、公平さ、責任感、思慮深さ、柔軟性、意志力、勇気、思いつくだけでもこれだけありますが、他にもたくさんあるでしょう。

それぞれの面に対極があり、それらの面が組み合わさって、個性が生まれていると考えています。



持っている面が、自然法則の働きに適っていないとします。

例えば、自分勝手な面を持っていたとします。

「利己的」なその面を表現すると、周囲の人に内在する神(良心)が瞬時に反応します。

子供でしたら「いけない」と感じて、注意をしたり、時に仲間外れにしたりすることもあるでしょう。

社会に出て、自分勝手なことばかりをしていたら、会社をクビになるかもしれません。

結婚していたら、離婚されるかもしれません

周囲から返って来るものは、往々にして苦痛を伴うので、自分勝手な言動を改めるようになります。



不寛容な人は、自分が失敗した時に厳しく咎められるかもしれません。

不誠実な人は、信用を失い、誰からも相手にされなくなるかもしれません。

協調性のない人は、疎外されて、孤独になるかもしれません。

神の心に適っていない面は、自然法則の働きにより、不快で不利益な結果が返って来ることで正されて行きます。



私たちが死んだ後に赴く霊界は快適な世界です。

けれども自分が変わるのは難しいようです。

変わる必要に迫られないからです。

そこで地上に生まれて来ます。

苦しみや痛みを伴う経験することで、必要に迫られて、何かを学びながら変わって行きます。



どうしても変われないのであれば、何か理由があるのかもしれません。

変われないために生じる苦しみを味わうことで、過去の過ちを清算している可能性があります。

清算が終われば、苦しみから解放されます。



初めて地上に生まれた人間は、ダイヤモンドの原石のようなものです。

内部にある神の光は遮られてしまいます。

何度も地上に生まれて、さまざまな経験をすることによって、いくつもの面が磨かれて行きます。

たくさんの面が磨かれることによって、眩しい光(オーラ)を放つようになります。


自然法則の働きの中に、神の心が表現されています。

自然法則の働きによって、神の心が表現できるように変わって行きます。

それが魂の成長と考えています。



私たちは自然法則の働きにより変わって行きますが、自らが進んで変わることもできます。

そのためには、知識と意志と勇気が必要です。

知識がなければ、どう変われば良いのか分かりません。

変わろうとする意志がなければ、変わることはできません。

勇気が欠如していると、変わろうとする意志が削がれ、そのままでいたい気持ちが強くなります。



変わる、変わらない、どちらでも選択できます。

けれども、私たちは全体と共に変わって行く運命にあります。

変わらない方を選択したとしても、運命づけられているのであれば、先送りをしているだけです。



ずっと留まっているのは、全体の流れに逆らっていることになります。

そのために苦しいのかもしれません。

勇気を振り絞って、前に進んで行くことで、苦しみから解放されるかもしれません。

全く予想もしなかった世界が、その先に見えて来るかもしれません。



この人生が全てではありません。

果てしなく人生は続いて行きます。

前に進もうとする勇気、変わろうとする意志は、次の世界で成長しようとする意志になると考えられます。

自らの意志で自律的に成長して行くために、変わることで苦しみから解放される地上に生まれて来たと考えられます。




2024年12月1日日曜日

幸せになるために生まれて来た


昔、ある国に王様がいました。王様は広大な領地を治め、金銀財宝を持っていましたが、なぜかいつも心が晴れず、不満や焦燥感に悩まされていました。宮殿の中で「どうして私はこれほどの富と権力を持っていながら幸せではないのだろう?」と考える日々を送っていました。

ある日、王様はその答えを見つけるために、王宮を離れて旅に出ることにしました。国中を歩き回りましたが、心が満たされることはありません。

旅の途中、一人の農夫に出会いました。彼は質素な服をまとい、麦畑で額から汗を流し、歌を口ずさみ微笑みを浮かべながら働いていました。働き終えた農夫が休憩をとっている時、王様は近づいて尋ねました。

「農夫よ、きつい仕事をしているのに、どうしてそんなに幸せそうなのだ?」

農夫は少し驚いた様子で、笑顔で答えました。

「陛下、それは簡単なことです。私は自分に必要なものがすべて揃っているからです。家族は健康で、毎日こうして畑を耕すことができ、食べ物を手に入れることができる。それだけで十分幸せです。」

王様は納得がいかず、さらに尋ねました。「だが、お金や豪華な衣装、大きな家を持ちたいとは思わないのか?」

農夫は再び微笑み、「もちろん、大きな家やお金があればうれしいかもしれません。でも、それがなくても私は十分に幸せなのです。毎朝太陽の光を浴びることができ、働ける健康な体がある。それ以上のものを求める必要はありません。」と言いました。

