人は、なぜ生きているのか?
何となく生きているのではなく、明確な目的があります。
それは、「魂を成長させるため」です。
魂を成長させるために、どうすればいいのか?
この世の欲に流されずに生きる。
人や社会のために奉仕する。
訪れる大小の困難や障害を乗り越える。
シルバーバーチの霊訓にも繰り返し書かれていますが、この3つを、忘れずに生きていけば、魂は成長していき、生きがいのある人生が送れます。
口で言うのは簡単ですが、その1つ1つに、痛みや、苦しみ、葛藤などが伴い、不断の努力を強いられます。
人それぞれ、この世で果たすべきこと、学ぶことは違います。
この世で果たすべきことを果たすため、そして大切なことを学ぶために、その人にとって、最適な時に、最適な形で、人生の出来事が、因果律によりもたらされると、信じています。
その出来事は、時に、困難、挫折、障害、病気と言った、不幸と言われるような形を取り、魂にまで響いて呼び醒まします。
しかし、その苦難の経験があって、真の喜び、真の自由、真の愛、そして生きる目的を知ることができたとしたら、決して不幸な出来事ではないはずです。
世の中には、自らの障害を克服しながら、懸命に生きている人がいます。
休みの日に行っている、障害者施設に、私より少し年上の男性の職員さんがいます。
その方は、極度の弱視で、目の数センチ前まで近づけなければ、文字を読むことはできません。
書類に目を通すのも、顔に触れるほど近づけて1文字1文字を追いかけるようにして、見ています。
目が不自由なため、声や音などの聴覚と、長年の経験を頼りに、状況を把握して、とても器用に仕事をされています。
その方が障害者であるのは、誰の目にもはっきりしています。
何をするにも、障害が立ちはだかりますが、健常者の職員さんに比べて、仕事の質や量に遜色があるかと言えば、違います。
むしろ、他の職員さんよりも、活き活きと、てきぱきと介護の仕事をされているように見えます。
何よりも、うれしくなるのは、施設にいる障害者の人たちに、とてもやさしく接しているからです。
障害者の大変さを、誰よりも理解されているように感じます。
時々、叱るときもありますが、言葉の端々に、愛情がこもっています。
オカリナを独学でマスターし、皆さんの前で吹いて、楽しませています。
十八番(おはこ)は、テレビの水戸黄門のテーマ曲で、その音色に、何とも言えないあたたかさや、やさしさを感じます。
やさしい言葉、あたたかな表情、そしてオカリナの音色にも、魂の様子が表れていると思います。
その職員さんは、自分の障害を乗り越えながら、障害者の介護という大変な仕事を、数十年に渡って、愛情を込めてしてきているため、魂が格段に成長されていると思います。
笑顔を絶やさず、障害のある人を介護されている姿を見ていると、「与えられた仕事を一生懸命することが、魂の大きな成長につながる」と、思えてなりません。
私もそうですが、大部分の人は、仕事をしなければ、食べていけません。
報酬(お金)を得るために、仕事をしています。
生きていくために、働くのは大原則です。
この世では、魂の道具である肉体を、養っていくためには、お金を手に入れなければならず、人や社会のために働く仕事をしなければ手に入りません。
仕事は多種多様ですが、どれも人や社会のための労働であり、奉仕です。
よって、この世では、肉体があるがゆえに、何らかの奉仕をしないと、生きていけません。
進化(霊性)の最も低い段階にあると言われる地上では、神の摂理として仕事が生まれて、生涯に渡って奉仕をせざるを得ないのかもしれません。
しかし、人は働くことに、生きがいや喜びを感じるのも事実です。
仕事を通して、誰かのために役に立つのは、神の摂理に一致し、魂の成長につながっているために、喜びや生きがいをを感じるのだと思います。
死んだ後に行く霊界は、肉体がすでにないため、食べるために仕事をする必要はなく、お互いがお互いのために働く、純粋な奉仕の世界です。
この世の仕事は、霊界に順応するための予行練習であり、奉仕の精神に目覚めるためにあるのかもしれません。
食べていくため、生活していくために働いているのは間違いありませんが、実像は、人や社会のために、何らかの形で奉仕し、自分(魂)を成長させているのであり、同時に、全体のために寄与して、進化につながっているのだと思います。
生活をするためだけに、日々の仕事があると考えると、とても虚しくなります。
肉体が死んだ後の世界でも、次の世界で、人(魂)と人(魂)の係わり合いは続きます。
人のために自分を役に立てる機会が与えられ、それにより魂が成長していくさまが、はっきりと分かるのが霊界だと思います。
奉仕は、愛の表現に他ならず、神の摂理に一致しているために、魂は大きな喜びを感じます。
この世は、肉体を持つがゆえに、奉仕だけの生活はままなりません。
生きていくため仕事をして、金銭的報酬を受け取りますが、同時に、人や社会への奉仕活動として、目に見えない霊的報酬も受け取っていると思われます。
毎日、会社のため、家族のため、自分の欲求を抑え、汗をかきながら一生懸命働いている人は、正道を歩んでいると思います。
家庭での、家事あるいは介護は、金銭的な報酬がないばかりか、休みの日もありません。
人知れず、繰り返される、その行為の1つ1つは奉仕活動であり、霊的報酬を受け取り、魂を着実に成長させていると思います。
自分に与えられた仕事を、精一杯やり遂げるのは、この世で魂を成長させるための、大切な手段になっていると思います。
仕事をやり遂げた時には、満足感があり、途中で投げ出すと、とても嫌な気持ちになるのは、魂の成長にかかわっているからではないでしょうか。
肉体を超えた存在である魂が、働く喜びを感じているのだと思います。
霊的真理を伝えるのは、最も大切なことであり、すべてに優先されなければいけないと思っています。
知識には責任が伴い、義務が生まれます。
恐いほどの、重責を感じます。
必要としている人、受け入れる時期が来た人に、霊的真理を確実に手渡したいと、常に願っています。
しかし、日々の修養を怠ると、霊的真理の崇高さや、使命の重大さを忘れてしまいがちになります。
1番の大敵は、謙虚さを失い、傲慢になってしまうことです。
常に、気を付けなければいけません。
私にとって仕事は、代えがたい日々の修養になっていると思います。
仕事を円滑にするためには、感情を抑えて、寛容にならなければ務まらないからです。
謙虚さを失えば、仕事の上達が止まるからです。
困難や障害は付きものであり、それ乗り越えなければ、完成されないからです。
日々の仕事を、精一杯して、喜ばれるのが、人生の貴重な喜びとなっています。
そして、少しずつですが、魂の成長につながっていると考えています。
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