人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2013年12月28日土曜日
すべては魂の向上のため
赤ちゃんのつぶらな瞳を見ていると、魂そのものであり、神の一部であるということを、感じることがあります。
役目を果たすために、どこか遠いところから、この世に降りてきて、生まれた直後に泣き叫んでいるのは、もちろん呼吸をするためなのですが、この先の大変さを魂が分かっているからと思えてしまうことがあります。
子供にとって親は必要な存在であり、強者です。
しかし、親が上で子供は下であり、親の意見に子供は従わなければいけない、などということは大間違いで、1つの魂として見れば、対等の関係です。
肉体は遺伝しますので、容姿は似通ったところがありますが、魂は別次元のものであり遺伝はなく、反映している心、性格は親子でも肉体みたいに似ていません。
数十年、早くこの世に生まれてきただけであり、魂に年齢は関係はなく、親よりも魂が向上している子供もたくさんいると思います。
幼い子供が生まれながらの難病で苦しみ、治療のかいもなく亡くなってしまうことがあります。
小さいながらも親や周囲の人を気遣い、決して弱音をはかない子がいて、周囲の人を驚かさせます。
そんな子は、この世を長く生きて大切なこと(摂理)を学ぶ必要はなく、自分に足りなかった部分だけを、病気という苦難を通して学びとり、それが終わると早々と、次の世界に行ってしまうのかもしれません。
幼いのは肉体だけであり、魂は向上していて、成熟した大人なのかなと思うことがあります。
子供に先立たれた親は、深い悲しみを味わうことになりますが、その耐え難い苦痛が、魂を向上させることにつながります。
つまり、短い生涯であっても、その親の子供として、病気を抱えて生まれてきたのは、それぞれの魂の向上を成就させるために、必要だったということになります。
魂は、自らに足りないものを自覚して、その部分を補うために、適切な試練が得られる、環境を選んで生まれてきます。
災難や不幸と思われることは、摂理に背いた想いや行いをして因果律が働き、その結果として表れたものもありますが、魂の向上させるために、あらかじめその人に計画されている場合も多いのではないでしょうか。
休みの日で時間があれば障害者施設にボランティアに行っています。
ボランティアと言っても、遊び相手や話し相手になっているだけなのですが、良く来たと、笑顔で歓迎してもらえると、うれしくなります。
そこでは足が不自由で車いすの人、身体は健康だけど知的障害がある人、身体が不自由で知的障害がある人など、様々な種類や程度の異なる障害を抱えた人達が共に生活しています。
一人ひとりの意見は尊重されますが、集団生活なのでわがままや規律を乱す行動は許されません。
そんな中で、自分の置かれている立場を十分に理解して、残された能力を活かしながら、精一杯生きてるのを見ていると、こちらが元気をもらいます。
抱えている障害は、生活していく上で大きな支障となり、健常者にはわからない大きな苦痛となっていると思います。
中には、障害が重度で、食事をするのも、ベットで寝返りをするのも、着替えるのも介助が必要で、常に人の手を借りなければ、生きていけない人もいます。
ベッドに横たわったまま、身体を動かすことも、話すこともできず、一生を終えるであろう人を見て、以前の私でしたら、かわいそうにと同情したり、生まれてきた意味があったのだろうかと思ったことでしょう。
しかし、霊的真理を知った今は、肉体で魂の表現がほとんどできないという、最も過酷とも思われる試練は、大切なこと(摂理)を学び魂の向上をさせるために、その人に必要だったのかもしれない、あるいは前世での罪の償いを今、果たしているのかもしれないと、考えるようになりました。
どちらにしても、その人の魂の向上にとって不可欠なものであり、目的があって不自由な身体を選んでこの世に生まれてきたことになります。
一人では生きていけないこと、人に助けてもらうことを通して、愛がもっとも最も大切であることを、心身の障害を通して学んでいるのかもしれません。
もしかしたら、全人生をかけての苦難に耐えられるほど、すでに魂が向上している人であり、さらなる向上を得るためなのかもしれませんので、安易な同情は慎まなければいけないと感じています。
すべてのことに無駄はなく、意味を持っている、と言われても、この世では目に映るもの、耳に聞こえるものが、すべてに思えてしまうため、目に見えない霊的法則が働いていることは、どうしても分かりにくくなってしまいます。
高い次元から見ると、すべてのことは神の法則である因果律に従っていて、その叡智により計算しつくされた上で、絶妙の時期に、かかわる人すべての魂の向上のために、最適な形で出来事が生じていることが、手に取るように分かるため、シルバーバーチは神の完璧な叡智には驚嘆させられる、と言っているのかもしれません。
