2025年4月20日日曜日

神の心を表現するために成長し続ける


2つのうち、1つが真実の時があります。

たとえば、あの世が「ある」のか、それとも「ない」のかです。

どちらも客観的に証明できるものではありませんが、私はある方を信じています。



証明できないものとして「性善説」と「性悪説」があります。

性善説は人間は本来、善い心を持って生まれてくるという考え方です。

一方、性悪説は人間は悪い心(欲望や利己心)を持って生まれてくるので、教育や法律で律する必要があるという考え方です。

どちらもそれなりに正しいように思えますが、ある根拠があって私は性善説を信じています。


じゃれ合っている子猫を見ると愛らしさを感じます。

なぜでしょう?



同じ生きるものとして、霊的なつながりを感じるからです。

そして、私たちにある「神」の部分が、愛らしさを感じているからです。



子供の頃、寂しそうにないている子猫を、家に連れて帰った人もいるでしょう。

大人になると、そんな子猫がいても素通りしてしまいます。

なぜでしょう?



地上の人間は、「魂」「精神」「肉体」から成り立っています。

魂は意識であり、肉体は地上における(魂の)表現媒体です。

精神(自我)は魂と肉体の間に介在し、肉体(五感)を通して得られる情報を魂に伝え、魂から生じる意念を肉体で表現するための指令を出しています。

自我は、その人のパーソナリティと言えます。



幼い時は、自我が発達していません。

そのため、子猫を「かわいそう」と思うと、自我に捉われることなく、行動に移してしまいます。

大人になるのに従い、自我が発達して行き、いろいろなことを考えるようになります。

「連れて帰ると大変だ」と考えると、素通りしてしまいます。

自我の発達により、思うがままに行動しなくなることを、「大人になる」と表現しているのかもしれません。



自我がなければ思うがままに行動できそうですが、それでは地上を安全に生きるのは難しくなります。

火事で家の中に取り残された人を見ると助けようとして、死んでしまうかもしれません。

肉体を守るために恐れを生じさせるのも、自我の重要な働きの1つです。



私たちには自由意志が与えられています。

そのために、過ちを犯してしまうことがあります。

過ちを犯す前に、何者かが押し留めようとします。

魂に宿っている神が「良心」となって顕現して、「やってはいけない」という衝動を起こさせています。



そんな良心の声に、自我が逆らおうとする時があります。

「ばれなければ良いだろう」「みんなもやっていることだから」など、適当な理由を考えて正当化します。

自我の欲求に負けて、良心の声を無視した時、人は過ちを犯します。




悪人と呼ばれる人たちにも、もちろん神は宿っています。

自我が強くなり過ぎて、良心の声を無視するのが常態化して、過ちを繰り返してしまう人たちのことを指していると思います。



生まれながらにして万人に良心が備わっていることが「性善説」が正しいと思う根拠です。

「性悪説」とは、自我が持っている特性を意味していると思います。



眠っている時には、魂(意識)は肉体を離れて霊界に行っています。

霊界では、霊体によって自己表現しています。

魂と霊体との間には、地上とは別の自我が存在しています。

その自我をシルバーバーチが言う「インディビジュアリティ」と考えています。(類魂とはさらに大きなインディビジュアリティ(集合意識)を形成しています。)

インディビジュアリティから生じた意念を霊体によって表現するようになります。



正確には、地上の人間は、「魂(神)」「インディビジュアリティ(霊的な自我)」「霊体」「パーソナリティ(地上的な自我)」「肉体」から成り立っていると言えます。

パーソナリティはインディビジュアリティの一部であり、インディビジュアリティから生じた意念を地上で表現するためにあります。

けれども、パーソナリティは肉体や環境からの影響を強く受けるので、インディビジュアリティから生じた意念を表現するとは限りません。

寂しそうにないている子猫の前を素通りする時もそうです。

本当はこうしたいのだけれども、いろいろなことを考えてしまい、違う行動を取ってしまうのはそのためです。

「魂が目覚める」と、自我の束縛から解き放たれ、インディビジュアリティから生じている意念に、より気付けるようになります。



シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂は無限なる霊である神から発せられる神性の一部です。霊はその魂の媒体、魂の伝達手段です。」


難しく感じられますが、私たちは神の一部であり、その表現媒体でもあると言うことです。


霊的成長とは、魂の媒体であるインディビジュアリティがより神性を発揮できるようになり、それに伴い霊体が精妙化して行く過程を指していると考えています。


インディビジュアリティが成長して霊体の精妙化が進むと、形態を取らなくなり思念のみになりますが、その思念に個性的な光輝が伴っているので、誰なのかが分かるようです。





私たちは、神の心を表現するために、永遠に成長し続ける存在であり、その一環として、今地上を生きています。




2025年4月13日日曜日

生きることは愛すること


約20年前のある朝、左手に痺れを感じました。

歯科医という職業柄、頭を傾けて口の中を覗いているため、頸椎を痛めてしまったと思いました。

けれども、その痺れは肩から指先へと一定の速度で移動して行くので、神経的なものとは違っていました。

ネットでいろいろと調べてみて、もしかしたらヒーリングの力かもしれないと思いました。



ある日、妻が胃痙攣を起こしたので、試しにお腹に手を置いてみました。

すると手のひらからビリビリと力のようなものが勢いよく流れて行くのが感じられました。

しばらくすると、痛みが和らいだようです。

不思議なことが起きているのに、少し興奮したのを覚えてまいます。



人は、この力を自然治癒力として持っています。

医者ではなく、自然治癒力が病気を治しています。

もし、この力が存在しなければ、医者は患者の体にメスを入れることはできません。



ヒーリングの力も自然治癒力も「生命力」の一種です。

生命力はどこから来るのでしょうか?

 


