2014年11月13日木曜日

人生にはシナリオがある


先日、「アイーダ」というオペラを初めて観ました。

音楽もさることながら、シナリオや舞台も美しく、とても感動しました。

どのような劇でも、拍手とともに幕が降りてしまえば、お終いになります。



しかし人生は、死という幕が降りても、お終いにはなりません。

生命は魂であるため、次の幕がすぐ始まります。

肉体は死んで骨になっても、本当の自分である魂は、何も変わりはありません。



死んだらお終いと、頑なに信じている人が、まだたくさんいます。

そんな人は、死んだ後にも意識は存在し、生き続けているという現実と、固定観念との間に、大きな矛盾が生じるため、混乱状態となってしまうかもしれません。

生きているうちに、真実を知っておかなければいけないと思います。



この世に生まれてきたのは、大切なことを学び、人間を成長させるためです。

人間の本質は魂であるため、魂を成長させるためと言うことになります。

大切なことを学びながら、魂を成長させるために、さまざまな出来事が、人生で展開されていきます。



仕事が休みの日に、障害者施設に行っています。

多くの障害者は、自分の不具を受け入れて、前向きに、精一杯生きていて、私がいつも元気をもらっています。

その中に、様子がどうしても気になるM君がいます。

M君は先天的な病気(奇形)により、重度の身体障害があります。

食事、排泄、着替え、入浴など日常生活のすべてに、介助が必要です。

寝返りも打てず、蚊にさされてかゆくなっても自分で掻くことはできません。

知的障害は全くなく、会話が普通にできます。

しかし、口にするのは、嘆きや、他の人への不満や批判と、無用な心配ばかりであり、いつも険しい顔をしています。

時折、私に「死にたい」ともらしますが、その裏には「こんな身体で、生きていてもしょうがない」という、思いがあると推察されます。

M君の立場になれないので、M君の気持ちは正直、私には分かりません。

想像力を働かせ、M君の置かれている状況に私が置き換わってみると、変わることのない将来への絶望と、強い現状への不満と、不平等に対する恨みを抱いてしまう様な気がします。

自由にどこへでも行き、好きなことができる私には、半畳ほどのベットの上で、身体を曲げたまま身じろぎもせず、1日、いや一生を過ごすことになるであろうM君の気持ちは、分かるはずもありません。

周りにいる人も、本人にしか気持ちは分からないと思うと、かける言葉を失ってしまい、離れていくためなのか、彼はいつも部屋に一人でいます。

そんな、孤独なM君を見ていると、つい色んなことを考えてしまいます。



この世に生きているすべての人に、あらかじめ決められたシナリオ(青写真)があると言われています。

今生で、大切なことを学び、魂を成長させるために、完全なる叡智により創作されたシナリオです。

生まれる(受胎)前の自分は、シナリオの内容を、十分に承知していたはずです。

いざ生まれてしまうと、肉体が前面に出てきてしまうために、魂の奥にしまわれたシナリオのことなど、すっかり忘れてしまいます。

そのシナリオに逆らわずに生きていれば、予定通りに魂は成長していくと考えられます。

しかし、人には自由意志が与えられているために、予定通りに行くとは限りません。



世の中は、さまざまな次元の摂理(法則)が働いています。

ほとんどの人は、科学的に証明されている、万有引力などの物質的な法則の働きは認めています。

しかし、霊的な法則(摂理)が存在するなど、思ってもいません。

そのために、摂理に反した想いを抱き、行いをしてしまうために、因果律が働いて、その償いのために苦痛を伴う出来事が生じてしまいます。

憎しみの想いからは争いが生じ、愛の想いからは平和が生まれます。

何となくそうなっているのではなく、厳然とした霊的な法則(摂理)が存在して、それが働いた結果です。

人生で起きる出来事も、必ず原因は存在しています。

蒔いた種を、後になって自分が刈り取っているだけです。



しかし、出来事を生じさせた原因を、これまで生きている間に、どうしても見つけることができなければ、その原因は過去世にあるのかもしれません。

M君は、生まれた時から障害があるので、原因は過去世にあります。

生まれながらに抱えている心身の障害や病気、そして何の前触れもなく生じた人生を変えるような出来事の中にも、過去世に原因が存在している場合があると考えられます。

出来事を生じさせた過去世の原因は、魂の奥にしまわれていて、現世では分かりません。

変えられない過去は、知らなくても良いのだと思います。



過酷なシナリオの人生に宿るのは、そのシナリオに耐えうるほど向上した魂か、過去世の償いを一刻も早く済ませたいと望む魂の、どちらかだと思います。

もしかしたら、M君は後者かもしれません。

すべての魂は、向上(成長)するように定められ、向上していくことを希求しています。

しかし、過ちを犯したのならば、相応の償いをしない限り、向上は許されません。

そのシナリオは償いであるとともに、大切なことを学び、同じ過ちを2度と犯さないためにあると考えられます。

M君にとって大切なこととは、「一人では生きていけない」と言うことなのかもしれません。

あるいは、「周りに支えられて生きている」と言うことかもしれません。

そんなことなどどうでもいいと、M君に怒られてしまうかもしれませんが、肉体が不自由であればあるほど、長い時間であればあるほど、深く学ぶことができると思われます。



さまざまな形となって、人生で出来事は生じますが、学ぶべき大切なことは「愛」に集約されると、信じています。



知的障害や言語障害により、想いを表現するのが不自由、あるいは全くできない人がいる中で、M君には自分の想いを、言葉で表現する手段が残されています。

しかし、M君から出る言葉は、いつも変わらず、不平不満ばかりです。

何かをしてもらったら、素直に「ありがとう」と言えば、お互いに気持ちが良いし、何か変わってくると思うよと、話したこともあります。

しかし、M君の想いが変わらない限り、表現する言葉が変わるはずもありません。



先日、M君に会いに部屋に行きましたが、姿が見えません。

職員に、どうしたのかと尋ねたところ、肺炎になり大きな病院に入院していると言われました。

呼吸がしにくくなったために、気管切開をして管を入れたそうです。

身体が不自由な上に、気管切開をされたと聞き、M君はどんな想いでいるのだろうかと思いました。

このまま逝ってしまった方が、楽に決まっていますが、償いが残っているのであれば、引き続き生かされることになると思います。

この経験も、M君にとって何か意味があるはずです。

気管切開により失われたものは、M君の言葉です。

不自由な身体であるために、今までいろいろな人に支えられ、たくさんの愛情を受けてきたにもかかわらず、感謝の思いではなく、不平不満の思いを言葉で表現し続けてしまったため、因果律が働いたのではないかと、考えてしまいました。

つらく、過酷な状況に置かれているとしても、1つ1つの想い、1つ1つの言葉、1つ1つの行いのすべてに、神の摂理が働いていて、冷厳に結果をもたらしているのではないかと、考えたりもしました。



自分の想いを表現できる、唯一の手段である言葉を失ったのは、M君とってとてもつらいことだと思います。

そのつらい経験により、何か気付くことがあり、M君の想いや言葉が変わるのかもしれません。

前のままかもしれません。

病気が治り、管が外された後に、どんな言葉を口にするのか。

想いが変わり、「助けてくれて、ありがとう」と、言って欲しいです。






参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」


































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