2016年6月25日土曜日

若者の自殺について



人は何の目的もなく、生まれて来たわけではありません。

本当の自分である「魂」を成長させるためです。

魂を成長させるために、この世でどんな出来事が自分に起こるのかを、ちゃんと承知した上で生まれて来ています。

人生で待ち構えていた数々の出来事を、どうにか乗り越えて行き、予定通りに魂の成長が得られた時に、自然法則に従ってこの世を去る時が訪れるようになっています。

しかし、現実にはとても多くの人が、自らの意思により予定を早めて、向こうの世界に移ってしまっています。



この世を生きるのがつらくて、死んでしまえば楽になると信じ、自らの(肉体の)命を絶ちますが、現実は、ブラックアウトの後、意識は存続していることに気付きます。

戻った意識は死ぬ直前の状態であり、苦しい上に、死ぬか生きるかと言う、極めて深刻な葛藤を抱えたままです。

あまりの苦しさ、激しい情動により、錯乱状態に陥ってしまうようです。



苦しいのは、まだ死んでいないためと思い込んでいるため、早く死んで楽になろうと強く思います。

駅のホームに、同じ様に日々の苦しみから逃れたいと思っている人がいると、苦しさから逃れようとする自殺した魂は、引き寄せられてしまうかもしれません。

お互いの魂が同調すると、思いが増幅されて、突然ホームから飛び込みたくなる衝動が生まれてしまうかもしれません。

錯乱した自殺者の魂は、苦しさのあまりに新たな悲劇を生んでしまい、罪をさらに大きくしてしまっている可能性があります。



錯乱状態をどうにか抜け出し、自分の置かれている立場を理解すると、とんでもないことをしてしまったと、激しい後悔の念にかられることになります。

今まで、自由に動かせていた肉体は、もうないのです。

いくら元に戻ろうと思っても、もう遅いのです。

自分のせいで、他の人を巻き込んで死なせてしまったのあれば、なおさらです。



向こうの世界で、その行為が過ちだったと知り、大きな後悔をすると共に、周りと隔絶されて暗闇に閉じ込められると言われています。

その状態を抜け出すためには、過ちを償わなければいけません。

過ちを償うために、もう1度、この世に生まれるのを許されますが、死の誘惑を伴うような、さらにつらい試練が待ち受けていると予想されます。

今度は、何があっても生き抜かなければならないと固く決意して、魂は母体に宿ります。

つまり、自殺は苦しみから逃れられないどころか、さらに過酷な苦しみを経験することになってしまうと思われます。



しかし、全ての自殺者が闇に閉じ込められ、悶え苦しむ訳ではありません。

自殺した時の動機が問われます。



逃げたり、臆病なために自殺したのであれば、それは神の意志に反した行いのために、相応の償いが必要となってくるでしょう。

映画のワンシーンにあるかもしれませんが、ロッククライミングをしていて絶壁で宙づりとなり、仲間を助けるために、自分の命綱を外して死んでしまったとしたら、それは自らの(肉体的)命を絶つ行為には違いありませんが、動機は人を助けるためであり、償いが必要になるわけがありません。



では、病気で自殺してしまった人はどうでしょうか?



自殺の原因の第1位は、うつ病です。

うつ病について、少し書いていきます。

抑うつ状態がある程度以上、重症である時に、うつ病と診断されるようです。

抑うつ気分(状態)とは、「憂うつである」、「気分が落ち込んでいる」などの症状がある時を言うそうです。

とても嫌な出来事が起きたり、不安や恐怖を抱えていたり、日々の生活に疲弊してしまうと、誰でも、抑うつ状態になる可能性があります。

そんな状況がしばらく続いたなら、抑うつ状態はひどくなってしまうでしょう。

感情の高ぶりが治まらずに、眠れなくなってしまうことも、当然あると思います。

テレビCMで、2週間不眠が続くと、うつ病を疑った方が良いとキャンペーンしていましたが、本当にそうなのでしょうか?

病気と言うより、生理的反応が過剰に起きているだけではないでしょうか?

多くの人は、ゆっくりと休養すれば、良くなってくるのではないでしょうか。



精神医学で、うつ病の原因は突き止められていません。

遺伝的、環境的、肉体的要因が重なって発症すると言われていますが、それらは物質的次元の要因です。

精神は物質を超えた存在であるのは明らかであり、原因は別次元にあると考えられます。

私は、うつ病の根本原因は、精神的次元、霊的次元にあると考えています。

精神的次元の原因として、心のエネルギーの絶対的な不足があり、霊的次元の原因として、表現できなかった想い(恐怖、不安、怒りなど)が内に存在していると考えています。



心のエネルギーは、どこから来るのでしょうか?

脳は肉体の一部なので、活動するエネルギーは物質的なものから供給されます。

しかし、心は肉体(脳)とは別次元の存在であり、医学では認められていない、魂(霊)から供給されていると考えられます。

魂に供給されているエネルギーは、霊的なエネルギーであり、生命エネルギーと言い換えて差し支えないと思います。

生命エネルギーが変換されて、心を動かしているエネルギーとなっていると考えられます。



生命エネルギーは、心の状態により、供給される量が変化すると考えられます。

喜びや、愛する想いを抱けば、より多くのエネルギーが供給されます。

そのため、とてもうれしいことがあれば、心は躍動します。

恐怖や不安、悲しみなどがあれば、供給される量は逆に減ってしまいます。

怖いことがあれば、心は縮み上がってしまいます。



心のエネルギーは、2種類の系統で消費されると考えています。

一つは感情を生み出すためであり、もう1つは、脳に事務的な指令を与えるためです。

魂で生まれた想いが、心(精神)で感情となりますが、霊的なエネルギーが精神的エネルギーに変換される現象と言って良いと思います。

そして、感情は脳に指令を与えて、肉体により言葉や行動による指令を出しますが、精神的エネルギーが肉体的エネルギーに変換される現象と言って良いと思います。

つまり、魂で受け取った霊的エネルギーが、精神的エネルギーに変わり、さらに肉体的エネルギーとなり、言葉や行動によって表現されて完結していると考えられます。



心は脳が作り出しているのではありません。

うつ状態とは、内に恐怖や不安、怒りや悲しみなどの感情が溜まっているため、生命エネルギーの供給が減ってしまっている上に、同様の感情を生み出すために消費されてしまい、脳に事務的な命令を与えるためのエネルギーが枯渇しかけている状態を指すと思います。



表現できずに溜まっている強い想いがあるのならば、新たに生み出される感情も同化されてしまいます。

強い恐怖が溜まっていると、何事に対しても恐怖を感じてしまいやすくなります。

強い怒りが溜まっていると、何事に対しても怒りやすくなってしまいます。

そして、新たな感情が生まれるためにエネルギーが消費されるため、心が脳に指令を与えるエネルギーが、さらに少なくなって行きます。

悪循環が起こり、心は脳に指令を与えられなくなって行きます。

脳に指令が行かなくなれば、頭は働かなくなり、肉体に出す指令も少なくなり、結果的に肉体は働かなくなります。



現代医学では、うつ病の治療の主流は、薬物によるものです。

薬物は、脳内神経伝達物質をコントロールして、脳の働きを高めようとします。

そのため、事務的に多少動けるようになりますが、心へのエネルギーの供給は、内にある強い想いがあると減ってしまうので、感情は生み出されにくくい状態のままです。

事務的には動けるのですが、感情を伴った行動は出来ません。

薬を止めれば、元の状態に戻って動けなくなりますので、依存状態となります。

感情がないまま、薬により身体は動かされ続けます。



うつ病の患者さんは、好ましくない感情に苦しんでいると言われています。

その感情は、過去の出来事により生まれていた想いと考えられます。

何かの理由があって、想いが肉体で表現できずに、内に溜まっていたと考えられます。

しかし、溜まっている想いがあっても、精神活動を活発に続けている内は、その陰に隠れて、表に出ません。

心のエネルギーが不足して精神活動が弱まってくると、表在化してきます。

うつ病の患者さんは、今生まれている感情に苦しんでいるのではなく、過去に生まれていた、言葉に出来ないような想いに、苦しんでいると考えられます。



抗うつ剤は、脳の働きを活発にさせるので、表在化した過去に生じた想いが再び隠され、苦しみが少し和らいだ気がします。

けれども、心のエネルギーは相変わらず不足しているので、感情が生まれないまま、脳の働きだけ活発になっています。

それは目的もなく走り続けて、息切れしているのに、また走らされているような感覚なのかもしれません。

ゆっくりと休まなければいけない状態なのに、薬により脳が働き続けます。

薬を飲む前とは違った、生き苦しさを感じているのかもしれません。

そのアンバランスな状態が高じてくると、衝動的に破壊願望が生まれてしまうのかもしれません。



以前、「自殺者の9割以上が何らかの精神障害に罹患した状態にありながら、精神科治療につながっているのは少数である」という知見が出されたそうです。

そのため、現在、自殺を未然に防ぐために、精神科の受診が勧められています。

ところが、東京都福祉保健局の調査によると、自殺者の54%が死亡2週間前に、精神科・心療内科に受診していたそうです。

さらに、2009年度「自殺白書」では精神科を受診して自殺した人の6割が20~30代の比較的若年者と報告しています。

驚くことに、20~30代の精神科を受診していた自殺者は、受診していなかった人たちに比べて2倍になっています。



若者に、一体何が起こっているのでしょうか?



興味深い資料があったので、引用させてもらいました。

この表は、1999年から2012年までの間で、自殺者が増えた年齢を黄色で塗りつぶしています。
19歳から27歳までが顕著に増加しています。



それをグラフ化したのが下図です。
20代だけが、特異的に自殺者が増加しているのが、良く判ります。

このグラフ作成した、教育社会学者である舞田敏彦さんは、若者の将来展望不良、就活の失敗などを理由に挙げていますが、果たしてそうなのでしょうか?



2000年にパキシル®(SSRI)という薬が販売されました。

脳内神経伝達物質であるセロトニンの量が減るとうつ病になるとも言われていますが、SSRIはセロトニンを増やす作用のある向精神薬です。

製薬会社は軽症のうつ病は「心の風邪」というキャッチコピーで、精神科の受診を促すCMを、マスメディアを通して、大々的に流しました。

その結果、2000年から2008年までの間で、パキシル®の売り上げは10倍になったそうです。



若い人の中に、気分がすぐれなかったり、眠れない日々が続いてしまうと、もしかしたら自分はうつ病かもしれないと思い、精神科や心療内科を受診し、パキシル®などの向精神薬を処方された人も少なくないと考えられます。

薬を飲めば治ると信じて、飲み続けている人も、きっとたくさんいると思います。

しかし、パキシル®という薬には、重大な副作用があると書かれています。

以下の文章は、パキシル®の日本の説明書きからの抜粋です。

『米国食品医薬品局(FDA)がSSRI、SNRI に加えて他の抗うつ剤及び成人にも対象を広げて検討を行った結果、24 歳以下の患者では抗うつ剤を投与された患者で、プラセボを投与された患者と比較して、自殺念慮や自殺企図等の自殺関連事象の発現リスクが高くなることが示唆されました。』

米国では、パキシルを18歳未満のうつ病患者に対して投与した場合に、自殺行動の危険性を増すという事実が製造元によって隠されていたのが発覚し、ニューヨーク州司法長官に訴えられ、巨額の賠償金の支払い命令が出たそうです。



日本でも平成17年度第1回薬事・食品衛生審議会、医薬品等安全対策部会安全対策調査会(厚労省 )において、タミフル(抗ウィルス薬)とパキシル(SSRI)について死亡(自殺例)を報告しています。

タミフルの異常行動については、マスコミで取り上げられたため、多くの人の知るところとなりました。

しかし、パキシル®については、タミフルほど一般の人に認知されていないのも事実です。

説明書きには、18歳未満の人には適応を慎重に検討することと書かれているので、18歳以上の若年者に対して、医師は抵抗もなく処方している可能性は高いと考えられます。



しかし、パキシル®の説明書きには、実はこうも書かれているのです。

『海外で実施された、本剤の成人を対象としたプラセボ対照比較臨床試験を検討した結果、統計学的に有意な差はないものの、プラセボと比較して本剤を投与された若年成人(本解析では予め18~24 歳と定義)で自殺行動の発現頻度が高いことが示されました。
また、大うつ病性障害の成人では、プラセボと比較して本剤を投与された患者で自殺行動の発現頻度が統計学的に有意に高いとの結果が得られ、この多くは18~30 歳の患者で発現したものでした。』

これだけのエビデンスがあっても、若年成人に対して、禁忌でも、慎重投与でもなく、『使用上の注意』として扱われています。

前出のグラフで、特異的に20代に自殺者が増加しているのは、精神科でパキシル®などのSSRI製剤が安易に処方され、タミフルと同様に異常行動が出現したためと考えるのは、無理があるのでしょうか。



現代医学は科学に根差しているため、目に見えない心や精神について理解はきわめて乏しいと考えられます。

物質的な薬で、心の病が治るとは、とても思えません。

それどころか、若者を中心に、思わぬ弊害を生んでいる可能性があります。



自殺者の魂は、暗闇に閉じ込められて悶え苦しむと書きましたが、うつ病、特に薬の副作用で突発的に亡くなった人は、その限りではないと、私は思います。

なぜなら、自由意志で命を絶ったのではなく、医者から処方された薬物により、異常行動を起こしてしまった結果、魂が肉体からの分離を余儀なくされてしまったと考えられるからです。

そんな人たちは、罪を背負うことはないと思われます。

調整期間は必要ですが、次第に穏やかさを取り戻していくと思われます。



心残りは、この世に残してきた人に、何も伝えられずに、逝ってしまったことです。

そして、深く悲しませてしまったことです。

そんな理由から、地上に残してきた人に、メッセージを送ることが許されているのかもしれません。




















2016年6月12日日曜日

自分を救うのは自分



何気なくテレビを見ていたら、一人の車いすに乗った男性が映っていました。

その男性は、ある進行性の難病を患っていました。

病名はALS(筋萎縮性側索硬化症)と言い、全身の筋力が徐々に弱まっていく原因不明の病気です。

彼は藤田正裕さんと言い、将来を大いに期待される広告プランナーですが、30歳を目前にして、ALSと診断され、余命3年と告げられました。

命の期限が切られてしまうのは、耐え難いことです。

それ以上に、この病気の恐ろしいところは、動かなくなっていく身体とは裏腹に、意識や五感は最後まで残り、多大な精神的ストレスを患者に強いることです。

こんなに容赦のない非情な病気は、他には見当たりません。



現在、彼は「END ALS」と言う組織を立ち上げて、日本だけでなく世界中にALSの認知・関心を高めるとともに、厚生労働省や医療研究機関などに対し、迅速な治療法の確立やALS患者の生活向上を働きかけています。

彼は、ホームページの中でこう訴えかけています。

「私は藤田ヒロ ALS患者。
ALSは 2年かけて、何があっても戦って生きる勇気をくれた。
ALSは 人や社会の 理由なきやさしさ 疑うほどの 残酷さを 同時に見せてくれた。
ALSに 自分の 隠されていた 強さ 同時に 自分の器の 小ささを見せられた。
ALSは オレから全てを 1つ1つ ゆっくりと奪った。
あれ? 腕が何故か上がんない...ん?ヤバイ、痒いのにかけないところが増えてきた...
私にも 「動くこと」は 昔あたり前だった...
ALSは 3年かけて ゆっくりと体の動きを すべて奪った
ALSのお蔭で 本当の意味で 生きることや 仲間の 大切さを知った
ALSに 声を取り上げられる前に 何を口にする?感謝? 憎しみ?
ALSに逆らって 延命するのは 力強い? それとも迷惑?
どちらにしても 私はまだ生きている。
I still alive
早く解放して下さい。」



広告マンとして、誰もが認める才能に恵まれ、人生を謳歌していた時に襲ったALSという病魔。

治ることはおろか、進行さえ止められず、その先に待ち受けている考えたくもない事態。

自らの運命を恨み、不条理を嘆き、そして絶望の淵に突き落とされるのは、避けられないと思います。

夢と希望に溢れた生活から、徐々に身体の自由を奪われ、呼吸さえ止まってしまう恐怖に襲われて、平静でいられるような人は、果たしてこの世にいるのでしょうか?

恐怖から逃れたくて、死にたいと思っても、何ら不思議ではありません。



この文章の中で、ALSは2年かけて生きる勇気を与えてくれたと書いてあります。

その2年間は、恐らく、この病気になった人しか判らない、言葉では言い尽くせない精神的な苦しみがあったと考えられます。

もし、私が同じ年代でALSになったとしたらどうでしょう?

おそらく、こう心の中で大声で叫ぶでしょう。
「うそだ、信じられない」

たとえ病気を受け入れたとしても、こう叫んでしまうでしょう。
「何で自分が、これからと言う時に」

そして
「ふざけるな!何で死ななければいけないんだ」と憤慨し、

最後には、
「怖い。誰か助けて」と怯えてしまうかもしれません。

医者は助ける手段を持ち合わせていません。

周囲の人も、ただ見守るだけです。

頭脳をいくら駆使しても、解決策はどこにも見つかりません。

絶体絶命の窮地に、追い込まれてしまいます。

頼れるものは何も存在せず、この状況から脱出する手立てはありません。

万事休すとしか思えません。



ただ、精神的にもがき苦しんで生きるだけなのでしょうか?