私たちは生きるためのエネルギーを、食物から摂っています。

けれども、それは肉体だけの話です。

地上の人間は魂、精神、肉体の複合体です。

非物質である魂は、非物質である「生命力」によって活動しています。

魂に供給された生命力は、次元変換されて精神を活動させる力となります。

何も食べないでいると肉体の活力は低下しますが、精神の活力は保たれるのはそのためです。



魂と精神と肉体は密接に関係しています。

精神の調子が悪くなると、肉体に病変となって現れることがあります。

胃潰瘍はその典型です。



精神と魂の間にも、相互作用があります。

極度の怖れが精神で生じると、魂が生命力を受け取り難くなります。

それが精神の活動を低下させ、ひどくなると思考が停止し、いわゆる頭が真っ白の状態となります。

取り越し苦労はしてはいけないと、シルバーバーチは繰り返し言っていますが、生きる力が奪われてしまうからです。


宇宙全体が神です。

神とは無限の意識であり、無限のエネルギーです。

私たちは宇宙の一部として、全体(神)と繋がっています。

たとえて言うのならば、身体を構成している1つの細胞です。

1つ1つの細胞に同じ血液が流れて生かされているように、個々の生命には同じ力が流れて生かされています。



全体(神)と霊的に繋がっている魂に供給された生命力は、精神そして肉体へと流れて行きます。

高い次元から低い次元へと(垂直的に)流れているので分かり難いのですが、ヒーリングする時は肉体を(水平的に)流れて行くので、その力を体感することができます。



私たちは、全体(神)から届いている力によって生かされています。

そのことを、より多くの人に分かってもらうためにヒーリングの力が存在すると考えています。



神との繋がりは永遠です。

肉体を失っても、同じ力によって魂は生かされ続けます。

ヒーリングの力は、神を源泉として霊界の人たちを介して、地上にいる私たちに届けられます。

神の愛を帯びた力なので、魂が癒されて、病気が治ると考えられます。



同じく、生きる力である生命力も、神を源泉としているので愛を帯びているはずです。

けれども、媒体である精神(自我)が不完全なために、歪められて表現されてしまいます。

大きく歪められてしまうと、時に憎しみになります。

憎しみの中にも、神が宿っていることになります。

自我が完全に近づくのに従い、神の心を忠実に表現できるようになります。

それが霊的成長であり、生きている目的と考えられます。



本来、生命力は神の愛を表現するためにあるものです。

生きることは、愛することです。

けれども、地上にいる私たちは肉体があるため、霊的な感覚が鈍くなり、そのことに気付けません。

意識が自分に向くため、生命力は自分を守ったり、養うために費やされます。



死んで肉体がなくなると、意識は外部に向くようになります。

生命力の働きによって、ごく自然に外部に愛を表現したくなります。



地上においても魂にまで響く出来事を経験して、霊的に目覚めて、愛を表現したくなる衝動に駆られる人もいます。

少し前になりますが、踏切内にいた老人を助けようとして、電車にひかれて亡くなった女性がいました。

危機的な状況を目の前にして、女性の魂が目覚めて、止むに止まれずに愛を表現した結果と考えられます。



私たちの本来の住処は霊界です。

生まれて来たのは、霊的なものが見えなくなる地上で、最も大切なものが愛であることを、実体験を通して、魂に刻み込むためと考えられます。

その目的を果たした人が霊界に戻ると、生まれる前よりも強く高い愛を表現できるようになっています。

愛する悦びをより感じながら、生きるようになっています。






2025年4月6日日曜日

出来事を経験することで成長して行く


「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。



今、こうしてブログを書いているのも、予定されていたことだと思います。

宗教に関心のない両親の元に生まれたのも、抵抗なく霊的真理を受け入れるためだと思います。

振り返ってみると、目的を果たすために、さまざまな出来事が絶妙のタイミングで起きていました。



死んで全てが終わりになるのなら、人生に意味などありません。

無になるのに、意味など見つけるのは、それこそ無意味です。

出来事は偶然起きるのであり、運が良い人と悪い人がいるだけです。



この人生で終わりではありません。

死んだ後に、次の世界が待っています。

残念ながら、そのことを客観的に証明する手段はありません。



困難な出来事に遭遇したとします。

人生が終わりになるのであれば、逃げてしまっても構わないはずです。

それなのに、人は何とかして乗り越えようとします。

どうしてでしょう?

真の自分である「魂」が、そうすることを望んでいるからです。



悪いことをしたくありません。

人には良心があるからです。

良心とは「魂」に内在する神です。

過ちを犯さないように、神によって監視されているのです。



「魂」は肉体を超えたものです。

死によって肉体がなくなっても、次の世界で変わりなく魂は存在しています。



死んで無になるのか、魂となって生き続けているのか、どちらを選ぶのかは個人の自由です。

無になる方を選ぶのは、一定のリスクを伴います。



それぞれの人に、予定されている人生があります。

自分に足りない資質を身に付けたり、過去生の過ちを償うために、神の叡智によって計画されています。

およその人生は決まっていますが、起きた出来事をどう捉えるのかは、個人の自由です。

捉え方によって、進んで行く方向が大きく違って来ます。



小学校の時に漢字を習いました。

当時は何でこんなものを覚えなければいけないのかと思いましたが、今は生活して行く上で活かされていることを知っています。

出来事が起きた時、何で自分がこんな目に遭わなければならないんだと思う時があります。

死んだ後、地上の人生を振り返ります。

その時に、出来事から大切なことを学んで、意図していた自分に変わるために起きていたことが分かります。



けれども、霊的な目が閉ざされている私たちは、偶然や運として片付けてしまいがちです。

偶然や運として片付けてしまうと、出来事から何も学べなくなります。

人生を呪ったり、神を恨んだりするのも同じです。

変わるための力が削がれてしまいます。

それでは、地上に生まれた来た目的を果たせなくなります。



出来事を正面から受け止めると、感情に押しつぶされそうになる時があります。

それは自然なことです。

その後、どう捉えるのかが重要です。



偶然ではありません。

誰のせいでもありません。

自分に必要なことが、自然法則の働きによって起きています。

出来事から何かを学ぶことで、それまで捉われていた感情から解放されて、今までと違う自分に変わることができます。



私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」

この言葉はヘレン・ケラーのものです。

自分の身を嘆いたり、運命を呪っていたのなら、暗闇に閉じ込められたままです。

苦しみの中で、光(真理)を見つけて、変わることができて、暗闇から抜け出せたと思います。



人間の本質(魂)は、変えようと思っても、変わるものではありません。

そこで地上に生まれることを志願します。

苦しみや痛みを伴う出来事を経験することで魂が目覚めて、霊的に大切なことを見つけ出して、変わることができます。



出来事は自然法則の働きによって起きています。

つらい状況に追い込まれたとしても、良い方向に変わるために起きています。

なぜなら、神の心(愛)が、自然法則の働きの中に顕現しているからです。

最後は良くなると、強く信じて下さい。



生まれて来た目的を果たすために、地上の人が辿る人生を知っている守護霊が付いて導いています。

けれども、自我の働きで我欲や怖れなどが強くなってしまうと、導きに気付きにくくなってしまいます。

出来事の捉え方を誤り、予定されていたのとは違う方向に進んでしまい、変われずに終わることもあります。

地上に生まれた目的の果たせなかったことに気付き、ひどく後悔するでしょう。



後悔を晴らすために、今度は予定された方向に進んで行くと固く誓って、もう1度地上に生まれることがあります。

相応しい環境に生まれて、同じような出来事が起こるでしょう。

困難で、できれば行きたくないなのに、どうしても進んで行かなければならない衝動に駆られたとしたら、過去にそのようないきさつがあったのかもしれません。

もしそうだとしたら、迷わずに進んで行くしかありません。




出来事に偶然はありません。

自然法則の働きによって起きています。

私たちは、自然法則の働きによって起きた出来事を経験することで、成長して行きます。

成長することで、全体の成長が促されて、神の意図した世界となって行きます。


2025年3月30日日曜日

内在する愛によって許すことができる



死んだ後にも、生きる世界(霊界)があります。

あるのは確かですが、残念ながら客観的に証明することはできません。


眠っている間は、魂は肉体を離れて、霊界に行っています。

爽やかで、新鮮な気持ちで目が覚める時があります。

そんな時は、霊界でリフレッシュされ、余韻を残しながら肉体に戻って来たのではないかと考えています。



小さい時は悩みや心配などなく、日が暮れるまで無中になって友達と遊んでいました。

霊界も同じで、生きて行く上での悩みや心配はなくなり、友達よりもさらに親しい人たちと、やりたいことを思う存分することができるようになります。



霊界のことを知るほど、早く行きたくなります。

地上に戻ることなく、できるなら霊界で成長したいと思うのは、私だけでしょうか。



若い時、社会で成功することはとても大切であり、自分の価値の多くはそれで決まると考えていました。

少しでも高い地位、たくさんのお金を求めて、努力している人は少なくありません。

けれども、霊界に持って行けるのは自分(魂)だけです。



霊界に行ってしばらくすると、地上の人生を振り返る時が来ます。

想ったこと、言ったこと、行ったことの全てが、オーラに刻み込まれています。

自分の言動が、周りにどのような結果をもたらしたのかを知ることになります。



因果律の働きは、正確無比です。

人や動物に喜びを与えれば、相応の喜びとなり自分に返って来ます。

苦しみを与えれば、相応の苦しみとなって自分に返って来ます。

与えた喜びは自らの成長を促し、与えた苦しみは成長を妨げます。



成長したいと言う根源的な欲求が私たちにあります。

成長を妨げる原因(カルマ)を取り除かない限り、欲求を満たすことはできません。

原因(カルマ)を取り除くために、生まれて来た人も少なくないようです。



霊界で経験できないことを、地上では経験できます。

経験を通して大切なことを学び、自分に足りない霊的な資質を手に入れるために、生まれて来ている人も多くいます。



思念が直接伝わる霊界と違い、地上では自分の想いや概念を言葉に変えて、五感を通して伝えなければいけません。

けれども、自分の想いや概念を正確に言葉に変えられるわけではありません。

住んでいる場所によって、言語も違います。

言語が違えば、自分の想いを正確に伝えるのは、さらに難しくなります。



心が似通っている人たちだけと接している霊界と違い、地上では心が似通っていない人たちとも接して生きなければなりません。

たとえ自分の想いを正確に伝えられたとしても、考え方や価値観が違う人と、同じ想いを共有できるとは限りません。

お互いを理解し合うのが困難な世界に生きていると言えます。



肉体を持つことにより、意識は自分に向かいます。

自分が大切になるほど、他者の想いはどうでも良くなります。



これら地上ならではの要因によって、いさかいが起きやすくなります。

高じると戦争になります。

肉体を持たない霊界では、戦争は起こり得ないのです。



考え方や価値観が違う人間と共に生きているのが地上です。

そのことを、まず認識しなければいけません。

自分の考えの方が正しい、あるいは優っていると主張し合うのではなく、相違があるのは当然として受け止め、相手の考えを認めなければいけません。



肉体を介して自己表現しなければならないのが地上です。

思った通りに表現できるとは限りません。

表現できたとしても、意図した通りに相手に伝わらない時もあります。



不完全な人間が、完全に近づくために生まれて来るのが地上です。

不完全であるがゆえに、時に過ちを犯してしまいます。

自分は完全だと言う人がいますが、それ自体が不完全さを証明しています。



お互いが不完全な存在であることが認められたのなら、相手の過ちを許すことができるはずです。

侵害しようとする相手から自分の身を守ることは許されますが、相手の過ちを許せずに、感情に任せて報復したのなら、自然法則の働きに背いたことになり、好ましくない結果が返って来ます。

難しいことですが、感情を抑えて、因果律の働き(神)に委ねなければいけません。



地上は、認め合い、許し合うことの大切さを学ぶ場です。

寛容さが求められています。

それらが欠けていると、因果律の働きによって苦痛を伴う事象が起きて、経験的に学ぶことになります。



自然法則を貫いているのは愛です。

寛容であるためには、自己犠牲が求められ、大きな意味の愛を表現しなければなりません。

自然法則に叶っているので、好ましい結果が生まれます。



認められない、許せないのは、地上の表現媒体である自我(エゴ)の働きによるものです。

魂には神が宿っています。

エゴから生じた怒りや憎しみの感情は、内在している神の愛によって、完全に鎮めることができます。



自分にも神が内在していると強く信じましょう。

何が起きたとしても、そこから愛を引き出すことができたのならば、許すことができるはずです。



地上にいる私たちは、魂に内在する愛とエゴから生まれる感情の間で、日々揺れ動いています。

エゴに打ち克って、内在している愛を表現することで、霊性は発達して行きます。

それこそが、地上に生まれて来た目的です。



地上で身に付けた寛容の精神は、魂の財産として持って行けます。

博愛の精神となって、霊界で花開くと思います。




 

2025年3月23日日曜日

意志は感情よりも強い


ALSと言う病気を聞いたことがある人も多いかもしれません。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、運動神経細胞が徐々に障害され、筋肉が衰えていく進行性の神経疾患です。

根本的な治療法はなく、呼吸に関わる筋肉が動かせなくなり、最終的に死に至ります。



ALSの患者さんは大きな決断をしなければいけません。

呼吸が困難になって来たら、気管切開をして人工呼吸器を取り付けて延命を計るのか、または自然に任せる(死を待つ)のか、どちらかを選択しなければいけません。



死後の生があるのが分かっていて死ぬのは恐くなくても、息ができない苦しみは避けたいです。

少しでも長く生きて欲しいと家族に懇願されたのなら、心が動かされてしまうかもしれません。

極めて難しい選択を迫られるのは間違いありません。



霊的真理には「乗り越えられない困難や障害は起きない」と書いてあります。

この病気には、治療法がなく死に至ります。

どう乗り越えて行けば良いんだと思われる人もいるでしょう。



病気が進行すると、全身の筋肉は麻痺し(眼球を除いて)動かせなくなりますが、意識は最後まで清明です。

意志の疎通が全くできなくなるのを「Totally Rocked Syndrome(完全閉じ込め症候群)」と言いますが、人工呼吸器を付けて生き長らえたとしても、この状態が死ぬまで続きます。

逃れられない苛酷な現実を前にして、多くの患者さんは絶望と恐怖を感じるようです。

精神的に追い詰められて、それまで眠っていた魂が目覚めて、霊的真理に辿り着く人もいるでしょう。



地上の人間は、肉体を携えた魂です。

本質は魂です。

従って、肉体がいかなる状況に追い込まれたとしても、魂から生まれる意志によって思い通りの自分でいることができるはずです。



けれども、人間には(地上の)自我が存在しています。

肉体や外部の環境から影響を受けて、精神(自我)からはさまざまな感情が生まれます。



精神(自我)よりも魂が上位にあります。

精神から生まれる感情よりも、魂から生まれる意志の方が強いのです。

意志を持つことによって、好ましくない感情は抑えられるはずです。



ALS患者に藤田正裕さんと言う方がいます。

彼は広告プランナーとして第一線で活躍していましたが、30歳の時にALSと診断されました。

次第に呼吸が困難になり、生きるか死ぬかの決断をしなければいけない時が来ました。

肉体に閉じ込められる恐怖はもちろんのこと、家族に金銭的、精神的、身体的な負担や迷惑をかけたくないという理由から、約70%は人工呼吸器を付けない方(死)を選ぶそうです。

1度人工呼吸器を装着したら、倫理的、法律的な問題から外すことは難しくなります。

そんな中で、藤田さんは生きる方を選びました。



藤田さんの魂は目覚めていると思います。

命の終わりを意識することで、生きる意味に気付き、絶望ではなく希望を持って人生を全うしようと決めたそうです。

「END ALS」という組織を立ち上げて、治療法の確立と患者の生活向上支援のための活動を始めました。



絶望や恐怖を感じていたい人はいません。

何かをしようとする「意志」が生まれている時には、絶望や恐怖などの「感情」から解放されています。

逆境の時ほど、感情に翻弄されないために、意志を持つことが必要です。



「死にたくない」と思うのは意志ではなく、自我から生じている願望です。

願望なので叶えられないかもしれないと思うと、そこから負の感情が生まれてしまいます。



「生きる」と決めてしまえば良いのです。

生きて、ALSを終わらせると心に決めた藤田さんは、無用な感情に悩まされにくくなっていると考えられます。

意志は全てに優先されるからです。



以前も書きましたが、戦時下のアウシュビッツ強制収容所である出来事が起こりました。

囚人が脱走して、同じ棟にいた10人が無作為に選ばれ、連帯責任として飲まず食わずで死に至る飢餓刑を科せられました。

選ばれた人の中に、妻子がいることを知ったゴルベと言う神父は、自分が身代わりになることを申し出ました。

身代わりとなり飢餓刑に処せられた神父は、牢内で最期まで周りの人たちを励まし続けたそうです。

「全き愛は恐れを知らず」

このイエス・キリストの言葉をゴルベ神父は証明していたと思います。(神父は1982年に聖人に列せられました。)



聖人でなくても、全ての人は神の愛を持っています。

泣いている子供がいると声をかけたくなるのも、悲しんでいる人を慰めるのも、落ち込んでいる人がいると励ますのも、私たちは神の愛を持っているからです。

駅のホームで転落した人を助けようとして亡くなった人がいますが、死の恐怖より助けようとする意志(愛)の方が優っていたからです。

置かれている状況から生み出される、絶望や恐怖を完全に抑えることのできる最高の意志は愛です。



霊界にいる存在からも、地上の私たちは愛を受けています。

将来のことで怖れや不安が生まれそうな時は、霊界にいる存在とつながっていると強く信じましょう。

霊界から届く愛(想い)により、怖れや不安が和らぎ、あたたかいもので満たされるのを感じることができるかもしれません。

「万策尽き、これにて万事休すとあきらめかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがある」とシルバーバーチの霊訓に書かれています。

1人ではなく、霊界にいる存在と共に地上の人生を歩んでいることを忘れてはいけません。



ALSによってたくさんのものを奪われたが、「感謝、希望、人とのつながり」は奪われなかったと藤田さんは言っています。

病気により奪われることなく、最後まで残ったものが、藤田さんにとって最も価値のあるものと思われます。



自らの成長のため、周りに示唆を与えるために、この病気に立ち向かうことを、決めていたと考えられます。

多くの人に支えながら生きている、大きな意味での愛を学んでいます。

自分を表現することの大切さ、勇気や希望を持ち続けることの意味を訴えています。

病気により培われた生きようとする意志は、霊界に行くと誰かのために何かをしようとする強い意志に変わるでしょう。



最後に、シルバーバーチの霊訓のこの一節を、病気に苦しむ人に捧げます。

「時として厳しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。『自分は神の一部だ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界でくじけるものか』と。そう言えるようになれば、決してくじけることはありません。」





2025年3月16日日曜日

お役に立つ


今は亡き義母のお見舞いに行った時のことです。

衰弱してベッドから起き上がれなくなった義母が、天井を見つめながらしみじみとこう言ったのを覚えています。

「お役に立てなくなった」

地上を去る前、本当に大切なものが見えて来ます。

シルバーバーチの霊訓には「役に立つ」ことが大切だと繰り返し書かれていますが、義母のその一言で再確認しました。



十年位前になりますが、友人から連絡がありました。

知り合いの家族が、ヒーリングを希望しているとのことでした。

ご家族には2人のお子さんがいましたが、上の女の子には自閉症と精神発達遅滞の障がいがありました。

10才位でしたが3才位の知的レベルで会話は成立せず、お母さんにべったりくっついていました。



ヒーリングをする前に、お母さんと少し話をしました。

お母さんはある看護師さんから「(そのお子さんは)あなたを選んで生まれて来たのよ」と言われたそうです。

その言葉に反発して「生まれて来なくて良かった」と思ってしまったそうです。

それを聞いて私は驚きましたが、同時にこれまでいかに大変な思いをして育てて来たのかが少し分かったような気がしました。



NASA公開画像

私たちは、地上の環境を選んで生まれて来ています。

どのような人生を辿るのかも、予め分っています。

過去生において関わり合いがあり、今生で親子になる必要があったのかもしれません。

詳しいことは分かりませんが、学びと成長のために、今のお二人の関係があるのは確かです。



死んだ後に行く霊界こそ、本来の住処です。

肉体がなくなると、意識は自分から周りへと向かいます。

周りのために何か役に立てないかと、自然に思うようになります。




会社に入ると、プロジェクトを任されることがあります。

任されるプロジェクトは、個人のスキルに応じたものになります。

スキルが増すのに従い、難易度の高いプロジェクトを任されるようになります。

難易度が高くなるほど、成し遂げた時の喜びは大きくなります。

その喜びは、会社や社会のために役に立てたことに起因していると思います。



霊界では、役に立ちたいと想えば、その想いは叶えられます。

資質に見合った奉仕に携わることができ、それに喜びを感じます。

人間には、より深い喜びを味わいたいと言う欲求があります。

そのために、より次元の高い奉仕をしたいのですが、会社のプロジェクトと同じで、資質が伴っていなければ携わることはできません。



そこで地上に生まれることを志願します。

逃れられない運命と思っていた事象は、必要な資質を身に付けるために、因果律の働きによって起きているのかもしれません。

外からは苦難や凶事に見えるかもしれません。

誰もが避けたいような出来事を経験する人生を、承知して生まれて来ている可能性があります。



自分の時間を持つことを許さないお子さんに対し、生まれて来なければと思う時もあったかもしれません。

けれども、子供として生まれて来るべき存在だったことに気付く時が来るでしょう。

「自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、自分が立派になります。」とシルバーバーチの霊訓には書かれています。

大変な苦労をして、自分を犠牲にして育てるのは、ご自身の魂を向上させることで完全に報われています。



一方、女の子は思うように自己表現できないハンディを背負って生きています。

そのため、苦しい思い、もどかしい思い、悔しい思いをすることも多いでしょう。

誰かに助けてもらわなければ、生活して行くのは困難です。



先になりますが、死によって肉体から解放され、自由に表現できる喜びを噛みしめる時が来ます。

苛酷な人生ですが、その分、魂は大きく向上しているでしょう。

人に助けてもらう経験が生涯に渡って積み重なることで、感謝の気持ちは極めて大きなものとなり、今度は誰かのために役に立ちたいという強い意志に変わると思います。

地上で不幸と言われる事象は、霊界でより高い次元の奉仕をして、喜びを感じるために起きていることがあります。

お二人はお互いのために役に立ちながら、経験しなければ決して得ることのできない大切な教訓を学んでいると思います。



女の子には妹さんがいますが、とてもしっかりとしていました。

お姉ちゃんに特別な愛着を感じているようで、妹になるのを決めて来たことが窺われました。

ご両親が亡くなった後も、寂しい思いをさせないように、寄り添って生きて行くと思います。(そんな兄弟姉妹が多いように感じられます。)



その日、女の子にヒーリングをすると穏やかな表情になりました。

お母さんにいくつかの霊的真理を話して、最後に「シルバーバーチの霊訓(1)」を渡して別れました。



しばらくして友人から連絡があり、お母さんの人柄が変わったように感じられたとのことでした。

癒しを必要としていたのは、お母さんだったのです。

霊的真理を受け入れる時期が来ていたのかもしれないと思うと、無性にうれしくなりました。



お役に立てることの中でも、必要としている人に霊的真理を伝えることは別格です。

人生を好転させることができるからです。

生まれて来た目的を成就させる方向に導くことができるからです。




2025年3月9日日曜日

自分の愛で癒す


人間が生きて行く上で「愛」は必要か?

答えは人それぞれです。



神聖ローマ帝国である実験が行われました。

時の権力者であったフリードリヒ2世は、「生まれつきの言語は何なのか?」という疑問を持ちました。

その答えを出すために、家来に生まれたばかりの50人の赤ちゃんを集めさせ、乳母たちに以下の条件で育てるように命じたそうです。

赤ちゃんの目を見てはいけない、笑いかけてはいけない、話しかけてはいけない、接するのはミルクを与える時、お風呂に入れる時、オムツを取り替える時のみとする。

出典は定かではありませんが、3才までに49人の赤ちゃんが、残りの1人も6才までに亡くなったと伝えられています。



ルーマニアのチャウチェスク政権(1965~1989年)下でも同じようなことが起こりました。

誤った国策によって、多くの赤ちゃんが捨てられました。

捨てられた赤ちゃんは孤児院に引き取られましたが、職員の数が極端に不足していたため、食事やおむつの交換などの最低限のことしかできなかったそうです。

そんな環境で育った多くの子供たちに、知能低下や情緒障害、自閉症に似た症状が見られました。



先日、市が主催する3歳時歯科検診に行って来ました。

多くの子供は虫歯のない綺麗な歯並びをしていますが、中にはほとんどの歯が虫歯になっている子供がいます。

親が子供のことに関心がない、いわゆるネグレクトが疑われます。

そんな子供たちは他の子供たちに比べて、感情表現に乏しいように感じられます。

現代社会においても、十分な愛情を受けられない子供たちは少なからずいると思われます。



生まれてしばらくの間は、自分で生きることができません。

誰かに守り育ててもらわなければ死んでしまいます。(そのために赤ちゃんは愛くるしく創られていると思います)