私を含めて、魂を表現をする自由を与えられた人は、存分に愛を表現していくべきであり、この世ではそのための手段として肉体が与えられたのだと思います。
参考ページ: 「早世した子供たち」
2013年12月25日水曜日
生きることは愛すること
私には伝えたいことがあります。
それは「シルバーバーチの霊訓」という本の存在であり、その中に書かれている数多くの真理です。
私にとって当たり前になってしまいましたが、苦難を経験して、魂に受け入れる準備ができた人にとって、その出会いは人生に一大革命をもたらします。
こうしてブログを書いているのも、霊的真理を受け入れる時期が来た人が、最短で「シルバーバーチの霊訓」にたどり着いて欲しいためであり、時期はまだでも、苦しみの最中にある人にとって、霊的真理が大きな安息となると考えているからです。
数ある中でも、「生命は霊(魂)」ということ、「霊(魂)は神の一部」であるということ、そして「神は愛」、という真理は、きわめて重要と考えています。
「死」については、実際に死んでみないと分からないと考えていましたが、幸いにして明白なものとなり、心の安らぎが得られました。
死は生の一部であり、存在がなくなってしまうことではありません。
存在の本質である生命は魂であり、表現するものが肉体です。
死とは、表現する媒体が変わるということです。
次の世界では、肉体はなくなるため、自由に魂の表現ができるようになります。
客観的なことを言葉で表現することは比較的簡単ですが、心で想ったことは主観的であり、表現するのはとても難しいです。
つい先日、まだ薄暗い空に、朝日を浴びて光り輝いたピンク色(ルノワールの肌色?)のひつじ雲を見ました。
見て感じたことを言葉に表すと、「美しい」とか「きれい」ということになりますが、それでは表し足りません。
美しいという言葉は、あまりにも大まかで広すぎるのです。
また、ある人が美しいと感じるものでも、別の人にはそう感じていないこともあります。
赤色という言葉から思い浮かべるのを、ある人はトマトの赤だったり、ある人は赤鉛筆の赤かもしれません。
と言うように、言葉で自分の思いのすべてを、正確に他の人に伝えるのは無理です。
次の世界は肉体のない世界です。
自分の想いのすべては、言葉ではなく思念として正確に伝えることができます。
もどかしく、わずらわしい言語という記号は必要ありません。
今までの経験から私は、次の世界では魂で感じたことはバイブレーションとして伝わり、バイブレーションを受け取った相手の魂は同じ感覚となるため、想いを共有できる、と思っています。
音叉と同じく、同じ波長となり魂が共鳴し合うと言うことです。
次の世界では、食事の心配をすることもありません。
養う肉体がないのですから、食べる必要がないわけです。
お金の心配をすることもありません。
服を買ったり、家を買ったりすることはなく、もし欲しければ直ちに具現化しますので、買い求める必要がないからです。
信じられないかもしれませんが、夢みたいな世界が、次に待っています。
もし、次の世界が、そんなにすばらしい世界であるならば、なぜ、この世が存在し、今、生きているのかと思うかもしれません。
生きるためには、お金が必要です。そのためには働かなければいけません。
嫌いな人と会って、話をしなければいけないこともあります。
さらに戦争が世界各地で今も起こっていて、人が人を傷つけています。
苦労をしたり、苦痛を味わったり、見たくないものを見たり、聞きたくもないことを聞いたり、望むことばかりではありません。
この世界が次の世界と大きく違うのは、両極性の世界であると言うことです。
「シルバーバーチの霊訓」に詳しく書いてありますが、愛と喜びに対して憎しみと悲しみ、平和と調和に対して戦争と混沌、すべて対になっているのが、この世です。
もし「神は愛」というならば、神の創った世界に戦争など起こるはずがない、と考えてもいいはずです。
戦争は摂理に背いた考えや行為により引き起こされ、国土は破壊され、人は傷つくことになります。
そして悲惨な光景を目の当たりにし、苦痛を感じながら、愚かさに気付き、平和の大切さを知ることになります。
戦争は他者(国)を愛する気持ちがあれば起こりません。
平和のために「愛」が必要不可欠なことを知ります。
大切なこと(摂理)をより際立たせ、気付かせるために、両極性であるこの世を、神が用意したのです。
生きるということは、魂を向上させる道を進んで行くことです。
霊性を高め、神に向かって1歩1歩近づいていく道です。
この世では魂の表現を肉体で行います。
肉体は生存するために、いろいろな要求をしてきます。
食べたい、寝たい、休みたいなど、動物的、本能的な要求です。
もし、肉体がすべてであれば、自己の生存のみを追い求める、殺伐とした世界となるはずです。
しかし、この世はそのような世界にはなっていません。そして誰も望んではいません。
それは、「生命は魂」であり「魂は神の一部」であるため、人は神の愛を表現しようとするからです。
人のために何かをしたい、社会のために奉仕をしたいという欲求は、生まれた後に身に付けるのではなく、もともと魂に内在する欲求であり、神の愛を表現しようとするものです。
しかし、愛を表現するためには、常に自己(肉体)の要求に打ち勝たなければならず、自己犠牲が必要となるため、魂の強さが求められます。
肉体など初めからなければ、愛を存分に表現できるのではないかと思われますが、魂が肉体という重いよろいをまとっているのは、負荷がかかり苦しむ中で、魂は鍛えられ、強くなっていくからです。
アウシュビッツの強制収容所では、1日の食べ物はパン1切れだったそうです。
そのため収容されたすべての人が、ひどく飢えていたと思われます。
そんな中で、その貴重な1切れのパンを子供に渡した人がいたそうです。
自己(肉体)の要求に打ち克ち、この世で最高の愛を表現していると思いました。
そこまでできなくても、会社帰りで疲れていても、目の前にお年寄りがいたら席を譲る人はいます。
休みの日に被災地に赴き、困っている人のためにボランティアをする人もいます。
それぞれが自己への要求を犠牲にして、人のため、社会のために行動しています。
この世を生きているうちに、そんなことがいく度となく繰り返され、たとえ1つ1つの想いや行いは小さくても、積み重なれば大きなものとなり、より高い愛、より強い愛を表現できるようになっていくのではないでしょうか。
もし人生が喜びばかりであったならば、大切なことを学ぶことは出来ません。
災難とも思える、悲しみや苦しみの経験を通して、最も大切なのは愛であることに気付くとともに、魂が向上していきます。
そして苦痛を味わっている人に対して、愛を表現することができるようになります。
「生命が魂」であり、「魂は神の一部」ということから、「生命は神のもの」ということになります。
そして「神は愛」ということをつなげていくと、「生きることは、愛すること」ということになります。
2013年12月20日金曜日
心のしこり
世の中で起こることすべてに、原因があります。
私が、保険医の取り消しという処分を受けたのも、不正な行為をしたという明確な原因がありました。
交通事故でも、スピードの出しすぎ、注意力の散漫、あるいは寝不足など、何らかの原因が存在して起こります。
最近、春や秋が短くなってきたのを感じていますが、これも地球温暖化の現れと考えられ、人間が出すCO2が原因と推察されます。
一見、偶発的、突発的と思われる事象にも、必ず原因が存在します。
病気も、何らかの原因があって生じたのは間違いのないことです。
一見、関係のないこと事象が原因となって、結果として表に現れてくることがあります。
ある女性に虫歯ができて、私の歯科医院を訪れたとします。
虫歯を削って取り、そこに樹脂を詰めて治療が終わります。
しばらくして別の歯に虫歯ができて、痛くなりまた来ます。
再び治療をします。
また別の歯に虫歯ができて来ます。
これは普通ではないと考えて、患者さんに「最近、甘いものをたくさん食べていませんか?」と尋ねます。
すると「食事はあまり食べないで、お菓子ばっかり食べています。」と答が返ってきます。
「一体、どうしたのですか?」と聞くと、「実は、付き合っていた彼と別れてしまい、紛らすために甘いものばかりを食べていました。」と答えたとします。
虫歯の原因が失恋のせいだとは、本人も意識していません。
今後、虫歯にならないために、歯ブラシを良くすることも大切ですが、失恋による「さみしさ」が原因となっていることに気付き、甘いものを食べて「さみしさ」を紛らすことをやめなければいけません。
原因がはっきりしていると思われる虫歯でさえ、このように見えない隠された原因があります。
ガンという病気はどうでしょう。
医学的に遺伝的素因、環境的素因が原因と言われていますが、解明が進まず、依然として不明なことが多いことは事実です。
不明なことの中には、現代医学で認めてられていない、心や魂に関わる原因が関係していると考えられます。
人は生きていると、さまざまな出来事ことを経験します。
うれしいことばかりであればいいのですが、悲しいこと、つらいことも、たくさんあります。
悲しいことが起こると、人は涙を流します。
涙は悲しいことを早く忘れるために、神が与えてくれたものなのかもしれませんが、いくら涙を流しても、起こってしまった悲しい事実を消すことはできません。
その悲しみが心を大きく支配してくると、何も考えられず、何も手につかない状態になってしまいます。
この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためですから、何も手につかない状態のままでは、その目的を果たすことはできません。
悲しみの想いを持ち続けることにより、魂のありさまが変わっていき、それが肉体上に病気として顕れることになります。
そして、苦痛を通して過ちに気付き、本来の心を取り戻していくことになります。