そんなはずはありません。

藤田さんは、生きる勇気をもらったと言っていました。

もがき苦しんだ後に、何かがあったからこそ、そう言えたのだと思います。



心境の変化は、魂の存在を抜きにしては、理解できないと思います。



普段の生活をしている時に、自分だと意識しているものは、実は真の自分ではないと考えられます。

この世を生きている人は、今までの人生で無意識のうちに作り上げてきた「自分」を持っています。

自我やエゴと言うのかもしれませんが、「この世を生きる自分」と私は表現しています。

多くの人は、この世を生きる自分を前面に出して生きています。

この世を生きる自分は、より良く生きるため、失敗しないために、常に思考しています。

また、周りに影響されたり、人からの評価を気にしたり、地位や財産を欲したりしています。

嘘をついたり、ごまかしたり、本音を隠している自分です。

この世だけの、考え方や価値観に捉われて、あれこれと考えている自分です。



もし、深刻な出来事が起きたなら、事態は一変します。

さまざまな思いや考えが錯綜して、心が休まる暇はありません。

解決策を見出せなければ、恐怖、不安、怒り、悲嘆などの感情が生み出され続けます。

生み出された感情により、自分が苦しめられてしまいます。

自分を苦しめているものは、出来事そのものよりも、自分の感情と言えるのかもしれません。

自分が大きい人ほど、生み出される感情は大きくなるので、苦しみも大きくなってしまいます。

恐怖や不安そして悲嘆や怒りに押しつぶされてしまいそうな人は、この世を生きる自分が、とても大きくなっている人と考えられます。

今までの自分を、捨て去らないと、苦しくて生きていけません。

自らが生み出した感情により、苦痛が限界に達した時に、その人の中で何かが変わるようです。

今まで自分は自壊して行き、それまで隠れていた、本当の自分が姿を現します。



どうすることも出来なくなって、今までの自分を捨て去った時に、本当の自分は目覚めます。

頭でいくら考えても解決できず、感情に押しつぶされそうになり、(この世を生きる)自分が白旗を挙げた時に、代わって本当の自分が表舞台に登場し、主導権を握ります。

本当の自分とは、魂です。

長い眠りから、魂がようやく目覚める時が来たのです。



 本当の自分(魂)は頭で思考するのではなく、この世的な考えに捉われず、高い次元から物事を洞察し、直感を生み出しています。

思考では解決できず、直観に従って生きることが必要になったのです。

痛み、苦しみ、悲しみが触媒となり、本当の自分(魂)が目覚め、困難に立ち向かって行く体制が整います。

進むべき方向が判らない時には、考えるのを止めて、魂に身を委ねればいいだけです。

心を鎮め、魂の声に耳を傾けます。

そこからは、たえず直観が生まれて、導いています。

しかし、現実に捉われてしまい、身を委ねるのが難しいのも事実です。

直観が生まれても、頭で考えたことが優先されてしまいます。

たとえば、学校で、同級生がいじめられていたとします。

本当の自分には良心が内在されているので、何とかして助けてやりたいと直観として思います。

しかし、頭で考えてしまうと後のことを予測し、自分に危害が加わることを恐れて、目をつむってしまいます。

自分には、本当の自分(魂)と、頭で考えようとする(この世を生きる)自分がいて、そのせめぎ合いの中で生きています。

本当の自分の想いを表現できなくて、後悔してしまうのは、誰でも経験することではないでしょうか。



藤田さんは、運命を恨んだり、現実を嘆いたり、恐怖に苛まれて、苦しくて生きて行けなくなったのかもしれません。

苦しみ抜いた末に、今までの自分を手放して、魂が目覚めたのかもしれません。

彼の、澄んだ瞳からそれが窺えます。



乗り越えられない困難はないと、霊的真理にはあります。

頭で考えると、ALSを治す手段はなく、5年以内に、自力では生きられなくなる現実を、どうやって乗り越えて行くんだと思ってしまいます。

この世を生きる目的は、肉体を維持することではなく、魂を向上させることです。

病気を治すのが乗り越えることではなく、困難から生まれる苦しみを乗り越えて行くことを言っていると思います。



苦しみを乗り越えるためには、本当の自分に目覚め、真実を見つけなければなりません。

真実は、本に書いてあることでも、人から聞くのでもありません。

真実の所在は魂にあり、魂の中に見出して、窮地から救ってくれると思います。

困難が大きい人ほど、見付け出す真実に価値があり、一度手にいれたら永遠の財産となります。

そして、この世を生きる、絶対的指針となります。

聖書には「求めよ、さらば与えられん」と書いてあります。

苦しみの中にあって、生きていくための真実を求めていれば、魂から回答が返って来ると思います。



藤田さんは、「勇気」という真実を見出して、何が何でも生きることを選択したと思います。

生きる苦しみから救い出してくれるのは、自分(魂)です。

自分(魂)には、神がいるからです。

救ってくれるのは、他者ではなく、自分の中にいる神です。



ALSのお蔭で 本当の意味で 生きることや 仲間の大切さを知ったと、藤田さんは言っていました。

魂に目覚めると、一番大切なものが見えてきます。

人は支えられて生きている、そして人を支えるのが生きる目的であることを、藤田さんにははっきりと見えていると思います。

辣腕の広告プランナーとして、世界中のALSに苦しむ人たちの切実な願いを、残されたわずかな身体的機能で、精一杯、表現しています。



ハッピィーデー・プロジェクトというブログに、藤田さんからの応援メッセージを見つけました。

「しあわせとは、感じるもの。
私は藤田正裕。三十四歳。
意識や感覚は正常なまま、ゆっくり全身の運動神経が麻痺してゆく難病、ALS患者です。
ちなみに平均寿命は三~五年。
発病し四年半、今や、動かせるのは顔の筋肉と左手の人差し指だけ。口から食べることも
飲むこともできず、人工呼吸器がなければ息を することもできません。
でも、気づきが多い今、今までの人生で一番しあわせについて学んでいます。
今まで「当たり前」に「普通」にしてきたことが どれだけしあわせなことだったのか。
しあわせな人ほど、自分がどれくらいしあわせ なのかに気づくことが難しいのです。
本当のしあわせは、何気ない日常にこそあり ます。家族がいる。友達がいる。学べる。働ける。
食べられる。飲める。話せる。息が吸える。
なにより、生きていられる。
しあわせとは何か。
それは、選択肢です。
すぐそばにあるしあわせを感じるか、感じないか。
すべての人が平等に与えられている、
選択肢の一つです。 」



深刻な出来事に出会うと、人は変わります。

今までの自分では、生きて行けなくなるからです。

苦しくて仕方がなくなると、人は今までの自分を脱ぎ捨てて、裸の自分、本当の自分(魂)になります。

本当の自分になると、大切なものが見えてきます。

目に見えない魂が、目に見えない大切なものを見つけます。

大切なものを見つけながら、成長していくのが、生まれてきた目的です。

そのために、この世では深刻な出来事に、どうしても出会うようになっています。

もし、大切なものを見つけているのなら、その出来事をすでに乗り越えています。

見つけたものにより、自分が救われます。







2016年5月29日日曜日

この世に生まれて来た理由



あの世が存在することは、私にとって紛れもない事実です。

しかし、目に見えるもの、証明されたものしか信じない人は、あの世の存在を否定するでしょう。

どちらが正しいのか、死んだ後ではっきりしますが、否定する人には、1つの問題が起きてしまう可能性があります。

死んで無になるのであれば、あの世を信じている私は無になってしまうので、何ら問題はありません。

もしも、あの世があったならば、頑なに否定していた人は、死んでも意識があるので、この世に生きていると錯覚してしまいます。

現状を認識するまで無駄な時を過ごし、周囲に要らない苦労をかけてしまうことになります。

たとえ信じられなくても、もしもの時を考えて、知っておいた方が賢明と考えられます。



死んだ後も変わらずに意識は存在し、魂として生命は存続しているのが明らかになり、私はとても安心して生きられるようになりました。

併せて、この世に生きている目的も知りました。

この世にいる人は、例外なく、魂を向上させるために生きています。

人生で出会う困難や障害を、最善を尽くして乗り越えて行くこと、人や社会に役立つことで、魂は向上するように、自然法則は出来ています。

何をすればいいのか悩む時がありますが、まず実生活において、自分に与えられた仕事を一生懸命に果たし、周りにいる人に親切にして、困っている人がいたなら助けてやることが大切ではないかと思っています。



先日、テレビの番組で、ある医師の活動を放送していました。

彼は、私と同年代(1964年生まれ)の男性であり、恵まれない人たちへ無償の医療を提供していました。

スケジュールは多忙を極め、一ヶ月の半分はフリーランスで全国の病院を掛け持ちで難しい眼の手術をこなして、残りの半分はベトナムに行って、経済的理由から医療を受けられず、失明しかけている人たちに、無償で手術をしていました。

ベトナムに病院を開設していて、裕福層に対しては有償で治療を行い、得た収入を医療を受けられない人たちに無償で治療を行って還元していました。

自分がいなくなってからも、失明の危機にある人たち全てが、最善の医療を受けられるシステムを構築しようと、全精力を注いでいました。

自宅の購入資金を当ててまで、ベトナムの人達を救おうとしていました。

その医師の活動の原動力となっているのは、「人のために生きろ」という、父親の最期の言葉だったそうです。

世の中には、霊的真理を知らなくても、見事に実践している人がたくさんいます。



人のために生きようとするのは、思考から来るものではなく、魂の根源的な欲求と思われます。

もし、そうでなければ、駅のホームに転落した人を、わが身の命を省みず、救おうとする衝動は起きないはずです。

誰かを救おうとしたり、助けてやろうとするのは、私たちは肉体を超えた霊的な存在であり、霊的なものに神性(愛)が宿っているからです。

この世の人は肉体を持っているために、自分のために生きているように感じますが、実は他者のために生きていて、自分の幸せを追及するのではなく、他者の幸せの中に悦びを見出し、自らが幸せになるように出来ていると思います。

前述の医師も、無償の治療の対価は、患者さんと悦びをシェアすることで、ちゃんと受け取っていると語っていました。



世の中を見渡すと、自分にはない、優れたところを持っている人たちで溢れています。

人知れず、社会のために尽力している人たちもたくさんいて、そのお陰で、世の中が少しずつ良くなっていると思います。

そんな人たちと知り合えるところが、この世の素晴らしいところだと思います。



あの世は、想いがありのままに表現される世界です。

嫌いな人とは、想いが通わないために、会うことはありません。

そんな、この世の煩わしさから解放された世界を、人は天国と言います。

そこでは魂の成長度が同じ、(魂の)同級生と言うべき人たちが集まって、お互いの想いを共有して生活しています。

気心が知れた人たちと共に、ゆったりと休日を過ごしているような感覚が、はるかに鮮明になった世界と言えるのかもしれません。

あの世に行くと、自分の肉体を養うための本能的欲求がありませんので、人のために生きようとする欲求、愛を表現しようとする欲求があらわになります。

いかなる次元においても、人(魂)が受け取っている生命力の根源は愛だからです。

しばらくは、生命力に溢れ、愛を実感する世界を、堪能していると思います。



いくばくかの霊的な知識を得た私は、苦しみや悲しみから解放されたあの世に、ずっといたいと思うようになりました。

あの世に行けば、なおさら離れたくなくなるはずですが、現実としてこの世にいるのは、どうしてだろうと考えてしまいます。

人は、現状には満足しない生き物のようです。

大変な仕事が続くと、休日が待ち遠しくなりますが、休日が長く続いてしまうと飽きてしまい、仕事のある普段通りの生活に戻りたいと思ったりします。

都会に住む人は、のんびりとした時間を過ごすために郊外へ出かけますが、長く滞在していると、街の雑踏が恋しくなったりします。

人は、楽しくのんびりとした生活が続くと、どこか物足りなく感じてしまい、つらくても何かに挑戦したり、変化に富んだ生活を望むようになるのかもしれません。

もしそうであれば、安らぎに満ちたあの世に長くいると、喧騒に満ちたこの世で、もう1度、自分を試してみようと思うようになったとしても、不思議ではありません。

今となっては思い出せませんが、生まれる前の私は、この世でしか出来ない、さまざまな経験を通して、自分を大きく成長させようと決意していたはずです。

あくまでも自分の意思で、この人生を選択していているはずです。

明確な目的があり、学ばなければならない教訓が、この人生にはあるはずです。



人はどうして、何かに挑戦しよう、つらい出来事があっても乗り越えようとするのでしょうか?

それは、自分を変えよう、成長させようとする想いがあるからです。

自然法則の働きにより、困難を乗り越えて行く過程において、自分(魂)は成長して行くからです。



自分を成長させようとする人には、その想いにふさわしい人生が立案され、この世に生まれる機会が与えられます。

より大きな成長を望んでいた人ほど、この世で立ち向かっていかなければならない困難や障害は、どうしても過酷なものとなります。

凶事や悲劇と呼ばれる出来事に遭遇すると、人は立ちすくんでしまいますが、それは不幸にさせるものではなく、自分を大きく成長させる大切な機会と受け止めるべきです。

不幸にしか思えないことにも、霊的な相応の報いが必ずあります。



この世があの世と違うところは、魂の成長度が同じ位の同級生だけではなく、より成長している「先輩」もいれば、まだこれからの「後輩」もいます。

年齢、肩書き、家族的序列、人種などは、この世だけのものであり、魂の成長度とは関係ありません。

親よりも子供、上司よりも部下の方が、魂の成長度で先輩に当たることは、良くあると考えられます。



この世で出会う人たちには、自分にはない優れたところがあります。

人の優れたところを見ないと、自分に足りないところや、変えなければならないところが自覚されないのかもしれません。

魂の先輩たちは、自分より高くて、強い愛を表現していると思われます。

自分が許せないことを許せたり、より自分を犠牲にして人のために尽くそうとしています。

強い意志で苦難を乗り越えていく姿、そこから大切なことを学んで行く姿を見て、触発され、自分も少しでも近づこうとする中で、魂は成長して行くのかもしれません。



魂の先輩たちに、共通していることがあります。

それは、謙虚さです。

私はシルバーバーチの霊訓から、真の謙虚さを学びました。

謙虚であればあるほど、自分の未熟さを痛感するため、そこから自分(魂)を成長させようとする強い意志が生まれるのかもしれません。

向上心よりも謙虚さが、成長して行くためには必要と言えるのかもしれません。

この世には、上には上がいます。

同級生ばかりのあの世よりも、一歩先を行く先輩たちを見れるこの世界は、魂の成長にとって好都合なのかもしれません。



同時に、魂の後輩たちもいます。

幼稚園児のサッカーを見ていると、とても面白いです。

ゴールキーパー以外は、全員がフォワードのように見えるからです。

意識がボールにだけ集中して、みんながボールをひたすら追いかけ、ゴールに入れることだけを考えています。

ところが、小学生になると違ってきます。

ボールだけでなく、周りの人も見ていて、ポジションを意識し、与えられた役目を果たそうとします。

幼稚園児の意識は自分にあり、小学生になると他者を意識するようになります。

自分がボールを蹴ってゴールをするよりも、仲間と協調しながらチームが勝利することを優先するようになります。

自分よりも、他者を優先するようになるのが、魂の成長と言えるのかもしれません。

大人になるに従い、個性はより明確になって来ますが、自分のことしか考えない、わがままな人もいれば、自分を犠牲にして人や社会のために生きている人もいます。

それは性格の違いではなく、魂の成長度(霊性)の差によるものと思われます。

魂の成長度の低い人は、時に神の摂理と一致しない、愛に反する言動をしてしまうために、周囲との間に不調和を引き起こしてしまいます。

われ先にとゴールを狙っている幼稚園児のような人であり、周りにいる人は、突き飛ばされて、怪我をしてしまうこともあります。



大きくなってから、幼稚園児のサッカーを観ると微笑ましくなります。

しかし、嘲笑したり、軽蔑したり、否定したりする人はいません。

自分にも、そんな時があったのを知っているからです。

地上の人は、完全には程遠い存在とシルバーバーチは言っているように、この世に生まれてくること自体、学ぶべきものがある未熟な存在である証拠です。

完全には程遠いこの世の人が、他の人の不完全さや未熟さを咎めたり、軽蔑したりするのは、過ちであると思われます。



外見は同じように見えても、魂の成長度は人により大きく違っています。

魂の未熟さから人は過ちを犯してしまいますが、因果律の働きにより、何かしらの苦痛を伴う結果(償い)が生じ、絶対的公正は保たれています。

自分の過ちを、痛い思いをしながら正すことになり、それを繰り返し人は成長して行くと思います。

今生で正されなかったのであれば、もう1度この世に生まれて、正すことになるかもしれません。



人を平気で傷つけたり、裏切ったりする人がいます。

魂の同級生と考えてしまうと、怒りや憎しみが生じてしまいます。

そんな人には、一段高い立場から魂の先輩として、過ちに気付かせる必要があると思われます。

協調性に欠け、わがままな人であっても、一歩先を行く人は、寛容となり見守ってやらなければいけないのかもしれません。

かつては自分もそうであったかもしれず、あたたかい目で見守ってくれたかもしれないからです。

後輩にとっても、先輩から大切なことを教えてもらったことになります。

あの世には、魂の後輩たちは周りにいませんので、この世に生まれてきた目的の1つは、寛容さを身に付けるためにあると考えられます。



あの世では、同じ想いを共有する人たちと生活しているために、争いごとは起こりません。

この世では、価値観や考え方が違う人たちと生活するために、時に争いが生じます。

争わないようにするにはどうすれば良いのかを、この世ならではの肉体的、精神的な苦痛を通して学んでいると思います。

全ての争いは、認め合うこと、許し合うこと、大きな意味での愛を表現することで、解決できることを学んでいると思います。



平和に満ちた世界を離れてでも、大切なことを学び、自分を向上させるために、あえてこの世に生まれて来たと思います。

さまざまな人に出会い、共に過ごす中で、自分に足りなかったもの気付き、身に付けて行くのかもしれません。

目に見えるものに囲まれた中で、この世にしかない経験を通して、目に見えない本当に大切なものを、見付け出して行くのかもしれません。



本当に大切なものは愛です。

さまざまな出会いや経験を通して愛を深く学び、肉体による制約を受けながらも全力で表現して、魂が大きく成長するために、この世に生まれて来たと考えられます。















2016年5月21日土曜日

お父さん、お母さんへ



お父さん、お母さん先に逝ってごめんね。
どうしても先に来なければいけなかったの。
私は、お父さんとお母さんの元に生まれて幸せだったよ。
二人も幸せだった?
こちらは、みんなが思っているより明るいところだよ。
みんな楽しそうにしているよ。
見せてあげたい。
集まってくれてありがとう。
みんな泣いていたけど、お父さんは悲しくなかったの?
私のために集まってくれるのは、何だか恥ずかしい。
まだ、生きているんだよ。
二人で黙ってじっとしているのは変だよ。
どっか二人で行って来てよ。
その方が、楽しいよ。
海でも行ってくれば?
砂浜を走るのは、楽しいよ。
好きなように、生きればいいんだよ。
無理しなくていいんだよ。
お父さん、花嫁姿を見せられなくてごめんね。
お母さん、二人でいろんなところに行けなくなってごめんね。
でも、お父さんとお母さんは、私に謝らないでね。
仲良くね。
また逢おうね。
私の素敵な、お父さん、お母さん。












2016年5月16日月曜日

霊的な意図を感じ取る



少し前の私は、死ぬのが怖かったです。

意識が消えて、無になってしまうと思っていたからです。

今は、死んだ後にも変わらず意識があり、あの世が続いているのが判っていますので、安心して生きられるようになりました。



若い時に 、思い悩んでいたことがありました。

人は何のために生きているのかが、判らなかったからです。

今は、さまざまな経験を通して学びながら、自分(魂)を成長させるために生きていることが、はっきりと判っています。



私は54歳なので、あと30年位は生きるでしょう。

この世での目的を無事に果たせたならば、死の扉を開けて、次の世界に進んで行くことが出来ます。

その時に、微笑みながら、この世に別れを告げられたらいいなと思っています。



多くの人たちは、物的に豊かで、できるだけ長く生きる人生を理想としているような気がします。

裏を返せば、物的に貧しく、短命であれば、不幸な人生と決め付けているのかもしれません。

しかし、それは明らかに間違っています。

お金や物など物的な豊かさは、死んでしまえば失われてしまう一時的なものです。

永続的な価値を持つのは、目に見えない霊的な豊かさです。

他者に愛を表現し、社会に奉仕をして身に付けていくものであり、それは魂の財産となり、死後も失われることはありません。



この世を早く去った人を、多くの人は哀れみますが、その必要はありません。

昔、学校で先生から課題が与えられて、済んだら終わりにして良い言われた時のことを思い出します。

勉強ができる友達は、さっさと済ませて、校庭に出て楽しそうに遊んでいました。

外に出て遊んでいる友達は、教室に残って課題に取り組んでいる私たちの様子を見て、頑張って課題を仕上げて、早く一緒に遊ぼうと思っていたでしょう。

死とは、肉体と言う重い鎧を脱ぎ捨て、自分本来の姿に戻ることであり、この世から次の世界に移行する自然現象です。

早く亡くなった人は、早々と課題を済ませ、校庭に出て行った羨ましい人であり、この世に残って課題に取り組んでいる人たちを見て、傍で応援しながら、あたたかく見守っていると思います。

長い時間をかけて、この世で学ぶ必要がなかった、言わば魂の特待生で、飛び級でこの世を卒業していったのかもしれません。



この世の人たちは皆、同じ課題を与えられ、同じことを学ぼうとしているのではありません。

学ぶべきものは、人それぞれ違っています。

学ぶものが違うのであれば、与えられた課題も違い、当然ながら辿る人生も違ってきます。

従って、他人の人生と、自分の人生を比較するのは、大きな間違いと思われます。

落ち込んだり、羨ましく思ったり、時に妬んでしまうと自分がつらくなってしまうのは、人と比べること自体が、神の摂理に反しているためと思います。



楽しく遊んで暮らせる人生が幸せであり、苦難の多い人は薄幸な人生と思われがちです。

学校で、遊んでばかりいた人と、苦労をして学んできた人では、後で笑うのはどちらでしょうか?