守り育てるという行為は、愛情表現に他なりません。



0才から3才までの間に十分な愛情を受けていないと、愛着障害を起こす可能性が高くなると言われています。

将来、愛情を求め過ぎたり、依存したり、人を信じることができなくなったり、愛情表現が上手くできなくなることもあるようです。

また、感情のコントロールが難しくなったり、自己肯定感が低い傾向もあるようです。



それらの症状を改善するために、いくつかの心理学的アプローチがあります。

愛着療法は、過去の愛着パターンを理解して、現在の人間関係にどう影響しているのかを探り、セラピストとの安定した関係を通して、新たな愛着の関係を得るものです。

認知行動療法は、過去の愛情不足によって生じた否定的な自己認識や不安を修正するものです。

いづれも専門家の指導が必要となります。



チャウチェスク政権下で孤児院に入れられた子供たちの中で、早期に里親の元で暮らせるようになった子供たちには症状の明らかな改善が認められました。

適切な愛情を受けられるようになったからと考えられます。



食事と水さえあれば、肉体は生きて行けます。

けれども、精神的に健やかに成長して行くためには、愛が必要と考えられます。



理由もなく、怖れや不安が生じる人がいます。

そんな人は、記憶の空白期間である乳幼児期に十分な愛情を受けていないために、世の中に対する安心感が獲得されていない可能性があります。

もし、いたたまれなくなるほどの恐怖が生じているのであれば、虐待などを受けてトラウマになっている可能性があります。



今までに自分に起きた事象と、その時にどう想って、どう行動(表現)したかが、時系列的に魂(オーラ)に刻まれています。(死後に全人生を回想します)

乳幼児期に起きていた事象と、それにより生じていた想いが紐付けされています。

何かをきっかけにして顕在意識に上って来ると、得体の知れない怖れや不安として感じられることがあります。




愛されなかったことによって生じていた怖れや不安を解放できるのも「愛」です。

以前、トラウマに苦しんでいる人を癒す方法はないかと思っていたところ、「今の自分がその時の自分に愛を与えることで想いを解放させる(癒す)ことができる」と伝わって来ました。

当時インナーチャイルドの概念を知りませんでしたが、ほぼ一致していたことに驚いた覚えがあります。



具体的なやり方です。

まず、心の中にその時の自分を思い浮かべます。

写真があれば、その写真に写っている自分の瞳を見つめます。

その時の自分に向かって「つらかったね」「さみしかったね」「怖かったね」など、共感する言葉をかけます。

「私がいるから大丈夫だよ」「もう何も怖くないよ」など、安心させる言葉をかけて下さい。

そして「大好きだよ」「愛しているよ」と言いながら心の中で抱きしめてやって下さい。

何よりも大切なのは、愛おしむ想いを伝えることです。



学びのために、愛情を与えない親を選んでいる時もあるでしょう。

苦痛を味わうことで、過ちを償っている時もあるでしょう。

そのどちらでもなく、親の自由意志によって愛情が与えられなかった時もあります。



自分に非がないのに、苦しむ必要はありません。

神の公正は完全です。

閉じ込められた想いは、涙となって表現されて、解放できるはずです。

根気よく、少しずつ、傷ついている魂をご自分の愛で癒して下さい。







2025年3月2日日曜日

神の愛


何のために生きているのだろう?

子供の頃、漠然と考えていました。

やがて大人になり、慌ただしく生活する中で、そんな疑問もどこかへ行ってしまいました。

40代になり、人生を変えるような出来事が立て続けに起こり、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会います。

その中に答えが書いてありました。



この世を生きる目的は、自分を成長させるためです。

生まれる前にいた世界では経験できないことを経験して、大切なことを学ぶためです。



学ぶべき最も大切なものは「愛」です。

愛は五感に触れません。

五感に触れない愛を、地上での経験を通して魂が感じ取り、その意味を深く学んでいます。



なぜ、そこまでして愛を学ばなければならないのか?

「愛があればこそ全宇宙が存在する」

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれていましたが、当初はその意味が判りませんでした。

今も学びの途中ですが、こんなことを考えています。


NASA公開画像

宇宙はバイブレーションでできています。

物質も生命も、固有のバイブレーションを放っています。

人間から放たれている思念もバイブレーションです。

その中で最も振動数の高い(波長の短い)ものが「愛」と考えられます。



「神は無限の愛」と言われます。

ただ、地上の人間が考える愛とは、全く次元の異なるものと考えられます。

限りなく高いバイブレーション(愛)を放つ無限のエネルギーと考えていますが、どんなに言葉を尽くしても神を表現することはできません。



神からバイブレーション(エネルギー)を受け取っているのが魂と考えています。

魂は神とつながった神の一部です。



魂が受け取ったバイブレーションは、自我により思念というバイブレーションに変換されて、地上ではそれが肉体で表現されて完結していると考えられます。

神からのバイブレーションは、媒体である自我を経由するごとに、低いものへと変わって行くと考えられます。



地上は最も低い物質的バイブレーションの世界です。

それに相応して、低いバイブレーションの思念も放たれています。

怒りや憎しみは、魂が受け取ったバイブレーションが、地上の自我の働きにより変化したものと言えます。

シルバーバーチは「憎しみの中にも神が宿っている」と言っていますが、元は神のバイブレーションだからと考えています。


物質と物質を引き付ける物理的な力が「引力」です。

魂と魂を引き付ける霊的な力が「愛」です。

肉体に閉じ込められた魂が、愛を表現することによってつながって行きます。

ばらばらに存在している人間(生命)が、愛によって霊的に1つになって行く計画が立てられていると考えています。



怒りや憎しみや恨みや嫉妬などの愛に反する想いは真逆の作用を示し、反発し合います。

お互いを遠ざける力と言えます。



世界の多くの場所で、苦しみ痛みや悲しみや怖れが生じています。

最たるものが戦争であり、愛に反する行いによってもたらされる悲惨な結果を目の当りにしています。

被害を受けた弱者が泣き寝入りをし、飢えて死んで行く人もいます。

傍観している私も、神から見れば、愛に反する行いをしているのかもしれません。



あらゆる行いに対して、神の法則が働いています。

愛を表現すれば喜びが生まれ、愛に反する想いを表現すれば苦しみや痛みが生まれるのも、法則の働きによるものです。

苦痛を与えたら、その償いとして苦痛が与えられるのもそうです。

法則の働きを知らずに、大きな罪を犯している人たちを見ていると哀れになります。


私たちは神からのバイブレーション(エネルギー)を受け取りながら生きていますが、未熟な自我でも自由意志が与えられているので、愛に反する行いをしてしまいます。

人は誰でも苦痛を感じたくはありません。

喜びと苦痛を与える法則を通して、愛を学び、表現する方向へと導かれています。



「愛は摂理の成就なり」

イエス・キリストはこう語っています。

摂理(法則)の中に、神の心が顕現しています。

神の心を表現させるものが「愛」と言えます。



宇宙は神のエネルギーで創られています。

宇宙を経綸している法則に、神の心が顕現しています。

神が愛であるならば「愛があればこそ全宇宙が存在する」という言葉の通りです。



大げさな表現ではなく、愛が全てであり、全てが愛です。

五感が前面に出ている地上では、そのことが極めて分かりにくくなっています。

次の世界に移行して、五感が取り払われて霊的な感覚が前面に出ると、自然に感じられるようになるでしょう。



怖れや不安を感じながら生きる必要はありません。

神の愛の中で生きているからです。

神のバイブレーション(愛)が感じられなくなる地上において、そのことを強く信じることができれば、喜びを感じながら生きて行けるはずです。




2025年2月23日日曜日

成長して行くための意志を培っている


人間の行動には、必ず意志が先行しています。

何を食べるか、何を着るか、どこに行くかなど、自分の意志で1つ1つ決めながら、行動しています。

今、このブログを見ているのもそうです。

意志が生れなければ、何も始まりません。



行動しなければ、生きていけないのが地上です。

生活するために働かなければいけませんし、家事もしなければいけません。

私たちは、行動する意志を持ち続けながら生きています。


死んで私たちが行く世界は違います。

肉体がないので、生活するために行動しなくても済みます。

意志を持たなくても生きて行ける世界です。


生きる目的は、霊的に成長することです。

シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂は親切、寛容、同情、愛、奉仕を通して成長するのです。」