病気は、大切なこと(摂理)に気付くためにある、神の摂理だと考えられます。
病気の原因を知るためには、過去にあった心を支配することになった、つらい出来事を振り返らなければいけません。
そして、向き合うことから始まると考えられます。
そのことは記憶としては忘れかけていても、魂にはしっかりと刻み込まれていて、心や肉体に影響を与え続けています。
身にふりかかった、つらい出来事を、誰かに話を聞いてもらったり、相談したりすると、その胸のうちにある感情が表に出てきて、意識することができたかもしれません。
しかし、誰にもわかってもらえなかったり、話すことができなかったりして、感情の持って行き場がどこにもなかったりすると、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などの摂理に背いた想いに心が支配され続けていたとしても、意識することは難しいと思われます。
人間は未熟ですから、その様な想いを持つことは避けられないのかもしれませんが、たまり続けていくと心に(摂理に背いた想いの)しこりができてしまいます。
徐々に大きくなった心のしこりは、魂にも影響を与えていくことになり、神の心である平和、協調、調和が、魂から失われていきます。
生まれてきた目的は、他者を愛すること、困難を乗り越えることで、魂を向上させることにあり、神の心を抱き、それを表せば向上しますが、摂理に背いた想いを抱いていては望めません。
ガンが肉体上に顕われたのは、苦痛を通じて大切なこと(摂理)を学び、魂が本来あるべき姿を取り戻していくためと思われます。
ガン患者さんの多くは、心のしこり(想い)が原因でガンになったと思っています。
ただ、検査で調べてわかるものではありませんし、それを証明する根拠はありません。
もし信じてもらえるのであれば、心のしこりを作ってしまった過去の出来事(原因)と、あらためて向き合って下さい。
心の傷であり、早く忘れてしまいたいことであり、決して簡単なことではありません。
しかし、病気を治すためには、心のしこりに閉じ込めれた想いを手放してしまうことが必要です。
手放すためには、その時はとてもできなかったこと、その出来事を許して、受け入れなければなりません。
許せなかった、受け入れられなかったから、心のしこりが生まれてしまいました。
そのためには「愛」が必要です。
しかし、病気により痛みや苦しみを経験し、魂が向上して、最も大切なのは「愛」だと気付かれたのならば、許すことも、すべてを受け入れることもできるはずです。
許し、そして受け入れれば、心のしこりはなくなり、魂が癒されて、肉体もそれに従い、病気が癒されていくことになるはずです。
2013年12月15日日曜日
内から湧き上がる思いに従う
6年前、仕事上の不正を公の場で追求されました。
その時は、まさに針のむしろでした。
過ちを行おうとした瞬間、「本当にいいのか?」と問いただす自分がいましたが、「大丈夫だ、みんなしていることだから」という考えに、それは打ち消されました。
シルバーバーチの言う、「良心」という神の監視装置(モニター)が働いたにもかかわらず、それを身勝手な理屈を付けて無視したのです。
心がとがめることを、してはいけないのです。
不正を追求されている期間は、今まで味わったことのない後悔の念、自責の念にさいなまれました。
自分がした過ちの1つ1つが、目の前に晒されていくのは、耐え難い苦痛です。
その1つ1つを担当者から「間違いありませんね」と繰り返し、問い質された時は、まるで神に裁きを受けているような気持ちになりました。
その問いに対する私が選択する答えは2通りありました。
1つはありのままを正直に話し、過ちを認めること。
もう1つは、仕事や生活を守るために、否認することでした。
過ちを認めるのは、人として当然のことですが、その先に待ち受けている現実を考えると身震いがしました。
しかし、「ありのまま、正直に」という内から湧き上がる思いに従い、「はい、間違いありません」と過ちを認める答えをしました。
限りなく暗い将来に進む方向でしたが、「乗り越えられない苦難はない」というシルバーバーチの言葉を信じて、迷いなく進んでいきました。
その結果、恐れていた最も重い行政処分が、私に下されることになりました。
人生最大の屈辱です。
その処分に伴い、多額の返還金の支払いと、歯科医業停止2ヶ月が課せられました。
何よりもつらかったのは、その記事が新聞に載り、多くの人達の知ることとなり、信用が失墜し、多くの患者さんが去って行ったことです。
「信用してたのに」と、面と向かって患者さんに言われた時の気持は、言葉にすることはできません。
しかし、出口の見えない重苦しい日々が長く続く中で、霊的真理が紛れも無い真実であると確信していくとともに、それを手にすることができた大きな喜びを感じていました。
人は生きていると、どちらかを選択しなければならない、重要な局面に出会います。