人生も全く同じであり、楽しく遊んでいる時には学ぶものはなく、苦難に立ち向かっている時に大切なことを学んでいます。

苦しんでいる最中には、生きるのに精一杯で判らないかもしれませんが、後に待ち受けている「この世の総括」で、大きく成長していたのがはっきりと判り、微笑むでしょう。

苦難を乗り越えて行くことで自分(魂)は成長し、大切な真実を手にするように、自然法則は出来ています。



私の知っている限り、あの世はこの世より、はるかに自由で快適な世界です。

あの世に行った人たちは、この世に残っている人たちを見て、同情的になっていると思いますので、この世の人が、自分のことを不憫に思っていると知ったならば、きっと当惑していると思います。

あの世について、もっと正しい知識が普及すれば、誤解は少なくなると思います。

しかし、この世の人たちに、あの世のことが明確に知れ過ぎてしまうと、課題を放り投げて、学ぶべきことを学ばずに、向こうに行ってしまう人がいるかもしれません。

そんな過ちを犯さないように、多くが知れないように、配慮されていると考えられます。



霊的な次元は、離れたところにある、遠い世界ではありません。

言葉で表現するのは難しいのですが、現実の1側面と考えて良いと思います。

例えば、美しい絵があったとします。

物として見れば、布地(キャンバス)にさまざまな色の絵具が塗られているだけです。

しかし、絵を観て、その中に美を見出し、心を動かされる時があります。

それは、人の最奥にあるものに、触れるものがあったからです。

物質を超えた何かを、最奥にあるものが、感じ取っているためと思われます。



心に響く音楽があったとします。

音楽は、周波数の異なる音が、さまざまな楽器や声を通して出ている音の集合体ですが、それを超えたものであるのは明らかです。

音を超えた何かが、旋律やハーモニーの中に込められていて、それが最奥にあるものに伝わり、共鳴していると思います。



絵や音楽は物質(物理)的なのものですが、込められているものは霊的なものであり、2つの面を持っていることになります。

本質はどちらかと言えば、もちろん霊的な面です。

正確に言うと、物質的な面は、霊的な本質を伝えるためにある媒体です。

絵や音楽を通して伝えたいのは、物質を超えた概念や想いであり、色も音もこの世で表現するためにある媒体です。

芸術を通して伝えたいのは、物質を超えた霊的なものであり、霊的なものが感じられない芸術に、存在価値はないのかもしれません。



言葉も同じです。

「ありがとう」は、感謝の気持ちを言葉で表したものです。

「ありがとう」という言葉には、音声としての情報と、発する人の想いが込められています。

店先で機械音声で「ありがとうございました」と言われて、何か伝わってくるでしょうか?

機械の声には想いが入っていないので、音声情報を発信しているのに過ぎません。

誰かに「ありがとう」と言われてうれしくなるのは、言葉の中に感謝の想いを感じ取った時だと思います。

やりとりする言葉も、物理的な音や言葉の意味を越えた、霊的な面を持っています。



人は、言葉などを媒体として、情報を交換しています。

同時に、目に見えない想いを、媒体を通して発しながら、受け取っています。

目に見えない想いは、霊的な存在である魂から生まれています。

私たちは物質の世界に生きているため、肉体という媒体を介して、自分の想いを表現しなければいけません。

この世の人は、魂から生まれた想いを、五感で認識できるように肉体で表現している、霊的な存在と言えます。



身の回りで起こる出来事も、目に見えない霊的な意味があります。

目に見える現実の世界と、目に見えない霊的な世界は表裏一体の関係と言えます。

しかし、世の中が唯物的になり過ぎたため、目に見える現実だけを見て、霊的な面を見なくなりました。

戦争は、現実だけを見ると、人を傷つけ、破壊する行為です。

しかし、霊的な面から見ると、怒りや憎しみや恨みの想いが原因で起きていると思われます。

そんな想いが生まれてしまうのは、人の想いを無視し、利己的な考えに捉われているためと思われますが、現実という結果だけに捉われていると、報復を繰り返すだけになってしまいます。



病気は、生物の正常な状態がそこなわれ、生命維持機能が阻害あるいは変化することと、百科事典には書かれています。

しかし、それは五感で認識できる病変、病態を表しているだけです。

多くの病気は、霊的な原因があると考えられます。

霊的な原因が、因果律の働きにより、肉体上に病変、病態として現れていると思います。

シルバーバーチは、霊と精神と肉体の一直線で結ばれ、3者の調和が取れた状態を健康と言っています。

霊は精神と肉体の上位にあり支配していますが、何らかの理由で、精神や肉体が優位になってしまうと、魂から生じている想いが表現されにくくなります。

その想いが摂理に反していて、溜まってしまうと、心身に不調和が生じ、病気として表在化されると考えています。

病気は、霊と精神と肉体の不調和により生じるものですが、苦痛を通して、魂を優位にさせて、調和の取れた関係に復元するために存在していると考えられます。



この世は、ありのままの自分を表現するのが難しい世界です。

快適とは言い難い世界に、私たちは執着して生きています。

臨死体験などで、あの世を垣間見た人たちは、生き生きとした、とても素晴らしい世界であったと言っています。

それは、肉体という媒体が取り払われ、ありのままの自分が表現される世界を、実体験したからだと思います。

そして、生かされている力(霊力)を、魂で感じることができたからだと思います。

想いが直接、相手に伝わるあの世は、言葉あるいは行動に変換して伝える、煩わしいこの世とは大きく違い、素晴らしい世界だと思います。

相手の想いが直接魂に響き、同じ想いで共鳴するため、この世では味わえない一体感が得られると思います。



想いの中でも、愛は強烈であり、魂は激しく共鳴します。

愛は、全宇宙を創造した心そのものであり、ばらばらに存在するものを1つにさせようとさせる力と考えられます。

受け取った者は悦びに満たされ、因果律の働きにより、他の誰かに分け与えようとします。

それを受け取った者は、悦びに満たされ、また誰かに分け与えようとします。

その連鎖が果てしなく拡がっていき、世界は愛という同じ想いで満たされ、1つになっていきます。

愛は人を動かしている神的なエネルギーです。

この世で愛は五感に触れるものではないので存在を疑う人がいますが、あの世は想いの世界であり、はるかに実感があるため、愛の存在を疑う余地はありません。



あの世では、自分がどんなに望んでいても、相手に同じ想いがなければ、逢うことは出来ません。

また、相手が望んでいても、自分に同じ想いがなければ、逢うこともありません。

人と人を結びつけるのは、愛という親和力です。

周りに同じ想いを、共有する人たちが集まって生活しています。

親愛の想いがない人や、想いが共有できない人との間に、接点がないので、嫌いな人、考え方の違う人と、一緒に生きなくても良いのです。



なぜそんな素晴らしいあの世だけでなく、苦しみや悲しみの多いこの世で、人は生活しなければいけないのでしょうか?

この世には、好きになれない人もいれば、考え方が違う人もたくさんいます。

あの世と違って、そんな人たちとも、一緒に生活をしたり、付き合っていかなければいけません。

同じ考えの人であれば、気心が知れるので平穏に過ごせますが、考え方の違う人とは、そんな訳にも行かず、意見が衝突してしまう時もあります。

衝突しないためには、自分の意見を控えて、相手の意見を認め、尊重してやらなければいけません。

日常でも、自分を殺して相手を活かす局面は多くあり、そんな自己犠牲の経験を通して、魂は成長して行くと思われます。



子供の頃は、自分のことだけを考えれていても良かったのですが、社会に出ると、顧客そして組織のことを優先して考えなければいけなくなります。

家庭に入っても、自分のことよりも、家事や子供のことを優先しなければなりません。

現実として、人は働かなければ生活を維持して行くことが出来ませんが、それは家族や会社のために、自己を犠牲にして、奉仕していることになります。

働くことは、奉仕であるため、魂の成長につながるという霊的な面があります。



人はこの世で、さまざまな経験をします。

その経験から、さまざまな想いが生まれていて、何らかの形で表現しようとします。

もし、人に傷つけられたり、裏切られたのなら、強い怒りや憎しみの想いが生まれしまうかもしれません。

その想いを外に向かって表現すれば、攻撃的なものとなり、争いが起きてしまうかもしれません。

かと言って、表現をせずに想いを溜めてしまうと、心身に不調和が生じて、病気になってしまうかもしれません。

どちらにせよ、苦痛を味わうことになってしまうのは、その想いが神の摂理に反しているためと思われます。

苦しみから解放されるには、人や出来事を許して、想いを解放しなければいけませんが、許そうとしても、許せるものではありません。

苦痛には、自分(魂)を成長させるという、霊的な意味があります。

魂の成長に伴って、許せなかったことが許せるようになり、溜まっていた想いが解放されて、苦しみから解放されます。

ひどい仕打ちをされれば、許せずに苦しんでしまう時がありますが、そんな嫌な出来事も、霊的な面から見れば、魂を成長させてくれた貴重な経験と言えます。



人生には悲しみが付き物です。

最愛の人を喪った悲しみを超えるものはありません。

喪ったことで、悲しみは生じますが、そこに愛が存在していなければ、悲しみは生まれません。

愛が喪われたと思うと、悲しみが生まれてしまいます。



肉体は失われても、魂は不滅です。

愛は魂から生じているものなので、肉体で表現する手段はなくなっても失われていません。

こちらの愛する想いは、伝っています。

そして、向こうからも愛されています。

肉体を失い見えなくなってしまった人の愛を信じられないと、悲しみや苦しみが生まれてしまうのかもしれません。

信じてもらえないほど、人を悲しませるものはありません。

悲しんでいる時は、向こうの人を悲しませているのかもしれません。



肉体の喪失は確定された事実ですが、生命は失われていません。

この世とあの世にいる両者の関係は、生前のままです。

目に見えない、声が聴こえない、触れられない寂しさは、耐え忍ばなければなりませんが、魂の存在を信じ、亡くなった人から今も愛されていることを、心から信じられたならば、悲しみや苦しみから解放されるのかもしれません。

亡くなった人を、また愛することができるからです。

愛はすべてを乗り越えて、両者は再びつながります。

かけがえのない人は、死によって信じることの大切さ、愛することの大切さを、教えているのかもしれません。





深刻な出来事ほど、魂を目覚めさせ、想いに気付き、意識しない深いところで、真実に気付いたり、大切なことを学んでいると思います。

この世の出来事には、自分(魂)を成長させ、想いを共有して1つにさせるという、霊的な意図があると思います。













2016年5月3日火曜日

人は動物を食べる生き物ではない



子供の頃、長いトレーラーにたくさんの牛たちが乗せられて運ばれていくのを、時々目にしました。

牛たちは、身動きもせず、じっとしています。

トレーラーが信号待ちで止まり、1頭の牛と目が合いました。

何とも言えない、とても悲しそうな目をしていました。

今にも涙を流しそうな、潤んだ目で、何かを私に訴えているような気がしました。

幼い時は、動物と同じように、魂が前面に出ていたので、牛たちの悲しみの想いを、敏感に感じ取っていたのかもしれません。



私の実家の近くに、比較的規模の大きい食肉工場がありました。

近くに住んでいても、その中で何をしているのか全く知りませんでした。

小学6年生くらいの時のことです。

近所の友達と、その工場に隣接した公園で遊んでいました。

しばらく遊んでいるうちに、隣にある工場の中がどうなっているのか気になり、中を覗いて見ようという話になり、友達とともに背丈よりも高いブロック壁をよじ登りました。

よじ登ってみると、目の前に工場の窓がありました。

その窓は半分位壊れていて、建物の中の様子を覗くことができました。

そこには、数人の男性がいました。



しばらくすると、一頭の黒白模様の大きな牛が、男性たちの中に牽かれてやってきました。

当時の私は、これから何が起こるのか分かりませんでしたが、少し興味があり、友達と一緒に、しばらく見ていることにしました。

牛は、身動きも、抵抗もしていません。

鳴き声ひとつ、上げていません。

一人の男性が、何かを持っているのが目に留まりました。

つるはしの両刃が10センチ位に短くなったような道具です。

先は尖っていました。

何に使うのか考えている暇もなく、男性はその道具を振り上げて、力いっぱい、牛の眉間の少し上の部分に、振り下ろしました。

刃先が頭蓋骨を打ち破る、鈍い音が響き渡りました。

直後に、大きな牛はコンクリートの地面に倒れて、頭蓋骨の穿孔部から、どくどくと真っ赤な血が溢れ出てきました。

男性の一人が、倒れた牛の額の穿孔部に針金のようなものを入れていきます。

すると、牛の後ろ足がピクピクと痙れんしました。

他の男性たちは、刃物で皮を引き裂いて、はがしていき、あっという間に、皮膚のない牛が、フックみたいな金属につるされました。

今まで元気に生きていた牛が、人間の手で殺されて、ものの5分もかからないうちに肉の塊になりました。

あまりに衝撃的な光景を目の当たりにして、言葉をなくしたまま、家に帰りました。



そんな出来事があったなど家族は知るはずもなく、いつものように食卓には肉を使った料理が出されます。

子供として、出されたものは食べないわけにはいけません。

罪悪感、後ろめたさみたいなものを感じながら、食べてしまいました。

時と共に、そんな記憶も徐々に薄れていき、いつも通りに肉を食べるようになり、思い出すこともなくなりました。



それから、数十年を経て、子供の時に感じた牛や豚たちの悲しみや恐怖に、再び想いを巡らすようになりました。

今は、人に食べられるために殺される動物たちがいることを、苦痛に感じます。

人は他の動物たちを殺して、肉を食べなくて良い生き物だと思うようになりました。

ところが、昔の私がそうであったように、多くの人は肉を食べないと、栄養の摂取が不十分になると考えています。

人間はもともと、肉も食べるように出来ていると言う人もいます。

果たして人間は、もともと肉を食べるように出来ているのでしょうか?

私の職業である、歯医者という立場から考察してみました。



人には上下、左右7本ずつ、合計28本歯があります(親知らずは除く)。

人の上あごの歯

人の下あごの歯

前に並んでいる薄い歯は前歯(ゼンシ)と呼ばれて、物を噛み切る役目をしています。

奥に並んでいる丸く見える歯は臼歯(キュウシ)と呼ばれ、物を噛み砕く役目をしています。



臼歯を良く観察すると、文字通り、臼のように中央にくぼんでいる部分があります。

下の臼歯:中央部が臼状にくぼんでいます


下の歯と噛み合わさる上の臼歯には、杵に当たる豊隆した部分があります。

上の臼歯:豊隆部があります
歯の表面に、裂溝と呼ばれる細かい溝が見えますが、粉砕された食片がその溝に沿って流れ、効率よく食物を噛み砕くためにあると考えられ、人間の身体に無駄なものはなく、それぞれ意味があることを実感します。

下の臼歯のくぼんだ部分と、上の臼歯の豊隆した部分が、臼と杵のように、緊密にかみ合わさり、物を上手く噛み砕くことができます。
上下の歯が噛み合わさった状態



牛や馬などの草食動物の歯は磨耗も認められますが、人の臼歯より平らであり、草や葉を磨り潰すのに適しています。

牛の臼歯:噛む面は平らです。


一方、肉食動物であるライオンの臼歯は鋭くとがっていて、骨を噛み砕いたり、肉を噛み切るのに適しています。

ライオンの下あご標本:臼歯は鋭く尖っています



歯の形態を観察すると、人間は穀物や木の実を噛み砕くため、牛は草や葉をすりつぶすため、ライオンは肉を噛み切るために適していると考えられます。

試しに、肉と、アーモンドと、薄い菜っぱを、奥歯を使って食べ比べてみると良く判ります。

どれが、一番噛みやすいでしょう?

どれが、しっかりと噛めるでしょうか?

きっとアーモンドが噛み応えがあり、食べやすく感じると思います。

ナイフやフォークなどの食器なしで、人は肉を上手く食べられません。

前歯で噛み切って、奥歯で細かく粉砕が出来るでしょうか?

かなり、難しいと思います。

人の歯は、米、雑穀、豆類、木の実、果実などを食べるのに適した形態をしていると考えられます。

食べるべきものが、食べやすいように、歯の形態が創られていると思います。



下あごの動きにも注目してみました。

ライオンや猫など、肉食系の動物の下あごは、関節の構造から、口を開いたり閉じたりする動き(蝶番運動)しかできません。

獲物をくわえて、肉を引き裂くために好都合な、上下の歯がハサミのように噛み合わさるように、下あごが動きます。



それに対して、牛や馬など、草食系の動物のあごの動きは、口の開閉に加えて、閉じた後にモゴモゴと横に下あごを動かせます(側方滑走運動)。

これは、草や葉っぱなどを、臼歯ですりつぶすのに好都合な、下あごの動きです。



雑食性と言われるクマはどうでしょうか?