愛を表現することで人は成長しますが、表現しようとする意志がなければ何も始まりません。

目的を果たすために、意志を持ち続けなければ生きて行けない地上に生まれると考えられます。



霊界では、意志(意念)が直ちに具現化します。

地上は物質(肉体)を介して、具現化することになります。

例えば、希望する学校に入りたいと思えば、試験を受けて合格しなければならず、そのために勉強をしなければいけません。

意念を具現化するために、肉体的、精神的な労力を必要とします。

地上では、労力が報われるとは限りません。

たとえ報われなかったとしても、それまでの労力は意志を培うことにつながっています。



小学校低学年の時に、九九(掛け算)を覚えました。

その時は、何でこんなものを覚えるのだろうと思いました。

ところが後になり、九九が生活して行く上で活かされることを知りました。

漢字もそうであり、覚えていて良かったと思う時があります。



人生で起きる出来事もそうかもしれません。

その時は、何でこんなことが起きたのかと思います。

死んだ後の世界では、霊的な目が見開かれます。

原因と結果の連鎖が繰り返されているのが分かるようになり、後の人生のために欠くことのできない出来事であったことを知ります。



時には、生きる目的を奪ってしまう出来事も起こります。

生きる目が奪われた中で生きるのは、とても苦しいものです。

苦しみの中で、霊的に目覚める人がいます。

真実を受け入れ、それまでの苦しみから解放され、新たに目的を見つける人がいます。

それこそが、地上に生まれた目的である人もいるでしょう。



生きる目的をなくした中で生きることにも意味があります。

息をするのも、食べようとするのも、生きようとしているからです。

ただ生きているだけであっても、生きようとする意志が培われています。

霊界では経験できないことを経験しているのです。



霊界に行くと、意識が全てになります。

周りには、自分と意識を共有できる人たちが集まっています。

肉体がなくなることで、自分と他者との境界が曖昧になります。

自分への執着が弱まり、意識は周りへと向かうようになります。



生きる力は神の力であり、愛を帯びています。

そのために、周りのために何かをしようとする意志が、自然に生まれるようになります。

地上を生き抜くことで培った意志は、周りのために何かをしようとする意志となります。



困難や障害に出会った時に、人は何とかして乗り越えようとします。

「光と闇、日向と日陰は、1つのものの2つの側面です。闇がなくては光の存在は分からず、日影がなくては日向の有難さも分かりません。人生の苦難は、魂の成長を促す手段です。困難や障害や不利な条件は、全て魂の試練です。それを1つ1つ克服するたびに、魂は強さを増し、清さを増し、深みを増し、本性を高めるのです」と、シルバーバーチの霊訓には書かれています。

自分の成長のために必要だと、魂は自覚しています。

生まれる前に決めていたことであれば、それしか選択しようがありません。



成長とは、より高い愛を、より強い意志で表現できるようになることだと思います。

愛が見えなくなり、愛に反する想いが存在し、生きて行くために労力を伴い、苦しみや痛みの存在する地上だからこそ、成長して行くための意志を培うことができます。



「魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、何も苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時はなかなか得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一番の薬なのです。」シルバーバーチの霊訓にはこうも書かれています。

大変な時こそ、大切な時のようです。



死んで持って行けるのは、霊的な財産だけです。

地上で大変な思いをして得た財産は、本来の住処に戻って、周りのために活かされます。






2025年2月16日日曜日

病気を癒す


仕事で毎日のように虫歯や歯周病になった患者さんを診ています。

病気には必ず原因があります。

虫歯や歯周病は、プラークと言う細菌の塊によって引き起こされます。

従って、ブラッシングを丁寧に行って、プラークを取り除いてしまえば、病気になることはありません。


人間は肉体、精神、霊(魂)から成り立っています。

全ての病気は、肉体(物質)的、精神的、霊的、どこかの次元に原因が存在しています。

細菌は(顕微鏡下で)目に見えるものなので、虫歯や歯周病は物質的次元に原因があると言えます。



虫歯や歯周病でなくても、歯を抜かなければいけない人が多くなって来ました。

それは、歯根破折と言って歯の根が真っ二つに割れてしまった時です。

歯に持続的に力が加わることによって、歯根破折は起こります。

その大きな原因となっているのは就寝時の歯ぎしりです。

歯ぎしりは昼間のストレスを発散するために行われ、食事をする時の5~10倍の力が歯にかかると言われています。

また、甘い物を食べることでストレスを解消しようとする人がいて、すぐ虫歯になってしまう人もいます。

私の医院を訪れる患者さんは、ストレスと言う精神的次元に原因がある人が多いと感じています。



胃潰瘍やうつ病もそうです。

精神的次元に原因があり、肉体(脳)に異常を引き起こしている病気は少なくありません。

けれども、医学の対象はあくまでも肉体(物質的次元)です。

根本的に治すのには、精神的次元に踏み込まなければいけないのですが、それができないために対処療法に終始することになります。


人生において、さまざまな出来事が起きます。

その時に、さまざまな感情が生じています。

うれしいことが起きれば微笑み、腹立たしいことが起きれば眉間にしわを寄せ怒り、悲しいことが起きれば目から涙が出ます。

生じた感情は、肉体で表現されることによって完結しています。

感情は肉体に変化を起こすエネルギーと言えます。



ところが現代社会では、感情を表に出せない局面が多くあります。

上司から理不尽なことを言われても、怒ることはできません。

部下の態度が悪くても、安易に怒れない時代になっています。

いわゆる感情が抑圧された状態になることが多いです。

感情が表現できずに溜まっている状態を、ストレスとして感じていると考えられます。

運動したり、お酒を飲んだりして、ストレスを発散しようとする人は少なくありません。

これは内に溜まっているエネルギーを、別の形で解放させようとしていると考えられます。



感情の中には、恐怖や不安など解放されにくいものもあります。

2016年のカナダの研究では、幼児期に虐待を受けた人は、成人後にがんを発症するリスクが約47%高いと報告しています。(2020年のアメリカの研究でも同様な結果が出ています)

