2026年3月22日日曜日

生まれ変わり(再生)について


私が小さい頃、4歳違いの妹はある場所を極端に怖がりました。

それは水の張った浴槽です。

浴槽を見ると泣き叫んで逃げていたので、いつもどうしてだろうと思っていました。(母親と風呂に入る時は何故か大丈夫でした)

幼少期を過ぎると、いつのまにか怖がらなくなっていました。


米国のバージニア大学医学部にイアン・スティーブンソンとういう精神科の教授がいました。

彼は2300例という前世の記憶を持つと言われる子供たちを調査して、1977年「神経・精神病学雑誌 (Journal of Nervous and Mental Disease)」に「生まれ変わり現象」についての論文を発表しました。

事例として記録されたのは、前世の記憶を持つとされる子供が、前世の人物の持ち物や親しかった人を見分けられること、前世の人物に見られた特徴的な行動を示すこと、前世の記憶とされる事象が1人以上の成人によって裏付けられたなど、6つの条件の内、2つ以上を満たしたものでした。

研究によると、前世の記憶は2歳から5歳までの間に現れて、成長するのに伴い消えて行くそうです。

また、前世の死亡時の状況を覚えていて、死因となった特定の乗り物や火や水、銃火器などを見ると怖がる子がいたそうです。



「肉体がなくなっても生命(魂)は生き続ける。」

そのことは、私にとって当たり前の事実となっています。

この人生は、永遠に続く生命の営みの一部分です。

思い出せませんが、この人生の前にも地上の人生があったのです。



妹に起きていたことを、改めて考えてみると、このような推論が成り立ちます。

水を張った浴槽を見て怖がったのは、前世で溺れる経験をしていたのではないか。

魂に刻まれたその記憶が、自我が発達していない幼少期に蘇っていたのではないか。

真偽は分かりませんが、そう考えるとつじつまが合います。



世界のいたるところに、生まれ変わりの話はあります。

チベット仏教の最高指導者であるダライラマの後継者の選定も、生まれ変わりを前提にしています。

生まれ変わりとして認定されるのには、過去世を思い出して事実に基づいた話ができる、先代が使用していた物品を同定できる、先代の周囲にいた人を同定できるなどの要件を満たさなければいけません。

日本では江戸時代の「勝五郎の生まれ変わり」が知られていて、前出のイアン・スティーブンソン氏が研究を始めるきっかけとなりました。



仏教では、天・人・修羅・餓鬼・畜生(動物)・地獄の、いづれかの世界に生まれ変わると言われています。

ヒンズー教では、人間以外にも、動物や昆虫、植物などの生命形態に生まれ変わる可能性があると言われています。

霊的真理では、(地球では)人間は人間以外に生まれ変わらないと言われています。



3者に共通しているのは、因果律(カルマ)によって来世が決まると言うことです。

ただ現世で過ちを犯すと、動物などに生まれ変わると言うのは、一種の罰であり、戒めのように思えます。



人間は人間以外に生まれ変わらないと、私は思っています。

何故なら、カルマは罰としてあるのではなく、公正を保つため、学びや成長のためにあると考えているからです。

犯した過ちを償い、学ぶためには、もう1度人間に生まれて、それに相応しい経験をしなければならないと考えています。



学んでいるのは、自然法則の働きです。

法則は、神の心が顕現したものです。

神の心の核心は愛であり、愛が法則を貫いています。



愛に適った行いをすると、法則の働きにより調和が生まれ、喜びがもたらされます。

愛に反した行いをすると、法則の働きにより調和の乱され、苦痛がもたらされます。

喜びと苦痛により、私たちは愛を学び、それを表現する方向へと導かれています。



戦争は最も愛に反した行いの1つであり、著しく調和を乱します。

それによりもたらされる苦痛を世界全体が共有して、愛と平和の意味について人類全体が学ぶ時代が来ていると思われます。



愛(神性)は、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の行いなど様々な表現形態を取ります。(シルバーバーチの霊訓より)

愛を表現することによって、霊的なつながりは強まります。

物的に離れて存在している生命が、霊的に1つになって行くのを目論んで、法則は創られていると思います。



人間は法則の働きによって、霊的に成長して行きます。

成長するのに伴い、より高い次元の愛を表現できるようになります。


成長の一環として、地上に生まれます。

地上でしかできない経験を通して、地上でしか学べないことを学んでいます。

それによって成長が促されて、それまで表現できなかった愛を表現できるようになります。



地上の人生は「学校」に例えられます。

学校では、予定されていた1年のカリキュラムが終わると、春休みに入ります。

その時に、通知表が手渡されて一喜一憂します。



予定されていた地上の人生が終わると寿命が来て、霊界に戻ります。

戻った後に、地上の人生を振り返ることになり、一喜一憂します。



学び損ねたことがあるのに気付いて、それを悔やんで、もう1度学び直そうと思うかもしれません。

さらに、学びを深めたいと思うかもしれません。

あるいは、もっと別のことを学びたいと思うかもしれません。

そんな思いに対して、因果律が働いて、結果として地上に生まれることになります。



生まれ変わりは、リ・スタートです。

学年が上がると、クラスが変わり、新たな環境で学校生活がスタートします。

同じ魂が別のパーソナリティとなり、思いを成就するために最適な環境に生まれ、新たな人生がスタートします。



小学1年生が、いきなり高等な数学を習得することはできません。

まず、足し算と引き算を学ぶことから始めます。

次に掛け算を学び、その次に割り算や分数を学びます。

学年が上がることで、より難しい算数を学ぶようになっています。



何度も生まれ変わるのは、たった1度の人生で、全てを学ぶことなどできないからです。

地上に最初に生まれた時は、易しい人生になるのかもしれません。

次に生まれる時は、より難度の高い人生になるのでしょう。

より難しい人生に挑戦することによって、より価値のある教訓を学ぶことができて、魂はより大きく成長すると考えられます。



学校に行く目的は、人や社会に奉仕するための知識やスキルを身に付けて、自立した生活を営むためと思われます。

地上を生きる目的は、肉体を介した経験から霊的な学びや成長を得て、霊界に戻って全体のためにさらに自分を活かせるようになるためと思われます。



霊界で自律的に成長して行けるほどの愛を表現できるようになった魂は、もう地上で学ぶことは残されていないので、生まれ変わる必要はなくなります。



2026年3月15日日曜日

ありのままの自分

 

「ありのままの自分」という言葉を良く聞きます。

素の自分、本当の自分と言う意味でしょうか?