咀嚼している時に、下あごを横に動かしているようです。

多くのクマは山で木の実などを食べるのに適した歯の形態と、下あごの動きをしていると思われます。



さて、私たち人間はどうでしょうか?

上下の歯が合わさった後に、左右に下あごをずらす動きができます。

これは物を噛み砕き、すりつぶすためのものです。

肉を食べるのではなく、米や雑穀、木の実、豆などの穀物を噛み砕き、すりつぶして食べるのに適した下あごの動きを、人間はしています。



クマの犬歯は大きく発達していますが、動物の中では人に近いようです。

人もクマも、雑穀や木の実などを下の歯の上に乗せて、上の歯で砕きながら、下あごを横に動かしてすり潰しながら食べるのに適した、歯や下あごの動きをしています。

クマは人を襲って食べる、怖い動物と思っている人もいますが、クマにとって人は見つかれば殺されてしまうかもしれない怖い存在あり、自分を守るための行動を取っているだけと思います。

生息する地域によって食性は大きく違いますが、多くのクマは森のベジタリアンと呼ばれるほど草食系の動物であり、人と食性が類似した動物と言えるのかもしれません。



以上より、歯の形態、下あごの動きから考察すると、人の身体の構造と機能は、肉を食べるよりも穀物などを食べるように出来ていると考えられます。



では、人は、なぜ肉を食べているのでしょうか?

近年、世界中で牧畜が盛んに行われ、肉も容易に手に入るようになりました。

そのままでは食べにくい肉も、加工や調理をすることで、簡単に食べられる様になりました。

肉を食べるようになった大きな要因は、労せずして、簡単に食べられるようになったからだと思います。

本来、人間が食べなくても良いものを、文明の発展とともに、好んで食べるようになっていったと考えられます。

そして、肉が貴重な時代があり、肉を食べないと栄養失調になる、元気が出ないなど、誤った常識が作られたのも、消費が増える一因となっているのに違いありません。

本来、食べなくても良いものを、たくさん食べるようになったため、過去にないほど、さまざまな病気を現代人は抱えていったのもかもしれません。



世界中の多くの人は肉を食べていますが、自分の手で殺生してまで、食べようとする人が、どれほどいるでしょうか?

人間は、他の動物を殺すことに、罪悪感を感じるようになっているので、ほとんどの人は殺してまで食べようとはしないと思います。

しかし、社会が細分化され、動物を自らが殺さなくても、肉は食べられるようになりました。

何気なく食べている肉が、動物を殺して提供されているという事実が、完全に隠蔽されてしまっています。

それが、肉食をやめない、大きな要因になっていると思います。



大手ハンバーガーチェーンに提供されるパテの材料となる牛たちは、営利を優先するため、生き物としてではなく、物として扱われているようです。

過酷な環境で生まれ、単に体を大きくされて、人間の手により殺され、肉片と化します。

そこには、同じ動物としての尊厳は、微塵も感じられません。

店舗からは、非人間的とも言える行為を動物たちに強いた上で、ハンバーガーが作られている現実は綺麗に払拭され、多くの人たちが今日も利用しています。

私には、牛たちの悲しみや恐怖が染み込んだ肉を食べているように見え、心身に良いはずがないと真剣に思っています。



ほとんどの日本人は、毎日肉を食べていて、調査結果では、1年間に平均、牛肉6.9Kg、豚肉11.5Kgを食べていると報告されてます。

体重800Kgの牛からは、200Kgくらいの食肉ができるそうです。

体重90Kgの豚から、44Kgの食肉ができるそうです。

あまりしたくない計算ですが、一人の日本人が20数年間で1頭の牛、4年間で1頭の豚、そしてたくさんの鶏の命を、間接的に奪っていることになります。



栄養学的に、肉を食べなければ身体を維持できないという考えは、食べようとする人間の勝手な言い訳に過ぎないのかもしれません。

中央アフリカに生息するマウンテンゴリラは、果実や葉っぱを食べて生きていますが(時々、昆虫も食べているようです)、たんぱく質が不足するどころか、400㎏を超える握力を発揮するほどの筋肉量を維持しています。

同じ霊長類である人間も、肉を食べなくて良いように創られていて、そのための知恵も与えられているはずです。



こんなことを書いている私も、少し前まで肉を食べていましたから、今になって他の人にやめろと言うのは身勝手だと思います。

なので、お伝えしたいと思います。

1匹の動物には、1つの魂が宿っています。

当然のことながら、食肉となる牛、豚たちにも、魂が宿っています。

魂からは、人間と同じ様に、喜びや悲しみの想いも生まれ、しっかりと恐怖も感じています。

しかし、人間は動物の想いに、きわめて鈍感になってしまっています。

工場で殺される前の、牛や豚たちの想いがどんなものなのか?

想像すると、言葉を失います。

動物の気持ちなど、判らないのであれば、想像して下さい。

もし、自分が別の生き物に捕らえられ、囲まれて、殺されてしまうとしたらどうでしょう?

想像もできないような恐怖を感じ、必死に助けを求めるでしょう。

牛たちには、助けを求める言葉もありません。

強者である人間のなすがままです。

今、思うと、私が子供の時に工場内で見た牛は、恐怖を通り越し、観念していたように思えます。

自分の運命を受け入れ、その時を静かに待っていたような気がしてなりません。

それを考えると、いたたまれなくなります。

人間から餌をもらい信頼して育った牛が、大きな恐怖を味わいながら、同じ人間の手によって殺され、心に深い傷を負ったまま霊界に強制的に移るため、可哀想なことに、しばらくは錯乱状態が続いてしまうようです。

殺されるために、この世に生まれて来たはずがありません。

感謝して食べれば良いと言う人がいますが、それは詭弁に過ぎないと思います。



ところで、ライオンなどの肉食獣は、動物を殺して食べて生きていますが、どう考えれば良いのでしょうか?

肉食獣にとって、捕食は本能に支配された行動であり、殺しているという概念は持ち合わせていないように思えます。

もしそうならば、良心の呵責など存在しません。

ところが、人間には「殺す」と言う概念が、明確に存在しています。

殺すのは、良心に反する行いなので、実行すれば罪悪感が生まれますが、ほとんどの人は、動物たちを自分の手で殺して、食べている訳ではないので、罪悪感はほとんど感じていません。

しかし、食べている肉は、動物が殺されて作られるのは、間違いなく知っています。

それでも食べてしまうのは、食用の動物は人間より下と考え、豊かな感情を持ち合わせている事実を、見て見ぬふりをしているだけかもしれません。

人間には、動物を食べないでも生きていける選択肢があります。

それでも食べてしまうのは、動物の命を尊重するよりも、食べたいという自己の嗜好的欲求が勝っているからだと思います。

肉を食べるのは、愛を基調とした自然法則に反していると考えられ、魂の成長の妨げとなると共に、心身の病気などを通して、相応の償いが生じているのかもしれません。



牛や豚の目を良く見ると、かわいらしく、優しい目をしています。

牛や豚は肉である前に、豊かな感情を持ったかわいい動物であり、生き物としての威厳も感じます。

生まれた仔牛と母牛は、深い愛情で結ばれています。

母牛から引き離され、大きくならないうちに殺され、仔牛の肉として、人に食べられるのでは、あまりにむごすぎます。

それを、柔らかくておいしいと言って、食べる人の気持ちが、私には判らなくなりました。



悲劇は、他者の想いが判らないために生まれてしまいます。

動物たちの想いを知らないから、食べることができます。

それは、人の想いが判らないために、争いが起きてしまうのと同じです。

もし人が、動物たちの本当の想いを知ることができたならば、こんな悲劇は生まれないでしょう。




牛や豚は人に食べられるためではなく、人間が窺い知れない目的や役割があって存在していて、同じ地球に生きる、対等な仲間だと思います。

もし、人間が地球上で1番進化した動物であるのならば、他の動物に対して1番優しくなければいけません。

地球上が、人間の独裁社会のように見えてしまうのは、私だけでしょうか?

独裁社会になっているために、環境破壊が進み、動物虐待が横行しています。



あの時の牛の命を奪った、骨を砕く鈍い音は、40年経った今も耳から離れることはありません。

物言わぬ動物たちは、今も、声なき悲鳴を上げています。

肉食をやめるのは、決して簡単なことではありません。

しかし、人間は肉を食べなくても、生きて行けるように創られていると思います。

世の中が唯物的になるほど、肉を食べるようになり、霊性(魂)に目覚めるほど、肉を食べなくなり、人間本来の食生活に戻って行くと思います。



動物には、人と同じように想いがあります。

人は、動物を食べなくても生きていけます。

もし、迷っているのであれば、思い切って今日から、肉をやめましょう!


食べないでね



参考ページ: 「かわいい動物たち」


参考ブログ:「ヴィーガンと動物愛護、そして時々、霊的真理」胸が痛くなりますが、これが現実です。是非見て下さい。











2016年4月24日日曜日

霊界の道具として



人生の1つ1つの出来事は、密接につながりあい、意味を持っています。

約10年前のある朝、左手から病気を癒す力が出ていることに気付きました。

同時期に、「シルバーバーチの霊訓」との出会いがありました。

まもなく、かつてない苦難が訪れました。

その3つの出来事により、霊的真理を手にすることができ、私の人生を大きく変えて行きました。



このすばらしい真実(霊的真理)を、多くの人に伝えたいと、心から思うようになりました。

伝えたいというよりも、伝えなければいけないという、切迫した思いだったかもしれません。

当初は、私の周りにいる、親しい人を亡くした知人に、「生きている」ことを伝えていました。

喜んでくれると思ったのに、悲しみを蒸し返さないで欲しいと言われてしまった時もあり、自分本位になり、相手への配慮を欠いた行動だったと反省しました。



少し前の話になりますが、私の医院で働く女性のお母さんが、末期のガンと診断されました。

それを知り、少しでも良くなればと思い、ヒーリングをしました。

その時、お母さんに霊的真理の話をしましたが、隣にいた彼女も、黙って聞いていたようです。

残念ながら、お母さんは数か月後に亡くなり、お別れの直後に彼女から電話をもらいました。

一言、「必ずまたお母さんに逢えるから」と、自信を持って彼女に伝えたところ、泣き声で「先生に会えてよかった」と、言ってもらいました。

その瞬間、霊的真理を伝える悦びを実感しました。



世の中には、降りかかる苦難に打ちのめされ、真実を知ることで、救われる人がたくさんいると思われ、どのようにしたら伝えられるか、いつも考えています。

今は、インターネットを通じてコミュニケーションが出来る、便利な世の中になりました。

以前、愛犬と動物愛護活動の様子をブログに書いており、それを小さなコミュニティーに載せていました。

しばらくして、そのコミュニティーにあった、1つのブログが私の目に留まりました。

ブログの主は、40代の女性であり、末期の乳ガン患者さんでした。

数年前に手術をしましたが、再発してしまい、抗ガン剤による治療を行っていました。

自分の正直な思いをブログに書き綴っていましたが、行間から、乳房を失った悲しみ、再発してしまった絶望、身体を徐々に蝕んでいくガンに怯えているのを感じました。

そのブログを見ている人たちが、彼女を励ますためにコメントを送っていて、私も何か力になれないかと思いました。

霊的真理こそ、彼女に心の安らぎを与えられると考えて、死は怖れるものではないこと、今の苦しみからの解放であることを、コメントで伝えました。

しかし、彼女とって何よりつらいのは、ガンの苦痛や死の恐怖よりも、優しいご主人と、二人の子供たちを残して逝くことでした。

霊的真理を伝える前に、相手の想いを深く知らなければいけないと反省しています。



その女性は、大きなブログ投稿サイトにも参加していて、そのサイトには、様々な病気の人たちが、思いのたけをブログに書き込んでいました。

その中の1つに、やはり術後に乳ガンが再発してしまった女性がいました。

文章では、元気に明るく振る舞っていましたが、憔悴し、不安と恐怖に怯えているように思えました。

彼女は抗ガン剤治療を受けていましたが、それは想像している以上に苦しいものであり、病院ではなく自宅で一人耐えていました。

私は、霊的真理に基づいて彼女を励まそうと、病気には必ず原因があり、原因さえなくなれば必ず治る、乗り越えられない苦難はないとコメントを送り、私のブログが何かの参考になればと考えアドレスを書き加えました。

どうやら見ていただけたようで、それからはコメントではなく、お互いのブログ上でやり取りが始まりました。

その後、ガンによる苦痛はさらに大きくなり、それに抗ガン剤による苦しみが加わり、これ以上の苦しみには耐えられないと訴えていました。

その女性は、結婚して子供を産んで直ぐに、ご主人を交通事故で亡くされていました。

女手ひとつで、子供を育てあげ、ようやく落ち着いて来た矢先にガンを宣告され手術し、数年後に再発してしまいました。

藁をもすがる思いで抗ガン剤治療を受け、その苦しみに耐えている人に、健康な私が軽々しく励ませないと思いました。

どうして、これほどまで苦難に遭わなければならないのか?

かける言葉は、なかなか見つかりません。

乗り越えられない苦難はない、今の苦しみは魂の向上につながっているのは確かな事実なのですが、その言葉をそのまま、ひどい苦しみの中にいる人にかけるのをためらいました。



希望が持てるような、力になるような文章にしようと、思いを巡らしていました。

そうしている内に、頭の中に、画像のようなイメージが、突然、浮かび上がりました。

それは、身体にまとわりつく、黒っぽくて、細長い塊のようなものでした。

最初は、何のことだか判りませんでしたが、しばらくしてガンのしこりを表していることに気付きました。

そして、その塊りは、物質から出来ているのではなく、「想い」の塊であることが、意識の中に浮かび上がりました。



当初は、霊的真理で励まそうと思っていたのですが、予想外の展開となって行きました。

次々に伝わってくる言葉があり、それを書き留めて、順番を入れ替えたり、言葉を整えて行くと、ぎこちないものですが、どうにか1つの文章になって行きました。

伝わってきた内容の要旨は、ガンの本体は、表現できなかった摂理に反した想いであり、霊的次元に原因がある病気のため、ガンを消滅させようとする肉体次元の治療では、根本から治せないというものでした。

その旨を、何とかして伝えたいと思いました。



しかし、その文章はシルバーバーチの霊訓には書かれていないものであり、ブログに投稿すべきか、とても迷いました。

そこで、自問してみました。

動機は、自分のためではなく、人のためなのか。

全責任は自分が取ることになるが、それでもいいのか。

人のためであることを何回も確認し、責任は自分で取ると覚悟を決めました。

そして、伝えてくる者を信じて、私は投稿しました。



こちらから求めた問いに対して、向こうから答えが返ってきますが、それが霊的真理に適ったものなのか1つ1つ検証をしながら、その後もブログを書いて行きました。

真理に精通しているわけではありませんので、誤りは多々あったと思います。

また、自分の潜在意識により、大きく影響を受けている可能性は否めません。

しかし、ガンにより苦しむ人が、少しでも良くなればと思い、ブログの更新を続けて行きました。

残念ながら、二人の女性は苦しい闘病生活の末、愛する人たちを残して亡くなりました。



ブログを書く時に、霊界の意向のようなものも、うっすらと感じていました。

それは、物質(肉体)の呪縛にとらわれている、現代医学に対する警鐘のようなものでした。

地上時代に間違った治療をしていた、医者の懺悔のような想いも感じました。

特に印象的だったのは、抗ガン剤による治療は、神による治癒(免疫機能の働きと考えられます)を妨げてしまう愚行であり、即刻、止めるべきと伝わってきたことです。

伝えてくる向こうの人たちと、一体感のようなものを感じながら、頭を空っぽにして、思い浮かんできたことを、素直にブログに書き続けました。

内容が正しいのか、検証する術はありませんが、伝えようとする向こうの意志を感じたので、信じて書いて行きました。



最近、ヒーリングを行ったガン患者さんから、興味深い報告がありました。

ヒーリングをして数日後に血液検査をしたところ、NK細胞(ガンやウィルスなどの異物を攻撃し死滅させる免疫担当細胞の1つ)の活性が、担当医が驚くほど高かったそうです(54歳・51%)。

その人は、抗ガン剤治療を受けていませんでした。

今までの私の経験から、抗ガン剤治療を行った患者さんの、ヒーリングに対する効果は高いとは言えず、何故だろうと思っていました。

NK細胞の活性が高まっているとすれば、ヒーリングにより免疫系が賦活していると考えられます。

また、抗ガン剤はガン細胞を死滅させると同時に、副作用として免疫機能の主役である骨髄細胞も損傷させてしまうのは、周知の事実です。

ガンは、異質な細胞が際限なく増殖し、肉体を死に至らしめる病と思われていますが、ごく小数ですが、医学的な治療を受けないで、自然治癒する人たちがいます。

そんな人たちは、偶然、治ったのではなく、自然法則の働きにより治ったと考えられます。

身体から病巣を消滅させるのではなく、本当の自分(魂)に目覚め、内にある想いが解放され、自然法則に適った生き方や考え方に変わることでガンが癒されると、霊界では考えているようです。

しかし、病気の苦痛による償いが終わり、生命力という自然治癒力により癒される時が来ても、抗ガン剤により骨髄細胞が深刻なダメージを受けていれば、免疫系は機能せず、身体から排除は出来ません。

やはり、神から与えられた治癒機能を、人間が壊してしまうのは許されない行為だと、改めて感じました。

現代医学で常識とされる行為が、霊界から見ると愚行として映ることも、多くありそうです。

裏付ける科学的根拠は何もありませんが、ブログを見ていただいた人の中に、その意味を理解し、役立ててくれる人がいると信じています。



話は変わりますが、ある日、誰もが知っている悪質な事故により、お子さんを喪ったご両親の姿が、テレビのニュースで映っていました。

その表情は、悲しみに沈み、疲れ切り、憔悴していました。

謂れなき誹謗中傷も受けていたそうです。

こんな理不尽なことはないと憤りを憶え、心が癒やされるようにと願い、代理人を通してシルバーバーチの霊訓の1巻をご両親に送ると共に、ヒーリングを申し出ました。

もしかしたら、出しゃばりや自己顕示欲の表れではないかと思いましたが、ご両親にとって霊的真理こそ必要と、強く感じました。



それから数年後になりますが、仕事の関係で、ご両親の住む地方都市を訪れることになりました。

折角なので、本を渡してもらった代理人に会って、その時のお礼を言おうと訪ねたところ、あいにく留守でした。

出直そうと考え、しばらく散策していると、繁華街の一角に清楚な神社がありました。

境内にある長椅子に腰かけて休んでいると、本当に突然なのですが、心の中に言葉が湧いてきました。

それは、無垢な言葉であり、事故で亡くなった子供たちからのものと直感しました。

私の頭が作り出したものかもしれないと思いましたが、その言葉に、両親を気遣い、敬う子供たちの強烈な想いが込められていました。

その想いが、私の魂に伝わって、涙が溢れ出てきました。

7,8行でしたが、伝わって来た言葉を反復しながら、便箋に書き留めました。

そして、代理人に言葉を書き留めた手紙を、ご両親に渡すようにお願いしました。



その10日ぐらい後になりますが、ご両親がテレビのニュースに出ていました。

画面に映るお母さんの表情は、とても晴れやかでした。

被告人に対して起こしていた、民事訴訟を取り下げ、和解したことを告げていました。

記者会見で、「亡くなった子供たちと一緒に生きている」と、とても明るく語っていました。

その言葉を聞いて、涙が出るほどうれしくなり、思わず神に向かって感謝しました。

一面識もなく、どこの誰とも判らない私が渡したメッセージを信じてもらい、子供たちは生きていて、一緒にいるという真実に目覚められたと確信しました。

もし、あのメッセージが私の頭で作られたものであれば、お母さんの魂にまで届くことはなかったと思います。

この一件で、願いは霊界に伝わり、必要と判断されたなら、叶えられることを知りました。

そして、向こうにいる人の想いを、魂の存在を信じている人間であれば、受け取れる可能性があることを知りました。



世の中には、笑顔の下に、深い悲しみを抱えている人たちがたくさんいます。

子供や配偶者など、最愛の人を亡くされた人たちのブログを見ると、そのことが良く判ります。

経験のない私でも、魂の叫びのような文章を見ているうちに、想いが伝わってきて、涙することがあります。

こんな人たちは、霊的真理でしか悲しみは癒されないと考え、シルバーバーチの霊訓の存在を知らせるコメントを送りました。



この1冊の本に書いてある内容を、直ぐに受け入れられ、人生に革命が起きる人がいます。

しかし、多くの人はそうでありません。

魂は不滅であるのは、事実です。

なぜ、その事実を最も必要としている人たちが、受け入れられないのか?

