2025年11月23日日曜日

動物を食べてはいけない

 

前回は「クマの駆除」について思うところを書きましたが、それでは片手落ちではないかと感じましたので、このテーマで書くことにしました。


子供の頃、たくさんの牛が貨物トラックに載せられて、走って行くのを見ました。

今にも涙を流しそうな潤んだ悲しい目をしているように見えて、何とも言えない気持ちになりました。



小学6年生くらいの時に、その牛たちの行く末を知ることになります。

実家の近くに、規模の大きい食肉工場がありました。

ある日、近所の友達とその工場に隣接した公園で遊んでいました。

ふと工場の中がどうなっているのかが気になり、中を覗いて見ようという話になりました。

友達とともに背丈よりも高いブロック壁をよじ登ると、目の前に工場のくもりガラスの窓がありました。

半分位割れてなくなっていたので、建物の中の様子を覗くことができました。(※ここからは凄惨な描写になりますのでご注意ください)

そこに数人の男性が見えました。

しばらくすると一頭の黒白模様の大きな牛が、男性たちの中に牽かれてやって来ました。

牛は観念しているのか、身動きも、抵抗もせず、鳴き声ひとつも上げていません。

一人の男性が、つるはしの両刃が10センチ位に短くなったような道具を持っていました。

何に使うのか考えている暇もなく、男性はその道具を振り上げて、力いっぱい、牛の眉間の少し上の部分に、振り下ろしました。

刃先が頭蓋骨を打ち破る、鈍い音が響き渡りました。

直後に、牛はコンクリートの地面に倒れて、頭蓋骨の穿孔部から、どくどくと真っ赤な血が溢れ出てきました。

男性の一人が、倒れた牛の額の穿孔部に針金のようなものを入れて行くと牛の後ろ足がピクピクと痙れんしていました。

他の男性たちは、刃物で皮を引き裂いて、はがしていき、あっという間に、皮膚のない牛が、フックみたいな金属につるされました。

今まで元気に生きていた牛が、人間の手で殺されて、ものの5分もかからないうちに肉の塊になりました。

あまりに衝撃的な光景を目の当たりにして、言葉をなくしたまま家に帰りました。



今も変わらず、たくさんの牛や豚やニワトリが食肉工場へと運ばれて行きます。

あるドキュメンタリー映画で、豚を乗せたベルトコンベアが、小さなスペースの前で止まり、プレス機により一瞬のうちに圧死させて屠殺するシーンがありました。

苦痛や恐怖を軽減するためでしょうか、今は機械により行われていることを知り、より一層の非情さを感じました。



比較的安い値段でハンバーガーを提供している会社があります。

生産コストを下げるために、動物たちは密集度の高く、自由を奪われた環境で育てられていることが多いようです。

動物は商品に過ぎないので、ストレスなど全く関係ありません。

そして、容赦無用に肉にさせられます。

同じ魂を持つ生き物に対する尊厳は微塵も感じられません。

絶対的強者である人間による、弱者への究極的な虐待のように思えてなりません。

口にしている肉が、どのような行程で造られているのかを知れば、食べる気が失せてしまうでしょう。

いいえ、知らないふりをしているだけかもしれません。



ところで、人間は肉を食べなければ生きて行けないのでしょうか?

むしろ、健康的に生きて行けると私は思っています。

疫学的研究からも、摂取する肉食の量が多くなるほど、病気になるリスクが高くなることが示されています。(下図)

「Nature  Madicine」10 October 2022 より


それでは、人間はどんなものを食べるように創られているのでしょうか?

人間の奥歯の形態は、嚙み合わさる面が平らになっていて、穀物や豆類などを砕いて食べるのに適しています。

同じ霊長類であるゴリラやオラウータンは人間と似たような歯の形態をしており、果実などの植物しか口にしません。

人間の下の歯


一方、肉食動物の奥歯の形態は、鋭く尖っていて、肉を嚙み切れるように創られています。
ライオンの下あごの標本

人間は肉を食べるように創られていないのです。



牛や豚やニワトリは、何らかの役割りがあって、地球に存在しています。

例えば牛ですが、草を食べて過度の繁茂を防いだり、背の高い植物の競争力を抑えて多様な草花が生える環境を作り、草原の更新を促し光が地表に届くようにさせるなど、草原生態系の維持に貢献しています。

豚もニワトリも同じように、大自然の中での役割りがあります。

傍にいたならば、犬や猫のように人を癒すことができるのかもしれません。

人間に食べられるために存在していないのは確かです。




食肉工場で屠殺された動物たちはどうなるのでしょうか?

霊界を探訪して来た人によると、人間によって肉体を奪われた動物たちの絶叫が聴こえるエリアがあるようです。

極めて大きな恐怖を感じながら命を奪われ、その意識のまま霊界に行くので、当然のことながらそうなります。

              

そのエリアには、神からの癒しの力が降り注がれていると共に、動物を慈しむ霊界の人たちによって介抱されて、興奮状態は鎮められて行くと思われます。

良心に反して、利己的な目的のために動物に苦痛や恐怖を与えた人たちは、死んで大いに後悔することになります。

その後悔を晴らすため、罪を償うために、地上からひっきりなしに送られてくる動物たちの管理や世話をしているのではないかと想像しています。

愛により本来の姿を取り戻した動物たちは、自分が属している類魂へと戻って行くと考えられます。


人間から愛を受けることによって、動物は霊的に進化します。

肉を食べるという行為は愛とは真逆であり、動物たちの進化は妨げられます。

摂理に反したその行いは、自らの進化を妨げるという結果となって、人間に返って来ます。



動物たちの苦痛や恐怖を想像する力の欠如、そして霊的な知識の不足から、肉を食べる習慣が続いています。

それを急に止めさせることはできません。

けれども、人類の霊的成長に伴い、毛皮のコートを着る人が少なくなったように、肉を食べる人も少なくなって行くでしょう。

数百年後には、肉を食べる人は少数派になります。

そして千年後には、食べていた時代があったのかと、驚かれる時が来るでしょう。



動物を食べてはいけないのは、人間と霊的に近しく、豊かな感情を持っているからです。

人間に食べられるために創られていないからです。









2025年11月16日日曜日

クマの駆除について思うこと


連日のように、人里にクマが出没し、人が襲われるニュースが報道されています。

今年、日本でクマに襲われて命を落とした人の数は13名で、過去最高です。

生息地域周辺に住む人にとって生命に関わる問題であり、早急な対策が望まれます。



なぜ、クマが人の住んでいる地域にまで入って来るのでしょうか。

その大きな理由として、山でドングリなどの食糧が採れなくなったことが挙げられます。

通常、冬眠前のクマはたくさんの木の実を食べて、皮下脂肪を蓄えて丸々と太っていますが、ニュースの映像を見る限り、ほっそりとしていることからも、そのことが窺えます。



十分な皮下脂肪を蓄えないと、クマは冬眠に入れません。

冬眠に入れなければ、食糧の乏しい冬は越せません。

生命に関わる深刻な状況にクマも陥っています。



クマが狂暴になったと言われますが、果たしてそうでしょうか?

人間も空腹になると(血糖値が下がり)イライラしたり、怒りっぽくなります。

クマも同じだと思います。

寒い冬が迫って来て、焦りのようなものも感じているのかもしれません。



クマは警戒心が強く、臆病な動物です。

食べないと冬が越せないので、やむを得ず食糧のある人里まで降りて来ていると考えられます。

山にいると飢えて死んでしまい、人里に下りて餌を探すと撃ち殺されてしまう、どちらにしても過酷な運命が待っています。



何故、このような状況になってしまったのでしょうか?

木の実が採れなくなった原因は、気候変動にあると考えられます。

気候変動の大元に、地球温暖化があるのは間違いありません。



ドングリやナラなどの実は、一定間隔で豊凶作を繰り返していますが、気温が高くなると凶作が短い期間で起きると言われています。

特に、猛暑の年は花芽の発育が不良になり、翌年は凶作になるようです。

猛暑が続く限り、凶作も続くと考えられます。



地球温暖化は、人間が過剰に作り出している二酸化炭素によって起きています。

つまり、クマが人里に下りて来る大きな原因を作っているのは人間と言うことになります。


地球温暖化により被害を被っている動物は他にもいます。

気温上昇のために北極圏の氷が溶け出して(過去40年で40%消失)、アザラシなどを捕食しているシロクマは移動できないために、飢餓状態に陥っています。

私たちが知らないだけで、たくさんの生き物たちが生命の危機に晒されています。

痩せたシロクマ

全ての生き物に神性が宿っています。

霊的に同じ価値があります。

けれども、多くの人間は自分たちが最も価値のある生き物だと思っています。

そのために、人間中心に考え、他の生き物にまで関心が及びません。



人間の行いの1つ1つに、自然法則が働いています。

傲慢で利己的な行いには、苦痛を伴う結果が返って来ます。

(ケガをした人や亡くなった人に非があるわけではありませんが)クマに襲われるのは人間の身勝手な行いが原因と考えられます。



人家に入ったクマを撃ち殺す銃声がニュースで流れて、心が痛くなりました。

もちろん自分の身を守る権利はありますが、人間の諸業の被害者であるはずのクマが、一方的に撃ち殺されている現実に矛盾を感じずにはいられません。



私も日常生活で、車に乗り、電気を使い、二酸化炭素を出しているので、責任の一端があります。

非現実的かもしれませんが、人間とクマの命を守るための対策を、私なりに考えてみました。

〈短期的対策〉

・クマの食糧となるものを屋外に置かない。(柿や栗などの実も早期に収穫)

・無用な接触を避ける。(生息地域周辺の登山やハイキングなどの自粛)

〈中期的対策〉

・人里に現れたクマを射殺するのではなく、麻酔銃(吹き矢)で捕獲して、人間が恐い存在であることを自覚させて、位置情報が得られる発信器を装着して山に帰す「キャッチ&リリース」を繰り返す。(都道府県単位でクマGメンを組織してこの業務に当たらせる。)

・「クマアプリ」を開発し、一定範囲内にクマが近づいて来たらスマホに通知するようにする。

〈長期的対策〉

・放置されている人工林(スギ・ヒノキ)を間伐し、ブナなどの広葉樹を植えて、実り豊かな森林にする。

⦿学校の授業の一コマに「地球を考える(仮称)」を組込み、その中で野生動物との共生について考える。

その中で、自我(エゴ)がまだ発達していない子供たちに、こんな霊的真理が伝えられれば、どんなにか良いでしょう。

「愛が愛として本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間が拵えているのです。神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、勝手に優越性を誇ったためです。」

子供たちに分かりやすく書くとこうなります。

「みんなの心の中にある「愛」がちゃんと働くようになれば、この世界の生きものは、みんな仲よくくらせるようになります。でもね、人間は地球をよごしたり、あらそったりしています。神さまが悪いわけでも、動物たちが悪いわけでもありません。人間が「ぼくたちが一番えらいんだ」と勘違いをして、好き勝手にしてしまったから、いろんな問題が起きているのです。」



「人間が悪いのに、クマを殺しても良いの?」と子供たちに問いかけたらどうでしょう?

