2022年2月20日日曜日

不安や怖れを意思(志)で打ち消す


コロナ禍ですが、今週末、私が所属する歯医者の勉強会が創立されて30年になり、記念講演会が開催されました。

大人数の前で話すのは、この年になっても緊張します。

何とかならないものかと、いつも思います。



この緊張感はどこから来るのでしょうか?

人間には、霊的な自我と地上的な自我が存在しています。

霊的な自我は、奥底にある意識であり、本当の自分とも言える存在です。

地上的な自我は表に出ている意識であり、肉体を使って霊的な自我を表現するためにある媒体です。



何かをやろうとする時に、上手く行くのだろうか?失敗したらどうしようと、先のことを考えて不安になることがあります。

緊張や不安や恐怖は、地上的な自我から生じていると考えられます。

また、過去のことを思い出して、怖れや不安が生まれるのも、地上的な自我の働きによるものと考えられます。



そんな感情などなくてもよさそうですが、そうは行きません。

断崖絶壁の上に立ち、恐怖を感じなければ、誤って落ちてしまうかもしれません。

地上の環境から肉体を守るために必要なものです。



不安は、将来を頭で予測することにより生じます。

その感情が生じると一種の苦しみを感じるので、何とかしてその状況から抜け出そうとします。

肉体的な苦痛を感じると回避しようとしますが、それと同じで不利益を被らないようにするためにある、防御的な感情の一種なのかもしれません。



頭の中が真っ白になるという状態があります。

不安が極度に亢進して、理性がマヒした状態と考えられます。

どんなに経験があったとしても、想定外のことが起きる可能性があります。

地上は不完全で不確実な世界であり、何が起きるのか判らないので、不安は付きものと考えられます。



人間は肉体、精神、霊(魂)の複合体です。

精神は肉体に指令を出しています。

右手を挙げろと精神が指令を出さない限り、右手は挙がりません。



霊(魂)は精神の上位に存在しています。

霊(魂)からは、本当の自分の想いや願望が生じています。

それを精神を働かせて、具現化しようとします。



地上的な自我は、精神上に形成されていると考えられます。

そこから生じている不安や心配、緊張や怖れなど感情は好ましいものではないようです。

シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「霊的なものにとって恐れるということが何よりも強烈な腐食作用を及ぼします。恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。」



怖れや不安や心配を吹き飛ばすものがあります。

それは意思(志)の力です。

2001年、新大久保の駅で起きた痛ましい事故のことを思い出します。

ホームに落ちた人を助けようて、2人の男性が亡くなりました。

助けようとする意思は、霊的な自我から生じていたと考えられます。

自分の命が犠牲になってまで、人を助けようとするのは、霊的な自我が神性を帯びているからです。



一方、地上的な自我は、自分も巻き添えになってしまうと怖れを感じさせて、肉体を守ろうします。

霊的な自我と地上的な自我の間で葛藤が起きる時はありますが、どちらか勝った方の行動を取ることになります。

助けようとする意思が、怖れを上回った結果として、この様な行動を取ったと考えられます。

助けようとする意思は愛に基づいています。

神の摂理に適った想い(愛)は、あらゆる感情を凌駕しており、不安や恐怖を打ち負かす力を持っていると考えられます。



1985年日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落しました。

墜落前のダッチロールを繰り返す機内はパニック状態になっていたと推察されます。

そんな機中で、家族に宛てた感謝の文章を書いている男性がいました。(別の記事にその文章を載せてあります)

誰もできることではありませんが、魂から生じている強い想いが、極限的な恐怖に打ち克っていたことを証明しています。



繰り返しになりますが、霊(魂)は精神の上位にあります。

地上的な自我(精神)から生じる不安や怖れは、霊的な自我の働きによって打ち消すことができると考えられます。



はっきりとした意思を持てば、望んでいない感情が生れるのを抑えられるはずです。

魂から生じている意思は、精神から生じている感情よりも強いからです。

もし、不安や怖れが湧き上がって来たのなら、それを打ち消すようない意思を思持てば良いはずです。

具体的には「上手く行かなかったらどうしよう」と考えて不安になるのではなく、「上手く行く」あるいは「乗り越えられる」とはっきりとした意思を持ちます。

それでも不安が生じてしまうのであれば、その度に自分の意思を上書きするようにすれば良いのです。



北京オリンピックが閉幕しようとしています。

どの選手も、最高のパフォーマンスをすることを望んでいます。

国の代表であり、想像を超えるプレッシャーを感じていたと察せられます。

失敗は許されないと思うと、緊張はどうしても高まってしまいます。



不安や怖れを感じながら、最高のパフォーマンスはできません。

高まった緊張から不安や怖れが生じないようにするのには、「自分を信じる」という意思を持つことが必要です。

多くのスポーツ選手が「自分を信じて臨んだ」と言っているのを聞きますが、根拠のないことではありません。

自分には神性があります。

起こること全てを乗り越えさせる力が秘められています。

信じることで神とのつながりが強くなり、乗り越える力が内から湧き出します。

自分の中に神がいると思っていなくても、自分を信じれば持てる力が出せることを、多くの人は経験的に知っています。



自分の中に神がいると、強い意思を持って信じて下さい。

そうすれば不安や怖れはなくなるはずです。

「全き愛は恐れを締め出す」と、イエス・キリストも言っています。

強く信じることができれば、神とのつながりが深まり、その愛により恐れは締め出されると考えられます。



摂理に適っている意思であれば、霊界から援助の力が届き、実現する方向に動き出します。

もちろん相応の実力がなければいけませんが、自分の栄誉のためではなく、人に勇気を与えたい、元気付けたいと願いながら臨む人は、神の摂理に適っているので、援助の力を受け取ることができると考えられます。