魂に受け入れる時期が来ていないのは確かであり、その時が来るまで、傍観するしかないのかもしれません。

しかし、姿の見えなくなった現実に、悲しみ、苦しんでいる人たちに、一人になってしまったのではなく、そばにいてくれて、また逢える時が来るという事実を、ブログを通してどうしても知ってもらいたいと思いました。



書く人間の想いが伝わってこない文章では、読んでもらえないと思いましたので、真理に照らし合わせながら想いを込めて書くことにしました。

最愛の人を亡くした経験のない私が、遺された人の心に訴えるには、霊界からの援助も必要だったようであり、インスピレーションを受けながら書いて行ったと思います。

稚拙な文章かもしれませんが、霊界の意向に沿ったものであると信じています。



しばらくして、20代の娘さんを自死で亡くされたお母さんから、コメントをいただきました。

読んで、涙してくれたそうで、想いが伝わったようで、書いて本当に良かったと思いました。

お母さんもブログを書いていたので読んでみましたが、その悲しみ、苦しみ、後悔は、想像を絶するものであり、生き地獄と言って良いものでした。

もし、私がお母さんの立場になったなら、霊的真理を知っていても、悶え苦しんでしまうのではないかとさえ思いました。

亡くなったいきさつを考えると、霊的真理をそのまま伝えてしまうと、さらに苦しみが増してしまうのではないかと思いました。

悲しみに沈む人たちに真実を伝えて癒したい、この世で生きる勇気を与えたいと思いつつ、1つ1つ言葉を選びながら、真理と矛盾しないように、さらにブログを書き進めていきました。

私が文章を考えたつもりでも、実は霊界からの想いを無意識に受け取りながら、書いていた部分も多かったと思います。



向こうに逝った人は、遺してきた愛する人がこの世で嘆き悲しんでいるのを、ただ傍観するしかありません。

その様子を見ていられない、向こうにいる人から想いを受け取り、ブログ上で伝えた文章もいくつかありました。

私の意志で書いたつもりでしたが、向こうの意向により、計画的に進められているようです。



ブログを見て、救われたと言っていただいた時、それは私にとって大きな喜びとなります。

ほんの少しですが、義務を果たせた、安堵感のようなものも感じます。

もし、魂が目覚めて、霊的真理を受け入れ、生き甲斐のある人生を送ってもらえたならば、最高です。



痛みや苦しみ、悲しみに耐え、真実(真理)を求めている人は、世の中に数限りなくいると思います。

しかし、真実の所在を知らない人がほとんどであり、玉石混淆の中で、上手くたどり着ける人は少ないのかもしれません。

今は、インターネットを通じた出会いがあり、情報を共有できる時代です。

ありがたいことに、このブログにリンクを張って下さる人がいて、そこから訪れる人もいます。

そして、「シルバーバーチ」だけではなく、さまざまな言葉で検索して訪れてくれる人も多くなりました。

そんな人たちに、霊的真理について知ってもらいたいと考えています。

今は、必要なくても、その先の人生で、真理を求める時が、いつ来るかもしれません。

その時に、こんなことを書いていたブログもあったと、思い出してもらいたいのです。

真実を求めている人が、最短で「シルバーバーチの霊訓」という最高の真理にたどり着き、私のように救われたなら、これ以上うれしいことはありません。



書く文章は正直です。

勉強不足、理解力不足は、修養不足は隠せません。

自分の足りなさを、つい忘れてしまうと、それが露呈され、見苦しい文章になってしまいます。

常に自分を見つめ直しながら、書かなければいけないと思っています。

言葉にするのは簡単ですが、とても難しいです。

ご助言や、ご意見がありましたら、遠慮なく連絡していただければ幸いです。







2016年4月7日木曜日

ガン(癌)の真相



先月、歯の治療を続けていた患者さんから、当分の間、治療を休みたいと言われました。

どうしたのかと尋ねたところ、乳ガンになって手術を受けることになったと言われました。

私と同年代の、とても明るく、快活な女性ですが、覚悟を決めているような気配が窺われました。



仕事が終わった後も、その患者さんのことが気になりました。

もしかしたら、お役に立てるかもしないと思い、失礼かと思いましたが、思い切って自宅に電話をかけてみました。

話をしてみると、幸いにして早期でしたが、浸潤性の悪性度の高いガンであり、それも左右に見つかり、乳房を全摘する予定だそうです。

20年近く前に、子宮ガンにもなって手術を受けていたそうです。

女性の象徴とも言われる乳房を失わなければならない心境は、男である私には判るはずもありません。

手術せずに、良くなって欲しいので、その晩、遠隔ヒーリングをする旨を伝えたところ、快諾していただきました。

翌日、患者さんから連絡があり、会って話がしたいと言うことでした。

休日の午前中に、ご主人と共に来られましたが、ヒーリングを行った時に起きたことを、具体的に話をされましたが、聞いている私も信じられないような内容でした。

その体験に驚くと共に、どのようなことが起きたのか知りたがっているようでしたので、私が理解している範囲で説明しました。

明るい表情、輝く瞳に、真実を受け入れる時期が来ている人かもしれないと思いました。

10年前の私が手に入れたものを、この人も手にしようとしているのならば、とてもすばらしいことです。

そして、ヒーリングにより肉体も癒されて、乳房にメスが入らないようにと、願わずにはいられません。



この世では、生涯健康で一生を終える人もいれば、この患者さんのように2度もガンを患う人います。

また、同じ種類、同じステージのガンであっても、亡くなってしまう人もいれば、健康を取り戻す人もいます。

医学的な常識として、早期に発見して、早期に治療すれば、生命予後は良好であり、進行してしまったガンについては、治療をしても予後は不良とされています。

しかし、初期のガン(ステージⅠ)で手術をしても、再発して亡くなる人もいますし(5年実測生存率16.1%)、進行したガン(ステージⅣ)でも、常識に反して生存している人もいます(同15.9%)。

ステージⅠで亡くなった人は運が悪い人で、ステージⅣでも生きている人は運が良い人と片付けてしまっていいのでしょうか?

それとも、受けた医療の差によるものなのでしょうか?

何か別の要因が働いているように思えてなりません。



私は10年前から、ヒーリングを行っています。

信じられないかもしれませんが、ヒーリングを受けて、ガンが治癒してしまう人がいます。

その一方、ヒーリングを受けても、亡くなってしまう人もいます。

その差はどこから生まれるのか、答えを知りたいです。



ヒーリングについて少し説明します。

ヒーリングは魔法のような力ではありません。

誰もが持っている、自然治癒力の延長線上にある力だと思います。

ヒーリングの力は、霊界でオーダーメイド(調合)され最適なものとなり、地上のヒーラーを媒体として、個々の患者さんに届けられると言われています。

ヒーリングを受けて治るのは、病気による苦痛を十分に味わった人(償いが終わりかけた人)、魂が目覚める時が来た人であり、まだ、機が熟していない人は、いかなるヒーラーでも治せないと言われています。

魂が癒されることで、肉体上の病気が癒されます。



この事実から推測すると、早期のガンでも治る時期が来ていない人は、再発してしまう可能性があり、末期であっても治る時期が来た人は、治癒に向かうのかもしれません。

手術で切り取ってしまえば、それで終わりになるものではないと思います。



現代医学は、病気を外面(物質)的にしか捉えていません。

多くの病気の原因は、内面にある、精神あるいは魂に隠されていると思います。

ガンの外面だけ見ると、際限なく増殖し、死に至らしめるとても怖い病気ですが、本質は恐れるものではないのかもしれません。



あらゆる病気は自然法則に従って生じ、進行あるいは治癒し、偶然の入り込む余地は全くありません。

自然法則とは、宇宙に秩序と調和をもたらしている「決まり」と言えます。

全ての生き物には、霊的な自然法則が働いています。

霊的な自然法則は、神の心を表現させる方向に、導くために働いていると思われます。

神の心とは、お互いを認め合い、愛し合い、一つにさせようとするものであり、絶え間ない力が、霊的な法則を通して顕現していていると考えられます。



この世界には、実にさまざまな人がいます。

人は、自分にはない他者の優れたところを取り入れることで、成長して行くと思います。

個々の人間に、差異があるのは当然であり、性格、考え方、価値観が違うからこそ、世の中に広がりと厚みが生まれていると言えます。

差異を認め合えば、そこに調和が生まれ、全体が進化しながら、1つにまとまって行きます。

もし、認めなければ、不調和が生まれ、進化は停滞し、分裂が始まります。



桜の木に咲く花は、1つ1つは独立した存在に見えます。

しかし、同じ幹から分かれた枝から出ているので、全ての花同士はつながっていると言えます。

人も動物も同じであり、地球上の生命(魂)は根幹で互いにつながっていますが、肉体があり、生命は見えないので、どうしても別個に思えてしまいます。



子供の時には、人や動物との間に垣根はなかったので、親近感を覚え、同じ仲間のように感じていたと思います。

トラックで工場に運ばれて行く牛たちの瞳に、悲しみを見出したのは、本当の自分(魂)で生きていたからだと思います。

しかし、大人になるに従い、いつしかそんな牛たちの存在を気にも留めなくなります。

それは、より良く生きようとするあまりに、表向きの自分が作り上げられ、本当の自分は奥に引っ込んでしまったからだと思います。



本当の自分(魂)は、他者との差異を認め合おうとしていますが、表向きの自分は、他者と間に壁を作って認めようとしません。

本当の自分(魂)の想いと、表向きの自分の思いの間に大きな隔たりがあると、不調和が生まれ、混乱が生じてしまいます。

本来、人は本当の自分(魂)から生まれた想いを、肉体を使って表現しなければいけませんが、作り上げてきた自分の存在が大きくなってしまうと、素直に表現できなくなります。



この世では、いろいろな出来事が起きるため、さまざまな想いが生じています。

想いは、肉体で表現される素となるエネルギーと言って良いと思いますが、言葉や肉体で表現できないような想いもあります。

差異を容認しなかったために生まれる想いは、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、それに類似した言葉に表せない想いであり、それらは一様に破壊的な力を秘めています。

外に向かって表現してしまえば、攻撃的で暴力的なものになってしまい、他者との間に不和や争いが生まれてしまうかもしれません。

想いは消えてなくなる泡のようなものではありません。

外に向かって表現されなかった想いは内に溜まって、その人の言動に影響を与え続けています。

怒りが溜まった状態では、人に優しくするのは困難であり、人を怒らせてしまったり、傷つけたりしまうような言動を取ってしまうかもしれません。



人は、自分(魂)を成長させるために生きています。

困難を乗り越えたり、やさしさや思いやりを表現することで、成長して行きます。

ところが、差異を容認しなかったために生じた想いが内に溜まっていると、自己中心的になり、成長を促すような行動が取れなくなります。

それは成長を続ける宿命を持った魂にとって、由々しき事態です。

しかし、自分の内にそんな想いが溜まっているなど、思いもつきません。



想いを表現するために、肉体は存在しています。

内に滞った想いは、因果律の働きにより、内部で病態となって表現されます。

内に溜まった破壊的な想いは、時にガン組織となって肉体上に表現されることになります。



差異を容認しないのは、自然法則に反するものです。

過ちに気付き、正さなければいけません。

生命を脅かす危機的な状況や、ガンによる苦痛は、魂にまで響き、眠っていた本当の自分(魂)を目覚めさせます。

本当の自分の想いは、お互いを認め合い、許し合おうとするものであり、内に溜まっていた想いは親和性を失うため、解放されて行きます。

肉体上に表現されたガンは、想いと言う本体を失い、消失して行きます。



つまり、ガンは人との間の差異を容認しなかったために生じた想いが、肉体上の病変として表現されたものと言えます。

ステージⅠでも、ガンが再発するのは、想いと言う本体が解放されていなためであり、ステージⅣでもガンが治癒するのは、想いが解放されたためと思われます。

 ヒーリングにより治癒が起きるのは、愛の力により内に溜まった想いが解放されるためと考えられます。

ガンが治癒する人は、魂が目覚める時が来た人であり、認め合い、許し合うことの大切さに、気付いた人だと思います。



魂は肉体に宿ると個別性が出現するために、それぞれが全く独立したものであると錯覚を起こします。

しかし、本来はつながっていて、1つのものです。

個別性を得たそれぞれの魂は、さまざまな体験を通して進化し、再び一つになろうとします。

一つになろうとする想いは愛であり、怒りや憎しみはお互いに反発し、魂を遠ざける想いです。

ガンとは、怒りや憎しみの想いが、肉体上で反発し合う組織となって表現されたものであり、調和を失わせる想いが、調和を失った組織として表現されたものと考えられます。

怒りや憎しみを外に表現すれば、他者に苦痛が生じます。

内に表現されれば、自分に苦痛が生じます。

内にある想いに苦しみ、内にある想いに痛みを感じています。

1つになろうとする魂の欲求を妨げる想いは、自然法則に反したものであることを、病気の苦痛を通して、償いながら学んで行きます。

自然法則に気付き、従ったならば、内部に調和が生まれ、肉体上の病は癒されます。



他者との間にある差異を認め、許し合えばいいだけです。

自分にも足りないところ、至らないところがあることに気付けばいいだけです。

お互い様です。

差異を容認しない想いは、1つになろうとする想いと対極にあり、その想い変えていくために自然法則の1つとしてガンが存在しています。

差異を乗り越えて、1つになろうとする力の根源は愛です。

愛により、宇宙に起こる全ての事象は解決されます。



末期ガンで、現代医学に頼らずに治癒した人たちがいますが、科学的に説明がつかず、例外とされてしまいます。

そんな人たちの中に、病気になって良かったと、ガンに感謝している人たちがいます。

自分をさんざん苦しめた病気に対し、感謝するのは不思議に思えますが、ガンになって初めて本当の自分の想いに気付き、本来の自分に戻れたと、心から思っているからではないでしょうか。

さらに言えば、本当の自分が目覚め、本来の生き方に戻るために、ガンと言う病気が自然法則として存在していると思います。

人生を軌道修正し、シナリオに沿って成長して行くために、ガンという病気になる必要があったと思われます。

ガンは医療で治るものではなく、本来の自分を取り戻すことで治ると思われます。



周りにいる人に感謝して下さい。

わだかまりを捨て、心を開いて下さい。

自分にも欠点があり、人にも欠点があり、それを補い合って生きることに意味があります。

自分一人で生きているのではなく、他者により支えられて生きています。

そのことに気付くことで、差異は容認されていきます。



でも、それだけでは説明できないガンもあります。



まだ幼いお子さんがガンになり、闘病生活もむなしく亡くなってしまうことがあります。

血を分けた自分の子が、目の前で息絶えていく姿を見るほど、過酷な現実は見当たりません。

寿命の数分の1も生きられないのであれば、運命を呪ってしまうかもしれません。

ご家族は、幼くして死んでしまった理由を見つけようとしても、どこにも見つけられません。



ガンは差異を認めなかったために生じた想いが原因と前述しましたが、亡くなったお子さんにそんな想いがあるとは考えられません。

人には、それぞれ生まれる前に約束していたシナリオがあり、それに従って人生は展開していきます。

人智を超えたプログラムのようなものが存在し、それが正確に作動していると思います。

あらゆる手段を使って、そのプログラムを変更させようとしても、それは無理であり、決められた方向に向かって進んで行くだけです。



子供を喪ったご家族には、それぞれのシナリオがありますが、目的は1つに集約され、この世で自分(魂)が成長するためです。

過酷な現実がシナリオに従って起こり、その現実と対峙する中で、何かを見出し、そして再び歩き出すことで、魂は大きく成長して行くと思われます。

そんな現実などいらないと思っても、自らが大きく成長しようと願い、選んだシナリオであり、それに耐えられるほどの魂であるからこそ、許されたと思われます。



早くしてこの世を去るお子さんは、周りの子供たちよりも大人であり、幼いながらも家族や周囲の人を気遣い、わがままなど言ったりしないのかもしれません。

目に見える姿は幼くても、そこに宿る魂は十分に成長を遂げているのかもしれません。

この世のシナリオは短いながらも、周囲に大きな影響を与え、自らの死により、周囲の魂を成長させるという目的を持っていたのかもしれません。

困難に立ち向かって行く大切さを、小さくても病気と気丈に闘う姿を、周りの人に見せて教えていたのかもしれません。

生きる力と勇気を一生涯に渡って与え続けるために、この世にいる時間を短くする必要があったのかもしれません。

子供の死という、これ以上ない悲しみや苦しみを通して、大きな成長を望んでいた親の元に、この世で学ぶことがほとんどない成長した魂が生まれ、その目的を果たすためにガンという病気になり、闘う姿を見せ、愛の大切さを教え、この世の去って行ったのかもしれません。



同じガンという病気でも、本当の自分に目覚め、成長するためになる人もいれば、周囲の人を目覚めさせ、成長させるためになる人もいると思います。

どちらにしても、目的は同じであり、魂の成長です。

その貴重な経験により、他者の痛みや想いが判り、差異を乗り越えて1つになるために、自然法則の一環として、ガンは存在していると思われます。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」





2016年3月27日日曜日

因果律の働きを知って



現在、私は歯科医師をしています。

10年前のある日、私の元に一通の文書が届きました。



仕事を監督する機関からのものであり、そこには私の保険の請求に問題が認められたため、行政指導を行う旨が書かれていました。

ほとんどの医療機関は保険診療を行っており、患者さんの診療内容に応じて、支払い元に請求を行います。

指導とは、保険の請求が適切に行われているかを審査し、問題があれば改善を促すものですが、最悪の場合には、保険診療が出来なくなる保険医の取り消し処分が下されます。

もし、保険医の取り消し処分が下されれば、事実上、廃業に追い込まれるのがほとんどであり、医療従事者であれば誰もが怖れています。

けれども、悪いことをしたという意識は少しもなかったので、どこかに不備が見つかったとしても、注意されて終わるだろうと考えていました。

ところが、指導を受ける準備のため、カルテ等の資料を良く調べてみると、行ってはいけない請求もたくさんあったことが判明しました。

そのことを、とても悔いると同時に、発覚して咎められた時のことを考えると、とても不安な気持ちになりました。

指導を受ける当日の朝は、まるで裁判を受ける被告人のような心境であり、緊張すると共に、惨めな気持ちになりました。

いよいよ指導が始まりましたが、怖れていたことが現実となり、それを追求され、正当な釈明が出来ないため、疑義は深まっていきました。

約1年に渡り、指導が繰り返され、これまでいかに決まりごとを守らずに、いい加減に生きてきたかを思い知らされました。

そして、当初の予想とは全く異なり、最も怖れていた保険医の取り消しという処分が、私に下されました。

地元の新聞の3面記事に名前が載り、当然のことながら歯科医師として信用は大きく失墜し、それまで通って来ていた多くの患者さんが、私の元から離れていきました。

従業員にも多大な迷惑をかけたため、信頼関係は大きく崩れて、職場の雰囲気は一変しました。

家族にも、心配をかけた上、恥ずかしい思いをさせて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

今まで築き上げたものが、一瞬にして崩壊したような気がしました。

仕事に関しては、私なりに力を入れてやってきましたので、不名誉な処分を受けた挫折感、屈辱感は相当なものでした。

そして、これから先、どうやって生活していけばいいのだろうと、絶望的な心境になりました。

この出来事により、多くのものを失うことになりました。



その中で、手にしたものがありました。

それは、シルバーバーチの霊訓に書かれている「霊的真理」です。

窮地に追い込まれ、多くのものを失わなければ、きっと手にすることはなかったと思います。



霊的真理の中でも、当時の私の心に突き刺さったものは「因果律」でした。

仏教で言う「因果応報」であり、聖書では「自分が蒔いた種は、自分で刈り取る」と書かれ、自分のした行為に対して、結果責任を取らなければならないことを知りました。

自然法則の根幹を成している「因果律」が、私にも正確に働いていることを、つらい日々を過ごす中で、身を持って知りました。



裁判では同じ行為でも、「過失」によるものか、「故意」なのかで、課される量刑が違ってきます。

うっかり人を傷つけてしまったのか、わざと傷つけたのかで、罪の大きさに差があるのは当然です。

今回、私の不祥事では、知らなかったこともありましたが、知ってた上でしてしまったこともありました。

振り返ってみると、初めてしてしまった時に、自分に言い訳みたいなことを言っていました。

きわめて身勝手で、恥ずかしい言い訳であり、「誰もがしていることだから」とか、「これくらいは大したことはないだろう」と言うようなものでした。



一方、こんな声もしていました。

「本当にそれでいいのか」

頭をかすめていたその声も、言い訳に掻き消されて、結局、不正な請求をしてしまったのです。

それが、当たり前のようになってしてしまうと、声はしなくなります。



どうやら、10年前の私の中には、二人の自分がいたようです。

表現が適切かどうかわかりませんが、一人は、この世を生きている内に、知らず知らずに作り上げてきた自分であり、言い方をかえると表向きの自分でした。

もう一人は、その陰に隠れている、ありのまま(素)の自分であり、本当の自分です。



子供の時は、本当の自分でいられたと思いますが、大人になるにつれて、周りに合わせたり、良く見られようとしたり、打算的に生きている内に、表向きの自分が少しずつ作り上げられて行ったようです。

いつの日か、作り上げてきた自分が前面に出て、自分自身だと錯覚するようになり、本当の自分は奥に引っ込んでしまったようです。



本当の自分は、善悪をしっかりと判断しているようです。

「やってはいけない」と、表向きの自分がしようとしている、自然法則に反した言動を拒否しているようです。

本当の自分には、シルバーバーチが言う「神の監視装置」、一般的に言う「良心」が存在しているようです。

「本当に、これでいいの?」と、心の中でつぶやいていたのは良心の声であり、表向きの自分に対して、自制を促していたと思います。

一方、表向きの自分は、「大したことはない」、「誰でもしているから」、「ばれやしない」と、心の中でつぶやき、本当の自分に言い聞かせていたと思います。

行動をする直前まで、両者のせめぎ合いがあり、結局は、表向きの自分に押し切られてしまったと思います。



普段から、慌ただしく、頭を使った生活をしていると、表向きの自分が優位に立ってしまい、本当の自分の声は聞こえにくくなってしまうようです。

本当の自分がいることを意識し、その声に耳を傾けていれば、「やっぱりやめておこう」と、思い留まれたと思います。

俗に言う「エゴ」とは、表向きの自分と同じような気がします。



表向きの自分は、周りに影響されながら作り上げてきたものなので、周囲の状況に流されやすいと思います。

また、物事の表面しか見ていないので、お金や地位、名誉など、表面にあるものを、追い求めてしまい、見栄や虚勢を張ってしまうかもしれません。

本当の自分は、生まれながらの自分であり、周りにも影響されにくいようです。

物事の内面を見ているので、人の想いを察知したり、本当に大切なものや、美しいものが判るようです。



長い間、表向きの自分と、本当の自分のせめぎ合いの中で、生きてきたと思います。

次第にバランスが崩れて行き、不祥事が起きた時には、本当の自分の存在に気付けないほど、表向きの自分の存在が大きくなっていたと思います。



本来は、本当の自分が、主導権を握って生きなければいけないと考えられます。

表向きの自分では、どうしても目先のことに捉われてしまって、自分の成長につながる決断ができません。

そのために、この世で予定していた成長が、得られなくなってしまう可能性があります。

一方、本当の自分は、この世に生まれる前に約束したシナリオを、無意識下で知っていて、自分の成長につながる決断が、直感としてできるようです



人生では、どちらを選択するか迷う時があります。

その時には、表向きの自分と、本当の自分の間で、せめぎ合いが行われていると思います。

表向きの自分は、外面しか見ていないために、失敗を怖れて、安易な方向、楽な方向に進もうとします。

本当の自分は、困難や障害が待ち受けている方向に進もうとします。

もし、両者のせめぎ合いを感じたのなら、思い切って本当の自分が指示する方向へ進んで行くのが賢明と思われます。

その選択が、より自分を成長させることが出来るからです。



人生では、さまざまな苦難や障害を伴う出来事が起きます。

表向きの自分にとって、災難であり、不幸な出来事にしか思えないようです。

しかし、本当の自分は、今生に与えられた試練であり、成長する機会として受け止めるようです。

10年前に起きた出来事は、以前の私でしたら、最悪な出来事であり、不運を呪ったでしょう。

今の私は、本当の自分が目を覚まし、成長して行く人生に変わるために、なくてはならなかった出来事だと思っています。



そして、強く感じたことがあります。

それは、因果律の働きは、最適なタイミングで、結果を生じさせると言うことです。

このタイミングでなければ、本当の自分にまで響き、目覚めさせることは出来なかったと思われます。



1つの出来事には、2重3重の意味があったようです。

表面的には、私は法令遵守をしなかったため、行政処分を受けました。

内面的には、良心に従わなかったため因果律が働き、苦痛を味わったと思います。

さらに内面には、苦痛が触媒となり、ありのままの自分を目覚めさせる意味があったようです。

シルバーバーチは法則の裏側に法則が働いていると言っていますが、このようなことを指すのでしょうか。

物事の表面だけ見ると、災難や凶事と思えることも、深層には必ず意味があり、霊的には良い方向に導かれていることを実感しました。

突発的に起きたのではなく、タイミングを見計らって、因果律が働いたと確信しています。

これらを勘案すると、因果律を支配している叡智はやはり完璧であり、すべてが佳きに計られているような気がします。



話は変わりますが、子供の時に、「悪いことをしたら、罰が当たるよ」と、何度も言われました。

そう言われても、別に何も起こらないので、悪さをさせないための大人の口実と思っていました。

今、考えてみると、因果律の働きを、言葉にしているようです。



目に見えるもの、見えないものに拘わらず、因果律は働いています。

石を真上になげれば、物理的法則である万有引力の働きにより、真下に落ちてきます。

同じように、自分のしたことは、目に見えない霊的法則の働きにより、自分に返って来ます。

自然の決まりに反した行いをすれば、因果律の働きにより、相応の苦痛を伴う結果として返ってきます。



しかし、世の中を見渡すと、悪いことをしていても、平然と生きている人はいます。

誰にも判らないように、人を傷つけたり、貶めたりしている人もいます。

人がどうなろうとも、自分の欲望を満たそうとする人もいます。



そんな人は、法律的な裁きを免れたとしても、霊的に許されないことを知りません。

肉体を失っても、犯した罪が、償いがなければ消えないことも知りません。

この世の人生における、全ての行い、さらに想いまでも、魂に刻まれていて、犯した過ちと直面する時が必ず訪れることも知りません。



法律に背いたことをすると、時に刑務所に入れられ、自由を奪われます。

霊的法則に背くと、成長が許されません。

自分を成長させることは、生きる意味そのものです。

その苦しみは、自由を奪われた受刑者以上に違いありません。

再び、成長していくためには、過ちを認め、相応の苦痛を経験して償わなければいけません。

その事実を知っていれば、傷つけられ、ひどい仕打ちをされたとしても、同等の痛みや苦しみを味わうことになるので、憎む必要はありません。

イエス・キリストがゴルゴタの丘で磔の刑にされ、鞭を打たれている時に、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と、言ったそうです。

自然法則を知らずに、罪を犯している人たちに待ち受けている報いが、どんなものかが判っていたので、哀れに思わずにはいられず、神に向かって慈悲を求めていたと思われます。



「因果律」により、全てが解決されます。

不公平、不公正は、全く存在しません。

この世だけを見て、判断してはいけません。

この世で因果律が作動しなければ、あの世で間違いなく作動し、公正は完全に保たれます。

だから、人を傷つけたり、悲しませたり、苦しませたりすることは、絶対に出来ないのです。

後悔しないように、自分に正直に、良心に忠実に従って、生きなければならないのです。



以上が、10年前の出来事をきっかけに、私が学んだ教訓です。



ところで、因果律は人の過ちばかりに働いているのではなさそうです。

子供の時に、「人にやさしくしましょう」と、多くの人から言われました。

でも、なぜやさしくしなければいけないのか、判りませんでした。

人が喜んでくれるのは確かだけれど、やさしくしても何の得にもならないと思っていました。

実際は、得にはならなくても、徳にはなるようです。



人を傷つけるのとは正反対で、やさしさや思いやりは、自然法則に適ったものであり、因果律の働きにより、相応の報酬をもたらしています。

「情けは人のためならず」と言うことわざがありますが、情けをかけた人に、巡り巡って同じ想いが返ってくるという意味だと解釈しています。

この現象も、自分から出たものは、自分に返ってくるという、因果律の働きによるものと思われます。

たとえ、誰から何も返って来なくても、また誰にも知られない行いであっても、自然法則に適ったものであれば、目に見えない形で、自分に返って来ることになります。

魂の成長として、自分に返って来ます。



魂が成長したって、それが何になると思われるかもしれませんが、この世に生きている意味そのものが、魂を成長させることです。

本当の自分とは、魂です。

自分を成長させるために、この世に生まれて来たことを、私たちはすっかり忘れています。

「人にやさしくしましょう」の意味は、人に喜んでもらうと同時に、自分を成長させるものであり、その想いが広く行き渡り、世の中が喜びに満ちたものになり、平和になるためだと思います。



魂と肉体の永続的な分離が死です。

死によって肉体を失った魂は、むき出しの状態になりますので、その人の素性が露わになります。

この世で想ったこと、言ったこと、行ったことは、魂にしっかりと刻まれていて、全てが周りに知れてしまいます。

良くも悪くも、ありのままの自分でしか、生きられません。

当然のことですが、この世を去れば、お金など形ある財産は、全て失われます。

代わって、この世では見えなかった内面に築き上げたものが、あの世での財産となります。



魂とは生命です。

神のものであり、神の一部です。

そして、神の心は愛です。

やさしさや思いやり、無私の奉仕は、愛の表現であり、神の心を表現しています。

愛の表現が魂の財産となるのは、肉体を失っても消えない、神的な価値を持つものだからです。

神的な財産が多い魂ほど、次に行く世界で美しい光輝を放つことになります。



この世を、どう生きるかは、個人に任されています。

想い、言葉、行いの全てに、休むことなく因果律が働いていることを、忘れてはいけないと思います。

人がどうであろうと関係なく、良心に忠実に生きて行きましょう。

やさしさや思いやりを表現して生きて行きましょう。

本当の自分の声を見出し、それを大切にしましょう。



怒りや、憎しみの想いを向けられたとしても、受け流して、微笑みを返しましょう。

ひどい仕打ちをされても、その人と魂が同調するような想いを抱くのはやめるようにしましょう。

それが、自分の魂を守るための、最善の方法です。



人や動物、そして社会が悦ぶような生き方が、最も賢明な生き方です。

因果律の働きにより、自らの成長と、悦びという幸せが、その先で返ってくるからです。














2016年3月13日日曜日

この世からあの世に行った人たち



10年前の私は、死んだ後のことなど、考えることはありませんでした。

今が、楽しく、充実していれば、そんなことはどうでも良かったからです。

しかし、左手から病気を癒す力が出ていることに気付き、人生最大の屈辱的な出来事を経験し、シルバーバーチの霊訓と出会って考えは一変し、霊的な世界について深く思いを巡らすようになりました。

生命とは魂であり、あの世が存在するのは、動かしがたい事実です。

夜になって朝が来るように、この世が終わりあの世が訪れます。

同じ自然現象であることを、多くの人に知ってもらいたいと思うようになりました。



人生に悲しみはつきものですが、最愛の人を喪った悲しみを超えるものは、この世にありません。

遺された人が、祈るようにして待つのは、再会の瞬間です。

再会するためには、「あの世」と言う存在がなければいけません。

あの世で、亡くなった人が魂として生きていて、そこで待っていなければいけません。

しかし、残念なことに、あの世の存在は誰にでも判る形で、証明はできません。

時々、臨死体験者がその時の様子を語っていますが、信憑性を確かめる手段は、何もありません。



否定論者は「それは、あなたが信じる宗教であって、目の前で証明してもらわない限り信じません。」と、言います。

しかし、否定論者であっても、きっと愛する人はいるでしょう。

目に見えず、証明できないものを信じないのであれば、愛も否定しなければいけません。

愛は認めて、魂を認めないのでは、理屈に合いません。

もし、魂など存在しないと言い切る人が、最愛の人を喪って、同じことを言い続けることができるのでしょうか?

死は永遠の別れだとしたら、そのことに堪えられるのでしょうか?



目に見えないもの、形のないものでも、しっかりと存在しています。

私たちが、認識できない世界にいるだけで、実体があるのです。

愛を知っている人であれば、肉体が無くなっても、魂として生き続けているという事実を、きっと受け入れざるを得なくなると思います。

なぜなら、愛は霊的次元のものであり、魂から生まれているものだからです。



亡くなった人が、あの世で生きているのは、歴然とした事実であるのに、何故、明らかにかされないのだろうかと、疑問に思っていました。

その理由は、私たちがまだ霊的に未熟であり、この世の現実から逃げ出してしまう恐れがあるからと、今は考えています。

世の中全体が霊的に向上し、自らの意思で生を絶つと言う、過ちを犯さないようになれば、周知の事実となる日が来るような気がします。



東日本大震災から、もう5年経ちました。

1つの地震により、1万5千人を超える人が、一瞬にしてこの世からいなくなってしまったのが、未だに信じられません。

しかし、一人ひとりのご遺族にとって、目の前から大切な人がいなくなってしまったのは、紛れもない現実です。

そんな人たちに、これだけは伝えたい。

荼毘に付され、骨となってしまったのは、あくまで肉体です。

大切な人の生命は魂であり、津波で肉体を失っても、変わりなく生きています。



津波で亡くなってしまった人は、こうであったのではないかと、シルバーバーチの霊訓などの霊界通信を参考に、私なりに想像して書いてみました。



迫ってくる波に飲み込まれ、水中で数分間、息が出来ない苦しみにもがきながら、次第に意識は遠のいていきます。

どれくらいの時が経ったのでしょうか、気付くと、少し高い所から、周囲を眺めているようであり、地面に横たわっている人が見えます。

しばらくすると、人がやって来て、横たわっている人の前でお線香を上げて、手を合わせているのが見えます。

横たわっているのは誰だろうと覗いてみると、それは見慣れた顔であり、良く見ると自分であることに気付きます。

自分はここにいるのに、自分の身体はそこにある、これはどういうことなのか?

悪い夢でも見ているのか?