王様はその夜、農夫の言葉を思い返しながら宿に戻りました。農夫が何も持たずに幸せを感じられる理由が分からず、さらに悩みました。しかし、よく考えた末に気づきました。

「この農夫は、自分に与えられたものに感謝し、毎日の小さな喜びを見つけ、楽しむ習慣を持っている。私はすべてを手に入れようと焦り、今あるもののありがたさを見逃していたのだ。」

王様は宮殿に戻ると、今あるものに感謝する習慣を作り始めました。毎朝起きるたびに、健康であることや家族、臣下の忠誠を思い返し、それに感謝する時間を持つようにしました。すると次第に、不満や焦燥感が薄れ、心の平穏が戻ってきたのです。(終わり)

この逸話を読んで、目に見えるものを追い求めても幸せにはなれない、人は何かに感謝することで幸せを感じ、不平や不満を持つことで不幸せを感じるようになっていると思いました。



誰でも幸せばかりを感じていたいものです。

けれども、地上ではそうは行きません。

自分と似通った人たちばかりいる霊界と違い、地上は違う人たちに囲まれて生活しなければいけません。

そのため人間関係で苦労します。

人と比べては、羨ましがったり妬んだりもします。



霊界では自分が望むことだけをしていれば良かったのですが、地上はそれだけでは生きて行けません。

気が進まないこと、やりたくないこともしなければいけません。

そんなこともあり、つい不平や不満を口にして、自分が不幸せに思えてしまう時があります。



そんな地上に、なぜ生まれて来たのでしょうか?

霊界と地上で、明らかに違うところがあります。



霊界は一極の世界です。

真実しか存在しません。

光しか存在しません。

善しか存在しません。(地上近くは除く)

愛しか存在しません。(地上近くを除く)



地上は二極の世界です。

真実だけでなく偽りも存在します。

光だけでなく影も存在します。

善だけでなく悪も存在します。

愛だけでなく憎しみも存在します。



病気になって、健康のありがたさが分かると良く言われます。

冬の寒さがあって、春の温かさを感じることができます。

対極のものが存在して、初めて認識できるものがあります。



神は法則です。

法則を貫いているのは、完全なる愛です。

私たちは、法則に従って成長して行く存在です。

生きている究極の目的は、永遠の時をかけて完全な愛を表現できるようになることです。



霊界は想念の世界であり、愛に実体があります。

ありふれた存在となっているため、愛を学ぶのにはかえって難しいです。



愛は五感に触れるものではありません。

従って、地上では何もしないで認識することは困難です。

愛を想起させる出来事を経験することで、初めて認識できます。

あるいは、愛が波動として伝わって来て、魂が共鳴して認識することもあるでしょう。

怒りや憎しみなど比較対照となる地上ならではの感情があることによって、愛を鮮明に認識することができます。



「戦争」の対極にあるのが「平和」です。

「差別」の対極にあるのが「平等」です。

どちらが望ましいのか、言わずと知れています。

戦争や差別はあってはなりませんが、望ましい「片方」を学ぶために存在しています。



平和で平等な世界にするためには、互いを許し合い、認め合わなければいけません。

許し合い、認め合うためには、自我を鎮めて、全体を想う心(神の心)を表現する必要があります。

地上を悩ましている事象は、愛を表現することで根本的に解決することを、苦しみや痛みを味わいながら学んでいます。

大切な教訓を学ぶために、対極のものが存在する地上に生まれ、それに相応しい経験をしています。



明るい日差しの中で、ロウソクの光を認識するのは難しいです。

暗闇の中で、輝き出します。

この世で不幸と言われる出来事を経験しなければ、見つけることのできない幸せがあります。

両者は一対であり、片方だけが欲しいと言っても、それはできないのです。



不幸とは心が作り出している実体のないものです。

実体がなければ、心で消し去ることができるはずです。

前述の逸話のように、今の自分にないものではなく、あるものに意識を向けて感謝することができれば、不幸として感じられなくなるはずです。



今の自分には何もないと言う人もいるかもしれません。

人は生れる環境を自分で決め、どのような人生を辿るのかも了承しています。

全ての出来事は、神の法則(因果律)の働きによって起きています。

そこに、偶然や運が入る余地はありません。



全責任を神が負った上で、出来事は起きています。

神の心は愛であるがゆえに、最後には悦びを感じるように取り計らわれています。



たとえ地上で悦びを感じることができなかったとしても、出来事は必ず清算されます。

本来の住処である霊界で、学び成長できたことに悦び感じ、そのために地上の出来事が起きていたことを理解します。

完全な公正が働いていたことを、神に感謝するでしょう。