全ての現象は、自然法則(因果律)の働きによって起きています。

解放されない感情が溜まったことが原因となり、結果として肉体上に病気が生じることがあると考えています。

もし心当たりがあるのならば、目を閉じてその時の自分を心の中で思い浮かべて、優しく抱きしめて、親愛の言葉をかけてみましょう。

その時の感情が、涙となって解放されるかもしれません。




霊的次元にも病気の原因(目的)があります。

必要な霊的な資質を得るため、成長を促すための人もいるでしょう。

苦痛を通して、過去の過ちを償うための人もいるでしょう。

寿命が来て、次の世界に移行するための人もいるでしょう。



「いのちのポラリス」というNPO法人があります。

そこには、現代医療に頼らないでがんを自分で治した人たちが集っています。

治った人たちに共通しているのは、がんになり生き方や考え方が大きく変わったことです。

がんを治すためには、それまでの生き方や考え方を変える必要があると、異口同音に言っています。



それとは別のグループがあります。

末期がんの患者さんたちが富士登山を行って話題になりました。

リーダーの医師は、手の施しようのなくなった患者さんの中に自然治癒する人がいて、それらの人に共通するものを見つけたそうです。

それは「がんになってからの方が、がんになる前よりもずっと幸せを感じている」と言うことでした。



周囲の人たちには、がんになり人間が変わったように見えるでしょう。

そうではなく、幸せが感じられるような生き方や考え方に変わるために、自然法則(因果律)が働いて、がんになったと考えられます。

医学に頼らずに治ったのは、生き方や考え方が変わったこと、もっと言えば本来の自分の姿を取り戻したことで、がんになった目的が果たされたからと考えられます。



ほとんどの人にとって、病気は全く有り難くないものです。

けれども、霊的に見ると違います。

病気の苦痛は、それまで眠っていた魂を目覚めさせます。

霊的に目覚めることで、霊的に大切なものが分かるようになります。

大切なものが分かることによって、初めて生き方や考え方が変わります。



がんが生じるのは自然現象です。

自然現象は自然法則の働きによって起こります。

神の心が、自然法則の働きの中に込められています。



苦しみや痛みを感じさせるためではありません。

命を奪うためでもありません。

本当の自分を目覚めさせ、大切なものに気付かせるために存在している、神の御業(愛)です。



命の危機を感じなければ、目覚めなかったのです。

命や愛や人生について、思いを巡らすこともなかったのです。



荒唐無稽と思われるかもしれませんが、敢えて言います。

大切なことを教えてくれている、大切な自分の一部に、愛念を向けて下さい。

その想いが病気を癒すことにつながると信じています。





2025年2月9日日曜日

与えられた自由意志


人は1日に何回決断をしているのでしょうか?

ケンブリッジ大学の研究によると、何と3万5千回の決断をしているそうです。

朝、目が覚めたら、起きるか、もう少し布団の中にいるかに始まり、どんな服を着るか、何を食べるか、仕事が始まれば決断の連続です。

決断は労力を伴うものです。

アップルの創始者であるスティーブ・ジョブズは無駄な労力を使わないために、いつも同じ服を着ていたそうです。



さまざまなことを決められるのは、他の動物たちと違って人間に自由意志が与えられているからです。

自由意志があって良かったと思いますが、決めたことに対して責任が伴うことを忘れてはいけません。

20年以上前ですが、過った行いをして行政処分を受けて、大変苦しい思いをしました。

その時に霊的真理と出会い「因果律の働き」を思い知りました。

いっそのこと自由意志などなければ、過ちを犯さず、苦しい思いをしなくて済むのにと思いました。



けれども、自由意志がなければ、シルバーバーチが言うようにただの操り人形になってしまいます。

自由意志が与えられたのには、何か理由があるはずです。


宇宙を創造した神は完全です。

私たち人間は、神の心を表現する宇宙の一部として創られました。

けれども、極めて不完全な存在です。



シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。」

不完全な私たちにも、完全(神)が宿っています。



別のところで、こうも書かれています。

「こう考えるとよろしい。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡が粗末であれば光の全てを反射することはできない。その鏡を磨いて立派なものにすれば、それだけ多くの光を反射することになります。」

私たちは完全な光(神)を宿していますが、映し出す媒体(自我)が不完全なために、そこから放たれる光も不完全なものになってしまいます。

媒体(自我)が進化するのに従い、表現も完全になって行きます。



完全な神が、何故不完全な存在を創ったのかは分かりません。

それでも、こんな風に思えるのです。

完全(100%)は変化しようがありません。

不完全であればこそ、完全に向けて変化の余地が残されています。

完全へ向けての変化が進化であり、進化こそが生命創造の目的になっていると考えています。



変化しているのは生命だけではありません。

物質もミクロの原子からマクロの宇宙まで常に変化しています。

神の創ったもの全てが、自然法則の働きによって、進化して行きます。



生命(魂)には、完全に向けて進化しようとする根源的な欲求が存在しています。

けれども、人間には自由意志があります。

そのために、完全とは違う方向に行ってしまうこともあります。



自然法則の働きの中に、神の心が顕現しています。

自由意志により不完全さが表現されると、自然法則(因果律)が働いて、苦痛を伴う事象が生じます。

わがままばかりを言っていると、疎外されるのもそうです。

孤独という苦痛を経験して、不完全な表現(わがまま)を改めて、協調的な行いをするようになります。

自然法則の働きによって、神の心を学びながら、完全に近づいて行きます。



神の意図は完全です。

無駄なものは一切ありません。

全ての生命は、全体のために役割りがあって存在しています。

それぞれが役割りを果たすことによって、全体に調和が生まれ、美しくなって行きます。

そして個の進化が促されます。

個々が進化することで、全体が進化して、神の意図する世界となって行きます。



神は進むべき方向を、良心の声として示しています。

進化を妨げる行いをしようとすると、良心が咎めるようになっています。

いざ行ってしまうと、良心の呵責を感じるようになっています。



生れる前に決めていたことであれば、それを知っている霊的な自我(インディビジュアリティー)は、その方向へ進もうとします。

進化のために計画された人生であることを忘れてしまっている地上の人のために、守護霊が付いています。

目的を果たすために、生涯に渡って守り導いています。



見捨てられることがないのは、神は自然法則の働きとして顕現しているからです。

良心の声を無視したり、守護霊の働きかけに気付かず、進化を妨げる方向に行ったとしても、自然法則の働きにより苦痛を伴う事象が生じ、過ちに気付いて、進化を促す方向へと軌道修正されます。



明日も、たくさんのことを決めなければいけません。

大切な決断をする時は、直感を信じるようにしましょう。

直感とは、霊的なインスピレーションです。

霊的な自我(インディビジュアリティー)の訴え、内在する神(良心)の声、あるいは背後霊の働きかけを、インスピレーションとして受け取っていることがとても多いです。

自分の頭で考えたことよりも、広く、深く、先まで見渡せています。



時に直感は、難しい方、避けたい方、面倒な方向を指し示すかもしれません。

けれども、その方向は自らの学びや成長につながっているので、後悔することはありません。



進化を促す方向に行くのか、進化を妨げる方向に行くのかを決めているのは自分です。

決めたことに対する責任を地上の人に取らせるために、守護霊と言えども干渉できません。

無事に進化を促す方向に進んで行くことを決めたのなら、惜しみのない援助を始めるでしょう。



どんなに抗ったとしても、結局は神の心を表現する方向へと進んで行くことになります。

もしそうであるならば、遠回りをしないで、最初からそちらに行く方が良いのに決まっています。





2025年2月2日日曜日

良い種を蒔く

   
          

種が地面に落ちます。

しばらくすると、地面から芽を出します。

そして陽を浴びながら生長して行きます。

そのどれもが自然現象です。



全ての自然現象は、自然法則の働きによって支配されています。

この世界の秩序は、自然法則の働きによって保たれています。



自然法則の根幹を為すのは「因果律」です。

原因があれば結果が生じ、結果には原因があります。



生命が誕生するのも自然現象です。

自然法則の働きによって、私たちは生まれて来ています。



(地上の)生命の誕生とは、受胎の瞬間です。

肉体と生命(魂)が結合し、地上の人生が始まります。

受胎という自然現象が結果ならば、その原因は受胎前にあるということになります。


病気には原因があります。

タバコを吸えば肺疾患に、お酒を飲み過ぎると肝疾患になるリスクは高くなります。

神経を遣い過ぎると、胃潰瘍になる時もあります。



多くの遺伝性疾患は原因不明とされています。

受胎時に遺伝性疾患は生じるので、原因は受胎前にあります。

ところが、医学では受胎前に生命は存在しないことになっています。

原因は物質的次元ではなく霊的次元にあると考えられるので、受胎前に生命が存在していることを認めない限り、医学で突き止めることは不可能です。



霊的次元の病気の原因(目的)は、自分に足りない資質を手に入れるためかもしれません。

持っている資質をより向上させるためかもしれません。

過去の人生で拵えた借りを返すためかもしれません。

いづれにせよ、霊的成長に関わっているのは間違いありません。



種には、生長と繁殖と言う目的(原因)が宿されています。

その結果として芽が出ますが、それには十分な水分、適度な温度、土壌が適しているなどの条件が整っていなければなりません。



人間も同じと考えられます。

成長という目的が存在しなければいけません。

それに適した環境がなければいけません。

少なくても、この2つの条件が整わない限り、生まれて来ることはないと考えています。





生まれる前にいたのは、ストレスフリーな世界です。

肉体がないので、食べて行くために働く必要もなく、病気の苦しみや痛みもありません。

周囲には自分と似た人しかいないので、人間関係で苦しんだり悩むこともありません。

争いはなく、平和で穏やかな世界です。




そんな世界を離れて、苦しみや痛みや争いが存在する地上に、どうして生まれて来たのでしょうか?