もし、内から湧き上がる思いが、望まない方、困難な方を指し示していても、後悔しないために素直に従った方が良いと思います。
もし感じなければ、より正直な方、より自然な方、より人のためになっている方を選択するのが賢明と思われます。
そちらの方が、摂理に適っていると考えられるからです。
万有引力の法則により、石を空に向けて投げても、必ず地面に落ちてくるように、神の摂理に背いたら、苦痛を経験して気付き、必ず従うことになります。
摂理に背いたことをして、何の反省も償いもすることもなく、この世を終えたとしても、次の世界で因果律は働き、罪を償うことになります。
人は死んでしばらくすると、この世に生まれてから死ぬまでに想ったこと、行ったことの一部始終を、自ら振り返ることになります。
この世での想いと行いのすべては、魂に刻み込まれていますので、それを1つ1つを検証していくことになります。
この世で償われなかった摂理に背いた行いも、魂に刻み込まれていますので、目の当たりにすることになり、そこで自らの過ちに気付き、後悔し、自責の念を持つことになります。
その過ちを償うために、相応の苦難の人生を自らが望み、もう1度この世に生まれくることもあります。
それとは反対に、摂理に適った行いは、たとえ人知れず、ささやかな行為であっても、世の中を良くし、人を元気にし、明るくし、幸せにしています。
そのことを知り、幸福感に包まれることになります。
私が不正を質されている時に、正直になれずうそをつき、罪を免れたとします。
ホッと胸をなでおろし、前と変わらぬ日常に戻っていったことでしょう。
時とともに、そんなことがあったことさえ忘れてしまうことでしょう。
そして、この世を去る日がきます。
私にも次の世でこの世のすべてを検証する時がきます。
その時、うそをつき苦難を逃れたことを、目の当たりにすることになります。
苦難を逃れたために、魂の向上が得られなかったこと、そして最も大切なものを掴み損ねたことを、深く後悔することになると思います。
正直者が馬鹿を見ることはありません。
内から湧き上がる想いは、そのことを知っている魂の声だったのかもしれません。
2013年12月12日木曜日
病気は必要だった
6年前、私は仕事で過ちを犯し、保険医取り消しという歯科医師として致命的ともいえる行政処分を受けました。
以前の私であれば、大して悪いこともしてないのに、何で自分だけがこんな処分を受けなければならないのかと思ったことでしょう。
しかし、すでに「シルバーバーチの霊訓」と出会っていましたので、過ちを犯したのは紛れもなく自分自身なのだから、罪を償うのは当たり前なことと素直に受け止めることができました。
そう思ったからと言っても、つらい現実から逃れることは出来ません。
人からの信頼をはじめ、多くのものも失いました。
この思ってもみなかった苦難から学んだことは、「摂理に背くと、因果律という神の摂理が寸分の狂いもなく働き、つらい経験をして償わなければならない」ということでした。
仏教で言う「因果応報」であり、キリスト教の「蒔きし種は自らが刈り取る」ということです。
よほど痛い思いをしない限り、鈍感な私には、わからなかったのかもしれません。
2度と経験したくない苦難を通して、それまで意識もしなかった、真の自分である魂が、硬い殻を突き破って表に出てきました。
何もなければ、自分が殻の中にいることすら気付かず、心の奥に押し込められたまま、じっとしていたことでしょう。
苦難があったからこそ、そこにじっとしているわけにもいかず、殻を突き破り、外に出てくることができました。
外の明るい世界を見てしまったので、もう暗い殻の中に戻りたくはありません。
真に、生き始めることができたのは、その時からです。
以前は、仕事で人より成功して、良い暮らしをしたいという願望が強かったのですが、家族で仲良く暮らしていければ十分満足と思えてきました。
当たり前のことに、ようやく気付くことができたと思っています。
何気ない日常に感謝の気持ちを持つことが多くなりました。
りんごを食べて感謝。
そこに家族がいて感謝。
犬がそばに来てくれて感謝。
朝日を見て生きていることに感謝。
青い空に浮かぶ雲が美しく感じられることに感謝。
ふとした瞬間、感謝の気持ちが高まり、涙が出てくることがあります。
それは愛されていることを、魂が実感しているからだと思います。
自分の幸せを追い求めて、あわただしく生きるのではなく、他者の幸せの中に、ささやかな歓びを見出しながら、穏やかに生きることにしました。
すべての苦難は、その人に大切なことに気付かせるために、必要なものです。
苦難は不幸なことではなく、大切なことに気付かないままでいることこそが、不幸です。
病気は、健康な時には意識もしなかった、「生命」と「愛」に目覚めさせるために必要なものです。
「生命」と「愛」の大切さに気付たということは、魂が目覚めて、今まさに殻を突き破って、外に出ようとしているところだと思います。
