2024年5月19日日曜日

神とのつながり


昔は、調べ事があると図書館まで行ったものです。

欲しいものがあれば街まで出かけました。

今はスマホがあるので、居ながらにして用が済みます。



生活に欠かすことのできないスマホですが、もし百年前の人に見せたとしたらどうでしょう?

薄べったい物体にしか見えません。

遠くにいる人とやり取りができるなど、想像もしないでしょう。


私たち人間も想像を超えた存在です。

目に映っているのは肉体ですが、それを動かしているのは精神です。

その内奥に魂(霊)が存在しています。

異なる次元に存在する、肉体、精神、魂(霊)の3者の複合体が地上の人間です。

千年後には、そのことが当たり前のように認知されているでしょう。



死んで霊界に行くと、物質的次元の肉体は失われます。

五感もなくなり、言葉を介さない思念のやり取りによって、コミュニケーションが行われるようになります。

スマホでコミュニケーションができるのは、ネットワークでつながっているからですが、思念のやり取りができるのも、魂と魂が霊的につながっているからです。



地上の人も同じで、霊的につながっています。

何を根拠に?と言う人もいるでしょう。

約20年前にヒーリングの力が出現し、遠く離れた場所にいる人に癒しの力を届けられるようになりました。

メールはアドレスを入力すれば届きます。

ヒーリングの力は名前も住所も分からない人にも届きますが、霊的なネットワークが張り巡らされていて、受ける人に意念を向けた瞬間、霊的なつながり(リンク)ができると考えられます。

そのつながりを通して、ヒーリングの力は伝わって行きます。



思念とは波動(エネルギー)です。

音叉の原理と同じで、思念を受け取ると同じ思念が生じます。

地上ではさまざまな思念が放たれていますが、五感から入る情報が圧倒的な存在感を持っているため、感識するのが難しくなっています。

霊的な感受性の高い人であれば感じ取れるでしょうが、それほど高くない人でも、無意識の内に受け取り、少なからず影響を受けていると思われます。

もらい笑い、もらい泣き、あるいは集団(群衆)心理と呼ばれるものは、放たれている思念の影響を受けて、同じような反応をしてしまうことだと思います。

地上の人も、霊的につながっているのです。




子供の時の夏休みに、家族で海の近くに泊まりました。

夜、1人で抜け出して海を見に行きました。

浜辺で寝そべると、それまで見たことのない数の星空が広がっていました。

しばらくすると、宇宙と一体になったような不思議な感覚になりました。

1人で真っ暗なところにいるのに怖くないどころか、何とも言えない安心感がありました。



私たちは独立している存在のように思えます。

それは物質(肉体)に限った話です。

霊的には宇宙と一体です。

真っ暗な場所で、宇宙と自分だけしか認識できなくなり、一体感が蘇ったと考えられます。

安心感が得られたのは、何か大きな存在に見守られている感じがしたからです。



私たちは、神とつながっています。

何を根拠に?と言う人もいるでしょう。

怪我をすると血が流れます。

しばらくすると血が固まって止まります。

固まった血はカサブタとなり、数日経つとはがれ落ちます。

その下には新たらしい皮膚ができています。

この一連の現象は、自然法則の働きによって起こります。

傷が治って行くのは、自然治癒力の働きによるものです。

ここで言う自然が神です。

神とのつながりなしに、存在しているものはありません。



個々の細胞は全身の一部としてつなっがっているように、個々の生命は宇宙(神)の一部としてつながっています。

個々の細胞に同じ血液が流れているように、個々の生命に同じ力が流れています。



「神と一体であり、神の力によって生かされている。」

死んで霊界に行くと、この感覚が取り戻されます。

肉体があり、霊的な感覚が著しく鈍くなっている地上では、そう信じるしかありません。



信じることにより、神とのつながりが強くなります。

流れ込む生命力によって、地上を生きる怖れや不安や怒りは和らいで、穏やかな心でいられるはずです。




2024年5月12日日曜日

守護霊の存在を信じる


一人でいても、一人ぼっちではありません。

地上を生きている人には、守護霊が付いています。

一生涯、守護霊は変わることはありません。

片時も離れることはありません。



私たちは、自分を成長させるために、地上を生きています。

そのために最適な人生が計画されています。

計画に沿って生きることで、予定されていた学びや成長が得られます。



けれども、地上の人には自我(エゴ)があります。

エゴに負けて、計画されていた人生から逸れてしまうことがあります。

そうならないように、守護霊は地上の人を導いています。



霊界からの導きは、インスピレーションの形を取ることが多いです。

私事ですが、20年近く前に仕事で不祥事が起こり、行政機関に呼ばれて事実確認されることになりました。

行政の判断によっては、仕事が立ち行かなくなり、廃業の可能性がありました。

それを避けるためには、不都合な事実を隠すしかありません。



その時、私の心の中に浮かんだのは「正直に全てをさらけ出せ」と言うものでした。

少し前に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会っていました。

そこには「乗り越えられない困難は起きない」と書かれていました。

その言葉を信じて、インスピレーションに従い、全てをさらけ出しました。



その結果、想定された中で最も重い処分が下されました。

明日をも知れぬ、暗闇の日々が続くことになります。



処分を受けたのも、元へと言えば自分が原因です。

霊的真理に書かれていた「因果律の働き」を、この経験から痛いほど学びました。



あの時、嘘をついていたらどうなっていたのだろう?と想像する時があります。

処分は軽く済んだと思われ、胸を撫でおろしたでしょう。

運が良かったと思いながら、それまでと同じような生き方をしていると思われます。



私たちは寿命が来ると、肉体から離れて霊界に行きます。

そこで地上の人生を振り返ります。

何を思いながら、何をしたのかを、全て思い出します。

あの時、処分を逃れるために嘘を付いたことが、いかに愚かな行為だったのかに気付くことになるでしょう。

インスピレーションに従わなかったために、魂が目覚める機会を逸してしまったことを知るからです。

せっかく出会った霊的真理は目の前を素通りしています。

ヒーリングの力の意味を知らないまま、利己(金銭)的な目的のために使って、霊界から見放されてしまうかもしれません。

生まれる前に決めて来たであろう、霊的真理を多くの人に知ってもらうという目的を果たせずに地上の人生が終わってしまったことに気付き、深い後悔の念に襲われるでしょう。



地上での後悔を晴らすのは、地上しかありません。

今度こそは決めたことをやり通すと覚悟して、さらに過酷な試練を経験する人生を承知して生まれることになると思います。



地上で凶事や不幸と言われる出来事は、魂が目覚めさせるために起きていて、そこから目的を果たす人生が始まることがあります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸などは地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。」

できれば避けたかった出来事を通して学んだ教訓は、次の世界に持って行ける貴重な財産となります。



生れる前の自分は、地上の人生を承知していたのですが、そのことをすっかり忘れています。

もし、覚えていたとしたら、どうにかして回避しようと躍起になってしまうでしょう。

忘れてしまう地上の人のために、守護霊が付いているのですが、自我(エゴ)の働きが強くなると、影響力を行使しにくくなります。

自我(エゴ)を認識しておく必要があります。



もっとはっきりと分かるように、守護霊が導いてくれたら良いのにと思う時があります。

守護霊は、家族でも友達でもありません。

魂を成長させるための同志です。



学校で宿題が与えられ、大変だからと親が代わりにやってしまったら子供のためにはなりません。

それと同じで、守護霊が安易に助けてしまったら地上の人ためになりません。

地上と同じように意思疎通ができたならば、頼り切ってしまう人も少なくないでしょう。



守護霊は地上の人の決断には干渉できません。

エゴに負けてしまう時もあります。

摂理に反した行いをすれば、後で痛い思いをしますが、そこから摂理の働きを学んでいます。

摂理に適う決断ができたのなら、目的が果たせるように、惜しみのない援助の力を送り続けるでしょう。

存在をはっきりと示さないのは、自分で決めて自分で責任を取らせるためであり、それが地上の人の学びや成長につながるからです。



守護霊の存在を信じていた方が、インスピレーションを受けやすくなるのは確かです。

ある局面に差し掛かった時に、送ってくれるかもしれません。

送ってくると、地上の人の心の中に、突然アイデアや概念やイメージが浮かんで来ます。

理由もなく、急に何かをしなければいけない衝動にかられた時も、思念を受け取っている可能性があります。



昨日ですが、同業者(歯医者)の患者への気を遣う手術がありました。

朝から体調不良で、上手く行くか心配していたところ、心の中に「25」という数字が何度も浮かんで来ました。

予定通り手術を行い、終わりかけてホッとした時に、ふと置き時計に目をやったところ午後3時24分でした。

1分の違いはありましたが、「見守っている」という確信を深めるための霊界からのメッセージであり、今、書いているブログの内容を後押しさせるものと感じました。

気付く、気付かないに関わらず、想像以上にインスピレーション(メッセージ)は伝わって来ていると考えられます。



心の中に浮かんで来たことは、地上の人の全てを知っている守護霊からのインスピレーションかもしれません。

繰り返し浮かんで来たのなら、その可能性はさらに高いと思われます。

インスピレーションに従うことで、今よりも苦しい状況になるかもしれませんが、そこから何かを学ぶことができ、自分の成長につながります。

後悔することはないので、迷わずに進んで行きましょう。




2024年5月5日日曜日

地上的な欲求、霊的な欲求

 