その後、動かなくなった自分の身体は、広い場所に運ばれて行きます。

そこに、不安そうな面持ちで、家族が近づいて来ます。

自分の身体を見つけて、泣き崩れる姿が見えます。

何で泣いているのか、全く見当がつきません。

しばらくして、ハッとします。

あの時、大きな波に飲まれてしまったことを、思い出します。

周りに目をやると、飲み込まれた波はなく、すでに水も引いています。

建物は波に押し流されてしまって、街並みは見る影もありませんが、風景はどこかいつもと違い、
もやがかかっているよう見えます。

物の輪郭は曖昧になり、透けて見えて、スカスカのように感じられます。

何が起きているのか、良く判らないところに、一人のおばあさんがいるのに気付きます。

家族よりも、おばあさんの方が鮮明に見えます。

そのおばあさんは、数年前に亡くなった祖母だと、すぐに判ります。

もしかして、今いるのは、この世に思えて、この世ではないかもしれない。

「あの世」と言われている世界にいて、この世を眺めているのかもしれない。

周囲の状況から、徐々にそのことに気付いて行きます。

そして、祖母から亡くなった時のいきさつを伝えられ、納得はできないものの、身に起こった事実を受け入れます。



ところが、死んだら無になってしまうと強く思っていた人は、事情が違います。

死んでも意識があることが、全く理解できません。

意識があるので、この世で生きていると、錯覚し続けることになります。

そんな人も、すでに死んだ親しかった人たちが出迎えに来て、会うことになります。

そして、大きな混乱が生じてしまいます。

何で、死んでいる人が、自分の目の前にいるのかと。

その人たちから、「お前は津波で死んだんだよ」と、いくら伝えられても、意識がしっかりとあるので信じようとしません。

そこで、一緒に暮らしていた家族の元に連れて行かれます。

自分の遺影に向かって、「何で死んでしまったの」と、泣きながら話しかけている家族の姿が見えます。

「何を言ってるんだ!ここに俺はいるぞ!」と、思わず大声で叫んでしまいます。

しかし、声帯は失われているので、聞こえるはずもありません。

何度も何度も叫び続けてみても、無視されるので、今度は肩に手をかけて振り向かせようとします。

しかし、家族の身体はスカスカで、かけた手は素通りしてしまいます。

家族が幽霊のように思えてしまい、思わず「お前は、死んでしまったのか?」と、叫んでしまうかもしれません。

死んだら無になると信じ込んでいた人は、それまでの観念と現実との間に矛盾が生じて、混乱状態に陥ってしまいますが、誰が何を言っても無駄なので、自分が納得するまで放って置くしかないようです。



死ぬ直前の想いは、死を境に、すぐになくなるわけではないようです。

あまりに突然であると、肉体を失ってしまったことに気付かないまま、死ぬ直前の「想い」がしばらくの間続き、必死に何かをしようとしてしまいます。

早く逃げなければと、強く思っていた人ならば、死んだ後も、しばらくは逃げ惑っていたと考えられます。

早く助けなければと、強く思っていた人ならば、死んだ後も、助けに行こうとしていたと考えられます。

しかし、それも長続きはせず、この世にいないことを受け入れて行くと思います。



死んでしまったことを自覚しても、その時の恐怖により、深刻なダメージを受けてしまった人(魂)もいます。

しばらくの間は、この世に最も近いあの世(幽界)にいます。

そこは地上とそっくりの世界であり、戸惑わないための神の配慮であると言われています。

傷ついてしまった人(魂)を専門に扱う病院のようなところがあり、手厚く介抱されるようです。

人からの愛と、自然界からの生命力により癒され、徐々に元の自分(魂)を取り戻して行くと思われます。



一人で逝った幼い子供たちも、心配ありません。

親愛の想いを持つ縁者や、この世で事情があって子供を持てなかった女性など、愛情に溢れる人たちと共に生活し、同年代の子供たちとも遊んだりして、楽しく過ごすようになります。

一人ぼっちで、寂しい思いをすることは、決してありません。



この様に、人が亡くなっても、死後の様子は一様ではないと思われます。

自分が望まない限り、一人放っておかれることはなく、この世よりも親密なかかわり合いの中で、助け合いながら生きているようです。

生前から死後についての正しい知識があった人の方が、すんなりと順応できるのは間違いないようです。



亡くなって間もない人(魂)であれば、意識を向けているのは、あの世ではなく、この世です。

離れ離れになったとしても、遺してきた人の想いに引き付けられるようにして、再会します。



この世の大切な人は、冷たくなった肉体を前にして、どうすることも出来ない過酷な現実を突きつけられています。

すべての思考は完全に停止し、 深い悲しみの想いが生まれ続け、とめどもなく涙するだけです。

助けてやれなかったことを悔やみ、なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろうと言う想いに苛まれています。



この世の人が何を想っているのかは、言葉にしなくても、あの世の人に伝わってきます。

あの世は言葉でなく、想いが直接伝わる世界であり、自分が死んだことで、深く悲しんでいる想いが、痛いほど伝わってきます。

悲しみに打ちひしがれる人に寄り添い、慰めようとするのは、愛情があれば当然です。

ところが、そばに近づこうとする人(魂)にとって、悲しみの想いはバリアとなっています。

「何で死んでしまったの」、「これからどうして生きていけばいいの」と、嘆き悲しんでいる時には、溢れ出す想いに押されて、近づきたくても近づけません。

悲しみと悲しみの間にあるわずかな時に、亡くなった人は寄り添い、慰めようとするでしょう。

けれども、声をかけても肉声にはならず、身体に触れても波長が違うので素通りしてしまいます。

どんなに努力しても、生きていることに気付いてもらえないのは、あの世の人にとって悲劇以外の何者でもありません。



いかなる手段を講じても、つながりたいと想うのは、この世でも、あの世でも一緒です。

この世に遺された人は、霊媒と言われる人を通して、あの世の人とつながりを求めます。

先に逝った人も、どうにかして、遺された人とつながろうとしています。

次元という障壁を乗り越えて、両者がつながろうとするのは、お互いが1つになろうとする想い、愛があるからです。



震災で大切な人を亡くした人たちの周囲で、不思議な現象が起きていたのを耳にします。

以前(2013年8月23日)、NHKの「亡き人との“再会”~被災地 三度目の夏に~」という番組で、遺族に起きる霊的な現象を特集していました。

亡くなった人の姿を見たり、亡くなった人を感じさせる音がしたり、大切にしていた物が動いたり、さまざまな現象が起きたようです。

ほとんどの人は、その現象を素直に受け入れ、慰められたそうです。



震災の少し後に、私の義母も病気で亡くなりました。

49日とお盆、1周忌の付近になって、義母が長年住んでいた家で、不思議な現象が起きました。

義母の家のトイレは、座るとクラシック音楽が流れるものであり、生前とても気に入ってたそうです。

そのトイレから、誰もいないのにもかかわらず、昼夜を問わず頻回に音楽が流れました。

昔の私でしたら、無知なために気味悪がってしまったでしょうが、今は、向こうでの生活にも慣れ、一足先に逝った義父と楽しく過ごしていることを、集まった家族に知らせたかったと確信しています。(ちなみに義母の命日は、義父との結婚記念日です)



言葉に想いが込められている様に、起きている現象にも亡くなった人の想いが込められていると思います。

震災で、小学2年生のお子さんを喪ったお母さんは、時々起こる仮設住宅の天井を踏む音が、亡くなったお子さんの歩き方にそっくりで、その音を家族全員が確認したそうで、「そんなに悲しまないで、と励ましてくれているのかな」と、前向きに受け取ったそうです。

他にも、兄の死亡届を書いた妹の携帯電話に「ありがとう」と兄からメールが入った話や、行方不明のご主人が発見された後、就寝した奥さんの布団に何かが入り込み、「お父さんだ」と直感した話などがあり、ご遺族は肯定的に受け止めたそうです。

被災地では、知られていないだけで、そのような現象が頻発していたと推察されます。

これらの現象を、不気味に感じたり、怖がったりする必要が、どこにあるのでしょうか?

「生きているから心配しないで」あるいは「元気だから安心して」という想いを伝えたい一心で、次元を超えて働きかけているだけです。

この世に遺された人を、気遣う想いで溢れていると思います。



亡くなった人も、月日が経つにつれ、向こうの環境に慣れ、好きなことをしたり、人と交流したりしていると思います。

向こうは想いの世界であり、願望がことごとく実現する世界ですから、楽しくないはずがありません。

しかし、遺してきた人の想いが伝わってきたならば、向こうでの生活を中断し、直ぐにそばに寄り添おうとしていると思います。

遺してきた人を見守るのを最優先して、こちらに留まっている人もいるでしょう。



大切な人を亡くした人の中に、「そばに居てくれている」と、言う人がいます。

はたから見ると、あまりに悲しいので、自分の願望を言って慰めているようにしか見えないかもしれません。

しかし、涙を流しながら、試練を乗り越えてきた分だけ、魂は成長し、研ぎ澄まされ、亡くなった人の気配や想いを、しっかりと感じ取っていると思います。

気のせいではないことが、判っていると考えられます。



悲しみの想いは魂を遠ざけ、親愛の想いは魂を引き付けます。

「いつでも一緒だよ」という気持ちになれば、同じ想いで同調します。

魂は寄り添い、想いは共有され、心が温かくなったように感じられるかもしれません。

さらに、向こうからの想いが伝わって来れば、「そばに居てくれている」と確信すると思います。



もし、想いを感じられないのであれば、何か理由があるのかもしれません。

向こうの人は、遺してきた人の成長にかかわる決断には、干渉できないと言われています。

大切なことは、自分で決めなければいけないのです。

もしかしたら、向こうの人に頼りすぎたり、依存するのを避けて、自立を促すためかもしれません。

そうであれば、遺してきた人の成長を願ってのことであり、愛する想いから、敢えてそうしていると思います。





1本のろうそくを、日向の明るい場所で燈したとしても、存在は判らず、価値は見出せません。

しかし、真っ暗闇の中であれば、光輝き、足元を照らしてくれます。



真実も同じであり、平凡な毎日を送っている人は、存在は判らず、その価値を見出せません。

絶体絶命の窮地に追い込まれた人、現実に打ちのめされた人にとって、明るい光となり、無知の暗闇から解放してくれます。



すべての出来事には、何らかの意味があります。

もし、真実を見出したのであれば、大きな意味を持ったことになります。

なぜなら、真実を見出すことが、この世に生まれてきた目的でもあるからです。

真実に目覚め、それに忠実に生きて、自分(魂)を成長させることができるからです。



津波で亡くなった1万5千を超える人たちは、この世に遺された人と、離れ離れになどなっていません。

まだ行方不明になっている人たちの魂も、大好きな人の元に戻って来ていると思います。

自分の肉体と引き換えに、遺された人の魂が目覚め、成長していく姿を、微笑みながら、そばで見守っていると思います。



参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」

       「信じることで愛することができる」



参考ブログ:「最愛の我が子やご家族をまた愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて~」






2016年2月28日日曜日

過去の出来事を許す



中学時代の同窓会が、何年かに1度あります。

私は幹事のため、クラスメートに電話で連絡を取って出席を促します。

せっかくの機会なので集まらないかと誘っても、別に用事があるわけでもないのに、どうしても出席しない人たちがいます。

その中には、中学時代に嫌な出来事があって、わだかまりを抱えている人もいるのではないかと思います。

中学時代は、子供から大人に変わる、人生で最も不安定で、多感な時期であり、同級生から受けた言葉や行為で、心が傷ついてしまった人は、意外と多いのかもしれません。

いじめのような行為をした本人は、すっかり忘れてしまっていることが多いのですが、された側は深く傷つき、数十年を経っても、忘れられないのかもしれません。

私も、理由も判らずに受けた暴力的な言動に対して、言葉では表現できない想いを抱いた経験があり、その想いが、長い間、居座っていました。

子供の時は、心が無防備であるため、他者から傷つけられ易いと思われます。

しかも、想いを上手く表現できないために、内に想いが溜まってしまい、苦しんでいる人が多いと思われます。

親に泣き言を言ったり、友達に想いをぶつけたり、あるいは部活動などで発散できれば良いのですが、不幸にしてそれが出来ずに、徐々に想いが溜まっていく子供たちもいます。

溜まった想いが限界に達して、外向きではなく、内向きに表現されてしまうと、自らを破壊するという、極めて悲劇的な結末を迎えてしまう恐れがあると思います。



大人であっても、わがままや、貶(おとし)めるような理不尽な言動をされ、自分が傷つけられたり、窮地に立たされたとしたら、強い怒りや憎しみの想いが沸き上がってしまいます。

こちらが傷ついているにもかかわらず、相手が何の反省もせずに、平然としていたのなら、想いは膨れ上がり、居ても立ってもいられない心境になってしまいます。

これで、良いはずがありませんが、誰が何をしてくれるわけではありません。



誰からも責められず、咎められなかったとしても、神の摂理は完ぺきに働いています。

法律からは逃れられても、神の摂理からは逃れられません。

地上の物質に万有引力という物理法則が働いているように、魂には霊的な法則が働いています。

1つ1つの出来事に対して細大漏らさず法則は働いていて、誰かに苦痛を与えた分、周囲に被害を与えた分、相応の償いをしなければいけません。

もし、今生で償われなかったとしても、死後に償うことになります。



生まれてから死ぬまでの、全ての言葉や行い、想いまでも、魂に刻み込まれていきます。

そして、魂に刻み込まれた、恥ずべき行為を消し去るためには、相応の苦痛の経験を通して、霊的な償いをするしかありません。

苦痛の経験は、自分の過ちに気付き、神の摂理に従うためにあります。

よって、怒ったり憎んだりする必要は、本当はないのです。

償う時が、必ずやって来るのでからです。

それでも、怒ったり憎んだりするのならば、自らの成長を妨げて、苦しみを味わうだけです。

破壊的な想いであるために、何一つ良い結果をもたらしません。

因果律の働きにより、苦痛を伴う結果となって、また自分に返って来るだけです。



そうは言っても、この世に生きている限り、怒りの感情から解放されることはありません。

さまざまな成長過程にある人(魂)が、同じ平面上で交わりながら、生きているからです。

思いやる人もいれば、傷つける人もいるのが、この世です。

傷つけられれば、怒りや憎しみが生まれ、仕返しをしてやりたくもなります。

しかし、多くの人と接しながら、たとえ嫌なことがあったとしても、怒りや憎しみの想いを、なるべく生まれないように修練するのが、この世を生きる意味の1つだと思います。

いざ生まれてしまった怒りや憎しみの想いと、どう向き合っていくかも、きわめて重要であり、人生は大きく変わって来ると考えられます。



怒りや憎しみの想いに、捉われて生きている人は、少なくありません。

「もう、そろそろ許してもいいんじゃないか」と、人から言われたとしても、それで許せるようなものではありません。

時が経ち、記憶としては忘れかけたとしても、怒りや憎しみの想いが消えて行く訳ではありません。

いくら時が経過しても、想いが残っている限り、ふとした出来事をきっかけに、蘇って来ると考えられます。

想いは、内で生きているとも言えます。



過去にあった出来事で、今も苦しんでいる人がいます。

そんな人は、過去の出来事に苦しんでいるのではなく、その時に生じた、肉体で表現できなかった想いにより、苦しんでいます。

過去に生じた想いは、肉体的な表現を求めていますが、それが出来ないために、今も苦しんでいます。



目に見えず、人にも知られない想いにも、自然法則が働いています。

それが、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬など、自然法則(愛)に反した想いであると、因果律の働きで、苦しみを感じます。

自分の想いに、自分が苦しむことになります。

苦しみの本体は、怒りであり、憎しみであり、恨みであり、嫉妬です。

 人は、出来事の記憶と、その時に生じた想いを混同しがちですが、いつまでも強く記憶に残っている出来事は、その時に生じた想いの裏打ちがあるはずです。



苦しみから逃れるのには、その対象を許すしかありません。

許すには、自らが寛大にならなければいけませんが、寛大になろうと思っても、なれるはずもありません。

寛大になるには、相応の魂の成長を伴わなければいけません。

人生は、望むと望まざるとにかかわらず、さまざまな出来事に遭遇します。

それらの出来事を、もがきながらも、自分なりに乗り越えて行く過程を通して、魂は少しずつ成長していきます。

職場での仕事や、家庭での仕事も、生きて行く上での義務でもありますが、自分以外の者への奉仕には違いなく、毎日、少しずつ成長させていると思われます。

今を真剣に生きていれば、意識しなくても、魂は成長していると思われます。



小学生の時に難しかった問題が、中学生になると易しく思えるようになります。

解けなかったのは、問題が難しいからではなく、解けるレベルまで、自分が達していなかったからです。

もし、学校でテストがなければ、生徒は大喜びです。

しかし、テストがなければ真剣に勉強をしようとする気は、なかなか起こりません。

テストがあった方が勉強し、多くのことが学べるのは間違いなく、嫌なテストも、学ぶために必要なものです。

人生で起きる出来事も同じであり、避けて通りたいような出来事でも、何かを学ぶために必要であり、魂を成長させるために欠かせないものです。

試験があって勉強しなければ、学力レベルが上がらないように、人生に修練となるような出来事がなければ、魂のレベルは上がりません。

苦しみや悲しみなどの人生経験は、その最中にあっては苦痛以外の何者でもなく、一刻も早く終わりにしたいと思うだけです。

けれども、決して無駄なものではなく、目に見えない魂を大きく成長させているはずです。

そして、魂の成長に伴って、過去にあった出来事が許せる時が、知らない内に訪れると思われます。

怒りや憎しみの想いは、忘れるのではなく、許すことによって解放されます。

それでも許せなければ、想いからは解放されず、もうしばらく苦しみ続けることになります。

しかし、その苦しみも魂の成長をもたらし、いつの日か許せる日が来ます。



身体の成長は止まり、やがて老いていきますが、魂は成長し続けます。

魂の成長とは、人間が成熟し、大人になって行くことなのかもしれません。

とても大きく感じた出来事であっても、時が経ち、振り返ってみると、小さなことだったと感じる時がありますが、それも魂が成長しているためだと思います。

そして、この世で予定された魂の成長が果たされたなら、魂は肉体を脱ぎ捨てる時が来ます。

肉体を脱ぎ捨てる時の魂は、十分な成長が得られているので、この世で許せないことはなくなっているはずです。

死とは、この世の苦しみからの卒業です。

この世に残された人にとっては悲しみですが、苦しみから解放された人にとって、悦び以外の何ものでもありません。



許せなかったことが、許せるようになるのは、時と共に忘れてしまうのではなく、魂が成長するに従い、怒りや憎しみの想いを手放した結果と思われます。

ところが、許せないことがあり、想いが溜まっているにもかかわらず、その想いに気付いていなかったり、無意識に封印してしまっていることがあります。

溜まっている想いにより、自分(魂)のありのままの表現を妨げられています。

本当の想いが、溜まっている想いに、歪められて表現されています。

怒り、憎しみ、恨みなどの秘められた想いがあるとは気付かずに、その後の人生に大きな影響を与えていることがあります。

なぜ、それがいけないのかと言えば、妨げたり、歪められた表現になってしまうと、予定通りに魂を成長させることが出来ないからです。

人や社会のために、奉仕することができないからです。

それは、この世に生まれて来た意味を、大きく失っていることを意味します。



五感に触れない想いに気付くために、因果律の働きにより、心身上の変化として外面に表現されることがあります。

怒りや憎しみの想いは、時として、肉体上に暴力的で攻撃的な病変として表現されます。

現代医学で解明されない病気の多くは、霊的次元に根本原因があり、本体は表現されなかった想いと考えられます。

内にある想いに気付き、それを解放させるための自然法則として、霊的な病気は存在します。

病気の苦痛は、(自然法則に反した)想いを抱いていた償いであり、魂を成長させ、そして目覚めさせるという、大きな意味があります。

病気の苦痛により、魂が成長して、内にある想いが解放されていきます。

魂が目覚めて、自分の過ちに気付くと共に、本来の自分を取り戻していきます。

生命の始源(神)とのつながりは深まり、生命力がふんだんに流れ込み、自然治癒力として働きます。

肉体は、魂を表現する媒体であるため、想いが解放されれば、肉体上の病変も消失して行くはずです。



もし仮に、どうしても許せずに、怒りや憎しみの想いを外に表現してしまったらどうなるのでしょうか?

