2013年12月12日木曜日

病気は必要だった



6年前、私は仕事で過ちを犯し、保険医取り消しという歯科医師として致命的ともいえる行政処分を受けました。

以前の私であれば、大して悪いこともしてないのに、何で自分だけがこんな処分を受けなければならないのかと思ったことでしょう。

しかし、すでに「シルバーバーチの霊訓」と出会っていましたので、過ちを犯したのは紛れもなく自分自身なのだから、罪を償うのは当たり前なことと素直に受け止めることができました。

そう思ったからと言っても、つらい現実から逃れることは出来ません。

人からの信頼をはじめ、多くのものも失いました。

この思ってもみなかった苦難から学んだことは、「摂理に背くと、因果律という神の摂理が寸分の狂いもなく働き、つらい経験をして償わなければならない」ということでした。

仏教で言う「因果応報」であり、キリスト教の「蒔きし種は自らが刈り取る」ということです。

よほど痛い思いをしない限り、鈍感な私には、わからなかったのかもしれません。



2度と経験したくない苦難を通して、それまで意識もしなかった、真の自分である魂が、硬い殻を突き破って表に出てきました。

何もなければ、自分が殻の中にいることすら気付かず、心の奥に押し込められたまま、じっとしていたことでしょう。

苦難があったからこそ、そこにじっとしているわけにもいかず、殻を突き破り、外に出てくることができました。

外の明るい世界を見てしまったので、もう暗い殻の中に戻りたくはありません。

真に、生き始めることができたのは、その時からです。



以前は、仕事で人より成功して、良い暮らしをしたいという願望が強かったのですが、家族で仲良く暮らしていければ十分満足と思えてきました。

当たり前のことに、ようやく気付くことができたと思っています。

何気ない日常に感謝の気持ちを持つことが多くなりました。

りんごを食べて感謝。

そこに家族がいて感謝。

犬がそばに来てくれて感謝。

朝日を見て生きていることに感謝。

青い空に浮かぶ雲が美しく感じられることに感謝。

ふとした瞬間、感謝の気持ちが高まり、涙が出てくることがあります。

それは愛されていることを、魂が実感しているからだと思います。

自分の幸せを追い求めて、あわただしく生きるのではなく、他者の幸せの中に、ささやかな歓びを見出しながら、穏やかに生きることにしました。



すべての苦難は、その人に大切なことに気付かせるために、必要なものです。

苦難は不幸なことではなく、大切なことに気付かないままでいることこそが、不幸です。

病気は、健康な時には意識もしなかった、「生命」と「愛」に目覚めさせるために必要なものです。

「生命」と「愛」の大切さに気付たということは、魂が目覚めて、今まさに殻を突き破って、外に出ようとしているところだと思います。



「生命」とは肉体ではなく「魂」であり、「愛」は「魂」を通して流れる神の心です。

人に親切にすると、心があたたかいもので満たされるのを感じるは、その行為を通して神の愛が流れていくのを、魂が感じるからです。

人に優しくされるとうれしくなるのは、優しくしてくれた人の魂を通して、神の愛が流れ込むからです。

魂は他者を愛することで、美しくなります。

魂は苦難を乗り越えることで強くなります。

この世に生まれてきたのは、魂を美しく、強くさせるためであり、それ以外にありません。



病気は、魂が殻を突き破るために必要だったのであり、外に出てしまえばもう必要はないはずです。

摂理に背いた罪は苦痛を通して償うことになりますが、苦痛により魂が目覚めたのであれば、今度は摂理に従い他者を愛することで償えるはずです。

生きていることに感謝し、その歓びを他の人にも分けてあげましょう。

大きなことはできなくてもいいです。

自分なりに、少しずつ、生きている歓びを込めてしましょう。

1 件のコメント:

  1. 苦痛により、魂が芽生える。

    わかっていますが…苦痛とは辛いものです。

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