「生命」とは肉体ではなく「魂」であり、「愛」は「魂」を通して流れる神の心です。
人に親切にすると、心があたたかいもので満たされるのを感じるは、その行為を通して神の愛が流れていくのを、魂が感じるからです。
人に優しくされるとうれしくなるのは、優しくしてくれた人の魂を通して、神の愛が流れ込むからです。
魂は他者を愛することで、美しくなります。
魂は苦難を乗り越えることで強くなります。
この世に生まれてきたのは、魂を美しく、強くさせるためであり、それ以外にありません。
病気は、魂が殻を突き破るために必要だったのであり、外に出てしまえばもう必要はないはずです。
摂理に背いた罪は苦痛を通して償うことになりますが、苦痛により魂が目覚めたのであれば、今度は摂理に従い他者を愛することで償えるはずです。
生きていることに感謝し、その歓びを他の人にも分けてあげましょう。
大きなことはできなくてもいいです。
自分なりに、少しずつ、生きている歓びを込めてしましょう。
2013年12月8日日曜日
ガンの痛み
歯医者として仕事をしていると痛みを抱えてくる人は多くいます。
歯の神経が死んで急性の炎症を起こすと、あごまで大きく腫れてしまい、歯に少しでも振動が加わると激痛が走り、治療をすることが出来ないこともあります。
痛みのつらさは、体験している患者さんでなければ理解できません。
歯の痛みの場合は、神経の治療などをして抗生物質と鎮痛剤を処方すれば、解決することが多いのですが、ガンに伴う痛みはそういうわけにはいかず、患者さんを大変苦しませることになります。
ガンが広がり、神経を圧迫したり、骨や脳に転移などをすると、時として耐え難い痛みが襲うことがあると思われます。
近年、有用な鎮痛剤が開発されていますが、完全に痛みを取り去ることはできていません。
痛みは、身体に異常があること知らせる重要なシグナルですが、ガンによる行き過ぎた痛みは患者さんの生活の質を著しく低下させ、心を不穏にさせます。
局所のガンの痛み刺激は、末梢神経から中枢である脳に伝わり、精神により痛みとして表現されます。
楽しい、うれしい、悲しいなどの感情もみな精神、心の表現ですが、心を表現する感情は通常1つであり、うれしさと悲しさを同時に表すことは出来ません。
痛いとかつらいということも、一種の感情表現であり、激しい痛みを感じている時は、楽しいという気持ちには決してなれません。
一方、楽しいという気持ちに満たされていれば、痛みを感じなくなることもあるでしょう。
ガンの痛みを感じているよりも、楽しくうれしい気持ちでいた方が良いに決まっています。
できるだけ楽しい思いをして過ごし、痛みを感じにくくした方が賢明だと思いますが、毎日が楽しいことばかりであるわけがありません。
やらなければいけないことも、いやなこともたくさんあります。
ただ、不快に感じた瞬間にストレスとなり、ガンの痛みを呼び起こすことに繋がりかねませんから、たとえいやなことでも、しなければならないのであれば、気持よく前向きにした方が、病気のためには良いと思われます。
また、ささいなことに喜びを見出し、ありふれたことにも感謝することは大切であり、その気持ちはドーパミンという脳内ホルモンの分泌を促すことになります。
ドーパミンはガン患者さんにとってすばらしい作用があり、痛みを抑制するとともに、ガン細胞を攻撃するNK細胞の活性高めると言われています。
この様に、精神と肉体は相互に影響し合っています。
前にも書きましたが、精神は魂の表現媒体であり、魂のありさまは精神に顕れて、肉体に影響を与えます。
ガンは秩序のない無法者というべき組織ですが、自分の身体の一部であることには変わらず、魂の支配下にありますので、魂からの指令であれば従うはずです。
医学的にガンの原因は不明な点も多いのですが、私は平和、協調、調和を乱した魂のありさまがガンとして肉体に顕れ、そのことを自覚させ、罪を償うための摂理として、痛みがあると考えています。
したがって、肉体上のガンを鎮めていくために最も有効な手段は、平和で穏やかな心を保ち、取り巻くすべてに感謝し、愛することだと思います。
平和で穏やかな心により、ガンの増殖が止まり、愛する心により、存在自体が脅かされると考えています。
もし、ガンという病気を憎み、敵対して闘おうとすると、穏やかな心や、愛する心が保てなくるため、ガンは活性化し、増殖を始めるのではないかと思われます。
ガンという病気も意味があってなったのですから、否定するのではなく、例えば「あなたには本当に大変な思いをさせられているけど、お陰で大切なことにも気付くことができた」と存在を認めてみるのは、おかしなことでしょうか。
また、強い恐怖心を持ったり、必要以上に不安になったりすると、生命力である治癒(免疫)力が低下し、ガンの増殖を許してしまうと考えています。
患者さんが強い痛みを感じる時は、ガンが活性化して増殖している時だと思われますので、怖れや不安な心を拭い去り、平和で穏やかな心を保ち、愛に満ちた時を過ごすことが、何より大切だと思います。