「だめ!」と多くの子供は答えるでしょう。

「動物たちを助けるためにはどうすれば良いの?」と投げかければ、おのずと地球温暖化に関心が向くと思います。

そこで、二酸化炭素を減らすために、社会でするべきこと、自分にできることを、みんなで話し合います。

答えが出たら、今日から実行に移してもらいます。



同じような問題が世界中で起きています。

日本だけでなく世界中の学校で、今起きている問題を通して、地球温暖化について話し合います。

同じ想いを、世界中の子供たちに共有してもらいます。


射殺された母クマの乳を吸う赤ちゃんクマ(日本熊森協会HPより)


「クマを駆除する」

山にいて平和的に共存していたクマを、人里に下りて来なければならない状況を作った人間に、そんな権利があるのでしょうか。

その場しのぎで、人間のことしか考えない、エゴの強くなった人たちにいくら言っても無駄なような気がします。

動物たちの窮状と、なぜこうなったのかを教えれば、子供たちの良心に響いて、真剣に考えてくれるでしょう。

子供たち一人ひとりの意識が、人間だけでなく動物たち、そして地球全体に向かうことで、世界は確実に変わって行きます。






2025年11月9日日曜日

地上に生まれた理由


私たちは地上に、何らかの目的があって生まれて来ました。

自分には目的など見当たらないと言う人もいるでしょう。

それでも、なければ生まれて来ないので、あったと言わざるを得ません。



死んで無にならないと、霊的真理によって知りました。

肉体から魂が分離する現象が死であり、肉体から離れた魂は霊界に赴きます。

そこが本来の住処です。



想像するのが難しいのですが、霊界では想ったことが直ちに具現化します。

食べる必要がなく、働く必要もありません。

煩わしい人間関係もありません。

病気や怪我の心配もありません。

自由にやりたいことができます。

何の悩みもなく、無邪気に遊んでいた子供の頃に、少し似ているような気がします。



高い界層から地上圏に戻って来た目的を、シルバーバーチはこう語っています。

宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体を運行せしめ、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまでに成就したもの全部をお預けにして、この冷たく、薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当たらせているのです。

何の目的もないのに、快適で住み慣れた世界を離れて、好き好んで地上に生まれようとする人はまずいません。



それぞれに目的がありますが、いざ地上に生まれると分からなくなってしまいます。

特別な使命がある人もいるでしょうが、多くの人は学び成長するためと考えられます。



地上に生まれなくても、学び成長することができるのではないかと思う人がいるかもしれません。

出来るならば霊界で成長して行きたいと私も思う時がありますが、そうは行かないようです。


私たちが学んでいる叡智で最も重要なものは「愛」です。

そして、霊的に成長するために必要なものも同じく「愛」です。



思念の世界である霊界では、愛に実体があります。

愛は光輝であり、霊的な感覚によって認識されます。



例えて言うならば、太陽の光のような存在かもしれません。

生きる上で、必要不可欠なものです。

けれども、在って当たり前のように思うと、ありがたさは感じられなくなります。

ありふれたものになるほど、その存在意義が分からなくなってしまいます。



そこで地上に生まれます。

地上では、肉体に付随する五感に依存するようになります。

相対的に霊的な感覚は極めて弱くなります。

霊的に盲目な状態で生きています。



五感で愛は感じられません。

地上では肉体を介した表現を通して、魂が感じ取るようになります。



道を譲ってもらうと、うれしくなります。

失敗して慰めてもらうと、気持ちが落ち付きます。

助けてもらうと、助けてくれた人に感謝したくなります。

このような心の変化は、魂が愛を感じ取った時に起こります。


太陽の光の下では、ロウソクの光は分かりにくいです。

闇の中で、浮かび上がります。



それと同じで、愛が実感できる霊界では、却って愛は分かりにくくなります。

地上という霊的な闇の中で、愛は光り輝きます。



そのために必要な出来事を経験しています。

その出来事は、往々にして苦しみや痛みや悲しみを伴います。

精神的に追い詰められた末に、魂が目覚めます。

真っ暗闇の中で、霊的な目が見開かれて、本当に大切なものを見出します。



地上では肉体があるために、怒りや憎しみなどの感情が生まれます。

それらの感情が渦巻く世界で、より一層、愛は存在を際立たせます。



何故、そこまでして愛を学ばなければいけないのでしょうか?

生命が愛によって1つになって行く計画が立てられ、この宇宙は創造されたと考えています。



愛は魂を引き付ける力です。

お互いが愛を発揮することで、調和が生まれ、霊的に1つになって行きます。

愛は宇宙を進化させている根本原理なのです。



霊的なものが見えなくなる地上に生まれ、さまざまな出来事を経験することにより、霊界に戻ってより高く強い愛が発揮され、深い悦びが感じられるようになります。

魂と魂が愛によって強く結ばれ、霊的に1つになった時に感じる悦びに優るものはありません。



限りなく先になりますが、全ての人が神の愛を表現するようになった時、全体は1つとなり、至高の悦びに満たされた世界となります。






2025年11月2日日曜日

法則の働き

地上の人間は、目に見えない霊(魂)と精神、目に見える肉体から構成されています。

それぞれが存在している次元は異なります。



全ての次元に、自然法則が働いています。

法則には普遍性と再現性があり、いつどこでも同じような現象が起こります。

水は0℃になると凍り、100℃になると沸騰します。

これは物質的次元の法則の働きによるものです。

別れには悲しみが、裏切られると怒りの感情が生まれます。

これは精神的次元の法則の働きによるものです。

地上に生まれるのも、去るのも、霊的次元の法則が働いた結果です。



全ての法則の根幹を為しているのが「因果律」です。

原因があれば必ず結果が生じ、結果があれば必ず原因があります。

あらゆる事象は、因果律の働きによって起きているので、偶然はありません。



病気にも原因があります。

お酒の飲み過ぎで肝臓病になる人がいます。

これは物質的次元のアルコールが原因です。

過労で胃潰瘍になる人がいます。

これは精神的次元のストレスが原因です。



霊的次元に原因があって、物質的次元(肉体)に病気となって現われることがあります。

例えば、遺伝性疾患です。

受精した瞬間に遺伝子の変異が起きるのであれば、原因は受精以前にあることになります。

生まれる前に原因が存在しているので、霊的次元の病気と言えます。

ガンや膠原病などの病気も、物質的、精神的、霊的次元の原因が絡み合って生じていると考えられます。

物質的、精神的次元の原因は取り除くことが可能ですが、霊的次元の原因を医学的に取り除くことは不可能です。



病気以外の出来事も、生まれる前に原因があって起きることがあります。

過去の人生において、何かしらの過ちを犯して、それが原因となって(苦痛を伴う)出来事が起きることがあります。

自分を成長させるために、出来事を経験する人生を選んでいる時もあるでしょう。



起きた出来事を偶然や運と思ってしまうと、何で自分がこんな経験をしなければいけないんだと、理不尽さが募り、憤りを感じることもあります。

シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「一つとして偶然がないのです。偶発事故がないのです。全てが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自分に目覚めた時、何もかも分るようになります。」

「私がこれまで送ってきた霊界生活で、“自分は神の法則によって不当に扱われている、不公平だ”と真剣に言える人を一人も知りません。」

地上で分からなかった原因や目的が、霊界に戻ると分るようになり、誰もが納得します。



人生には、およその計画があります。

無限の叡智によって、人生の計画は立案されています。

その計画を了承して、私たちは生まれて来ています。



計画されていた出来事が、目的を果たすために最善のタイミングで起こります。

それは地上にいる人にとって、最悪のタイミングに思えるかもしれません。

何の前触れもなく、亡くなる人がいます。

どこを探しても理由が見つからなければ、その時に亡くなることが予定されていた可能性があります。

そうであれば、地上にいる時間が短かったとしても、生まれて来た目的を果たしたと考えられます。



無限の叡智によって、法則は創られました。

法則の働きによって、宇宙は経綸され、秩序が保たれています。



無限の叡智は、無限の愛でもあります。

それを「神」と呼ぶことにします。

この宇宙は、神の心が具現化したものです。

宇宙の一部である私たちには、神の心が内在されています。



人生の計画の隅々にまで、神の愛が行き渡っています。

法則の中に、神の愛が顕現しています。

人生で起こる出来事は、神の愛のなせる業であるために、最終的には良きに計らわれます。



災害や事故により、苦しみや痛みを味わっている人がいます。

そんな出来事を経験した人にも、法則は働いています。

学びや成長という霊的な埋め合わがもたらされています。



冬の寒さに耐えた者は、春の暖かさにささやかな悦びを感じます。

この人生が終わると、新たな人生が始まります。

地上でしか起こり得ない出来事を経験した者は、新たな人生が始まると生きる悦びを感じます。

生きる悦びを感じるために、出来事を経験していると言った方が正しいでしょう。



さまざまな出来事を経験することで、魂は豊かになります。

苦難を乗り越えることで、魂は成長します。

それが神の法則であり、神の愛です。






2025年10月26日日曜日

病気を癒す力


20年前のある朝、ヒーリングの力が左手から出ていることに気付きました。

その力の正体を知りたくなり探している時に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。



そこには、こう書いてありました。

「痛みや苦しみを取り除いてあげることがヒーリングの目的ではありません。あくまでも手段です。つまり、居眠りをしている魂を目覚めさせ、真の自分を見出させるための手段に過ぎないのです。」