分っているようで、意外に分っていないような気がしたので、少し考えてみました。


人間の本質は魂(霊)です。

地上の人間は、肉体を携えた魂です。

魂は肉体の上位にあり、支配的な存在ですが、直接肉体を動かしているわけではありません。

魂と肉体の間に、精神(地上的自我)が存在しています。



受胎した瞬間、精神(地上的自我)は生まれます。

魂から生まれた想いは、地上的自我が働くことによって、肉体に命令が出され、外部に表現されます。

地上的自我は魂を表現するための媒体ですが、肉体と密接不可分の関係にあり、強い影響を受けています。

外部の危険を察知して、肉体を守ろうとするのも、この自我の働きによるものです。



地上の人間には、肉体の他に「霊体」があります。

起きている時は肉体を使って活動していますが、眠っている時は魂は肉体を離れ、霊体を使って活動しています。



魂と肉体の間に地上的自我が存在していますが、魂と霊体の間には「霊的自我」が存在しています。

地上の人間には、地上的自我と霊的自我の2つが存在していることになります。



地上的自我は肉体の影響を強く受けていますが、霊的自我は魂の影響を受けています。

地上では霊的自我から生じる想いのまま行動すると、肉体が危険に晒されることがあるため、地上的自我が抑制的に働いています。




以前、車いすの男性が踏切内で立ち往生してしまい、それを見て助けようとした女性が列車にはねられて亡くなるという痛ましい事故がありました。

魂には神が宿っています。

亡くなった女性は、地上的自我で抑えきれないほどの神性が霊的自我を通して発揮されたと思われます。



地上の人生には、生まれる前に立てられた計画(ブループリント)があります。

霊的自我にはその記憶がありますが、地上的自我にはありません。

守護霊の働きかけもあり、無意識の内に計画に沿って生きようとしますが、地上的自我が強くなってしまうと、それが出来なくなります。

例えば、金銭的な欲望に負けてしまい、計画から外れてしまう人もいます。



計画から外れてしまうと、因果律の働きによって、何らかの出来事が起きるかもしれません。

金銭的な欲望に負けてしまった人は、経済的に破綻するなど、地上的自我(精神)が追い詰められる出来事が起きるかもしれません。



また、地上的自我から生じている感情によって、計画通りに行かなくなる時があります。

怖れが強くなり過ぎると、計画されていた出来事が起きても尻込みしてしまい、予期した成長が得られなくなることもあります。

運命を呪ったり、不運として嘆いたりしてしまうと、そこから何も学ぶことができなくなります。



魂から生じている想いは、肉体によって外部に表現されることで完結します。

地上的自我の働きが強くなると、感情や考えによって妨げられて、想いは肉体によって表現できなくなります。

想い(思念)はエネルギーです。

表現できずに内に溜まった想いが閾値を超えると、因果律の働きによって、肉体を変化させるエネルギーとなり、病気として現れることもあると考えられます。



失敗、挫折、病気などの出来事からは苦痛が生じます。

苦痛により、眠っていた魂が目覚めます。

地上的自我の働きは弱まり、霊的自我が前面に出て来て、想いを素直に表現できるようになります。



不幸と言われる出来事は、本来の自分を取り戻すため、計画されていた人生を歩むための触媒の役割りを果たしていることになります。



ありのままの自分とは霊的自我のことを指していると思いましたが、そうではなさそうです。

地上的自我も含めて、ありのままの自分と思うようになりました。

頭を働かせて考え、悩みながら、地上を生きなければならないからです。

感情が生まれるのは自然なことだからです。



ありのままの自分とは、そのままの自分です。

ありのままの自分でいようとするのであれば、そのままの自分でいれば良いのだと思います。



大切なのは、地上的自我から生まれている欲求や感情や考えに惑わされずに、霊的自我から生まれている想いやインスピレーションに気付くことかもしれません。

それを表現することで、人は学び成長することができ、地上に生まれた目的が成就されて行きます。    






2026年3月8日日曜日

魂は不滅であり、永遠に生き続ける


「魂とあの世が存在する可能性は何%でしょう?」

こう聞かれたとしたら、迷うことなく100%と答えます。

何を根拠にと言う人がいるでしょうが、私なりの根拠があります。

それを少し書いてみようと思います。



20年前に左手から病気を癒す力が突然出ました。

霊的なことなど興味もなく、そんな力があることなど知らなかった私には驚きでした。



力の正体をどうしても知りたくなり、出会ったのが「シルバーバーチの霊訓」でした。

そこには、その力は「霊界」から届いていると書かれていました。

この世界のものではないと感じていたので、素直に信じることができました。



この本を貪るように読みました。

シルバーバーチは霊界にいる存在(魂)です。

交霊会において、参加者から受けた質問に対して、間髪入れず淀みなく答えていますが、霊媒であるモーリス・バーバネルが考えているとは思えませんでした。

何より、その答えに地上の人への慈愛が感じられます。

無知な私でも、高次の存在からのメッセージだと思いました。



私自身も霊界にいる存在からメッセージを受け取ることになります。

十数年前のある朝、起きる直前に、ある単語が心に浮かびました。

最近出会ったある人に、浮かび上がった単語を伝えなければならないと言う衝動が生まれました。

その単語を伝えてもらいましたが、それは少し前に亡くなった家族しか知らないものだったようです。



数日後、今度は手紙のような文章が伝わって来ました。

しばらくして、その単語を伝えた人が、家族を連れて私のところに訪ねて来ることになりました。

その文章が、亡くなった人からのものと保証するものは何もありません。

間違っていたら人間性を疑われかねませんでしたが、「根拠のない確信」がありました。



霊界にいる人の想いを感じながら、その文章をお伝えしました。

伝え終わると、ご家族は号泣されていました。

どうして泣いているのだろうと、不思議な気持ちになったのを覚えています。

ご家族もそうだったでしょうが、私自身も死んでも人は生きていると、実感することになります。



霊界の計らいを感じた出来事がありました。

16年前、義父が亡くなりました。

仲の良かった義母は憔悴し、心ここにあらずと言った状態となり、子供たちは心配しました。

半年くらい経った頃でしょうか、亡くなった義父の魂に意識を合わせ、「(義母に)何か伝えたいことはありますか?」と問いかけてみました。

返って来た答えは「早くこっちへ来い」でした。

義母まで逝ってしまうような気がしたので、戸惑いました。

けれども、託されたものと考え、伝えました。



それから数か月して、義母が末期のガンであることが分かります。

家族の誰もが少しでも長く一緒にいたいと思っていましたので、遠隔ヒーリングを行うことにしました。

効果があったのかは分かりませんが、医者の予想に反して生き続けてくれました。



ついに向こうに逝く時が来ました。

その日は、奇しくも義父母の結婚記念日でした。

再び結ばれたうれしさでいっぱいだと感じたのは、私だけではないと思います。



余談ですが、付き添っていた妻の話によると、病床の義母は義父が来ていると言っていたそうです。

遠く離れたところに住んでいて、普段は一緒にいられなかった妻の気持ちを察して、早く迎えてやりたい想いを抑えて、もう少しこの世にいるように義父が促していたと考えています。



同時に、友人の奥さんに向けてヒーリングも行っていました。

新居を建築中であり、そこでの暮らしを楽しみにしていた矢先に、ステージ4のガンの宣告を受けました。

脳に転移して予断を許さない状態にもかかわらず、一時退院して完成した新居でしばらくの間、家族と過ごすことができました。

30代の若さで逝く時が訪れますが、その日は友人の誕生日でした。

友人がどう感じたのか分かりませんが、いなくなっても忘れずにいて欲しいというメッセージのように思えました。



もちろん、二人が逝く日を選んでいたわけではありません。

偶然ならば、この記念日に逝く確率は、(単純に計算しても)5万分の1以下です。



家族にとって、言葉を超えたメッセージとなっています。

私にとって、この世の人を想う霊界の人たちの計らいを、強く感じた出来事になりました。



このような偶然とは考えられない出来事を、いくつも経験しました。

魂が存在していなければ説明することのできない出来事を、いくつも経験しました。

それらの積み重ねによって、否定する気持ち、疑う気持ちは全くなくなりました。




人間は疑い深い動物です。

目の前で証拠を見せてもらわないと、信じない人たちはたくさんいます。



そんな人たちに、「愛は存在していますか?」と質問してみたいです。

誰かに愛された経験、誰かを愛した経験がある人ならば、「存在している」と答えるでしょう。



続けて「存在しているのなら、その証拠を見せて下さい」と言ってみたいです。

返答に困り、「それはできない」と答えるでしょう。



そして「証明できない愛の存在は肯定しているのに、証明できない魂の存在をどうして否定できるのですか?」と問いかけてみたいです。

さらに返答に困ってしまうと思います。



愛も魂も、物質的次元の存在ではないので、科学的に証明することはできません。

けれども、存在しているのです。 



        