人間にはさまざまな欲求があります。

マズローの「欲求5段階説」

心理学者のマズローは、5段階の欲求があると提唱しています。

一番下にある生理的欲求は、食欲や睡眠欲など、生命を維持するための欲求です、

その上には、経済的な安定や健康な身体を保つなど、安全に、安心して暮らすための安全欲求があります。

その上には、友人や家族などの小さな集団から、会社や組織などの大きな集団まで、何らかの集団に所属しようとする社会的欲求があります。

さらに上には、他者に認められたい、または自分を認めたいという承認欲求があります。

一番上にあるのは、望んでいる自分になりたいという自己実現欲求です。



マズローによると、下位の欲求が満たされると、上位の欲求を満たしたくなるようです。

食欲などの生命を維持する欲求が満たされると安定した生活を求めるようになり、安定した生活ができるようになると人とのつながりを求めるようになり、人とのつながりができるとその人たちから認められたいと言う承認欲求が生まれるようです。



承認欲求は誰にでもあります。

会社に入ると、上司や同僚に認めてもらいたくなります。

子供は親に褒めてもらいたいです。

自分が高く評価されて、気分を悪くする人はいません。



承認欲求は、形を変えて広範囲に存在しています。

「プライド」もそうです。

プライドをくすぐられるとは、承認欲求が満たされることを指すと考えられます。

自己承認欲求が満たされないと「劣等感」が生じることがあると考えられます。

金持ちになりたい、有名になりたい、偉くなりたいなどの願望も、承認欲求から生じている場合ことがほとんどです。



欲求が満たされないと、苦しみのような感覚を覚えます。

そこから何とか抜け出したくなります。

空腹は苦しいものであり、どこかで食べ物を調達しようとします。

家に引きこもっている人は、社会的欲求が満たされていないため現状に苦しみを感じて、外に出て社会と関わりを持ちたくなります。



叱られたり、あるいは褒められたりすると、承認欲求が一気に高まることがあります。

上司に叱られると、仕事を頑張ろうとする人もいるでしょう。

もっと褒めてもらうために、一生懸命に努力をする子供もいるでしょう。

このように欲求は自分を高めることにもつながるので、無用なものではありません。



SNSでつながっていないと不安になる人がいます。

つながっていても、自分について書き込まれたことが気になります。

私自身も自院の検索サイトの口コミが気になり、見ることがあります。(初診の患者さんの数割は口コミの評価が受診理由になっています)

昔は知ることのなかった自分の評価が、電子媒体によって知れるようになりました。

良く見られたいという承認欲求を満たすために、私たちは大きな労力を払っているような気がします。



承認欲求が強い人の中には、幼少期に十分な愛情を受けていなかった人もいると考えられます。

十分な愛情を受けた人は、自分は守られているという安心感を潜在的に持っています。

受けていない人は、他者から認められることで安心感を得ようとする傾向があると思います。



私たちは、自我によって自己表現してます。

自我には、肉体を使って自己表現するための自我(以下地上的な自我)と、死んで霊界に行った時に自己表現するための自我(以下霊的な自我)があると考えています。

地上的な自我は、安全に快適に生きることを志向しています。

承認欲求が満たされると、周囲との関係が安定し、安心して生きられると感じられます。

このことから、承認欲求は地上的な自我から生じていると考えられます。



あの世に行くと肉体がなくなります。

同時に地上的な自我もなくなり、それと共に多くの欲求が消滅します。

ありのままの自分が認められる世界なので、承認欲求もなくなります。

残っているのは、自分を成長させたいという霊的な欲求と考えられます。



地上は霊界と違い、自分と違う人たちと共に生きる世界です。

違う人たちと共に生きるためには、お互いに認め合わなければいけません。

認めてもらわなければ、疎外されたり、時に敵対関係になってしまい、生きて行くのに不都合が生じます。

認めてもらいたい承認欲求は、地上を安全に、安心して生きるための欲求でもあるために、そこから逃れるは困難です。



認めて欲しくても、認めてもらえるわけではありません。

世の中には、因果律が働いています。

まず自分が相手を認めることによって、相手も自分を認めてくれるかもしれません。

20年位前でしょうか、私の医院にある言葉を多用する高齢のご婦人が訪れました。

その時のやり取りを再現すると

私「奥歯に虫歯がありますので、これから治療します。」

ご婦人「ありがとうございます。」

治療が終わった後の私「今日は奥歯の治療をしました。次回は前歯の虫歯の治療をします。」

ご婦人「ありがとうございます」

私「お大事にして下さい」

ご婦人 深々と頭を下げながら「ありがとうございます。ありがとうござます。」

通常は「はい」と答える人がほとんどですが、そのご婦人は笑顔で、気持ちを込めて、スタッフにも受付にも「ありがとうございます」と繰り返していました。



礼儀正しいと思うと同時に、そのご婦人に対して、もっと良くしてやろうという気持ちが生まれました。

何故、そんな気持ちが生まれたのか、今になって分かりました。

「ありがとう」という言葉によって、私の承認欲求が満たされたのです。

自分が満たされたので、因果律の働きによって、相手も満たしてやろうと言う気持ちが生まれたと思います。

相手を認める最も有効で簡便な方法は、感謝の意を伝えることかもしれまぜん。

認められたと感じると、相手を認めたくなるものです。



世の中には、飢餓で苦しんでいる人がいます。

そんな人たちを見て助けてやらなけばいけないと思っても、(段階は違いますが)それぞれの人に欲求があり、それが満たされなければ苦しみが生じます。

自分が苦しんでいるのに、人のことまで構っていられません。

飢餓や戦争がなくならないのは、そんな理由もあると考えています。



地上的な欲求には際限がありません。

自我から生じる地上的な欲求は、魂から生じる霊的な欲求を満たすことで、生じなくなります。

神の心を表現する、誰かのために何かをすることで、霊的に満たされます。



第2次世界大戦中のアウシュビッツ強制収容所での話です。

そこでの1日の食料は、パン1枚だったそうです。

ある男性は、そのたった1枚のパンを、お腹を空かした見知らぬ子供に手渡したそうです。

男性の生理的欲求(食欲)は全く満たされていません。

けれども、神の心を表現することで霊的な欲求が満たされていたので、地上的な欲求から生じる苦しみから免れていたと思います。



全体のために、1人ひとりが存在価値を持っています。

地上の苦しみから少しでも解放されるためには、自分の存在価値を果たす以外にありません。

それは特別なことでなく、今いる環境で良心に従って生きれば良いのだと思います。



2024年4月28日日曜日

法則の働きを知る


30数年前から、同業者(歯科医師)が集まる研修会に所属しています。

入会した当初、主宰されていた恩師の先生から言われた言葉が、今も心に残っています。

それは「知らないものが1番強い」でした。

言われた時は、その意味が良く分かりませんでした。

今は、知識がない人ほど、恐いもの知らずで、間違ったこと(治療)を平気でしてしまうという意味であり、無知な私を戒めていたと思います。



世界を動かしている人たちは、豊富な知識を持っています。

しかし、その多くは経済的、政治的なものであり、偏っている人も少なくありません。



世の中にはさまざまな知識が存在しています。

中でも、霊的真理は最も重要と考えています。

その理由は、全ての人が深く関っている「法則」について書かれているからです。



アルコールを飲み過ぎると肝臓を壊してしまいます。

その行為が生物的な法則に反しているからです。

子供の頃、わがままばかりを言っていると仲間外れにされます。

わがままな言動に対して法則が働いています。

その結果として孤独になり、苦痛を味わうことになります。

生まれるのも、死ぬのも法則の働きによるものです。

起きている現象に、偶然はありません。



自分の言ったこと、行ったこと以外に、人に知られない自分の想いにまで、法則は働いています。

怒りの想いを抱くと血圧や脈拍は上昇し、悲しみの想いを抱くと涙が出るのも、法則の働きによるものです。

怒りなどの抱き続けると病気になることがあります。

それがいけないことだと、法則の働きによって知らされます。



世の中を動かしている人は、全体に貢献するために、その力が与えられています。

けれども、そのことを信じないどころか、力によって支配しようとする人もいます。



力によって支配できるのは形(外面)だけです。

人の内面まで支配することはできません。

それを知らない人は裸の王様のようです。



内面では、自我が働いています。

自我には、地上で自己表現するための自我(以下地上的な自我)と、霊界で自己表現するための自我(以下霊的な自我)が存在していると考えています。

自我からは、喜び、怒り、悲しみ、怖れなどの感情が生じています。

悲しみ、怒り、怖れは地上的な自我から生じていると考えられます。



喜びには、「地上的な自我」から生じているものと、「霊的な自我」から生じているものがあると考えています。

権力や富を得た時の喜びは、地上的な自我から生じています。

霊的な自我から生じている喜びとは、魂の成長にかかわるものです。

困難や障害を乗り越えた時、愛を表現すること、役に立つことに喜びを感じるのは、法則の働きによって、魂が成長する行いに対して、喜びが感じられるようになっているからです。

