2016年10月30日日曜日

不治の病について その2



人は、肉体と精神から成り立っているのではなく、精神より高次に魂(霊)が存在しています。

肉体と精神と魂が、緊密に連携して、自己表現しながら人は生きています。



病気の原因は、肉体、精神、霊のそれぞれの次元に存在しますが、現代医学の対象となっているのは肉体です。

肉体的次元に原因がある病気は、現代医学でも治癒させることが可能です。

しかし、精神的、霊的次元に原因がある病気は、病変を切除しても、薬を飲んでも、それは対処療法に過ぎません。

精神的、霊的次元の原因が解消された時点で、根本的な治癒が望めます。

外科的処置や薬で治らない病気の多くは、霊的次元に原因があると思われます。



霊的次元に原因がある病気にも、いくつかの種類があると考えられます。

1つ目は、前世での過ちが原因で、その償いのために病気になる。

もしそうであれば、過ちに見合った苦痛を味わったのならば、病気は治癒すると考えられます。

2つ目は、魂の成長のため、大切なことを学ぶために、病気になる。

もしそうであれば、魂が成長し、大切なことに気付いた時点で、病気の苦しみから解放されると考えられます。

3つ目は、決められた時期に向こうの世界に行くために、病気になる。

もしそうであれば、いかなる手段をもってしても、この世に留まることは出来ないと考えられます。

以上の3つは、この世に生まれる前に、予め決められていたことであり、医学的処置を試みたとしても、無効と思われます。



それとは別に、この世に生まれてから(霊的な)原因が生じて、病気になることがあると思います。

その原因とは、過去の出来事から生じていた想いと、私は考えています。

生じた想いを上手く表現できなかったために、内に滞り、肉体上に病気を生じさせてしまったと考えられます。



社会に生きる私たちは、法律という決まりを守りながら生きています。

破ると罰せられますが、見つからなければ咎められることはありません。

宇宙全体を自然法則が支配して、秩序が保たれています。

法則は休みなく厳格に働いていて、万物はその支配から逃れることはできません。

万有引力の法則は、物質に働く自然法則の1つです。

同様に、目には見えない霊(魂)に働いている、自然法則が存在すると思います。



神は独立した存在ではなく、全てに宿り、法則として顕現しています。

魂(霊)は、神の一部であり、神とつながっています。

神の心は、無限の愛です。

人や社会のために生きようとする欲求が起きるのは、魂が神の心を表現しようとしているからです。

良心の呵責が起きるのは、神の心に反することを、魂が知っているからです。



人は食物から栄養を摂取して生きているように見えますが、それは肉体に限った話であり、人の本
質は目に見えない魂であり、神から生命力を受け取って活動しています。

その受け取った生命力により、魂は活動し、そこから想い(思念)が生まれています。



人の言動の全ては魂に刻まれていて、死後に全人生を振り返る時が訪れます。

言動の1つ1つに、自然法則が働いて、相応の結果がもたらされます。

言動の元になっているのは、魂から生まれている想い(思念)であり、その1つ1つにも、自然法則は働いて、相応の結果をもたらすことになります。



想いには、自然法則に適った想いと、反した想いがあります。

自然法則に適った想いとは、神の心を表現しようとする想いであり、一言で表現すれば愛です。

愛を表現することで、全体が進歩し、調和が生み出されます。

自然法則に反する想いとは、愛に反する想いです。

愛に反する想いを表現すると、進歩が停滞し、調和が乱されます。

愛に反する想いとは、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などであり、人生で起こる出来事を認めたり、許したりすることが出来なかったために生じています。

しかし、表に出してしまうと外部との調和が乱されるので、精神(自我)の力で、その場で抑え込んでしまう時が多いと思われます。



抑え込んだ想いが溜まると、身体に良くないのを本能的に知っているので、早く外に出そうとします。

俗に言う、ストレス解消とは、内に溜まった想いを外に出す作業と考えられます。

運動したり、趣味に没頭したりすると、溜った想いが別の肉体的表現と共に、外に排出されると考えられます

何かを夢中になってしている時は、魂から精神そして肉体へと、間断なく(生命)力が流れているために、滞った想いが同時に外に出されると考えられます。

川に淀んだところがあっても、上流に雨が降り、水が勢いよく流れれば、一緒に押し流されてしまいますが、それと同じです。



肉体的表現をすることで、想いを外に出そうとする行為は日常的に見られます。

昼下がりのレストランに行くと女性の客が、途切れることなくしゃべり続けている光景を目にしますが、人に伝えたいことが、たくさんあると言うよりも、吐き出したい想いがたくさんあり、しゃべり続けていると思う時があります。

仕事帰りに同僚と酒を飲みに行く男性は多いのですが、職場で溜まった想いを、酒の力を借りて、吐き出し合っていると思います。

吐き出してすっきりするは、想いは内に溜めてはいけないからだと思います。

想いは、肉体的表現の元となる力であり、外に向かって表現され発散されるべきものと考えられます。



溜まった想いが弱いものであれば、自力で外に出すことは可能です。

しかし、強い想いであれば、ストレス解消と言われるようなもので、外に出すことは出来ません。

残念なことに、多くの人は精神(自我)が優位になり生きているので、溜まっている想いに気付くことが出来ません。



生きるための力(生命力)の源泉は神であり、それを魂が受け取っていて、精神で肉体を動かす指令に変換され、肉体が動いて、外に向かって表現されて完結していると考えられます。
(神→魂→精神→肉体の順に力が流れて、肉体により表現されることで外に放散される)