初めて読んだ時には、その意味がさっぱり分かりませんでした。



霊的真理を学び、ヒーリングの経験を積むに従って、少しずつ分かって来ました。

ヒーリングの目的は、魂に働きかけて目覚めさせることにあります。

けれども、魂が目覚めたかどうかを、外から判断することはできません。

その後の様子を見て、推測することになります。



今から、15年位前でしょうか、50代の女性が歯の治療を目的に来院しました。

顔色が良くありません。

お話をお伺いしたところ、家庭の事情などから精神的に追い詰められ、心身の不調が続いて、引きこもり状態になっているそうです。

お役に立てるかもしれないと思い、ヒーリングを行うことを提案しました。

すると、快く了承していただけました。



診療が終わった後にヒーリングを行いましたが、終わると彼女の表情は明るくなり、目の輝きが増していました。

その後、ご自分でも驚くほど快活になったそうです。

以前やっていたピアノ演奏のリサイタルを開くまでになり、聴きに来てくださいとチケットを渡されました。

この人のように、ヒーリングの後に生き方や考え方が大きく変わったとしたら、魂が目覚めている可能性が高いと思われます。



シルバーバーチの霊訓には、こうも書いてあります。

「ヒーリングによって奇跡的に病気が治る、それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によってその人が、霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、そのヒーリングは失敗に終わったことになります。」

10数年前のことです。

大学の同級生の奥さんが関節リウマチになりました。

朝の関節のこわばりが特に酷く、肩の関節は固着して腕は少ししか上がらず、家事も満足にできない状態でした。

ヒーリングで力になれないかと思い、同級生宅に赴きました。

話を聞くと、医者に肩が固着したレントゲン写真を見せられて、もう治らないと思ったのでしょう、泣いてしまったそうです。

その肩に左手を当ててヒーリングを行いながら、右手で腕を少しずつ挙げて行きました。

痛みもなく腕が挙げられたことに、とても驚いたようでした。

しばらくして、仕事に復帰し、ゴルフにも行けるようになったと話を聞きました。



その後、奥さんに会って話をする機会がありました。

身体は確かに良くなりましたが、霊的なことに関心は示さず、内面が変わった様子も見られませんでした。

目的を果たせなかったようであり、とても残念に思いました。



病気と言っても、原因はさまざまです。

物(肉体)的、精神的、霊的いずれかの次元に、原因が存在しています。



霊的な過ちを、病気の苦痛によって償っている人もいます。

学び成長するために、病気になることが予定されていた人もいます。



そんな人は、目的が果たされるまでヒーリングが奏功することはありません。

償いが終わりかけた時、予期した学びや成長が得られた時に、導かれるようにしてヒーリングを受ける人がいます。

そんな人たちの多くは、病気が癒されると同時に、魂が目覚めると考えられます。



目に見えない生命(霊)力が流れることによって、私たちは生きています。

病気や怪我は、生命力の一種である自然治癒力の働きによって癒されます。

生命の危機に晒されるほどの病気や怪我をして、自我が追い詰められて、魂が目覚める人がいます。



神の法則の働きによって病気は生じ、神の力である生命力によって癒されます。

ヒーリングにより外部から生命力が注がれなくても、内(魂)から湧き出している生命力によって、病気を癒すことができると考えられます。



そのためには、霊的な意識を高めなければいけません。

霊的な意識を高めるには、自我の働きを鎮めることが必要と思われます。

しかしながら、地上を生きるために自我の働きは必要不可欠なものであり、鎮めるのは容易ではありません。



思考するのも、感情が生まれるのも、自我の働きによるものです。

地上では自分(肉体)を守ろうとする意識が働くために、不安や怖れが生じます。

物質を介して自己表現している不確実な世界であり、思い通りに行かないために悩みが生じます。

そのような感情に捉われてしまうと、霊的な意識を高めることができないばかりか、生命力の流れも妨げられてしまいます。



シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「恐怖は魂を閉じ込めてしまう牢獄を作ります。恐怖の波動で乱されることなく、それを乗り越えていかねばなりません。誰にもやり遂げる力はあるのです。人にはどのような環境をも乗り越えていける力が与えられています。そのことを知り、完全な信仰と自信と信頼をもって『私には神性が宿っており、どのような状況も私を揺るがすことはできない。私の魂にはあらゆる困難に打ち勝つ無限の力があるのだ』と自分自身に言ってください。」(省略なし)



そしてこうも書いてあります。

「この世に克服できない悩みはありません。ですから。悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来事は何一つ起きないのです。ひとつ一つの経験から教訓を学ぶことです。難しいと思ったときは、ひるまずに自分にムチを打つのです。そうすればそれだけ前よりも強い人間となります。自分が霊であること、それが肉体を通して表現しているのだということ、そして自分という永遠の霊に傷を負わせたり害を及ぼしたりするものは決して生じないことを忘れないことです。」(省略なし)

「自分には神が宿っていて無限の力があるので、克服できないことはない」と自分に言い聞かせることによって、無用な感情や考えに捉われなくなり、内から生命力が湧き出して来ます。


人間よりも動物の方が、怪我の治りが早いように感じられます。

それは、人間のように自我から生じる感情や考えに捉われることがなく、生命力の流れが妨げられずに、自然治癒力が十分に発揮されるためと考えられます。



長寿の人に長生きの秘訣を尋ねると、「くよくよしない」、「腹を立てない」と答えが返って来ることが多いです。

生命力の流れを妨げてしまう感情に捉われなければ、病気になりにくいと考えられます。

昔から病気は気からと言われますが、自我の働き(心)と深く関係しているのは間違いありません。



思念(想い)は、具現化する力です。

地上では直ぐとは行きませんが、想いは具現化する方向へと向かいます。

病気を克服した自分の姿を思い浮かべて、そうなると強く想えば、身体もそちらの方向へと向かうはずです。(スティグマが現れるのもその一例です)



病気は地上でしか経験できません。

霊的なものが見えなくなる地上において、苦痛によって魂を目覚めさせ、言葉を超えた霊的な学びをするために、(霊的次元に原因がある)病気は存在しています。

その目的が果たされると、病気が存在する意味はなくなり、肉体上から消えるはずです。






2025年10月19日日曜日

1人で生きているのではない


先週末は学会参加のため、鹿児島市に行って来ました。

空港からバスに乗り市内で降りて、スマホのグーグルマップを頼りに、予定通りに学会場に着くことができました。

昔は、地図を見たり、道を尋ねたりしていたので、便利になったものです。

人生においても、どちらに進んだら良いのか、迷う局面があります。

これから先、スマホでAIに尋ねる時代が来るのでしょうか?



AIよりも、はるかに信頼できる存在が、私たちには付いています。

それは守護霊です。



守護霊は、地上の人のことを知り尽くしています。

人生の計画も知っていて、それに沿って生きて行けるように導いています。

どんなことがあっても、見放すことはありません。



ふと気が付くと、行動に移していたという経験はないでしょうか?

それは、守護霊を始めとする霊界の存在の働きかけによるものかもしれません。



霊界の存在は、地上の人にインスピレーションを送っています。

それを受け取った地上の人は、理由もなく行動に移したくなる衝動を覚えます。



子供の頃、家族で海に行った時のことです。

海に入って夢中になって遊んでいましたが、「ふと」後ろを振り向きたくなりました。

振り向いてみると、当時、幼稚園児であった妹が海面に顔を浸けていました。

変だなと思って起こしてやると、目を丸くし驚いた表情で、大きく息を吸い込みました。

遊んでいたのではなく、溺れていたのです。

振り向かなければ、どうなっていたのか考えると、今でもぞっとします。

霊界の存在は、妹の危機的な状況を知らせるために、インスピレーションを伝えて、私を振り向かせたと考えています。

胸騒ぎを感じる時は、霊界の存在が何かを訴えている可能性があります。



生きていると、さまざまな人に出会います。

そんな中で、どうしても気になる人がいます。

理由もなく意識が向いてしまうのは、霊界の存在がインスピレーションを伝えているせいかもしれません。



地上の人の学びや成長のために役割りを果たす人であったり、今生で出会うことが予定されている人かもしれません。

そんな人が出現すると、関りを持ちたくなるようなインスピレーションを地上の人に吹き込んで、会いたくなる、話したくなるような衝動を起こさせるかもしれません。

重要な出会いの多くは、霊界の存在が深く関わっていると考えられます。



霊的真理(シルバーバーチの霊訓)との出会いもそうでした。

さまざまな情報が飛び交うこの世界で、何も知らない私が最短で霊的真理に辿り着けたのは、いくつかの局面において、インスピレーションを伝えて導いてくれたおかげです。

今、振り返ってみると、それが良く分かります。



霊的真理には、生きる目的、死の意味、神について、霊界や守護霊の存在など、漠然と抱いていた疑問に対する答えが書いてありました。

それらは誰も教えてくれなかったことであり、真実と確信した私の生き方は大きく変わりました。



霊的真理によって、霊界の存在が身近に感じられるようになりました。

想いを寄せれば、何かしらの形で応えてくれます。

そのことが分かり、この世を一人で生きているという感覚はなくなりました。

自分の存在に気付いてもらい、霊界の存在も安心したと思います。



ふと思いついたこと、気付いたことは、霊界からのインスピレーションかもしれないと思うようになりました。

思考の産物ではないかと思うこともありますが、その場合はその前に必ず「入力」があります。

例えば、「2」と思いついたとすれば、思考であればその前に「1+1は?」などの入力があるはずです。

入力がないならば、霊界からインスピレーションが伝わって来て、ひらめきや気付きとして顕在化した可能性があります。



霊界に何かを尋ねた時、「瞬時」に答えが返って来たのであればインスピレーションの可能性が高いです。(忘れた頃に返って来ることもあります。)