私たちは、喜びと痛みによって、成長する方向に導かれています。



愛は、魂から生じている霊的な力です。

地上的な自我(精神)から生じている感情とは次元が異なります。

魂は自我(精神)より高い次元にあるので、愛はあらゆる感情を支配する力を秘めています。



例えば、怒りの感情ですが、許すという自己犠牲(愛)によって鎮められます。

悲しみの感情も、愛によって慰められます。

怖れの感情も、愛によって和らぎます。

苦痛を伴うさまざまな感情を癒すものは愛です。



戦争がいつまで経っても終わらないのは、エゴから生まれた怒りや憎しみの感情を表現しているからです。

因果律の働きによって同じ感情が返って来るだけであり、解決に向かうことは決してありません。

エゴから生じた戦争は、次元の高い愛でしか解決できません。

私たちは苦しみや痛みを通して、そのことを学んでいます。


ところで、地上的なものを得ることに大きな喜びを感じていた人が、霊界に行くとどうなるのでしょう?

喜びを感じられる対象が消滅してしまうために、生きる喜びが感じられなくなります。

魂の成長を促す、霊的な喜びを見い出すために、再び地上に生まれて来ることになるでしょう。



エゴに翻弄されて、戦争を始めた人はさらに哀れです。

自分が与えた、苦しみや痛みや悲しみの1つ1つに、責任を負わなければいけません。

気の遠くなるほど膨大な償いをしなければならず、何度地上に生まれなければならないのか想像も付きません。

知らない人が、やはり1番強いのです。



優しさ、思いやり、友情、寛容、協調、博愛の精神を大切にしてきた人が霊界に行くと、同類の人たちに囲まれて、助け合うことに喜びを感じながら生きるようになります。

誰かが喜ぶことをすれば、自分の成長につながり、自らの喜びとなります。

目に視えない世界では、目に視えない愛に関わるものが何よりも大切になります。

愛が最大の力であることを知ります。



愛を帯びた法則が、宇宙の隅々まで行き渡っています。

法則の働きによって、生命はより高い愛を表現するように進化して行きます。

愛を表現することで、全体は調和しながら、霊的に1つになって行きます。


NGC1961:NASA公開画像より


2024年4月21日日曜日

親の成長を願う子


ある若い騎手が落馬事故で亡くなったと、ニュースで報じていました。

誰からも好かれていたようで、葬式の席では、皆、涙を流していました。

在りし日の写真を見て、若くして亡くなる人は、明るく清らかな輝きを放っている人が多いと改めて感じました。



「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」と、シルバーバーチの霊訓には書かれています。

そして「地上人生の期間、つまり寿命が切れる時期は、たいていの場合あらかじめ分かっています。」とも書かれています。

およその人生は予め決まっていて、承知していることになります。

偶発的としか思えない事故であっても、その人の寿命が来ていたのだと思います。



地上の人は亡くなった年齢を気にします。

若くして亡くなれば、これからだったのにと嘆き悲しむ人が多いでしょう。



死んで無になってしまうのであれば、そう思っても仕方ありません。

現実は全く違います。

新しい環境で、生命は変わりなく続いています。



さまざまな経験をして、霊的に成長するために、私たちは地上に生まれて来ています。

内在する資質を開発するため、言い方を変えると、より多くの神性を発揮できるようになるためです。

神性とは、親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛と、シルバーバーチの霊訓には書かれています。

一言で言えば「愛」です。



地上の年齢は、霊的な成長度の尺度とはなりません。

若くても、十分に神性が発揮されている人はいます。

一方、年を取っていても、それほど発揮されていない人もいます。



思い出せませんが、過去にも地上を生きています。

過去の地上での経験が、魂に反映されています。

神性がそれほど発揮されていない人は、地上に生まれて来た回数が少なく、経験が乏しいと思われます。

十分に発揮されている人は、これまでに何度も地上に生まれ、さまざまな経験をしていると思われます。




若くても、年を取った人よりも、霊的に成長している人がいるのはそのためです。

年齢で判断しようとするのは間違っています。



生まれて来た目的を果たすと、摂理に従って寿命が来ます。

肉体から完全に離れて、本来の住処に戻ることができます。

霊的に成長した人ほど、地上で開発すべき魂の資質が少なくなるので、早く戻れると考えられます。

優しく、思いやりがあり、「何でこんな良い人が」と言われるような人が、早く逝ってしまうのはそのためと考えられます。


生まれて間もなく、お母さんの胸の中で亡くなる子がいます。

ご両親は深い悲しみの中で、こんな問いを突き付けられます。

「何のために生まれて来たの」



学び成長するために、相応しい環境(親)を選んで生まれて来ます。

けれども、早くして亡くなる子供は少し違います。



親が子供を亡くすほど苛酷な試練はありません。

身を引き裂かれるような悲しみ苦しみの中で、霊的に目覚める人がいます。

目覚めた魂が、生命の真実を見つけます。

「視えなくても生きている」

「また会える」

無知から生じていた苦しみから解放されます。



親として選ばれるのには、いくつかの条件があります。

別れに耐えられる魂であること。

深く愛してくれる魂であること。

今生で大きく成長することを求めている魂であること。



選ばれたのであれば、耐えることができ、生き抜くことができます。

深く愛してくれる魂ほど、別れの悲しみが深くなるのは当然です。

この経験を通してでしか決して得られない、貴重な魂の資質を手にするために、生まれて来てくれたと考えられます。



自分のためではありません。

周りの人たちを成長させるために生まれ、そして逝ったと考えられます。

そのような人生を選択するのは、地上を生きる必要のない進化した魂のような気がしてなりません。



過去生から関わりがあって、今生で親子になることを決めてた来た人もいるでしょう。

そうであれば、霊的に親しい間柄(類魂)なのかもしれません。

本来の住処で、愛し合う悦びを、より深く感じながら共に生きるために、地上での別れを経験しています。



先に逝った子が何よりつらく感じているのは、目の前の現実に隠された真実が分からずに、自分を責めている親の姿を見る時です。

「そうじゃない」と必死に訴えているでしょう。



地上の子は、親の愛を一身に受けながら成長して行きます。

先に逝った子と残された親は、地上とは真逆の関係になっていると思われます。

子の愛や導きを受けながら、親が成長して行きます。



進化成長するために、神の計画として起きています。

そのことに、早く気付いて欲しいのです。

真実に気付くことで、先に逝った目的が成就されて行きます。








2024年4月14日日曜日

大丈夫と言い聞かせる


18年前に、突然ヒーリングの力が出現しました。

直後に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、私の意識に変革が起こりました。

世の中が違って見えるようになり、ある言葉が妙に心に響くようになりました。

その言葉とは「大丈夫」です。



人のことが心配になった時に「大丈夫?」と声をかけます。

また、不安な時に自分に「大丈夫」と言い聞かせる時もあります。

なぜ心に響くようになったのか、当時は分かりませんでした。

今は、神や霊界の存在が、私たちに語りかけている言葉だと思うようになりました。



不治の病気になり、死が迫っている人がいたとします。

その人に向かって「大丈夫だよ」と言ったとしたらどうでしょう?

多くの人は、死に対して恐れや不安を持っています。

死が迫った人ならなおさらです。

「気休めなど言わないでくれ」と言われてしまうかもしれません。



死とは、生命の本質である魂が肉体から完全に分離する自然現象です。

死んでも、意識は変わりなく存続しています。

本来の住処に戻って、新たな生活が始まります。

地上の苦しみや痛みから解放されるので、本当に大丈夫なのです。



現実に打ちのめされている人、窮地に追い込まれた人に、「大丈夫」と言ったらどうでしょう?

「何を根拠にそんなことが言えるんだ」と怒られてしまうかもしれません。



あらゆる物は自然法則に働きによって支配されています。

あらゆる事象は自然法則の働きによって起きています。

そのことを、物理学者のアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と表現しています。

「偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在しません。すべては整然とした犯すべからざる連鎖の法則にしたがって働く「因果律」の結果なのです。自然の摂理がこの宇宙全体を支配しており、どこで何が起きようとー昆虫であろうと人間であろうと天体であろうとーすべてにその法則が働いているのです」と、シルバーバーチの霊訓には書かれています。

自然法則の働きによって、この世界の秩序は保たれています。



魂には神が存在しています。

神が良心となって顕現しています。

助けを求めている人がいたら、何とかしてあげたいと思うのはそのためです。



全体を愛しむ無限の心(意識)が神と考えています。

神の心そのものである愛が、自然法則の働きの中に顕現しています。

私たちは、自然法則の働きによって、神に愛されているのです。



どのような事象であっても、神の愛により創られた自然法則の働きによって起きているので、最終的には良い方向に向かいます。

神が全責任を負っているので「大丈夫」なのです。



地上にいる時は、肉体があります。

五感が強くなり、相対的に霊的な感覚は弱くなります。

そのために、五感に触れない神の存在や自然法則の働きが分からなくなります。

次の世界に行くと、もう肉体はありません。

五感の障壁が取り払われ、神の存在と法則の働きが如実に感じられるようになります。

宇宙は神の愛により経綸されていることが分かり、地上で怖れるものは何もなかったと思うようになります。



シルバーバーチは「取り越し苦労をしてはいけない」と繰り返し言っています。

また「乗り越えられない困難や障害は起こらない」と言っています。

必要なことが自然法則の働きによって起きているので、何が起きたとしても大丈夫と、地上の人たちに伝えたいのだと思います。



幼い頃、怯えていると、親から「大丈夫だよ」と言われると安心できたものです。

「大丈夫」という言葉から、自分の想いを理解してくれて、気遣う気持ち(愛)が伝わるので、恐怖や不安が和らいだのだと思います。



先のことが、全く分からなくなるのが地上です。

不完全な世界のために、思う通りに生きられません。

失敗や挫折もあり、生きるのに疲れてしまう時もあるでしょう。



そんな時に、霊界にいる存在に意念を向けてみるのはどうでしょう。

間髪を入れずに、生きる力が出るような言葉やイメージが心の中に浮かび上がって来るかもしれません。

先のことが予見できる霊界の人たちは地上の人に、何とかなるから大丈夫だよと伝えていると思います。

きっと、その通りになるはずです。



私たちは、全体(神)の一部です。

全体(神)とつながっているので、全ての事象を乗り越える力が秘められています。

外にいる誰かが救ってくれるのではなく、自分の中にいる神によって自分が救われます。



「大丈夫」の語源を調べてみました。

仏教で言う「菩薩」のことを指すようです。

菩薩とは、自己の悟りを求める過程で、他者を救済しようとする精神を持つ者のことを言います。

華厳経の中に「もし諸の菩薩この法に安住すれば大丈夫の名号(みょうごう)を得ん」と書かれています。

(真理を求める人は)自然法則の働きを信じていれば大丈夫と解釈しています。

分殊菩薩像(焼山寺) 


新しいことに挑戦する際に怖れや不安を感じたり、困難や障害に遭遇して生きるのがつらくなったら、「必ず良い方向に向かうので絶対に大丈夫」と、強く自分に言い聞かせて前に進んで行きましょう。




2024年4月7日日曜日

戦争のない世界にするために


大きな戦争が始まって2年の月日が経ちました。

直接被害を被っているわけではないので、徐々に関心が薄れているのを感じます。

どうすることもできないと諦めている自分がいます。

そんな気持ちが、戦争を長引かせてしまっているような気がします。



戦争を終わりにするためには、どうすれば良いのでしょうか?

地球上の全ての人に神が宿っています。

神が良心となって顕現しています。

地上は、思念を肉体を使って表現する世界です。

1人ひとりが、自分の良心に従って、何かを表現すれば良いはずです。

SNSなどを通じて、戦争に異を唱える人もいれば、反対運動に参加したり、署名をする人もいるでしょう。



マハトマ・ガンジーの非暴力運動も、当初はささやかなものでした。

徐々に周囲を巻き込んで国中に広がり、最終的にはインドの独立を勝ち取りました。

たとえ小さな表現であっても、それが周囲に影響を与えて、次第に大きなうねりとなって、世界を変えてしまうこともあります。



霊界に向かって祈るのも良いでしょう。

祈りを受け取った霊界の人たちが、同調する地上のキーマンに戦争を終わらせるよう、より強く働きかけてくれると思います。



出典:戸田記念国際平和研究所HP

人が死に、傷つき、家や街が破壊されています。

物的なもの以上に、霊的な被害も深刻かもしれません。

怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、嘆きに支配されてしまいます。

予定されていた人生が送れなくなってしまいます。

多くの人に無用なカルマを作ってしまいます。

引いては、人類全体の霊的進化を遅らせることにつながります。



霊界では戦争は起こり得ません。

周りには同類の人間しかおらず、地上的な欲望もなくなるからです。

地上では、肌の色、言葉、性格などがそれぞれ違っていて、誰一人として同じ人間はいません。

肉体があるために、利己心も生れます。

国や組織の間で、互いの違いを認められず、利己的になってしまうと、戦争に発展してしまう可能性があります。



戦争が始まれば、大きな苦痛を味わうことになります。

苦痛を通して、お互いを認め合い、許し合い、信じ合うことの大切さに気付きます。

それは宇宙を支配している自然法則の働き(真理)を学んでいることに他なりません。

初めから真理を知っていて、実践していたのならば、戦争が起きることはありません。

もちろん、苦痛を経験する必要もありません。



進むべき目的地は同じです。

真理を実践して直線的に進んで行くのか、知らずに遠回りをして進んで行くのかのどちらかです。

無用な戦争を起こさせないために、真理を知っている人は、まだ知らない人に伝えるという、重大な責務を担っていることになります。



漠然としているもの、何となく感じていることを、はっきりとさせたものが、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)だと考えています。

例えば善と悪です。

定義はあいまいで、人によって解釈は違います。

善とは自分の良心(神)の声に従うことであり、悪とは良心の声に背くことです。

自我(エゴ)の働きが強くなると、良心が顕現しにくくなります。

悲しいことに、世界を変える力(権力や富)を持った人ほど、エゴの働きが強い傾向にあります。

戦争を始めた人たちは、良心の声がエゴにかき消されてしまったか、聞こえていても蓋をして背いてしまったと考えられます。



悪いことをすれば、罪を償わなければならないと教えられました。

ところが、戦争で悪いことをしても、罪を問われず、償いをしない人もいます。

この事実を、子供たちにどう説明すれば良いのでしょうか?

法律から逃れられても、法則から逃れることはできません。

自然法則の働きによって間違いなく霊的な償いが果たされ、完全な公正が保たれることを併せて教えなければいけません。



同胞が傷つけられたと報復して、戦争が始まることがあります。

同胞とは何でしょう?

同じ国、同じ地域、同じ人種、同じ宗教に所属する者だけが同胞ではありません。

人類全体が同胞です。

目に視えない霊的なつながりのある関係が同胞です。

同胞を傷つけているのが戦争です。



戦争と言う大きな過ちを犯してしまうのは、そのことを知らないからです。

全世界に適応される法律はありません。

全宇宙を支配する不変の自然法則を絶対的な基準にして、戦争が過ちであることをはっきりと指摘し、罪を犯した者を追及することが望まれます。



「大自然の働きの基調は革命(レボリューション)ではなく、進化(イボリューション)です。進化の過程はゆっくりと、そして着実に進行します」とシルバーバーチは言っています。

まだ知らない人に真理を伝えることで、心の底から戦争に異を唱える人が増えて行きます。

そのようにして、ほんの少しずつですが、戦争のない平和な世界に変わって行くと信じています。


愛のトンネル(ウクライナ)


自分の住む地域で、ささやかですが真理を広める活動をしています。

然るべき時期が来たら、活動の場を広げて行きたいと考えています。




2024年3月31日日曜日

勇気を奮い立たせて前に進む


私たちは、地上と霊界の間を行き来しながら、進化成長して行く存在です。

地上に生まれると、肉体によって自己表現するようになります。

それに伴って、地上の自我(以下自我)が生じます。



自我は、魂(霊)から生じた思念を、肉体によって表現するためにある媒体です。

けれども、思念は自我により忠実に表現されるとは限りません。

例えば、火事で建物中に取り残され、助けを求めている人がいたとします。

魂には神が内在しています。

そのため、助けようとする衝動が生まれます。

一方、自我は肉体と密接に関係しています。

そのため、肉体を守ろうとします。

魂からは助けようとする想い(愛)、自我からは死んでしまうかもしれないという怖れが生じて、両者の間で葛藤が起こります。

自我が勝ると助けるのを止めてしまいます。

このように、魂から生じている想いは、自我によって大きな制約を受けています。



自我に打ち克ち、自分の想いを表現するのは、地上に生まれて来た目的の1つと考えられます。

そのために必要になのは「勇気」です。

けれども、口で言うほど勇気を出すのは簡単ではありません。

不完全な物質の世界のため、上手く表現できる保証はなく、上手く表現できたとしても、受け入れられるかどうかも分かりません。


ヘレン・ケラー(1880-1968)出典:Wikipedia

ご存知のように、ヘレン・ケラーは見えない、聴こえない、話せない3重の障がいを持っていました。

幼少期の様子をこう語っています。

「濃い霧の海を航海したことがありますか?まるで、立ちはだかる白い闇のような霧。その中を、大型船が緊張と不安の中、水深をはかる「測鉛」を頼りに、手探りで岸に向かって進む。」

外界と隔絶され、不安と孤独の中で生きていたヘレン・ケラーの元に、サリバン先生が現れます。

出会った日のことを「私の魂が誕生した日」と言っています。



ヘレン・ケラーはサリバン先生の口に手を当て唇の動きや振動から、そして口の中に指を入れて舌の動きから発音の仕方と単語をマスターして行きました。

7回目のレッスンの後、「I am not dumb now(私はもう聾唖者ではない)」という文章を話せるようになっていました。

ヘレン・ケラーの記録動画を観る機会がありましたが、聾唖者とは思えない見事な演説でした。

「人生は二つに一つ。迷った時こそ勇気を。」ヘレン・ケラーは言っています。

どれくらいの勇気を奮い立たせて、絶望的と思われる障がいを克服し、自己表現できるようになったのか想像も付きません。



勇気を出すためにどうすれば良いのでしょうか?

自分を信じなければいけません。

本当の自分とは魂です。

自分を信じることは、内在する神を信じることになります。

たとえ神の存在を信じていなくても、自分を信じることで神とのつながりが強くなり、物事を成し遂げる力が得られます。



多くの人は、自我(エゴ)の働きが強くなっています。

そのために、本当の自分の想いに気付けなくなったり、気付いたとしても蓋をしてしまいます。

自分を見失い、自分を信じられなり、勇気を出せずに物事を成し遂げる機会が奪われています。



私たちは、一人で生きているのではありません。

地上にいる私たちを見守っている存在がいます。

どうしても自分を信じられない時には、その存在を信じましょう。

インスピレーションや援助の力を届けて、怖れや不安を払拭させてくれるでしょう。



霊界では肉体がありません。

思念が直接伝わるので、自己表現に失敗することはありません。

周りには同類の人しかいないので、受け入れてもらえないこともありません。

地上のような勇気を必要としない世界と考えられます。



思念の世界である霊界において、何よりも大切なのは意志です。

意志がなければ、何も変わらず、自発的に成長することもできません。

勇気とは、物事を成し遂げるための意志を強くさせるものです。

地上で勇気を出して物事を成し遂げることによって、霊界で周りのための何かをしようとする意志が強固なものになると考えられます。


ヘレン・ケラーですが、12歳の時に幽体離脱をしてアテネを訪れるという霊的な体験をして、魂の存在を信じるようになりました。

そして、死んだ後に障がいから解放された世界が待ち受けていることを知ります。

「私は、自分の障がいを神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障がいを通してだったからです。」(ヘレン・ケラー)

地上で不幸と言われる事象は、魂を目覚めさせ、生まれて来た目的を成就するために、神によって計画されたものと考えられます。



「乗り越えられない困難や障害は与えられない」

ヘレン・ケラーはこの霊的真理を実践して世界中の人に示した偉大なスピリチュアリストです。

私たちにも、彼女と同じ神が宿っています。

だめかもしれないと思った時は「神がいるので絶対に大丈夫」と強く信じて下さい。

そして、勇気を奮い立たせ、前に進んで行きましょう。


ヘレンケラーとサリバン先生 (出典:サライ jp)



2024年3月24日日曜日

この人生で終わりではない


3月15日に父が永眠しました。

永眠と言っても、もちろん眠り続けているわけではありません。

向こうの世界で意識が目覚め、先に逝った肉親や友人と、しばしの間再会の歓びに浸っていたと思います。



喪主である兄のあいさつで、初めて知った事実がありました。

父は大学のある大阪にずっといたと思っていましたが、終戦前の一時期、北九州の小倉に住んでいたそうです。

当初、アメリカ軍は広島の次に北九州の小倉に原子爆弾を投下するつもりでした。

ところが、小倉上空は視界不良だったため、急遽予定を変更し、長崎に投下しました。



その時、B29が飛んでいる音を、父は聞いていたのでしょうか。

もし晴れていて、予定通り原爆が投下されていれば、命を落としていた可能性は高いと考えられます。

何か思うところがあって、そのことを死ぬまで話さなかったのでしょう。



命を落としていれば、私は子供として生まれて来るはずもありません。

違う親の元に生まれて、違う人生を歩んでいると思います。

今の自分があるのは、両親がいたからです。

改めて感謝しています。



私たちは、環境(親)を選んで、生まれて来ています。

もしそうならば、誰もが恵まれた環境で、愛情深い親を望むような気がします。

けれども、世の中はそんな環境(親)ばかりではありません。



ベーブ・ルースは、スポーツ界の英雄です。

ルースは1895年、メリーランド州ボルチモアの貧しい家庭に生まれました。

9人兄弟でしたが、成人したのはルースを含めて2人だけであり、育った環境が悪かったことが想像されます。

そのためでしょうか、ルースは幼少期から窃盗など非行に走るようになります。

手に負えなくなったルースは、7歳の時に全寮制の矯正施設に預けられます。

そこでマティアスという神父に出会い、野球の手ほどきを受けます。

野球の面白さを知ったルースは、めきめきと上達して行き、試合を観に来ていた球団関係者の目に留まり、大リーグに入ることになります。

その後の活躍は、言わずと知れています。



私たちは、目的があって地上に生まれて来ています。

望むような環境と、目的を果たすための環境は違います。

ルースは、野球を通して世界中の人に夢や希望や勇気を与える目的(使命)を持って生まれて来たと考えられます。

周りから不幸に見えても、目的を果たすために、その環境でなければならなかったと考えられます。

目的に向かって、全てが一直線で結ばれています。

どれ1つでも欠けていたとしたら、「野球の神様」は誕生しなかったでしょう。



楽しいことばかりが起きる人生を、多くの人は望みます。

けれども、それだけでは成長しません。

成長するためには、それに相応しい経験が必要です。

困難や障害を経験し、それを乗り越えようとすること、(肉体を持つことによって生まれる)自我に打ち克って、他者に愛を表現することで、霊的に成長して行きます。

霊界にいては経験できないことを経験するために、私たちは地上に生まれて来ています。



学ぶべきものが、人それぞれあります。

偶然に委ねていては、学ぶのに相応しい経験をするまで、どれくらいかかるのか想像も付きません。

計画的かつ効率的に学ぶために、無限の叡智(神)によって、最適なシナリオが創られます。

成長を願う、神の愛の御業です。



死んで無になるのであれば、成長する必要などありません。

成長することを望むのは、この世で終わりではなく、生き続けることを心の奥底で知っているからだと思います。

精一杯生きようとするのは、死んだ後に後悔したくないからだと思います。



私たちには自由意志があります。

決められていたことが起きても、逃げ出してしまうこともできます。

生まれる前の記憶を失ってしまう地上の人が、無事に目的が果たせるように、守護霊が生涯に渡って付いて、導きや援助の力を与えています。



どんな経験であっても、地上を去れば終わります。

全く新しい環境が、目の前に開けて来ます。

しばらくすると、地上の全人生を振り返ります。

大切なことを学ぶために、この経験がどうしても必要であり、自らが志願していたことを知ります。

魂の成長として報われていて、これからの人生に活かされることを知り、無限の叡智に向かって感謝するでしょう。



周りの人と比べても、全く意味がありません。

今生で学ぶことは、それぞれ違います。

学ぶことが違えば、人生も自ずと違って来るのは当然です。



物心付いてから現在までの人生しか、私たちは知ることができません。

実際は、生まれる前にも人生があり、死んだ後も人生は続いています。

学ぶことがあれば、何度でも地上に生まれて来ます。



今、自分がしている経験を、前の(地上の)人生でしている人もいるでしょう。

次の人生でする人もいるでしょう。

どこかで、誰もが経験しなければならない、大切な学びがあると思います。


途中の1章しか読んでいないのに、物語全体を理解するのは不可能です。

それと同じで、この人生だけで、全てを判断するのは不可能であり、愚かなことです。



今の章は、前の章からつながっています。

前の章に原因があり、今の章で結果が生じていることがあります。

生じた結果をどう対処するかによって、次の章が変わって来ます。



偶然ではありません。

原因と結果を繰り返しながら、今の自分がいます。



誰の責任でもありません。

自分で決めて来た結果として、今の自分がいます。



これは余談です。

ご存知でしょうが、ルースは打者だけではなく、投手としても活躍していました。

けれども、精神的、肉体的負担があまりにも大きいために、しばらくして打者に専念するようになりました。

そのことに悔いがあり、今度こそ両方をやり遂げたいと志願して、100年の時を経て日本の地に生まれて来たのでは・・・。

大リーグと投手への強いこだわり、摂生に徹底した生活(不摂生だったルースが反省して)、両者とも子供が大好きなことから、ふとそんなことを考えてしまいました。


ベーブルース(出典:Wikipedia)


大谷翔平選手(出典:Full-Count)





2024年3月17日日曜日

この世も思念の世界


この世とあの世の大きな違いは、肉体のあるなしです。

肉体があるかないかで、コミュニケーションの仕方が大きく変わって来ます。

この世では、思念を言葉にして発しています。

発せられた言葉は、相手の五感を通して伝わって行きます。



ただ、想いを言葉にした時点で、齟齬が生じている可能性があります。

例えば「よろこびを感じている」と伝えたとしたらどうでしょう?

「よろこび」と言っても、文字にすると「喜び」、「悦び」、「歓び」、「慶び」などがあり、その意味は微妙に違います。

けれども、音声(口頭)で受け取ったとしたら、その判別はできません。



この世では、相手が発している言葉と、想っていることが違う場合もあります。

お世辞を言うことも、嘘を付いてしまうこともできます。



言葉で表現できない想いも存在します。

感極まると、言葉にできません。



人間の本質は魂です。

魂で生じた思念は、精神で言葉となり、肉体を使って表現されます。

五感を通して受け取った言葉は、精神で認識されて、相手に新たな思念が生じます。

この世では、そんな煩わしい行程を繰り返しながら、コミュニケーションをしています。



一方、あの世では、想い(思念)は直接に相手に伝わります。

言葉にする必要がないので、ありのままの想いが相手に伝わります。

嘘が付けません。

真実の世界と言われる所以です。



ところが、この世においても、言葉を介さずに想いが伝わる時があります。

言葉がしゃべれない赤ちゃんが何を訴えているのか、お母さんは察しようとします。

気心の知れた人が、何を想っているのか、分かる瞬間があります。

目を見ただけで、相手の想いが伝わって来ることもあります。



五感を介さなくても、想いが伝わって来るのは、私たちは肉体を超えた存在だからです。

思念を受け取る受信器があるからです。



その受信器により、あの世から様々な思念を受け取っています。

芸術家のインスピレーションもそうです。

音楽家がメロディーが降ってきたと表現する時があります。

それは頭で考えたものではなく、この世の人と同調しているあの世の人から送られて来たメロディーをインスピレーションとして受け取っていると考えられます。



「してはいけない」あるいは「するべきだ」と、心の中で囁いているのを感じる時があります。

そんな時は、見守っているあの世の人から、思念が伝わって来ているのかもしれません。

先(結果)が視えるので、行く末を心配しているのです。



この様に、ふと考えが思い付いたり、心の中で囁きを感じた時は、あの世から思念が伝わって来ている可能性があります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「人間の心に浮かぶ思念が全て、霊界からのものとは言いません。それは明らかに言いすぎでしょう。しかしその多くは、背後霊が精神と魂を豊かにしてあげようとする努力の反映です。」

思念を受け取って、無意識の内に行動していることは少なくないと思います。



あの世にいる人から多大な恩恵を受けているにも関わらず、物質を超えた世界が存在することを認められない人が多くいます。

そんな人たちも、喜びや悲しみ、怒りなどを感じながら生きています。

それらの感情は、明らかに物質を超えています。

存在は証明されていませんが、誰もが実感しているので、否定する人はいません。

感情の存在を認めているのであれば、物質を超えた思念の世界が存在するのを認めても良いはずです。



想い(思念)はエネルギーです。

波動となって相手に伝わります。

喜び、悲しみ、怒りなどの感情には、それぞれの波長があります。

喜びの感情を出している人と、悲しみの感情を出している人の波長が違うので、双方の想いが交わることはありません。

悲しみの涙を流している人の傍にいると、こちらまで悲しくなる時があります。

笑い転げている人の傍にいると、こちらまで可笑(おか)しくなる時があります。

もらい泣きや、もらい笑いをするのは、音叉の原理と同じで、傍にいた人の想いが伝わって来て、共鳴していると考えられます。



感情を超越した波動が愛です。

何もないところに悦びを生じさせます。

どのような感情が生じていたとしても、愛は伝わります。

怒りに震えている人をなだめ、悲しみに打ちひしがれている人を慰める力を持っています。

愛は魂から生じているので、精神(自我)から生じている感情より優っているのです。



この世で伝えてくれる人がいなくても、愛は伝わって来ています。

あの世から見守っている存在を忘れてはいけません。

いつ、どこにいても、私たちは見えざる人たちに愛されています。



神に愛されていると良く言われます。

けれども、その実感はありません。

私たち神の一部であり、つながりは永遠不滅です。

神の力によって創造され、神の力によって生かされています。

そして、神の創った法則の働きにより進化し続け、悦びの世界へと導かれています。

今、こうして生きていること自体、神に愛されている結果です。



私たちを生かしている力の本質は愛です。

その力を受け取った魂は、愛を表現したくなるのですが、この世で自己表現している媒体(自我)が不完全なために、ままなりません。

愛の表現について、シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「私の言う “愛” とは、慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために、自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心を言います。愛を表現していることになります。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために、出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛です。」

自分を中心に考えようとする自我に打ち克って、他者に愛を表現することは、この世に生まれて来た大きな目的の1つです。







2024年3月10日日曜日

神は全てを慈しむ意識


太陽系が所属している銀河系には、2000億個を超える恒星が存在しています。

宇宙全体では、そのような銀河が数千億から数兆個存在すると言われています。

無限に広がる宇宙には、無数の生命体が存在すると考えられます。

宇宙空間を航行している生命体が、地球を見つけたとしたら、その美しさにきっと驚くでしょう。

接近して、観察し始めるかもしれません。

良く見ると、最も知性のある地上の生命体が、互いに傷つけ合い、殺し合っています。

さらに、知性の劣る生命体を虐げています。

自分たちが住んでいる惑星の環境を破壊しています。

そんな様子を見て、地上に降りるのを止めて、ひっそりと立ち去っているかもしれません。



シルバーバーチの霊訓にはこんなことが書いてあります。

「地球は宇宙の惑星の中で最も進化の程度の低い部類に属します。」

人間よりも進化した生命はいると思っていましたが、最低の部類だと知り、がっかりしました。



進化とは、知性の向上ではありません。

霊性が高まって行く過程を指します。

月に行けるようになるよりも、争いがなくなり平和になって行くのが、真の進化です。

同じ星の中で、傷つけ合い、殺し合っている人間が、高度に進化しているわけがありません。

進化していると驕っている時点で、程度が知れてしまいます。



全ての生命は、進化して行く宿命を持っています。

それは何億光年離れた星でも、死んだ後に赴く世界においても同じです。



突然ですが、上の画像は何でしょうか?

いくら見ても、さっぱり分からないと思います。

一部分を切り取ったものだからです。

少し離れたところから観ると、全体が分かります。

全体が分かると、何であるのかが、ようやく分かります。


私たち人間も、同じような気がします。

自分を中心に考えて、視野が狭くなると、一部分しか見えなくなります。

一部分しか見えないと、自分が何者で、何のために存在しているのかが分かりません。

もし、全体を見渡すことができたのなら、分かるようになると思います。



地上に生まれて肉体を持つと、自我により自己表現を始めます。

自我の働きが強くなると、自分を中心に考えてしまいます。

全体が見えなくなるために、戦争や飢餓や環境破壊などが生じてしまいます。

         




話は変わりますが、人間の1つの細胞には、46本のDNAが折り畳まれています。

46本のDNAをつなぎ合わせると、約2メートルになるそうです。

もし人体にある全てのDNAを1本につなぎ合わせたとしたら、どれくらいの長さになるでしょう?

