中学校の同窓会の打ち合わせ会に出席しました。
卒業して40数年ぶりに会い、すっかり変わり誰だか分からない人もいましたが、何故かしゃべり方だけは当時のままの人が多かったです。
生意気だった級友も、年月を経て丸くなっていました。
シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。
「我々は皆人間的存在です。と言うことは内部に不完全であるが故の欠点を宿していると言うことです。もし完全であればあなたは地上に存在せず、私は霊界に存在しないでしょう。」
私たちは、自分を成長させるために地上に生まれて来ていますが、それは霊的な欠点を正すためと言えるのかもしれません。
欠点なのか?それとも個性なのか?
霊的法則によって判別されると思います。
例えば、わがままな人がいたとします。
わがままは利己的であり、神の心(法則)に反しているので、個性ではなく欠点です。
従って、正すべきものと言えます。
子供の時、自我は未発達です。
持って生まれた性分が露わになり、わがままな人(魂)は、わがままなまま自己表現を始めます。
わがままな自己表現をすると、周りの子供たちから、嫌われたり、避けられたりします。
無視されたり1人ぼっちになるの誰でも嫌で、仲良くしたいです。
いけないことに気付くと、それを正そうとします。
不寛容であることも、霊的な欠点です。
人のミスを許せない不寛容な人は、因果律の働きにより、自分がミスをした時に許してもらえなくなります。
痛い思いをすることで、良くないことに気付いて、正す人もいるでしょう。
地上では、自分の欠点が表に出ると、周りの人の良心(神)が反応して、因果律の働きにより苦痛を伴う結果が返って来ると考えられます。
表に出でなければ良いと言うわけではありません。
不寛容さから生じた怒りなどの感情が内に溜まり続けると、心身に変化が生じて病気になることがあると考えられます。
病気の苦痛により魂が目覚めて、それまでの生き方を正す人もいるでしょう。
臆病なのも、個性ではなく欠点です。
その多くは身の可愛さから出るものであり、利己性を帯びています。
臆病になり現実から逃げてしまうと、成長する機会を逃してしまう可能性があります。
「愛が倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。どちらも同じ棒の両端を表したものです。(中略)臆病を勇気に、憎しみを愛に変えることが出来るのです。」とシルバーバーチは言っています。
欠点が表現されても、地上ならではの要因によって、苦痛を伴う経験をしないで済む場合があります。
社長がわがままな言動をしても、それを咎める社員は少ないでしょう。
絶対的な力を持っていれば、自分に返って来る結果(苦痛)を封じ込めることができます。
権力や地位や富を持つことによって、欠点が増長して行く可能性があります。
欠点が正されないこともあります。
自我が発達して来ると、自分の欠点を意識して隠そうとする人もいます。
欠点を隠してしまえば、苦痛を伴う経験することはありませんが、正すことも難しくなります。
良くも悪くも、ありのままの姿で生きるのは、自分を変えるために必要なことなのかもしれません。
自分の欠点が表現されて、苦痛を伴う結果が返って来たとしても、エゴが強いとそれを受け入れようとしません。
適当な言い訳や理由を考えて、正当化しようとします。
どんなに正当化しても、神の法則は誤魔化せません。
残るのは、変わることができなかったという事実です。
そのいきさつは魂に刻まれ、人生を振り返った時に思い出されます。
あの時、素直に受け入れていればと、後悔することになります。
自分の欠点を指摘されると、怒り出す人もいるでしょう。
怒りが生じると、変わろうとする意志(力)が削がれてしまいます。
正面から受け止めて、どうあるべきかを、自分自身に問い質さなければいけません。
自我を働きを鎮め、内なる声に従うことで、私たちは望ましい方向に変わって行きます。
内なる声に従う時に、怖れや不安が生じることが多いです。
神(法則の働き)により、良きに計られると強く信じて進んで行くしかありません。
他者には自分が望むように変わってもらいたいのに、自分は変わりたくないという身勝手な生き物が人間です。
変わりたくない人間を強制的に変えるものが、地上での経験であり、それに伴う苦痛です。
生きて行く上で、苦痛が生じているのならば、どこかに変わらなければいけないところがあるのかもしれません。
変わることができれば、苦痛が生じている意味はなくなり、解放されるはずです。
4 件のコメント:
とても共感するブログ記事でした。
私も20代の頃変われない時があって、それを指摘されると反発していました。
我が身可愛さに、欠点を個性と思い込んでいたのです。
今思い出しても恥ずかしい。
唯一救われるのは、指摘してきた知人を加害者扱いすることはなかった点だけでしょうか。
辛いことを経験してきたから40代で自分を変えることができ、なんとか周りに目が向けられるようになり良かったです。
まだ変えたいところはありますが。
個性と欠点は、一緒にしてはなりませんね。つくづくそう思います。
masa様
こんばんは。
外出しており、返信が遅くなり申し訳ありません。
更新したブログの内容に、共感したと言っていただき、うれしいです。
欠点を指摘する人がいなかった、あるいは聞く耳を持たなかったために、大変な状況に追い込まれてしまっている人がマスコミを賑わしています。
良い方向に自分を変えてくれる、かけがえのない人なのに、エゴの働きにより、そう思えません。
つらい経験をしなければ、霊的真理を受け入れることも、変わることもできなかったのは私も同じです。
できれば会いたくない人、経験したくない出来事ほど、霊的成長にとって価値があると考えられます。
重病の方に「苦しんでいるのはあなたの悪い行いがかえってきたからです」とはとても言えませんがそのような方はどうやって慰めたら良いのですか?
匿名様
こんばんは。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
病気で苦しんでいる人を、傍で見ているのはつらいですね。
重病の方が苦しんでいるのは、悪い行いが返って来た(カルマ)からとは限りません。
病を通して学び成長することを、自らが志願している場合もあります。
どちらにせよ、神の摂理の働きによって病気が生じています。
神の心は愛です。
苦しませるだけ苦しませて終わりということは、決してありません。
たとえ苦しんだ末に亡くなったとしても、必ず良きに計らわれています。
シルバーバーチはこう言っています。
「病に苦しむ人を見て気の毒に思い胸に同情心が湧いてくるのは無理もないことであり、私もそれを咎めるつもりは毛頭ありません。しかし、その時のあなたは苦しみの一面のみを見ておられ、その人が苦しみの中で過ごす時間は、その代償として得られる喜びに較べれば実に些細ささいなものであるということまでは理解が及びません。」
肉体は悪い方向に向かっていたとしても、魂は健かなる方向へと向かっています。
何かしら原因があって病気が生じるので、その原因がなくなれば必ず治るはずです。
つらい状況であっても、希望を持ち続けて下さい。
私ならそんな言葉をかけるかもしれません。
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