もし、痛みやつらさに挫けそうな時は、「全ては私の魂の向上ためにある。耐えられない痛みは決して与えられない」と強く自分に言い聞かせて下さい。
それは真実ですから。
ガンが増殖するか、鎮静化するか、あるいは縮小するかは、ガンと治癒力とのせめぎあいの中で決まります。
繰り返しますが、恐怖心や不安感を克服し、穏やかで平和な心を保ち、愛に満ちた時を過ごすことにより治癒力が最高に高まり、ガンの進行と痛みを押さえ込むことにつながると考えています。
愛する人、親しい人、気にかけて来てくれる人と、楽しく語り、笑い、喜び合い、励まし合う、そんな時を過ごすことは、どんな抗ガン剤、鎮痛剤よりも効果があるのではないでしょうか。
2013年12月5日木曜日
何で生きているのか
20代前半の私を悩ませていたのは「何で生きてるのか」ということでした。
いくら考えても答えは見つかりません。
目標に向かって一生懸命に生きている人や、ひたむきに何かに打ち込んでいる人は、力強く、輝いて見えて、うらやましく思えました。
大学を卒業して歯科医師になった時も、恥ずかしながら人のため、社会のために貢献するぞ、という強い意気込みがあったわけではありません。
「何で生きているのか」という悩みは、あわただしく過ぎる日々の中で、置き去りにされていきました。
それから結婚して、故郷に戻り、仕事や家庭のことに追われながら、20年近くの時が過ぎました。
44歳となった時に、治癒力の出現と、仕事上の深刻な問題が立て続けに起こりました。
まもなくして、「シルバーバーチの霊訓」に出会い、霊的真理を受け入れることになります。
そして「何で生きているのか」という、若き日からの悩みに終止符が打たれることになります。
52年前、私はこの世に生まれました。
その時にできたことは、自分の要求を知らせるために、泣き叫ぶことだけだったと思います。
泣き叫ぶ私に、両親はその要求を満たすべく、昼夜を問わず無償の奉仕を私にしてくれたと思います。
数年後、幼稚園に入り同じ年の子供と時を過ごすことになります。
相変わらずわがままなことばかりを言っていたと思いますが、その中で他の子供たちと仲良く遊んだり、時にけんかをしたりして、自分以外の存在を意識していくことになります。
小学校に入学しますが、幼いと言えどもすでに一人ひとりに個性があります。
泣き虫な子、よく笑う子、怒りっぽい子、先生の言うことを素直に聞く子、聞かない子、勉強が好きな子、嫌いな子など誰一人として自分と同じではありません。
性格や考え方の違う子に囲まれながら、お互いに違いを認めていきます。
学年が上に行くに従い、近くに集まる仲間が出来始めていきました。
時々、仲間から反発を買い、孤独を味わったりもしましたが、それは決まって、うそをついたのがばれた時、周囲を無視し、わがままを言った時でした。
仲間はずれになりたくないので、反省し同じことをしなくなった様に思います。
中学、高校では他者とぶつかり合い、競い合う中で個性が磨かれていったと思います。
大人になり社会人になると、多くの時間を患者さんのために費やし、1人前の歯科医師となるために努力しなければなりませんでした。
過去から現在の振り返ると、あらためて摂理のもとに生きていることを、実感します。
子供の時、わがままばかり言ったり、自分のことしか考えていないと、たとえ子供といえども摂理が働き、友達に嫌われ、一人ぼっちにされます。
その苦痛を味わうことで、他者のことも考え、仲間との協調が必要なことを学んでいったと思います。
大人になり仕事に就きましたが、働くということは、自分の感情を抑え、他者のために奉仕することに他なりません。
働くことを通して、シルバーバーチが繰り返し言っている「人のために自分を役に立てる」ことを少しずつ実現していくとともに、その大切さを学んでいったと思います。
また、「役に立つ喜び」も患者さんの喜ぶ顔を見て実感していくことになります。
そして、機が熟して結婚をしましたが、独身の時と違い、仕事が終わった後も自分以外の人(配偶者)のことを考え、大事にしなければいけません。
さらに子供が生まれると、自分の楽しみよりも子育てを優先しなければならず、家族を中心に物事を考える様になってきました。
ありふれた人生のイベントは、自分から他者に意識を向かわせ、他者のために奉仕していく方向に進ませるためにあったと思います。
過去に数々の過ちを犯し、その度に痛い思いをしながら、知らず知らずのうちに、神の摂理を学んできたと思います。
人生のあらゆることが、摂理の支配下にあり、摂理を信じる信じないかにおかまいなく、それに沿って人生が展開してきたと思います。
「何で生きているのか」という私の答えは「人のために生きている」ということであり、これからも変わることはないだろうと考えています。
2013年12月1日日曜日
死について
命にかかわる病気になってしまった人に、伝えたいことがあります。