愛は、魂から放たれている最も波動の高いエネルギーです。

放たれた愛を感じているのも魂です。

魂が存在しなければ、愛は存在せず、感じることもありません。



魂の存在を信じられない人は、証明されていないからではなく、信じるに足るような経験をしていないだけです。

どんな人でも、自分が実際に経験すれば、信じるようになります。



魂や霊界の存在を信じることによって、この世を生きている意味、死の意味について理解できるようになります。

霊界で経験できないことを経験し、大切なことを学び、魂を成長させるために、この世を生きています。

寿命が来て、霊界に移行するための自然現象が死です。



「存在すると信じて、間違っていたらどうするのか?」と言う人もいるでしょう。

もし魂や霊界が存在しなかったとしたら、死んだら無になり、意識はなくなります。

信じていたのを後悔することも、騙されたと憤慨することもないので、心配はありません。



私がこれまでに経験してきたことが夢幻でない限り、精神がおかしくない限り、死んで無になることはないと断言します。

「魂は不滅であり、永遠に生き続ける」

これが真実です。






2026年3月1日日曜日

法則の働き



今から500年前、日本は戦国時代でした。

武力がものを言う時代であり、各地の大名が領土争いを繰り広げていました。

そこに住んでいた者は争いに巻き込まれ、多くの命が失われたことでしょう。

時代が進むにつれて、争いは少なくなって行き、日本は平和な社会となっています。



昔は、女性が政治に参加することは許されませんでした。

家で食事を作ったり、掃除や洗濯をするのが、女性の仕事と思われていました。

今は、女性が首相になる時代となりました。

多くの男性が、当たり前のように家事に参加しています。



世の中も人も、時代と共に変化しています。

500年前に生きていた人が現代に生まれたとしたら、あるいは現代を生きている人が500年前の世界に生まれたとしたらどうでしょう?

周りの人間との間に大きな隔たりを感じて、適応するのが困難でしょう。

その時代に見合った、進化の程度の人が生まれて来ると考えられます。



進化とは、知性が高くなることではありません。

霊性が高くなり、より神の心が表現されるようになることです。

進化した世界とは、個々の生命が持っている特性が全体のために活かされて、高度に調和している状態を指すと思います。


もし、宇宙の彼方から知的な生命が訪ねて来たらどうでしょう。

最も進化していると言われている人間が、ところどころで傷つけ合い、殺し合っています。

飢えている人、苦しんでいる人がいても、見て見ぬふりをしています。

自分が住んでいる星を汚して、他の動植物たちの生存を脅かしています。

そんな姿を見て、何て野蛮で愚かな生命だろうと思うでしょう。

現代人が500年前にタイムスリップした時よりも、強い違和感を感じるかもしれません。

形跡があるのに、人前に姿を現さないのは、進化の程度に大きな差を感じて、友好関係を結ぶ気になれないからなのかもしれません。

無用な争いをせず、協調性に富み、自然と調和して生きている、海の中にいる知的でフレンドリーな生き物の方に、親しみを感じているような気もしています。



争いがない社会になって行くのも、男女の分け隔てがなくなって行くのも、偶然ではありません。

もちろん人間がそうなるように努力をしているのですが、最大の理由は目に見えない自然法則が働いているからだと思います。



自然法則と言っても、さまざまな次元のものがあります。

水が0℃で凍り、100℃で沸騰するのは、物質的次元の法則の働きによるものです。

助けてもらうとうれしくなり、裏切られると怒りが生じるのは、精神的次元の法則の働きによるものです。

より平和で平等な世界になって行くのは、霊的次元の法則の働きによるものです。

あらゆる現象に、自然法則が伴っています。



法則の根底にあるのは「因果律」です。

原因があれば結果が生じます。

「法律」に背いた行いをしても、見つからなければ咎められることはありません。

「法則」に背いた行いをすれば、相応の結果が必ず生じます。

人や動物を傷つければ、自らの魂を貶める結果が生じて、相応の苦痛を味わって償わなければいけなくなります。



神の心が法則によって顕現しています。

法則は神の公正によって貫かれています。

苦痛は公正を保つために必要であると同時に、自らの過ちに気付いて正すために存在しています。



乗り越えられない出来事は存在しないのは、神の法則の働きによって起きているからです。

苦しめるため、挫けさせるためではなく、学び成長させるために起きているので、ぎりぎりのところまで追い詰められたとしても、乗り越えられるようになっています。



どんな出来事にも原因(目的)があります。

それが分からないと、偶然としか思えません。

不幸や凶事と言われる出来事であれば、理不尽に思えて、運命を呪ってしまうこともあります。



死んで霊界に行くと、霊的な目が見開かれます。

地上にいる時に分からなかった原因(目的)が分かるようになります。



自分に足りない資質を手に入れるために、その出来事を経験する必要があり、そのために起きているのかもしれません。

あるいは、過去の人生に原因があって、今回の人生で結果として現れているのかもしれません。



自分の言動や想いが原因となり、自動的に結果を生み出しています。

生み出された結果に対する、自分の言動や想いが、新たな結果を生み出しています。

原因と結果を繰り返しながら人生が営まれていますが、その一局面として出来事が起きているのかもしれません。



いずれにせよ、偶然や不運ではなかったことを知ります。

地上にいた時に抱いていた、理不尽な思いは消えます。

そして、出来事が起こった時の対応によって、自分が形作られて行くのを知ることになります。



自分が原因を作っていないのに、苦痛を伴う出来事を経験することがあります。

そこに埋め合わせの法則が働いています。

恨まずに、その出来事を乗り越えようとすることで、魂の成長という報いがあり、神の公正が完全に保たれていたことを知るでしょう。



あらゆる存在は、法則の働きによって、神とつながっています。

神の心は愛です。

法則の働きによって、喜びが感じられる方向へと導かれています。

時に、つらく、悲しい出来事が起きますが、その経験により霊的に成長して、その先でより深い喜びが感じられるようになります。

霊的な真実が分からなくなる地上では、その時が必ず来ると強く信じて生きるしかありません。


2026年2月22日日曜日

霊的につながっている



私は家のパソコンで、この文章を書いています。

書いた文章をネット上で公開すると、皆様の目に触れることになります。

離れた場所から読んでいただけるのは、それぞれの器機が電子的につながっているからです。


地上にいる私たちは、肉体を携えた霊(魂)です。

肉体は地上における表現媒体であり、人間の本質は霊(魂)です。



食物を摂取して、肉体は活動するエネルギーを得ています。

それとは別次元エネルギーによって、霊(魂)は活動しています。



それを「生命力」と言っても良いでしょう。

科学的に証明できるものではありませんが、このエネルギーによって精神は活動し、病気や傷が治って行きます。



約20年前にヒーリングの力が突然出ましたが、その力も生命力の一種です。

以来、エネルギーが流れている感覚が常にあります。

その感覚は、寒さで体の芯まで冷え切った時に風呂に入ってしばらくすると、手足がビリビリと痺れたようになりますが、それに似ています。



感じる感じないにかかわらず、全ての人に生命力は流れています。

このエネルギーにより、私たちは生かされています。



肉体を始めとして、あらゆる物質を創っているのもエネルギーです。

宇宙はエネルギーによって創られ、変化(進化)し続けています。



宇宙の隅々にまで自然法則が働いていて、それにより秩序と公正が保たれています。

全エネルギーと全法則の総称を、「神」と呼ぶのだと思います。



広大な宇宙から見れば、地球は限られた小さな空間です。

そこに、さまざまな動物や植物が生きています。



上の絵はゴッホの「種まく人」です。

たくさんの色が集まって、1つの絵が構成されています。

目を近づけて1つ1つの色を見ても、そこにその色がある意味は分かりません。

少し離れたところから全体を見渡すと、あるべき場所にその色があることで、全体に調和が生まれて、美しい絵となっていることが分かります。




人間も同じだと思います。

人間を個別に見ただけでは、何のために存在しているのか分かりません。

全体を見渡すことで、他者とのつながりが分かり、必要とされていることが明らかになります。




生命もそうです。

全ての生命は、全体のために何らかの役割りを果たしています。

それぞれが果たしている役割りが明らかになれば、生命全体が密接につながっていることが分かります。

無用なものは、この地上に存在していません。




全ての人に流れているエネルギーは同じです。

そのエネルギーは、神的なものであり愛を帯びています。

全体のために、寄与しようとするエネルギーです。




そのエネルギーを肉体を使って表現するのが地上です。

けれども、媒体である(地上の)自我が不完全であり、意識は自分に向いてしまうために、表現は著しく妨げられています。




死んで肉体がなくなると、(地上の)自我は消滅します。

それに伴い、意識は自分から全体へと向かいます。

蘇った霊的な感覚により、全体と自分は同じエネルギーでつながっていて、全体の一部であることが分かります。

自我により妨げられることがなくなったエネルギーは、全体のために活かされるようになります。




地上に生まれると、肉体にある五感が前面に出て、霊的な感覚はその陰に隠れてしまいます。

ところが、状況が一変する時があります。

危機的な局面、深刻な出来事に直面して、魂が目覚めると、意識は自分から全体(周囲)へと向かうようになります。

霊的な感覚が前面に出て来て、全体と自分とのつながりを意識するようになります。




一例ですが、東日本大震災が起きた時に、被災地のために何かをしたいという想いに駆られた人は少なくありません。

人とのつながりが強く感じられ、平常時にはない連体感があったように思います。



私たちは、同じエネルギーによって霊的につながっています。

地上では目に見えるものが全てだと錯覚してしまうので、そう思えなくなっているだけです。

パソコンやスマホの電源を切ればつながりは断たれますが、生命のつながりを断つことは絶対にできないのです。




大切なこの事実を忘れて、過った行いをしています。

その最たるものが戦争であり、つながりを断とうとしています。




神は全てを織り込み済みです。

つながりを自覚し、誰かのために何かをしようとする者には、そのためのエネルギーと喜びが与えられます。

つながりが信じられずに、断とうとする者には、苦痛が与えられます。
    



喜びと苦痛により、エネルギー(生命力)は全体のために活かされるようになって行きます。

長い長い時間をかけて、世界はつながりを増しながら、1つになって行きます。
    




2026年2月15日日曜日

何のために生きているのか?


若い時、「何のために生きているのだろう?」と自分に問いかけていました。

けれども、いくら考えても答えは見つかりません。

周りの人たちはそんなことなど気にせずに生きているように見え、いつしか考えなくなりました。



20数年経って、「シルバーバーチの霊訓」と出会い、その中に答えを見つけました。

それは「成長するため」でした。



成長するとは、どのようなことでしょうか?

一般的には、自分の可能性を拡げたり、人間として成熟することを指します。

霊的には、より神性(神の心)が発揮されるようになることだと思います。



神の心とは、全体を慈しむ心だと考えています。

全てを愛する心と言っても良いのかもしれません。



私たちは神により創られた、神の一部です。

私たちの中に、神の心が良心となって顕現しています。



地上では肉体があり、(地上的な)自我によって自己表現しています。

地上を生きて行くために自我は必要なものですが、その働きによって良心(神性)が発揮されるのが妨げられます。



車を運転している時、横道から合流しようとする車がいたとします。

自分の良心は道を譲ろうとしますが、そのまま進んでしまおうとする考えが自我に生まれると、その行動は妨げられます。

駅のホームで、線路に落ちて動けなくなった人がいたとします。

そこに電車が迫って来ています。

良心は助けようとしますが、自我は身の安全を第一に考えて、その場に留まろうとします。

過去に助けようとして命を落としてしまった人がいますが、もう地上を生きる必要がないほどの神性が発揮された結果のようにも思えます。



霊界では肉体がありません。

そのため生きて行くために働く必要がありません。

地上では組織のために働いて、その対価としてお金をもらったり、家族のために家事をして働くことで、生活を営むことができます。



働いている中で、誰かに喜ばれたり、感謝されると、うれしさを感じます。

私も仕事をしていて、「何でもおいしく食べられるようになった」とか、「人前で笑えるようになった」と患者さんに喜んでもらえると、とてもうれしくなります。

そのうれしさが、仕事をするモチベーションとなります。


人は何故ペットを飼うのでしょうか?

かわいい、一緒にいると楽しい、癒されるなどの理由があります。

それ以外に、動物たちのために何かをしてやることに、人は喜びを感じるからだと思います。

与えた餌をおいしそうに食べているのを見たり、うれしそうに散歩をしている姿を見ると喜びを感じます。



人は誰かのために何かをすることで、喜びが感じられるようになっています。

けれども、地上では自我や肉体があるために、その喜びが感じにくくなります。

身体の具合が悪い時に、何かをしてやろうという気持ちになれませんし、無理にすれば苦痛となってしまいます。

また、物を買ったり、おいしい物を食べるなど、すぐ手に入る(地上的な)喜びがあり、それを求めがちになります。


子供の時に、わがままを言ったり身勝手な行動をしていると、仲間外れにされて、孤独という苦痛を味わいます。

社会に出て同じことをしていたら、組織に不利益をもたらす者として、クビになってしまうかもしれません。



そうなるのは偶然ではなく、神の創った法則の働きによるものです。

いつでも、どこでも、誰にでも同じ結果が生じます。

法則の働きによって生じる喜びと苦痛により、私たちは神性を発揮する方向へと導かれています。


霊界では、何もしなくても生きて行けます。

好きなことだけしていても許されます。

地上を生きている私たちにとって、まさに天国と言えます。



けれども、それだけでは成長することはできません。

人は、誰かのために何かをすると、法則の働きによって成長します。

自由に生きられる霊界で成長して行くために、生きるために誰かのために何かをしなければいけない地上に生まれて、奉仕をするための意志を培っていると考えられます。



それでは、何にために成長するのでしょうか?

私たちは霊的につながっています。

これは、霊界に行けば当たり前のように感じられることです。

地上では肉体(物質)が存在し、五感により外部を感識しているために、つながりは感じられなくなり、それぞれが独立して存在しているように見えます。

そのために、地上ならではの障壁や問題が生まれます。

それらを克服して行くために、神性が発揮されなければいけません。



自我に打ち克ち、より神性を発揮できるようになるのが、地上に生まれた目的と考えられます。

神性が発揮される度に、進化成長して行きます。

お互いを隔てているものが取り払われて、霊的に1つになって行きます。

そんな計画の元に、私たちは生きていると考えています。











2026年2月8日日曜日

世界を変えるもの


このブログで政治のことを書くことはありません。

政治は地上的なものであり、霊的なものを扱うこのブログの主旨とは違うと考えているからです。



ただ、政治のありようによっては、霊的なものにまで影響を与える場合があります。

戦争がそうです。

外交(政治)によって、戦争になったり、回避されたりします。

いざ戦争が始まれば、人と人が傷つけ合い、殺し合うことになります。

多くの人の人生が狂わされてしまい、予期していた学びや成長が得られなくなってしまいます。



霊界の人たちは政治のことをどう捉えているのでしょうか?

シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「私たちは政党というものには関与しません。私たちが関心を向けるのは、どうすれば人類のためになるかということです。地上世界は悪習と不正、既成の権力が氾濫し、それが神の豊かな恩恵が自由に行き渡るのを妨げています。そこで私たちは利己主義に立ち向かっているのです。そのためになる人であれば、党派に関係なく、時と場所を選ばずに影響力を及ぼして、改革なり改善を促します。」

組織(政党)には関心がなく、個人個人の想いを察知して、社会のために何かをしようとしている人を積極的に援助していると思われます。



霊界における絶対的な基準は「愛」です。

利他的で奉仕の精神に富んだ人には、たくさんの指導霊が付いて、インスピレーションを送り、それが導きや気付きとなっていると考えられます。

想いを送って、勇気付けたり、励ましたりして、実現させようとしています。



地上の人は霊界の人のように本心を知ることができません。

人や社会のためになろうとしているのか、エゴを満たそうとしているのかを見極めるのは困難です。

それでも、普段どんな生活をしていて、どんなことをやっているのかで窺い知れます。



リンカーンは庶民的な感覚を持ち続け、贅沢な暮らしを好みませんでした。

南北戦争で犠牲になった兵士の家族に手紙を書いたり、金銭面で援助をしていましたが、そのことを公にすることはありませんでした。

そんな人はどこを探しても見当たりませんが、エゴが強くなく良心に忠実な人、質素な暮らしをして弱い者の味方になっている人であれば、ある程度信用できると思います。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「富の神マモンを崇拝し、欲望に走り、利己的になり、他人のことなどどうでも良いと考えるようになったら最後、自分の国だけでなく地球全体が暗黒と困難と悪と疫病という、自由意志の選択の誤りが生み出す結果で埋め尽くされる結果になります。」

エゴが強く、利己的な人たちが大きな権力を手にしている今の世界は、かなり危うくなっています。



世界はつながっています。

コロナウィルスは世界の隅々にまで広がりましたが、そのことは人と人は国や人種を超えてつながっていることを証明しています。

遠い国で起きている戦争も、他人ごとではなく、全体に影響を及ぼし、何らかの結果が返って来ます。



自然法則の働きによって、世界は1つになる方向へと向かっています。

遠い過去から現在に至るまでの道のりを振り返れば、そのことがはっきりと分かります。



進化は一直線ではなく、スパイラルを描きながら進むと言われています。

人と人を分断させ対立を生むような、自然法則に反した言動が繰り返されている今は、下方局面に入っているのかもしれません。


地上には、さまざまな人がいます。

そのために、違うもの同士の間に争いが起こり、差別が生まれます。



生きるために物質を必要とします。

そのために、強者と弱者が存在し、強者は限りなく富み、弱者は生存を脅かされる事態にまで陥っています。



争いではなく協調や調和を選び、強者が弱者を助けるような仕組みを作るのが、本来の政治の役割りであると考えています。

霊的真理を実践すれば、必然的にそうなって行きますが、残念ながら知っている人すらいないのが現状と思われます。



政治で変えることができるのは、外側の世界だけです。

世界が変わるのを政治に求めるのではなく、自分が変わることで世界が変わり始めます。

この世界は、個の人間の集合体だからです。

意志や行動が同じ方向に変わることで、根本から世界は変わります。



シルバーバーチの言葉を引用して結びます。

「地上世界を一気に変革することはできません。人々を変えるのは容易ではありません。でも自分を変えることは今すぐからでもできます。いつどこにいても人のためを心掛けましょう。力になってあげましょう。」






2026年2月1日日曜日

未来の自分のために


地上を生きる人には、さまざまな欲求があります。

現代社会において、「承認欲求」に悩まされている人が多くいるようです。

「他人から認められたい」「評価されたい」この欲求を満足させるために、多くのエネルギーを消費している人も少なくありません。



仕事で評価をされるとうれしくなるので、私にもこの欲求があります。

向上心につながる側面もあるので、それ自体が悪いわけではありません。

問題なのは、この欲求を満たすことが生きる目的となってしまっている場合です。



欲求が満たされても、それは一時的なものです。

しばらくすると、また満たそうとします。

その理由は、金銭欲と同じく、エゴ(自我)から生まれているものだからです。

十分なお金があっても満足せずに、もっと欲しくなりますが、それと同じように、承認欲求にも際限がありません。



なぜ、承認欲求が強くなるのでしょうか?

思い出してみると、子供の頃から成績表やテストの順位、偏差値などで評価され続けて来ました。

親や先生など大人たちは、良い結果が出ると褒めて評価します。

評価された子供はうれしくなり、さらに良い結果が欲しくなります。

大人に評価されると、子供は認められている気がします。

このような環境で育つことにより、自然に承認欲求が生まれると思われます。



社会に出ても、数値などの結果により評価されることが多いです。

評価が給料や出世に反映されることが多いので、どうしても気になってしまいます。


この世は、評価をしたり、されたりすることで溢れていると言えます。

人間的な価値が、評価によって決まってしまうという錯覚に陥っている人もたくさんいます。



周りから認められた方が、安心して生きて行けるような気がします。

周りから評価された方が、自分の価値が高まり、安定して生きて行けるような気がします。

このようにして、知らないうちに承認欲求が強くなって行くと思われます。


あの世に行くと、肉体はなくなり、エゴも消失します。

それに伴い、承認欲求からも解放されます。



そこにあるのは、神の法則の働きだけです。

法則の働きによって、私たちは生きています。

神によって認められた存在であることを知ります。

誰かに認められる必要も、誰かに評価されることもありません。

あるがままの自分でいられることに、大きな喜びを感じるでしょう。



認められ、評価されることに代わって、自分の想いが法則の働きに叶っているか、反しているかが問われます。

法則に叶った想いを、一言に集約するのならば「愛」です。

叶っていれば、神(宇宙)からより多くのエネルギーを受け取ることができ、オーラは光り輝きます。

反していれば、オーラはくすんだものになってしまうでしょう。



地上においても、同じ法則が働いています。

誰かのために何かをしようとする人が輝いて見えるのは、神からエネルギーを受け取っているためです。

自分のことしか考えない人からは、そのような輝きは感じられません。



言葉や行動に込められた想い(動機)に対して、法則が働いています。

いくら頑張って行動しても、エゴの欲求を満たすためであれば、動機が法則(愛)に叶っていないので、神からエネルギーを受け取ることができません。

それでも欲求に従って行動するのなら、次第にエネルギーは枯渇して行きます。

何のために生きているのか分からなくなり、疲れ果ててしまうでしょう。



それとは反対に、誰かのために何かをしようとする時は、神の心と同調しています。

無尽蔵の源からエネルギーが供給され、目的を成就するための活力となります。



例えば、自分の評価を高めるためではなく、(組織を通して)人や社会のために貢献したいと想いながら働いた方が、エネルギーを受け取ることができるために、疲労感は少ないと考えられます。(もちろん肉体や精神は疲弊するので過労はいけません)

同じことをするにしても、エゴの欲求からではなく、他者のためであれば、上手く行く可能性が高くなると考えられます。



その現象が、スポーツの世界で顕著に表れることがあります。

2011年3月、東日本大震災が起きましたが、それから数か月後に女子ワールドカップサッカーがドイツで開催されました。

日本全体が重苦しい雰囲気に包まれる中で、大会に向けて準備を進めて行くうちに、選手たちの間に「女子サッカーで日本に元気を送りたい」という気持ちが強くなったそうです。

試合前のミーティングで「何のために、この大会を戦っているのか。それは震災で打ちひしがれた人たちに、われわれが一生懸命ひたむきにプレーする姿を見ていただいて、何とか元気になってもらうためだ」と監督は選手を鼓舞したそうです。

結果として、奇跡的な勝利が続いて、見事に優勝を果たしました。



相撲取りで、ウクライナ出身の安青錦関がいます。

避難民として3年前に来日した彼は、21歳と言う若さで大関に昇進し、2場所連続で優勝を果たしましたが、その活躍はウクライナでも話題になっているようです。

きっと、戦時下にある祖国の人たちを想いながら相撲に臨んでいるのだと思います。



以前このブログに書きましたが、あるメジャーリーガーが起こした奇跡も同様な法則の働きによって起きたと思われます。

自分の栄誉のためではなく、少女を勇気付けたい、希望を与えたいという純粋な想いが神の心と同調し、想像以上の力が出せて、奇跡のような結果が生まれたと考えられます。

人は誰かのために何かをする時に力を与えられますが、その法則の働きは地上では分かり難くなっています。



私たちは、本来の住処である霊界に戻ります。

地上的な欲求が満たされる喜びに代わり、全体のために奉仕をすることで、霊的な喜びが得られるようになります。

奉仕をしようとする時に、神から力が与えられることが、はっきりと分るようになります。



魂の成長度に見合った奉仕をすることになりますが、しばらくするとより次元の高い奉仕をしたくなります。

より次元の高い奉仕をするのに必要な資質を身に付けるために、この世に生まれて相応しい経験をしています。



自我の欲求を満たすためではなく、未来の自分が奉仕をする喜びに満たされるために生きていることを忘れてはいけないと思います。



2026年1月25日日曜日

この人生は挑戦


パキスタンと中国の国境に連なるカラコルム山脈に、K2という世界で2番目に高い山(8611m)があります。

登頂の難易度は世界最高峰のエベレストより高く、「非情の山」と言われています。

2024年7月、極めて難易度の高い未踏峰のルートに、アルピニストの平出和也さんと中島健郎さんが挑戦しました。



お二人のことは、2018年に同じカラコルム山脈にあるシスパーレ山の未踏峰ルートを登頂した時に撮影されたドキュメンタリー映像で知りました。

数千メートルに及ぶ垂直に近い氷の壁を、ピッケルとザイルで慎重に登って行き、さまざまな思いを抱きながら頂に立った姿を見て感動を覚えました。

シスパーレの氷壁に挑む平出さんと中島さん(山と渓谷オンラインより)

人生は挑戦の連続と言われます。

お二人の生き様を見ていて、山登りで自分の限界に挑戦し、魂を成長させることを志願して生まれて来たと思ってしまいます。

そうでなければ、これほどの危険を冒してまで登り続けることはできないでしょう。



残念ながら、お二人は7000m付近で滑落し、帰らぬ人となりました。

若くても、当初の目的を十分に果たして霊界に戻られたと、私は信じています。

K2登頂前の平出さん(左)中島さん(山と渓谷オンラインより)


私たちの本来の住処は霊界です。

そこは思念の世界です。

想像するのが難しいですが、高くそびえる山の頂に立ちたいと思えば、一瞬のうちに移動することができます。



地上で山の頂に立ちたいと思えば、自分の足で歩いて行かなければいけません。

立ちはだかる問題をクリアして、息を切らして登り続けて、ようやく辿り着けます。

大変な思いをして登った山ほど、頂に立った時の感動は深く、忘れがたいものになります。

ヘリコプターを利用して頂に立ったとしても、同じような感動は味わえません。

一瞬で想いが叶う霊界では味わうことのできない、地上ならではの感動が存在していると思います。



登山には、リスクが伴います。

途中で、天候の急変があったり、滑落や転倒、落石に遭遇する可能性もあります。

そんなリスクを承知した上で、登り始めます。



地上に生まれるのも、いくつかのリスクを伴います。

いざ生まれてしまうと、人生の設計図(ブループリント)があったのを、すっかり忘れてしまいます。



人間には自由意志があります。

ブループリントに沿って出来事が起きたとしても、どう対応するのかは、その人に任されています。

逃げてしまうのか、挑戦(克服)しようとするのかは自由です。



挑戦(克服)する方を選んだ方が良いのは、生まれる前に(挑戦することを)自分で決めていたかもしれないからです。

逃げてしまえば、予定されていた学びや成長の機会を逃してしまうことになり、後悔するかもしれません。

そちらに進んで行かなければならないと言う、根拠のない衝動に駆られたのなら、それはブループリントに刻まれている出来事なのかもしれません。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「賢い人間とは、体験の全てを魂にとってプラスになる方向に転換する人、試練や誘惑から逃げようとせず、全力を尽くして困難の克服にあたる人です。その意気込みの中でこそ、霊性が進化し強化されるのです。」

エゴは逃げるための言い訳を見つけようとします。

それに惑わされず、挑戦(克服)して行く方向を選ぶのが賢明と考えられます。



さらにこう書かれています。

「自由意志は神からの授かりものです。しかしその使い道を誤るとそれなりの償いをしなければなりません。摂理に則った生活をすれば恩恵を刈り取ります。逆らった生き方をすればそれ相当のものを刈り取ります。」

自由意志があるために、過ちを犯してしまう可能性があります。

過ちを犯すと、成長しないどころか、償いが生じてしまいます。

償いのために、地上に生まれる人も少なくないと言われています。



いっそのこと自由意志などなければ、過ちを犯さないのにと思ったことがあります。

それに対しての回答は、こう書かれています。

「もしも人間が自由意志を奪われたら、只の操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせません。貴方が地上に生を受けたのは、地上は霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。様々な挑戦にあい、それを克服していく中で自由意志を行使してこそ、霊は進化できるのです。」



神が全てを決めているとしたら、自分の意志はないことになります。

人を傷つけるのも、裏切るのも、貶めるのも、神の意志ということなります。

それは明らかに神の心に反しているので、矛盾が生じてしまいます。



自分の意志が、神の心に反していれば、良心の呵責が生じます。

自分の意志だからこそ、反省をしたり償いをする必要があり、それが学びにつながっています。



神は完全です。

私たちは完全(神)を宿しているのですが、意志決定をしている媒体(自我)が不完全なために、過ちを犯してしまいます。

神性を発揮する方向を選ぶことで、完全(神)に一歩近づくことができます。



霊的なものが見えなくなる地上の人のために、神は守護霊を付けて下さっています。

守護霊は、地上の人にインスピレーションを送り、時に五感で分かる現象を起こして、生まれて来た目的を果たせるように導いています。

ただ、地上の人の意志決定に干渉はできません。

自分で決めて、自分で責任を取ることになります。



私たちは、成長するために地上に生まれて来ました。

けれども、自由意志が与えられているために、過った方向に進んでしまったり、成長を妨げる行いをしてしまう可能性があります。

そのリスクを承知した上で、この人生に挑戦しています。



これから登る山を目の前にした時、アルピニストは身が引き締まる思いがするでしょう。

これから辿る地上の人生を前にした時、私たちは身震いをしていたのかもしれません。

それでも、目的を果たせるという確信があったからこそ、挑戦することを自分で決めて、母体に宿ったと思われます。



2026年1月18日日曜日

想い(動機)を問い質す

 

霊的真理を知って、心がけるようになったことがあります。

それは、行動する前に想い(動機)を問い質すことです。



シルバーバーチはこう言っています。

「自分で正しいと思うこと、良心が指示することを忠実に実行しないといけません。最後は自分が自分の裁判官となります。振り返ってみると正しかったこともあれば間違ったことをしていることもあります。しかし、動機が人のためということであれば、たとえ間違っていても咎められることはありません。動機が何よりも考慮の対象となります。」

戦争で人を傷つけるのは、もちろん良くない行為です。

けれども、動機が国や家族を守るためであれば、霊的に罪を問われないと言われています。



そして、こうも言っています。

「何事も動機がその価値を決めます。慈善事業(チャリティ)に気前よく大金を寄付する億万長者は、その行為によって少しも霊性は伸びません。反対に、これは絶対に意義があると信じて無い金をはたいて援助する人は、その動機ゆえに霊性が伸びます。」

どれほどのことをしたのかではなく、どんな想いでしたのかが問われています。



近年、動物愛護に対する関心の高まりと共に、保健所で殺処分される犬猫の数は着実に減っています。

残念なことですが、動物愛護活動をしている人の中には、動機が好ましくない人もいるようです。

近隣の街で、飼い主のいない犬や猫を自分が作ったシェルターで保護して、その様子を動画に挙げている人がいます。

それを観て、金銭面で支えてやろうと寄付をする人も少なくありません。

しかし、寄付された浄財の多くは動物たちのためではなく、自分の生活のために使われているようです。

動物を利用して人の善意に付け込んでいます。

当初は可哀想な動物たちのためにという純粋な動機から始めたのかもしれませんが、年月と共に利己的な動機にすり替わって行ったようです。

どこかで動機を問い質していれば、過った方向に進んで行くのを防げたのかもしれません。



私も気を付けなければいけないと思っています。

約20年前にヒーリングの力が私の手から出ているのに気付きました。

直後に霊的真理に出会いました。

目に見えない力が存在していることを多くの人に知ってもらいたい、そして真理に出会い救われた私は他の人にも同じ恩恵を受けてもらいたい、そんな想いからこのブログを書き始めました。



かつての私がそうであったように、必要としている人にとって、真理は人生を変えるほど重要な意味を持っています。

例えば、魂が存在し、あの世でまた会えるという真理は、最愛の人を亡くした人にとって救いをもたらします。

救われた人は、必要としている人に伝えたいという想いが生まれ、真理は少しずつ広がって行きます。



真理の普及は霊界主導で行われています。

必要としている人が、伝えようとしている人や書かれている本と出会うように、霊界が導いていると考えられます。

今はインターネットが普及しているので、昔よりも容易に両者を出会わせることができると考えられます。

詳細は明らかではありませんが、真理を必要としている人に適切な言葉を打ち込んで検索させるように、霊界がインスピレーションを送っている時があると思います。

そして、伝えようとしている人のサイトや本が現れたら、特別なものを感じさせるインスピレーションを送って、開かせていると思います。



それとは逆のパターンもあります。

あるブログを観ていて、何か特別なものを感じました。

ブログの管理者の女性はカウンセラーとして活動をしていましたが、読み進めてみると、小学生のお子さんを突然の事故で亡くされていたことが分かりました。

この人の役に立てるのでは、という思いが生まれました。

しばらくすると、その女性とお子さんがキッチンで戯れているイメージが心の中に浮かびました。

何か伝えたいことがあるのではと思い、お子さんの意識に焦点を合わせると、心の中に言葉が生まれて来て、手紙のような文章になりました。

伝わって来たことは、伝えなければいけないと思っています。

突然で驚かれること、失礼なことを承知の上で、その文章をコメント欄に書き込んで、お伝えしました。

しばらくしてブログを観ると、同時期に私以外の複数の人からも同様なメッセージが伝えられていて、(お子さんが)生きているとしか思えないと綴っていました。

この件により、必要としている人に真実(真理)が伝わるように、霊界の人が地上の人を使って、計画的に働きかけていることを実感しました。


霊界の人たちは、地上の人の心の中が分かっています。

どのような想い(動機)で、行動しているのかも承知しています。



霊界の人たちが導いているのは、地上の人たちへの愛情があるからです。

地上の人から、苦しんでいる人や悲しんでいる人を何とかしてやりたいという想いが発せられると、その想いは霊界の人たちに届いて、必要としている人とつなげていると思われます。

いくら知っていたとしても、何とかしてやりたいと言う想いがなければ、霊界の人たちと同じ想いで協調することはできないと考えられます。



以下のシルバーバーチの言葉は霊界の人たちの想いを代弁していると思います。

「ストレスと難題の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は真理の使節としての自覚を持たなければなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし悲しみに中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。(中略)真理の啓示を受けた者ー永いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って目も眩まんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行し滅私の観念が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。真理普及の仕事を託された者に私が申し上げたいのは、現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純真無垢の輝きを失いかけてないか。今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか。時と共に煤けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか。そう反省してみることです。霊力の地上への一層の顕現の道具として、己の全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです。」



死んで霊界に行くと、地上の全人生を振り返る時が来ます。

どんなことを言ったか、どんな行いをしたかを逐一思い出し、それによりどんな結果が生じたのかが分かります。



その時の想い(動機)を同時に思い出します。

行ったことの霊的な価値は想い(動機)により決まります。

利己的な動機であれば価値は見つけられず虚しさを覚え、利他的な動機であったのなら価値を見つけてうれしくなるでしょう。

真の喜びは、誰かの役に立った時に生まれるからです。

魂を成長させ、今生に生まれて来た意味を成就することにつながっています。



必要としている人はたくさんいます。

そんな人たちに心を寄せて、何とかしてやりたいという想いを持ち続けることが何よりも大切だと、改めて感じています。



2026年1月11日日曜日

真の喜び


霊的真理と出会い、あの世があることを知りました。

死は、あの世へ移行する自然現象と分かり、怖くなくなりました。



あの世は、この世の苦から解放された世界です。

煩わしい人間関係もありません。

病気や障がいもありません。

食べるために働く必要もありません。

自分のやりたいことを心行くまでできます。



けれども、自分のやりたいことだけをしていても、虚しさを感じてしまうかもしれません。

それだけでは成長しないからです。



人は誰かのために何かをすることで喜びが得られて、成長して行くことができます。

より次元の高い奉仕をしようとすると、自分に欠けている資質、足りない資質を自覚するようになります。

居心地の良いあの世を離れて生まれて来たのは、この世でしかできない経験をすることによって、奉仕のために必要とされる資質を身に付けるためです。



霊界では、周りのことに無関心で、自分のやりたいことだけをしている人は、一種の利己主義者として映っているのかもしれません。

「利己主義者は自分自身にも悪影響を及ぼし、自らの進歩も進化も向上も発達も妨げているのです。」とシルバーバーチは言っています。

自分のことしか考えていない人は、どの世界においても成長できないようです。

そのことに気付いて、改めるために、この世に生まれて来る人もいるでしょう。



この世に生まれると肉体があります。

そして、肉体を使って自己表現するための(地上の)自我が生まれます。

自我の働きにより、「自分」と言う意識が強くなります。

その意識を言葉や行いで表現してしまうと、因果律の働きによって、この世ならではの苦痛を味わうことになります。


子供の時、わがままな言動をしていると、周りから仲間外れにされることがあります。

一人ぼっちになり、孤独という苦痛を味わうことで、何がいけなかったのかを考えます。

自分だけではなく、周りのことも考えた言動をするようになって行きます。



社会に出れば、組織のために働かなければいけません。

上司や同僚の助言や忠告を聞かずに、自分の考えだけで行動していれば、協調性のない不適格者として、組織から排除されてしまう可能性があります。

収入を得て生活して行くために、自分を抑えて、組織の意向に沿って、行動するようになって行きます。



家族ができれば、やりたいことだけをしているわけにはいけません。

自分よりも家族を優先して行動するようになります。

あくまでも自分を優先しようとする人は、家族から絶縁されてしまうかもしれません。



あの世で自分のやりたいことしかしなかった人がこの世に生まれると、法則の働きによって、苦痛を感じる出来事が次々と起きると考えられます。

人は苦痛を感じたくありません。

生き方や考え方を改めて行くようになります。

この世で周りのために何かをする習慣を身に付けた人は、あの世に戻ると自分のやりたいことだけではなく、周りのために何かができるようになっていると考えられます。

それが自らの成長へとつながって行きます。



仕事や家事をしていて1番うれしく感じるのは、喜んでもらえた時だと良く聞きます。

誰かの役に立って喜んでもらえると、法則の働きによって、自分にも喜びがもたらされるからです。



法則を創った神は、この世で喜びと苦痛を味わわせることで、誰かのために何かをする方向へと導いていると考えられます。

誰かのために何かをすることによって、そこに調和が生まれます。

個と個を隔てている障壁が取り払われ、全体が調和して1つになるのが、神の意図であると考えています。



自分のことしか考えない利己的な人は、富や地位や名声に執着することが多く、それを得ることに喜びを感じます。

けれども、そんなエゴの欲求をいくら満たしても、永くは続きません。

際限なく、追い求めることになります。



そんな人が大きな権力を持つと、エゴを満足させようとする言動が繰り返されます。

それにより、全体の調和が乱されます。

互いが信じられなくなり、争いが起きやすくなります。

個と個は分断されて、神の意図とは違う方向に向かってしまいます。



シルバーバーチは、「利己主義は割に合わない」と言っています。

自分だけが得をしようとする生き方は神の摂理に反していて、因果律の働きにより、苦痛を伴う結果(償い)が生じ、成長が妨げられるので、霊的に損をすることになるからだと思います。



結果が生じても、権力者は力によって、それを封じ込めようとします。

封じ込めたことに対する結果が生じても、さらに封じ込めようとします。

それを繰り返しながら、破綻へと進んで行くのは、歴史を顧みれば明らかです。



エゴを満足させるために、多くの人に苦しみや痛みを与え、人生を狂わせた人には、相応の報いが待っています。

この世で報いを免れたとしても、因果律の働きからは、絶対に逃れられません。

どれくらいこの世に生まれて、どれほどの苦痛を味わわなければならないのか、想像するだけで背筋が寒くなります。

無知ほど恐ろしいものはありません。



黙認した人たちにも因果律は働いて、後悔や侮辱を味わうことになると思われます。

大きな代償を払いますが、それが転機となって、考えを改めるようになります。

現時点の世界は、利己的な行いに対する結果が生まれる前の段階と考えられます。



苦痛を伴いながら、意識は自分から周りへと向かって行きます。

周りを意識するようになるのは、全体が一つであり、霊的につながっているからです。



霊的につながっているので、他者の喜びの中に、真の喜びを見出すことができるのです。

自分だけが良くなっても、心が満たされないのです。





2026年1月4日日曜日

愛により1つになる

 

大晦日の夕方、神社にお参りに行って来ました。

もう何時間かすれば人で溢れるであろう境内には数人しかおらず、とても静かでした。

拝殿の前で手を合わせて、今年1年無事に終えられたことを感謝しました。

そして、霊的真理が行き渡り、世界が1つになることを祈りました。



私たちが生まれる前にいたのは、宇宙(全体)が1つであることを実感する世界です。

けれども、地上に生まれると五感で世界を認識するようになり、目に映るのは肉体(物質)だけです。

それぞれの人間は、独立して存在しているように思えてしまいます。



それは錯覚です。

地上においても、全ての人間は霊的につながっています。

全体は1つです。



霊的な知識がある人間だけが、そう思えるのではありません。

現実の世界から隔絶された環境に置かれて、そのことを実感した人たちもいます。

アポロ計画で月面に立った複数の宇宙飛行士が、自分と宇宙が一体であると感じたそうです。

漆黒の宇宙空間に浮かぶ地球を見て、1つの生命体のように思えたそうです。


物質しか見えなくなると、さまざまな問題が起こります。

戦争もそうです。

国境は人間の頭で勝手に拵えたものです。

境などは、どこにも存在していません。

国が違っても、そこにいるのは同じ魂を持った人間です。

同じ人間同士が争うのは、私たちは霊的な存在であり、霊的につながっていることをすっかり忘れているからです。



何かが起きると、日常の意識から霊的な意識に切り替わることがあります。

人類が滅亡するかもしれない大きさの小惑星が地球に衝突することが分かったらどうでしょう?

危機的な状況に、多くの人の霊的な意識(魂)が目覚めるでしょう。

そして、全ての人間は同じ地球を生きている同胞であることに気付くでしょう。

直ちに戦争を止めて、国を超えて協力し合い、困難に立ち向かうでしょう。



1人で泣いている子がいると、気になって声をかける人がいます。

親とはぐれて寂しそうにないている子猫がいると、可哀想になって家に連れて帰る人がいます。

災害が起きて、困っている人がいると、仕事を休んでボランティアに行く人がいます。

生きているもの同士の間に、霊的なつながりがなければ、気になったり、同情したり、助けようとしたりしません。



話は変わります。

人間には、37兆個もの細胞があります。

脳細胞、筋細胞、皮膚細胞等々、1つ1つの細胞には明確な役割りがあります。

生きて行くために、どの細胞も欠かすことはできません。


のどに口蓋垂という組織があります。

見ただけでは、何のためにあるのか分かりません。

けれども、なければ食べ物が鼻腔に入ってしまい、発音もしずらくなります。

健全に生きて行くために、なくてはならないものです。



存在している理由が分からなかったとしても、全体のために何らかの役割りを果たしています。

無駄なもの、無用なものは、この世界に存在していません。



全ての細胞は、全身を構成する一部であり、同じ血液が流れて、つながっています。

全ての人間は、全体を構成する一部であり、同じ生命力が流れて、つながっています。

全体を生かしながら、全体に生かされています。

お互いが全体の一部なので、争って人を傷つけるのは、自分を傷つけているのと同じです。



地上に誕生したのは、偶然ではありません。

生まれようとする意志があって、その意志に法則(因果律)が働くことによって、地上に誕生しています。

意志に対する結果です。



生まれようとする意志は、自らを成長させようとする意志の反映です。

地上でしか経験できないことがあり、その経験から大切なものを学んで、魂を成長させるために生まれて来たのです。



学ぶべき大切なものは「愛」と思われます。

生まれる前にいた霊界では、愛は太陽の光のような存在と考えられます。

当たり前のように享受しているので、どれほど有難く、価値のあるものなのかが、返って分かりにくくなっていると考えられます。



地上に生まれると、愛は見えなくなります。

けれども、地上の人間にも、霊的な感覚はあります。

さまざまな経験を通して、五感に触れない愛を、魂で感じ取ることができます。

地上という霊的な暗闇の中にいるからこそ、愛が光り輝いているのが分かるのです。



地上では、怒りや憎しみや嫉妬などの感情が存在しています。

対照となる感情が存在するからこそ、愛の意味や価値を深く知ることができるのです。



愛は魂を引き付ける霊的な力です。

隔てている障壁は、愛によって取り除かれて行きます。

怒りや憎しみや悲しみなどの遠ざける感情は打ち消されます。



愛には、さまざまな表現の仕方があります。

思いやりや優しさによって表現されることもあれば、認めたり許すことによって表現されることもあります。

けれども、地上では自我(エゴ)があるために、表現するのが難しくなります。

エゴに打ち克ち、愛を表現することが、地上に生まれた大きな目的の1つと考えられます。



私たちは霊的に1つであると、強く信じて下さい。

それによりエゴの働きは弱まり、霊的な意識が高まります。

怖れがなくなり、周りを慈しむ想いが、内から自然に湧き出して来るはずです。



全ての障壁が愛によって取り除かれた時、魂は1つになります。

それこそが、宇宙を創造した神の意図だと思います。