人体には37兆個の細胞があるので、何と740億キロメートルになります。

太陽系で最も遠い惑星である海王星までの距離は45億キロメートルなので、その十数倍先まで達します。

jamstec Baseから一部引用

DNAは人体の設計図です。

偶然の積み重ねによって、このような想像を絶するほど微細で緻密な構造からなる設計図が造られたとはとても思えません。

計り知れない叡智(神)によって、人間が創造された考える方が、遥かに自然です。



NGC2275 NASA公開画像
宇宙は、神によって創造されています。

私たちは、宇宙を構成している一部分です。

神的エネルギーによって創られていて、神的エネルギーによって生かされています。



神的エネルギーの吹き出し口となっているのが魂です。

魂には神の意識(心)が埋め込まれています。




神の意識が発揮されるほど、全体に調和がもたらされます。

けれども、地上では不完全な意識(自我)により自己表現しているために、神の意識が発揮されにくくなっています。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。(中略)まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというのに過ぎません。それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で”悪”と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している”不完全さ”を意味するに過ぎません。



神の意識は、自然法則の働きによっても顕現しています。

生命の進化を促し、より多くの神の意識が発揮されるように導いています。

進化の行きつく先は神と考えられますが、到達するには永遠の時が必要です。



神とは全体を慈しむ無限の意識であり、それにより完全な調和がもたらされた状態を指すと思います。





2024年3月3日日曜日

怖れから解放されるために

 


断崖絶壁の上に立つと、恐怖を感じて足がすくんでしまいます。

ところが、命綱なしで断崖絶壁を登って行く人もいます。

そんな人は、勇気があるというよりも、恐怖を感じにくいのかもしれません。



いわゆる自己防衛本能は地上の自我(以下自我)の働きによるものです。

恐怖が生じるのもその一環です。

自我により、私たちは自己表現をしています。

同時に、自我は肉体を守ろうとします。

もし、恐怖が生じなかったとしたら、身の危険を感じなくなり、崖から落ちてしまうかもしれません。



地上は物質的な世界です。

表現媒体である物質(肉体)は不完全です

そのため、思念を完全に表現することはできません。

自分の思いを、言葉にできないこともあるでしょう。

思い通りに行かずに、失敗することもあるでしょう。

失敗して被る不利益を想像すると、怖れを感じてしまうこともあります。



地上では自分とは違う人たちに囲まれながら生きています。

そのため、人から思いもよらぬ言動を受けることもあります。

傷つけられてしまうと、その後、人を怖れてしまうこともあるでしょう。



怖れは、地上を生きるために必要な感情です。

けれども、必要以上に怖れが生じると、成長の妨げとなります。



生まれる前にいたのは、思念の世界です。

肉体を介さずに思念が表現されるので、地上のような失敗はありません。

周りには、自分と同じような人間しかいないので、傷つけられる心配もありません。

怖れから解放されています。

平和で安全な世界を離れて、怖れが生じる地上に生まれて来たのには、理由があるはずです。



私は中学同窓会の幹事をしています。

以前ですが、同窓会を開くことになり、クラスメートに電話連絡をして、参加するかどうかを確認しました。

クラスの中心的存在で、みんなに好かれ人気者の男子がいましたが、意外にも出席を拒みました。

後になって他の同級生から、別のクラスの生徒からいじめを受けていたと聞き、それが原因だと思いました。

それから、いくら声をかけても参加することはありません。



怖れは、苦痛を伴う過去の出来事から生じていることが多く、根深い感情です。

クラスメートに生じていた怖れは、今も消えていないのかもしれません。

怖れの裏に、怒りや憎しみの感情が隠されているのかもしれません。

身の危険を感じるような状況では、怒りや憎しみを通り越して、怖れが生じます。

戦争もそうです。

近くに爆弾が落ちている時は、怖れしか感じません。



地上を生きている限り怖れは付きものですが、好ましい感情ではないので、どうにかしたいものです。

「全き愛は恐れを締め出す」これはイエス・キリストの言葉です。

さまざまな解釈があるでしょうが、私はこう思います。

恐れ(怖れ)は、自我(精神)から生じています。

愛は、精神より高次の魂から生じています。

魂が主で、精神はそれに従います。

怖れよりも愛の力の方が優るので、締め出すことができると考えられます。



けれども、怖れを抱いている対象を愛そうとするのは困難です。

こう考えるようにしています。

自分も怖れを抱く対象も、本質は同じです。

どちらも神が創造した、神を宿した、神(宇宙)を構成する一部に変わりありません。

本質は同じですが、自我の進化の程度は違います。

自我から生まれる言動もさまざまです。

未熟な自我が作り出した言動は虚像であるので、真に受けてはいけません。

怖れも、未熟な自我が作り出した虚像です。

虚像には、実体はありません。



魂から生じているものは真実であり、実像です。

実像には、実体があります。

目に視えない愛は、実体があります。



実体が視えなくなる地上では、信じることが必要になります。

信じることで、個と個はつながり、そのつながりを通して、愛が行き交います。

全ての人に神が宿っていると強く信じるほど、怖れは生じないようになります。



あらゆる事象は、自然法則の働きによって起きています。

今まで自分に起きた事象もそうです。

神の心は、自然法則の働きによって顕現して、私たちを成長進化する方向へと導いています。

今起きている事象、これから起きる事象は、良い方向に自分を向かわせていると、強く信じるほど、怖れは生じないようになります。



魂に宿る神の存在、宇宙を支配する自然法則の働きを信じるほど、怖れと言う苦しみから解放されます。



最後に、シルバーバーチの霊訓の1節をご紹介します。

あなた方はいったい何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神に、なぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心を我が心とするのです。心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。そうすれば自然に神の心が、あなたを通して発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば、何事もきっと成就します。




2024年2月25日日曜日

眠っている時

 

子供の頃は、頻繁に夢を見ていた気がします。

中でも1番印象深かったのは、「大魔神」(昔の映画に出て来た悪者を懲らしめる神の化身)に追いかけられた夢です。

逃げても、逃げても、ドスン、ドスンと言う地響きを立てながら、どこまでも、しつこく追いかけて来ます。

よほど怖かったのでしょう、目覚めた時にパジャマが汗で濡れていました。

夢で良かったと、ホッと胸を撫で下ろした記憶があります。



眠っている時に、私たちの意識(魂)は肉体を離れて、霊界に行っています。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

問い「朝、目覚めて、睡眠中の霊界での体験を思い出すことはあるのでしょうか?」

答え「睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然、脳から解放されています。脳はあなた方を物質界につなぎ止める肉体器官です。睡眠中、あなた方は魂の発達の程度に応じたバイブレーションの世界で体験をします。その時点ではあなた方はそこでの体験を意識しているのですが、肉体に戻って睡眠中の体験を思い出そうとしても思い出すことはできません。それは、霊界での体験の方が地上よりも大きいからです。小さなものは、大きなものを包むことはできません。そのために歪みが生じるのです。」と答えています。

私たちの意識は、夜も眠ることはなく活動を続けています。

しかし、霊界での体験は頭で理解できるものではないので、思い出せないのだと思います。



大魔神の夢ですが、以前、映画を観た時の恐かった記憶が、夢の中で再現されていたのかもしれません。

もしそうだとすれば、フィクションです。



あるいは、霊界で実際に体験していたのかもしれません。

霊界では、思念は具現化します。

自分の思念により、大魔神が作り出されてしまったのかもしれません。

もしそうだとすれば、大魔神と言うフィクションを作り出した、ノンフィクションの夢だったと言えます。



自分の思念で作り出したものではなく、実在している存在が夢に現れる時もあります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

問い「誰しも夢を見ます。その夢の中で親しい人と会ったことを思い出すことがあります。本当に会っているのですか?それともただの想像ですか?または、会いたいという願望が夢となって現れたのですか?」

答え「実際に会っています。といって想像力を見くびってはいけません。厄介な面もありますが、豊かな創造性も秘めています。純粋で最高の形で発揮された時の想像力は、驚異的な働きをします。未開発の能力を花開かせる、創造的な力になります。全ての夢が霊的体験というわけではありません。潜在意識に蓄積した考えの反映もありますし、夜遅く食べた物の反応もあります。」

問い「その違いは分かりますか?」

答え「分かります。食べた物や潜在意識の場合は、霊的な効用がありません。実際に霊界の愛する人に会った場合は、精神的な温もりや霊的な温もり、充足感を覚えます。その違いは明確に分かります。」

霊的な体験の時には、蝶に口づけされたような気分がすると表現しています。

それでも、頭で拵えたフィクションの夢と、霊界での体験によるノンフィクションの夢の境界ははっきりとしません。




実際に霊界で体験していることだと、もっとはっきりと分かり、覚えていても良さそうなものです。

そうでないのは、何か理由があってのことだと思います。

地上よりはるかに快適で、生きる悦びに満ちた世界が霊界です。

そんな世界があることが、はっきりと分かったらどうでしょう?

眠りに耽ろうとする人も出て来るでしょう。

いっそのこと、霊界に行ってしまうとする人も出て来ると思います。




大変なのを承知した上で、私たちは地上に生まれて来ました。

ホームシックのようになってしまったのでは、何にもなりません。

正式に戻れるのは、寿命が来た時です。

眠っている時にいる霊界のことが、垣間見える程度にしか分からないようになっているのは、自分の意志で早く戻ると言う過ちを犯さないためだと思います。




ところで、私たちが眠る目的は何でしょう?