思考によるものであれば、答えが出るのに時間がかかります。

霊界からインスピレーションが伝わっていることを地上の人が自覚すれば、気のせいにして無視してしまうことも少なくなり、霊界の存在も導きやすくなると思います。



霊的真理を知り、自分の中にある神性をはっきりと自覚するようになりました。

神性は良心となって顕現しています。

進むべき方向を、良心は指し示しています。

しかしながら、その方向は地上の自我(以下自我)が望んでいないことがほとんどです。



例えば、学校で誰かがいじめられているのを見かけたとしたら、良心は助けるように働きかけます。

助けたら自分までいじめられてしまうかもしれないと自我は考えます。

会社に不正があったとして、告発して正さなければいけないと良心は訴えます。

けれども、告発すれば職を失いかねないと自我は考えます。

両者の間で葛藤が起きますが、自我に打ち克つのは難しいです。



神性を発揮することで、人は成長が得られます。

霊界の存在は、良心に従って行動するように、想いを送って促しています。

勇気が湧くのは、そんな時です。



何かをやり遂げようとする時、それを後押しする想い(力)を、霊界にいる存在は送っています。

その想いによって、妨げている感情や考えが一掃され、前向きになれる時があります。



仕事の時にも、そのことが分かります。

難しい治療(手術)を行う前に、霊界の存在に意識を向けるようにしています。

手伝ってもらえるわけではありませんが、正しい方向を気付かせてもらったり、挫けそうになりそうな時は続ける力をもらえます。

感謝しています。



日常生活全般に渡って、想像している以上に、地上の人は霊界から恩恵を受けています。

日頃から霊界の存在を意識し、感謝を忘れないことは、人生の計画に沿って生きることにつながります。



周囲にいる人が、何かに挑戦する時や挫けそうになっている時に、勇気づけたり、励ましたり、慰めたりするのは、霊界の存在に代わって、想いを伝えていることになります。

自分の成長だけでなく、周囲の人の学びや成長につながることを手助けするのは、霊的な真実を知った者の責務なのかもしれません。





2025年10月12日日曜日

全ての存在は霊的につながっている


地上は物質の世界、霊界は思念の世界と言われます。

もう少し具体的に言うのなら、地上は思念が物質(肉体)を介して表現される世界であり、霊界は思念がそのまま表現される世界です。



例えば、地上では心の中にある想いや概念を、文字や言葉などに置き換えて、五感を介して相手に伝えます。

一方、霊界では思念は、直接相手の魂に伝わります。



思念(想い)は波動です。

地上の人にも波動を受信する霊的な感覚が備わっていますが、五感から入る情報量に圧倒され、伝わって来ている思念に気付くのは困難です。

それでも、伝わって来た想いを感じ取り、共感する時があります。



地上と霊界の違いは、肉体の有無です。

地上では肉体があるために、活動するには食物を摂らなければいけません。

食物を摂るためには、お金が必要になります。

お金を得るためには、働かなければいけません。



働くとは、人や社会のために精神や肉体を使って奉仕することです。

地上は生きて行くために、何かしらの奉仕をしなければいけない仕組みになっています。



肉体がない霊界は、食べて行くために働く必要はありません。

束縛するものは何もなく、好きなことを自由にすることができます。

毎日が休日のようなものであり、地上にいる私たちには羨ましく思えます。


  

         

地上も霊界も、生きる目的は同じです。

自分(魂)を成長させるためです。



困難や障害を乗り越えて行くこと、愛を表現することで人は成長して行きます。

けれども、肉体のない霊界では、地上のような困難や障害は存在しません。

争いや病気もなく、生きて行く上での不安や心配もありません。



好きなことが自由にできても、魂を成長させることができなければ、生きている目的を果たしているとは言えません。

いくら楽しくても、それだけでは虚しさを感じます。



そこで、霊界では起こり得ない出来事を経験するために、地上に生まれることを志願します。

自分を成長させるための人生が計画され、それを承知して母体に宿ります。

成長させるのに相応しい出来事が、最適のタイミングで起こります。

その出来事は往々にして苦しみや痛みを伴うものなので、そのことをすっかり忘れている私たちには、不幸な出来事としか思えません。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「困難こそ魂の肥やしです。むろん困難の最中にある時はそれをありがたいと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかしあとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。」

そして、こうも書かれています。

「あなた方にとって悲劇に思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸運と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることがあるのです。」

