2014年9月16日火曜日

生まれる前にした約束




すべての人に、生まれる(受胎)前、自分で自分にした約束があります。

どんな約束をしたのか、残念ながら、知ることはできません。

私も、この世に生まれて53年が経とうとしていますが、その約束を、きちんと果たせているのかどうかは分かりません。

だいぶ回り道をしてきましたが、この文章を書いているのも、約束を果たすための一環だと思っています。


周りから見て、とても大変な人生を歩んできた人を見かけますが、人や社会に貢献するために、どうしてもその経験が必要であり、強い動機付けになっていることが、多いと思われます。

そんな人たちは、「その経験があったからこそ、今の自分がある」と、異口同音に語っています。

人の苦しみは、経験してみなければ分かりません。

誰しも、苦しみは味わいたくありませんが、経験した人のみが、同じ苦しみを抱えている人を、救うことができる時があります。

同じ苦しみを抱えている人の重荷を、少しでも軽くすることができたのなら、その経験は少なからず価値を持ちます。

ある人は、他の人に同じつらい経験をして欲しくないために、社会に訴えて、世の中を変えて行こうとします。

ブログなどで、自分の経験を発信し、一人でも多くの人に知ってもらい、役に立てようとする人もいます。


先日、高校の先輩の話を聴きました。

幼くして父親を失い、新聞配達をして家計を助け、苦労の末に大学を卒業し、事業を立ち上げて成功し、現在は政治家として要職にあります。

経済的に恵まれていない子供たちにも、夢を叶えさせる機会を与えるという、強い信念のもと、精力的に活動をされていて、今まさに実を結びつつあります。

その信念は、自身の経験に裏打ちされたものであり、揺らぐことはありません。

経験が活かされて、同じ境遇にある子供たちに、夢や希望を与えようとしています。

もし、恵まれた家庭環境で育ったならば、そんな子供たちに思いを巡らせることはなかったかもしれません。

生まれる前に自分にした約束を、今、果たされていて、過去の経験や環境はそのために必要だったと、私は強く感じました。


道路の端に、横断禁止を知らせる交通標識を見かけます。

その下に小さなプレートがあり、「わたるな」とひらがなで書かれています。

私の記憶が確かなら、数十年前に、交通事故でお子さんを亡くされたご両親の働きかけにより、このプレートができたはずです。

ご両親のお子さんは、小学生の低学年であり、それまでの標識に書いてあった、「横断禁止」という漢字の意味が理解できずに、道路を渡ろうとしたために、不運にも交通事故に遭ってしまいました。

ご両親の悲嘆はどれほどのものだったでしょう、長い間、つらい日々が続いたと思われます。

その日々の末、同じ年頃の子供が同じ悲劇にあってはならない、亡くなった最愛のお子さんの死を無駄にしないたくない、という結論にたどり着いたのだと思います。

行政に強く訴え続けて、幼い子にもわかる標識の設置を、全国で実現させました。

標識に「わたるな」と書いてあるのに気付き、事故に遭わずに済んだお子さんも、きっとたくさんいると思います。

亡くなったお子さんも、さぞ喜んで、ご両親を誇りに思っていることでしょう。

とても大きな社会貢献だと思います。


身を引き裂くような、つらい経験であっても、世の中のために活かすことで、計り知れない意味を持つことがあります。

たとえ社会で活かすことができなくても、同じ立場の人と、想いを分かち合えて、力になることはできるでしょう。

自分の経験が、誰かの役に立つのは、とてもうれしいことです。

楽しい経験は、あまり人の役には立ちません。

苦難の経験であればあるほど、救いを求める人にとって大いに役に立ち、貢献できると考えられます。


生きていると、どうしても悲劇や不幸と思える出来事が身に降りかかってきます。

避けたくても、避けらるものでなく、その渦の中に巻き込まれていきます。

苦しくて、つらくて、逃げたくなります。

無我夢中で、何と切り抜けようと苦闘する中で、少しずつ魂は向上していきます。

そして、魂に目覚めて、本当に大切なことに気付くことになります。

魂は神の一部です。

そして、神は愛です。

魂に目覚めたら、障壁は取り払われて、しきりに(神の)愛を表現しようとします。

人や社会のために何か役に立たつことはできないかと考えるのは、そのためだと思います。

つらい出来事がなければ、魂に目覚め、本当に大切なことに気付くことはありません。

人や社会のために、何かの行動を起こし、役立てていけたのならば、つらい出来事は、大きな意味を持ったことになります。

人それぞれ、起こす行動は違いますが、それが生まれる前にした約束なのかもしれません。


困難を乗り越えて、人のために役に立てていくのは、神の意思そのものと考えられます。

魂を目覚めさせるために、つらい経験があり、魂は神の一部であるために、その意思に従い、役に立とうとするのだと思います。

生きている目的は、人として成長する、本質は魂を向上させるためにあります。

すべての経験は意味があると言われますが、自らの魂の向上にとって意味があるのだと思います。

人や社会のために役に立つ以上に、魂を向上させ、人間を成長させるものはありません。

神の摂理に一致し、愛を表現しているからです。


人は人、自分は自分と思っていても、つい周りが気になって、比べてしまいます。

その結果、人を羨ましがったり、あるいは優越感に浸ったりしてしまいますが、どちらも間違っています。

自分が生まれる前にした約束と、他の人がした約束は、それぞれ違うのであり、同じような人生になるはずがありません。

その人にとって必要な出来事が、神の摂理である因果律により展開されているだけであり、誰一人として同じになる訳がありません。

忘れてはいけないのは、性別、家庭、容姿、頭脳、およその人生を、すべて自らが承知し、納得した上で、生まれてきているということです。

もし、不幸としか思えない出来事や障害が、自らがこの世で蒔いた種ではなく起きているとしたら、魂を向上させる機会として、生まれる前に約束したことと考えた方がいいのかもしれません。

偶然や突発的なものは、存在しません。

幸、不幸を超えた、神の摂理により営まれています。

従って、外から見るだけで、人を羨ましがったり、身の上を嘆いたりするのは、正しくありません。

たとえ生きている時に、知ることはできなくても、(肉体が)死んでしばらくすれば、真意がわかります。

大切なことは、つらくても、苦しくても、逃げ出さないで、立ちはだかる想いを振り払い、乗り越えようとすることです。

生まれる前に、自分が自分にした約束であるならば、何としても守らなければいけないからです。

それが、この世に生まれてきた意味だからです。


すばらしい人生とは、不幸に遭わず、障害もなく、何不自由なく生活した人生では、決してないと思います。

不幸や障害と言われる出来事にあっても、立ち向かい、乗り越えて、その経験を人や社会に役に立てることができた人生だと思います。







参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」

         「この世の出来事の意味を知る時」















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