当然のことですが、肉体を休息させるためです。

肉体が休息をしている時に、意識(魂)は霊界に行き、生命力(霊的エネルギー)を補充していると考えています。

目覚めた時に心が清々しく感じるのは、霊的エネルギーによって、魂が癒されているからと思います。




眠れないと、霊界には行けません。

そこで霊的エネルギーが補充されないと、地上を生きるために必要な精神的エネルギーが不足してしまう可能性があります。

精神的エネルギーは物質的な食事から得られるわけではなく、霊的エネルギーから変換されるものだからです。

精神的エネルギーが不足してしまうと、精神活動が停滞してしまい、日常生活に支障を来してしまいます。

それが、うつと呼ばれる状態かもしれません。




ヒーリングをすると眠くなる人が多いです。

霊的エネルギーが補充されると、心がリラックスするからです。

その逆に、あれこれと考えてしまったり、好ましくない感情が生まれたりする時は、霊的エネルギーが不足しかけているのかもしれません。

過労でうつ状態になり、死を考えてしまうのは、霊的エネルギーが枯渇しかけているためと考えられます。

そんな時は、(仕事を休むなどして)良く眠れるように生活習慣や環境を整えて、霊的エネルギーを補充するように努めなければいけません。




眠れない時は、魂が肉体から抜け出せずにいます。

肉体に縛り付けているものは「思考」です。

脳で思考を止めない限り、魂は肉体から離れることができません。




思考によって、過去の出来事を思い出したり、未来の出来事を想像したりしています。

そして、浮かんで来た出来事に、感情が付加されて行きます。

思い出しては怒ったり、悔やんだり、想像しては心配したり、不安になったりすることもあるでしょう。




そんな自分に気付いたら、意識を現在(今)に引き戻す必要があります。

眠れない時に羊を数える人がいます。

意識を現在に引き戻すのには有効ですが、結局は思考していることになります。




繰り返されている呼吸に、意識を向けるのは有効です。

大きく息を吸ったり、吐いたりすることで、意識は現在に引き戻されます。

腹式呼吸をしている時、横隔膜という筋肉が上下に動いています。

横隔膜は迷走神経の支配を受けています。

迷走神経は副交感神経であり、呼吸を通して意識的に働かすことで、心身の緊張が解けて来るはずです。




現代の人間は考えることが常態化しています。

地上を生きるために、考えることは必要ですが、考えなくても良い時まで、考えるようになってしまっています。

電車の中で、スマホを見ている人が何と多いことでしょうか。

常に頭を使って、何かをしていないと落ち着かないように見えます。




仕事などで思考することを避けられない時はありますが、あまり思考しなくても済む時もあるはずです。

考える癖が付いていたり、頭をフル回転させている状態が続くと、眠る時間になっても脳は休まらずに、その結果、魂は肉体に縛られてしまうかもしれません。

熱いお湯は、直ぐには冷めません。

頭を働かせ続けている自分を意識して、スマホ、パソコン、テレビから離れる時間を作って、頭を休めるように努めることも必要です。




考えなくても良いことまで考えて、そこに感情が付加されることで、いたずらに精神的エネルギーを消耗してしまいます。

不安や心配などの感情は、霊的エネルギーの魂への流入を妨げてしまいます。

霊的エネルギーが足りなくなると、好ましくない感情が生まれて、精神的エネルギーを消費すると共に、霊的エネルギーの流入を妨げて、余計に好ましくない感情が生じるという悪循環に陥ってしまう可能性があります。




眠りは、健やかに生きるために極めて重要です。

適度に運動したり、静かな音楽を聴くことも、眠りに入るために役立つでしょう。

それでも眠れずに、心身が疲れてしまっている人には、霊的エネルギーを補充させるヒーリングが有効です。

必要と感じている人がいましたら、遠慮なくお声掛け下さい。







2024年2月18日日曜日

神について


以前の私は、神の存在を信じていませんでした。

信じていないと言うよりも、関心がありませんでした。

神は宗教上の産物で、弱い人がすがるものであり、自分が生きて行く上で関係がないと思っていました。



たとえ信じていなくても、神との関わり合いが途切れる時はありません。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「大霊(神)とは宇宙の自然法則です。物質界と霊界の全ての生命体の背後にある創造的エネルギーです。」



神は意識的存在であり、心があります。

その心が、全宇宙ならびに自然法則の働きによって顕現しています。

親切にして喜ばれると、うれしくなります。

傷つけることをしてしまうと、心が苦しくなります。

これらの現象は、自然法則の働きにより起こります。



人は苦しみや痛みでなく、うれしさや悦びを感じていたいものです。

私たちは、自然法則の働きによって、他者に喜ばれるよう、傷つけないように、導かれています。

このことから、神の心の一側面が窺えます。



この世界の隅々まで、自然法則は働いています。

水が0℃で氷になるのも、物が地面に落ちるのも、自然法則の働きによるものです。

これらの物理的な法則には再現性があり、客観的に証明されているので、信じていない人はいません。



ところで、その物理的な法則は、偶発的に生まれたのでしょうか?

目の前にあるスマホが、偶発的に生まれたと言う人はいません。

当然のことですが、離れた人と会話をするために、人間によって設計され、人間の手によって作られました。

同じように、何かの目的があって、何者かによって、自然法則は創られたと考える方が(偶発的に生まれたと考えるよりも)はるかに自然です。



「生まれる」「死ぬ」のも自然現象の一環です。

自然現象は、自然法則が働いた結果として起こります。



自然法則は、自分の言ったこと、行ったこと、想ったことにも働いています。

それに対して、寸分の狂いもなく結果が生じます。

ただ、地上では結果が表に出るとは限りません。

腹立たしいことを言われても、怒るのではなく、にこやかな表情で接することは良くあることです。

物質を介しているので、原因に対する結果が、違った形で表現されることもあります。



宇宙は神的(創造的)エネルギーによって創られています。

私たちは、神的エネルギーによって創られた、宇宙の一部です。

身体の1つ1つの細胞に、同じ血液が流れて、生かされているように、宇宙を構成する1つ1つの生命には、同じ神(霊)的エネルギーが流れて、生かされています。

身体の細胞に同じ遺伝子が組み込まれているように、生命には同じ神の心が組み込まれています。



神の心が顕現する瞬間があります。

駅のホームから人が落ちたのを見て、自分の命を顧みずに助けようとする人がいます。

理屈を超えて、それは神の心が発露した結果です。



悪いことをする前に、「やってはいけない」と心の中で囁いているのも、神の心(良心)です。

その声を無視して、故意に人を深く傷つけたとします。

周りに知られなければ、法律で裁かれることはないでしょう。

時間と共に、その記憶も薄れて来ますが、その罪が消えることはありません。



死んでしばらくすると、地上の人生を振り返る時が来ます。

全ての言動は、魂に刻み込まれています。

自分の行いによって、傷つけた相手がどのようになったのかを目の当たりにします。



外部にいる神が人間の行いを見ていて、罰を与えるのではありません。

自分の中にいる神が、自然法則の働きに照らし合わせて、自分を裁きます。

自分によって自分が責めを受けます。

その罪が深いほど、強い後悔や自責の念が生まれ、いたたまれない気持ちになるでしょう。



どうにかして、魂に刻まれた罪を清算したくなります。

苦しみや痛みのある地上の方が、霊界にいるよりも効率的に罪を清算することができます。

償いが組み込まれた人生が計画され、それを了承して地上に生まれて来ます。



どのような償いになるのかは、神の叡智(因果律)によって決められます。

過不足のない苦痛を味わうことになりますが、償いの最後に同じ過ちを犯さないための学びが得られると考えています。


願い事があると、神に祈ることがあります。

受験シーズンの今は、神社仏閣で合格祈願をする人も少なくないでしょう。

病気が治るように祈る人もいます。

いかなる祈りも、自然法則の働きには干渉できません。

神を信じて祈るよりも、自分を信じて勉強した方が合格する確率は高まります。

原因が存在している限り、病気は治りません。

祈って願いが叶うのであれば、神の創った法則(因果律)が根底から崩れてしまいます。

非情に感じる時もありますが、自然法則の働きによって、厳格に結果が生じているだけです。



宇宙は無限です。

神の意識も無限です。

自分の意識を、神の意識にまで高めようとするのが、生命(魂)の持つ宿命です。

それには無限の時が必要であり、私たちは永遠に生き続けることになります。



私たちは、神の心を宿した存在です。

神の存在が分からなくなる地上では、神の心はわずかしか表現されていません。

それゆえに、貧困や戦争や差別など、さまざまな問題が生じます。

一人ひとりが自分の中にいる神の存在を意識し、より顕現するように努めれば、それらの問題は一気に解決されます。



現実社会を真剣に生きようとするほど、神は遠くに感じられるのかもしれません。

五感を働かせて、頭脳をフルに回転させるようになるからです。



次の世界に行くと肉体は失われます。

五感や頭脳は消滅し、地上で隠れていた霊的な感覚によって、物事を認識するようになります。

自然法則の働きや神の存在が、リアリティを持って感じられるようになります。



物質的な地上に生まれてしまうと、神の存在を信じるのが難しくなります。

それでも、自然法則が働いていることは信じて下さい。

自分の行く末が決まるからです。



良心(神)の声に耳を澄ませて、忠実に生きるようにして下さい。

そうすれば後悔することはありません。



人や動物や社会に喜ばれるような生き方をして下さい。

神の心を表現していることになり、後に悦びとなります。