魂の成長という観点から判断している霊界では、起きた出来事の捉え方が地上とは真逆になります。



愛を表現することによっても成長して行きますが、何も難しく考える必要はありません。

人に親切にしたり、動物に優しくしたり、困っている人を助けたりするのは、愛を表現していることになります。

励ましたり、慰めたり、寄り添うことも、愛を表現していることになります。

許すこともそうです。

他者の幸せを願うこともそうです。

誰かが喜び、笑顔になれば、それで愛を表現していることになります。



霊界では、愛は実在として認識されています。

地上では五感により認識されないので、言葉や行動に置き換えて表現することになります。

表現の中に込められた想いを察することになります。

霊的な感受性が高ければ、(霊界と同じように)想いを直接感じ取れるでしょう。


地上的なものを手に入れた時の喜びは束の間です。

けれども、愛を表現した時、表現された時に得られる霊的な悦びには永続性があります。



霊的な悦びを得た地上での経験は、好きなことだけをして生きて行ける霊界において、全体のために何かをしようとする原動力になります。

霊界で自律的に成長して行くために必要な経験を地上でしています。



霊界では「愛」をどのように捉えているのでしょうか。

シルバーバーチは、このように表現しています。

「愛あればこそ全宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。」


NASA公開画像より

霊界に行くと、想いは直ちに具現化されます。

それと同じです。

神の心(想い)が具現化されたものが宇宙です。



神の心は無限の愛です。

無限の愛が、宇宙に表現されています。

宇宙の一部である私たちにも、神の心が表現されていて、無限の愛を内在しています。



魂の成長とは、より高い愛を、より強く表現するようになることだと考えています。

別の言い方をすれば、神に近づくことです。

それによって、全体に調和が生まれ、霊的に1つになって行きます。



より強い愛を表現するためには、より強い意志が必要になります。

自分を表現するために肉体的、精神的な労力が必要とされ、困難や障害が存在する地上を生きることで、表現するための意志が培われていると考えられます。

今生の労苦は、霊界で活かされます。



愛は最も強い(波長の短い)波動です。

神を内在している私たちは高い波動を放っていますが、幾層にも重なった媒体によって、最終的に放たれる波動(表現)は低いものになっています。

幾層にも重なった媒体が、自然法則に働きによって、1つ1つ脱ぎ捨てられて行きます。

肉体の死もその一環です。

媒体がより精妙になるのに伴って、より高い愛が表現されるようになります。



霊界に行くと、地上とは比べものにならないほどの一体感が感じられるようになります。

全ての存在が霊的につながっていることが、はっきりと分かるようになるからです。






2025年10月5日日曜日

霊的な意識から生まれているものを表現する


「死」とは、寿命が来て魂が地上を去り、霊界に戻る自然現象です。

眠りに落ちると、魂は肉体を離れて霊界に戻ります。

魂と肉体はシルバーコードでつながっていて、朝になると肉体に戻って来ます。

人は毎夜死んで、毎朝生まれると言っても良いのかもしれません。


目覚めの良い朝があります。

それは霊界に戻り、生命(霊)力が十分に補充された時に実感するのかもしれません。

あるいは、霊界でうれしいことや楽しいことがあり、その余韻が残っていたのかもしれません。



霊界で補充された生命力は、仕事で神経を遣ったり、人間関係で揉まれたりして、徐々に減って行きます。

多くの生命力が日中で費やされ、夜になり霊界に戻り、再び補充されます。

毎日がその繰り返しです。

眠れない日が続くと、日中の精神活動が低下してしまうのは、生命力が補充されないためと考えられます。



地上の人間は、霊(魂)、精神、肉体から成り立っています。

肉体は、食物からエネルギーを吸収して活動しています。

霊および精神は、目に見えない生命力によって活動しています。



「霊的次元にある意識」から意志(思念)という力が生まれています。

意志(思念)が「精神的次元にある意識」に伝わり、具体的にどうすれば良いのかを考える力となります。

どうすれば良いのかが決まったら、肉体に指令が出されます。



このブログもそうです。

書こうという「意志(思念)」がなければ、何も始まりません。

その思念を、精神を働かせて、具体的な言葉を見つけます。

見つけた言葉を、肉体を使って文字としてパソコンに入力しています。

霊、精神、肉体が連動して働くことによって、ブログが書かれています。



霊的次元にある意識(以下霊的な意識)の中心に魂があります。

魂は神を内在しています。

そこから「愛」が生まれています。



一方、地上における精神的な意識(以下地上的な意識)は、肉体と密接不可分な関係にあります。

怒りや怖れや悲しみなどの感情が生まれています。

そして、食欲や性欲などの欲求も生まれています。



霊(魂)、精神、肉体に不調和が起こると病気になると言われています。

霊的な意識から生じた思念(意志)が、地上的な意識で具体化されて、肉体によってスムーズに具現化されている状態は、調和が取れていると考えられます。

思念が、何らかの理由で肉体で表現できなくなると、不調和が起こります。



そんな局面が地上では起こります。

例えば戦争です。

上官の命令により、敵を撃たなければならない時があります。

霊的な意識には良心があり、人を傷つけたくないという思念を出している人がほとんどです。

地上的な意識は、自分の置かれている立場を考え、上官の命令に従おうとします。

そんな時、霊的な意識と地上的な意識の間で、激しい葛藤が起こります。

もし、良心に逆らい、人を撃ち殺したとしたら、著しい不調和が起こります。

心身が病んでしまう人もいるでしょう。


霊的な意識は、人生の計画を知っていて、それに沿って生きようとします。

そうすることで、予定していた学びや成長が得られます。



けれども、予定した通りに行くとは限りません。

地上的な意識が強くなり過ぎると、霊的な意識から生まれている思念(意志)に気付けなくなったり、無視をするようになります。

金銭欲や名誉欲に捉われてしまい、生まれて来た目的を忘れている人がいます。



そのような人に因果律が働いて、災難のような出来事が降りかかることがあります。

出来事から生じる苦痛により、霊的な意識が目覚めて、本来の自分を取り戻し、再び計画に沿って生きるようになる人もいます。

不幸と思われる出来事は、後で大きな後悔をしないために、神の配慮により起きていたことになります。



私事ですが、20年前のある日、病気を癒す力が出現し、まもなく霊的真理と出会い、直後に経験したことのない出来事が起こりました。

それによって、霊的な意識が目覚めて、生まれて来た目的について思いを巡らすようになりました。

人生を変える大きな出来事が立て続けに起きたので、計画があることを信じざるを得ませんでした。


日常生活をしている時の意識と、道に倒れている人を助けようとする時の意識は違います。

助けようとするのは、愛に根差しているので、霊的な意識から生まれています。

地上的な意識は、助けることによる自分の不利益を考え、「仕事に遅れてしまう」「誰かが助けるだろう」などと理由を付けて避けようとする傾向があります。



混雑した電車に乗っていて足を踏まれて腹立たしくなるのは、地上的な意識の働きによるものです。

痛いのを我慢して、許そうとするのは、霊的な意識の働きによるものです。



この世の人間は、霊的な意識と地上的な意識の2つの意識が存在しています。

2つの意識は、並列的な関係ではなく、直列的な関係です。

霊的な意識から生じている思念(意志)を、肉体によって表現するための媒体として、地上的な意識は存在しています。

2つの意識が連動して働くことにより、地上での生活は営まれています。

本当の自分とは、言うまでもなく上位にある霊的な意識です。



心の中にある想いや感情が、どちらの意識から生まれているのかを見極めるのは大切です。

地上的な意識から生まれているものに、翻弄されることのないように努めなければいけません。

霊的な意識から生まれているものを表現することで人は成長し、生まれて来た目的を成就することになります。






2025年9月28日日曜日

勇気を出すために


地球には多種多様の生命が住んでいます。

それぞれの生命は全体のために、何らかの役割りを果たしています。



動物は酸素を吸って、二酸化炭素を出しています。

植物は二酸化炭素を吸って、酸素を出しています。

それぞれが役割りを果たすことで、全体に調和が生まれて、健全な生命の営みが可能となります。



今年の夏は記録的な暑さでしたが、原因が地球温暖化にあるのは明らかです。

地球温暖化は、空気中の二酸化炭素の増加によって起きていますが、その原因を作ったのは人間です。



数日前、庭の雑草を取りました。

昔に比べて、雑草の成長は早く、たくさん生えるようになったと感じています。

人間が過剰に作り出した二酸化炭素を、植物たちが繁茂することで吸収して、地球環境を維持しているように見えます。

車に乗り、電気を使い、二酸化炭素を作り出している私が、地球環境を維持している植物を摘み取ることに、罪悪感を覚えました。



気象の変化(温暖化)の影響で、ドングリ等の木の実が少なくなったために、お腹が空いて里に下りて来るクマが多くいます。

作物を荒らしたり、危害を加えるのはもちろんいけませんが、人間が原因を作っておいて、クマが駆除されるのは間違っていないでしょうか。



どうして人間は身勝手なのでしょうか?

地上の人間は、魂(霊)、精神、肉体の複合体です。

魂と肉体の間に精神(地上的な自我)が介在して、自己表現をしています。

地上的な自我は、肉体と密接に結びついています。

肉体を守り、快適に生きようとするのは、地上的な自我の重要な役割りの1つであり、そのために自分を優先するようになります。

また地上的な自我は五感を通して世界を感識しているので、目に見えない霊的なつながりが分かりません。

そんな理由から、身勝手な行いをしてしまうのだと思います。



地上の人間には、もう1つの自我が存在しています。

それは、魂と霊体の間に介在する霊的な自我です。(ハイヤーセルフと言われるのがこれに当たるのかもしれません)

あの世に行った時、あるいは眠っている時に、自己表現している自我です。

こちらが真の自分です。



霊的な自我から何らかの意志が生まれると、地上的な自我により具体化され、肉体に指令が出されて具現化されます。

地上の人生は、その連続により紡がれています。

地上的な自我が行ったことの責任を、霊的な自我が負っていると思われます。



地上的な自我からは、感情が生まれています。

生まれた感情によって、意志が肉体により具現化されるのが妨げられてしまう時があります。

例えば、新しいことに挑戦しようとして、失敗するのが怖くなると、ためらってしまいます。



自分の意志を具現化するためには、怖れを克服しなければいけません。

克服するために必要なのは「勇気」です。



怖れは霊界では存在しません。

従って、勇気を出さなければいけない経験は、地上でしかできません。

勇気が試されている時、地上に生まれた目的の1つ果たしていると考えて良いのかもしれません。



勇気はどこから生まれるのでしょうか?

愛と同じく、内在する神から生まれていると考えられます。



そして、愛と同じく、あらゆる感情を打ち消す力を秘めています。

勇気は怖れよりも強いのです。



地上の人を守り導いている霊界の存在からも、勇気を増幅させる想い(力)が伝わって来ています。

地上の人は自分の意志を具現化させるために、内(魂)と外(霊界)から力が与えられています。

勇気を出して、前に進んで行くことで、魂は成長します。



どうすれば、勇気が出るのでしょうか?

自分を信じるしかありません。



自分を信じるとは、内在する神を信じることになります。

自分を信じることによって、神とのつながりが強くなり、内(魂)から勇気が湧き出します。



勇気が出ないのは、自分を信じられないからです。

自分を信じられないのは、過去(過去生を含む)に起きた出来事のせいかもしれません。



他者から愛されているのを実感すると安心し、自信につながります。

その逆に、愛に反する言動を受けると不安になり、自信が失われます。

否定する言葉、傷つける言葉、身体への暴力などを受けていなかったでしょうか?

もし心当たりがあるのならば、受けたその行為は過ちであることを認識して下さい。



私たちは、神から届く生命力により生かされています。

その力により、傷ついた体や心が癒されています。

私たちは、神の法則の働きにより、悦びが感じられる方向へと導かれています。

そのことだけでも、いかに神に愛されているのかが分かります。



そして、この世界のどこかで必要とされています。

必要とされていなければ、生まれて来ることは、決してありません。

「愛され、必要とされている存在」であることを、自分自身に強く言い聞かせて下さい。

この真実を受け入れることは、自分を信じることにつながります。



裏切られると、その人のことが信じられなくなります。

同じように、自分を裏切ってしまうと、自分のことが信じられなくなります。

自我が適当な理由を付けて、自分の意志(想い)を表現できなくしていることがあります。

それは自分で自分を裏切っていることにつながります。



特に、魂から発せられている良心の声に背くと、神を裏切っていることになります。

良心に背いた行動をしてしまうと、自分が信じられなくなるという報いを受けます。

この世界には、神を裏切り続けて、人だけでなく自分も信じられなくなり、孤独と不安と怖れの中で生きている人たちがいます。



勇気を出すために、自分を信じて下さい。

信じられない時には、自分を肯定するために、自分に向けた想い(愛)が必要です。

そして、自分を裏切らないように努めなければいけません。



勇気を出して前に進む地上での経験は、死んで霊界に行き、そこで待ち受けている新たな奉仕に取り組むための原動力となります。



全ては魂を成長させるためにあります。






2025年9月21日日曜日

不公平は存在しない


この世界では、不公平に見えることがたくさんあります。

例えば、戦争で家族を殺されたり、食べるものにも事欠く国に生まれる人たちもいれば、平和で経済的に豊かな国に生まれる人たちもいます。

病気でベッドの上でずっと過ごす人もいれば、健康でどこへでも出かけられる人もいます。

才能に恵まれている人もいれば、そうでない人もいます。

同じ人間として生まれて来たのに、どうしてこのような差が生まれるのでしょうか。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「霊界に来た人で、 “自分は両方の世界を経験したが、不公平な扱いを受けている” と言えるような人を、私は一人も知りません。」

地上でも霊界でも、不公平は存在しないようです。




不公平に思えるのは、地上では起きていること、そのものしか見えないからです。

霊界では、起きていることの真相が分かるようになるので、不公平だと言う人がいなくなるのだと思います。



地上を生きる目的は、自分(魂)を成長させるためです。

目的を果たすために適切な環境や身体を選んで生まれて来ています。

どのような人生になるのかも、生まれる前の自分は承知しています。



私は日本人として生まれ、当たり前のように「平和」を享受しています。

そのため、平和の尊さが十分に分かっているとは言えません。

一方、戦争を経験している人たちは、死の恐怖に晒され、大切な人を失った悲しみを味わっています。

平和の尊さが身に沁みて分っています。



健康な人は、「自由」にどこへでも行けて、好きなことができます。

けれども、病気や身体に障がいがある人は、それが叶いません。

そのことがいかに恵まれ、有難いことなのかを知っています。



霊界では、戦争や病気や障がいは存在しません。

目に見えない大切なもの、「平和」や「自由」そして「愛」について、対極のものが存在し、それを経験することのできる地上で、深く学んでいると考えられます。



もしそうであれば、不幸と言われるような事象を経験している人は、経験のない人には得られない学びをしていることになります。

地上で大切なものを失って、その代わりに霊的に大切なものを得ることで、公平性が保たれています。

霊界に行くとそのことが分かるので、不平不満を言う人がいなくなるのだと思います。



地上での境遇に、不平不満を言う人もいなくなります。

霊界に行くと、地上の人生を振り返る時が来ます。

全てのことを、自分自身で決めて来たのが分かります。

自分で決めて行ったことが原因となり、相当の結果を生み出します。

原因と結果の連鎖を繰り返しながら、その時の自分に至っているのが分かるようになるからです。



地上は霊界と違い、結果が直ぐに現れるわけではありません。

過去生で作った原因が、前触れもなく今生に結果として現れることもあります。

それが避けて通りたいような出来事で、原因が分からなければ、何で自分がと不運を嘆くことになります。



生まれる前に望んでいたことに対する結果が、今生で現れることもあります。

自分に足りない資質を自覚して、その資質を手に入れようとする願望が原因となり、それに因果律が働いて、成就させるための結果が最善のタイミングで生じます。

その結果は、往々にして労苦を伴うものであるため、災難や不幸な出来事として受け取る人も少なくありません。



原因を作っていたのは自分かもしれません。

「偶然」や「不運」は、原因が分からなくなってしまう、地上にしかない概念です。



さまざまな分野で才能を発揮している人がいます。

その才能は偶然ではなく、過去生から培って来たものと考えられます。

人や社会のために活かしたいと言う願望の結果として、才能が与えられたと思われます。

持って生まれた才能にさらに磨きをかけて、他者のために活かすことで学びや成長が得られる人生のシナリオが存在していると考えられます。    

才能は運や偶然ではなく、結果と言うことになります。



自分から生まれた全ての想い、言葉そして行いに対して、因果律が働いています。

因果律の働きによって、相当の結果が自分に返って来ます。

その結果の集大成が、現在の自分です。

自分から出たものの責任を、自分で取っているとも言えます。



交通事故に遭い、一生ベッドの上で過ごしている人もいます。

もし自分に責任がないのに、自由を奪われ、苦しみや痛みを味わうことになるのでは、不公平に思えてしまいます。



物的に失ったものは、それよりはるかに価値のあるものによって埋め合わせされると言われています。

責任のない事故で失った肉体の機能は、健常者では得られない霊的な学び、そして魂の成長と言う形で、埋め合わせされると考えられます。

たとえ死んでしまっても、不公平が生じないような埋め合わせがなされていると考えられます。



「地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命がつきて霊界に来た時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まります。単純なようで実に複雑なのです。」とシルバーバーチの霊訓には書かれています。



