今から10年近く前のことですが、私は数か月の間、歯科医師としての仕事が出来なくなりました。
時間を持て余していたので、心身障害者施設にボランティアに行くことにしました。
仕事に復帰してからも、その施設に通い続け、入所している人、そこで働く人と仲良くなり、たくさんのことを学ぶことが出来ました。
入所者の中に、M君という20代前半の男性がいました。
M君は、脊椎に重度の奇形があり、下半身が不自由であり、車いすで生活をしています。
知的障害はなく、意思の疎通に問題はありません。
M君は、他の人たちと交わることはあまりせず、ベッドの上で一人でテレビを観ていることが多かったです。
他の入所者と団体生活を送る中で、自分の思う通りに行かないことも多いようであり、不平不満を口にしたり、ため息をついて嘆いている姿を良く目にしました。
時に、自暴自棄になり、自分の手に噛みついて、怪我をしていたこともありました。
見るからに、生きているのがつらそうで、深い孤独を感じているようでした。
M君には双子の弟がいました。
一卵性のため、弟さんはM君と見た目はほとんど変わりなく、同じ奇形による障害を持っていました。
いつも不満そうで暗い表情をしているM君とは違い、明るく快活で、わずかに残された指の機能で電動車いすに乗りスポーツを楽しんでいました。
時々、M君の元を訪ねて来て、愚痴を聞いてやり、励ましているようでした。
見た目は瓜二つで、障害も同じなのに、対称的な性格で、全く違う生き方をしているのに、少し驚きました。
こ
しかし、2人を見ていて、ついこんなことを考えてしまいます。
もし、人の性格が脳によって形成され、環境によって変化するのであれば、遺伝的に全く同じで、同じ両親の元で育って来たこの兄弟は、もっと似ていても良いはずではないか?
それなのに、これほどまで性格が違うのは、どうしてなのか?
性格を脳の働きで説明しようとする科学的な試みは、ことごとく頓挫しています。
科学的に証明されていない魂の存在を認めたらどうなるでしょうか?
魂とは思念が生じるところです。
その思念を具象化するのが精神であり、具象化されたものを地上で具現化するのが肉体です。
性格とは精神上に形成された自我の個性であり、自我とは魂から生じた思念を表現する媒体です。
性格は脳によって決まるのではなく、思念が生じている魂によって、大まかに形作られていると言えます。
遺伝的、環境的に同じにもかかわらず、二人の性格が違うのは、宿っている魂が全く別物だからではないでしょうか。
M君の病気(障害)の原因は何なのか?
残念ながら原因は解明されていません。
判っているのは、全ての病気に必ず原因が存在すると言うことです。
インフルエンザが発症したのであれば、その前にウィルスが感染しているはずです。
胃潰瘍になったのであれば、その前に心的ストレスがかかっていたのかもしれません。
M君の病気は遺伝的なもので生まれつきです。
と言うことは、病気の原因は受精以前にあったことになります。
受精以前に原因があるのならば、受精以前にM君は存在していなければなりません。
そんなことはない。
今、生きている世界が全てであり、生まれる前に存在しているはずはないと言う人もいるでしょう。
もしそうであれば、M君の遺伝子に偶発的にイレギュラーが生じたと結論付けるしかなく、原因が解明されることは未来永劫ありません。
全くの不運だったのです。
そんなM君に、自分の身を嘆いたり、不平不満を口にするのを止めなさいと言っても、無理なような気がします。
もしそうであれば、M君の遺伝子に偶発的にイレギュラーが生じたと結論付けるしかなく、原因が解明されることは未来永劫ありません。
全くの不運だったのです。
そんなM君に、自分の身を嘆いたり、不平不満を口にするのを止めなさいと言っても、無理なような気がします。
生まれつきの身体障害の原因は、前世にあることが多いと考えています。
この社会で罪を犯したら、法律によって裁かれて、償わなければいけません。
この宇宙には、永遠不滅の自然法則が働いています。
法律は掻い潜ることが可能ですが、法則は絶対に不可能です。
法則の根幹を成すのは因果律です。
自分のやったことは、必ず自分に返って来ます。
法律は掻い潜ることが可能ですが、法則は絶対に不可能です。
法則の根幹を成すのは因果律です。
自分のやったことは、必ず自分に返って来ます。
自然法則に逆らって過ちを犯したならば、相応の苦痛の経験をして、償わなければいけません。
前世で何かの罪を犯して、その償いとして身体障害が与えられた可能性があります。
あるいは、さらなる成長を志願して、重い障害のある身体に宿ったのかもしれません。
そのどちらかだと思いますが、記憶はなくても、M君はそのことを承知して生まれて来ているはずです。
自然法則(因果律)は、自分の言ったこと、行ったこと全てに働いていて、寸分の狂いもなく結果(現象)をもたらします。
言動だけではなく、自分の想っていることにも働いています。
自分の障害を恨めしく思ったり、健常者を妬んだりすれば、たとえ口に出さなくても苦しみがもたらされます。
M君を苦しめているのは、身体障害そのものではなく、障害や人に対して自然法則に反した想いを抱いているためと考えられます。
障害が自分を苦しめているのではなく、自分の想いが自分を苦しめていることに、まだ気付いていないようです。
同じ障害のある弟さんを見ていると、そのことが良く判ります。
M君にとって身体障害は大きな苦しみをもたらしていますが、弟さんはそうではないようです。
M君の様な想いを抱いていないので、弟さんは苦しまずに済んでいると考えられます。
自然法則に反した行いは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬など、自然法則に反した想いが生じることから始まります。
もし、M君が前世で過ちを犯していたならば、必ずそんな想いが先行していたはずです。
想いを生じさせないようにするのには、言って聞かせても無理であり、自分自身が痛い思いをして、因果律の働きを学ぶしか方法はないようです。
償いとは、苦痛を味わうだけではなく、魂から生じる想いを根本から変えて行くためにあると考えられます。
介助される様子を見ていて、ある思いが強くなって来ました。
M君は日常生活をするのに当たり、常に人の助けが必要です。
自力での移動は困難であり、食事をしたり、排せつするにも介助が必要です。
人の助けがなければ、1週間も生きて行けないでしょう。
一人では生きて行けない、人の助けによって自分は生かされていることを、常に感じながら生きていると言えます。
自然法則に反した利己的な想いが湧き上がりやすい性格は、感謝の気持ちが生まれるような行いを一生涯に渡り受け続けていることにより、自然に変わって来るかもしれません。
弟さんも、健常者が想像もつかないような苦労をしながら生きていますが、それに耐えられる魂であり、日々の苦労はさらなる成長を促していると考えています。
相互扶助が何より大切であり、人から受ける施し(愛)ほど尊いものはないことを、一生をかけて学んでいるのかもしれません。
受けた施しはしっかりと魂に刻み込まれて、来世において、今度は施しをする立場となり、今生はそのための極めて強力な動機付けになっているような気がしています。
困難や障害は、この世界に多くあります。
しかし、それが苦しみとなるかどうかは別次元の問題であり、魂からどの様な想いが生じているかによって決まります。
苦しみは、自分を成長させています。
成長することによって、想いが変わって来ます。
想いが変わることによって、初めて苦しみから解放されます。
この世を生きて行くのは、決して楽なものではありません。
苦しみから解放されるための、永続的な営みであると考えられます。
1つの苦しみから解放された時に、人は何かを学び、成長しているはずです。