2014年8月22日金曜日

過去を忘れ、魂の命ずるままに生きる



ガンの根本原因は、残念ながら未だ不明とされています。

数十年を経ても、その状況はあまり変わっていません。

生命とは何か?

この大きな命題についても、長い年月をかけて究明しているにもかかわらず、答えを見出せていません。

ガンの原因が分からないのも、生命の本質について分からないのも、同じ理由だと考えています。

答えは肉体の中にはなく、魂にあるからです。


生命は魂です。

この事実を否定すれば、先には進めません。

地上の物質は、物理的法則により支配されています。

生命である魂も、霊的法則により支配されています。

これから、魂(霊)について多くの知識がもたらされる、時代になると思われます。

医学も例外ではなく、ガンについても、霊的次元での解明が進んでくるとともに、全く新しい治療法が確立されてくることでしょう。


魂を表現する媒体として肉体があります。

魂は肉体の上位にあり、肉体は魂に従っています。

怒ると顔が赤くなり、悲しいと涙が流れるのは、魂の変化が、肉体の変化として表されているからです。

魂の変化が、肉体上に病気として表れることがあります。

魂のありさまの変化は目に見えないので気付きませんが、肉体上に目に見えるガンとして反映されれば気付きます。

肉体に表れた病巣は、結果を見ているのであって、根本原因は魂にあると思われます。

従って、目に見えるガンをいくら研究しても、根本的な治療法は見つけられないことになります。


魂からは、絶えずさまざまな想いが生まれます。

魂から生まれた想いは、精神を経由し、言葉や表情、行動など、肉体で表現されています。

言葉や表情、行動で表さず、想っただけでも、神の法則(摂理)は働きます。

生きていると、うれしいことばかりではなく、納得できないこと、理不尽なことにも遭遇し、さまざまな想いが生まれてしまいます。

自分に非がなくても、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが生まれれば、因果律が働き、相応の結果をもたらします。

時に、怒り、憎しみ、恨みの想いは、外に向かって表現されます。

はげしく相手を責め立てたり、暴力をふるったり、いやがらせをしたりして、表現されることがあります。

その行いは、摂理に反しているために、償いが生じます。

相手から、さらに責められて、つらい思いをしたり、周りから非難され、孤立するかもしれません。

もし、人を傷つけたり、不幸にさせたりすると、同等のつらい想いをして、負債(カルマ)を返さなければいけません。

この世で償うことがなかったとしても、時効はなく、その先で必ず償わなければいけません。

心の奥底にある魂は、そのことが分かっているために、多くの人は怒りを表現せずに、我慢をするのだと思います。

言いたくても言えない、泣きたくても泣けない、怒りをぶつけたくてもぶつけられないと、その想いはうっ積していきます。

人は、うっ積した想いを、別の形で解放しようとします。

おしゃべりをしたり、運動をしたり、趣味に没頭したり、あるいは大きな声で唄を歌ったり、食べたり、飲んだりして、内にある想いを、肉体で表現し、解放しています。

ストレス解消に当たります。

しかし、想いがとても強かったり、うまく解放できなかったりすると、想いはうっ積したままとなります。

怒りの想いがうっ積している状態で、人にやさしくしたり、許したりすることは、難しいと思われます。

怒らなくてもいいのに、怒ってしまったり、言わなくてもいいことを、つい言ってしまうことがあります。

些細なことが許せなくなり、人を責めてしまったりします。

その対象は周りだけでなく、自分にも向けられます。

自分に不満を覚えたり、許せなくなります。

自分でも、どうしてなのか分からずに、感情的になってしまうのは、怒り、憎しみ、恨みなどの想いが、うっ積しているためだと考えられます。

うっ積した想いのために、本来の自分とはかけ離れた、表現(言動)をしてしまいます。

人は、愛を肉体で表現するために、この世を生きています。

怒りなどの想いが溜まっていると、この世を生きている目的を十分に果たせなくなってしまいます。


通常は、怒りなどの想いが湧き上がったとしても、時とともに消えてしまうことが多いと思われます。

しかし、怒りがとても強ければ、消えずに想いが留まってしまうことがあります。

長い間、想いが留まり続けてしまうと、その状態が当たり前となってしまいます。

本来の自分と違うのに、気付かなくなります。

周りから、人が変わってしまったと、言われてしまうかもしれません。

無用な過ちを犯して、魂に負債(カルマ)を抱えてしまっては大変です。

この状態は、魂の向上にとって、想像する以上に、深刻な問題だと考えられます。

いくら人から言われたとしても、変わってしまった自分を本来の姿に戻すのは無理でしょう。

自分を変えていくのは、自分しかありません。

強制的に変えていく、1つの手段として病気があります。

想いの根が深ければ深いほど、大きければ大きいほど、手放すのは容易ではありません。

その想いを手放すために、深刻な病気が因果律により生じると思われます。

根が深い想いを生じさせた、忘れられない出来事であっても、ガンになればこだわっていられなくなります。

想いを生じさせるような生き方や考え方が、どんなに正しいと思っていても、ガンになれば、見つめ直します。

そんな過去の出来事よりも、生命の方が大切です。

生き方や考え方へのこだわりよりも、生命が先です。

今まさに海で溺れかかっている人が、過去のことを思いだすでしょうか。

溺れて苦しい時に、生き方や考え方にこだわるでしょうか。

そんなことはどうでも良く、現状から抜け出したいだけです。

パニックになり、苦しいと、何かにすがりたくなります。

しかし、すがったものが適切でないと、また沈んでしまいます。

恐怖や不安を鎮め、冷静になり、からだの緊張を解けば、からだは自然に浮いてくるのかもしれません。

人間のからだは、浮くようにできているからです。


過去の出来事から生じた、想いを手放せば、本来の自分に戻れると思います。

想いを手放し、本来の自分に戻るためには、最も大切なものに気付かなければいけません。

愛だけが、出来事を許し、想いを手放すことができます。

ガンは想いの出口であり、本来の姿に戻るためにあると思います。


摂理に反した想いにより、因果律が働き、病気が発病します。

病気の苦痛は耐え難いものですが、摂理に反した償いであると同時に、魂を向上させて、愛の大切さに気付き、許すためにあります。

出来事が許されれば、本来の姿に戻り、愛を素直に表現できるようになります。

生きる目的は、愛を表現して、魂を向上させるためにあります。

よって、肉体を死に至らせる病ではなく、魂を目覚めさせ、この世で生きる目的を果たすために生じた病だと言えます。

すべての想いをことごとく吹き飛ばし、洗い流し、より良い生き方、考え方に変えていく、台風なのかもしれません。

それなのに、怖れて、敵対し、からだから消すことだけを考えてしまいます。

無秩序に増殖を繰り返す、得体の知れないものと考えてしまうと、怖がってしまうのも無理のないことです。

恐怖を克服するためには、正しい知識が必要だと思われます。


神の摂理は完璧であり、すべてに意味があり、間違いなく答えが用意されていると思います。

病から解放された人は、その意味を知り、答えを見出した人だと考えられます。


過去を忘れ、魂の命ずるままに生きる。

とても難しいことですが、そんな生き方をするために、この病気はあるのかもしれません。





0 件のコメント: