2016年11月13日日曜日

不治の病について その3



病気の治療は、原因を突き止めることから始まります。

もし、原因を見つけられなければ、病気を根本的に治すのは不可能と思われます。

残念ながら、現代医学で原因が突き止められずに、根本的に治せない病気がたくさんあります。



人間は、肉体、精神、霊(魂)から成り立っていて、それぞれの次元に病気の原因は存在します。

しかしながら、医学は霊(魂)の存在を認めていません。

従って、霊的次元に原因がある病気は、原因不明とされてしまい、医学は有効な治療手段を持ち合わせていません。

原因不明の病気を根本的に治すためには、霊的な原因を見つけ出さなければいけないと思われます。



霊的次元の原因は、大きく2つに分けられると考えられます。

1つは生まれる前からあった原因と、もう1つは今生で生じた原因です。

生まれる前からあった原因に関しては、この世を生きている私たちには知りようもなく、また予め病気になることが決まっていたので、対応は難しいと考えられます。

今生で生じた原因については、しかるべき対応をすれば、病気は軽快してくる可能性があります。



今生で生じた主な霊的な原因として、私は過去の出来事から生じていた、表現できずに内に溜まっている「想い」と考えています。

もし、溜まっている想いが解放できたなら、肉体上の病気は癒されてくると思います。



想いを解放するとは、どのようなことなのでしょうか?

想いは魂から生まれていて、精神を経由して指令となり、肉体で表現されて完結します。

想いは、肉体的表現の素となる力と言っても良いと思います。

何らかの理由で肉体的表現が出来なかった想いは、消えてなくなるものではなく、内に溜まっていくと考えられます。

そして、時を経て因果律の働きにより、肉体上に変化を起こす力になり得ると考えています。

肉体上に起きた変化が病気であり、自分の内面に変化が起きていることを、この世の人に認識させています。



肉体上に変化を起こす想いは、自分の身に起きた出来事を、理解できなかったり、認められなかったり、許せなかった時に生じていると考えられます。

その想いは、自然法則(神の摂理)に反するものであり、魂が未熟なために生じてしまいますが、病気には償いとしての一側面があると考えられます。

(今生で原因が生じた)霊的な病気は、想いが溜まったため、自然法則の働きにより生じるものですが、実は、その想いを解放するための手段にもなっていると思われます。



理解に苦しむところですが、説明して行きます。

魂とは生命そのものであり、本当の自分です。

生まれたての赤ちゃんは魂で生きていますが、この世を生きているうちに、もう一人の自分(自我)を築き上げて行きます。

その自我を、本当の自分だと錯覚している人は、この世に数限りなくいると思います。

自我は、この世でより良く生きるため、本当の自分(魂)を守るために存在していますが、自我が強くなってしまうほど、本当の自分から生まれた想いを遮ってしまい、外に表せなくなってしまいます。

従って、自我が大きく、強い人ほど、自分の想いを内に溜めてしまう傾向にあると考えられます。



病気には苦痛が伴います。

病気の苦痛には、身体の異常を知らせる以外に、魂を目覚めさせると言う大切な目的があります。

魂が目覚めると、自我が後退し、それまで隠されていた想いが外に現れてきます。



病気は苦難であり、魂を成長させています。

肉体上に変化を起こす想いは、過去の出来事を理解できなかったり、認められなかったり、許せなかったために生じていますが、その後、さまざまな人生経験により、魂は成長しています。

若い時に看過できなかった出来事が、年を取ると些細なことに思えてくるのは、魂が成長した証拠だと思います。

最大の試練とも言える病気は、さらに魂を成長させて、理解できなかったことが理解され、認められなかったことが認められ、許せなかったことが許せるようになる時が訪れます。

成長した魂と、溜まっていた想いとの間に親和性がなくなると、自然法則の働きにより、想いは解放されて行くと思います。



つまり、想いは因果律の働きで肉体上の病気になりますが、その病気が魂を目覚めさせ、成長させて、想いを解放して行くと考えられます。

肉体は魂(想い)を表現する媒体であるため、溜まっていた想いが解放されたのなら、肉体上の病気は癒されると考えられます。

病気には魂を浄化させる目的があり、自分の成長を妨げていた想いという不純物を取り除くためにある触媒と言えます。

何らかの原因があって、病気になったのは間違いがないのですが、多くの人は肉体上の変化という結果しか見ていません。

肉体上の変化を元に戻すことに全精力を傾けてしまい、霊的な原因があることに気付けません。



人生のどこかで、成長を妨げている強い想いが生じていた可能性があります。

子供の時に、魂にまで響くような深刻な出来事がなかったのか、まず検証して行く必要があります。

子供の時は精神が未熟なために、感情にならなかったり、上手く肉体的表現が出来ないからです。

徹底的に、追い詰められた出来事は、なかったでしょうか?

その時に、誰にも頼ることが出来なかったのではないでしょうか?

助けを求めて、泣き叫びたくても、それが出来なかったのではないでしょうか?

そんな経験があれば、強い想いが生じていて、表現できずに、滞った可能性があります。

自我に隠されたまま、潜伏していたのですが、大きな問題が生じていたと考えられます。

その想いがあるために、人生で遭遇する出来事から同様の想いが生まれていて、徐々に大きくなり、自由意志による決定に深刻な影響を与えていたと考えられます。



大きくなってからでも、生き方や考え方を変えてしまうほどの、衝撃的な出来事はなかったでしょうか?

強い想いが生じていたにもかかわらず、自我により封じ込めてしまったのではないでしょうか?

封じ込めた想いが、後の人生に深刻な影響を与えていたかもしれません。



人生には、およそのシナリオがあります。

この世で、魂を成長させるためのシナリオです。

想いが溜まっているために、自分を成長させる、シナリオに沿った決定を、妨げていた可能性があります。

人や社会のために役に立つ機会が巡ってきても、人や社会を忌み嫌うような想いが溜まっていれば、行いに移すのは容易ではありません。

予期した方向に進めずに、魂の成長が得られなければ、この世を生まれた意味を成就出来なくなります。

内にある想いを解放して、本来の自分を取り戻し、シナリオに沿った人生を歩むために、この時期に病気になる必要があったと思われます。



過去の出来事から生じていた、自分の想いに気付くことから始めなければなりませんが、多くの人は自分の頭脳(自我)が優先されているために、なかなか気付けません。

また、感情に捉われていても、気付くのは困難です。



思考が停止し、感情のさざ波が治まり、頭が空っぽになった時に、隠されていた想いは浮かび上がって来ると考えられます。

私は休みの日に、家の掃除をします。

無心になって廊下を拭いている時に、過去にあった出来事の情景と、その時に生じていた想いが浮かび上がって来るのを感じる時があります。

すっかり忘れていたのに、どうしてなのかと思いましたが、自我に隠されていた想いが表在化して来たと考えています。

運動している時にも、過去に生じていた想いが出てくるのを感じる時があります。

座禅を始めてしばらくすると、身体が揺れてピシャリと叩かれるのは、無心になり想いが表出してきたからなのかもしれません。



想いは本来、精神で指令となり、肉体により表現されるものですが、自我の働きが強くなっていると、それがスムーズに出来なくなると考えられます。

シルバーバーチの言う、肉体と精神と霊(魂)の不調和とは、そんな状態を指すのかもしれません。

想いが溜まったとしても、弱いものであれば、自然に解放されたり、スポーツや趣味、おしゃべり等の別の肉体的表現に伴って、外に出されることもあると考えられます。

しかし、強い想いであれば、ストレス解消と言われるようなことをしても、解放するのは困難と思われます。



その強い想いが、知らずに成長を妨げていたのかもしれません。

愛の表現を妨げる、怒り、憎しみ、恨み、妬みなど、神の摂理に反する想いなのかもしれません。

人生のシナリオに立ち向かっていく勇気を萎えさせてしまう、怯え、恐れ、不安の想いなのかもしれません。



そんな想いを解放するにはどうすれば良いのでしょうか?

どれ位の効果があるのか未知数なのですが、一つの方法がありますので書いてみます。



まず、忘れてしまいたい出来事と、もう1度、正面から向き合います。

その時、自分がどう想ったのかを、心を鎮めて見つめ直します。

それは、自分の存在を揺るがすような、強烈な想いかもしれません。

怒りにも似た、何もかも壊したくなるような衝動を起こさせる、破壊的な想いかもしれません。

どこかに隠れてじっと身を潜めていたくなる、怯えるような想いかもしれません。

いずれにせよ、言葉で言い表すのが困難な、とても大きな、強い想いだと考えられます。

想いが現れると、絶対に嫌だと、叫びたくなるような気持ちが沸き上がるかもしれません。

自我が現れて、思い出そうとするのをやめるように囁き、隠そうとするかもしれません。

今の自分が、その時の自分に代わって、表に出て来た想いを肉体的表現をすれば外に出されるはずですが、それができるような想いではないと思われます。



今の自分が寄り添って、想いを共有してやりましょう。

出来事が起きた時に近い、自分の写真があれば用意して下さい。

写真の中にいる自分をじっと見つめながら、比較的最近の出来事であれば鏡の中に映る自分の瞳を見つめながら、次のような言葉を心を込めて投げかけて下さい。

「よく頑張ったね」

「苦しい思いをさせたけど、もう大丈夫。」

「誰よりも判っているから安心して」

「大好きだよ」

かける言葉は、決まっているわけではありません。

最も親しい人が苦しんでいる時にかけてやる、適切な言葉を自分で選んで下さい。

一番大切なことは、言葉に想いを込めることです。

大切な人を助けるつもりで、真剣に想いを伝えて下さい。



あの時の自分を、今の自分が心から慰めて下さい。

あの時の自分が、かけてもらいたかった言葉を、今の自分がかけて下さい。

あの時の自分を救えるのは、今の自分しかいません。

あの時の自分は、今の自分からの愛により救われます。



あの時の自分と想いを共有して、別のかたちにして、表現してやりましょう。

想いを共有できたのなら、涙が流れ出てくるでしょう。

あの時の自分に代わって、今の自分が、想いを表現しています。

あの時の自分が、どうしても理解できなかった、認められなかった、許せなかった出来事が、苦痛を経験して成長した自分が、理解し、認め、許すことが出来たのです。

許しの涙です。

想いが、愛により涙となり、表現されたのです。



嫌悪も、怒りも、憎しみも、怯えも、いかなる想いであっても、愛により解放できます。

肉体に変化を生じさせた想いは、あなた自身へ向けた愛により、神から人にだけ与えられた涙として、解放させることが出来ます。



人は愛を学ぶため、表現するために、この世に生きています。

病気も、別れも、争いも、痛みを通して、愛を学ぶためにあります。

この世で起きる全ての問題は、想いを共有し、愛を表現することで解決します。



愛を超える癒やしの力は、この宇宙に存在しません。

あなたの愛の力で、あなたの病気を癒すことができます。



自分を救うのは、結局は自分です。

自分の中にいる神(愛)に、救われます。







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