想いは外に吐き出されるので、苦しみからは解放され、気持ちは楽になるでしょう。

病気にもならないかもしれません。

しかし、その行為は人を傷つけたり、貶めたりするものであり、魂に刻み込まれてしまいます。

想いは魂と同化してしまい、その人の本性となって行きます。

怒りや憎しみを外に吐き出している人は、その想いに染まっているので、日頃の表情や言動に、魂のありさまが反映されていると思われます。

元に戻るためには、より大きな償いが必要になると考えられます。

こちらに非がない理不尽な出来事であっても、怒りや憎しみの表現は、霊的に摂理に反した行いに変わりなく、魂のありさまを変えてしまい、自らの成長を妨げる結果を生み出してしまいます。

決して正当化されず、後に後悔することになります。



許すことは、口で言うほど易しくありません。

自己犠牲を伴うため、とてもつらいものですが、その出来事を乗り越えることであり、魂の成長という報いをもたらします。

魂の成長は、生きる意味そのものなので、許すことはこの世に生きる意味の1つを、成就したことになります。

いつまでも許せずにいるのは、生きる意味を見失っていることになると思われます。



許すとは、成長を妨げている想いを解放させることですが、魂が成長する時(経験)を必要とします。

もし想いを解放させられたなら、許して、乗り越えたことになります。

自分に非がない、理不尽な出来事で生じた想いであるならば、それを解放させる手段はあるはずです。



相手からひどい仕打ちを受けて、憎んでいる話を耳にします。

そんな人が、周りからの思いやりや優しさで満たされた時に、憎しみは霧消して行きます。

それは、魂が愛に満たされ、憎しみの想いが解放されてしまったからです。



内にある想いは、自分で解放させるしかありません。

解放させるには、自分へ向けた愛が必要となります。

自分へ向けた愛とは、自分を好きになるのとは違います。

今の自分が、その時の自分に寄り添い、共感することです。

今の自分が、その時の自分を、慰めてやることです。

大好きな人が傷ついてしまった時にするように、その時の自分にするだけです。



静かに目を閉じて、言葉を失い怒りと憎しみに震えていた、その時の自分を心の中に思い描き、胸の中で抱きしめてやりましょう。

その時の自分に向かって、「つらかったね」、「よく耐えたね」と、ありったけの愛を込めて、声をかけてやりましょう。

今の自分の愛の想いが、その時の自分に伝わり、想いを共有できたなら、怒りや憎しみが涙となって解放されていきます。

涙という肉体的表現で、その時の自分に代わって、解放させてやりましょう。

怒りや憎しみは、形を変えて、外に出すことができるはずです。

涙は、そのためにもあるはずです。

その時の自分を、思いっきり抱きしめ、そして愛して、想いを解放させてやりましょう。



川の流れに逆らって進もうとすると、抵抗があって苦しいものです。

怒りや憎しみの想いは、自然法則に逆らっているので、心がつらくなります。

怒りや憎しみの想いは、魂を成長させないので、生きるのが苦しくなります。



身に起こる全ての出来事は、愛でしか解決できないと思われます。

愛でしか、怒りや憎しみから来る苦しみから解放されないと思われます。

つらくても、自己犠牲(愛)により許して、解放して下さい。

その時の自分を愛して、涙とともに、解放して下さい。



全ての出来事は、不変の自然法則に支配され、その自然法則は憎しみではなく愛する方へと、魂を導いています。

苦しみの中から、真実を学び取り、魂は大きく成長して行きます。








2016年2月16日火曜日

ママへ



これ以上、ママを悲しませたくない
ママの笑った顔が大好きだから
ぼくは、どこにも行ってなんかいない
星になんかなっていない
いつもそばにいるのに、何にも気付いてくれない
みんなが幸せになるために、頑張っているママが大好きだ
悲しい人の気持ちは、悲しいことがあった人じゃなければ判らないよ
ひざの上に座って、お話をするのが好きだったよ、今も時々座っているよ
ぼくのことが大好きだったと知って、すごくうれしかったよ
ぼくもママのことが大好きだ
こっちには、いろいろな人がいて遊んでくれるよ
ぼくはママを悲しませるために生まれて来たんじゃなく、勇気を出すために生まれて来たんだ
ママがパパと仲良くしているのが、一番好きだよ
パパにやさしくしてね、やさしくなければママじゃない
ママがぼくのことを思うと、ぼくに伝わり、
ぼくがママのことを思うと、ママに伝わる
不思議だけど、そうなんだよ
いつも一緒にいることに、早く気付いてね
絶対さみしくないからね
一人じゃないからね
おじさんが伝えてやると言ったから、ぼくは話したよ



参考ページ: 「早世した子供たち」




2016年2月11日木曜日

亡くなった愛する人のために許す



私が54年の過去の人生を振り返り、はらわたが煮えくり返るような経験は、今は思い出せませんが、いくつもあったと思います。

人に裏切られたり、暴力や言葉に傷つけられたりして、その時は、言葉にできない想いが渦巻いていて、しばらくはその想いを引きずっていたと思います。

もう、忘れてしまっているのは、私なりに人生経験をしていく中で、ある程度の成長が得られて、いつの間にかその出来事を許せるようになり、知らない間に、想いが解放されていったためと思っています。

想いが絡まっていない出来事は、過去の記憶の1つになっていくと考えられます。



この世の中は、さまざまな人が、地上という同じ平面上に住んでいます。

それぞれの人が持っている人生観、価値観、道徳、善悪の基準に大きな差があるため、想いを自由に表現してしまうと、他者との行き違いが生じてしまうと思われます。

時に、行き違いから、怒りや憎しみが生まれ、争いに発展してしまうこともあると思います。



一方、後に行く世界(あの世)は、同じ想いを共有している者同士が集まっています。

従って、他者との行き違いはなく、怒りや憎しみの生じる心配のない、平和な世界です。

天国と言われる所以は、そこにあると考えられます。



悲しいことに、この世の中には身勝手な行いにより、愛する人の命を奪われてしまい、極限とも言える怒りや憎しみに、悶え苦しんでいる人もいます。

その心境は、経験した人でなければ理解できるものではなく、「相手を、同じ様にして殺してやりたい」と、怒りや憎しみを露わにしている、ご遺族の姿をニュース等で見かけます。

同じ目に会わせる行為は、許されるはずもありませんので、内から湧き上がる想いを、合法的な手段により実現しようと思ってしまうのかもしれません。



以前、世の中を震撼させる事件が、山口県で起きました。

何者かが部屋に押し入り、そこに住む若いお母さんと赤ちゃんが殺されてしまうという、凄惨なものでした。

後日、容疑者が逮捕されましたが、近くに住む未成年者の男性でした。

裁判が始まるとともに、事件の全容が明らかになり、それは想像を絶するほど、冷酷かつ残忍なものであり、同じ人間のする所業とは、とても思えませんでした。

その内容を知って、犯人に対して憎悪の感情を持つ人は、きっと多かったのではないでしょうか。



被害者のご主人は、あたたかな家庭を一瞬にして奪われて、何が起きたのかしばらく判らなかったと思われます。

その後、現実を認識して絶望し、深い悲しみとともに、激しい後悔、自責の念に襲われてしまったと推察されます。

その想いは、筆舌に尽くしがたいものであったのは、間違いありません。

何の罪もない愛する家族、しかも赤ちゃんの命までも奪ったのであれば、いかなる人であっても、

犯人に対する、強い怒り、憎しみ、恨みが生まれてしまうのは、時間の問題と思われます。



記者会見をする、被害者の夫であり父親でもある、まだ若いご主人の表情や言葉からは、強い怒りや憎しみが表れていましたが、私を含め、見ていた人の多くは、その姿に心を動かされ、同情したと考えられます。

愛する家族がひどい仕打ちを受けて、命を奪われたなら、亡くなった家族に代わって、同じ様に恐怖を味あわせ、復讐してやりたいと願ったとしても、仕方がないと思えてしまいました。



霊的に見て、怒りや憎しみ、恨みの想いは、神の摂理に反するものであるため、因果律の働きで、何かしらの苦痛が生じてしまうと考えられます。

しかし、怒りや憎しみの想いを持つのはいけないと判っていても、この様な出来事が身に起きれば、湧き上がってくる想いを抑えるのは、きわめて困難と思われます。

また、人生はシナリオに沿って展開されて行きますが、このような出来事が、予め決まっていたとは到底考えられず、あくまで少年の意志により起こされたはずであり、亡くなった家族に原因はないのは明白です。



加害者は当時、未成年(18歳1ヶ月)でしたが、家庭裁判ではなく地方裁判所で審議されることになります。

遺影を抱きながら入廷するご主人の姿を、ニュースの映像で何回か見る機会がありましたが、その目の奥に、強い決意のようなものを感じました。

公判は進んで行き、原告側は死刑を求刑しましたが、出された判決は無期懲役でした。

判決に失望したご主人は、刑務所から出てきたら、自らの手で思いを遂げたいとまで、語っていました。

その後、判決を不服とし、高等裁判所に控訴しましたが、棄却されます。

さらに、最高裁判所に上告したところ、上告審弁論が開かれることになりました。

この決定は、高等裁判所の判断が覆され、死刑判決が下される公算が高いことを意味します。

予想された通り、無期懲役の判決は覆され、死刑判決が出されます。



社会正義が果たされた結果であり、極刑により被害者の無念は少しは晴らされただろうと感じた人も多かったと思います。

ご主人は、その時の心境をこう語っています。

「事件からずっと死刑を科すことを考え、悩んだ13年間だった。20歳に満たない少年が人をあやめたとき、もう一度社会でやり直すチャンスを与えることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのかとても悩んだ。きっとこの答えはないのだと思う。絶対的な正義など誰も定義できないと思う。」

ご主人は、どちらに進んで行こうか、とても悩んでいたのです。



私が、同じ立場になったら、どのようになってしまうのか想像もつきません。

もし、同じ年齢でしたら、ご主人よりも過激な行動を取った可能性は十分ありますので、非難するつもりは毛頭ありません。

ただ、肉体はなくなり見えなくなっても、奥さんも、赤ちゃんも生きていて、ずっとご主人の傍にいたこと、そして、自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければならないという、絶対的公正が自然法則を通して保たれているという、一片の知識があったのならと、悔やまれずにはいられません。

これから書くことは、霊的な解釈に基づく、1つの仮説として読んでいただければ幸いです。



奥さんと赤ちゃんを襲った出来事は、あまりにも突然であり、暴漢に対する強い恐怖を感じながら、肉体から魂は引き離され、向こうの世界に移行したと思われます。

死んでいることに気付かずに、家の中でひたすら助けを求めていたのかもしれません。

魂にまで及ぶ、きわめて深刻な出来事であったのは間違いなく、しばらくは錯乱状態が続いたと思われます。

帰って来たご主人に、必死に助けを求めたと考えられますが、惨状を目の当たりにしたご主人は、茫然自失となっています。

部屋にいる人たちに、何をしても気付いてもらえず、自分が空気のような存在となっていることに、
愕然としたのかもしれません。

しばらくすると、傍にいた子供のことが急に心配になり、周囲を見回します。

見知らぬ人に抱かれて、泣いている姿を見つけて、安心して、いつものように胸に抱きます。



あらゆる状況から判断し、自分は死んでしまったと自覚するとともに、子供を守ってやれなかったことを、後悔せずにはいられませんでした。

そして、家の中で放心しているご主人の様子を見て、自分がすぐ傍にいることを、必死に何度も訴えただろうと思います。

しかし、全く気付いてもらえないことに、深く失望したと思われます。



最愛の家族を喪ったご主人は、当然のことながら、深い悲しみ、そして後悔、自責の念に襲われたと思います。

やがて、その想いは少年への強い憎悪へと変化していき、生きる目的が、少年を極刑にして、罪を償わせることになって行きました。

その後も、奥さんは赤ちゃんと一緒に生きていることを、しきりに訴え続けますが、悲しみと憎しみの想いに包まれてしまっているので、容易に近づくことが出来ません。

ご主人の魂に、こちらの想いを送り込む余地などありません。



悲惨な出来事により、無理やり次の世界に移ってしまった奥さんの魂は、当然ながら深く傷つきましたが、多くの人たちに介抱され、徐々に元の健全な状態に回復していき、赤ちゃんと共に、向こうの世界での生活に、順応していったと思われます。

想いの全てが知れ、具現化する次の世界はとても新鮮であり、一足先に来ていた親しい人と一緒に、快適な生活を始めます。

しかし、この世に目をやると、悲しみの涙をとめどもなく流し、後悔と自責の念に捉われ、それが怒りと憎しみに変化していく、愛するご主人の姿が見えます。

自分が先に、こちらに来てしまったことに対して、申し訳ない気持ちで一杯になります。



とにかく、肉体はなくなっても、生きている事実を伝えたいだけです。

しかし、ご主人は、死んだ後にも生があり、跡形もなく消えてしまった人の意識は変わりなく存続し、切実な想いが送られてきているなどとは思いもしません。

残酷にも、想いは無視され続けます。

いなくなってしまったと錯覚しているご主人は、死をもって償わせるという目的に向かって、突き進んで行きます。



向こうの世界から、この世の人の魂(想い)は一目瞭然です。

法廷には、怒りを押し殺すご主人と、自分たちを殺した少年の姿が見えます。

奥さんは、あの時の情景が思い出され、恐怖を感じましたが、同時に、自分を殺めた少年の魂が、ひどく病んでいることに驚きます。

少年の過去の出来事や、その時の想いを知りました。

これまで受けてきたのは怒りばかりであり、愛が絶対的に不足していたことが判ります。



とても優しい人(魂)である奥さんは、少年に対する憎しみの想いは、初めからありませんでした。

事情を知り、哀れみと同情の想いすら持っています。

強い憎しみを抱き続ける、愛するご主人へ、そのことをどうしても伝えたいと思っていました。



犯した罪は、当然のことながら、償わなければいけません。

けれども、死によって、少年の魂は次の世界に移行するだけであり、償いにはならない事実を、どうしても判ってもらいたいと、訴え続けます。

大切なのは、少年に死の恐怖を味あわせて、この世から追放させることではなく、自分の過ちに気付き、深く反省させ、この世において正しい生き方に変えさせることです。

もし、人を殺め、多くの人を苦しめた罪が、この世で償い切れなかったのであれば、あの世に行ってから、償うことになります。

何人も、この自然法則の働きから逃げられないことを、はっきりと奥さんは判っているのですが、ご主人には全く伝わりません。



人為的に、肉体から引き離された病んだ魂(霊)は、次の世界に移っても、病んだままです。

それどころか、社会に殺されたと思い、社会を強く恨んでしまうかもしれません。

肉体を失った病んだ魂は、同様の想いを抱いている、この世の人の魂に引き付けられ、恨みを増幅させていき、悲惨な事件を起こしかねません。

法律として正当化されている死刑は、霊的には国家による殺人行為に他ならず、新たな憎しみや恨みを生み出し、この世の惨劇が繰り返される一因となっているのは、あの世から見れば明白です。



多くの人は、この世に生きた意味を、あの世に行ってから知ることになります。

完全な人間など、この世に誰一人としていません。

どこかしら足りないところ、鍛錬しなければいけないところがあり、さまざまな出来事を通して、学びながら成長していくところに意味があります。

大切なことを学ぶ、学校のような存在だったのが、後になって初めて判ります。



罪を犯したのであれば、法律に従って罰せられます。

それとは別に、人に苦痛を与えたり、悲しませたり、迷惑をかけたのならば、自然法則は厳格に働き、相等の苦痛を味わうことになります。

法律から逃れることは出来ますが、自然法則の働きから逃れることは、何人も出来ません。

犯した罪は、情状酌量も猶予もなく、収支が合うまで必ず霊的に償わなければなりません。

そして、苦痛による償いを通して、大切なことを学んで行きます。



愛を知らないために、魂が病み、罪を犯してしまう人が、世の中には多くいます。

そんな人に対して、愛の大切さを、身を持って教えてやることで、病んだ魂は癒されて行きます。

愛は、人から人へ循環しているものであり、そこから取り残されていただけです。

愛されていないので、愛の意味も知りようがありません。

愛を知らないので、愛する人を喪った悲しみ、引き裂かれた苦しみが、全く判らないのです。

その罪の深さが、判らないのです。

愛を向けてやらなければ、犯した罪の意味や、他者の想いも判らず、苦痛を味わうところまでも行けません。

この世の命(肉体)を奪っても、暴力的な行為により、自分を追放した社会を、ただ憎むだけです。

何の償いにもなりません。

愛されることで、良心が目覚め、自分が犯した罪の深さを知ります。

そこから、悶え苦しみ、深く後悔し、懺悔する日々が始まり、真の償いの人生が始まります。

すべては、愛でしか解決できないのです。



少年の運命は、世論を動かし、司法の判断にまで影響を与える、ご主人の意思に委ねられていました。

とめどもなく襲う悲しみや苦しみを経験していく中で、魂は成長し、どうしても許せなかったことが、許せるようになっていくのかもしれません。

許すことは、自己犠牲による大きな苦痛を伴うため、生易しいものではありません。

しかし、その見返りとして相応の霊的な成長が得られます。

死をもって償わせることが、奥さんや子供へのせめてもの愛と、大きな勘違いをしていたのかもしれません。

ご主人が望んでいたことは、実は、奥さんが最も望んでいないことだったのかもしれません。

望んでいたのは、怒りや憎しみの表現ではなく、許すという、少年へ向けた大きな愛を表現することだったのかもしれません。

大きな愛を表現して、大きく成長したご主人と再会したかったのかもしれません。

固唾を呑んで、あの世から行く末を見守っていたと思われます。



2008年、元少年の死刑は確定します。

目的を達成して安堵するご主人と、向こうで見守っていた家族との間に、埋めようのない大きな溝が生じてしまったのかもしれません。

あたたかく見守っていた家族は、自分たちの愛の届かぬところに行ってしまったと、嘆き悲しんでいたのかもしれません。

長い間、憎しみ、恨むことによって、人は変わってしまうものなのかもしれませんが、誰もそれを責めることは出来ません。

想いを共有できなくなってしまった2つの魂は、お互いを結びつける力を、急速に失っていったのかもしれません。



2009年、ご主人は、それまで支えてくれていた女性と結ばれます。

それは、かつて結ばれていた魂との、永久の別れを意味するのかもしれません。

あの世で見守っていた奥さんと娘さんは、この世でのご主人の幸せを祈りつつ、生まれる前にいた界層へと戻って行きます。