余命を告げられた人も、最後まで見ていただければ幸いです。
私は幸いにして健康であり、深刻な病気を経験したわけではありません。
病気のつらさや痛み、怖れや不安は経験した人でなければわからないことなので、安易な同情の気持ちで書く気はありません。
病気に怯えている人、死の恐怖と闘っている人に、真実を知ってもらうことにより、少しでも心が安らぎ、穏やかになってもらいたいと願っています。
病気の人を、恐怖に陥れる元凶は「死」です。
10年前の私は、死は生の終局だと考えていました。
時折、メディアを通じて死後の世界のことを語る人を見ましたが、それは脳が作り出した空想もしくは幻影の世界であると思っていました。
死後の世界が存在することを、証明できるものは何ひとつなく、体験者の主観的なものだったからです。
世界各地のことを知りたければ、現地に行った人から直接話を聞いたり、書籍、インターネット等で調べて多くの情報を得ることができます。
しかし死んだ後の世界について容易に知ることは出来ません。
たとえ知識を入手できたとしても、それが正しいかどうかを検証することは不可能です。
宗教においても死後の世界を説いてますが、キリスト教は天国と地獄、仏教では極楽と地獄というように統一されたものではないため、どれが正しいのかわからなくなってしまいます。
宗教や文化や地域によって違うため、どうしても普遍的なものではないと感じてしまいます。
そんな分からないことを考えても仕方がないと、思っている人もきっと多いのではないでしょうか。
もし、死後の世界が存在しないとすれば、死がもたらすものは「無」です。
生命は肉体の死とともに終わります。
一方、死後の世界が存在するのであれば、生命は肉体の死の後も存在し続けるということになります。
死がもたらすものは「肉体からの解放」であり、肉体を超越した何らかの存在を認めなくてはいけません。
多くの人はそれを魂(霊)と呼びます。
2つに1つであり、どちらかが真実です。
人間の身体は様々な組織から成り立つ、精密な機械と言って良いと思います。
機械は指示をしなければ動かすことはできません。
身体を動かしているのは脳からの命令ということになりますが、脳は自動的に命令を出しているのではありません。
すべての命令を出しているのは精神です。
精神が、脳という器官を通じて命令を出し、身体を動かしています。
精神を大脳の働きとして説明しようとすれば、電気的、化学的反応により作り出された実体のない幻影ということになります。
本当に精神とは実体のない幻影なのでしょうか。
そうではなく、五感で認識することのできない非物質的次元のものと考えることに無理があるのでしょうか。
精神は、様々な感情を表現します。
もし、脳が電気的、化学的反応を繰り返す機械ということであれば、満開の桜を見て美しいと感じることもないでしょう。
ニコッと微笑んだ赤ちゃんを見て、かわいいと感じることはないでしょう。
愛する人を喪って、涙を流すこともないでしょう。
脳という機械に、そんな感情が入り込む理由は見つかりません。
魂が感じとって、精神(心)を動かしています。
例えて言えば、魂という譜面に曲が書かれていき、精神(心)は曲を表現する楽器です。
曲がなければ楽器の存在意味はなくなり、楽器がなければ曲を奏でることはできません。
精神(心)は魂の表現媒体なのです。
目に見えない精神(心)の存在を認めながら、魂の存在を否定するのは不合理だと思います。
死の正確な知識を最も必要としているのは、愛する人を亡くされて深い悲しみに沈まれている人たちであり、病気を患い死の恐怖と闘っている人たちです。
何回でも、その人たちに伝えます。
人は死んで無になるのではなく、心、意識は存在し続けます。
生命とは、肉体を超えた魂です。
肉体は死んでも、この世に残した愛する人に寄り添い、見守ることができます。
そして、亡くなった愛する人と、肉体の死後すぐに再会することができます。
しばらくして、この世に遺した愛する人を、出迎えることになります。
愛するもの同士に、永続的な別れがないことは、紛れもない事実です。
信じられなくても、いずれ現実のものとなります。
死が訪れるのは多少の遅い早いがありますが、誰も避けられない自然の摂理であり、悲しむべきことではありません。
この世は、様々な経験を通して大切なことを学ぶためにある、いわば学校であり、死は卒業を意味します。
卒業後には、この世で学んだことを活かすことのできる、すばらしい世界が待ち受けています。
死に対する無知は恐怖を生み出し、正しい知識は恐怖を打ち消します。
限られた人だけが知っているのは、あまりに不公平です。
(肉体の)死の後にも生があります。そのことを前提に生きて下さい。
死の悲しみや恐怖から、心が解放されることにより、今、本当にするべきことが見えてきます。
この世も次の世も、愛が最も大切であるのことに変わりはありません。
悔いの残らぬように、この世で愛を存分に表現しましょう。
美しい曲を奏でていきましょう。