2つのうち、1つが真実の時があります。
たとえば、あの世が「ある」のか、それとも「ない」のかです。
どちらも客観的に証明できるものではありませんが、私はある方を信じています。
証明できないものとして「性善説」と「性悪説」があります。
性善説は人間は本来、善い心を持って生まれてくるという考え方です。
一方、性悪説は人間は悪い心(欲望や利己心)を持って生まれてくるので、教育や法律で律する必要があるという考え方です。
どちらもそれなりに正しいように思えますが、ある根拠があって私は性善説を信じています。
じゃれ合っている子猫を見ると愛らしさを感じます。
なぜでしょう?
同じ生きるものとして、霊的なつながりを感じるからです。
そして、私たちにある「神」の部分が、愛らしさを感じているからです。
子供の頃、寂しそうにないている子猫を、家に連れて帰った人もいるでしょう。
大人になると、そんな子猫がいても素通りしてしまいます。
なぜでしょう?
地上の人間は、「魂」「精神」「肉体」から成り立っています。
魂は意識であり、肉体は地上における(魂の)表現媒体です。
精神(自我)は魂と肉体の間に介在し、肉体(五感)を通して得られる情報を魂に伝え、魂から生じる意念を肉体で表現するための指令を出しています。
自我は、その人のパーソナリティと言えます。
大人になるのに従い、自我が発達して行き、いろいろなことを考えるようになります。
「連れて帰ると大変だ」と考えると、素通りしてしまいます。
自我の発達により、思うがままに行動しなくなることを、「大人になる」と表現しているのかもしれません。
自我がなければ思うがままに行動できそうですが、それでは地上を安全に生きるのは難しくなります。
火事で家の中に取り残された人を見ると助けようとして、死んでしまうかもしれません。
肉体を守るために恐れを生じさせるのも、自我の重要な働きの1つです。
私たちには自由意志が与えられています。
そのために、過ちを犯してしまうことがあります。
過ちを犯す前に、何者かが押し留めようとします。
魂に宿っている神が「良心」となって顕現して、「やってはいけない」という衝動を起こさせています。
そんな良心の声に、自我が逆らおうとする時があります。
「ばれなければ良いだろう」「みんなもやっていることだから」など、適当な理由を考えて正当化します。
自我の欲求に負けて、良心の声を無視した時、人は過ちを犯します。
悪人と呼ばれる人たちにも、もちろん神は宿っています。
自我が強くなり過ぎて、良心の声を無視するのが常態化して、過ちを繰り返してしまう人たちのことを指していると思います。
生まれながらにして万人に良心が備わっていることが「性善説」が正しいと思う根拠です。
「性悪説」とは、自我が持っている特性を意味していると思います。
眠っている時には、魂(意識)は肉体を離れて霊界に行っています。
霊界では、霊体によって自己表現しています。
魂と霊体との間には、地上とは別の自我が存在しています。
その自我をシルバーバーチが言う「インディビジュアリティ」と考えています。(類魂とはさらに大きなインディビジュアリティ(集合意識)を形成しています。)
インディビジュアリティから生じた意念を霊体によって表現するようになります。
正確には、地上の人間は、「魂(神)」「インディビジュアリティ(霊的な自我)」「霊体」「パーソナリティ(地上的な自我)」「肉体」から成り立っていると言えます。
パーソナリティはインディビジュアリティの一部であり、インディビジュアリティから生じた意念を地上で表現するためにあります。
けれども、パーソナリティは肉体や環境からの影響を強く受けるので、インディビジュアリティから生じた意念を表現するとは限りません。
寂しそうにないている子猫の前を素通りする時もそうです。
本当はこうしたいのだけれども、いろいろなことを考えてしまい、違う行動を取ってしまうのはそのためです。
「魂が目覚める」と、自我の束縛から解き放たれ、インディビジュアリティから生じている意念に、より気付けるようになります。
シルバーバーチの霊訓にはこうあります。
「魂は無限なる霊である神から発せられる神性の一部です。霊はその魂の媒体、魂の伝達手段です。」
難しく感じられますが、私たちは神の一部であり、その表現媒体でもあると言うことです。
霊的成長とは、魂の媒体であるインディビジュアリティがより神性を発揮できるようになり、それに伴い霊体が精妙化して行く過程を指していると考えています。
インディビジュアリティが成長して霊体の精妙化が進むと、形態を取らなくなり思念のみになりますが、その思念に個性的な光輝が伴っているので、誰なのかが分かるようです。
私たちは、神の心を表現するために、永遠に成長し続ける存在であり、その一環として、今地上を生きています。