地上を中心に物事を考えてはいけません。

私たちの本来の住処は霊界です。

そこで、より自分を活かせるような資質を身に付けるためにこの地上に生まれ、それに相応しい経験をしています。



選択する権利は、公平に与えられています。

どのような選択をするのかによって、未来の自分が決まります。

迷ったら、自分を成長させるであろう方向へ進んで行きましょう。







2025年9月14日日曜日

赦すことで霊性は向上する


時の権力者は死を恐れるようです。

秦の始皇帝は、不老不死の薬を探し求めて、日本にまで使者を送ったという記録が残っています。



人間の寿命は決まっています。

どんなに世界中を探しても、いくら科学が発達しても、そのような薬が見つかることはありません。



もし、見つかったとしても、私は飲む気は全くありません。

肉体の束縛から解放され、望むところにどこでも行け、想ったことが直ぐに具現化し、お金や仕事や人間関係の心配が全くない世界に行けるのに、何を好き好んで地上に執着するのでしょうか。

死後の世界(霊界)には、無限の界層があると言われています。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「こちら(霊界)では魂の成長に応じた界、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうど良く調和する界に住むようになります。界の違いはそこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります。」




高い界層は利他的な人が生きる、明るく調和の取れた美しい世界であり、低い界層は利己的な人が生きる、暗く調和に欠けた醜い世界です。

前者を天国、後者を地獄と呼ぶのかもしれません。



地上においても、天国と地獄は存在すると思います。

それは特定の場所を指すのではありません。

私たちの心の中に作り出されます。



愛で満たされ悦びを感じている時、地上にいながら心は天国にいます。

憎しみや嫉妬に苛まれ苦しんでいる時、互いに傷つけ合っている時、地上にいながら心は地獄にいます。



さまざまな出来事が起きるのが地上です。

それによって心は移ろいます。

愛情を感じていた人に裏切られたりすると、怒りや憎しみの感情が生まれて、天国から地獄に落ちてしまう時もあります。



苦しみから抜け出すためには、対象を赦さなければいけません。

けれども、赦そうと思って赦せるものではありません。

こんなに苦しいのは対象(他者)のせいだと思うと、余計に怒りや憎しみがこみ上げて来ます。

それに伴い、さらに苦しみが増して来て、悪循環に陥ってしまいます。



苦しみを生み出しているのは対象ではありません。

自分の心の中に生じた怒りや憎しみです。



地上に生まれて来たのは、霊界では出来ない経験をして、学び成長するためです。

極めて低い界層を除いて、霊界では怒りや憎しみや恨みが生じる対象は存在しません。

そのため、赦すという経験はできないと考えられます。



魂と肉体の間に介在する媒体として、地上の自我(精神)が存在しています。

そこから怒りや憎しみなどの感情が生じています。



本来の自分(魂)は、神とつながっています。

私たちは、神の心を表現しようとする極小の一部です。



神の心は愛です。

そのため、本来の自分(魂)からは、怒りや憎しみは生じることはありません。



約2000年前、イエスは無実の罪で十字架にかけられました。

十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」と神に祈りました。



全ての感情を打ち消す、最も強いエネルギーが愛です。

命を奪おうとしている対象が赦されることを願うという、極めて高い愛をイエスは表現していたために、怒りや憎しみや怖れは存在していなかったと考えられます。



対象を赦すため、怒りや憎しみを手放すためには、今よりも高い愛が必要です。

そのためには、さらなる魂の成長が必要となります。



「苦しい過程において、魂は鍛えられ、清められ、そして成長する」と言われています。

従って、怒りや憎しみに苦しむのも決して無駄なものではなく、先の赦しへとつながっていると考えられます。



「全ての苦はそれが魂の琴線に触れることによって自動的に報いをもたらし、それが宇宙のより高い、より深い実相について、より大きな悟りを得させることになるのです。」とシルバーバーチの霊訓には書かれています。

苦しみや痛みにより、奥深くで眠っている魂が呼び覚まされ、内在する無限の叡智(神)に仕舞われている真理の1つが明かされることがあります。



その真理を受け入れることにより、対象や出来事の捉え方が大きく変わります。

それに伴い、心の様相も大きく変わります。



怒りや憎しみが鎮まって来たのであれば、対象や出来事を赦す方向へと向かっています。

取り巻く状況は変わらないとしても、心は地獄から抜け出すことができます。



怒りや憎しみ捉われていては前に進んで行くことはできません。

「赦す」と言う意志表示を自分自身にしてみてはどうでしょうか。

自己犠牲を伴うその行為は、神の心と一致しているために、魂に愛が流入して、苦しめている感情が手放されるかもしれません。



魂には、少しでも上の界層に行きたいと言う根源的な欲求があります。

さまざまな経験を通して、多くのことを学べるのが地上です。

対象や出来事を赦すという経験をすることにより、霊性は向上しています。

より次元の高い愛を表現できるようになり、上の界層に行くための条件を満たすことにつながっています。

そのための計画を携えて、適した環境と人生を選んで生まれて、相応しい出来事を経験しているのかもしれません。



2025年9月7日日曜日

霊的なつながりを意識する


 生きていると、不安になる時があります。

一人で生きている不安、経済的な不安、病気の不安、死の不安等々、挙げれば切りがありません。



肉体を持つと、五感で外部を認識するようになります。

目に見える世界が全てになります。

1人1人は完全に独立しているように見えます。



けれども、人と人の間には目には見えない霊的なつながりが存在しています。

語らなくても、相手の気持ちが分かる時があるのは、霊的につながっているからです。

遠く離れた人に、ヒーリングの力が届くのも、霊的につながっているからです。

困った人がいると、助けてやろうとするのも、霊的なつながりを感じるからです。



人間は独立して存在しているのではありません。

それぞれが自分の役割りを果たすことで、周囲(全体)とつながっています。

霊的につながっていることが分かれば、1人だと錯覚して、孤独や不安に襲われることはないでしょう。




経済的な不安を感じている人も少なくありません。

「魂が正常なら、つまり魂と精神と身体が調和して機能している限り、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。」

別のところで「条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果をもたらすことができます。」とシルバーバーチは言っています。

背後霊の導きを感じ取り、素直に行動に移すことができれば、必要なものが手に入るようになっていると考えられます。

そして、摂理に従って生きていれば、贅沢はできないけれども、生きて行くことはできると信じています。



病気は、魂と精神と身体の調和が失われると生じると言われています。

エゴ(精神)の働きが強くなり、本来の自分(魂)の想いを表現できなくなると、不調和が生じ、肉体上に病気として現れると考えています。

病気になり苦痛を味わうことで、本来の自分が目覚めて、想いを表現できるようになると、調和が取り戻されると考えられます。

付き合わなければならない病気もありますが、その経験により学ばなければならないこと、償わなければならいことがあるためです。

いづれにしても魂の成長へとつながっています。



死の不安ですが、肉体は消滅しても生命は存続しています。

記憶も個性も失われることはありません。

待っているのは、地上の苦から解放された世界であり、喜ばしいことです。



霊的な知識があれば、この世を生きる不安はかなり解消されるはずです。

けれども、地上を生きている限り、不安はどうしても生まれます。



不安は、肉体を持つと同時に生まれる、地上的な自我から生じます。

あの世に行き肉体がなくなると、その自我はなくなり、不安から解放されます。

そして、霊的な感覚がよみがえり、生命のつながりをはっきりと認識できるようになります。



地上的な自我(エゴ)の働きが強くなると、不安も強くなります。

解決不可能な現実に直面すると、地上的な自我(エゴ)に代わり本来の自分である霊的な自我が前面に出て来ます。

本来の自分を取り戻すと、生き方や考え方が大きく変わります。

安らかな気持ちでいられるようになるのは、霊的な自我からは不安や心配や怖れは生じないからです。



本来の自分を取り戻すためには、強くなったエゴの働きを抑えなければいけません。

座禅や瞑想をするのは、エゴの働きを抑えて、本来の自分を見い出すためです。



霊的次元に意識を向けるのは、本来の自分を取り戻すために有効と思われます。

意識するのが難しければ、守護霊の存在を思い浮かべてみて下さい。

自分よりも自分を知り尽くしているのが守護霊です。

何を求めているのかも承知しています。

守護霊を思い浮かべるのが難しいのであれば、亡くなった最も愛おしい人を思い浮かべて下さい。



思い浮かべた瞬間、傍に寄り添い、こちらからの想いが届くのを待っているでしょう。

親愛の想いが届いたならば、霊界にいる存在も親愛の想いを返してくれるでしょう。

その想いはエゴから生じる感情を抑え込む力となり、本来の自分を取り戻すことができると思います。



霊界の存在とのつながりが途絶えることはありません。

なぜなら、肉体があるかないかだけの違いで、地上に生きる私たちも同じ霊的な存在だからです。

目に見えなくても、つながっていることを忘れてはいけません。



神ともつながっています。

神を一言で表現するならば「全て」です。

私たちは神の心を表現する極小の一部です。

神の心である愛を表現すればするほど、神とのつながりは強くなります。

「全て」に感謝することによっても、つながりは強くなり、内から力が湧き出して来るのを感じられるかもしれません。



地上の人は、神そして霊界の存在とつながっています。

つながりを意識することで、内から湧き出す霊力、外から伝わる霊力により、不安や心配は和らぐはずです。



今朝、つながりを意識してみました。

しばらくして、自然に笑みがこぼれました。

霊界の存在たちの喜びの想いが伝わって来たようです。

霊界の存在が地上の人の想いを共有しているように、地上の人も霊界の存在の想いを共有することができると思います。



「神」や「魂」の存在の有無を論じる不毛な時代は終わりを告げようとしているように感じられます。

信じない人にも、神から届く生命力は流入し、神の法則は働いています。

守護霊は変わりなく守り導いています。

霊的なつながりが途切れることはありません。

死んでから、そのことに気付くのでは遅すぎます。



つながりを信じられる人は、霊的な恩恵をより享受することが出来ます。

意識することにより、本来の自分でいられます。

神の法則に背くことで生じる苦しみや痛みを味わうことなく、生まれて来た目的を成就する方向へと進んで行けます。



どちらを選択するのかは、個々の人に任されています。




2025年8月31日日曜日

自分を責めてはいけない


マンションから幼児が落ちて亡くなるという、痛ましい事故のニュースが時折報道されます。

それを聞いて真っ先に考えてしまうのは、ご両親のことです。

途轍もない自責の念に襲われているのではないかと思うからです。

人間の苦しみはたくさんあります。

その中でも、自責の念ほど苦しいものはないのかもしれません。



「何をやっているんだ」「だめじゃないか」と上司が部下を叱責することがあります。

自分が自分に向かって叱責しているのが自責の念です。

時には、否定したり、傷つける言葉や想いを、自分に向かって投げかけていることもあります。

自分の腕を自分の指でつねると苦痛を感じるように、自分に投げかけている言葉や想いによって心が苦痛を感じていることがあります。



自責の念は、罪悪感から生まれると考えられます。

人間の心には、神が良心となって顕現しています。

罪悪感は、良心があることによって生まれます。

「良心の呵責」は罪悪感の一種と考えられます。



良心に背いて、霊的な法則に反した行いをした時、罪悪感が生まれます。

それにより心が苦しくなりますが、苦しみを通して法則に従うように促されていると考えられます。



社会で罪を犯せば、法律によって裁かれて、償うことになります。

霊的な罪を犯せば、法則によって裁かれて、償うことになります。

法律は人が作ったので、人が裁きます。

法則は神が創ったので、神が裁いていることになります。



神はどのようにして裁いているのでしょうか?

行いの「動機」に対して、法則が働いています。

動機が法則に反していれば、霊的な罪となります。



法則を貫いていのるは「愛」です。

例えば、人を故意に傷つけようとして、傷つけたのであれば罪になります。

傷つけようとする動機が、愛に反しているからです。



傷つけようとする意図がないのに、結果的に傷つけてしまったら、法律的に罪は問われるかもしれませんが、霊的な罪を問われることはありません。

マンションから落ちてお子さんを亡くされたご両親は、法則に反した行いをしたわけではありません。

従って、霊的な罪はありません。

注意義務を怠ったのではと言う人がいますが、予見するのは極めて難しい事象です。

それを罪と言うのであれば、ほとんどのご両親が問われることになるでしょう。



病気でお子さんを亡くされたお母さんの中にも、自分を責めている方がいます。

自分に責任(原因)があったと思われているようですが、そうではありません。

ご自身の想像も及ばないところに原因(目的)があり、それは向こうの世界に行ってから分かるでしょう。



SNSで誹謗中傷を受けて、命を絶ってしまう人が後を絶ちません。

中には罪を犯していなかったり、軽微な罪なのに、過剰に責め立てられる人がいます。

他人から責め立てられることにより、いわれのない罪悪感が生じます。

多くの人に責め立てられることで罪悪感が増して、それに伴い自責の念が強くなります。

自責の念が極度に強くなると、自分を傷つけようとする衝動が生まれて、それにより死に至ってしまう人がいます。

そんな悲劇が起きたなら、誹謗中傷した人たちは霊的な罪を免れることはできません。



それは、自分に対しても当てはまります。

自分のことをどう思おうと自由というわけではありません。

自分で自分を断罪して、責め立てることは許されないのです。

断罪するのは、神(法則)です。



責め立ててしまうのは、自分のことが許せないからです。

「自分がこうしていなければ、こんなことは起きなかった」あるいは「自分がこうしていれば、こんなことは起きなかった」等々、放っておくと直ぐに自分と結びつけてしまいます。

自分と事象を結びつけるのを、自分の意志によって、断ち切らなければいけません。



罪を犯していないのに、苦しむ必要はどこにもありません。

それでは、神の公正が崩れてしまいます。

そのために苦しみが創られたわけではありません。



神は無限の愛です。

奥深くにいる自分(魂)は神とつながっています。

自分を責めて苦しんでいる自分を、鏡の中に映る自分の中に見い出して下さい。

目を閉じて、心の中に思い浮かべても結構です。

その自分から少し距離を置いて、客観視するようにして下さい。


最も親しい人が、悪いことをしてないのに誰かに責められて苦しんでいたとします。

その人に苦しみを和らげるような言葉を見つけて下さい。

「悪いことはしていないのだから安心して」

「私は信じている」

「いつでも味方だよ」

他にもあるでしょう。



客観視している自分は、奥深くにいる自分です。

見つけた言葉を、苦しんでいる自分に向かって、語りかけてみて下さい。



責めている自分は、自分が悪いと思っています。

そんなことはできないと思ってしまうのであれば、それは奥深くにいる自分の意識ではありません。



怒っている子供を母親が優しくなだめるように、許せないでいる自分を奥深くにいる自分が根気強く諭すことによって、直ぐにというわけには行きませんが、少しずつ許せるようになって行くはずです。

自分に投げかける言葉や思いによって、自分を苦しめることができます。

同様に、自分に投げかける想い(愛)によって、自分を癒すことができます。



神はあらゆる事象を想定しています。

そこから生じる全ての思いや感情も想定しています。

全ての事象、感情や想いは、自らが創った法則によって生じているからです。



愛は宇宙に存在する最高の力です。

自分を支配している苦しみを生じさせる思いや感情は、愛によって解放させることができます。

全ての事象は、愛によって解決することができます。



愛について深く学ぶために、私たちはさまざまな事象を体験することのできる地上に生まれて来たと考えられます。



2025年8月24日日曜日

背後にいる存在を信じる


30年前、都内を車で走っていた時のことです。 

信号待ちで止まっていて、ふとバックミラーに目をやると、後続車がかなりのスピードで近づいて来るのが見えました。

ぶつかると身構えた瞬間、追突されました。

私の車は飛ばされて、前に止まっていた車にぶつかり、その車も飛ばされて前の車にぶつかりました。

いわゆる、4重衝突です。


車はかなり損傷しましたが、身構えることができたので、怪我をしないで済みました。

その話をある人にしたら、「守護霊に守ってもらったのね」と言われました。

当時は霊的なことに関心がなかったので聞き流しましたが、正しかったようです。

ミラーに目をやったのは偶然ではなく、事故を予見した守護霊に促されていたと、今は考えています。



生涯に渡って守護霊は付いています。

ほとんどの人はその存在を意識することはありません。

けれども、地上の人が学びや成長を得るために、人生のさまざまな局面で働きかけています。



働きかけは、主にインスピレーションの形を取ります。

言葉を超えたインスピレーションが、地上の人の魂に伝わって来ると、行動を起こす衝動が精神で生まれると考えられます。



何となく気が進まない、行きたくない感じがして、その衝動に従って難を逃れたという話を聞きます。

そんな時は、背後にいる存在からインスピレーションが伝わって来たと考えられます。



音楽家がメロディーが降って来た、小説家が言葉が湧いて来たと表現する時があります。

そんな時も、同調する霊界の存在からインスピレーションが伝わって来たと考えられます。



霊的真理に出会ったのも偶然ではありません。

インスピレーションを受け取り、無意識の内に行動したことで、辿り着いたと考えられます。



仕事である学会に所属しています。

年に1度総会が開かれて、全国から同業者が集まりますが、最も重要なセクションの座長をやってみないかと打診されました。

大きな会場で、たくさんの人の前で話すのは得意ではありませんが、「乗り越えられない困難は与えられない」という霊的真理を信じて、思い切って引き受けることにしました。

実際の会場

初めての経験で、かなりの重圧を感じました。

上手く行くだろうかと不安に思っていた時に、背後にいる存在に意識を向けてみました。

すると、一瞬で不安が解消し、心が明るくなるのが感じられました。

当日も、意識して臨んだところ、自分でも驚くほど冷静に対処することができました。

背後にいる存在は、想いという力を伝えることで、地上の人の心のありさまを変えることができると思いました。



話は変わりますが、1970年アポロ13号は月に向かって航行中に酸素タンクが爆発しました。

地球から遠く離れた宇宙空間で想定外の事故が起こり、助かるのは難しいだろうと思った人は少なくありません。

極めて困難な状況の中で、いくつかの画期的なアイデアが生まれて、それを実行することで全員無事に帰還することができました。

「万事休すとあきらめかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります。」とシルバーバーチは言っています。

絶対に助けると言う関係者の強い意志と、世界中の人たちの祈りによって、霊界の人たちが突き動かされ、人類の英知をはるかに超えた英知が結集され、最善のンスピレーションが与えられて、このミッションは成功したと思います。

霊界にいる存在の力が遺憾なく発揮された時、「奇跡」と呼ばれる現象が起きると思います。

帰還したアポロ13号

インスピレーションの恩恵に与かるために大切なのは、背後にいる存在を心から信じることです。

信じることにより、両者のつながりは強くなります。

そして、存在を意識しながら、頭を空っぽの状態(感情にも考えにも捉われない)でいると、必要としているインスピレーションが心に浮かんで来るかもしれません。

それを、気のせいや思い付きにしてはいけません。



背後にいる存在が、もっとはっきりと分かったら良いのにと思う人もいるでしょう。

地上の人を導きやすくなると思います。

それにより、霊的な罪を犯す人も少なくなると思います。

けれども、頼ろうとしたり、利己的なことに利用しようとする人もいるでしょう。

学び成長させるために付いているのに、それでは意味がなくなってしまいます。

地上の人の進化の程度に合わせて、はっきりと分からないようになっていると考えられます。



インスピレーションに従って行動するか、それとも無視するかは自由です。

決めるのは地上の人であり、背後にいる存在は干渉することはできません。

自分で決めたことを、自分で責任を取るようになっています。



信じて進んで行くと、困難や障害が待ち受けているかもしれません。

間違っているのではなく、それが霊的に正しい方向、予定されていた方向かもしれません。

学びや成長は、困難や障害を乗り越えて行く過程で得られるからです。



背後にいる存在は、地上の人を懸命に導き、正しい方向に進んで行くのを固唾を飲んで見守り、進み始めたら惜しみのない援助を与えています。

その恩恵は計り知れません。



地上の人が学び成長している様子に、背後にいる存在は喜びを感じているはずです。

その喜びが守り導くことに対する報酬となっているのでしょうが、感謝の想いを忘れてはいけないと思います。





2025年8月17日日曜日

突然の別れから40年を経て


1985年8月12日の夕刻、群馬県御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落し、520名の方が亡くなられました。

