2014年6月12日木曜日

想いを表現する



今日は仕事が休みなので、いつもの障害者施設にボランティアに行ってきました。

ボランティアと言っても、話をしたり、一緒に遊んだりするだけです。

それでも、行くと皆さん喜んでくれます。中でも20代の男性であるH君は障害のない片手を上げて、満面の笑顔で迎えてくれますので、こちらが恥ずかしくなります。

彼は、小学6年生の時に、交通事故に会い、生死の境目をさまよいました。

向こうの世界には行かず、こちらに戻ってきました。

ご両親とご家族は、さぞ喜んだことでしょう。

しかし、肉体は大きく傷つき、半身不随、片眼失明、言葉を失い、車いすの生活となりました。知能の発達は止まってしまっている可能性が高く、会話をすることはできません。

脳は損傷を受けて、たとえ言葉を失っても、魂から湧き上がる想いは、健常者と変わりありません。

子供のような瞳を見ていると、その奥に彼の魂をしっかりと感じることができます。

目に見える肉体に障害があっても、目に見えない魂はいたって健全であることが、心やさしい彼と一緒にいると分かります。

そして、想いをうまく表現できないことが、いかにつらいことなのか、伺い知る時があります。

「嫌だ」、「やめて欲しい」、こんな簡単な表現ができないために、どれほどつらい思いをしてきたのか、想像もできません。

そんな彼には、大好きなお父さんがいて、時々週末には家に連れて帰ってくれます。それを何よりの楽しみにしています。

ある日、部屋で二人っきりになる時があり、日頃、感じていることを、思い切って彼に尋ねてみました。

「どうしても伝えたいことがあるでしょう?」

「分かるかもしれないから、良かったら伝えてごらん」と言いました。

想いは言葉を介さずに、魂から魂に伝わるものだと知っていましたので、大きな瞳を見つめながら、彼の想いが伝わってくるのを、静かに待ちました。

すると、「ありがとう」という感謝の想いを感じ取ることができました。そして、お父さんの面影が頭に浮かび上がり、結びつきました。

ためらうことなく「お父さんに、ありがとうと伝えたいの?」と聞いてみたところ、目から大きな涙が溢れてきて、大きくうなずきました。

受け取ったやさしいさや思いやりを、「ありがとう」という言葉で返すのは、礼儀を超えた、魂の素直な表現です。

日々、多くの恩恵を受けているのもかかわらず、感謝の気持ちを言葉にするのを、ついためらってしまう私は、この「ありがとう」の一言がどれほどの重みを持つのかが、あらためて分かりました。

周りから、いろいろな想いや行いを受けるばかりで、表現して返すことができない、彼のくやしさ、もどかしさは、計り知れません。

残念なことに、彼の身体は元には戻りません。言葉で表現するのは、これから先も無理でしょう。

しかし、肉体のない次の世界に行けば、想いのすべてを思う存分、お父さんに伝えることができます。

言葉という、もどかしい、あいまいな媒体は必要とせず、魂から魂に、想いを直接伝えることができます。

肉体が障害となり、伝えられなかった想いは、肉体がなくなることで、間違いなく伝えられるようになります。そんな事も、H君に話をしました。

表現の自由が限られたH君は、これから先も試練が続いていきます。

彼にとってどんな意味を持つのだろうと考えてみましたが、自由に表現できるありがたさを知るためとしか、思いつきません。

失うことでしかわからない大切なことが、あるのだと思います。

大切なものであればあるほど、試練は長く、こんなに厳しくなるのでしょうか。

何十年かして、一足先に向こうに行き、待っているであろう、お父さんと再会して何を伝えるのでしょうか。

言葉にすれば「お父さんがいたから、つらいけど乗り越えられたよ。本当にありがとう」でしょうか。

しかし、ずっと伝えられなかった想いは、「ありがとう」という言葉では表現し尽くせるものではない、強烈な愛の想いであり、魂と魂でしか伝わらないものだと思います。

今日のH君ですが、活動時間にしたボウリングで優勝しました。喜びは、しっかりと満面の笑顔で表現していました。

この世では肉体という、鈍重な媒体が使われているため、想いのすべてを表現することは、到底できません。

しかし、この世を生きているうちは、神から与えられた肉体と言葉で、想いを表現していかなければいけません。

さまざまな経験をするのは、魂を向上させるために避けらませんが、出来事がとてもつらく感じられてしまうと、人は早く忘れようとします。

しかし、頭では忘れたとしても、魂にはしっかりと刻まれていて、想いは生じています。

そして想いが滞ってくると、魂に流れてくる神の愛が堰き止められてしまい、肉体で素直に表現できなくなります。

魂は神の一部であり、神の心である愛を表現するために存在していますので、滞った想いは早く開放してやらなければなりません。

H君のように障害があり、つらい経験をしても想いをうまく表現できない人は、想いが滞り、病気になってしまうのではないかと思いました。

しかし、現実には感染症以外の病気にかかる人は、あまりいないようです。

想いを表現することができない人は病気にはならないで、想いを表現しようとしなかった人が病気になるのかもしれません。

人に伝えにくい想いは、いくらでもありますが、自分なりに精一杯、言葉や表情、あるいは行いで表現していくしかありません。

素直に、ありのままを、正直に。

とても難しいことですが、愛の想いに変えて。

H君を見ていて、そう思いました。


























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