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたもの全てが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の難問に遭遇した時、人生で最も暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台となっていることを発見されるはずです。」

苦痛や困難を伴う出来事が起きる世界だからこそ、その経験を通して学べる大切なことがあるようです。




およその人生は、生まれる前に決まっています、

無限の叡智によって、個々の目的を果たすために最適な人生が立案されます。

その人生を了承して、私たちは母体に宿ります。

いざ生まれてしまうと、その時の記憶が上って来ることはありません。(一部の幼児などは除く)


小学生の時、休日に父に連れられて映画を観に行きました。

「007」シリーズの映画でしたが、父は時間がなかったのか、途中から館内に入りました。

その時スクリーンに映っていたのは、ジェームズ・ボンド(主人公)がカーチェイスをしているクライマックスシーンでした。

しばらくするとジェームズ・ボンドは敵に勝利し、映画が終わりました。

当然のことですが、その前を観ていないので、何でカーチェイスをしているのか、さっぱり分かりませんでした。



人生も同じような気がします。

今の人生は、過去からつながっています。

けれども、私たちが知ることができるのは、生まれてから現在までです。

何で起きているのか分からない出来事は、知ることができない過去の人生に原因(目的)があるのかもしれません。



分からなかった原因(目的)は、寿命が来て生まれる前にいた世界に戻ると分かるようになります。

全ての出来事が、因果律の働きによって連綿と続いていて、遠い過去から現在に至っているのが分かります。

偶然や不運ではなかったことが分かります。



途中から館内に入った父と私ですが、最初から観ることにしました。

何とつまらない時間だったでしょう。

感動も半減でした。

クライマックスシーンとその結果が分かっていたからです。

それまでの物語の展開は、クライマックスシーンに向けて準備されたもののように感じられました。



もし、計画されている「人生のシーン(出来事)」が分かっていたらどうでしょう?

映画と同じようにつまらなく、感動のないものになってしまうような気がします。

地上にいる私たちは、過去も未来も知る必要はなく、今を精一杯生きていれば良いのです。



この人生は過去の人生の結果と言えます。

同時に、未来の人生の原因となっています。

蒔いた種を刈り取りながら、種を蒔いているのです。



良い結果を収穫したいのであれば、良い種を蒔くしかありません。

良い種とは、神の心に叶った行いです。

それは難しいものではなく、誰かのために何かをすることです。

もっと簡単に言うと、よろこぶことをすれば良いのです。

許すことも含まれるでしょう。



よろこぶことをすれば、よろこびとなって返ってきます。

形を変えて返って来ることもあります。

今生ではなく、来世で返って来ることもあるでしょう。



因果律の働きは完璧です。

神の心に叶った生き方は、魂の成長となって結実します。






2025年1月26日日曜日

霊的な自我(意識)を見い出す


若い頃「何で生きているのだろう」と漠然と考えていました。

死んで無になるのであれば、生きている意味は極めて希薄になります。



意味がないのであれば、面白おかしく生きようとするかもしれません。

高い地位やお金を手に入れることを目的にして生きるかもしれません。



けれども、そんな生き方をしていては物足りなさを感じます。

何故なのでしょうか?



お腹が空いている時に食べると、満足感が得られます。

けれども、食べたものが消化されて、またお腹が空くと満足感はなくなります。



お金や地位を手に入れると、よろこびを感じます。

けれども、時間が経つと、もっとたくさんのお金、さらに高い地位が欲しくなります。

最高の地位を手に入れたとしたら、今度は手放したくなくなります。

地上的な欲求には際限がないからです。



私たちは生活して行くために働かなければいけません。

働いている時に、人に喜ばれたり感謝されたりするとよろこびを感じます。

そんなよろこびを感じたいために、頑張って働いている人も少なくありません。



私の家では、約20年前から動物の保護活動を行っています。

それまでつらい思い、寂しい思いをしてきて来た犬や猫たちが、新しい家族に迎え入れてもらい、幸せに暮らしている姿を見るとよろこびを感じます。



お金や地位を手に入れた時のよろこびと、人に喜ばれたり、感謝されたり、誰かが幸せになった時のよろこびは違います。

前者のよろこびは、時と共に消えてしまいます。

けれども、後者のよろこびは、その時を思い出す度に感じることができます。



地上の人間は、肉体を携えた霊(魂)です。

霊(魂)とは生命であり、意識の源泉です。



地上の人間は、地上的な自我(意識)と霊的な自我(意識)の2つ自我(意識)が存在していると考えられます。

お金や地位などを手に入れてよろこびを感じているのは、地上的な自我と考えられます。

喜ばれたり、感謝されたり、誰かが幸せになるとよろこびを感じているのは、霊的な自我と考えられます。



死んで霊界に行くと、地上的な自我はなくなり、霊的な自我でよろこびを感じるようになります。

霊的な自我は永続性があるために、そこで感じているよろこびにも永続性があります。

地上的な自我は束の間の存在であるために、そこで感じているよろこびを追い求めても虚しくなるだけです。



地上的なものにしかよろこびを感じなかった人は、霊的なよろこびがあることを知りません。

死んでもなお、地上的なよろこびを追い求めようとしますが、対象はもう存在しません。

よろこびが感じられない世界で生きることになります。



霊的なよろこびを感じながら地上を生きていた人は、霊的な自我が活きていたので、霊界に行っても直ぐに馴染むことができます。

地上よりもはるかに強く霊的なよろこびが感じられるようになります。

人はよろこびを感じていたい生き物です。

喜んでもらうために、誰かの役に立つような生き方をするようになるでしょう。



神の心が自然法則の中に顕現しています。

喜ばれたり、感謝されるとよろこびを感じるのは、その行いが自然法則の働きに適っているからです。

悲しませたり、傷つけたりするのは、自然法則に反した行いなので、苦痛を感じる事象が返ってきます。

よろこびと苦痛を通して、私たちは神の心を学んでいます。



霊的な意識の中に神がいます。

悪いことをしたくないと思うのは、神が良心となって顕現しているからです。



つらいことがあると、逃げ出したくなります。

逃げ出そうとするのを、霊的な自我(意識)が押し留めています。

つらくても生き抜くことが今生に生まれて来た目的であること、そして目的を果たした後に大きなよろこびが待っていることを、霊的な自我(意識)は知っています。



魂(霊)の存在を認めなければ、生きている意味を見い出すことができません。

何故なら、生きている意味は、自分の本質である魂(霊)を成長させることにあるからです。

そのために地上に生まれ、さまざまな経験をしています。



経験を通して、霊的な自我(意識)を見い出す人がいます。

そんな人は、他者のよろこびの中に、真のよろこびがあることに気付くでしょう。