ほどなく身元確認作業が始まりましたが、ご遺体の損傷は激しく、現在のように遺伝子検査がなかったために、困難を極めました。

歯型の照合による確認が行われていて、歯科医院を開業していた父は県警から確認作業の協力の要請を受けました。

当時、歯科大生であった私は父に促されて、アシスタントとして同行することになりました。



御焼香の煙りが立ち込める学校の体育館に入ると、たくさんの棺が並べられていました。

ご遺族たちが、棺の蓋を開けてご遺体の確認をされていました。

少し前まで元気でいた人が変わり果てた姿になっている、この現実を受け止め切れないからでしょうか、少しでも早く家に連れて帰りたいという気持ちが勝っていたからでしょうか、そこにいたご遺族に涙はありませんでした。

大変な現場に居合わせていると思いました。



あの時から40年、8月15日に御巣鷹の尾根に行きました。

9年前に初めてこの地を訪れた時以来です。

登山道は整備されていますが、60代の私が息を切らすほどの急な坂が続いていて、ご高齢の方や身体が不自由な方が登るのはとても大変です。

沢伝いに登って行くと、つづら折りの坂となり、道の脇にはいくつもの墓標が立っていて、この場所でご遺体が見つかったと思われます。

もう少し登って行くと、急に視界が拓けて、平らに整地された場所に着きました。

振り向くと、「昇魂之碑」がありました。



事故直後、この場所は肉体を失った人(霊)たちで溢れていたはずです。

初めて訪れた時、もしかしたら今も留まっている霊がいるのではと思いましたが、その気配は全く感じられませんでした。

それどころか、拍子抜けするほど清々しく、明るい場所でした。



肉体から突然引き離された人(霊)たちは、自分が置かれている状況を全く理解できずに、茫然と立ち尽くしていたと想像されます。

事故を察知した霊界の人たちは、直ちにこの場所に赴いたと思われます。

霊界は、高度に組織化され、適材適所に人があてがわれた世界です。

自分から拒絶しない限り、放置されることは決してありません。

ショック状態に陥っている人たちは、地上の病院に当たるところに連れて行かれ、手厚く看護されたと思われます。

霊界の人たちの愛情と、間断なく注がれている生命(治癒)力により魂は癒され、次第に本来の自分を取り戻して行ったと思われます。



動かなくなった自分の身体に付いて行き、遺体が安置された体育館で家族と再会する人もいたと思います。

しかし、いくら家族に話しかけても応答はなく、身体に触れようとしても手が素通りしてしまいます。

棺に縋り付いて泣き崩れる家族の姿を見て、自分が死んでしまったことに気付いた人もいたと思われます。



しばらくして、ご遺族はこの尾根を訪れるようになります。

悲しみ、悔しさ、怒り、言葉にできない想いが、叫びとなって放たれていたと思われます。



悲しみは、行き場を失った愛です。

悔しさも怒りが生まれるのも、親愛の想いがあってこそです。

祈りは、故人の平穏を願ってのことです。



亡くなった人たちは、その様子を傍で見ています。

言葉にしなくても、想いは分かっています。

涙を流している姿、祈りを捧げている姿を見て、自分はこんなにも愛されていたんだと感じた人もいたでしょう。

同時に、一緒にいられなくなった悔しさや憤り、すまなさを感じていた人もいたでしょう。



そんな人も、徐々に向こうの世界に順応して行きます。

ここが本来の住処であり、ここで経験できないことを経験して、学び成長するために地上に生まれたことを知ります。



学びや成長は、霊界においても引き続き行われ、周りのために自分を活かす生活が始まります。

地上でできなかった経験を、地上に残した人が経験することで、学びを共有することもあると考えられます。

不利益や不公正が生じないようになっているので、地上にいられなかった悔しさは、次第に薄らいで行ったと考えられます。



涙が尽きることのない、地上にいる人を見て、こう想うようになるのかもしれません。

「こんな別れ方をしたのだからいくら泣いても良い。けれどもいなくなったとは思わないで欲しい。前よりも近くにいられるのだから。」

けれども、悲しみに包まれた地上の人に、その想いが届くことはありません。



地上にいる人への愛情表現は、言葉や行動など肉体を介したものから、守り導くという想いを介した霊的なものへと変わります。

そのことにより、霊界においても地上にいた時と同等の成長が得られると考えられます。



この尾根を「聖地」あるいは「歩いて行ける天国」と呼ぶ人たちがいますが、その通りです。

地上と霊界の双方から、長い年月に渡り放たれた想い(愛)と祈りによって、極めて浄化されていると感じられました。

山全体がこの世の雑念から隔絶されているために、霊界にいる人が近くに感じられ、知らずに想い(愛)を受け取っている人も少なくないと思います。

訪れるご遺族が絶えることがなく、笑顔になって山を下りて行く人が多いのは、そのためだと思います。



昇魂之碑の奥には、亡くなった人の名前が刻まれた石碑がありました。

手を併せて、何か伝えたいことはありますかと想いを向けたところ、何も感じられませんでした。

ここに留まっている人(霊)はもういないと、改めて思いました。



40年の歳月が過ぎて、亡くなったご遺族も多くいます。

それは待ちに待った再会を意味します。

その時、想像もしない形で想いを交し合っていたこと、つながりは全く失われていなかったことに気付くでしょう。



自分がいなくなった世界を生き抜いたことを、褒めてもらった人もいるでしょう。

その労をねぎらい、やさしく抱きしめてもらった人もいるでしょう。



今生の突然の別れは、魂の学びや成長として報われていて、完全な公正が保たれていたことを知り、無限の叡智、無限の愛が存在していることがはっきりと感じられて、思わず感謝した人もいると思います。



御巣鷹山へと続く道


参考ページ:日航機墜落事故の遺族を支えたシルバーバーチの霊訓




2025年8月12日火曜日

日航機墜落事故の遺族を支えた「シルバーバーチの霊訓」


40年前の今日、群馬県御巣鷹の尾根に日航ジャンボ機が落ちて、520名の方が亡くなられました。

ご遺族の中に、河口慶子さんという方がいます。

事故で夫の河口博次(享年52歳)さんを亡くしました。



博次さんは、墜落前の機内で、以下のメッセージをご家族に書き残しました。

「マリコ 津慶 知代子 
どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい
パパは本当に 残念だ きっと助かるまい
原因は 分らない 今5分たった
もう飛行機には 乗りたくない
どうか神様 たすけてください
きのう みんなと 食事したのは 最后とは 
何か機内で 爆発したような形で
煙が出て 降下しだした 
どこえ どうなるのか
津慶 しっかり た(の)んだぞ
ママ こんな事になるとは 残念だ 
さようなら 
子供達の事を よろしくたのむ
今6時半だ 
飛行機は まわりながら 急速に降下中だ 
本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」

ダッチロールを繰り返す機内で、このようなメッセージを書き残せたのは、ご家族への強い想いがあったからに違いありませんが、奇跡と言えます。

2010/8/10  日本経済新聞 電子版より
ご遺体の服がびしょびしょに濡れている中で、このメッセージが書かれた手帳は濡れていなかったそうです。

「何も言わずに消えることはどうしても避けたい、絶対に伝えなきゃという気持ちが、ちゃんと自分たちの手に届くように守っていた」と、ご家族は感じたそうです。



この魂の叫びのようなメッセージを見て、慶子さんの魂は目覚めたと思います。

事故から5年後、光の彼方へ:死後の世界を垣間見た人々(TBSブリタニカ、レイモンド・A・ムーディ著)を翻訳しました。

当時の世の中は今よりも霊的なことに否定的だったので、悲しみの末に少しおかしくなってしまったのではと思った人がいるかもしれません。

けれども、ご本人にとって、そんなことはどうでも良く、使命として感じていたのでしょう。



「訳者あとがき」にはこう書かれています。

「主人は1985年8月ジャンボ機の事故で、この世の命を終えております。私どもに宛てて遺しました「走り書き」には、「どうか神様助けてください」という一行がございましたが、生前は、「人間は死んだらどうなると思う」という私の再三の問いについても、「何にもなくなるさ」と答えておりました。でもやはり、死んでみてそうではないことを知り、私にこの本の翻訳をさせてみて、みなさまに読んでいただきたいと思ったのではないかという気がいたします。(ムーディ博士の第一作「垣間見た死後の世界は出版当初に読んでおり、亡き主人が私に望んでいる仕事かもしれないと思い、翻訳させていただくことにしました。)」

専業主婦で経験のない自分にできるのかと心配されたかもしれませんが、極限状態の中であのメッセージを書き残したご主人のことを考えると、できないことは何もないと思い、引き受けたのかもしれません。



慶子さんは、ご遺族や事故後に知り合った多くの人たちに「古代霊は語る:シルバーバーチの霊訓より」(潮文社、近藤千雄訳、現在は絶版)を、こんな文章を書き添えて送っています。

「ここにお届けする本は、昨年私が本屋で見つけて読みはじめ何度も何度も読んでいたものでございます。これが今回の事故に際して、何ものにもまして私を支えてくれました。常の時ならば、このような本をお勧めするのも躊躇するのですが、少しでも興味をお持ち下さってお読み頂ければ、これに増した喜びはございません。」



自分がいない中で、立派に子供を育て上げ、霊的な真実を広めている慶子さんの姿を見て、ご主人も誇りに思っているはずです。

近況は分かりませんが、もう再会されているのかもしれません。


御巣鷹山の夕焼け雲