人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2013年12月5日木曜日
何で生きているのか
20代前半の私を悩ませていたのは「何で生きてるのか」ということでした。
いくら考えても答えは見つかりません。
目標に向かって一生懸命に生きている人や、ひたむきに何かに打ち込んでいる人は、力強く、輝いて見えて、うらやましく思えました。
大学を卒業して歯科医師になった時も、恥ずかしながら人のため、社会のために貢献するぞ、という強い意気込みがあったわけではありません。
「何で生きているのか」という悩みは、あわただしく過ぎる日々の中で、置き去りにされていきました。
それから結婚して、故郷に戻り、仕事や家庭のことに追われながら、20年近くの時が過ぎました。
44歳となった時に、治癒力の出現と、仕事上の深刻な問題が立て続けに起こりました。
まもなくして、「シルバーバーチの霊訓」に出会い、霊的真理を受け入れることになります。
そして「何で生きているのか」という、若き日からの悩みに終止符が打たれることになります。
52年前、私はこの世に生まれました。
その時にできたことは、自分の要求を知らせるために、泣き叫ぶことだけだったと思います。
泣き叫ぶ私に、両親はその要求を満たすべく、昼夜を問わず無償の奉仕を私にしてくれたと思います。
数年後、幼稚園に入り同じ年の子供と時を過ごすことになります。
相変わらずわがままなことばかりを言っていたと思いますが、その中で他の子供たちと仲良く遊んだり、時にけんかをしたりして、自分以外の存在を意識していくことになります。
小学校に入学しますが、幼いと言えどもすでに一人ひとりに個性があります。
泣き虫な子、よく笑う子、怒りっぽい子、先生の言うことを素直に聞く子、聞かない子、勉強が好きな子、嫌いな子など誰一人として自分と同じではありません。
性格や考え方の違う子に囲まれながら、お互いに違いを認めていきます。
学年が上に行くに従い、近くに集まる仲間が出来始めていきました。
時々、仲間から反発を買い、孤独を味わったりもしましたが、それは決まって、うそをついたのがばれた時、周囲を無視し、わがままを言った時でした。
仲間はずれになりたくないので、反省し同じことをしなくなった様に思います。
中学、高校では他者とぶつかり合い、競い合う中で個性が磨かれていったと思います。
大人になり社会人になると、多くの時間を患者さんのために費やし、1人前の歯科医師となるために努力しなければなりませんでした。
過去から現在の振り返ると、あらためて摂理のもとに生きていることを、実感します。
子供の時、わがままばかり言ったり、自分のことしか考えていないと、たとえ子供といえども摂理が働き、友達に嫌われ、一人ぼっちにされます。
その苦痛を味わうことで、他者のことも考え、仲間との協調が必要なことを学んでいったと思います。
大人になり仕事に就きましたが、働くということは、自分の感情を抑え、他者のために奉仕することに他なりません。
働くことを通して、シルバーバーチが繰り返し言っている「人のために自分を役に立てる」ことを少しずつ実現していくとともに、その大切さを学んでいったと思います。
また、「役に立つ喜び」も患者さんの喜ぶ顔を見て実感していくことになります。
そして、機が熟して結婚をしましたが、独身の時と違い、仕事が終わった後も自分以外の人(配偶者)のことを考え、大事にしなければいけません。
さらに子供が生まれると、自分の楽しみよりも子育てを優先しなければならず、家族を中心に物事を考える様になってきました。
ありふれた人生のイベントは、自分から他者に意識を向かわせ、他者のために奉仕していく方向に進ませるためにあったと思います。
過去に数々の過ちを犯し、その度に痛い思いをしながら、知らず知らずのうちに、神の摂理を学んできたと思います。
人生のあらゆることが、摂理の支配下にあり、摂理を信じる信じないかにおかまいなく、それに沿って人生が展開してきたと思います。
「何で生きているのか」という私の答えは「人のために生きている」ということであり、これからも変わることはないだろうと考えています。
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