しかし、魂で生まれた想いが、精神(自我)でブロックされてしまうと、内部に想いが溜まってしまうと考えられます。
(神→魂→精神で止まってしまっていまい、想いと言う力が内部に蓄積されてしまう)

滞っている想いがあると、自分本来の想いを表現しようとする力の流れを、妨げてしまうと考えられます。
(神➡魂➡精神→肉体)
     想い

内部に溜まった想いにより、本来の自分の想いが外に表現されない状態が続くと、因果律の働きにより、溜まった想いが内部を変化させる力に変わると考えられます。
(神→魂→精神
      想い→肉体の変化(病気) )



自然法則に反した強い想いが溜まっていると、自分本来の想いを表現できなくなるために、予定されていた人生のシナリオに沿った、魂の成長が出来なくなると考えられます。

自分(魂)を成長させることが、この世に生まれてきた目的なので、どうにかして溜まった想いを解放させなければいけません。

自分で気付かず、自力で解放できないほどの想いであれば、因果律の働きにより、心身の病変や機能障害となって外部に現れ、五感で認識されるようになると考えられます。

つまり、不治の病とは霊的次元に原因がある病気で、肉体の変化(病態)は表現できなかった想いの反映と考えられます。



病気には苦痛が伴います。

苦痛は異変があることを自覚させるものであり、多くの人は医者の力を借りて、異変を見つけ出して、肉体上からなくそうとします。

しかし、医者は肉体上の異変を診断し、取り除き、身体的症状を緩和する治療に終始するだけであり、霊的な原因を解消しない限り、根本的な治癒は望めません。

霊的な病気は、意味もなく人を苦しめるためにあるのではありません。

内にある想い、魂のありさまの変化に気付くために生じていると考えられます。

病気の苦痛には、魂を目覚めさせるという大きな目的があり、目覚めるとそれまで自分を支配していた自我(エゴ)が自壊すると思われます。

そして、自我(エゴ)によって隠されていた、自分の想いに気付くことになると思います。



よって、霊的な病気は、自我(エゴ)に隠されていた自分の想いに気付くためにあり、自我(エゴ)と言う障壁がなくなり、心が鎮まった時に、外に現れてくると考えられます。

現れてきた想いは、言葉で表現できない、自分の成長を妨げていた想いです。

けれども、肉体のことばかりに目を向けていると、内面に意識が向かず、表に出てきた想いに気付けなくなってしまいます。

また、病気に怯えていると、不安や恐怖が想いを覆い隠してしまいます。



霊的な病気を治すための第一歩は、自分の内にある想いに気付くことだと思います。

ガンの患者さんであれば、怒りや憎しみや恨みなど、他者を攻撃して壊そうとする衝動を生み出す想いかもしれません。

膠原病の患者さんであれば、自分を責める、卑下してしまう想いかもしれません。

うつ病の患者さんであれば、不安や恐怖、萎縮させ行動を抑制させる想いかもしれません。

注意しなければいけないのは、内に隠されていた想いが表に出てきた時に、病気になって生じた想いと混同することです。

膠原病になれば、人に迷惑をかけてしまうので、自分を責めてしまいがちになりますが、過去に自分を責めてしまうような強い想いが生じていて、それが外に出て来ているだけかもしれないのです。



ヒーリングは、滞った想いを引きはがし、解放させる生命力です。

しかし、魂が成長していなければ、滞っている想いと親和性が強いために、ヒーリングをしても解放することができないと思われます。

病気を心から受け入れ、苦痛により魂が成長し、想いが親和性を失ったならば、内面的な異物となり解放されるはずです。

想いを生じさせた出来事を、許すことが出来るほど魂が成長したならば、解放されるはずです。

魂が成長して、愛で満たされているならば、想いは親和性を失い、解放されるはずです。

神の愛が円滑に流れて表現できるようになったのであれば、病気の存在意義はなくなり、肉体上の病変や機能異常は消失するはずです。

我を忘れて、愛を表現することを続けていたなら、滞っていた想いは解放され、それに伴って肉体上の病気も消失するはずです。



人や社会のために、何かを夢中にしていると、生命力がふんだんに魂に流れ込むと思います。

その時に、魂から生じる想いも、愛を帯びていると思います。

愛を帯びた生命力の大きな流れは、魂に癒着した想いを引きはがして、外に出すと考えられます。

愛の表現は魂を成長させ、想いは親和性を失って、解放されると考えられます。



過去にどうしても許せなかった、受け入れることが出来なかった出来事があり、そこから自分の成長を妨げる想いが生じていて、その想いに気付くために、病気になったのであれば、許せなかった出来事を許し、受け入れられなかった出来事を受け入れたなら、その想いは存在理由を失い、解放されるはずです。

解放するためには、魂の成長が必要であり、病気になり苦痛を経験する必要があったと思われます。

成長とは、より高く、大きい愛を表現できるようになることであり、神の摂理に反する想いが生まれなくなって行く過程のことです。

魂の成長の一過程として、病気が存在します。

霊的次元の想いを解放するための触媒が、(今生に原因がある)不治の病の正体であり、自分本来の想いを表現するためにあると考えられます。

医学では治せませんが、治らない病気ではありません。    《続く》









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