持ってる力以上のパフォーマンスができて、想像以上の結果が得られることになります。

そんな時は、知らずに霊力の通路になっていたと考えられます。

勇気を出すことの大切さを、その人に通して伝えたいのだと思います。

挑戦することで人は成長するからであり、それが神の望みだからです。



不安や怖れが生じたら、それを上書きするように、明確な意思を持つようにしましょう。

成長につながるものであれば、神の力が魂に流れ込み、不安や怖れは打ち消されるはずです。

今回の仕事においても、それを実践して、正しいことを再確認できました。



次に行く世界は、思念の世界です。

明確な意思(思念)を持たなければ、何も始まらない世界です。

不安や怖れを克服するために、意思を持ち続けるのは、能動的で労力を伴う作業ですが、望ましい自分になるため、望ましい世界にするために、避けては通れない過程だと思います。

不完全で不確実な世界である地上において、その力(意思)を養っていると思います。





3 件のコメント:

  1. ラッパ吹き2022年2月26日 13:37

    イクミさん、優しい匿名さん、

    今の仕事を離れて、経験したことのない新しい職場に移ることにしました。
    今は少し心が軽やかに穏やかに感じられています。心にほんのりと春の気配が感じられます。

    それでも、やはり、経験したことのないタイプの組織、経験のない仕事、新しい未知の人たち、に恐れと不安があります。

    イクミさんと同じく、私も人の前で話すことがとても苦手でした。
    人前でピアノやラッパを演奏する時も、異常なくらいに緊張して上がり(ステージフライト)で失敗したことがあります。

    でも、人前で話すこともラッパの演奏も今は苦痛ではなく、楽しいと感じるようになりました。ただ「楽しい」という言葉よりもっと深い喜び、魂のつながる喜びを感じられるようになりました。

    不思議です。日本中あちこち旅した大好きなバイクも、冬が待ち遠しくてシーズンには毎週末に通っていた大好きなスキーも、始めたころ初心者のころは怖くてつらくて恥ずかしくてとてもとても苦痛だったんです。

    実は、音楽もなんです。

    音楽、楽器の演奏、大嫌いでした。幼稚園のお歌の時間も小学校の音楽の時間も嫌で嫌で仕方なくて、授業科目から音楽と体育がなくなればいいのに、と、ずっと思っていました。

    大嫌いだったものが、大好きになりました。

    何度も何度も繰り返して、その度に、大丈夫だった、大丈夫だった、大丈夫、大丈夫、大丈夫、、、と。
    そのうちに、恐れと不安と苦痛に隠されていた喜びがキラッと光るのを少しずつ味わって、失敗した自分を受け入れて、、

    そうか、ある時から「自分は下手だ」と言うのをやめたのかもしれません、オートバイやスキーでは。
    そうです。「失敗しました」と言い訳することを意識してやめてからラッパが楽しくなったんです。

    何が言いたかったのでしょう、私は。

    苦痛だったものが、かけがえのない宝ものになる。
    苦痛を乗り越える、のではなくて、苦痛は本当は苦しみの仮面を付けて現れた喜びだった。

    すべての苦しみがそうではないはずです。
    戦争の苦しみ、人の怨念や憎しみ、イジメや暴力、そんな苦しみが仮面を付けた喜びであるはずがありません。

    無くもがなの苦しみと、苦しみの仮面を付けた喜びと、それを見分けることのできる叡智を授かることができたら。。
    でも、そこに深い神の愛の意図があるのかも知れません。

    思い浮かぶままに書きました。
    長くなってすみません。
    ありがとうございます。

    ラッパ吹き

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  2. ラッパ吹き様

    こんにちは。
    今の職場を離れることになったのですね。
    初めは不慣れで、上手く行かないことばかりで、嫌になったりもするでしょう。
    人間関係に疲弊していまうかもしれません。
    それでも、楽器の演奏と同じで、続けていると楽しいとまでは行かなくても、楽になる時がきっと来ると思います。

    そうです。
    その時はそう思えないでしょうが、苦しみは仮面を付けた喜びです。
    昨日読んだ本の中に、ある大学教授がお母様のことを回想した文章があり、その中の1文が目に留まりました。
    そのお母様は苦労の多い人生だったそうですが、「幸運は、不幸の姿をしてやってくる」と語っていたそうです。
    言っていることは同じだと思いました。

    言われるように、人の過った自由意志の行使で作り出した苦しみは(埋め合わせはありますが)そうではありません。
    愚かとしか言いようのない戦争が始まってしまい、憤りを感じています。

    新しい仕事に向かい、不安や心配はあるでしょうが、大丈夫だと自分に言い聞かせて、打ち消して下さい。

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  3. ラッパ吹き2022年2月26日 20:38

    イクミさん、ありがとうございます。

    ヨーロッパ
    日本
    アジア
    アフリカ

    戦争をしなければ生きられない人もいる。。。
    アフガンもそうでした。
    中村医師が命を投げ打って救おうとしました、、、
    それまで、戦争でしか生きられない、貧しい人たちが、、、、

    その原因は、私たち日本人かもしれないんです
    食うに困らない人がたくさんたくさんいる、ニホンというところ、、、
    それは、なぜ???

    奪っているんです。
    私たちニホンジンは、
    奪っているんです
    戦争をしないで、隠している
    やっているのは、、、、掠奪なんです、、、
    黙っていても、掠奪しているんです、、、

    つらいです

    日々生きているだけで、、、、
    誰かを苦しめている

    何もしないことが、、、
    いたいけない子供たちを、、殺している、、、

    それが、私たちなんです
    犠牲の上で生きている、、、

    罪とは、、、

    すみません、

    ラッパ吹き

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